大学に合格して上京、スタジオの田崎先生に会いに来た寺石さん
「英語会話初級」は、私たちのバイブルだった
寺石容一さん(昭和38年高校時代、昭和44年~46年「初級」SD、その後、W.ポスト紙、日刊現代記者)
私が、田崎清忠先生に遭遇したのは、高校1年のころですから、昭和38年だったと思います。衝撃でした。 中学時代も英語を勉強していましたが、田崎先生のテレビ「英語会話初級」を通じて勉強をスタートしたのは高校時代から、16歳からだったと覚えています。私の母親は大の英語好きで、女学生だったころの自分の写真に英語で自分の名前をサインしていたほどですから。最初は母と一緒にブラウン管とにらめっこをしました。途中で、母は脱落しましたが、その分、私はのめり込んでいきました。本屋さんから買ってきたテキストが真っ赤に赤ペンで染まるほど、まるで何らかの精霊が乗り移ったかのような感じで必死でした。 そのころ、私は故郷の高知市の高校生たちを集めて、教会の宣教師さんたち2名(アメリカ人)にお願いしまして日曜学校なるものを主催していました。「杉の木会」という日曜学校です。そこでは宗教色はあまりなく、あるのは? ̄儻譴諒拔?、と?▲丱譟璽棔璽襪筌謄縫垢覆匹離好檗璽蝶萋阿任靴拭A管瑤韮傾擦?らいの高校から学生有志が集まってきて、みんなで協力して”The New Generation”(新しい世代)という月刊の英語新聞(4ページのタブロイド)もこの宣教師さんたちの援助と助言を得て刊行、広告取りもやりながら1部10円で主に高校生たちに販売していました。そのころ、田崎先生のNHKテレビ「英語会話初級」は、高校生たちのバイブル的な番組で、先生は“神様”のような存在だったのです。 私は先生が高知に講演にいらっしゃるという情報をどこからか得まして、先生がお泊りになる旅館をつきとめ、不躾にもそこへ先生をお訪ねしました。旅館の女将さんからは断られましたが、しつこく先生のお帰りをお待ちしていました。そして、先生がお会いしてくださる、ということになったのです。 先生のお部屋の障子を開けますと、そこにテレビのブラウン管上の先生ではなく、まさにホンモノの田崎先生がいらっしゃいました。もう、天にも昇る気分です。あとは何をどう話したのかはほとんど覚えていません。ただ、教会の宣教師さんたちが開発した英語の発音を矯正するための舌にそっと乗せる、とある金属製の器具を持ち込んで、こともあろうに“神様”である田崎先生にその器具の説明をしていたことだけは覚えています。身の程知らず、そのものですが、先生はお疲れのようでしたが、辛抱強く私の話をお聞きになってくれていました。私がたぶん17歳か18歳、先生が34歳か35歳のころの話です。 その後、上京して大学生になってから、またNHKのスタジオに田崎先生をお訪ねしました。本物のスタジオをこの目で見学してビックリ。ここでつくったものが全国に流されているのだな、と思わず身震いがしました。その後、どういう経過かは忘れましたが、田崎先生のお助けをすることになりました。テレビ「英語会話初級」の裏方であるSD(Studio Director)の仕事がいただけたのです。(私は、SDを、Student Directorと名刺に刷って、就活に活用していました)確か、昭和44年か45年くらいだったと思います。大学生のころの話です。当時のメモをみますと、「木曜日、NHK午後2時から10時まで」となっています。かつて、高校生時代に自分がお世話になった、その番組作りをお助けできる、こんな栄誉はありません。この仕事を2年間ほどやらせていただいたと記憶しています。その際にお世話になったのが、当時のNHKディレクターだった故田中卓さんと小河原正己さんでした。貧乏な苦学生だった私に、彼ら先輩たちはとても優しくしてくださいました。鋭い目を眼鏡の奥に秘めつつ、ズボンの右側に吊したストップ・ウォッチでどんどん収録していく田中さん。ソフトなマスクでいまにもフランス語が飛び出してきそうなイケ面の小河原さん。台本作成から出演者のアレンジなど、すべてを牛耳る、まさにNHKの看板とも言うべき存在で、いい勉強をさせていただきました。 当の田崎先生はスリムな体にぴったりのスーツを身に付けた紳士。収録中の動きに何ら無駄がありません。1度に番組を2本分収録したのですが、先生はタフでまったく疲れを見せません。ところが、SDの私は何度、NG(no good=失敗)をやらかして収録をし直したことか、その回数を忘れたほどです。 オーバーヘッド・プロジェクター(Overhead Projector)という当時としては最新の映写機器を使って英文を画面に表示していくのですが、その“送り”のタイミングを間違えたり、セットの裏側を歩いているつもりで、うっかりテレビに映ってしまったり、はたまた、番組の登場人物として出たまではいいのですが、肝心の英語のセリフをすっかり忘れてしまって「ごめんなさい!」とやってしまったり。お助けどころか、足手まといになってしまいました。でも、田崎先生も、田中さんも小河原さんもみなさん、寛容でした。仕方がないだろうと、怒りもしないで撮り直したものです。トホホ。 1971年に大学を卒業してからニューヨーク大学の大学院(国際政治専攻修士課程)に2年間留学した際には、このテレビ「英語会話初級」のテキストの巻末に「ニューヨークだより」という連載のミニ・エッセイを1972年4月から計23回も掲載させていただきました。それもこれも田崎先生の後ろ盾があったからこそ実現できたことでした。 16歳から現在までの47年間というもの、私が田崎先生とお付き合いをさせていただきました時間はアッという間に過ぎてしまいましたが、今日の私がこうしていられるのも、たまに海外へ行って通訳などができるのも、すべては高校時代の、あのテレビ「英語会話初級」のおかげです。田崎先生のおかげです。まさに画期的なテレビという媒体を通じた“生きた英語”の放送は、私だけではなく、全国にまたがる何十万人、いや何百万人もの視聴者に影響を与えてきたに違いありません。その視聴者の累計総数は計りしれません。その影響力は言葉では表現できないでしょう。田崎先生は自腹を切って、私費でアメリカへ毎年自ら旅行をしながら取材を重ねられ、ホンモノの英語(米語)をごっそりと日本に持ち帰られ、それらを時間をたっぷりとかけて研鑽されたあとで、わかりやすいように私たちに提供してくれたのです。 今年、79歳で叙勲を受けられ、「瑞宝中綬章」をいただかれた田崎先生は私だけではなく、あの番組を見て育ってきた視聴者みなさん全員の誇りであります。田崎先生はこれからも、いつまでも変わらない私たちの大事な師であります。先生のその飽く無き探究心と追究心、そして妥協をしない姿勢に対して敬意を払いたいと思います。 本当にありがとうございました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 |