田崎先生と愛犬「あずき」チャン(東京純心女子大学学長室で)
「あずき」チャンは、キャバリア・キング・チャールズ・スパニエル種。先生が、東京純心に出勤するときにはいつも連れていき、学長室にいた。学内を散歩させると、学生たちが集まってきて、「あずきチャーーーン!」と黄色い声をあげ、「可愛いいいーーッ!」となで回した。 その「あずき」チャン、2008年、先生が退任する年の1月に、亡くなった。先生は、毎日、「あずき」チャンの遺骨にお線香をあげ、祈りを捧げている。 |
テレビ『英語会話』から50年
田崎清忠先生(昭和36年~52年、テレビ「英語会話初級」担当講師)
学長室とつながっている秘書室のドアが開きます。「学長先生にお会いしたいという学生が来ていますが、どうしましょうか」「いいよ。どうぞ」 女の子が2人入って来ます。ひとりでは行動しないというのが日本人の特徴です。「まあ、かけなさい。それで用件は?」 ひとりが話し始め、もう一人はそばで座っているだけ。「夏休みに実家に帰ったんです。学長先生って、エライんですね」「何かね、突然」 両親と大学のことをいろいろ話している内に、「学長」の話になったのだそうです。そうしたら母親が、「もしかしたら、そのタザキセンセイって、テレビ英会話の先生じゃない?」と言い、彼女が若い頃のあこがれの的であり、「できれば結婚したい」とまで思ったという話。隣に座っていた父親が何とも複雑な表情をしたとのこと。で、結論は、学長先生のサインをもらってくるという課題を与えられたというわけです。 「私、ゼンゼン知らなかったんですよ。先生、サインください」と、となりの付き添いも真新しいサイン帳を出しました。「連れなんとか」というヤツです。 時が流れ、時代が変わりました。学生たちが私を知らなかったのも当然のことです。最近では「中学生の頃先生のテレビを見て、必死で勉強したものです」と言う人にお会いすると、たちまち年令が推測できるようになりました。教育テレビそのものが創生期だったのですから、地方ではNHKしか見ることができないところもたくさんあったわけで、自動的にタザキセンセイはヒーロー化したのでしょう。地方の講演会などがあると、東京に戻る飛行機を予測して空港で待ち構え、視聴者が私に握手を求めたり並んで記念写真を撮ったりすることも珍しくありませんでした。握手をした手を大事そうにハンケチで包み、「この手は当分洗いません」という中学生がいて、不思議な感動を味わったものです。 1956年に留学。ミシガン大学では当時一世を風靡していた「構造主義言語学」を学ぶのが目的でしたが、私はマイナーとして視聴覚教育の講義を聴き、参考文献を収集しました。日本ではすでにお茶の水女子大の波多野完治先生が視聴覚教育理論を紹介なさっておいででしたが、私はこれを英語教育に利用し、新しい言語学に基づいた教授法とドッキングさせれば、きっと何かが生まれると予感していました。帰国してすぐ、勤務していた東京教育大学附属中学校の教室で実験めいたことを始め、予想以上の効果を発揮していることを確認して、さらにこれを発展させる方法を模索していました。そこに降って湧いたように登場したのが、小林昭美さんだったのです。番組講師をお引き受けするに至った経緯やその後の「格闘記録」は、忘れないうちにと考えて自分のホームページ 田崎清忠オフィシャルウエブ http://kiyofan.comの中に設けたブログ欄に書き始めています。それにしても、番組担当の16年間を振り返ると、さまざまな思いがよぎります。 番組を構成するためには「内容」と「形式」が必要です。内容(content)はシラバスの作成であり、形式はフォーマット(format)で、これは私が考える仕事です。さらに教室と違い、テレビの画面という限られた世界における教師の姿をどう形作るかは、経験を積み重ね、学習し、自己訓練を続けることを意味し、これも講師の仕事です。さらに、これに「提示技術手法」が加わります。これはPDの専門分野であり役割です。これらすべての要素が集約化されてはじめて「論理的に構築された番組」が生まれます。つまり、番組は講師ひとりの仕事ではなく、講師とPDの共同作業です。そして、見事な番組を作り出すためには、優れたPDがどうしても必要になります。そして、私は、すばらしいPD群に恵まれました。 最初のPD小林昭美さんは「こわい人」でした。理屈だけは持っていてもテレビ収録という世界には素人の私を徹底的に鍛えました。私が大過なく順調な滑り出しができたのは、小林さんのおかげです。ですから、小林さんは大恩人であり、感謝してもしすぎることがない程です。 番組収録を行った15年間の間には、数え切れないほどのPDとのおつきあいがありました。みなさんがそれぞれに優秀で個性的、そして番組作りに意欲的でした。ウーサン(宇佐美昇三さんのこと)などは、顔をあわせるたびに何かのアイデアを口にしました。タクさん(田中卓さんのこと)は、まるで世話女房のように細かいところに気を配り、スタジオの進行を滑らかにしました。小河原正己さんは、独特の風格で全体への目配りを果たして収録の流れに強弱のポイントを作りました。大森正憲さんはつねに悠々とスタジオ内を歩き回り、ときどき「そうですね」「そりゃ、ちがいますね」という「ひとこと判断」を得意としていました。 2010年11月9日、秋の叙勲式典で瑞宝中綬章を授与され、皇居に参内して天皇陛下からお祝いのおことばをいただきました。推薦母体は名誉教授称号を授与した横浜国立大学ですが、勲章と勲記の裏には当然NHKにおけるPDさんとの血の出るような苦闘へのご褒美という意味が隠されています。今50年を振り返り、必死で私を支えてくださったすべての皆さまに、こころから感謝の意を表したいと存じます。ありがとうございました。 |