戦争と私 その3 大空襲

 航空工業の生徒たちは、いくつものグループにわかれてあちこちの工場で「勤労動員生」として働いていました。私の場合には、理研小台工場が爆撃により破壊されてしまったので、学校に戻って軍事教練を受けたり校内の工場で作業訓練を受ける毎日になりました。いつの間にか授業は消滅し、飛行機の勉強など出来なくなりました。それでも週に一回は全員が学校にもどり、また新しい作業の指示を受けました。先生が出席をとるとき、名前を呼ばれても返事がなく、次第に空席が目立つようになりました。1944年末ころから毎日のように空襲があり、ひとりふたりと生徒が消えていきました。最初は軍需工場のピンポイント空爆だったのが、次第に一般の民家を爆撃するようになり、みるみる被害が拡大していました。1945年1月には、有楽町や銀座も標的になり、有楽町駅には死体の山ができたそうです。

 3月9日はいつものように学校に集まる日でした。誰も座っていない席が3分の1になっていました。先生は出席簿を手にしたまま、黙って窓の外を見ていました。誰も何も言いませんでしたが、先生はきっと泣いているんだろうと思いました。仲良しだった純ちゃん(「純一」という名前、でも名字は思い出せません)が隣の席に移ってきて、「今日帰りにウチに来ない」と言いました。「うん、あまり遅くならなければいいと思う。寄り道すると怒られるんだ」。学校を出てから、純ちゃんと私は南千住の駅を通り越してかなり歩きつづけました。「いつもこんなに歩いて学校にくるの?」と聞くと、純ちゃんは黙ってうなずきました。やがて純ちゃんの家に着きます。今思い出すと、その家は浅草に近いところだったようです。玄関を入ると、純ちゃんは「ただいまァ!」と大声で言い、すると奥から若い女の人が出てきました。「お姉さんだよ」と彼が言いました。着物を着たその女の人は、今まで見たこともない美人でした。部屋に通され、お膳の前に座ると、お姉さんがお皿にのせた「お稲荷さん」を2個、私たちの前に置きました。「いただきものなの。お腹すいたでしょ。どうぞ」。不思議なことに、私はこのおんなの人の表情とことばをはっきり覚えているのです。でも、実は困ったことがありました。私はお箸の使い方が自己流で、人の前でものをいただくには恥ずかしい状況だと知っていたからです。すごい美人のお姉さんがそばに座っているその前で、怪しげな箸使いは出来ない・・・緊張感で体が硬くなり、脇の下から冷や汗が出てくるのを感じました。「何とか・・・しなくちゃ・・・」。私は純ちゃんのお箸さばきを懸命にまねました。成功!見事箸を正しく動かせたのです。いまでも、ときどき、ふと、箸を使っているとき、この時の様子を思い出します。あたりが暗くなってきたので、純ちゃんのこども部屋から階段を下りて玄関に行き、そこで美しいお姉さんに最敬礼しました。「ごちそうさまでした」と言い、外に出ました。そこから家までどう帰ったのかは覚えていませんが、歩く足がスキップしたに違いありません。暗い毎日に、一瞬のまぶしい経験でした。

 その日の夜、記録によると午後10時30分、警戒警報が発令。房総半島沖に編隊が接近。でも、この編隊はなぜか本土に上陸することなく去っていきました。警戒警報解除。ホッと油断がありました。3月9日から10日に日付が変わった直後、別の編隊があっという間に本土に侵入し、爆撃が始まりました。このときの編隊は、なんとB-29が325機も飛来したとの記録があります。爆撃は城東地区と浅草周辺で、火災の煙が成層圏に達するほどに舞い上がり、地上では爆風が竜巻のように吹き荒れたそうです。私が住んでいた王子から浅草方面を見ると、空全体が真っ赤になり、めらめらと紅蓮の炎が深紅の空を彩って見えました。いままでにない大火災が起きていました。その次の週の教室には、純ちゃんの姿はありませんでした。

戦争と私 その2 空爆

 3年生の先輩数人が1年生を呼び集めました。「俺たちはこれから少年航空隊に志願するんだ」と言います。「あとはおまえたちに頼んだぞ」。その先輩たちは、その日を最後に姿を消しました。15歳の紅顔少年たちは「お国のために」命を捨てました。私の母は、田舎の大家族で8人兄弟でしたが、末っ子の「いさむチャン」(私にとっては叔父にあたるのに、私は彼をそう呼んでいました)が言いました。「おれ、通信兵に志願した。あした出掛けるよ」「どこに行くの?」「キヨタダ、おまえ秘密守れるか?」「うん、守れる」「多分、オキナワだと思うんだ。爆撃機に通信兵が必要だろ。本隊と連絡するのに」。いさむチャンの遺骨は帰って来ませんでした。戦後分かったのですが、沖縄戦の最後のころ、九州を飛び立った双発の爆撃機編隊は、沖縄本土に近づく前に、米軍の邀撃戦闘機によって全機撃墜されたのだそうです。

 1年生の秋になった頃、日本近海に接近したアメリカの航空母艦を発進したグラマン戦闘機が機銃掃射を始めました。授業が始まる前の教室で、下町に住んでいる生徒が目を丸くし興奮した口調でみんなに話しました。「おれ、きのう見たんだ、戦闘機。低く飛んできたんで、操縦席に座っている人の顔が分かった。大きいめがねをかけてた」「へえ、それで大丈夫だったのかい」「うん、俺一発撃たれたけど、平気だった」。ホラを吹いているのはわかりますが、それが嘘とは思えないほどの迫真力を持っていました。「早くアメリカの戦闘機を倒せるような飛行機を作ろうぜ」。クラス中に拍手がわき起こったところに配属将校が入ってきて、急にみんな静かになりました。戦闘機による機銃掃射は、工場などに勤務している人たちを狙って行われたようですが、それでも民間人に被害者が続出しました。1944年6月にマリアナ諸島が陥落すると(こどもの私は、そんな経緯など全く分かりませんでしたが)、B-29戦略爆撃機による本土空襲が始まりました。ラジオが「東部軍管区情報。東部軍管区情報」と繰り返すとサイレンが鳴ります。「房総半島100キロ沖合に敵編隊接近中」とアナウンスがあり、警戒警報が発令されます。やがて警戒警報が空襲警報に変わり、整然と編隊を組んだ爆撃機が現れるのです、東京の空に。

 爆弾というのは、飛行機が落とし、それが地上で炸裂するものです。魚雷というのは、潜水艦が水中で発射し相手の軍艦の横腹にぶつけて破壊するものです。沖縄戦が熾烈になってきたころ、日本軍は魚雷と爆弾を一つにしたような特殊爆弾を作り始めました。敵艦を攻撃するには潜水艦が必要ですし、潜水艦があっても高価な魚雷には数に限度があります。そこで、潜水艦を使わなくても、飛行機で船の横腹に穴を開けられる爆弾を考えたのです。静かな水面に対し、水平に石を投げると、重くて水に沈む筈の石が水面をはねてジャンプします。しっぽに分厚くて頑丈な羽をつけた爆弾を抱えた戦闘機が、敵艦に向かって海面すれすれに飛び、手前でこの爆弾を落とすと、爆弾は海面で跳ねて船の横腹にぶつかるという理屈でした。私が「勤労動員」と称して学校から団体で派遣された理研の小台工場は、この特殊爆弾を製造していました。中学生のわれわれは、工員が旋盤で削り落とした鉄くずを小型の手押し車で工場の外に運ぶのが仕事でした。小型とはいいながら、乗せているのは鉄ですし、何かの拍子に手を触れれば、鋭い鉄の切り口が指を裂きます。気が付くと、仲間の生徒たちはみんな手から血を流していました。こんな辛い作業も、「お国のため」という合い言葉で、誰一人文句を口にしませんでした。唯一の楽しみは、軍から届く配給物資の「干しバナナ」です。バナナの皮をむいて干しただけの、真っ黒で小さな棒状の食べものでしたが、お砂糖を手にすることもままならぬ時期でしたので、バナナの甘味がまるで天国の味でした。

 戦時中の理研小台工場はまさしく「軍需工場」でした。B-29の攻撃目標にならない筈がありません。ある日の朝、工場についてすぐ、警戒警報が鳴り響きました。中学生は工場の門から外に走って、原っぱの真ん中に掘られた防空壕に避難します。工場には、「女子挺身隊」という名前の女子大生集団も働いていました。この人たちの防空壕は工場の敷地内(つまり門の中)にあり、警報が出ると彼女たちはこの防空壕に入りました。私たちは、門外の防空壕から、真っ青に晴れた空を見上げ、鈍い爆音が近づいてくる方向に目をこらしました。明るい日の光に銀色の胴体が輝く編隊が見えてきました。高射砲が撃たれ始めました。でも高射砲が届く高さよりもはるか上空を飛行している爆撃機は、ただ美しく整然と飛行を続けていました。編隊が工場の手前に来たとき、先頭の爆撃機の弾倉が開きました。後ろに続く飛行機の弾倉もつぎつぎに開き、中から小さな点のように見える爆弾が無数に落下し始めました。「爆弾だッ!」と誰かが叫び、私たちは防空壕にクビを引っ込め壕のふたを閉めました。「サーッ」という雨のような音が聞こえ、次の瞬間には耳をつんざく炸裂音。工場に爆弾が投下されている!我々はただ、目をつぶって震えました。ひとときの激しい音が消えると、後は不思議な静けさが支配します。中学生たちは、のこのこと防空壕から出て、あちこちから煙が上がっている工場に引き返しました。凄惨な光景が待っていました。工場の建物はほとんどが吹っ飛び、工員の死体が散乱していました。最後まで待避せずに工場内にとどまって働いていた人たちの無残な姿でした。女子挺身隊の防空壕は直撃を免れましたが、激しい爆風が砂とともに防空壕に吹き込まれ、中にいた女子大生を窒息死させていました。防空壕のわきに食堂から運び出されたテーブルが置かれ、生き残った工員が防空壕から女子大生たちの遺体をテーブルの上に寝かせました。爆風の砂が、彼女たちの目、耳、口を一瞬にしてふさぎ、顔は「砂の顔」になっていました。「戦争っていうのは、こういうことなんだ」と、震えながら思いました。

 

戦争と私 その1 都立航空工業学校

 80-65=15 この数字は何でしょう。80(現在の年齢)ー65(戦後65年)=15(終戦のときの年齢) という意味です。1945年8月15日の暑い日、15歳(中学3年生)で「玉音放送」を聞いた少年の思い出は、毎年8月のこの時期になると鮮やかによみがえり、戦争を知らない世代のためにも「語る必要」があるように思うのです。

 北区王子に住んでいた私は、1年生で豊川小学校に入学し、4年生になったとき新しい小学校(柳田小学校)が出来たので転校することになりました。1組は男子組、2組は女子組で、女子組には現在キヨ友の会メンバーの石井キイ子さんや山崎富美子さんがいました。1組で成績のトップ争いをしていたのは、石井くんと私。石井くんのお父さんは王子駅の表通りに鰻屋を開いていたので、私の母の口癖は「鰻屋に負けるな」でした。抜きつ抜かれずの熾烈な戦いの最後、小学校卒業の時にはついに私は学年トップの栄誉を勝ち取り、母は得意満面の笑顔を浮かべました。進学先を相談する担任教師との面談の際、先生はこうおっしゃいました。「田崎くんは、どの中学校にも入れます。都立一中に進んではいかがですか」。当時、一中→一高→帝大というのがエリートコースだったからです。私の考えは違っていました。都立航空工業学校に入って、飛行機の設計をしたかったのです。もともと私の父は電気関係の内線設計技師でしたので、私には理科的資質があったのと、飛行機が大好きで、木片をナイフで削っては飛行機のソリッドモデルを作っていたからだと思います。というわけで、私は南千住にある航空工業の航空機科一年生になりました。私の究極の夢は、三角翼の超音速機を設計することにありました。一方、鰻屋の石井くんは、一中、一高、一橋大学に進んで行きました。

 航空工業入学の第一日、教室で真新しい教科書が配られました。「航空発動機」、「初等工作機械」、「空力学」などの教科書に混じって、英語の教科書もあり、いよいよ中学生になったんだという不思議な感動を覚えました。英語の先生は今石益之というお名前で、色白で背が高く、まるで外国人のようなお方でした。左の頬が右に比べてややへこんでおり、悪童どもは今石先生を「レフパン」(「レフト・パンチ」left punch=左から殴られたパンチという意味)というあだ名で呼んでいました。先輩がそう教えてくれたからです。(なお、戦後今石先生は、広島女学院大学の学長になられ、広島で先生にお目にかかって感動のひとときを過ごしました。今はお亡くなりになり、ご子息が広島の大学で教えていらっしゃいます。)さて、その英語授業ですが、当時の日本は戦時色が一層強くなってきていましたから、教科書は受け取ったものの、授業があったのかなかったのかさえもはっきり覚えていません。綺麗な挿絵に、見たこともない文字が印刷されていたことだけ覚えています。

 航空工業は、戦時の日本政府が政策として創設した学校という意味合いが強く、「配属将校」という軍人が教員組織に組み入れられていました。軍服を身につけ、腰に軍刀をつるした将校が職員室に出入りする姿が日常の風景だったのです。週に1時間は軍事教練があり、晴雨に関わりなく生徒は運動場に整列して木銃での訓練を受けました。そして次第に、授業らしいものが少なくなり、代わりに教練と工場実習の量が増えていきました。あるときは、体育館に整列して配属将校が軍刀で垂直に立てた藁の束(中央に竹の芯が入っている)を一刀両断に切り倒す様子を見学しました。また実習は急速に強化され、校内にあった実習工場に朝から夕方まで入りっぱなしというのも珍しくなくなりました。「はつり作業」はもっとも辛い作業で、万力に金属棒を挟み、たがねの頭を力一杯ハンマーで叩いて棒を削るというもの。先生のほかに配属将校もぐるぐる見回っており、精一杯叩かなければ棒は切れませんが、打ち損なうと棒を支えている左手を叩く結果となり、皮膚が裂けて血が飛び散ります。先生が「ピーッ」と笛を吹いたら、生徒はハンマーを振り上げ、次の「ピーッ」で振り下ろします。たたき損なっても悲鳴を飲み込みます。斜め前にいた生徒が、つい痛さに耐えかねて、そっとハンマーを打ち下ろしたのを巡回していた配属将校にみつかり、「このやろうーーッ」という罵声とともに床に殴り倒されました。ついそちらに気をとられて、私もハンマーを下ろすタイミングを失った瞬間、いつのまにか先生が背後にいました。「こらァーー!という声が聞こえ、私も床に殴り倒されていました。私が記憶する限り、他人から殴られたのは、あとにも先にも、これ一回だけの惨めな経験でした。

 戦争は次第に激しさを増していました。

 

英語の話 その2 茅ヶ崎方式英語会

 東京高師の同級生に「松山薫くん」がいます。卒業生の大部分は教師になりますが、松山くんは高校教師を7年勤めたあと貿易会社で働き、さらに一心発起してNHKに入りました。仕事は「英文記者」、つまり海外放送ラジオ・ジャパンで放送されるニュース原稿を書くというものです。今までの経験とは全く異なる業務内容を一人前にこなせるようになるまでの苦労は、おそらく想像を絶する状況であったと思われます。そして松山くんは、開眼しました。仕事を通じて積み重ねた経験をもとに教材開発をしようと決心したのです。こうして出来上がったのが「茅ヶ崎方式英語」であり、この教材で学ぶ場が「英語会」でした。松山くんは、英語会の初代会長に就任しました。

 茅ヶ崎方式英語学習法というのは、次のようなねらいをもとに組み立てられています。1.まず聴く力に重点を置く、2.独自に厳選した4,000語を使用語化する、3.内外の重要ニュースを教材にする、4.会話に使えるラジオニューススタイルを用いる、5.国際化時代の本格的な英語力を身につける。 これらのポイントは、すべて放送記者として苦労した経験が生み出したものですが、英語教育理論にも驚くほど完全に合致しています。たとえば、「聴く力に重点を置く」というポイントは、「人間は、聴き取れないことを話すことが出来ない」という原理に符合します。かって英国から来日し、日本の英語教育改善努力をしたハロルド・パーマー(Harold E. Palmer)は、「聴覚心像」(ちょうかくしんしょう)の重要性を説きました。人は、あることばを聴くと、それに対応するイメージ(像)を頭に思い浮かべます。「りんご」と聞けば、りんごの映像を呼び起こします。これが聴覚心像です。英語教育では、このように、何かとその呼び名を結びつけることを「ネーミング・パターン(naming pattern)を作る」と呼びます。日本人であれば、りんごということばとりんごという実体が結びついているのです。ひるがえって、「りんご」という実体について英語国民はappleという呼び名を与えているので、日本人が英語を習得するというのは、英語のネーミング・パターンを獲得することを意味します。しかもパーマーは、「聴覚心像」は、聴く、話す、読む、書くの4つの技能すべてにわたって作用すると述べています。つまり、ことばの学習の基本となるのは、「聴く」という技能なのであり、従って茅ヶ崎英語が「聴く力」に重点を置いているのは、まさに語学教育の正攻法であると考えられます。

 今年茅ヶ崎方式英語会は創立30周年を迎えたそうです。松山くんの永年にわたる努力を讃え、これからも会が発展を続けるようにとの願いから、同級生の仲間が集まって式典に参列しました。浅野博くん、土屋澄男くんと一緒に、私も舞台に上がって私見を披露させていただきました。松山くん自身も創設者として式典の冒頭、英語会設立のいきさつと現在また将来における取り組みについて講演し、聴衆を感動させました。人は、一生のあいだに何か一つでも「自分はこれをやった」というものを持ちたいものです。松山くんの話が感動を呼び起こし、終了後も拍手が鳴り止まなかったのは、彼が畢生の仕事として開発した英語学習法式が見事な実を結んだことに対する聴衆の「共感」を示したからに相違ありません

4つの証明書 その1

 私の家には、4つの証明書(certificates)が額に入って飾られています。それぞれに思い出があります。

 1番目は「ワイオミング名誉州民証」。最初にワイオミング州に行ったのは1956年のことで、留学期間中にCommunity Assignment(大学で学ぶだけではなく、実際にアメリカ人と生活して文化と習慣を学ぶという教育省のプログラム)としての滞在でした。その後何回もこの州を訪ね、テレビ番組などを通じて州を日本に紹介した功績に対し、時の州知事から名誉州民証をいただきました。大西部のまっただ中、人間よりも牛の方が多く、首都シャイアンの酒場には夜になると近隣の牧場からカウボーイたちが集まってくるという州のこと、この証書もきわめて特別な表現で書かれています。 The State of Wyoming Executive Department(ワイオミング州行政府)のへデイングに続き、”This is to certify that Kiyotada Tazaki is hereby appointed as a Bona Fide Cowboy on Governor Ed Herschler’s 97,914 square maile ranch known as Big Wyoming and is further authorized and empowered to wear the jangling spurs, cowboy boots and ten-gallon hat attendant to that honor and to enjoy to the fullest extent the spectaular beauties, outstanding wonders and western hospitality abounding throughout this great land outdoors. という本文があります。「あなたを本物のカウボーイと認定します」という表現が何とも大西部的です。そして最後に署名。 Given under my hand this 16th day of August 1977.  Ed Herschler (Governor of Wyoming) で締めくくってあります。名誉州民になってからは、訪問すると州政府の公用車を利用する便宜が与えられました。車のライセンスプレートには州のマークである「バッキング・ホース」(bucking horse、ロデオで飛び跳ねる馬)の絵が描かれており、番号はたった一桁「5」でした。ここ久しくワイオミングを訪ねていませんが、私の懐かしい思い出のひとつです。Resize

車と私 その1

 最初に買った車は紺のブルーバードでした。1960年のことです。その頃は「スタイルのトヨタ」「技術のニッサン」という評価でしたので、迷わずニッサンの車を買い、その後一度も心変わりしたことがありません。自動車はガソリンを入れれば走るとだけ呑気に構えて、一切オイル交換など考えもしなかったので、ある日の夕方都内の路上でエンジンから白い煙があがり車はストップ。板橋の近く、市電のレールの上でした。目の前に交番があったので、走って行っておまわりさんに車を押してくれるように頼みましたが、忙しいと言って断られ、やがてやってきた市電から運転手と車掌が降りてきて一緒に車をレールの外に押し出してくれました。ニッサンが手配したレッカー車が愛車を運んでいく姿を見送ったのが最後。一週間後には茶色のブルーバードに乗っていました。
 一年半ごとに新車に乗り換え、そのたびにブルーバード。やがて白以外すべての色のブルーバードを乗りつくし、あるときは女性用に製造された薄いピンク色の車にも乗りました。ターンシグナルを出すとオルゴールが鳴り、足下にはハイヒールスタンドが取り付けられていました。みんなが笑うので、さすがにこの車は半年で乗り換えました。最初の内は「これは何台目」と数えていましたが、その内面倒くさくなってメモもとらなくなりました。
 東京教育大から横浜国大に移って通勤距離が長くなったのを機会に、すこしでも体がラクになるのではないかと考えて、ブルーバードからより大きなグロリアに変えました。アメリカでエアスポイラー(車の後部につける羽のようなもの)が流行し始めたのを知り、ニッサンに頼んで大きなスポイラーを取り付けてもらったこともあります。日本では珍しいスポイラー付きの自動車をニッサンの本社前に置いて得意顔の私がその横に立ち、撮影した写真がニッサンのカタログに掲載されたこともあります。自動車の屋根にレザーを張ったり、車体の横に白のストライプを入れさせたり、私が新車を注文するときの我が儘が続きました。自動車電話が開発されると、最初の300台ほどの仲間に入り、ナビゲーターもいち早く取り付けるという懲りようです。もっとも、最初の頃のナビゲーターは全く信用が出来ず、気が付くと車が海の中を走っていることもよくありました。
 「新しい『シーマ』という車が発売になります」というニュースがとどき、第一号車を注文しました。4.5リットル8気筒エンジンを搭載したシーマは、どっしりとして静か、初めて乗用車らしい機能と品格を備えおり、大満足の極みでした。今も濃紺のシーマが愛車ですが、2010年8月には製造中止になるとか。ニッサンからは「フーガ」に乗り換えるよう勧められていますが、一切その気はなく、今のシーマを「乗りつぶす」つもりです。
 最初にハンドルを握ってから50年。その間に何回車を乗り換えたことか。白煙を出して見送ったブルーバードの懐かしい姿と、そして今消える運命にあるシーマと、これが私の自動車の歴史そのものなのです。

健康法

 アメリカ人に”You speak English very well.”(英語がお上手ですね)と褒められると、ちょっといい気分になります。でも、日本人が日本人に対して「日本語がお上手ですね」と言うでしょうか。つまり、「あたたは英語が上手」というのは、「外国人としては上手」という意味であり、native speakers(英語を母国語としている人)とはほど遠いと理解すべきです。 「先生、お元気ですね。何歳におなりですか」と問いかけられることがありますが、これも同じように、「その年齢としては」という前提があっての褒め言葉です。
 私は1930年11月の生まれですから、今年の11月で80歳になります。「センセイ、元気ですね」と言われます。教え子を中心とするキヨ友の会では、私の傘寿を祝って胴上げか何かをしようと画策が進んでいるようです。ちなみに、なぜ傘寿と言うのか調べたところ、傘という文字の略字が「仐」で、「八十」に似ているからだそうです。ロマンテイシズムの片鱗もない回答にガックリ。
 「センセイは健康のために何かしておいでですか」という質問を受けることもあります。私はもともと貴族出身などのような「純粋種」ではありませんから、いわば雑草のようなもので、この年になるまでとくに「健康」を意識して何かやってきたというわけではありません。好きなものを好きなだけ食べ、運動らしいものもせず、もっぱらストレスが一杯の生活を積み重ねてきました。健康を維持するためには、食べもの、運動、規則正しい生活、ストレスからの解放が4つの必要条件ですが、これらをほとんど無視するような生活を続けてきたことなります。それでも元気でいられたのは、おそらく「楽観主義的性格」によることが大きかったのではないでしょうか。細かいことにクヨクヨしない、辛いことがあっても「明日はいいことがあるよ」と自分に言い聞かせる・・・きっと、こんな心構えが体調に影響を与えてきたのではないかと思います。
 「今は?」・・・そうですね、今は多少気をつけています。忍び寄る老化に対抗策が必要です。食事もバランスをとるようにしていますし、運動は散歩のほかに「NHKテレビ体操」(金子リサさんというお嬢さんが登場すると、ひとりでにニコニコします)と任天堂のWiiFitをやっています。規則正しい生活はなかなか出来ずにいますが、それでも睡眠だけはきちんととります。ストレスはほとんどなくなりました。日本男性の平均寿命は78歳(女性は85歳!)なので、もう2歳儲かってることになります。

英語の話 その1

 アメリカ映画「ロボコップ」(Robocop)。夜の駐車場。泥棒が忍び込みます。駐車中の車のガソリンタンクのキャップをあけ、ホースを入れます。下にはバケツ。ホースの片方を口にくわえて吸い込むと、タンクから吸い上げられたガソリンがバケツに入るというクラシックな盗み方です。問題は、吸い込んだとき、たとえ一瞬でも口の中にガソリンが入るjこと。この泥棒は顔をしかめてペッとガソリンをはき出し、”Exxon!”と言います。観客がどっと笑います。
 この映画をアメリカで観たときの風景ですが、観客はなぜ笑ったのでしょう。Exxon(エクソン)はアメリカのガソリンスタンドの名前。泥棒は口に入ったガソリンをその味で「あ、エクソンだ!」と言ったのです。(そんなことあるかッ!)帰国してから同じ映画を観ました。エクソンは日本にはありませんから、字幕をどうするか。「あ、シェルだ!」になっていました。うまい!拍手!
 私たちは、ややもすると、英語にあるものはすべて日本語にもある・・・つまり「置き換え」→「翻訳」が可能であると考えがちです。でも、英語は英語の生活文化のなかで意味と機能を持っていますし、日本語もおなじような言語環境の中で存在します。置き換えが出来ないものもたくさんある筈です。だとすると、学校の授業などで、英語を「訳して理解する」方法には、限界があることを理解しなければなりません。