Archive for 5月, 2017

今号の第1特集の標題は「先行実施まで1年 小学校英語で今年したいこと・考えたいこと」で、第2特集の標題が「教員養成・教員研修の新スタンダード 完成コア・カリキュラム」となっています。いずれも今年3月に公表された新学習指導要領で大きく改訂された「小学校英語」がテーマです。これらの特集記事を今回の批評の対象とします。

さて、これらの「小学校英語」の記事に目を通して筆者が感じたことは、これらはいったい誰のために書かれているのかということでした。おそらくこのテーマに興味を抱く読者の多くは、今すでに小学校英語に関係している人たち、これから関わることになりそうな小学校教員、そしてそのことに大きな関心を持っている中・高の英語教師でしょう。新学習指導要領が公表されて、小学校高学年の英語がどのように指導されることになるのか、これまでの「外国語活動」と「教科外国語」とではどう違うのか、来年度からの移行期間と2020年度からの全面実施に向けて現在どんな準備がなされているのか、そしてどんな移行措置が取られるのか、ということではないかと思われます。そういう観点からすると、本号の記事はすでに先行試行を行っている方々の実践に焦点が置かれていて、一般の先生方にはピンとこない記述が多いのではいかと思われます。

言うまでもなく、教科としての「小学校英語」は小学校教育の歴史上はじめてのことですから、小学校教員や中高の英語科教員にとってもこれまで経験したことのない教科です。したがって教員にとっても分からないことだらけなのです。そういうわけで、このような特集記事では、それらの記事の背景となる基本的な情報を最初に整理して示すことが重要です。今回の記事ではその役割を文科省教科調査官の直山木綿子氏が果たしていると思われますが、そうであれば、これを特集の最初に載せるのがよいと考えられます。今号の最初の記事は「小学校で今年したいこと・考えておきたいこと」というテーマの座談会で、4人の小学校教員の座談会が掲載されています。しかしこれらの方々は現在すでに小学校で英語指導を行っている人たちなので、読者の多くはいきなりその人たちの実践上の細かな問題に関する議論に投げ込まれて、戸惑いを感じることでしょう。したがってこの記事はもっと後ろに回すべきでした。

そこで直山教科調査官の記事を最初に読みます。これは小学校英語の2020年度全面実施に向けて、文科省がそれまでの移行期間にどんな教材を開発し、どんな研修計画を順次実施しているかについて丁寧に解説しています。ですからこの記事は、移行期間中に研究開発校などの先進的な取組を行っている小学校教員をはじめ、そのことに関心を持つ小・中学校の教員には大いに役立つことでしょう。特に印象的なのは、小学校教員のための研修体制づくりです。それは各地域の「英語教育推進リーダー」を核とした研修体制です。まず各教育委員会から推薦を受けた約200名の小学校教員が中央研修に参加し、その人たちが自身の自治体に帰ってリーダーとなり、研修で受けた内容について各学校から選ばれた1名の中核教員を対象にした研修を行う。そしてその中核教員が中心になって、各学校で校内研修を行うという仕組みです。これについての筆者の感想は、さすが有能な人材を集めた文科省だけあって、少なくとも形式的には良く出来た企画だと思いました。問題はそれが文科省の意図したように進行するかどうかです。

筆者の正直な感想は、実際はこの企画通りには進まないだろうということです。その理由は、第一に、学校ごとに選ばれる中核教員が研修に出たとしても、そこで十分な研修がなされる保障がないからです。たしかに、各地域から選ばれる全国約200名の「推進リーダー」となる人たちは、中央での研修によって、かなりの指導力を身に付けることができるでしょう。もともとかなりの英語力を持つ人が選ばれると予想されるからです。しかしその人たちが自分の自治体に帰って行なう「中核教員」のための研修については、彼らの身に付けた技量がどれだけ役立つかは不明です。多くの中核教員の英語力が必要なレベルに達していないと考えられるからです。また各地域の研修に関しては教育委員会指導主事がその指導に当たると言いますが、地域によるばらつきは避けがたく、最低限の研修の質も保障されてはいません。学ぶ内容は豊富であり、十分な研修時間を確保することも非常に困難です。

そして最も混乱が予想されるのは各学校で行われる校内研修です。それがどれだけまともに実施されるのかは大いに疑問です。学校現場はどこも多忙であり、英語指導を行うだけの余力のある学校は少ないからです。文科省はこれを校長の責任にするのでしょうが、それでは現場が気の毒です。やはり責任は文科省が取るべきです。この文科省作成による研修計画の根本的な問題点は、英語の教員免許証を持たないばかりか、英語を実際に使った経験をほとんど持たない小学校教員に教科英語を担当させることにあるからです。

たしかに、小学校教員の多くは大学卒以上の学歴を有しているので、英語を学んだ経験は皆さん持っています。しかし本気で英語習得にエネルギーを費やしたことのある人がどれだけいるでしょうか。特に「話す」や「書く」については、本格的な訓練を受けたことのある人はごく少数だと思われます。今回の文科省が企画した研修計画は、そういう人たちを短期間の研修でなんとかしようというのですから、どだい無理があるのです。このことは教科調査官の直山氏もよくご存知で、この解説文の末尾に「小学校外国語教育の担当調査官として、これで環境整備が万全であるとは思っていない」と苦しい弁解をしています。

ところで今号の『英語教育』第2特集の「小学校の教員養成・教員研修コア・カリキュラム」(粕谷恭子)を見ると、それは「(1)授業設計と指導技術の基本を身に付けること、(2)小学校において外国語活動・外国語の授業ができる国際的な基準であるCERF B1レベルの英語力を身に付けることを目標とする」と書かれています。そして(1)の「指導に必要な知識・技能」の目標を達成するために、題材の選定、教材研究、指導計画、授業の進め方などに関して18の研修項目が挙げられています。また(2)の「英語力」の研修項目として、「授業で扱う主たる英語表現の正しい運用」や「発音や構成・リズム・イントネーションを意識した発話」など、英語指導者として必要な8項目が挙げられています。これを見れば、大学での従来の小学校教員養成課程を修了した小学校教員たちが、短期間の研修で教科となった英語を担当できるだけの英語力と指導力を身に付けることは、ほとんど絶望的であることがよく理解できます。

小学校英語について他にも述べたいことは多々ありますが、それらは別の機会に譲ることにして、この問題の取り上げ方に関して『英語教育』編集部に一つだけ希望を述べてこの<番外投稿>を終わります。このような問題の多い教育改革に関するトピックを取り上げる際には、単に行政府の企画に基づいた考え方や実践を紹介するだけでは不十分で、その企画から外れてそこから取り残されることで起こるさまざまな問題を予想し、それらにどう対処したらよいのかを考えさせるような記事も取り上げていただきたい。たとえば、英語を不得意とする小学校教員が、止むを得ず担当せざるを得ない状況に置かれたときにどうすべきか、また英語力に欠陥のある人が英語授業を担当することになったとき、生徒を不幸にしないためにはどうしたらよいか、など。それは時に政権の意向に反する論考も含まれるでしょうから、場合によっては、雑誌の編集者はかなりの勇気を必要とするかもしれません。しかし教育現場は権力からは本来中立なものであり、教師は自分の教えている子どもたちの将来のために、現在置かれている状況の中で、子どもらにとって最善の道を選択する責任と義務があります。英語教育に関して、そのことを考える上で必要な情報を提供することこそ、このような広い読者層を有する雑誌の使命だと評者は考えています。

ご承知のように、安倍首相が5月3日の記念日に憲法改正を求める集会にビデオ・メッセージを寄せ、東京オリンピックが開催される2020年を目指して憲法改正を推進したいと述べました。その中で、具体的な改正の例として、憲法9条1項、2項のあとに自衛隊の存在を3項として明記すること、及び高等教育を全ての国民に開かれたものとすることを挙げました。これは私的な団体への首相の個人的な激励のメッセージではありますが、これまで憲法改正に関して具体的な改正点に触れなかった首相としては異例のことです。さっそく反論も出ていて、これらがすんなり受け入れられるわけではないようですが、これからしばらくは、国会をはじめあちらこちらで、この首相案をめぐって喧々諤々の議論がなされることでしょう。

憲法9条については筆者も人並みに関心を持っていますが、2番目の高等教育をより開かれたものにする問題については、常々筆者の最大の関心事であり、老骨に鞭打ってその議論に加わる必要があると感じています。もとより、選挙で一票を行使する以外に政治に関与する方策を持っていない一国民に過ぎませんので、いくら口角泡を飛ばして議論しても仕方のないことかもしれません。しかしこの教育問題については筆者も日ごろからいろいろと考えており、このブログの場を借りて一言私見を述べさせていただきたいと思います。

最初に、安倍首相がこのことに触れているメッセージ箇所の文言を確かめます。すると「(義務教育と同様に)高等教育についても、全ての国民に真に開かれたものにしなければならない」となっていて、一部の新聞に書かれている「高等教育の無償化」という言葉は使われていません。首相の立場からは「無償化」というような、実現の見通しが立たないものではなくて、もっと実現可能な現実的方策を国民に議論させるのが得策だと考えたのでしょう。そう考えると「高等教育を真に全ての国民に開かれたものとする」という表現は実に巧妙であり、そのこと自体に反対する人は少ないと思われます。逆に、そういうことは憲法に書き込むまでもなく、現行のままで十分に対応できるという議論も起こるでしょう。首相は本丸の憲法9条改訂の衝撃を和らげるために、この誰もが反対しないと思われる教育問題を緩和剤にしよう考えたのかもしれません。

ところで、大学を含む高等教育の「無償化」を目指すにしろ、それを「全ての国民に開かれたものとする」にしろ、その議論は必ずや財源の問題を避けて通るわけにはいきません。無償化とまではいかなくとも、それを全ての人々に開かれたものにするには、何を措いても財政の裏づけが必要になるからです。義務教育である小・中学校の無償化は現行憲法で無償とすることが定められていますが、それでさえ、授業料以外の保護者の負担はかなりの額に達しており、完全無償化は完全には達成していません。また、進学率が100%に近い高校ですら、私立学校を含めた授業料の無償化はいまだに達成していません。そもそも公立高校の授業料が無償とされたのは、民主党政権が2010年3月に成立させた「公立高等学校に係る授業料の不徴収及び高等学校等就学支援金の支給に関する法律」でした(注)。しかし私立高校には無償化は進んでおらず、東京都が近く無償化を進めると聞いていますが、それが他の県にまで広がるのかどうかは不明です。授業料の無償化を大学教育まで拡大するとなると、国公立大学に限ってもその道のりは遠いと言わなければなりません。

そういうわけで、この問題を首相や政府あるいは国会だけに任せておくことはできません。彼らに任せておけば、いろいろと議論はするでしょうが、現在の経済と軍事優先の政策のままでは、結局は財政的に困難だということで終わるのは必然です。現在の文科省が進めているような財政の裏づけのない改革は、きわめて部分的なものであり、現場の教師たちをますます多忙にし、教育の質的低下につながります。そうならないようにするためには、高等教育を全ての国民に開かれたものとすることがなぜ必要なのか、という根本のところから議論を始めなければなりません。それがぜひ必要なのだという認識を多くの人が共有するようにならなければ、財源の障壁をぶち壊すことはできません。国民の多くが、自分たちの納める税金の多くの部分を教育に注ぎ込む覚悟がなければならないのです。

いま筆者の手許に中澤渉著『なぜ日本の公教育費は少ないのか』(勁草書房2014)という本があります。この本は、日本における公教育費への財政支出が低いのはなぜかという問題に真正面から取り組んだ研究です。まず国際比較において、日本政府の教育に対する公的支出の割合はきわめて低く、先進国で最低水準にあります。OECDの表(2013年)によれば、「公的支出全体に占める公教育支出の割合」は日本が9.3%で、他の先進国の支出(スイス、デンマーク、ノルウェーなどの15%台)をはるかに下回っています。同OECDによる「対GDPの公教育支出の割合」も日本は3.8%で、ノルウェー、デンマークの8.8%とは大きく水をあけられています。高等教育への支出についても日本は0.7%で、ノルウェー2.6%、デンマーク2.4%とは大きな差をつけられています。なぜ日本はこのようなことになったのでしょうか。

中澤渉氏の分析によれば、高等教育の費用負担について、社会が負担すべきだと考える人は少数で、親や家族が負担すべきであると考える人が約8割を占めるという調査結果から、結局のところ、「日本人の間で、教育があまり公的な意味をもつものと認識されていない」ということが、日本の教育費負担に関する最大の問題になっているというのです。日本では教育費、特に高等教育の学費は個人の責任であり、社会全体で支えなくてはならないものではない、という考え方がいまだに一般的なものとなっているのです。ではどうしたらそういう国民意識を変えることができるか?―中澤氏もそれに対する魔法の杖は持っていないようです。結局は、教育費を公的に負担すべしという理念が社会的に浸透するのを待たなければなりません。道は遠いけれど、教育専門家をはじめ、この問題に関心を持ち、そのことに気づいた人たちが声を合わせて、公教育における費用の負担の必要性を広く訴え続けるしかないのです。

その場合に警戒すべきことが一つあります。それは、政権が主導してそういう政策を作成するのがよいという考え方が、国民の多くに存在することです。現在の安倍首相のような力あるリーダーが主導すれば、事柄がスピーディーに進展するように思えるのかもしれません。現在行われている国会での議論でも、そのような発言をする質問者がいます。しかし、政権が高等教育の問題に大きく係ることが危険であることは、教育へのその介入が顕著になっている現状を見るとき明らかです。大学教育に限っても、文科省の介入が顕著になりました。まず教授会の権限が縮小され、大学学長の権限が大幅に拡大されました。また大学への予算の配分は、文科省の意向に沿った大学改革を進める大学が優遇されるようになりました。大学の評価に成果主義が導入され、結果を出すのに時間のかかる研究が不利になりました。その時々の政権の方針に追随する文科省の打ち出す教育政策に、今や心ある多くの人々が危機感を持っています。教育の問題を政権主導にすることは非常に危険なのです。

(注)この法律でさえ、安倍政権はばらまきだ、金の無駄だと批判して、所得制限をつけることにし、高校教育の無償化を後退させています。