航空工業の生徒たちは、いくつものグループにわかれてあちこちの工場で「勤労動員生」として働いていました。私の場合には、理研小台工場が爆撃により破壊されてしまったので、学校に戻って軍事教練を受けたり校内の工場で作業訓練を受ける毎日になりました。いつの間にか授業は消滅し、飛行機の勉強など出来なくなりました。それでも週に一回は全員が学校にもどり、また新しい作業の指示を受けました。先生が出席をとるとき、名前を呼ばれても返事がなく、次第に空席が目立つようになりました。1944年末ころから毎日のように空襲があり、ひとりふたりと生徒が消えていきました。最初は軍需工場のピンポイント空爆だったのが、次第に一般の民家を爆撃するようになり、みるみる被害が拡大していました。1945年1月には、有楽町や銀座も標的になり、有楽町駅には死体の山ができたそうです。
3月9日はいつものように学校に集まる日でした。誰も座っていない席が3分の1になっていました。先生は出席簿を手にしたまま、黙って窓の外を見ていました。誰も何も言いませんでしたが、先生はきっと泣いているんだろうと思いました。仲良しだった純ちゃん(「純一」という名前、でも名字は思い出せません)が隣の席に移ってきて、「今日帰りにウチに来ない」と言いました。「うん、あまり遅くならなければいいと思う。寄り道すると怒られるんだ」。学校を出てから、純ちゃんと私は南千住の駅を通り越してかなり歩きつづけました。「いつもこんなに歩いて学校にくるの?」と聞くと、純ちゃんは黙ってうなずきました。やがて純ちゃんの家に着きます。今思い出すと、その家は浅草に近いところだったようです。玄関を入ると、純ちゃんは「ただいまァ!」と大声で言い、すると奥から若い女の人が出てきました。「お姉さんだよ」と彼が言いました。着物を着たその女の人は、今まで見たこともない美人でした。部屋に通され、お膳の前に座ると、お姉さんがお皿にのせた「お稲荷さん」を2個、私たちの前に置きました。「いただきものなの。お腹すいたでしょ。どうぞ」。不思議なことに、私はこのおんなの人の表情とことばをはっきり覚えているのです。でも、実は困ったことがありました。私はお箸の使い方が自己流で、人の前でものをいただくには恥ずかしい状況だと知っていたからです。すごい美人のお姉さんがそばに座っているその前で、怪しげな箸使いは出来ない・・・緊張感で体が硬くなり、脇の下から冷や汗が出てくるのを感じました。「何とか・・・しなくちゃ・・・」。私は純ちゃんのお箸さばきを懸命にまねました。成功!見事箸を正しく動かせたのです。いまでも、ときどき、ふと、箸を使っているとき、この時の様子を思い出します。あたりが暗くなってきたので、純ちゃんのこども部屋から階段を下りて玄関に行き、そこで美しいお姉さんに最敬礼しました。「ごちそうさまでした」と言い、外に出ました。そこから家までどう帰ったのかは覚えていませんが、歩く足がスキップしたに違いありません。暗い毎日に、一瞬のまぶしい経験でした。
その日の夜、記録によると午後10時30分、警戒警報が発令。房総半島沖に編隊が接近。でも、この編隊はなぜか本土に上陸することなく去っていきました。警戒警報解除。ホッと油断がありました。3月9日から10日に日付が変わった直後、別の編隊があっという間に本土に侵入し、爆撃が始まりました。このときの編隊は、なんとB-29が325機も飛来したとの記録があります。爆撃は城東地区と浅草周辺で、火災の煙が成層圏に達するほどに舞い上がり、地上では爆風が竜巻のように吹き荒れたそうです。私が住んでいた王子から浅草方面を見ると、空全体が真っ赤になり、めらめらと紅蓮の炎が深紅の空を彩って見えました。いままでにない大火災が起きていました。その次の週の教室には、純ちゃんの姿はありませんでした。


