横浜国立大学・恩師の思い出 ??
山田久美子(旧姓佐橋、横浜国立大学45年卒業)
(前列中央)山田久美子さん (大学1年の時、ESSの仲間と)
昭和41年、横浜国大教育学部教育学科に入学しました。小学校教諭を目指して、教育学を学び始めましたが、どうしても好きな英語に拘って、副専攻教科として英語科の授業に加わり、中学校英語教師を将来の道としました。 幼稚園から高校までの14年間、プロテスタント・メソジスト派のミッションスクールである成美学園(現在の横浜英和学院)に学び、多くのアメリカ人宣教師に小さい時から接して英語に親しみました。小・中・高とずっと女子高で、給食室ではセラミックの食器でマナー正しく食事をし、パイプオルガンも備えている所謂お嬢様学校でした。 その様な環境から地味で真面目な校風の大学へ、しかも入学の前年に教育学部鎌倉校舎が全焼して、学生運動盛んな清水が丘の経済学部の一隅にプレハブ校舎での学生生活スタートは憧れの大学生活とは程遠いものでした。 このような時、田崎先生との出会いが大学生活を憧れに引き戻してくれました。大学2年生全期でアメリカ語講義を、3年生では全期で英語科教育法を教えて頂きました。教員一級の資格は英語だけでも48単位以上必要でした。他の多く先生の授業を受けましたが、田崎先生の授業は型破りで、面白くて活気がありました。兎に角先生が教壇でじっとして教えるという事はありません。スクリーンを持ってきて色々なフィルムを見せてくれる、写真やフラッシュ・カードなど目新しい生きた情報を生徒にどんどん紹介してくれます。ある日の教育法では課外活動として調布のインターナショナル・スクールに私達を連れて行き、アメリカにおける教育現場を実際に見せてくれました。そこは、生徒も「自由」、先生も「自由」で伸び伸びとした教育という印象でした。この時代は視聴覚教育が注目され始めた頃で、田崎先生はその大切さに早くから気付いて、いつも最先端を進んでおられたように思います。先生は格好良く、大きな外車のような立派な車に乗って颯爽と大学に通っておられた姿を覚えていますが、車には色々な教材が入っていたのでしょう。 卒業の年昭和44年には大学紛争が激しくなりました。大学構内に入る事も出来ない、とても不安な毎日を送っていましたが、先生のお知り合いの東京観光航空(現 ベストワールド社)にアルバイトのお世話を頂きました。紛争の為卒業式は中止、昭和45年6月にプレハブの研究室の机の上に置かれた段ボールの中から、各自教員免許証と卒業証書を持ち帰ったという寂しい思い出があります。 その後、JAPAN TIMESの求人に応募して英国海外航空に入社することが出来ました。折角の教員資格は使う事はありませんでしたが、2年余りのスチュワーデス勤務は沢山の経験と現在まで続く親友や、先輩、後輩に恵まれました。また、父の憧れの地ロンドンに、両親を連れていくことも出来ました。先生に感謝しております。 更に先生には夫もお世話になったご縁で結婚式のお仲人をお引き受け頂きました。高輪プリンスホテルでの披露宴には当時の人気アイドルであった小鳩くるみさんを呼んで頂き、座が華やいだのを思い出します。 学生時代から就職、結婚式と、現在は「キヨ友の会」の会員として引き続き先生にお世話になっておりますが、2006年の、先生に連れていって頂いたラスベガス・ニューヨーク旅行は機上勤務をしていた私も、商社マンであった夫も初めてのニューヨークでありました。あの大学時代の課外授業がそのまま再現され、本当に素晴らしい大満足の旅でした。先生のお陰で、益々好奇心旺盛、これからも沢山の楽しみと生きた勉強の場をお願いします。 この度は、叙勲おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。今は亡きご両親様、御奥様もお喜びのことと思います。遠くフロリダの地で、真理さんとダンさんのお二人もお父様を誇りに思っておいでですね。重ねてお祝い申し上げます。 |
大学での授業風景
(先生曰く「この授業はおそらく一般教育の英語か何かだったのでしょう。理由は、私がにこやかだからです。私は英語専門の学生には厳しい教師でしたので、笑うような授業はしませんでした。学生からは恐れられていました。そのかわり、このような一般教育の授業では、他の学科の学生が大勢いつも周りにまつわりついていました。楽しくて優しいセンセイと思われていたからです(?)」) |
大学研究室の田崎先生
(先生曰く「机の上にピースの缶詰がおいてあり、書籍らしいものは見当たりません。いかに勉強をしていなかったかを示す証拠写真です(?)」) |