(左)田崎先生と小林昭美さん(右)

(左)田崎先生と小林昭美さん(右)


50年目の汗ぐっしょり
小林昭美(昭和36年~37年「Teach Me English」PD、その後、NHK放送文化研究所長)

 昭和34年に、NHKの教育テレビが始まったのだそうである。私は、東京教育大学を昭和35年に卒業して教師になるはずであったが、教育テレビ要員としてNHKに入局した。まだ、自分ではテレビをもっていなかった。

同期生は、プロデューサーだけで150人も採用されていて、普通は地方の局でテレビ作りの初歩を学ぶというのがNHKの普通の養成過程だが、教育テレビを担当するPDが足りなかったため、東京勤務を命じられた。そして担当したのが、テレビ「英会話」だった。同期生が地方でテレビ作りを勉強している大事な時に、私は東京で給料をもらいながら英会話の勉強をすることになった。

当時英会話の番組はDonald Williams先生の”Teach Me English”が初級で、William Moore先生の”English for Everyone”があった。それらの番組は生の英語に接することの少ない視聴者に、生きた英語に接する機会を提供するという点では社会のニーズにあっていたといえる。

しかし、英語にはじめて接する中学生が学ぶには、あまりふさわしくないのではないか、というのが若造プロデューサーの直感であった。特に”Teach Me English”の講師は、街の英会話教室の先生で、英会話教室には普通中学生は通わない。

 そこで目をつけたのが、母校東京教育大学の付属中学校の教師であった田崎清忠先生であった。先生のブログをみると、先生を初めてお訪ねしたのは昭和35年の夏休みに入る直前だった、とあるから入局してまだ数カ月しかたっていない。

 そして、田崎英会話がはじまったのが、昭和36年4月からである。当時の1年生プロデューサーは、レギュラー番組の講師を代える力をもっていたのかと、今から考えると恐ろしくなる。その番組の第1回の収録のようすが先生のブログで鮮明に描かれている。

 スタジオの重いドアをあけて、ディレクターの小林昭美氏が入ってきます。「センセイ、ダメですよ」「は、何が?」「その座り方です。そんなに椅子に深々と腰掛けると、カメラを通して見たとき、視聴者に対して『教えてやるからこっちに来い』というふうに写るんです」「へ、じゃ、どう座ればいいの?」、、、第一回の番組収録が終わったとき、私の洋服は背中まで汗がぐっしょりでした。

 50年を経てこのブログを見た、まもなく後期高齢者になる小林昭美氏の背中に冷たい汗が流れた。先輩に対するご無礼の数々伏してお詫びする次第である。しかし、当時の若造ディレクターは必死だった。学校の先生というのはやはり、だめか。先生の起用は失敗か。先生は教室では絶対権力者である。しかし、テレビは視聴者からお金をいただいて作っている。お客さまは神様である。スイッチを入れるのも切るのも、お客さの如意である。困ったことになったなあ、、、

「当時のTVは、白黒で、LEDなどもなく、スタジオの照明だけで汗がにじみでましたよネ、先生」。東京オリンピックも新幹線もつぎの世のことという時代のことであった。

 一世を風靡することになった田崎英会話も、そもそもの始めはこんなものだった。生涯英会話を担当するつもりでNHKに入ったものの、担当者の小林は身勝手にも翌年にはアメリカに留学し、帰国後は英会話を離れて、同期生には半周遅れて、普通のプロデューサーとしての道を歩むことになる。

田崎先生のその後のご功績については今さら述べることもあるまい。

講師お願いの想い出
磯田良一(昭和36年、英語班デスク)

 テレビ教育部の時代、英語班デスクをしていた時、小林昭美さんから、母校の中学の先生で素晴らしい先生がいると聞き、小林さんと先生を訪問した。当時先生は、まだ20歳代の後半だった。何回か打ち合わせた上で、上司に報告、その後、テレビ英会話の講師としてお願いする時も、小林さんに同行した。先生と接触したのは、それだけだったが、とても印象が深い。

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テレビ「英語会話初級」の記録

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