Archive for 10月, 2010

発音の学習(2)

Author: 土屋澄男

テキストの朗読がうまくできるようになっても安心はできません。中学2年生でも、学校で使っている教科書のテキストをじょうずに読む生徒はけっこういます。しかし、テキストを朗読するのと自分の頭の中にあるものを話すのとでは違います。その間に大きなギャップがあります。テキストはかなりじょうずに読めるのに、テキストを見ずに同じ内容の物語を自分のことばとして話すと、リズムや音調がすっかり崩れてしまう人が多く見られます。それはまだ英語のリズムや音調がしっかり身についていないからです。そのギャップを埋めるためにはどうしたらよいでしょうか。結局のところトレイニングです。体操選手が自分のイメージする通りに演技ができるようになるために、どれだけ多くのトレイニングを積み重ねるでしょうか。他の人たちに理解してもらえるような発音でことばを話すことは、体操選手が自分の演技を他の人たちに観賞してもらうのに似ています。自分にだけ理解できればよいのであれば、自分勝手な演技をしても許されるでしょう。しかし他の人たちに自分の表現したいものを訴えようとするならば、自己満足にとどまっていてはなりません。自分の演技を可能なかぎり磨かなくてはなりません。そこで、英語の発音に関して必要なことは、第1に自分の目指す英語発音をしっかりとイメージすること、第2に自分のイメージした通りに演技できるようにトレイニングを積み重ねることです。

 第1の問題について考えてみましょう。自分の目指す英語発音をイメージすることは、結局のところ、どんな発音をモデルにするかの問題です。もっとはっきり言うと、具体的に誰かの発音をモデルにすることです。良いモデルを選ぶことは難しい課題ですが、日本人が日本で英語を学ぶ場合には選択肢はあまり多くありません。学校や英語スクールで教わっている先生の発音がモデルになれば学習者にはいちばん幸せです。先生の発音がモデルにならない場合には(残念ながらそういうケースがしばしばあります)、ALTなどの外国人の先生やテープ教材の発音がそれに替わるでしょう。学習用音声テープ教材の英語は概して不自然なので、話しことばのモデルとして適切でないと批判する専門家もいます。しかし私はそうは思いません。私たちはいろいろな種類の英語を聴いて理解できるようになる必要がありますが、自分の発音は特定の種類の発音に決めてよいと思います。また、それはネイティブ・スピーカーと同じ発音であるべきだと言う人がいますが、世界で使われている英語には非常に多くの種類があり、発音も千差万別です。そもそもネイティブ・スピーカーの発音というのは抽象的な概念であって、実態はありません。イギリス英語やアメリカ英語もいろいろです。しかも英語はもはや英米人だけのものではありません。今日、英語を第1言語とする人々よりもはるかに多くの人々が第2言語として英語を使用しています。いくらか不自然に聞こえても、はっきりとして正確な発音であれば通用範囲は広がります。世界でより多くの人々に理解可能な発音であればよいのではないでしょうか。専門家は発話が理解できる度合いのことを ‘intelligibility’ (理解可能度)と呼んでいます。大切なことは、自分の発音の理解可能度を高めることだと言ってよいでしょう。

 英語の発音を学習するときに注意すべきことがもう一つあります。それは、英語の音韻体系は日本語のそれと非常に違うので、しっかりした発音が身につくまでは自分が日本人でなくなったような(つまり、日本人のアイデンティティーを失ってしまうような)気持ちになることです。そのことに耐えられない人は途中下車することになります。変な音だとか、おかしな口の動きだとか、友人に笑われたり、からかわれたりしても気にしてはなりません。ところで、英語の発音が上達したら日本人のアイデンティティーを失うことがあるのでしょうか。そんなことはないと私は思います。なぜなら、私たちは日本人である前に「人間」としてこの世に生まれてきたからです。誕生したとき、私たちは世界中のどんな言語でも習得できる能力を与えられていました。しかし日本語を習得する課程でその能力を減退させてしまいました。それでも、その能力を掘り起こして英語の習得に成功した日本人はいくらでも存在しましたし、現在も存在します。バイリンガルの中には、この人はナニジンなのだろうと思うような人もいますが、日本に育って日本語を習得した上で英語を身につけた人はみな、良い意味でも悪い意味でも日本人です。英語の発音が上達したからといって日本人のアイデンティティーを失うことはありません。英語や他の外国語を学ぶときには、日本語を学ぶことによって自分の中に埋めてしまった資源を発掘して再利用するために、そして自分自身をより大きな「人間」とするために、果敢に挑戦しようではありませんか。(第2の問題「発音トレイニング」については次回に取り上げます。)

旧制中学時代 (1)
大東亜戦争(太平洋戦争)が始まって数ヶ月、日本軍は連戦連勝だった。少国民達はすっかり軍国少年になった。昭和17年(1942)3月私は奥澤国民学校初等科を卒業することになったが、卒業記念は、宣戦布告の詔書を皆で4文字ずつ模造紙に書き写すことだった。私に割り当てられたのは、「米英両国ト戦端ヲ開クニ至ル。アニ朕ガ志ナラムヤ。中華民国政府先二帝国ノ真意ヲ解セズ・・・」の中の、「ラムヤ。中」の4文字であった。写真が残っているが、この4文字だけ馬鹿でかい。つまり、私はかなりの乱暴者で、先生ににらまれていた。中学は府立8中(現小山台高校)に入りたかったのだが、通信簿の操行(普段の行ない)欄が悪いので、「お前は府立はムリだ」といわれ、母親が泣きついて何とか新設の府立22中に願書を出してもらった。入試は口頭試問だけで学科の試験はないので、先生ににらまれたら、先ず見込みはない。口頭試問の問題は「お前の好きな歌は何か」だった。「空の神兵」ですと答えると、歌ってみなさいというので、破れかぶれで、ありったけの声を張り上げて「藍より青き大空に、大空に・・・みよ落下傘空を行く、みよ落下傘空を行く」と歌ったら合格した。中学は義務教育ではなかったから、教科書は国定教科書ではない。英語の教科書は“Crown Reader”という本で、表紙の真ん中に大きな王冠が印刷されていた。内容はほとんど憶えていないが、イギリス人の生活などを題材にしていたのではないかと思う。George gets up early in the morning.という文章があったらしく、皆で「ジョージのケツはプーアリ」かなどと話していたことを思い出す。英語の担当は東京文理大を出た先生で、とにかく1年間だけはこの先生にみっちり仕込まれた。当時はほとんどそうであったように、教えられたのは米語ではなく英語で、今にして思えば、その時教えられた英語が、私の英語の基盤になっていることは間違いないだろう。後年、取材に行ったイギリスの豪華客船キャンベラ号の船長に「君はよい英語を話すね」とほめられたことがある。
国民には全く知らされていなかったが、この年の夏、日本海軍はミッドウエイ沖で壊滅的打撃を受け、日本は太平洋戦線全域で守勢に立たされることになって行った。翌18年(1943)春には学徒動員令が発動され、中学2年生だった我々も先ず疎開工事に動員された。真珠湾攻撃の英雄山本五十六聯合艦隊司令長官が南方戦線で戦死した時も我々は未だ、負けているとは全く思わず、必勝の信念に燃えて、鬼畜米英撃滅を誓った。動員先は、工場にかわり、もはや学校どころではなくなって、敵性言語の英語などは、どこかへ吹き飛んでしまった。つまり私の英語学習は1年あまりで終わった。その後、最も記憶力の旺盛な数年間、我々世代は、ほとんど勉学の機会を奪われてしまったのである。3年生になると、級友の中に軍関係の学校へ行く者が出始めた。初めは志願だったがそのうち、教師が、予科練へ入れ、海兵へ行け、陸士へ行けと言い出した。各地で玉砕する兵隊の穴埋めに、大学生だけでは足らず、とうとう中学生までが充てられることになったのである。(M)
* 訂正 前回、小国民と書きましたが、少国民の誤りでした。

発音の学習(1)

Author: 土屋澄男

このブログを読んでくださる皆さんは英語の発音に自信がありますか。あまり自信がないとおっしゃる方が意外に多いのではないかと思います。英語の先生にもそういう方がおられるようです。少なくとも学校の英語の先生は発音が上手であってほしいですね。そうでないと、生徒は英語の授業が楽しくないのではないでしょうか。私が英語を好きになって本気で勉強する気になったのは、1945年の敗戦後でしたが、英語を担当してくださった先生が(満永という名の先生でした)、毎授業で読む教科書1~2ページを見事に朗読なさるのを聞いた時でした。ようし自分もあのくらい読めるようになるぞと決心して、家で毎日、教科書の朗読練習に励んだのでした。そしてとうとう、英語の先生になるために東京高等師範学校に入ったというわけです。

 一般に、日本人にとって英語の発音は習得が難しいと言われています。なぜでしょうか。一番大きな理由は、音韻体系(英語の音声システム)が日本語のそれと非常に違うからです。まず母音の数が日本語より多いことが日本人には厄介です(逆に、日本語を学ぶ英語話者はこの点で有利でしょう)。子音の数はそれほど違いませんが、子音が2つ以上つながる子音連続が日本語にないので難しくなります。Str- のように子音が3つ連続することもあります。日本語の音節は「子音+母音」が基本構造ですが、英語は「子音+母音+子音」が基本です。そしてその子音が2つ3つ連続することが多いのです。さらに語やフレーズの強勢の性質が違います。日本語はピッチアクセントといって音の上がり下がりが基本であるのに対して、英語は強弱が基本です。リズムのパタンも非常に違う、などなど。こういうわけで、すでに日本語の音韻体系をがっちりと身につけた日本人には、英語の発音が難しいと感じるのは当然のことです。しかも正しく発音するためには頭の中の知識だけではだめで、実際の発音に関係する器官(舌、唇,口蓋、声帯、肺など)を完全にコントロールすることが必要になります。その完全な習得には、おそらく体操選手が床運動の演技を無難にこなすくらいの(鉄棒ですと落ちて怪我をします!)多量の訓練が必要になります。外国語の学習を発音だけに限ると、おそらくイタリア語やスペイン語のほうが日本人にはずっと易しいと思われます。なぜなら、これらの言語のほうが、音韻構造の点で英語よりもずっと日本語に類似しているからです。英語の発音でつまずいた方には、イタリア語かスペイン語をお薦めします(私はスペイン語をためしたことがあります)。

 さて、どのようにしたら英語の発音が進歩するでしょうか。私がお薦めするのは次の方法です。まず易しい英文(中学校2年生程度の英文で、会話よりも物語がよい)を1課くらい朗読して録音してみてください。2,3回練習してから録音するのがよいでしょう。次にその英文の朗読モデル(最近の学習用テキストにはたいていネイティブ・スピーカーの朗読CDがついています)を聴いて自分の朗読と比べてみてください。漠然と聞くよりも、いくつかのポイントを決めて注意深く何回も聴き比べてください。個々の母音や子音も大切なのですが、それよりも、全体的な調子(音の変化)に注意することが大切です。なぜなら、個々の音が不正確でも通じることが多いのですが、リズムや音調が違っていては通じないのです。つまり、あなたの英語が英語らしく聞こえないのです。具体的には、次の点に順に注意して比べてください。1)読む速度、2)センテンスの途中での区切り(微妙ですから注意深く聴いてください)、3)区切る直前の音調(声の上がり下がり)の変化、4)センテンスの末尾での音調の変化、5)チャンク(ひと区切りの音のかたまりのこと)の中の強勢(強く発音される音節)の位置、6)強弱の変化から自然に生じるリズム。注意すべきことはほかにもありますが、これら6つのポイントが特に大切です。モデルの朗読と自分の朗読を比べてこれらの違いが分かるようになったら、あなたの英語朗読は一段と向上するはずです。向上の第一歩は、その違いに気づくことです。現代教育学者の多くは、「学習は気づくこと(awareness)に始まる」と考えています。

 しかし発音練習はこれで完了ではありません。あなたが運動選手ならば、これだけではまだ人に見せられる床運動にはなりません。鉄棒演技ならばこれからもしばしば落下することになるでしょう。発音の学習にはまだ先があります。(To be continued)

「英語学習のモデル」
(1)先月(9月)の中ごろに、あるトーク番組(確か「はなまるカフェ」)でタレントの早見優が出演していたので、私は興味を持って彼女の話を聞きました。1980年代の終わりの頃だったでしょうか、「百万人の英語」というラジオ番組で、講師の田崎清忠さんが、「早見優の英語は日本人学習者のモデルにしてはならない」と批判したことがありました。この番組はとても人気があったので、一部では反響も大きかったようです。

(2)早見優は、1966年、静岡県生まれのタレントで、アイドル歌手としてデビューをしていますが、3歳から7歳まではガム島、その後14歳までハワイで育っていますので、デビュー当初は、“バイリンギャル”と呼ばれました。したがって、「百万人の英語」にも出演していました。その英語が批判されたのですから、「早見・田崎論争」と捉える人もいましたが、私の知る限り、早見優側から反論があったとは聞いていません。

(3)現在の NHK テレビの外国語学習番組を見てみれば分かるように、「楽しければよい」というのが基本方針のようで、発音とか文法とかに明確な基準を設けているとはとても思えません。学校の英語教室にしても、ALT などの英語力の基準はまちまちで、インド人やマレーシア人なども参加させるべきだという声もあります。これは簡単に結論を出せる問題ではありませんので、今後もいろいろな機会に少しずつ取り上げてみたいと思っています。

(4)ところで、上述の早見優のトークを聞いて、私は安心感を覚えたというのが正直なところです。男性の偏見と言われるでしょうが、40代、50代のご婦人が話すと、妙に自信があって人を見下すような嫌味を感じることが多いのですが、彼女にはそういうところが全くありませんでした。二児の母親(1996年に結婚)らしい落ち着いた、謙虚な感じの良さが残りました。今月(10月)の末には、「徹子の部屋」に出演予定があるようですから、関心のある方は聞いてみて下さい。

(5)バラエティ番組に出る英米人が、流暢な日本語を話すのを聞くと、「自分も英米人のように英語を話せるようになりたい」と考えるのは自然なことかも知れませんが、彼らは見えないところで、必死の努力をしているのが普通です。その見える結果だけを見て、「憧れる」だけでは役に立たないことを知るべきだと思います。(この回終り)

< ひよわな花・日本 (2) >            松山 薫

ブレジンスキーが滞在した1971年の日本は、直前に世界第二の経済大国になり、
世界中がその経済成長を「東洋の奇跡」と称えていた時代であり、前途は洋々たるものであるようにみえた。こうした中でブレジンスキーは、日本を”ひよわな花“と断じ、冷水を浴びせたのであるから、多くの日本人が聞く耳を持たなかったのは当然かもしれない。しかしブレジンスキーには、そう断ずる根拠があった。それは、1.日本の地政学的な位置 2.(領土を含む)直接統制下にある物的資産の不足 3.真の内的自信の欠如 であった。それから40年、日本政府、日本人はこれらの弱点を克服する努力をしてきたであろうか。今回の尖閣問題は、その答えがNO.であることを世界にさらすことになった。一方当時後進国に過ぎなかった中国は、いまや押しも押されもせぬ超大国になった。つまり、日本は予言どおり米中両超大国の谷間に咲く“ひよわな花”になってしまっていたのである。その主たる責任は長期展望を欠いた日本政府にある。“その都度外交”こそが、平和国家日本の生きる道であると公言した首相さえいた。しかし、そのような政府を容認してきた国民にも責任はあるだろう。
1960年代は、アフリカ諸国が次々に独立した年代である。その頃私は、一日の仕事が終わると、その日にたまった外電の束を読むことを日課にしていた。そこで気付いたのは、建国間もない後進国の共産中国が、独立したアフリカ諸国に次々に使節団を送り、経済、技術援助を約束していることだった。50を超えるアフリカ諸国は、中国の国連入りに絶対不可欠の票田でもあった。この時、日本政府は、レアメタル獲得のため、南アフリカの白人政府を援助し、アパルトヘイトに反撥するアフリカ諸国の憤激をかっていた。中国が国連入りをめざして、もう一つ決断しことがある。核兵器の開発である。毛沢東は、「中国人民は、パンツをはかなくても、原爆を持つ」と宣言した。国連が安全保障機構であり、その意思決定機関である安保理の中核をなす常任理事国は、核兵器を持たずには務まらないと考えたからだろう。もうひとつの常任理事国フランスも、ドゴールの中級国家論に基づいて核兵器を持った。その選択の善悪は別にして、それぞれに長期展望を踏まえての決断であったことは確かだ。
さて、ブレジンスキーに戻ろう。彼はこの著書の中で、日本の生きる道として、国連安保理の常任理事国になることを勧めている。もちろん核抜きだ。日本政府も現在、ドイツ、インド、ブラジルと共に安保理常任理事国入りを目指している。その努力を40年前に始めるべきであったのだ。ブレジンスキーはこの本の前書きで、これは、日本の友に捧げる忠言であると書いている。彼の提言に耳を傾け、彼の指摘した脆弱性を克服するため、国のあり方を真剣に考えていれば、今日のような事態に陥ることはなかっただろう。ブレジンスキーは現オバマ政権の外交顧問であり、アメリカの外交政策に隠然たる影響力を持っているという。冷徹な国際政治学者の目で日本の行く末を見つめながらも、日本に魅了され、日本人に心からの愛情を感じて日本を去ったと言う彼は、今どういう思いで、尖閣問題をみているのであろうか。
ところで、偉そうなことを言った以上、それではお前はどんなことをして来たのかと問われるはずだから、そのうちに、ブレジンスキーの指摘をふまえて、私の安全保障論を書いてみたい。(M)

今年は異常に暑い夏でした。その盛夏の真っ最中に行なわれた「英語言語文化学会」の例会(8月19日)で、私は「言語学習の諸相——自律、メタ認知、ストラテジー」と題する小講演をしました。そこで取り上げたトピックをなぞり、言い足りなかったことを少し付け加えて、これまで9回にわたってブログに書いてきました。今回をもって総論的な話は終わりにして、次回からいわば各論に入りたいと考えています。

 さて総論の最後は「ストラテジー」の話です。このトピックは1970年代に第2言語習得研究が世界的な広がりをみせて間もなく、多くの研究者がこの問題に関心を持ちました。そのきっかけとなった論文の一つが、社会言語学者ルービン(Joan Rubin)の “What the ‘Good Language Learner’ Can Teach Us” (1975)であったと言われています。ルービンは、第2言語または外国語の学習に成功する人の用いるストラテジーをしらべました。そのために多くの授業を直接またヴィデオで観察し、学習者にどんなストラテジーを用いたかを語らせ、自分自身の言語学習体験を分析し、指導者から観察を引き出すなどしました。その結果、「良い言語学習者」には次のような行動特性が見られることを発見しました。1)推測を好み、正確に当てる、2)人とコミュニケーションしようとする強い意欲を持つ、3)しばしば学習している言語の未熟さをさらけ出し、間違いをおかすことを恐れない、4)言語形式に注意をはらう、5)練習する、6)自分の言語をモニターし、ネイティブの基準と比較する、7)言語の意味・使われ方に注意をはらう。

 ここには興味ある学習者の姿が描かれていて、研究者たちの興味を惹きました。しかしこれら7項目は「良い言語学習者」の特質のようなものであって、ストラテジーそのものではありません。ルービン以降今日まで、そのことをめぐって多くの議論がなされました。まず、ストラテジーをもっと明確に定義する必要がありました。それは、一般には「言語の知識と技能を獲得するために学習者が用いるさまざまなテクニックや方略」を意味します。それは必ずしも間違いではありませんが、「学習者が用いるさまざまなテクニックや方略」という表現がやや漠然としています。そこには学習者がすでに身につけている技能というニュアンスがあります。ここを「学習者が意識的に選択する活動」とするとより明確になります。「活動」には目に見える身体的活動だけでなく、目に見えない心的な活動も含まれます。むしろ、学習者がストラテジーを選択し使用する活動の大部分は心の中で起こると言ってよいでしょう。人が行動を起こす時には通常、何らかの意思決定がなされ、意識の働きが伴うからです。そして自動的に使用されるように見えるストラテジーでも、そこに意識がまったく働いていないわけではありません。「自動的」というのは、自分の中で意識が働いていることに当人が気づかないだけのことです。ストラテジーをこのように定義することで、学習者の用いるストラテジーをかなり客観的に記述できるようになりました。

 ところで新しい言語に取り組むとき、私たちは学習課題ごとにさまざまなストラテジーを工夫して用います。日本語にはない英語の発音の区別(たとえばrとl )に習熟しようとするとき、皆さんはどんなストラテジーを用いましたか。テープに倣ってもっぱら反復したという人もあるでしょう(それでうまくいきましたか)。自分の発音をテープに録音して、母語話者のモデルと比較したという人もあるでしょう。耳だけではうまくいかないので、英語音声学の解説を読んだと言う人もあるかもしれません。たいていの人はそれらのストラテジーのいくつかを組み合わせて使います。学習に成功する人はそういうことが上手にできる人だということができます。これは大切なことです。英語を学ぶときには英語の上手な人の用いるストラテジーを観察し、その中から自分に合ったものをいくつか組み合わせて使うことが学習成功の早道だとされています。しかしおもしろいことに、実際になされたストラテジーの研究の多くは、学校の授業で教えられるストラテジーはあまり効果がないという結果を示しています。その大きな理由は、私の推理では、大部分の生徒が先生の話を自分自身の学習ストラテジーに結びつけて考えていないからでしょう。自分自身の問題として考えなければ、どんなよいストラテジーも絵に描いた餅のようなものです。(土屋澄男)

眼球運動測定

Author: 田崎清忠

 電車は比較的すいています。あなたは窓を背にして座っています。あなたの目は何を見ていますか。たいへん興味ある実験データがあります。あなたの目は、決して一カ所を見つめることがなく、常にその視線を移動させています。目の前にチョー美人が腰掛けていたりすると、その人を見つめるのは失礼と分かっていても、車内のあちらこちらを見回したあげく結局その女性に視線が戻ってきます。男性は女性に、しかも若くて自分の好みにあった女性に、視線を戻す傾向があります。女性は、男性を見つめることよりも、向かい側に座っている女性を気にします。特に化粧、服装、持ち物などに視線を向け、心の中で自分と比較したり、「まあ、なんて下品なんでしょ」と批判したりします。「目は心の窓」と言いますが、まさにその通り。ホモの傾向がある男女は、何と同性に視線を向ける傾向があることを、実験データは示しています。

 視線の動きを調べるのに用いられるのが「アイ・カメラ」(eye camera)です。被験者の角膜に光を投影し眼球運動を反射光の動きでとらえる装置で、20世紀初頭から開発が進み、現在では人間工学、心理学、医学、教育学、そして産業のさまざまな分野で活用されています。人間には目があり、その目はその人がもっとも興味ある対象を見る・・・という傾向を科学的に解析し、応用しているのです。記録上もっとも早く眼球運動測定の原理を広告の分野で利用したのは、1938年9月号の月刊誌「ルック」(Look)だと言われています。被験者に広告作品を見せて、被験者の目の動きや注視時間を記録し、広告のもつ構成要素の注目度を測定しました。この手法は、その後広告の作り方だけではなく、ショーウインドーのデイスプレイや、商品のパッケージ・デザインなどに幅広く活用されるようになりました。私がテレビ英語会話番組を担当するようになったのは、1961年のことですが、画面を見ている視聴者の視線を理解するためにアイ・カメラを導入出来ないかと考えたのも、ちょうどこの頃のことでした。視聴者は英語を学ぶ目的でテレビを見ているのであって、映像が与える情報が少しでも「注意をそらす」(distracting)ようなものであってはならず、そのために視聴者の視線の動きをチェックしたいと思ったのでした。もちろん、番組制作にアイ・カメラを使うような予算に余裕がある筈もなく、これは単なるアイデアに終わりました。

 「センセイはどんな女性がお好きですか」と不謹慎な教え子が私に質問することがあります。「なんたって丸顔だな。丸いのはいいなァ」という返事。「丸けりゃいいってモンじゃないでしょう、センセイ。団子や饅頭じゃあるまいし」教え子は遠慮なく侮蔑の眼差しを向けます。ふと考えます。ハリウッドの俳優で好きなのは、男性はブラッド・ピット(Brad Pitt)、女優はアン・ハサウエイ(Anne Hathaway)。両人とも丸顔じゃない。「キノコはばい菌だから食べない!」と言いながら、松茸の土瓶蒸しは「うまい、うまい」と喜ぶ私。「ゼンゼンつじつまがあってないじゃありませんか」とまた教え子に軽蔑されそうです。

「このブログの目的」のこと
(1)桐英会ブログも読者が増えて、多くの方々に読まれるようになってきたのは有難いことですが、ある知人から「私の住んでいる地域では、ご指摘のような番組が視聴できないものがあるのですが」という私信をもらいました。確かに私が言及しているのは、東京地区で視聴できるものに限られています。しかし、こう言っては大変おこがましく聞こえるでしょうが、私がこのブログで目指しているのは、一般的なテレビ番組の見方、考え方です。

(2)特に「ことば遣い」という視点から、視聴者は番組をどう見るべきかを読者の皆さんと共に考えたいと思っています。ですから私の挙げる番組は、1つの例として、他の番組を視聴する場合に応用して頂きたいのです。「私のテレビ批評」と名付けたのも、そういう意図があったことをご了解願えれば幸いです。

「テレビの“食べる場面”」について
(1)映画やテレビドラマでは、家族が食事をする場面というのはよくあるわけですが、テレビ番組では、どうも違った目的があるようです。私が好きでないのは、トーク番組での“食べる場面”です。無様なのは、 TBS の「時事放談」で、これから深刻な政治問題を語ろうというときに、カレーライスや丼ものを出したりしています。ゲストは一口くらいしか食べませんから、残り物がそのまま番組終了まで映っていることがよくありました。

(2)同じ TBS 系の「はなまるマーケット」では、「はなまるカフェ」というゲストの話を聞くコーナーで、ゲストが要望した麺類や菓子などを出していて、それを“おめざ”と呼んでいます。広辞苑では“おめざ”は、「子供が目をさました時に与える菓子の類」としていますから、いい大人が、朝の9時頃に“おめざ”とは、言語感覚の欠如した話だと思います。でも、テレビの影響力は大きいですから、経済現象の「悪貨は良貨を駆逐する」という法則のように、いずれ間違った用法が正しい用法を駆逐してしまうのでしょう。

(3)視聴者のグルメ志向に応じて、グルメ紹介の番組が多いのは仕方がないとしても、どの局も似たような番組の連続には、いささかうんざりします。“グルメ・リポーター”という役目をするタレントや俳優がいて、その一人、彦摩呂のように、出演の度に食べていて、最高 100キロを超すほど見事に太ってしまった場合もあります。ホンジャマカの“石ちゃん”こと、石塚英彦(49歳、130キロ)は、やせたら出る番組がなくなるでしょうね。まさに命がけの仕事です。そして、ネットでは「いい年をしてブリっ子ぶるな」などと悪口を言われるのですから哀れなものです。

(4)「ボクらの時代」(フジテレビ系)は、芸能人、映画監督、音楽家など、あらゆる分野で友人、知人関係にある3人が話し合うトーク番組ですが、話し合うことが目的で、無駄な飲食などが無いのは好感が持てます。女性も参加していますが、このタイトルで違和感がないのかな、と私は少し気になります。
(この回終り)

自律的言語学習者

Author: 土屋澄男

最近の英語教育ではしばしば「自律」(または「オートノミー」)ということが話題になります。大修館書店の『英語教育』でも「自律的学習者を育てるための教師の役割」という特集を組んだことがありました(2008年2月号)。この雑誌で「自律」のテーマを取り上げたのは初めてだったと思います。私の所属する「英語動機づけ研究会」でも過去3年間このテーマに取り組みました。その理由は、英語教育においてもっとも重要な課題は「良い言語学習者を育てる」ことであり、英語動機づけの研究を進めていく過程で、必然的に「自律的学習者を育てる」というテーマに突き当たったからです。

 そこでまず「自律」とは何かの話から始めなければならないのですが、詳しくは前掲雑誌の青木直子氏による冒頭論文「学習者オートノミーを育てる教師の役割」にゆずることにして、ここではそこに挙げられている定義だけを借用します。それによれば、学習者オートノミーとは、「人が何らかの理由で何かを学ぼうと思った時に、学習の内容や方法を自分で選択して計画を立て、その計画を実行して成果を評価する力」と定義されています。つまり、学習者が「自分自身の学習をコントロールする力」です。すると「自律」とは、前々回に私が述べた「メタ認知力」そのものであるということに気がつきます。つまり、自律的学習者とはメタ認知的能力と技能を身につけた学習者だということです。そのことに驚かれる読者もあるかと思いますが、「なーんだ、そういうことか」とがっかりなさる方もあるかもしれません。私の感じでは、「メタ認知力を身につけた学習者」よりも、「自律性を身につけた学習者」または「自律的学習者」としたほうが一般の方には理解しやすいのではないかと思います。

 では、自律的学習者とは具体的にどういう学習者でしょうか。一般的に言うと、メタ認知と自己動機づけの技能を持ち、それを行動に移すことのできる人ということになりますが、それでは漠然としていますね。もう少し具体的に述べる必要があるでしょう。自律的学習者は、自分自身の言語学習について、少なくとも次のような事柄を考えて実行する人です。1)学習目標を立てる:言語を学ぶことによって何をしたいのか。自分にとってそれは達成可能か。現実的に達成可能な目標は何か。2)学習計画を立てる:目標に至るまでにどんなステップを設定し、それぞれにどれくらいの時間をかけるか。自分のプランを学校の授業などとどう調和させるか。3)学習方略(ストラテジー)を選択する:発音や文字や文法をどのように学習するか。単語・イディオム(熟語・慣用句など)をどのように記憶するか。聴き方・話し方・読み方・書き方の技能をどのように身につけるか。学校の教科書や教材をどのように利用するか。自分の得た言語知識をどうまとめるか。4)学習をモニターする:学習の進行状態をどのようにモニターするか。ノートに記録するとして、どのような項目を立てるか。誰に点検してもらうか。5)学習を評価する:学習成果を評価するために、どんな問題集や検定試験を利用するか。学校でのテストをどのように利用するか。6)学習意欲を駆り立てる:自分自身のやる気を高めるためにどんなことができるか。自分に合った動機づけの方法は何か。

 上の1)から6)の記述を一覧して、自律学習がそのようなものであるとすれば、現在の日本の教育システムではできそうもないと考える読者もおられるかもしれません。たしかに難しいけれど、私は不可能であるとは思いません。なぜなら、英語や他の外国語の学習に成功した人たちはこれまでにも多数存在しましたし、その人たちはそういう条件の下でも自分なりに自主的・自律的学習を実行したに違いないからです。つまり、教育システムは理想的なものでなくても、学習者が自分に与えられた環境をうまく利用できれば、自分の目標を達成することは可能なのです。自律学習というのは、独りで学ぶ自立学習とは違います。言語学習はコミュニティーの中にあってこそ発達するものですから、学校の教室は利用の仕方によっては(そして自律学習に理解のある指導者が必要ですが)言語学習の良好なコミュニティーになり得ます。自律学習にとって大切なことは、自分自身の学習のプロセス(目標・内容・方法・モニター・評価など)を自分の納得のいくまで考え、適切な選択をし、実行に移すこと、そして学習結果の責任を他に転嫁せずに自分で負う覚悟をすることです。

< ひよわな花・日本 (1)>          松山 薫

尖閣諸島をめぐる日本と中国の row 特に、日本政府の迷走振りを見て、随分前に読んだ本を思い出したので、古本を買ってもう一度読んでみた。その書名が「ひよわな花・日本」“ The Fragile Blossom “ crisis and change in Japan である。著者はポーランド生まれのアメリカ人国際政治学者で、カーター政権の安全保障問題担当補佐官をつとめたズビグネフ・ブレジンスキーである。この本は、彼が1971年に日本に半年ほど滞在した後に書いたもので、日本の将来について23項目の予言を提示している。もちろん冷戦終結以前のことなので、全て当たっているわけではないが、極めて正確な予言、或いはこれから当たるかもしれない予言を含んでいる。いくつかを列記するので、これらが40年前の予言であることを心にとめて読んでいただきたい。

1.国内の社会問題に関心が集中していくにつれて、社会的コンセンサスが弱まり、さらには破壊される可能性がある。
2.経済不況の発生は、日本の民主主義と日米間の絆を脅かしかねない。いずれも、依然として弱体の域を脱していないからである。
3.日本の政局は安泰にサヨナラを告げる。その代わりに、政権を握る指導部内で勢力再編成が頻繁に繰り返され、ある程度の政治的混乱さえ起こるであろう。
4.コンセンサスと集団責任制に重点を置いた日本が誇る意思決定方式が、もっと危機的な状況の下でも、順調に働くかどうかは疑問である。
5.中国は今後とも、日本にとって格別魅力ある対象としての地位を持ち続け、・・・同時に、日本国内の先鋭な政治的分裂のタネになるだろう。
6. 円問題について日本が譲るとすれば、本格的な国際通貨危機に直面させられる時だけで、それ以前ではあるまい。
7.日米関係の三つの根本問題、経済、安全保障、地位、は、2国間だけの枠内では解決できない。
8.国際情勢が根本的に悪化し、同時にアメリカが孤立主義をさらに強め、日本がその戦略的防衛を自ら引き受けざるを得なくなれば、核武装を選ぶことになるだろう。

1−7の予言は、今日の日本を言い当てていると思う。予言8があたらなかったのは、
その前提条件である3項目が同時に起きることがなかったからであるが、今後も起きないかどうかはわからない。その時日本はどうするのか。
次回は、ブレジンスキーが、これらの予言を提示し、日本が米中の谷間に咲く”ひよわな花“であると結論付けた根拠は何であったのか、それは現在の尖閣問題や日中関係にどんな影を落としているかについて私見を述べてみたい。(M)