Archive for 11月, 2016

最近「人間力」という語を耳にすることが多くなりました。いつごろからこの語が広く使われるようになったのかは明らかでありませんが、そう遠い昔のことではなさそうです。百科事典『ウィキペキア』によると、これが最初に行政文書に現れたのは、2002年の小泉内閣の時代であったようです。当時の経済財政担当大臣に答申され、閣議決定された「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」に中に、日本がこれからのグローバル経済に参入するための重要な戦略として「人間力戦略」という項目が挙げられていたのです(注1)。これが今日の教育界で「人間力」が頻繁に使われるきっかけになったと思われます。

去る10月22日(土)の午後、今年創立50周年を迎えた文教大学が、朝日新聞社との共済で記念シンポジウムを開催しました(会場は浜離宮朝日小ホール)。そのテーマは「未来の英語教師をどう育てるか」で、第1部が2人の講師によるプレゼンテーション、第2部が5人のパネリストによるディスカッションでした。筆者はかつて文教大学で教えていたこともあり、このシンポジウムに関心を持っていました。出席はできなかったのですが、幸いその模様が朝日新聞(10月30日版)に紙上採録され、その概要を知ることができました。そしてそこでも、これからの教師に求められる教師の資質として「人間力」が挙げられていました。それを見て、「人間力」という語について自分なりに考えてみました。

最初に、そのシンポジュウムで「人間力」がどんなコンテクストで使われたのかを見てみます。シンポジウムの後半に、司会の一色清氏(朝日新聞社教育コーディネーター)が「これからの英語教師は、どんな資質や能力が求められるのでしょうか」という問いをパネリストに投げかけています。それに答えて、パネリストの一人である小嶋英夫氏(文教大学教育学部教授)が次のように述べています。

教育改革の意義を理解し、自分の中で認識を深められる力が大事だと思います。また、コミュニケーション能力だけではなく、総合的な人間力が求められる時代になりました。新しい学力観を踏まえ、自律的に成長できる教師を育てるために、大学も総合的な改革が必要です。

この文言は新聞の紙上採録ですから、パネリストの発言そのものではなく、記録者または記事担当者による要約であると思われます。これらの文言は誰でもほぼ理解できるでしょうが、よく考えてみると分からないこともあるように思われます。特に「総合的な人間力」というのがどのような意味なのかが不明です。単に「教師として必要なもろもろの人間性」というような一般的な意味で使われているのか、あるいは、もっと厳密に定義される「人間力」なのかというようなことです。この語はどう定義したらよいのでしょうか。

そこで「人間力」の定義を考えることから始めます。本稿の最初に挙げた政府の「人間力戦略」に戻ります。前記の「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」の答申を受けて、政府は直ちに「人間力戦略研究会」なるものを内閣府に設置しました。そして早くも翌2003年4月、『人間力戦略研究会報告書』なるものが作成され公表されました(注2)。その報告書の中の「Ⅱ.人間力の定義」を見てみます。報告書はここで、「人間力」について確立された定義は存在しないとしながらも、とりあえず「社会を構成し運営するとともに、自立した一人の人間として力強く生きていくための総合的な力」と定義しています。そしてその中身は、次の3つの構成要素から成るとしています。

1.知的能力的要素:主に学校教育を通じて修得される基礎的な知的能力で、「専門的な知識・ノウハウ」を持ち、自らそれを継続的に高めていく力。また、それらの上に応用力として構築される「論理的思考力」や「創造力」など。

2.社会・対人関係的要素:「コミュニケーションスキル」、「リーダーシップ」、「公共心」、「規範意識」、「他者を尊重し共に切磋琢磨しながらお互いを高め合う力」など。

3.自己制御的要素:上記2つの要素を十分に発揮するための「意欲」、「忍耐力」、「自分らしい生き方や成功を追及する力」など。

結局のところ、これらはこれからの社会に人間として生きていくために必要な一般的能力を述べたもので、「人間力」という概念を厳密に規定しようとしたものではありません。昔から、わが国では、「知・情・意のバランスの取れた人間」の育成が重要であると考えられてきました。上記の「人間力」の3つの構成要素も、私たち日本人に古くから馴染んできた知・情・意の3要素を現代的な用語で規定し直したものと考えることができます。つまり、ますます複雑化するこれからの世界に生きていく若者たちは、これらの能力をバランスよく発達させるように教育するのが望ましいということです。この観点からすると、先のシンポジュウムでの「これからの教師に求められる総合的な人間力」という発言も、結局のところ、「これから世界に羽ばたく若者たちに求める資質や能力を、教職に就く教師たちも先取りする形で身につけていくことが望ましい」ということだと解釈することができます。

さて「人間力」の定義については、これとは別の方向からアプローチすることもできます。朝日新聞が毎月1回発行しているGLOBEという日曜版があります。そこでは毎回“Breakthrough”というコラムで、何かの分野でいま注目を浴びている人物を一人ずつ取り上げて紹介しています。そしてその記事の最後に、それぞれの人物が自分のどんな「力」に自信があるのか、あらかじめ編集部が用意した自己評価シートに記入(8種類の「力」に5点満点で点数をつける)してもらい、その人の人間的特徴が一目で分かるように、8面体のダイアグラムにして示しています。その8種類の「力」とは次の8項目です。

①分析力・洞察力 ②集中力 ③体力 ④決断力 ⑤行動力 ⑥持続力・忍耐力 ⑦独創性・ひらめき ⑧協調性

この8項目の自己評価シートはなかなか良くできていると筆者は思います。しかし、これですべての個人の人間的な力が網羅されているとは言えないでしょう。価値が多様化している今日の世界では新しい価値の創造が活発になされますから、「人間力」の議論はますます混迷を極めることでしょう。まして政府が「人間力戦略」などという用語を使って、これを「技術力戦略」や「経営力戦略」などと並べて議論をするときには、十分に用心しなければなりません。なぜなら、それは純粋な意味での「人間力」ではなく、国家の経済的な利益や発展に寄与する人材の開発というような意図が反映された議論になるからです。それは結局、すべての子どもや若者に必要な学力を保障するという、本来の教育的な目的から外れてしまう危険があります。そもそも「人間力」というような個人の生き方にかかわる微妙な問題は、政府が真正面から取り上げて議論すべき事柄ではないのです。最近、新聞広告で「(年を取って)記憶力は落ちても人間力は成長する」というのを見ましたが、「人間力」というのは、このような曖昧なコンテクストで使うのが無難のようです。

(注1)「経済財政運営と構造改革に関する基本方針2002」は、2002年6月21日、経済財政諮問会議から当時の担当大臣であった竹中平蔵に答申され、4日後の同月25日に閣議決定された文書です。そしてその中に「6つの戦略」(1.人間力戦略、2.技術力戦略、3.経営力戦略、4.産業発掘戦略、5.地域力戦略、6.グローバル戦略)が挙げられ、その筆頭に「人間力戦略」が掲げられています。この答申を受けて内閣府に「人間力戦略研究会」が設けられました。

(注2)「人間力戦略研究会報告書」は、市川伸一氏(東京大学大学院教育学研究科教授)を座長とする「人間力戦略研究会」が2003年4月に発表したもので、そのフルタイトルは『人間力戦略研究会報告書:若者に夢を抱かせ、意欲を高める:~信頼と連携の社会システム~』となっています。ここで述べられている「人間力」の定義が、その後の行政におけるこの語の取り扱いの目安になったと考えられています。文科省においては、その後の政策計画書や審議会等の「答申」あるいは「報告」に、「人間力」の語がしばしば使われています。(以上1と2の注は「ウィキペディア」の提供する情報に基づく)

(注3)たとえば最新号(November 2016 No.187)の “Breakthrough”のコラムには、杉江理という人物(電動いすベンチャー「WHILL」CEO)の自己評価シートが掲載されています。それによると、杉江氏は「行動力」「体力」「持続力・忍耐力」の3項目に5をつけ、「決断力」と「独創性・ひらめき」に4を、「集中力」と「協調性」に3をつけています。なお、これら8つの「力」の順序は特に問題にされていません。

今度のアメリカ大統領選挙には驚きました。トランプという、無知を売り物にして相手をこきおろし、どうみても無頼漢としか思えないような、傍若無人に振舞う人物が大統領に選ばれてしまったのですから。彼の支持者が30%くらいはいると思っていましたが、まさか半数に達するとは夢にも思いませんでした。地球温暖化などは「でっち上げ」(hoax)だと選挙中に叫んだ、あの赤鬼のようなトランプの顔が忘れられません。この一事だけでも、トランプはアメリカ大統領失格だと筆者は思っていました。

当然ですが、アメリカでもこの結果を受け入れられないという人も多いようで、アメリカ各地で “NOT OUR PRESIDENT”のプラカードを掲げた抗議デモが広がっています。太平洋を隔てた日本でもこの結果を信じられずにいる人は多いでしょう。筆者もこの結果を聞いて二・三日は呆然としていました。しかしいつまでもそうしてはいられません。まずは、なぜこのようなことが起こったのかについて、きちんとした理由を知りたいと思いました。そうでないと、これから世界がどこに向かうかを考えることができません。

トランプの勝因については、新聞やテレビですでにさまざまな人が分析をしています。まずヒラリー・クリントンの敗因については、メール問題が第一に挙げられます。その疑惑が選挙終盤までクリアされませんでした。それどころか、11月8日の投票日直前になって、FBIがクリントン候補の新たなメールを発見したことを公表しました。これが選挙の流れを一挙にトランプに変えました。また、第三の党から立候補したスタイン(Jill Stein)とジョンソン(Gary Johnson)が、クリントンに入ったはずの票の一部を奪ったと主張する人もいます。そして最も致命的だったのは、クリントンが既得権益層(the establishment)の味方だと見なされたことでした。しかも、クリントンが勝てば女性初の大統領になるというのに、女性有権者の彼女への好感度が低く、特に中年以上の女性票がトランプに流れてしまったのが致命的でした。

トランプはどうでしょうか。何が彼を勝利に導いたのでしょうか。多くの解説者(commentator)が最初に挙げるのは、労働者階級(working class)の白人たちの不満が爆発したというものです。自動車産業を筆頭として、近年のアメリカ製造業界は不況の中にあります。経済のグローバル化は彼らの立場をますます不利なものとしています。多くのアメリカ人労働者(特に白人)が外国企業や南米などからの移民たちに職を奪われ、現状に大きな不満を感じています。そこにトランプが “Make America Great Again”のスローガンを掲げて華々しく名乗りを上げたのです。大学教育を受けていない、したがってTPPや地球温暖化などの問題には関心のない労働階級の白人たちが、こぞってトランプに自らの運命を賭けたというわけです。

しかしそれだけで今回の現象を完全に説明することはできません。なぜなら、白人労働者だけではトランプが過半数を得ることはできないからです。では誰が彼らに同調したのでしょうか。その回答を探っていたところ、筆者は今週のタイム誌(TIME Nov. 21)に掲載されているコラムに注目しました。それはプリンストン大学のグロード(Eddie S. Glaude)という人の書いたコラムです(注)。彼によると、大学教育を受けていない労働者階級男性の圧倒的多数がトランプに投票したことは確かですが、それだけではなく、それ以外の白人の多くもトランプに投票したというのです。ある信頼できる研究所の行った調査によれば、有権者の4分の3を占める白人の48%がトランプを支持し、女性はその53%が彼に投票しました。そこには当然、知識階級の多数の白人も含まれていて、大学教育を受けた男性の54%、女性の45%がトランプに票を入れたというのです。つまり、アメリカ白人の約半数がトランプを支持したのです。

なぜそんなことが起こったのでしょうか。イスラム教徒は入国させない、メキシコとの国境に壁をつくり不法入国者は追放する、TPPには絶対反対する、地球温暖化防止のためのパリ協定からは離脱するなどと公言し、しかも、しばしば女性たちを貶め侮辱したという前歴が明らかになり、テレビでの最後の候補者同士のディベートでは、クリントンに向かって “Nasty woman!”という不快な言葉を投げつけました。そんな男を、アメリカの白人たちはなぜ支持したのでしょうか。筆者はそれに対する説得的な議論を先のグロード氏のコラムに見出しました。彼の意見に耳を傾け、筆者なりに理解し納得した事柄を以下にまとめます。

アメリカ合衆国は今から200年以上前の18世紀後半に、イギリスやヨーロッパから渡ってきた人々がつくった国です。その人々の核は白人でした。彼らは苦労してそこに新たな民主主義国家をつくり上げました。その過程で、まずアフリカから多くの黒人が奴隷として連れて来られ、やがて世界各地からさまざまな人々が移り住んできました。しかし白人たちはその都度、自分たちの価値を再確認し、変化に抵抗し、白人が他の者たちよりも大事だという信念を維持しようとしました。つまり、白人優先の信念と思想がこの国をつくり上げる基本的な価値となっていたのです。そこから生じる他の人種や民族との価値の隔たりは、高校卒業の労働者階級の人々には意識されていません。白人のエリートたちはそれを意識していますが、ふだんはより普遍的な価値の背後にそれが隠されています。今回のトランプの選挙は、労働者階級の怒りを表面化することによって、白人エリートたちが隠し持っていた彼らの伝統的な価値を呼び覚ましたのです。アメリカは基本的に白人優先の国なのだと。

アメリカは20世紀の二つの大戦を踏まえ、特に1960年代から、新しい価値への転換に向かって歩み始めました。すなわち多民族・多文化共存の文化の創造です。しかし、先般の世界を驚かせたイギリスのEU離脱(Brexit)に似て、アメリカにおける白人たちの古き良き時代への郷愁も、いまだに完全に消滅してはいないのです。古き良き時代は遠い昔に去ったのですが、そこで育まれた価値はまだ生きていて、それが完全に克服されるにはさらに多くの年月を必要とするのです。今度のトランプの選挙はそのことを明らかにしました。アメリカの白人たちは、図らずも、今回の選挙でその最後の抵抗を成し遂げたのです。これからの4年間のトランプ大統領の政治は、世界に大きな混乱をもたらすでしょう。しかしそれは、新しい価値の創造の過程では避けることのできない一時的な混乱であると筆者は考えています。

(注)Eddie S. Glaudeは、TIMEには、the chair of the department of African-American studies at Princeton Universityと紹介され、著書として Democracy in Blackが挙げられています。なお、プリンストン大学はアメリカ東部の伝統ある名門大学で、裕福階層の子弟を集めたエリート校として知られています。作家の村上春樹が、『やがて哀しき外国語』(講談社文庫)という著書の「大学村スノビズムの興亡」と題するエッセイで、プリンストン大学の教員や学生たちのスノビッシュ(snobbish)な生活を描いています。

現代のわが国の英語教育では、日本人が英語を学ぶ目的はグローバルなコミュニケーション手段を獲得するためであるとされ、それ以外の学びの目的や価値についてはほとんど考慮されなくなってしまいました。筆者はこのことをとても残念に思っています。英語の学びをいろいろな面から楽しんでほしいからです。たしかに、これから世界で活躍しようとする人たちは英語を使えなくてはなりません。しかしすべての日本人がそうであるわけではないし、そうでなくてはならない必然性もありません。いかにグローバルな世界とは言っても、これから先も、一生を日本語だけで暮らす人は多いと思われますし、英語を使う必要のない職種はまだいくらでもあります。そして学校卒業後に英語を使う必要が生じたときには、学校で学んだものを基礎にして再学習をすれば、各自の必要とする英語力を身につけることは十分に可能です。学校の英語教育はそのような基礎教育をしっかりと行うのが本来の任務です。

生徒が英語の学びを続けるために必要なことはただひとつ――英語を楽しく学ぶことです。楽しくなくては長くは続けられません。英語を学ぶことの楽しさは、単にそれが国際的なコミュニケーションに役立つというだけでは生まれてきません。子どもたちが英語をコミュニケーションの手段として用いるのは将来に起こる出来事であって、現時点で必要としているわけではないからです。生徒はやる気がなくて困るという教師が多いようですが、それは不思議なことではありません。生徒たちはなかなか本気で英語を勉強しようという気持ちになれないのです。英語が必要になるのはまだ遠い先のことです。切実感が乏しいのです。多くの生徒は学校の教科だから学んでいるのであり、試験があるから学んでいるのです。試験のときだけ真剣に学び、試験がすむと放り出します。これでは何年たっても英語が身につきません。英語が身につくためには、単に試験のための勉強ではなくて、英語を心から楽しく学ぶことが重要です。

考えてみると、英語を学ぶことの面白さは、コミュニケーションのほかにもいろいろとあります。子どもたちは、日常の英語の学びの中で、日本語とは異なる英語のさまざまな言語的・文化的特徴に気づきます。気づくことは学びの始まりであり、気づくことなしには学びは始まりません。たとえば、英語の授業で“I love you.”という表現を知り、それが日本語とどのように違うかを意識することになります(注1)。これは重要なことです。なぜなら、そのような英語の言語構造や表現法やその背景にある文化は、子どもたちが日本語しか知らなければ、決して知りえない知識だからです。そのような、これまで気づかなかったさまざまな言語的事実に気づくことによって、英語を学ぶことの楽しさを味わうことができるのです。ですから授業における教師の役目の一つは、英語のさまざまな面に気づかせるような指導を行うことにあります。

学校で教えられる教科の学びにはそういうものがたくさんあります。たとえば算数や数学を学ぶときには、そのときに学んでいる事柄が将来どんな役に立つかなど考えません。最近の数学教育では、教師はそういうことを意識して指導するようですが、筆者が小学生や中学生のときにはそうではなかったと思います。小学校での算数には実生活に必要な計算などの技術が含まれていましたが、中学校(旧制)で習った代数や幾何の問題の多くは、その後の私の人生で使うことはあまりなかったように思います。それでも、そういう問題を解くことはとてもチャレンジングな学びで、解けると楽しく、それが後になって何に役立つかなどは考えることもなく、夢中になって取り組んだものです。実用とは無縁であっても、そういう数学的思考が私たちの人生を豊かにするという価値について、当時は誰も疑いを持つことはなかったように思います。

英語も同じではないでしょうか。ひと昔前には、英語を教養のために学ぶのは当然のことと考えられていました(注2)。一般の人々にとって、英語を使う必要があまり感じられなかったからでしょう。しかし現在は逆に実用面が強調されて、教養的な価値がないがしろにされています。これは極端に過ぎるのではないでしょうか。以前の教養主義教育に戻せというのではありませんが、ここで立ち止まって、もう一度考えてみる必要があるように思われます。英語を学ぶことのいろいろな価値を考えると、学校時代に多大の時間をかけて学んだ英語は、たといコミュニケーションに役立てる機会がなくても、また学びの中途半端なところで終わってしまっても、その価値のゆえに決して無駄になることはないように思われます。さらに、実用の学びは個人的または社会的な状況に左右されますが、教養は個人の学びの本質と深く関わっているので、周囲の変化に左右される度合いが少ないことも考慮さるべきです。

英語の学びに関するもろもろの価値の中で、もう一つ忘れてはならないことがあります。それは英語の学びを通して世界をより良く知り、自己の立ち位置を相対化することです。これからの日本人は、単に国家における自分の立場を知るだけではなく、世界における自分の立場を見定める必要があります。1989年度の学習指導要領の目標には、その最後に「言語や文化に対する関心を深め」とあります(*現行の学習指導要領にもこの文言が確保されている)が、そこには言語や文化に対する関心を深めることの目的が何であるかについては述べていません。筆者の考えでは、それは(1)世界の他の地域における言語や文化についての知識を得るためであり、(2)その知識に照らして自国の言語や文化を客観的に眺め、自己を相対化することができるようになるためです。英語はそのための重要な道具なのです。

周知のように、昨今の世界各地にはナショナリズムの巨大なうねりが生じており、そのことに多くの人々が危険を感じています。そして日本もそのうねりの中に巻き込まれつつあります。排他的なナショナリズムは20世紀の終わりには下降線を辿り、ソビエト連邦の崩壊やヨーロッパ連合(EU)の設立によって、国境の壁が次々に打ち崩され、戦争の絶えることのなかったヨーロッパに平和がもたらされました。しかし今世紀に入って様相が一変しました。最近のBREXIT(イギリスのEU離脱)やアメリカ大統領選挙におけるトランプ旋風に見られるように、人類統合の夢は再びナショナリズムの流れに押しつぶされようとしています。その流れにストップをかけるのは容易なことではありません。しかし私たちは手をこまねいて眺めているわけにはいきません。英語教育関係者にできることは、これからの世界に出て行く若者たちに、英語の学びを通して世界の言語と文化に対する理解を深め、そのことによって自分の立ち位置を正しく見極める力をつけてもらうことではないでしょうか。

(注1) “I love you.”を直訳すると「私はあなたを愛します」となりますが、私たちがこのような日本語を実際に使うことはまずないでしょう。昔の翻訳本にはそのように訳してあるものがあって、西洋人はこんな言葉で女性を口説くのかと、中学生であった私はなんとなく変な感じがしたものです。そしてこの英語が恋人同士だけではなく、夫婦や親子の間でも日常的に使われる表現であることを知ったのは、ずっと後になってアメリカ映画を見るようになってからだったと思います。

(注2)「ひと昔前」といってもそれほど遠い昔ではありません。学習指導要領の目標に「コミュニケーション」という言葉が使われ出したのは1989年(平成元年)の改訂版からです。そこでは中学校の目標が、「外国語を理解し、外国語で表現する基礎的な能力を養い、外国語で積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育てるとともに、言語や文化に対する関心を深め、国際理解の基礎を培う。」となっています(*高校の目標も「基礎的な」と「の基礎」が省かれるほかはほぼ同じ)。ここには「コミュニケーション」という言葉がまだ遠慮ぶかく使われていて、現在の学習指導要領のように「コミュニケーション能力 (の基礎)を養う」という目標にはなっていません。