Archive for 2月, 2011

「テレビは“あわただしい”」ということ
(1)テレビ番組、特に民放のものの多くは、“あわただしい”感じが強くて、見ていて落ち着きません。そういうものが好きだという人もいるでしょうが、少なくとも年配者向きではありません。そして、テレビ制作に関わっている人たちは、大変に忙しい思いをしていると思います。まだ主要なポストには男性が多いでしょうが、家庭(妻や子ども)を犠牲にしているのではないでしょうか。私の邪推であればよいのですが。

(2)1つには、発言者を集め過ぎるということがあります。時間が限られているので、最後の方は駆け足になりがちです。もう1つは、制作関係者には、常に動く映像を画面に流していないといけない、といった強迫観念のようなものがある気がします。それで、音声のない“動画”を流し、発言者の顔は小さく画面の隅に出すようなことをします。この小さな画面(円や四角形または多角形の窓)を業界用語では、“ワイプ(wipe)”と呼ぶようですが、私は大きさが逆だと思うのです。ある発言を聞くときには、その人の顔を見たいというのは自然な欲求ですから、発言者の顔をはっきり見せるべきです。

(3)そうかと思うと、2月24日の夜には、日本テレビには、「つるべの超ゆるーい会議」という4時間番組がありました。題名はのんびりとしていますが、これもタレントを多数集めたもので、内容は希薄でした。笑福亭鶴瓶の提示する疑問は、「なぜ緑の信号を青信号と言うのか」とか「日本人はなぜ英語ができないのか」といった日本文化や国民性に関係がある興味深い主題なのですから、その回答や解説は、もっとテキパキと示してくれたほうが印象に残りやすかったと思います。

「倫理感の欠けた番組」のこと
(1)とにかくテレビは「面白おかしくしよう」という意図だけが露骨です。タレントの“杉田かおる”などは、もう怖いものがいない年齢なのか、プロデューサーに、“ああ言え、こう言え”と指示されたと平気でしゃべっています。つまり自然に見える発言も、すべて演出されているのです。日本テレビには、長寿番組の1つに“笑点”があります。1966(昭和41)年開始で、人気もあります。しかし、だいぶ昔ですが、回答のリハーサルをしている暴露番組をやっていました。つまりその場で即答しているように見えますが、すべて予行してあるわけです。

(2)テレビ朝日の“お試しかっ!”という番組では、タレントたちに、ある食べ物の人気順位を当てるまでその食品を無理に完食させるのです。アフリカの各地や、まだ地震の災害に苦しむハイチなどでは、食料不足で、大勢の子どもたちが死んでいるという報道の直後にこういう“無駄な大食い”の番組を流すのですから、その無神経さには腹が立ちます。

(3)ただし、日曜日の朝にやっている“がっちりマンデー”は、会社や役所の裏を見せながら、(企業秘密で見せてくれないところもありますが)知らないことを教えてくれ、“月曜から自分に役立てろ”という番組です。司会の加藤浩次は悪声ですが、適度の突っ込みなどは好感を持てます。こういう長所は伸ばしてほしいものです。(この回終り)

< 教師失格 >  松山 薫

“仰げば尊としわが師の恩”という歌の原曲が最近アメリカで見つかったと報じられた。この歌は、私が教師をしていた頃は卒業式の定番だった。最初に3年間担任をした生徒達が卒業を迎えた時、ホームルームで「お前たちあの歌うたうのか」と聞いてみたら、「歌う」という。だったらオレは卒業式には耳に綿を詰めて出席するからというと、じゃあ記念にその綿をくれと言う生徒がいて教室はどっと沸いた。私も笑ってしまったが、もしかして、これは痛烈な皮肉だったのではないか。菊池校長が私に教えてくれたようなことを、3つ4つしか年の違わない私が生徒達に教えられるわけがないし、私が3年間やったことは、英語のinstructorとしての仕事に過ぎず、教師としては間違いなく落第点しかもらえなかったから、卒業式でこんな歌を目の前で歌われたら、小便をちびるのではないかと本気で思った。
 高等師範学校を卒業した時、茗渓会の幹事の先輩から、教師として絶対にしてはならないことがる、それは「50分の1」だと教えられた。当時1学級の定員は50人だったので、なかなか目が届かないだろうが、親にとってはかけがえのない1人であることを忘れるな、また、50人のうちの1人を偏愛してはならない、という教えだった。ところが、なにしろ栃尾は新潟でも有名な美人の産地で、とにかく、もう最初から1人の女生徒にメロメロになった。これだけでもう十分に教師失格である。その上、夜は酒ばかり飲んでいて、校長から厳しく言われた家庭訪問も半分くらいで時間切れになった。そのせいか、次々に問題が起きた。生徒の書店での万引き、修学旅行費の盗難、それに家出や暴力沙汰など、どれも満足に解決できず、力不足を思い知らされた。どうしてこうなるのかと考えて、自分が本気で一生教師として生きるつもりがないからだと思い至った。こうゆう中途半端な気持ちで教師をしていたら、生徒達が被害者になる。だから、二つめの学校では学級担任を断った。そうしたら教師生活が結構楽しくなったから、最初から教師には向いていなかったのだ。菊池先生のように、教育者と言われるような教師には到底なれないし、どこかで、そうなることを拒否する気持ちもあった。気持ちが徐々に教師廃業へ傾いていった時、自民党の後押しで、文部省が教員の勤務評定制度を強行した。その評定項目を見て、怒るよりあきれた。こんな評定をされながら、たった一度の人生を送ることなど、私には到底考えられなかったから、これで教師廃業の決心がついた。同時に日本の教育はこれによって破壊されていくだろうと思わざるを得なかった。こういう制度の下では、菊池校長のような教育者は生まれようがないからである。今でも、政治家や役人に、あなた方が考える教育者とはどんな人物像で、どうすればそういう教育者が生まれると考えているのか聞いてみたい。 
 とにかく、”先生”と呼ばれなくなってホッとした。「茅ヶ崎方式英語会」の皆さんにも、私を“先生”と呼ぶなと言い渡してある。私は英語を教えるinstructorではあっても、教師ではないし、ましてや教育者ではないからだ。それでも新しく入った人達はそう呼ぶので最近はあきらめ加減だが、これを読んだ英語会の諸君よ、”先生“はやめてくれ。政治家達が互いに「〇〇先生」などと呼び合っているのを聞くと反吐が出そうになることもあったが、彼等のほとんどが、その程度の人間なのだと考えて、聞き流すことにしてきた。最近はそれが誰の目にもわかるように実証されつつあるようだ。人間形成にかかわる学校の教師と、生命を預かる医師のほかは先生と呼ぶなというのが私の持論である。(M)

英語語彙の学習(4)

Author: 土屋澄男

前回は、個人の学習目的が何であれ、英語という言語を構成している基礎語彙2000~3000語は最初にしっかり覚えてしまわなければならない、それにはどうしたらよいかということでした。しかしここで疑問となることがいくつかあります。第1に2000~3000というのは幅がありすぎてはっきりしない、2000と3000ではずいぶん違うではないか、という疑問です。第2に語数というのは数え方によってかなり幅があるが、どのような数え方で2000語または3000語なのか、という疑問です。実はこの2つの疑問は関連していて、第2の疑問を考えないと第1の疑問に取りかかることはできないのです。そこでまず語をどう数えるかの問題から入ります。

 語の数え方はかなり複雑な問題ですので、いくつか例をあげて考えてみましょう。たとえば、次の語群はいくつの語として数えましょうか。

  speak, spoke, spoken, speaks, speaking, speaker

ある人は6語として数え、他の人は4語、2語、1語などと数えるでしょう。どれが正しい数え方とか、間違っているということは言えません。それぞれ理由があるからです。6語と答えた人は、それらの語はすべて形が異なるという理由をあげるでしょう。この数え方を「異なり語方式」と呼ぶことにします。4語と答えた人は、speak-spoke-spokenは動詞の活用形なので1語として数えると主張するでしょう。あるいはspeaksやspeakingを1語と数えていたのでは語数がやたらに増えてしまうと言う人もあるでしょう。speakerについは、これを1語として数えるかどうかで喧々囂々の議論があるかもしれません。このように、何をもって1語とするかは簡単なことではないのです。

 そこで辞書の見出し語はどうなっているかを見てみましょう。語数について議論するときに「見出し語方式」の数え方がよく使われるからです。ところが見出し語は辞書によってかなり違っていることが分かります。辞書が見出し語として扱っている語は、その辞書ではそれを1語と見なしていると考えてよいでしょう。ここで学習辞典の代表として、先に挙げた『アドバンスト・フェイバリット』と『OALD』(Oxford Advanced Learner’s Dictionary)に登場してもらい、speakとその関連語をどう扱っているかを見出し語でしらべてみましょう。

『アドバンスト・フェイバリット』:speak, speaker, speaking, spoke1(speakの過去形), spoke2(名詞), spoken

『OALD』:speak, speaker, spoke, spoken

このように『アドバンスト・フェイバリット』は6語を見出し語とし、『OALD』は4語を見出し語としています。もう少し詳しく見ると、spokeに関して、前者ではそれを語義の違いによって2語に分けていますが、後者ではその区別をしていません。このように同じ語形をすべて1語としてカウントする辞書と、語義や品詞によって異なる語に分けて記述する辞書とがあるわけです。かくて「見出し語方式」というのも、辞書によって異なっていることが分かります。

 ところで、中学生や高校生が学校で使う教科書はどうなっているでしょうか。検定教科書は文科省の作成する学習指導要領によってその内容が規制されています。2008年に改訂された中学校学習指導要領は、中学校3年間に指導すべき語を「1200語程度の語」としていますから、来年度から使用される中学校の検定教科書はすべて1200語程度の語彙で作成されるはずです。そして学習指導要領解説は、語数の数え方について、「綴りが同じ語は、品詞にかかわりなく1語として数え、動詞の語尾変化や、形容詞や副詞の比較変化などのうち規則的に変化するものは原則として1語とみなすことができる」と書いています。ですからspokeとspoke2のような区別は無視して1語とみなします。また、speak-spoke-spokenのような不規則変化をする動詞は別の語としてカウントしますが、speaksやspeakingは規則的な変化とみしカウントしません。この数え方を「指導要領方式」と呼ぶことにします。高等学校で新語として扱う2800語については中学校のような記述はないようですので、多くは同じ数え方をすると考えられますが、教科書によっては独自の数え方をするものもあるかもしれません。

 以上に「異なり語方式」、「見出し語方式」、「指導要領方式」という3通りの数え方を述べましたが、語の数え方はこれだけでは終わりません。派生語をどうするかで、語彙の研究家も辞書もいろいろな数え方をするのです。それを次回に見てみましょう。なお、こういう知識は学習者にはあまり関係のないことだと思うかもしれませんが、そうでしょうか。これは学習者の語彙学習に大きな影響を与えるはずだと私は考えます。(To be continued.)

(1)『おテレビ様と日本人』のこと
ある知人から、「前回は日本語批判の本を紹介してもらったが、“テレビ批評”に関する本があったら教えてほしい」と言われました。たまたま私の思い付くのは表題の本ですが、林秀彦著、(2009年、成甲書房刊、A5版、229ページ)で、表紙には“副題”のように、「『鳩子の海』のシナリオ作家、白痴化の元凶を斬る」とあります。

(2)ここには2つのキーワードがあります。1つは『鳩子の海』です。これは1974 年から’75 年にかけて放送された NHK の朝のテレビ小説で、そのシナリオを書いたのが、林秀彦氏で、登場人物の子役が歌った“にっぽんよ、にっぽん”という歌の作者でもあります。
 もう1つのキーワードは、「白痴化」です。これは戦後を代表する評論家、大宅壮一(1900−1970)が、1957年にある週刊誌に書いた言葉です。日本の家庭に白黒テレビがやっと普及し始めた頃、大宅氏は、テレビ番組を「国民を白痴化するもの」と厳しく批判したわけです(現在は“白痴化”や“白痴美”は差別用語とみなされます)。

(3)私は NHK のテレビ小説は昔からよく見てきたほうですが、中には全く思い出せないものもあれば、妙に印象に残っているものもあります。『鳩子の海』は後者に属するもので、終戦の前後に原爆被災地の広島から逃れてきた幼い女の子が、親切な人々に助けられながら成長していく物語です。戦後は、壷井栄の 『二十四の瞳』のように、反戦的な内容のものに私は関心があったものですから、『鳩子の海』にも、そういう雰囲気を感じて見ていました。

(4)ただし、この林氏の書物はタイトルからも分かるように、かなり皮肉のきいた厳しいもので、しかも、この著者は、これまでに放送、出版の関係者とかなり“けんか”もしているようなので、人によっては、私憤や私怨を晴らそうとしているだけではないかと不快に思うかも知れません。そういう点を割り引いても、私は読む価値があると思っています。

(5)NHK という“情報の殿堂”とも言えるメディアは、何か権威主義で、庶民には近寄りがたい感じを与えますが、それに手向かう姿を応援したくなる気持ちもあるのでしょう。NHK に関しては、もう40年くらい昔ですが、私は2つの異なる経験をしています。
① 私が中学校に勤めていたとき、NHKラジオで中学生向きの英語番組を持っていました。ある時、テレビの似たような番組に、私がシナリオを書いた会話部分(わずか数行ですが)が使われているのに気が付きました。私はむしろ光栄に思ったのですが、それを知ったプロデューサーは、すぐに詫び状と共に印税を送ってくれました。
② それから1年ほど後に、私の勤務校が変わって、同じ曜日では番組作成に協力出来ない恐れがあったので、少し待ってもらえるかどうか尋ねたところ、「それなら結構です」と担当のプロデューサーに言われました。この曖昧な日本語は、「そんなわがままを言うなら首だ」という意味だったのです。どんな団体にも裏表はあるでしょう。私たちは、どちらと直面しているかをできるだけ探りながら、判断する必要があると感じています。(この回終り)

< 韓流ドラマ「イ・サン」と「龍馬伝」>  松山 薫

NHK・BS2で1年半にわたって放映されていた韓国歴史ドラマ「イ・サン」が終った。このドラマは、大河ドラマ「龍馬伝」の再放送の直前に放映されていたので、自然に両者を比較することになったが、実を言うと、「イ・サン」の余韻を味わううちに、「龍馬伝」の方はどうでもよくなってしまった。

 「イ・サン」は、およそ500年の李氏朝鮮王朝の歴史の中で最も英明の誉れ高い第22代世祖・李祘(イ・サン)の波乱に満ちた50年の生涯を描いたものだが、十分に練り上げられ積み重ねられた77話の最後に訪れる悲劇は、自然な涙をさそった。ドラマであるから当然fictionがちりばめられているが、大筋は史実に沿って展開されている。イ・サンの父は、国王の世子であったが、謀反の疑いをかけられイ・サンが11歳の時に非業の死を遂げる。イ・サンは謀反人の子として宮廷内で疎んじられ時には暗殺の危険にさらされながら、学問に励み、24歳で王位についた。彼は、25年にわたる治世を通じ、身分制度を廃し、能力による人材の登用によって、自由で平等な国を創ろうと一貫して努力したといわれる。当然既得権にしがみつく旧守派とは命を懸けた対立が生じ、幾たびとなく危機にさらされるが、これを救うのが、才能豊かな新旧二人の側近と幼い頃から固く結ばれた二人の友であった。イ・サンが、重臣達の反対を押し切って自分の理想を貫いていく中で、その理想に共鳴し、彼を助けて献身的に働くこれら同志達の身分を超えた友情が見所である。しかし、彼は、身分を超え王位をかけてやっと結ばれた恋人と、世子となったその子供を相次いで病で失う。また心労と激務の中で、自身も差別のない国への夢半ばにして49歳の生涯を閉じた。反対派による毒殺という説もあるが、近年では、過労による悪性腫瘍が死因という見方が有力だという。それに、この歴史ドラマはシリアスな展開の中で、景福宮などの朝鮮の伝統的宮殿建築や見事な調度品などをふんだんに見せてくれる。つまりは視聴者に対するサービス精神にも満ちているのである。韓国ではTVドラマや映画は国策輸出品のようなので、かつて数十カ国で放映されたNHKの「おしん」がそうであったように、万国共通の人間愛の物語に、自国の伝統をからませて感動的な韓流ドラマに仕上げている。

 一方、NHK大河ドラマ「龍馬伝」の展開は、1人のエリート的人物を、周囲がよってたかって英雄に仕立て上げるというこれまでと同じ手法で、権力闘争の中での下克上はあっても、民衆との接点はほとんど見られない。大げさなテーマ音楽とともに延々と続く出演者やスタッフの名前の羅列など視聴者無視の自己満足にも辟易した。また、この二つの長編歴史ドラマを見比べていて、一部の人にしか必要のない高級機能を付加価値とする日本の電気製品が、実用機能に徹したサムスン、大宇、LGなどの韓国製品に中国や東南アジアなどで席捲されつつあることを想起せざるをえなかった。牽強付会の見方であろうか。

 ところで、昨年は日本の韓国併合100年の年であった。世祖から4代目に当たる高宗の妻、閔妃(ミンピ)が景福宮で日本人らによって暗殺され、次の代で朝鮮王朝は歴史を閉じ日本に併合された。閔妃暗殺の当時、日本外交を担っていたのは亀山社中、海援隊を通じての龍馬の側近、陸奥宗光であった。(M)

英語語彙の学習(3)

Author: 土屋澄男

前回に挙げた語彙学習の第1の問題点は、「自律性を欠いた学習語彙の選択」ということでした。自分の学習する語彙を自分で選択することについては、それはどういうことかと疑問を感じる読者がおられるかもしれません。中学生や高校生の場合には、学校で使用する教科書が学習テキストのすべてだから、語彙に関しては学習者の選択の自由は無いのではないかという疑問です。教科書に出てくる新語を片端から覚えるしかないではないか、というわけです。しかし、教科書の新語は記憶する価値のあるものばかりではありません。話題によっては特殊な語も出てきます。それにもかかわらず、中学生・高校生は教科書に出てくる未知語をすべて記憶しようとします。そういう学習を続けているうちに、語彙の学習とは未知語をひたすら覚えることだという受け身の態度を身につけてしまいます。ですから、学校を出て社会人になり、必要があって英語の再学習を始める人も、出合うテキストの未知語を抜き出し、ひたすら記憶しようとします。これは日本の英語教育が——日本だけではないかもしれません——長い間に培ってきた確固たる伝統的語彙学習習慣となっています。ここで問題にしようとしているのは、そういう無意識のうちに従っている学習者の伝統的学習習慣または態度です。

 では、学習者が伝統的学習習慣から脱却して、語彙学習にもっと自分の意志を反映させる積極的な態度を取るにはどうしたらよいでしょうか。考えられる一つの方法は、自分が目標とする英語語彙のサイズについての全体的見通しを得ることです。まず、語彙はどのくらい覚えたらよいのでしょうか。英語の語彙は無限ではありませんが、かなり大きなものです。ウェブスター第3版が45万語を収録していると誇っています(見出し語は26万余しかないそうです)。教育ある母語話者の推定語彙サイズは、調査によって2万語であったり5万語であったりしますが、それは語の数え方や調べ方によって違ってくるからです。チャーチルは6万語を使いこなしたそうですが、本当であればすごい数です。英語は私たち日本人にとって外国語ですから、母語話者と同じようなサイズの語彙を習得しようと考える必要はないし、やたらに語彙サイズにこだわるのは得策ではありません。せっかく努力して覚えても、使わない語は忘れますから、目標の定まらない語彙獲得の闘いが果てしなく続くことになります。私たちは、自分の必要とする語彙に狙いを定めて、それに習熟すればよいのです。

 しかしここで注意しなくてはならないことがあります。それは、目標の如何にかかわらず、基本となる2000~3000語くらいは知らないと話にならないということです。このことを示すデータがあります。次の数字は望月正道ほか著『英語語彙の指導マニュアル』(大修館書店)によりますが、BNC (British National Corpus) の話し言葉コーパスによると、もっとも頻度の高い1000語で1万語のコーパスの89%をカバーし、2000語で94%、3000語で96%、5000語で98%をカバーするとのことです(1000万語コーパスではこの率は下がります)。ここから直ちに結論が出るわけではありませんが、話し言葉を理解するには少なくとも2000語から3000語は必要だと言うことができます。望むらくは5000語ということになります。書き言葉は話し言葉とはいくらか違うでしょうが、基礎的な語彙に関してはほぼ共通していると考えられます。

 どういう語が1000語レベルで、どういう語が2000語、3000語、あるいは5000語のレベルであるかを知るには、わが国で出版されている学習用英和辞書の多くが見出し語に星印(*)を付けて示していますので、その情報を利用するとよいでしょう。この「桐英会ブログ」のレギュラー投稿者である浅野博氏は辞書編纂のベテランですが、彼が編者の一人となっている『アドバンスト・フェイバリット英和辞典』を見てみましょう。これは高校・大学レベルの学習者を対象としていると思われますが、見出し語のうち最々重要語(約1100語)に3つ星、最重要語(約2000語)に2つ星、重要語(約5000語)に1つ星を付けて、語の重要度を示しています。しかも3つ星と2つ星の見出し語は赤色で印刷されています。これは学習者にとって非常に有益な情報です。そういう語は必修語のようなもので、時々チェックして確認するのに利用できます。そして自分が基礎語をどの程度習得したかを自己評価することができます。

 さて、このような基礎的な重要語を身につけるためにはどうしたらよいでしょうか。それらの学習に主体的に取り組む方法はあるのでしょうか。また、中学校や高校の教科書はこれらの基礎語彙をきちんと扱っているのでしょうか。(To be continued.)

< フェイスブックの衝撃 > 松山 薫

13日の朝刊を見ながら、“明日は休刊日か”、と値引きもせずに勝手に発行を休む大新聞の身勝手にあきれながら、番組欄に目を通すと、フジTVの夜のニュース番組Mrサンデーのところに「緊急取材・会員6億世界を変えたIT企業」とあるのが目に留まった。facebookのことではないかと思って視聴したところやはりそうであった。私が知るところでは、日本の全国ネットTVがfacebookを本格的に採り上げたのは、これが初めてではないかと思う。実は私自身今年の初めまでfacebookを知らなかった。しかし、このインターネットメディアの内容を知った時、正直足が震えた。私が心のどこかで待っていたメディアがついに現れた。これは世界を変えるかもしれないと直感したのである。2月のはじめ、茅ヶ崎方式英語会の中心メンバーが集まったところで「facebook知ってるか」と尋ねたところ誰も知らなかったから、日本での認知度はきわめて低いと言っていいだろう。しかし、私の考えではこれはどえらいメディアなのだ。

Mr.サンデーの言う「世界を変えた」とは、エジプトの民衆革命のことである。このことは既に欧米のメディアでは報じられており、後追い取材で、フジTVがカリフォルニアのfacebook本社を取材したのである。番組の内容は大したことはなかったが、これを見ながら、民放key局が採り上げざるを得なくなったことで、今年は日本における「facebook元年」になるのではないか」と感じた。今、日本のマスメディアは、出版と新聞が電子書籍の本格的展開を前に右往左往しているし、TVは7月の地上波デジタル化に活路を見出そうとしているようだが、小澤、菅などのインタビューを中継したインターネットTV、尖閣での巡視船と中国船の衝突を流したユーチューブそしてfacebookなどの新しいメディアに脅威を感じているはずだ。いづれにしても、寡占状態に胡坐をかいてきた既存のマスメディアは、その存在価値を問われているのだが、それを正直に報道すれば、自分の首を絞めかねないから、右顧左眄視ながら様子見をしているのが現状であろう。

新旧メディアの決定的な違いは、情報の伝達にカネがかるか、かからないかであり、旧メディアが巨大資本を必要としたのに対し、インターネットを活用した新しいメディアは、利用にほとんどカネがかからない。つまり、カネのない民衆が大量伝達の手段を持ったところに歴史的な意義がある。それを如実に示したのが、チュニジア、エジプト革命におけるfacebookの役割である。グーグルの幹部の1人が、facebookで独裁政権に対する民衆の蜂起を呼びかけたのが革命のきっかけである。この幹部は、彼の呼びかけによって起きたデモの中で、多くの若者が死んだことを号泣しながら詫びた。これが、デモをさらに拡大させ、ついにムバラク政権を退陣に追い込んだのが今回の経過だ。

実名と顔写真を出した個人の真摯な叫びが、多くの人達の心を打ったのだ。facebookが、
ミクシイなど他のSNSと異なる点は、徹底した実名主義である。それが信頼感を生むのである。ハーバード大学の学生がfacebookを始めてから2年しか経っていないが、会員数は6億人をこえ、アクセス数でグーグルを抜いて世界一になった。欧米では11人に1人がfacebookのaccountに登録しているという。ロンドンの知人からは、最近エリザベス女王がfacebookに登録し、話題になっていると知らせてきた。これは軽くない話題である。その意味するところを我々は十分に考えてみる必要がある。日本人は、横並び主義で、表立つことを嫌うから、実名主義はなかなか受け入れられないだろうという人もいる。しかし、私は、匿名という隠れ蓑の中で他者を誹謗中傷するような卑怯な文化がこの国の伝統であるとは信じたくない。実名主義が広がることを心から願っている。(M)

(1)TBS では、2月8日からの週を「ココロ元気 WEEK」と称して、ラジオを含めて、いくつかの番組では冒頭に視聴者からの「いい話」などを紹介していました。最近は暗いニュースが多いので、明るい話題を伝えたいという気持ちは分かりますし、実際に明るい、心温まる話を聞くと気分も良くなります。

(2)ただし、私が気に食わないのは、「ココロ元気 WEEK」という表わし方です。どうして、カタカナ、漢字、英語と3つも混ぜて表記するのでしょうか。おかしな英語混じりの表記は、若い人たちの歌でうんざりしていますが、番組名まで表記方法がでたらめなのは全く理解できません。

(3)フジテレビでは「スクール」という題のドラマを放送していますが、確かに「学校」ではドラマの題になりにくいかも知れません。でも昔は、「3年B組 金八先生」といった分かりやすい題名のドラマが評判になりました。最近は仲間由紀恵が演じる舞台の「テンペスト」は、シェークスピアとは関係のない琉球ロマンだ、などと言われたりすると、頭が混乱してしまいます。

(4)日本語は、カタカナ、ひらがな、漢字と表記方法が豊かで、それに外国語を直接表記するローマ字があることが、日本文化を豊かにしてきた、という説にも一理あるとは思います。でも、「文化」として位置づけるためには、一定の規則を守らないとまずいでしょう。日本語はこのままでは亡びる運命にあるのではないかと心配になります。そういうことを心配する人はちゃんといてくれて、水村美苗『日本語が亡びる時—英語の世紀の中で—』(筑摩書房、2008)という本が2年前に出ています。

(5)この本は一部のマスコミでも取り上げて話題にしていましたから、読まれた方も多いと思いますが、「英語の世紀の中で」という副題は、英語教師を複雑な心境にさせます。B5版で300ページ以上の書物の内容を簡潔に要約することは無理ですから、読んで頂くよりありませんが、特に最後の第7章は、「英語教育と日本語教育」となっていますから、英語教師は必読すべきものです。

(6)学習指導要領では小学校の国語で、「…国語に対する関心を深め国語を尊重する態度を育てる」と述べています。どこか法的な根拠のあるものに書いておけば大丈夫といった浅はかな思いこみは嘆かわしい限りです。水村美苗氏は言う、「世界のほとんどの民族は、歴史のなかで、他民族から自分の言葉を護らねばという情熱をもつ契機を与えられた」と(p. 312)。呑気に構えていたら、私たちはいつまでも、日本人であり、日本語を話し続けられるという保障はないのです。最近の話題では、日本の国技だ、文化の象徴だと思い込んでいた“大相撲”が自業自得の八百長騒ぎで、壊滅的な打撃を受けています。

(7)異言語を学ぶことは、母語を知る優れた方法であるはずですが、英語教育がそういうことに失敗しているとしたら、「英語を教える意味など全くない」という自覚と反省から再出発しなければならないでしょう。(この回終り)

< 教育者 >     松山 薫

 栃尾高校の想い出の最後に、雪に埋もれて眠っていた菊池政次校長のことを書こう。菊池先生は、東京文理科大学の史学科の出身で、高等師範学校時代に我々の恩師である藤井一五郎教授と知りあった。「柔道の想い出」のところで書いたが、私はお二人の縁で名前すら知らなかった栃尾へ行ったのである。

 菊池先生から「会いたい」という手紙をもらい、約束の時間に茗渓会館(同窓会館)のロビーで待っていたが、一向に現れない。もう帰ろうかと思ったが、もしかして階上のホテルの部屋にいるのかもと思い直して階段を昇っていくと、髭の濃い恰幅のよい人物が下りてきた。お互い一面識も無かったのだが、すれ違ってからなんとなく気になって、踊り場で下を見ると、その人も上を見上げていた。「菊池先生ですか?」「そうだが、松山君か?」「ハイ」ということで、ロビーに下り、先ず「何でこんなに遅れたのだ!」と一喝された。先生の手紙を示し「ロビーで待てとありますが」というと、「あれ。そうだったか。こりゃすまなかった。」ということで栃尾行きが決まった。あの時声をかけていなかったら、いや、階段でなくエレベーターを使っていたとしたら永久のすれ違いだった。私が教師になることもなかったろう。

 私は泳ぎが好きで、6歳の時に多摩川で泳ぎを憶えてから80歳を過ぎた今日まで、ずっと泳いでいる。ところが、栃尾には泳ぐところがなかった。栃尾は盆地だから夏は無風で異常に暑い。とうとう我慢できずに、生徒達が校門から道路までの間に掘った長さ50メートル幅2メートルほどの防火用水で泳いでいるところを菊池校長に捕まった。校長住宅へ連れて行かれ、どやされるなと覚悟していると、「風呂場で体を洗って来い」と言う。風呂場から出ると、浴衣が用意されていた。居間でビールを注いでくれながら、「東京育ちには我慢できんだろうなあ。次ぎはもう少しいいところに世話するから、しばらく頑張ってくれ。」と言われ身の縮む思いだった。それでも我慢できず、今度は、校舎の横を流れている刈谷田川で泳いでしまった。この川は、両岸に織物工場があって、時々色の着いた排水を流すので、泳ぐ人などはいなかった。しかし、ある日の夕方川岸から眺めると、「水清らなる刈谷田の流れ」と校歌にうたわれているような清流そのものだったので、生徒も帰ったことだしと、土手に服を脱いで、泳ぎ始めた。そのうちふと気がつくと川の色がなんとなく変なので立ち上がると、褌は勿論全身が青く染まっていた。まさに青鬼である。明日の授業はどうなるかと思ったら、今度は内側から真っ青になった。校舎の陰を伝い、小使室に転がり込むと、小使さんが仰天して「どうなすった!」と叫んだ。しかし、さすがに年の功である。近くの知り合いの工場に中和剤のようなものがあるかもしれないといって取りに行ってくれた。寮の風呂場でそれを一滴青い褌に落としてみると周りがスーと白くなったので、この液体を顔や体にこすりつけては水を浴びていたら、青味はおびているものの、何とか人間らしい姿に戻った。校長の温情を無にした天罰であったろう。

 2年目の3月、初めて入試の合否判定をする職員会議に参加した。定員150人のうち149人までは成績順に合格が決まったが、最後の1人はかなり下からの繰上げ合格にするという。“Why?”と私はこの判定に噛み付いた。校長の言い分は、150番以下でこの子だけが女生徒である。このまま落とすと、狭い地域の中で嫁入りにも響くかもしれないということだった。私は男女の平等に反し、本人のためにもよくない、150番目の子の正当な権利はどうなるのか、という理屈で食い下がり、とうとう校長が折れた。その日の夜、寮の舎監室にいると、校門のほうが騒がしくなり甲高い泣き声も交じっていた。何事かと校舎のほうへ飛んで行くと校長が暗がりの中に佇んでおり、校長室へ入れと言う。「なんとか帰ってくれた。君が落とせといった生徒の親類縁者だ。教師である限り、あの泣き声を憶えておけ。」と言われて全身の血が引いていくのを感じた。

 その年、私は新潟県教組支部の役員になった。教組の指令で、町の真ん中にある橋の上で、同僚と赤旗を立て、署名運動をやったことがある。次の日は署名を届けに長岡の支部へ行った。その留守中、町の右翼暴力団の1人がドスを持って学校へ来た。ドスを職員室の机に突き立てて、「松山を出せ。ぶっ殺してやる。」と叫んだらしい。その時、菊池校長が騒ぎを聞きつけて職員室へ入ってきた。「松山君は出張中だ。彼は組合の指令で署名運動をやっただけだ。署名の趣旨には私も賛同している。殺すというなら私を殺せ。」と暴力団員の前へ進み出たという。暴力団員は黙ってドスを引き抜き帰っていった。帰校して私はこの事件を教頭から聞いたが、校長は私には何も言わなかった。多分、私に言えば、「殺人未遂で訴える」と言い出しかねないと考え、胸にしまったのだろう。それをいいことに私は謝ることは勿論礼もいわなかった。

 栃尾で一緒だった2年間、今だったら一日も学校にいられないようなことをしでかしては、校長には大変な迷惑をかけた。教師を辞めて長い間、いつか菊池先生には謝らねばならないと思っていたが、その日が来た。元同僚から、菊池元校長が病篤く、命旦夕に迫っていると知らせてきたのである。私は、元同僚や昔の生徒達と新潟市郊外の先生のお宅へ伺った。病床の先生は、わざわざ和服に着替えた後、半身を起こし、遠くをみるような眼で、私の謝罪を黙って聞いていた。そして、「教師というのは若いうちからいろいろな経験を積んで一人前になる。君もそうしてやがてはよい教師になってくれると期待していたのだが、やめたと聞いて残念に思った。」と言われた。私は、わずかに昔の面影を残す菊池先生の横顔を見ながら、一緒に行った人達の手前、流れ出ようとする涙を必死にこらえた。それから間もなく菊池先生は90歳の天寿を全うされた。わずか2年間だったが、菊池先生のもとで働いていて、私は、教師にとって最も必要な資質は、「人を許すことではないか」と気づいた。同時に、教師はともかく、教育者になることは私には到底不可能であることを悟った。(M)

英語語彙の学習(2)

Author: 土屋澄男

語彙学習は、学習者が知りたい語、あるいは必要とする語を学ぶのが望ましいと言えます。そうすれば学習意欲が高まり、忘却率を下げることができます。これは経験的によく知られていることであり、種々の言語心理学的実験でも証明されています。語彙学習をそのようにするには、どうしたらよいでしょうか。まず2つの重要なポイントを挙げたいと思います。第1に、学習者が語彙習得に積極的な態度を取ることの重要性。第2に、語の記憶は音(または綴り字)と意味の単なる組み合わせから成るのではないという認識。

 まず第1のポイントから見ていきましょう。日本人の英語学習の特徴は「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」に欠けていることです。最近の学習指導要領には、このことが外国語の目標として再々掲げられています。これは明治いらい百年以上にわたって、欧米の知識人の書いた英語テキストを丹念に読んでそれを理解し、その内容を自分のものとして消化するという、受動的な英語学習態度を取り続けてきた結果だと言えましょう。20世紀末になって、少なくとも経済面では、日本が目指していた先進諸国に追いついてしまいました。そこで私たちは、諸外国に対する積極的な態度への転換が求められました。しかしいったん身についた態度は容易には変えられません。英語を使って自分の考えを述べるのはいぜんとして不得意で、やはり英語のテキストをありがたく押し頂いて、その内容を正確に理解しようとするほうを得意とします。語彙についても、自分の必要とする語を自分で選んで覚えるよりも、テキストに出てくる未知語を丹念に取り出して訳語をあてはめ、それを一覧表にして記憶しようとします。実際に、多くの学習者は語彙の学習と言うと、ノートやカードに単語のスペリングと意味を書いて持ち歩き、それらを丸暗記しようとします。彼らは概して勤勉ですが、それが語彙の学習だと考えています。この丸暗記法は日本人だけではなく、韓国や香港などの学生の特徴でもあるらしく、アジア諸国に広く見られる共通した特徴でもあるようです。

 このような語彙学習に対する消極的な態度と、学習法に対する偏狭とも言える暗記法を身につけてしまった人々は、他の学習ストラテジーを教えられても耳に入りません。先日、語彙学習に関する興味ある論文( ‘Vocabulary and good language learners’ by Jo Moir and Paul Nation 2008)を読みました。それはニュージーランドでの数週間の英語集中コースに参加した学生たちを対象とした研究報告で、被験者は日本人を含む9人のアジア人(日本2、韓国2、香港1、中国1、スリランカ1、バングラディッシュ1)と1人のソマリア人でした。彼らに実験者の作成した「語彙研究ノート」を配布し、語彙学習に関する数種類のストラテジーを個別に指導しながら、配布したノートを使って毎週30語から40語を自分で選んで学習させ、その成果をしらべるために毎週テストを課しました。その結果、実験者の期待した成果を挙げたのはソマリア人だけで、他の9人のアジア人学生たちは実験者の期待を完全に裏切りました。どういう点が期待外れであったかは、次の4つの項目にまとめることができます。

 ① 学生たちは学習すべき語を自分で選択するように指示されたにもかかわらず、彼らの選択は行き当たりばったりで自律性を欠いていた。彼らのしたことは、テキストの中から未知の、難しそうな語を選ぶということであった。

② それぞれの語には意味以外にいろいろな情報が含まれており、語彙指導の過程でそのことに再々触れられたにもかかわらず、学生たちはそのことに関心がうすかった。彼らは辞書に出ている最初の訳語だけで満足し、語についてそれ以上深く知ろうとはしなかった。

③ 語を自分のものとするにはいろいろな場面でそれを使ってみる経験が必要であるにもかかわらず、学生たちにはそのような意識が欠けており、語を経験するのに必要なさまざまなストラテジーを用いることもしなかった。

④ 学生たちは週ごとに実施される語彙テストに良い得点を得たいという短期目標にこだわり、丸暗記によって当面の課題を切り抜けようとしていた。したがって、彼らの用いる語彙学習のストラテジーはきわめて限られていた。

 ここに挙げられた4つの問題点—①自律性を欠いた学習語彙の選択、②語を深く知ることへの関心の欠如、③語の使用経験の欠如、④学習ストラテジーの限定的使用(語彙リストの丸暗記へのこだわり)—は、日本人学習者の語彙学習についての一般的特徴をよく示していると思われます。彼らの多くは非常に勤勉ですが、語彙学習に必要なアウェアネス(認識)を欠いているようです。そこで次回には、これらについて少しくわしく見てみようと思います。(To be continued.)