「Teach Me English」のテキスト
楽あれば苦あり、テキスト作り ??
沼上直右(昭和37年~43年、「Teach Me English」「英語会話初級」テキスト編集
田崎先生との出会いは、約50年前の昭和37年4月に、私が日本放送出版協会に入社し、「TEACH ME ENGLISH」という隔月刊のテレビ・テキストの担当を命じられた時に始まります。 それから6年間、先生にはなにも知らない新人編集者が担当者になり迷惑だと、心の中では思いながらもやさしく接していただきました。そして、人事異動で他部署への移動まで、公私にわたりよくしていただきました。 先生との思い出はたくさんありますが、よき思い出はほかの方に譲り、あえて原稿執筆が遅れて困った時の苦い思い出を書いてみました。 「TEACH ME ENGLISH」時代は、遅くなりそうな場合は、原稿を何回かに分けていただくことにし、茗荷谷にあった教育大付属や、浦和のご自宅に伺っていただいていました。テキストが隔月刊でしたので、問題も起きず発売日に間に合わせることができました。 その後、番組改編でタイトルが「テレビ英会話初級」なったところで、テキストが月刊化になりました。お仕事が多忙で執筆時間があまり取れないでおられる先生の原稿が、さらに月刊化によって執筆時間が少なくなってしまい、本当に間に合うのだろうか心配でした。 テレビ・テキストなので、ネイティブ・スピーカーのチェックのほかに、スキット部分の内容が番組化できるかどうかの番組担当者のチェックも必要でした。いままでのような進行ではとても期日までに本にすることはできません。当時はいまのような複写機がありませんので、番組担当者と相談をして、原稿用紙の間にカーボン紙をはさんで原稿を2部先生に作ってもらうことにしました。収録時に原稿を持ってきていただき、1部を番組担当者に渡してチェックを、残りの1部を印刷所に入れることで同時進行して時間をかせぐことにしました。 編集者として未熟な私のせいでテキストになってからミスが見つかり、視聴者、先生、番組担当者に迷惑をかけたこともありましたが、大きな事故を起こさないですんだのは、先生、番組担当者の絶大な協力のお蔭と思っています。また、テキストでは、イラストが多用され、私やイラストレイター知らない内容のイラストの指示があり、どういう絵にすればいいか尋ねると実物を見せていただいたり、絵で指示していただいたりと、懇切丁寧な指導をいただきました。 1週間後には印刷を始めなければいけないのに、先生の原稿が出来ていないという最大のピンチがありました。 その時は、番組担当者、その上司、私と上司の4人でお願いにあがり、一晩で原稿を書いていただきました。印刷所は、自分のところの職人さんだけでは間に合わないので、外部から20人ほどの助けを頼んで、1日で校正刷りをだしてもらいました。大量のイラストも、イラストレイターに隣りに座ってもらい、私が原稿整理しているあいだに内容を書き留めてもらい、対応してもらいました。そして発売日に間に合わせることができました。大幅に遅れたのは、後にも先にもこの1回だけでした。 今の時代では、このような対応は絶対無理で、よき時代だからこんな無茶なことができたのだとつくづく思っています。期日までに無理で、遅れるのは当たり前という出版の世界で、その後、編集者として大きな事故も無く仕事ができたのは、この若い時の経験があればこそです。私にはなつかしいよき思い出として残っています。 先生には、若さにまかせて無理難題をお願いしてきましたが、いやな顔をせず接してくださり、いろいろな面でご指導いただいたことに改めて感謝、感謝の気持でいっぱいです。 |
楽あれば苦あり、テキスト作り ??
和田博子(昭和43年~47年、「英語会話初級」テキスト編集)
昭和43年NHK出版に入社してすぐ担当したのが田崎清忠先生の『テレビ英会話初級』と国弘正雄先生の『テレビ英会話中級』のテキスト編集でした。 当時は宅配便などない時代でしたので、手書き原稿を先生のお宅まで頂きに行っていました。浦和のお宅の2階の書斎で先生が原稿を執筆なさっている間、私は1階の居間で待っているのですが、お母様がお掃除の仕方から始まっていろいろなお話をしてくださって、それがとても勉強になりました。原稿を頂いてから横浜国大に行かれるときは、途中まで愛車に乗せて行ってくださいました。 当時は宅配便だけでなく、まだコピー機もなく、原稿は世界に1つしかない本当に貴重なものでした。先生は2枚の原稿用紙の間にカーボン紙を挟んで原稿を執筆なさっていました。原稿執筆と同時にコピーが出来上がるという仕組みです。この方法には本当に感心させられました。 先生のテキストにはイラストがいっぱい入るのですが、当時40代の男性イラストレーターさんも私も見たことも聞いたこともない物をいろいろ要求されました。今思い出すのはクラブハウスサンド。当時日本にはまだ入ってなかったと思います。周りの人に聞いても分からないし、先生に尋ねると、先生はすごく身近なもののように説明してくださるのですが、こちらはさっぱり分からない。先生が描いてくださった絵をそのままイラストレーターさんが真似て、ピンとこないまま仕上げたということも多々ありました。 先生は毎年アメリカに行かれて、資料となる写真を撮ってこられてテキストや単行本を飾ることも多かったのです。そんなやり方がいつの間にか私にも染みついてしまったのか、30歳で初めてアメリカ旅行をした時、人を入れないで資料用写真のようにポストや看板などを撮っている自分に気がついて苦笑してしまいました。 いずれにしましても、大学卒業したての私にとって、田崎先生はアメリカそのものでした。英語だけでなく幅広くいろいろなことを学ばせていただきました。社会人になって初めての担当講師が田崎先生であったことは、私にとって何事にも代えがたい宝物です。 先生、本当にありがとうございました。 |