Archive for 8月, 2010

NHKテレビ英語会話 その2 そもそものいきさつ

 「センセイ、NHKからお電話です」。教育大付属中学事務室から、英語科教官室に電話がかかってきました。「私はNHK教育局の小林と申します。ちょっとご相談があるのですが、お目にかかれるでしょうか」。日時を約束してその小林さんという人に会うことにしました。1960年夏休みに入る直前でした。

 「先生は、テレビの英語番組に興味がおありですか」というのが、小林さんの第一声でした。「興味はありますが、どういうことでしょうか」「つまり、番組の担当講師になるということなのですが」。まさに晴天の霹靂。小林さんは、最初から順序立てて説明を始めました。NHKがテレビ放送を開始したのは1953年のことだが、教育のチャンネルが出来たのは2年前の1959年であること。教育テレビでは、開局以来英語番組3本を放送していること。そして、その3本とも「外国人講師+日本人助手」という組み合わせで、小林さんはその内の1本を「日本人講師+外国人助手」にしてはどうかと考え、部局会議に提案。「それが出来る講師が見つかれば、試してみてもいい」との結論となったこと。「で、私がその講師ってわけですか」「そうです」「またなんで私なんですか」。小林さんは、私にたどり着いた「経緯」を話しました。NHKには戦前からラジオによる英語番組があるが、ラジオとちがってテレビには「映像」が伴っており、テレビというメデイアを用いる語学番組のノウハウがNHKにはないこと。(たしかに当時のテレビ英語番組では、講師が黒板の前に立って説明する「教室における授業のテレビ版」のようでした。)で、メデイアと語学教育について理論を持っているという条件を満たす人が必要であること。ミシガン大学留学中に、私は専門の英語教育と合わせて視聴覚教育の勉強をし、帰国後大修館から「英語科視聴覚教育」(1960)という本を出していましたので、小林さんはそれを読んだようでした。2番目の条件は、文部省の指導要領に基づいて行われる学校教育とちがって、テレビ英語番組には準拠すべきガイドラインもないので、講師は自分で教材編成ができる能力が必要であること。そして3番目には、日本人講師が主役となり、助手のアメリカ人を自由に使いこなすことが出来る英語運用力が求められること。ここまで一気に説明してきた小林さんは、ちょっとニヤリと笑って、「4番目、これがケッコウ大事なんですけどね」「はあ」「若くてテレビ写りがよくないとダメなんですよ」。小林さんは、在日合衆国教育委員会を始め、いくつかの大学の同窓会や、もちろん彼自身が卒業した東京教育大英文科教室などを回って情報を集めたのだと話しました。「で、結局ワタシってことになったんですか」「はい、そうです。私は部局会議で『日本人講師を必ず見つけます』と見栄をきったので、いまさら引き下がれないんです。先生、お願いします」「フーム。ちょっと考えさせてください。私は現場教師ですから、当然所属長(校長)に兼務申請書を出して許可を得なければなりませんし、それに、そんな仕事を引き受けたら、この先どんなことになるか想像もつきませんから」「分かりました。では、一週間たったら、またおうかがいします」

 小林さんは、自信ありげな表情で帰っていきました。私は不安な面持ちで家路につきました。

NHKテレビ英語会話 その1 最初の番組収録

 まず東京観光といきましょうか。JR有楽町駅を降りて、銀座側に出ます。鉄道と交差するように晴海通りがあります。この道路を晴海方向に歩きます。銀座4丁目の交差点を横切ります。さらに進むと、左側に現在工事中jの歌舞伎座が見えます。もう少し歩きます。今度は右側に昔ながらの東劇です。そのすぐ手前は、首都高速銀座線が地上よりも低い位置を横切って走っています。東劇の手前を左に曲がります。曲がって2・3分。そこに1961年には「銀座スタジオ」がありました。NHKの本局は内幸町でしたが、テレビ番組の放送が始まった直後には録画収録するスタジオが足りなくなり、借り上げたスタジオの一つが銀座スタジオだったのです。

 銀座スタジオの地下1階にある「第一スタジオ」です。1961年3月のある日、私はそこでテレビカメラの前に座っています。初めてのビデオ収録です。緊張して体中がパリパリ音が聞こえるほど固まっています。「本番1分前!」という声がスタジオに響きわたります。「もう逃れられない」という悔悟の思いが走ります。「30秒前!」「落ち着いて!」と言い聞かせますが、全く落ち着きません。「10秒前!」「いよいよだッ!」そのとき、副調整室(「副調」と略すのが業界用語です)にいるデイレクターが叫びます。「ストップ!」あれ、何が起きたんだろう。スタジオの重いドアをあけて、デイレクターの小林あきよし氏が入ってきます。「センセイ、ダメですよ」「は、何が?」「その座り方です。そんなに椅子に深々と腰掛けると、カメラを通して見たとき、視聴者に対して『教えてやるからこっちに来い』というふうに写るんです」「へえ、じゃ、どう座ればいいの?」「おしりを半分椅子に乗せて、上半身を前の方に突き出すようにするんです。そうすると、『さあ、勉強しましょう。私が教えてあげますよ』っていうメッセージを発信するようになるんです」「へえ、わかりましたよ。じゃ、もう一度御願いします」小林氏が副調に戻ります。「一分前!」「30秒!」「よし、こんどは大丈夫だな。頑張るゾ」と自分に言い聞かせます。「ストーーーップ!」「あれ、また?」小林デイレクターが現れます。「センセイ、ダメですよ」「え、今度は何が?」「そんなしかめっ面していて、視聴者が勉強する気になると思いますか。笑ってください。笑って、にこやかに!」ちょっと待った。鏡を見て笑うことはもしかすると出来るかも知れないけど、目の前にあるのは、大きな冷たいレンズ。笑えったって、笑える?「笑えるんですよ、センセイ。目の前にあるのはレンズじゃないんです。センセイから英語を学ぼうと待っている視聴者なんです。レンズだと思うから笑えないんです。さ、やってみてください」小林氏はかみ砕くように説明します。「そうか、よし、やってみよう」私はもう一度挑戦する気持ちになりました。「1分前!30秒前!10秒前!5−4−4−3−2」カメラの脇に立っているSD(Assistant Director)が、手で合図します。テーマ音楽が始まります。私は、無理矢理、必至で、笑顔を作ります。30分の収録で、私が何をどう話したのか、まったく覚えていません。番組の終わりころ、SDが「3」と書いたカードをカメラの横から私に見えるように示しました。「あと30秒だ」と思いました。「もうこのあたりで30秒だろう」とカンで「では、今日もそろそろお別れの時間になりました」と言った途端、SDが必死で大きな「バツの字」を出し、カードの文字を叩くように指さします。「3」という数字の脇に「分」と書いてあります。「残り30秒」ではなく、「あと3分」でした。2分30秒をこなさなればならない苦痛は、まさに死の苦しみでした。第一回の番組収録が終わったとき、私の洋服は背中まで汗がぐっしょりでした。

戦争と私 その5「終戦」

 焼け跡で親子3人は素堀の穴から布団や食べものを取り出したり、盛り上がった灰をとなりの空き地に運んで捨てたりしました。お昼頃になって、宇都宮の父の実家から「英雄(ひでお)さん」が訪ねてきました。私のいとこにあたる人で、蒸気機関車の運転助手をしていたので、いち早く駆けつけることができたのだろうと思います。私は英雄さんに連れられて一時宇都宮に行くことになりました。まだ空襲が続いている東京に父母を残しても大丈夫なのだろうかと思いました。「片付けが済んだら迎えに行くからな」と父が言いました。上野から宇都宮行きの汽車に乗りました。英雄さんは勤務があるので、私を機関車の運転室に乗せました。初めて、ホンモノの蒸気機関車の助手席に座りました。助手の仕事は、炉に石炭を投げ入れたり、蒸気圧計などさまざまな計器を絶え間なくチェックするために、ほとんど休む暇などないのですが、それでも、炉のふたをあけて石炭が山のように固まることがないように投げ入れる練習をさせてくれました。

 宇都宮における数日のことは、ほとんど記憶にありません。ただ、みんながすごく親切で、「キヨタダさん、よく来たナイ。怖かったべェ」と白米のおにぎりや新鮮なトマトなどを持ってきてくれたことを覚えています。空はあくまでも青く、畑の緑が鮮やかに広がり、わらぶき屋根の家の裏山ではたくさんの小鳥たちがさえずっていました。戦争など全く嘘のような世界でした。父が迎えに来て、こんどは母の実家がある古河(茨城県)に住むことになりました。

 今では東京から1時間の通勤圏である古河も、当時は商業が中心の静かな田舎町でした。母の姉が住んでいる古い家の2階が蔵のような作りで、私たちはそこに住まわせてもらうことになりました。相変わらず続いている東京の空襲も、いまはラジオで聞くだけになりました。伯母の家族と一緒に住んでいても世帯は別。もちろん食事は別々です。母は町の近隣の農家に行っては、わずかに残った着物などをお米に替えていました。やがて着物も尽き、配給のお芋を口にするのがやっとになってきました。今のこどもたちは「ひもじい」ということばを知らないと思いますが、空腹でも食べるものがない生活のつらさはことばに表せるものではありせんでした。もはや学校に戻ることもできず、私は姉の実家にある本を借りて読む毎日でした。

 夏になりました。太平洋の島々はすべてアメリカに占領され、沖縄も米国空軍の拠点となっていました。日本はただの「むき出しの島」でした。そして8月6日、「広島に特殊爆弾投下」のニュースが流れました。詳細は分かりませんが、なんでも広島の町全体が完全に破壊されたーーしかも一発の爆弾でーーと母の姉夫婦が話していました。「次は東京かもしれないな」と叔父が言いました。そして8月9日、今度は長崎に「特殊爆弾」が落ちて、長崎が灰になりました。当時の米軍の計画では、広島、小倉、長崎、新潟の4都市が原子爆弾投下の目標と決まっていたそうですが、広島のあと狙われた小倉の上空には雲が立ちこめていて爆弾が投下できず、雲の切れ目から町が見えた長崎に原爆が落とされたのだそうです。ただ「特殊爆弾」としか分からない国民も、これでは日本が完全に消滅するという不安感を持ち始めたのは当然でした。そして8月15日。前の日に、隣組を通じて、「明日お昼に重大な放送があるから、かならず聞いてください」という通知が配られていました。、はじめて天皇陛下の声を聞きました。普通の人と声の質も音調も違うな、と思いました。どうやら戦争が終わったらしいというぼんやりした理解だけが頭に残りました。

 こうして「私の戦争」に幕が降りました。飛行機の設計を志した少年が、なぜ今は英語教師なのか、このことについては「私の英語史」上下巻(日本放送出版協会、1972,1974)に記述を譲ります。

戦争と私 その4 焼夷弾

 爆弾というのは飛行機が落とし、それが地上で炸裂するものです。焼夷弾は、地上での爆発が目的ではなく、地上にあるものを燃え尽くす働きを持たせたものです。大空襲のあと、東京での空爆は民家を対象とした焼夷弾攻撃に変わってきていました。日本上空には強い風が吹いており、軍需工場を高度から爆弾で狙うのは技術的に困難。それよりも「木と紙で出来ている日本の家」をまとめて燃やし、戦意を喪失させる方が得策であると判断したようです。空爆は昼間から夜間に変わり、パスファインダー(Path Finder)と呼ばれる飛行機がまず陸地に侵入して焼夷弾を落とします。あとは、燃え上がる炎を目標にして、編隊を組まないB−29が次々に飛来して周辺に焼夷弾を投下するという戦法です。東京はもはやどこにいても焼夷弾攻撃を逃れることができなくなりました。そして5月24日、王子の順番がやってきました。

 人々が寝静まった午後11時すぎ、警戒警報が鳴りました。そしてすぐ空襲警報。父と母と私(私は一人っ子でした)は、玄関の脇に掘った防空壕に入って息をひそめました。耳慣れたB−29の爆音が近づいてきました。「さーーッ!」という音が聞こえ、次の瞬間には防空壕の隙間から見える外が昼間のように明るくなりました。「焼夷弾だ!」と父が叫びました。そとに飛び出して見た光景・・・一生忘れることが出来ません。真っ暗な空から、火の塊が無数に落ちてきます。「ドスン、ドスン」と鈍い音がして、塊が地上に着くと、そのあたり一面が瞬時に火の海になります。ずっとあとで分かったのですが、B−29が使っていた焼夷弾は「クラスター型焼夷弾」と呼ばれるもので、直径20センチくらいで長さが60センチから70センチくらいの6角形の金属製筒の中に、ガーゼでくるんだゼリー状の物質が入っており、飛行機はこの筒を円形にまとめて金属の帯で縛って弾倉に格納、この塊(クラスター)は空中で回転し、縛った帯が解けて筒が飛散するのです。と同時に、ゼリーに火が付いて燃えながら落下します。ゼリー状の燃料が燃えているのですから、地上に落ちると広範囲飛び散ります。ゼリーが付着した箇所は、一気に燃え上がります。私の家の前には小さな川がありましたが、川に落ちた焼夷弾も流れながら燃えていました。見たこともない、恐ろしい、そして不思議に美しい光景でした。

 呆然と立ちすくむ母と私にも、逃げ出すまえにしなければならないことがありました。父と一緒に、庭に掘ってある「素堀りの穴」に寝具、それに燃えては困る最低限のものを投げ込んで、その上に泥をかけます。この穴には、木などの枠組みを作ってはダメと教えられており、ほんとにただ掘っただけの穴でした。木を使えば、周辺の熱で木に火が付き穴に入れたものが燃えるからです。シャベルを投げ出して父が言いました。「よし、逃げよう!」門を出るとき、私が言いました。「自転車は?」「そうだ、自転車を持って行こう」。外に出ると、もうあたりはすべて火になっています。いつの間にか、近所の人たちの姿もありません。口には出しませんでしたが、「これは逃げ遅れたかな」と思いました。親子3人は、荒川にかかっている港北橋を目指しました。何度か行く手を炎が遮りました。「反対側は燃えてない!飛び込むぞ!」という父の声も覚えています。港北橋の手前で、これから先はもはや無理というところにやってきました。空襲に備えて、軍が家を壊して幅広い空き地を作っているところがあり、そこが限界と分かりました。空き地にはすでに何組かの家族がうずくまっており、私たちも地面に座り込みました。右も左も、周囲はすべて燃え上がる炎で、もしかすると、私たちも飛んでくる火の粉で焼け死ぬかもしれない・・・黙ってそんな覚悟をしました。急に純ちゃんを思い出しました。そして、それは長い一夜でした。

 夜が明けました。周囲は煙がくすぶる焼け野が原になっていました。うずくまって息を潜めていた家族たちが帰り始めました。私たちも自転車を押して、家と思われる方向に向かって歩きました。目標となる建物がなくなっているので、カンに頼るしかありません。途中、どこから来たのか、道路際に馬が一頭倒れていました。外側が焼け焦げていました。男の人が包丁のようなもので、馬のおしりの部分を切り取ろうとしていました。もちろん、馬だけではなく、死体もごろごろ転がっていました。ただ煙を吸い込んだだけで息を引き取ったらしい人もいて、まるで道路で寝ているみたいな姿でした。でも、首筋にハエがたかっているのに動かないのですから、きっと死んでいるのだろうと思いました。やっと家につくと、そこには燃えがらしか残っておらず、本棚の本がそのまま燃え落ちて灰になっており、文字が読み取れました。母が泣き出しました。「戦争だから、しょうがないよ」を私が言い、「バカモン!おまえに何が分かるか!」と父が怒りました。よく見ると、父の目からも涙が出ていました。

戦争と私 その3 大空襲

 航空工業の生徒たちは、いくつものグループにわかれてあちこちの工場で「勤労動員生」として働いていました。私の場合には、理研小台工場が爆撃により破壊されてしまったので、学校に戻って軍事教練を受けたり校内の工場で作業訓練を受ける毎日になりました。いつの間にか授業は消滅し、飛行機の勉強など出来なくなりました。それでも週に一回は全員が学校にもどり、また新しい作業の指示を受けました。先生が出席をとるとき、名前を呼ばれても返事がなく、次第に空席が目立つようになりました。1944年末ころから毎日のように空襲があり、ひとりふたりと生徒が消えていきました。最初は軍需工場のピンポイント空爆だったのが、次第に一般の民家を爆撃するようになり、みるみる被害が拡大していました。1945年1月には、有楽町や銀座も標的になり、有楽町駅には死体の山ができたそうです。

 3月9日はいつものように学校に集まる日でした。誰も座っていない席が3分の1になっていました。先生は出席簿を手にしたまま、黙って窓の外を見ていました。誰も何も言いませんでしたが、先生はきっと泣いているんだろうと思いました。仲良しだった純ちゃん(「純一」という名前、でも名字は思い出せません)が隣の席に移ってきて、「今日帰りにウチに来ない」と言いました。「うん、あまり遅くならなければいいと思う。寄り道すると怒られるんだ」。学校を出てから、純ちゃんと私は南千住の駅を通り越してかなり歩きつづけました。「いつもこんなに歩いて学校にくるの?」と聞くと、純ちゃんは黙ってうなずきました。やがて純ちゃんの家に着きます。今思い出すと、その家は浅草に近いところだったようです。玄関を入ると、純ちゃんは「ただいまァ!」と大声で言い、すると奥から若い女の人が出てきました。「お姉さんだよ」と彼が言いました。着物を着たその女の人は、今まで見たこともない美人でした。部屋に通され、お膳の前に座ると、お姉さんがお皿にのせた「お稲荷さん」を2個、私たちの前に置きました。「いただきものなの。お腹すいたでしょ。どうぞ」。不思議なことに、私はこのおんなの人の表情とことばをはっきり覚えているのです。でも、実は困ったことがありました。私はお箸の使い方が自己流で、人の前でものをいただくには恥ずかしい状況だと知っていたからです。すごい美人のお姉さんがそばに座っているその前で、怪しげな箸使いは出来ない・・・緊張感で体が硬くなり、脇の下から冷や汗が出てくるのを感じました。「何とか・・・しなくちゃ・・・」。私は純ちゃんのお箸さばきを懸命にまねました。成功!見事箸を正しく動かせたのです。いまでも、ときどき、ふと、箸を使っているとき、この時の様子を思い出します。あたりが暗くなってきたので、純ちゃんのこども部屋から階段を下りて玄関に行き、そこで美しいお姉さんに最敬礼しました。「ごちそうさまでした」と言い、外に出ました。そこから家までどう帰ったのかは覚えていませんが、歩く足がスキップしたに違いありません。暗い毎日に、一瞬のまぶしい経験でした。

 その日の夜、記録によると午後10時30分、警戒警報が発令。房総半島沖に編隊が接近。でも、この編隊はなぜか本土に上陸することなく去っていきました。警戒警報解除。ホッと油断がありました。3月9日から10日に日付が変わった直後、別の編隊があっという間に本土に侵入し、爆撃が始まりました。このときの編隊は、なんとB−29が325機も飛来したとの記録があります。爆撃は城東地区と浅草周辺で、火災の煙が成層圏に達するほどに舞い上がり、地上では爆風が竜巻のように吹き荒れたそうです。私が住んでいた王子から浅草方面を見ると、空全体が真っ赤になり、めらめらと紅蓮の炎が深紅の空を彩って見えました。いままでにない大火災が起きていました。その次の週の教室には、純ちゃんの姿はありませんでした。

戦争と私 その2 空爆

 3年生の先輩数人が1年生を呼び集めました。「俺たちはこれから少年航空隊に志願するんだ」と言います。「あとはおまえたちに頼んだぞ」。その先輩たちは、その日を最後に姿を消しました。15歳の紅顔少年たちは「お国のために」命を捨てました。私の母は、田舎の大家族で8人兄弟でしたが、末っ子の「いさむチャン」(私にとっては叔父にあたるのに、私は彼をそう呼んでいました)が言いました。「おれ、通信兵に志願した。あした出掛けるよ」「どこに行くの?」「キヨタダ、おまえ秘密守れるか?」「うん、守れる」「多分、オキナワだと思うんだ。爆撃機に通信兵が必要だろ。本隊と連絡するのに」。いさむチャンの遺骨は帰って来ませんでした。戦後分かったのですが、沖縄戦の最後のころ、九州を飛び立った双発の爆撃機編隊は、沖縄本土に近づく前に、米軍の邀撃戦闘機によって全機撃墜されたのだそうです。

 1年生の秋になった頃、日本近海に接近したアメリカの航空母艦を発進したグラマン戦闘機が機銃掃射を始めました。授業が始まる前の教室で、下町に住んでいる生徒が目を丸くし興奮した口調でみんなに話しました。「おれ、きのう見たんだ、戦闘機。低く飛んできたんで、操縦席に座っている人の顔が分かった。大きいめがねをかけてた」「へえ、それで大丈夫だったのかい」「うん、俺一発撃たれたけど、平気だった」。ホラを吹いているのはわかりますが、それが嘘とは思えないほどの迫真力を持っていました。「早くアメリカの戦闘機を倒せるような飛行機を作ろうぜ」。クラス中に拍手がわき起こったところに配属将校が入ってきて、急にみんな静かになりました。戦闘機による機銃掃射は、工場などに勤務している人たちを狙って行われたようですが、それでも民間人に被害者が続出しました。1944年6月にマリアナ諸島が陥落すると(こどもの私は、そんな経緯など全く分かりませんでしたが)、B-29戦略爆撃機による本土空襲が始まりました。ラジオが「東部軍管区情報。東部軍管区情報」と繰り返すとサイレンが鳴ります。「房総半島100キロ沖合に敵編隊接近中」とアナウンスがあり、警戒警報が発令されます。やがて警戒警報が空襲警報に変わり、整然と編隊を組んだ爆撃機が現れるのです、東京の空に。

 爆弾というのは、飛行機が落とし、それが地上で炸裂するものです。魚雷というのは、潜水艦が水中で発射し相手の軍艦の横腹にぶつけて破壊するものです。沖縄戦が熾烈になってきたころ、日本軍は魚雷と爆弾を一つにしたような特殊爆弾を作り始めました。敵艦を攻撃するには潜水艦が必要ですし、潜水艦があっても高価な魚雷には数に限度があります。そこで、潜水艦を使わなくても、飛行機で船の横腹に穴を開けられる爆弾を考えたのです。静かな水面に対し、水平に石を投げると、重くて水に沈む筈の石が水面をはねてジャンプします。しっぽに分厚くて頑丈な羽をつけた爆弾を抱えた戦闘機が、敵艦に向かって海面すれすれに飛び、手前でこの爆弾を落とすと、爆弾は海面で跳ねて船の横腹にぶつかるという理屈でした。私が「勤労動員」と称して学校から団体で派遣された理研の小台工場は、この特殊爆弾を製造していました。中学生のわれわれは、工員が旋盤で削り落とした鉄くずを小型の手押し車で工場の外に運ぶのが仕事でした。小型とはいいながら、乗せているのは鉄ですし、何かの拍子に手を触れれば、鋭い鉄の切り口が指を裂きます。気が付くと、仲間の生徒たちはみんな手から血を流していました。こんな辛い作業も、「お国のため」という合い言葉で、誰一人文句を口にしませんでした。唯一の楽しみは、軍から届く配給物資の「干しバナナ」です。バナナの皮をむいて干しただけの、真っ黒で小さな棒状の食べものでしたが、お砂糖を手にすることもままならぬ時期でしたので、バナナの甘味がまるで天国の味でした。

 戦時中の理研小台工場はまさしく「軍需工場」でした。B−29の攻撃目標にならない筈がありません。ある日の朝、工場についてすぐ、警戒警報が鳴り響きました。中学生は工場の門から外に走って、原っぱの真ん中に掘られた防空壕に避難します。工場には、「女子挺身隊」という名前の女子大生集団も働いていました。この人たちの防空壕は工場の敷地内(つまり門の中)にあり、警報が出ると彼女たちはこの防空壕に入りました。私たちは、門外の防空壕から、真っ青に晴れた空を見上げ、鈍い爆音が近づいてくる方向に目をこらしました。明るい日の光に銀色の胴体が輝く編隊が見えてきました。高射砲が撃たれ始めました。でも高射砲が届く高さよりもはるか上空を飛行している爆撃機は、ただ美しく整然と飛行を続けていました。編隊が工場の手前に来たとき、先頭の爆撃機の弾倉が開きました。後ろに続く飛行機の弾倉もつぎつぎに開き、中から小さな点のように見える爆弾が無数に落下し始めました。「爆弾だッ!」と誰かが叫び、私たちは防空壕にクビを引っ込め壕のふたを閉めました。「サーッ」という雨のような音が聞こえ、次の瞬間には耳をつんざく炸裂音。工場に爆弾が投下されている!我々はただ、目をつぶって震えました。ひとときの激しい音が消えると、後は不思議な静けさが支配します。中学生たちは、のこのこと防空壕から出て、あちこちから煙が上がっている工場に引き返しました。凄惨な光景が待っていました。工場の建物はほとんどが吹っ飛び、工員の死体が散乱していました。最後まで待避せずに工場内にとどまって働いていた人たちの無残な姿でした。女子挺身隊の防空壕は直撃を免れましたが、激しい爆風が砂とともに防空壕に吹き込まれ、中にいた女子大生を窒息死させていました。防空壕のわきに食堂から運び出されたテーブルが置かれ、生き残った工員が防空壕から女子大生たちの遺体をテーブルの上に寝かせました。爆風の砂が、彼女たちの目、耳、口を一瞬にしてふさぎ、顔は「砂の顔」になっていました。「戦争っていうのは、こういうことなんだ」と、震えながら思いました。

 

戦争と私 その1 都立航空工業学校

 80−65=15 この数字は何でしょう。80(現在の年齢)ー65(戦後65年)=15(終戦のときの年齢) という意味です。1945年8月15日の暑い日、15歳(中学3年生)で「玉音放送」を聞いた少年の思い出は、毎年8月のこの時期になると鮮やかによみがえり、戦争を知らない世代のためにも「語る必要」があるように思うのです。

 北区王子に住んでいた私は、1年生で豊川小学校に入学し、4年生になったとき新しい小学校(柳田小学校)が出来たので転校することになりました。1組は男子組、2組は女子組で、女子組には現在キヨ友の会メンバーの石井キイ子さんや山崎富美子さんがいました。1組で成績のトップ争いをしていたのは、石井くんと私。石井くんのお父さんは王子駅の表通りに鰻屋を開いていたので、私の母の口癖は「鰻屋に負けるな」でした。抜きつ抜かれずの熾烈な戦いの最後、小学校卒業の時にはついに私は学年トップの栄誉を勝ち取り、母は得意満面の笑顔を浮かべました。進学先を相談する担任教師との面談の際、先生はこうおっしゃいました。「田崎くんは、どの中学校にも入れます。都立一中に進んではいかがですか」。当時、一中→一高→帝大というのがエリートコースだったからです。私の考えは違っていました。都立航空工業学校に入って、飛行機の設計をしたかったのです。もともと私の父は電気関係の内線設計技師でしたので、私には理科的資質があったのと、飛行機が大好きで、木片をナイフで削っては飛行機のソリッドモデルを作っていたからだと思います。というわけで、私は南千住にある航空工業の航空機科一年生になりました。私の究極の夢は、三角翼の超音速機を設計することにありました。一方、鰻屋の石井くんは、一中、一高、一橋大学に進んで行きました。

 航空工業入学の第一日、教室で真新しい教科書が配られました。「航空発動機」、「初等工作機械」、「空力学」などの教科書に混じって、英語の教科書もあり、いよいよ中学生になったんだという不思議な感動を覚えました。英語の先生は今石益之というお名前で、色白で背が高く、まるで外国人のようなお方でした。左の頬が右に比べてややへこんでおり、悪童どもは今石先生を「レフパン」(「レフト・パンチ」left punch=左から殴られたパンチという意味)というあだ名で呼んでいました。先輩がそう教えてくれたからです。(なお、戦後今石先生は、広島女学院大学の学長になられ、広島で先生にお目にかかって感動のひとときを過ごしました。今はお亡くなりになり、ご子息が広島の大学で教えていらっしゃいます。)さて、その英語授業ですが、当時の日本は戦時色が一層強くなってきていましたから、教科書は受け取ったものの、授業があったのかなかったのかさえもはっきり覚えていません。綺麗な挿絵に、見たこともない文字が印刷されていたことだけ覚えています。

 航空工業は、戦時の日本政府が政策として創設した学校という意味合いが強く、「配属将校」という軍人が教員組織に組み入れられていました。軍服を身につけ、腰に軍刀をつるした将校が職員室に出入りする姿が日常の風景だったのです。週に1時間は軍事教練があり、晴雨に関わりなく生徒は運動場に整列して木銃での訓練を受けました。そして次第に、授業らしいものが少なくなり、代わりに教練と工場実習の量が増えていきました。あるときは、体育館に整列して配属将校が軍刀で垂直に立てた藁の束(中央に竹の芯が入っている)を一刀両断に切り倒す様子を見学しました。また実習は急速に強化され、校内にあった実習工場に朝から夕方まで入りっぱなしというのも珍しくなくなりました。「はつり作業」はもっとも辛い作業で、万力に金属棒を挟み、たがねの頭を力一杯ハンマーで叩いて棒を削るというもの。先生のほかに配属将校もぐるぐる見回っており、精一杯叩かなければ棒は切れませんが、打ち損なうと棒を支えている左手を叩く結果となり、皮膚が裂けて血が飛び散ります。先生が「ピーッ」と笛を吹いたら、生徒はハンマーを振り上げ、次の「ピーッ」で振り下ろします。たたき損なっても悲鳴を飲み込みます。斜め前にいた生徒が、つい痛さに耐えかねて、そっとハンマーを打ち下ろしたのを巡回していた配属将校にみつかり、「このやろうーーッ」という罵声とともに床に殴り倒されました。ついそちらに気をとられて、私もハンマーを下ろすタイミングを失った瞬間、いつのまにか先生が背後にいました。「こらァーー!という声が聞こえ、私も床に殴り倒されていました。私が記憶する限り、他人から殴られたのは、あとにも先にも、これ一回だけの惨めな経験でした。

 戦争は次第に激しさを増していました。

 

英語の話 その2 茅ヶ崎方式英語会

 東京高師の同級生に「松山薫くん」がいます。卒業生の大部分は教師になりますが、松山くんは高校教師を7年勤めたあと貿易会社で働き、さらに一心発起してNHKに入りました。仕事は「英文記者」、つまり海外放送ラジオ・ジャパンで放送されるニュース原稿を書くというものです。今までの経験とは全く異なる業務内容を一人前にこなせるようになるまでの苦労は、おそらく想像を絶する状況であったと思われます。そして松山くんは、開眼しました。仕事を通じて積み重ねた経験をもとに教材開発をしようと決心したのです。こうして出来上がったのが「茅ヶ崎方式英語」であり、この教材で学ぶ場が「英語会」でした。松山くんは、英語会の初代会長に就任しました。

 茅ヶ崎方式英語学習法というのは、次のようなねらいをもとに組み立てられています。1.まず聴く力に重点を置く、2.独自に厳選した4,000語を使用語化する、3.内外の重要ニュースを教材にする、4.会話に使えるラジオニューススタイルを用いる、5.国際化時代の本格的な英語力を身につける。 これらのポイントは、すべて放送記者として苦労した経験が生み出したものですが、英語教育理論にも驚くほど完全に合致しています。たとえば、「聴く力に重点を置く」というポイントは、「人間は、聴き取れないことを話すことが出来ない」という原理に符合します。かって英国から来日し、日本の英語教育改善努力をしたハロルド・パーマー(Harold E. Palmer)は、「聴覚心像」(ちょうかくしんしょう)の重要性を説きました。人は、あることばを聴くと、それに対応するイメージ(像)を頭に思い浮かべます。「りんご」と聞けば、りんごの映像を呼び起こします。これが聴覚心像です。英語教育では、このように、何かとその呼び名を結びつけることを「ネーミング・パターン(naming pattern)を作る」と呼びます。日本人であれば、りんごということばとりんごという実体が結びついているのです。ひるがえって、「りんご」という実体について英語国民はappleという呼び名を与えているので、日本人が英語を習得するというのは、英語のネーミング・パターンを獲得することを意味します。しかもパーマーは、「聴覚心像」は、聴く、話す、読む、書くの4つの技能すべてにわたって作用すると述べています。つまり、ことばの学習の基本となるのは、「聴く」という技能なのであり、従って茅ヶ崎英語が「聴く力」に重点を置いているのは、まさに語学教育の正攻法であると考えられます。

 今年茅ヶ崎方式英語会は創立30周年を迎えたそうです。松山くんの永年にわたる努力を讃え、これからも会が発展を続けるようにとの願いから、同級生の仲間が集まって式典に参列しました。浅野博くん、土屋澄男くんと一緒に、私も舞台に上がって私見を披露させていただきました。松山くん自身も創設者として式典の冒頭、英語会設立のいきさつと現在また将来における取り組みについて講演し、聴衆を感動させました。人は、一生のあいだに何か一つでも「自分はこれをやった」というものを持ちたいものです。松山くんの話が感動を呼び起こし、終了後も拍手が鳴り止まなかったのは、彼が畢生の仕事として開発した英語学習法式が見事な実を結んだことに対する聴衆の「共感」を示したからに相違ありません