Archive for 10月, 2012

自分の教え方を変えようとしない高校教師は、筆者の察するところ、自分が変わっても高校の教育はそう簡単には変わらない、という気持ちがあるのではないでしょうか。自分が投票しても日本の政治は変わらないと言って選挙を棄権するのに似ています。それは言うまでもなく、選挙民としての義務の放棄であり、責任の回避です。教師が自分の授業のやり方を変えるのは確かに大変な努力を必要とします。自分の教わったように教えるのがいちばん楽です。しかし、自分ひとりの努力で高校の教育がどうなるわけではないと考えて何もしないのは、教師としての義務の放棄であり、責任の回避にほかなりません。

 確かに、学校を出たらすぐに役立つ英語を教えてほしいという要求には理不尽なものがあります。第1に、生徒たちが将来必要とする英語力は多様であり、限られた学校カリキュラムの範囲でそれらの要求のすべてに応えることは理論的に不可能です。しかも、英語は日本においては完全な外国語です。20世紀の後半までは、一般の日本人が日常的に英語を使用する状況はほとんどありませんでした。英語の教師ですら、授業以外に英語を使うことはそう多くはありませんでした。そういうわけで、世の人々の、ネイティブ・スピーカーと同じように英語を使えるようになりたいなどという夢は、真剣に取り上げる価値もありませんでした。

 しかし世紀の変わり目に、この状況は急激に変化しました。インターネットの普及とグローバルな通信手段の拡大によって、英語による情報の授受は日常的なものになっています。これからの世界で生きて行こうとする若者たちは、英語を知らなくてはどうしようもないという事態に遭遇するでしょう。特に知的な仕事に就く人たちはそうです。彼らの多くが必要とするであろう英語力の中には、印刷物やインターネットで得られる情報をすばやく理解する能力と、自分の発信したいアイディアや想いを、音声によるプレゼンテーションや論文・エッセイの形で、きちんとした英語で表現する能力が含まれます。高校の英語授業でそのような能力の基礎を身につけさせることは、今や高校英語教育の主要な目標となっています。テキストを読んで何とか訳せればよいという時代はもはや過去のものになっているのです。

 先日の新聞で作家・高橋源一郎氏の「論壇時評」(『朝日新聞』10月25日)を読みました。大震災で大きな被害を受けた岩手県宮古市の漁業協同組合は、右往左往している行政に頼ることなく、残された船を漁協で協同管理することによって、自分たちの力でどこよりも早く復興の狼煙をあげることができたといいます。そこには「自分たちの権利を守るために人任せにせずに責任を負う」という自治の基本的な理念が、自分たちの海を守ろうという漁民たちに共有されていたというのです。高校の英語教師たちも、日本の英語教育をどうしたらよいのかを、文科省や地方教育委員会の行政に頼るのではなく、各自の英語の授業の中でそれを実現する努力していただきたい。英語を教えるという自分たちの権利を守るために、その仕事は自分たちで責任を負うという気概を示していただきたいのです。

 これからの世界を生きる日本の若者たちが必要とする英語力は、簡潔に言うと、英語情報を正しくすばやく理解すること、および自分の考えなどを適確に表現する能力です。教師の仕事はこの二つの能力の基礎を生徒にしっかりつけてあげることです。そしてその二つの能力は、教育の仕方によっては、一方だけが発達し他方が未発達のままに終わってしまう。つまり、辞書があれば与えられた英文を何とか理解できても、自分では何も言えない、書けないということになります。このことは日本のこれまでの英語教育の経験から明らかであり、教育方法に問題があったことを示しています。

 では、高校の英語授業をどのように変えたら現状から抜け出すことができるでしょうか。そしてすべての教師にできることがあるのでしょうか。すでにそのような実践研究は始まっています。最近、東京学芸大学・金谷教授らの研究会が『高校英語授業を変える』(アルク2011)を出版して成果を問うています。私たちもそれをも参考にしながら、文法訳読式で教えている先生方と共に、生徒に理解力と同時に発表力をも身につけさせる授業とはどういうものかを考えてみたいと思います。公開授業などに華々しく登場する高校生のパネルディスカッションやディベートは見栄えがしますが、それだけが高校英語の目指すものではありません。もっと地味で日常的な授業活動が大切です。(To be continued.)

日本のプロ野球に異議あり
(1)一昨日(2012/ 10/25)は、プロ野球のドラフト会議が行われました。各球団が獲得したい選手の氏名を公表して、複数の球団と競合する場合は、くじを引いて当たった球団がその選手と交渉する権利を得るわけです。私はこの会議についてはあまり良い印象を持っていませんでした。「どこの球団になってもかまいません。全力で頑張ります」のような、さわやかな態度の選手があまり多くないと感じていたからです。今回は、複数の球団から指名されても、「交渉権のある球団に行きます」と言う選手が多いようで、少し安心しました。

(2)1972年の「江川問題」を記憶している野球ファンはまだ多いと思いますが、どうしても「巨人」に行きたいという気持ちも分からないではありません。しかし、そもそも「ドラフト(draft)」は、軍隊に兵隊を集めるための「徴兵」のことです。徴兵されて「自分はその軍隊へは行きたくない」といった希望は受け入れられないはずです。アメリカの大リーグへ行きたいという高校生もいますが、日本の球団は、「日本へ戻りたいと言っても、すぐには復帰させない」といった意地悪をしています。この際、大リーグとの待遇の違いなどを考慮して、日本のプロ野球のあり方を再考すべきだと思います。

(3)日本のプロ野球のもう1つの問題は、「クライマックス」という試合方法です。各リーグでの優勝チームが「日本シリーズ」を戦うのではなく、上位3チームでトーナメント方式の試合をして、その優勝チームがそのリーグの代表になるものです。「消化ゲーム」を減らす」というメリットはあるようですが、今年の「横浜ベイスターズ」のように極端に弱いチームがあったのでは、あまり意味がありません。今年は、両リーグとも、リーグ戦の優勝チーム(「巨人」と「日本ハム」)が代表になりました。「順当な試合結果だ」と評していたスポーツ評論家がいましたが、私は「それなら、“クライマックス”なん必要ないではないか」と思いました。もともと、観客が動員出来て金儲けになるから始めたことですから、結果はどうでもいいのかも知れません。

(4)もう1つ文句を言いたいのは、「コミッショナー」のことです。日本プロ野球機構が、弁護士、社長、大学教授などから人選していますが、「最高の権限を有する」とされながら、その権限を行使しない、または行使できないのです。「ワールド・ベースボール・クラシックス(WBC)」の参加をどうするかで、球団と選手会の意向が合わなくてもめていても、コミッショナーの声は聞こえてきませんでした。この大会は、利益配分などに問題が多いようで、優勝経験もある日本はもっと発言すべきだと思います。日本人の対外交渉のまずさは、政治の世界ばかりではないようです。

尼崎の大量殺人事件と野田内閣のこと
(1)兵庫県尼崎では、何人もの人が死体で見つかったり、行方不明になったりしていて、連日のように報道されています。ラジオでは、「人間関係が複雑で、ラジオではとても説明出来ません」とキャスターが悲鳴を上げるほどでした。これが一人の女性によって起こされた事件の可能性が大きいのです。身の危険を感じた男性が警察に訴えても、「事件性がない」と取り上げてくれなかったようです。中には、尼崎から千葉県まで逃れた男性が、追いかけてきた被疑者の女性に見つけられて連れ戻されたという例もありました。これで、「日本は法治国家だ」などと言えるのでしょうか。

(2)不謹慎のようですが、私はこの事件と野田首相の人事とを結び付けて考えたくなりました。野田首相は、次々と新大臣を誕生させましたが、困ることがあるとすぐに首を差し替えて、野党の追及を逃れてきました。交代要員がいなくなると、前任の大臣を復活させたりしています。総理、総裁という権限を利用して人事を操る姿は、「殺すぞ」と脅して大勢の人を服従させた女性被疑者と似ているではありませんか。恐ろしい世の中になったものです。(この回終り)

(114)英語との付き合い-39

<英語を学ぶ日本人(成人)の考え方>(1) 

 茅ヶ崎方式の英語学習会が発足してから丁度20年経ち、21世紀に入った2001年、前年に小渕恵三首相の私的機関である「21世紀日本の構想」懇談会が発表した報告の中の、“英語第二公用語論”や小学校への英語教育の導入の可否をめぐって賛否の意見が渦巻いていた。私はこれを機会に、茅ヶ崎方式の協力校で学ぶ人達が英語の学習についてどんな考えを持っているのかを知り今後の著作に活かしたいと思い、(有)茅ヶ崎方式英語会に協力校アンケート調査を実施してもらった。回答にはかなりの努力を要する設問であったが、当時の協力校全体の半数にあたる67校から真摯な回答があった。以下各項目について順次掲載し、項目ごとに私の見解を付したい。(実施は2004年夏)

● 調査の内容と方法

1.質問は次ぎの7項目とした:

① 英語を学ぶ目的。                                    
② 日本人にとってどんな英語が必要か。                             
③ 英語学習の心がまえ。                                  
④ 学習の方法。                                       
⑤ 文法学習について。                                
⑥ 指導者と教材。                                      
⑦ 日本語或いは日本語学習との関係。言語についての基本    的な問題。 
 
2. 質問の方法:

私があらかじめ下記の10冊の本を読んで、上記7項目に該当する部分を抜き出して分類し、回答者の考えがどの意見にもっとも近いかを訊ねた。
* 順不同。<   > 内は初刷の日付。 (    ) 内の数字は著者の生年。

1. 日本語力と英語力 
   斎藤孝・斎藤兆史 (1960 明大教授: <2004年4
月> 1958 東大教授)  中公新書 ¥780     

2. 英語は日本人教師 
   上西俊雄  (1939 辞書編集者) <2004年4月>   洋泉社   ¥750 

  3. 超英語学習法 
     野口悠紀雄  (1940 元東大教授)<2004年4
月> 講談社   ¥1575 

   4. 英語の音読指導 
      土屋澄男  (1930 元文教大教授)  <2004         年5月> 研究社   ¥2310

   5. 世界の英語を歩く  
      本名信行 (1940 青山学 院大学教授) <2003年      11月> 集英社新書 ¥735 

   6. あえて英語公用語論  
      船橋洋一 (1944 朝日新聞コラムニスト) 
      <2000年8月> 文春新書  ¥740        
    
   7. 英語を子供に教えるな 
      市川力 (1963 米国在住日本人子女進学塾)          <2004年2月>  中公新書  ¥800 
       
   8. 日本人は何故英語が出来ないか 
      鈴木孝行 1926 慶応大学名誉教授) <1999年7      月>  岩波新書  ¥700        

   9. 誰がこの国の英語をダメにしたか 
      澤井繁男 (1954 駿台予備校講師)
      <2001年12月> NHK出版 ¥700           
  10. 英語屋さんの虎の巻 
      浦出善文 (1961 産業翻訳者)<2001年11月>       集英社新書 ¥710 
        
① 英語を学ぶ目的

  ● アンケート回答者の選択 (番号は上記の10冊の本の番     号)
  * 井深大,盛田昭夫の両氏は、かなり高い年齢になってか     ら英語の勉強を始めたにもかかわらず、英語の使い手と     してはかなりのものだった。・・・ソニーのトップとして、ま      た日本を代表する企業人として、相手にどうしても伝えた     いことがあったからこそ、それを英語でどう表現すればよ     いのかという問題に、並々ならぬ関心があったにちがい
     ない。(10)
  * 20世紀の日本の歴史をすべて「失敗」で片付けるつもり     はありません。しかし日本の失敗と過ちを冷静に振り       返っておくことも必要です。その中のひとつに「対話」の      失敗があります。・・・21世紀になると、グローバリゼー      ションと情報革命によって、国々と社会と個人の世界規      模でのネットワークが急速にひろがり、それを使った対      話が可能になるからです。ここでの共通語は英語となる     でしょう。(6)

 ● 私の見解

 回答者が選んだこの二つの文章は、国際化が進むにつれて、ビジネスをはじめ、様々な分野でのコミュニケーションには、共通語としての英語を習得することが、重要な条件になりつつあることを示しており、同時に、目的を達成するための手段である英語の習得が、日本人にとって決して容易でないことを暗示しています。
茅ヶ崎方式英語会の目的は、人それぞれの人生の目的を達成するために、英語が必要だと考え、具体的な目標(例えは英検1級合格)に向かって努力している人達が、その目標を達成するお手伝いをすることです
 ところで、「私にとっての」英語学習の究極の目的は、「戦争の根絶」に寄与することです。以前このブログにも書きましたが、私は戦争中、運よく3回命拾いをしました。一方で、運悪く戦争で命を失った大勢の人達を知っています。特攻隊員として花も蕾の若い命を捧げた動員学徒の先輩達、そして何よりも空襲で焼け野原になった東京のあちこちで見た黒焦げの遺体となった数しれぬ人達、それに引揚げの途中、国籍不明の潜水艦に船を撃沈されて北の海に沈んだ妻の家族。これらの人達の無念の思いを代弁し、再びこのような不幸を生む戦争を起こさせないようにするのが私の使命だと思っており、敗戦以来私の身についてしまった生き方です。
 そういう生き方をする上で、英語は有効な手段であると実感してきました。30カ国近い国の人達が働くNHKの国際局では、共通の言語は残念ながら日本語ではなく英語でした。何かトラブルが起きても英語が出来なければ解決は不可能です。相手の言い分をきちんと理解し、こちらの真意を正確に伝えられる程度の英語が身についていれば、たいていのトラブルは話し合えば解決します。むしろトラブルや対立があって、それが解決した後にこそ、本当の信頼関係が生まれると感じました。アメリカ人ジャーナリストとは、廣島、長崎への原爆投下について対立しましたが、人類共滅の危機をもたらしかねない核戦争という愚行は絶対に防がねばならなず、そのために働くのはジャーナリストの使命だという点では、多くの人達と意見が一致しました。激しい意見のやり取りの後、”We are all humans ! ”と言いながら強く私の手を握ったアメリカ人の笑顔が今も心に残っています。 (M)
                   

文科省の意図する高校の英語教育と実践現場とのずれは、教師を二つのタイプに分けます。一つは学習指導要領の趣旨に賛同しそれを推進しようとする教師たちです。かつてSELHi(Super English Language High School)の実験校がそうであったように、文科省の意図に沿った指導を推進する地域のパイオニア的存在を目指す高校では、校長や教育委員会が動いてそれに賛同する教師たちを集めます。その人たちの多くは英語のコミュニケーション能力が他の教師たちよりも優れており、指導実績を持っている教師たちです。一般の高校にも、たいてい、そういう教師が一人か二人はいます。しかし多くの場合、彼らは学校内では少数派で、他の教師たちを動かすだけの影響力を持ちません。

 英語教師のもう一つのタイプは、おそらく高校で圧倒的多数を占めると思われる伝統的指導法に固執する教師たちです。彼らはそれぞれ自分が教わったように生徒を教えようとします。自分は学校で「文法訳読法」によって英語を教えられ、それで英語が好きになって教師になったのだから、そのやり方で英語を教えて何が悪いのか、という気持ちがあります。そういう人たちが怠け者だというわけではありません。それぞれ自分なりに教え方の工夫をします。しかしその教え方を客観的に検証するということはしません。今までずっとそうしてきて、それで教師としての職分を果たすことができたのだから、いまさらそれを根本的に変える必要がどこにあるか、というわけです。

 そういう保守的な教師たちは学習指導要領にあまり関心を持ちません。実際には完全に無関心な人から相当に関心のある人までいろいろでしょうが、その人たちはおしなべて「コミュニケーション能力」という概念を信用していません。それは彼らにとって完全に抽象的な概念です。なぜなら、高校教師をしていて英語を実際に使うのは、英語の授業を除いてほとんどないからです。たまに学校にやって来るALTなどの外人教師に対しては、顔を合わせたときに挨拶するくらいですみます。もちろん、これからのグローバルな世界を生きる生徒たちは英語による「コミュニケーション能力」も必要だろうとは考えます。しかしそれを高校教育の限られた授業で身につけさせることができるとは思いません。中には、学習指導要領で教育を縛ろうとする文科省の姿勢に反発を感じている人もいるようです。そういう人たちも、学習指導要領に表向き反対しないかぎり、自分自身の職務に忠実であれば解雇にはなりません。高校教師の本文は生徒や父母の望む就職や進学に奉仕することにあると、彼らは信じて疑いません。

 高校の教育を変えるには、そういう保守的な教師たちに新しい教育技法を理解してもらい、それらを少しずつ取り入れてもらうほかありません。しかし一般に、教師が自分の教え方を変えるというのは容易なことではありません。いきなりスピーチやディベートを授業でやれと言われてもどうしてよいかわかりません。教師がそういう活動を授業に取り入れるためには、そういう活動を自分で経験してみなければなりません。文科省や教育委員会はそういう機会を増やそうとはしてはいますが、それらに参加する教員の数は限られているので、その効果は部分的で、大きな革新的な変化は今のところ起きていません。

 しかし、どんな保守的な教師であっても、現在の英語教育の現状に満足している人は少ないでしょう。今のやり方をちょっとだけなら変えてもよい、という人は多いのではないでしょうか。現在行っている訳読法の授業を完全に否定するのではなく、少し工夫をして、文部省を含めて世論が強く希望している「コミュニケーション能力の育成」に力を貸してもらうのです。一般に、これまでの高校の授業は生徒に難しいテキストを与え、それを理解させることに時間とエネルギーの大部分を費やしていました。生徒は英文をあるていど理解する力はついても、英語を実際に使うことはほとんどできないというのが普通の状態でした。そこで、授業における理解のための時間をできるだけ短縮し、残った時間を実際の言語使用につなげる活動に当てるようにするわけです。

 この考え方は高校の英語授業をかなり変える力を持ちます。これならば自分にもできそうだということで、これまで伝統的指導法を固守してきた教師たちも乗ってくる可能性があります。現在行われているような、「コミュニケーション」を強調するあまり教師を悪者にするようなやり方では成功しません。こんど改訂された高校学習指導要領の「授業は英語で行うことを原則とする」というような、指導法の根幹にかかわることを法令でもって高圧的に押しつけようとする態度では、現場教師が反発を感じるのは当然です。文科省はもっと現場の教師たちの言い分を聞くだけの度量も必要です。(To be continued.)

愛国心と国の政策のことを考える
(1)どこの国の国民にも愛国心はあると言えるでしょう。ただし、それがどういう動機で生じるものかは、その国の政策と大きな関係があると思います。つまり政治家に責任があるのです。中国のように一党独裁の政治体制でも、中心的な指導者が交代することがありますから、ここ数カ月の反日デモは、権力の座を失いたくない指導者が、対外問題に国民の目をそらせるためのものだという見方が日本では有力です。これも間違いだとは言えないでしょう。

(2)日本の政権は、野田内閣になって1年近く首相は代わっていませんが、その間に3回も内閣改造(つまり大臣の入れ替え)をやっています。その結果、大臣の失言、失格が多いのは致命的な欠陥だと思います。庶民の愛国心は、国の最高権力者である首相の言動と直接に結びつきやすいですから、首相への信頼感が失われれば、愛国心も消えてしまうでしょう。さらに、首相がだらしないと、独裁者の出現を期待する空気が強くなりがちです。

(3)しかし、愛国心の問題が単純ではない証拠に、オリンピックのような国際試合があると、日本国民のほとんどは日本の選手やチームを応援します。これも愛国心の表われと言えなくはありませんが、「野田内閣が好きだから応援する」という意識はまずないでしょう。国語辞典は、「愛国心=国を愛する心」と単純に定義していますが、実は、この「国」の定義が問題なのです。「国の財政」などと言う時は、大統領や首相が絡んできます。

(4)今日(10月22日)の早朝に、NHK ラジオ「深夜便」で、作家の渡辺一枝氏の「チベットと被災地に重なる思い」という話(連続中)を聞きました。この人はただ物書きをしている作家ではなく、チベットには何回となく行き、東日本大震災の被災地をボランティアとして訪れています。最近のチベットでは、中国の官憲の取り締まりが厳しくなって、チベット人は国内を自由に出歩くことも出来ない状況らしいです。これでは、チベット語は抹殺されて、彼らは漢民族の一部としてしか生きるすべはなくなるであろうとのことでした。

(5)チベットのダライ・ラマ法王のインドへの亡命(1959)や来日(2011)は大きく報道されましたが、その後のチベットの状況はあまり知られていないと思います。中国は第2次大戦中の日本の悪行を未だに宣伝し続けています。確かに日本は朝鮮半島を併合して、朝鮮人に創始改名を強いるようなひどいことをしました。今の中国はそれと同じようなことをチベット人に行っているようです。

(6)確かに中国の覇権主義は警戒すべき脅威ですが、領土問題などは時間をかけて冷静に話し合うことが大切だと言われます。しかし、野田内閣のやっていることは、相手を刺激するだけです。一方、自民党の安倍総裁も、靖国神社参拝で相手を挑発することしか考えていないように思えます。彼のスローガンの1つは「強い日本の再生」ですから当然でしょうが、私など第2次大戦を経験した者には、軍国主義の再生など絶対に御免です。

(7)野田内閣は、日本が進むべき方向を明確に示すべきだと思いますが、最近の支持率が10%台では期待できないでしょう。総選挙をしても棄権者が多いことが心配です。“八方美人”の野田首相が、日本を“八方塞がり”にしてしまったと思わざるを得ません。(この回終り)

(113) PC教室始末記

<タダほど高いものはない>

 茅ヶ崎方式英語会15周年記念のfarewell addressの最後に、日本社会の今後のkey wordsとして、情報化、国際化、高齢化を挙げ、英語会に対して特に高齢者、身障者向けのパソコン教室の開設を促した。私自身は、教材作成の必要上かなり早くからPCを使っていたので、PCの持つ利便性や可能性の大きさが、高齢者や、身障者の可能性を引き出すのに大きな力を発揮できると考えていたからである。

 パソコンは1980年代の中頃に普及し始めたが、まだ庶民の手には遠く、当時主流だったNECの“98シリーズ”は、安いもので一台65万円もした。それでも1台だけ事務所に入れて、スタッフの興味あるメンバーが勉強したが結局ものにならず、ワープロ機能と、それを使って作成した教材をゼロックスのコピー機と連動させて印刷する機能を活用するにとどまった。

 ただ、これによってワープロを使用できるスタッフが増えたので、英語の学習会の合間をぬってまずワープロ教室を開講したところ、英語会の会員以外にも参加者が広がっていった。そこで英語会の運営から引退したのを機会に、残った100万円の資金に加え、ワープロ教室の会費をプールして、1996年秋に茅ヶ崎駅前の貸しビルに有限会社の茅ヶ崎方式英語会パソコン教室を開設することとした。パソコン教室の代表には、ワープロ教室の講師をしていた故石川啓一デスクの奥さんの和世さんをお願いし、あらかじめ、半年間読売文化センターのパソコン教室に通ってもらい、教室運営のknowhowを勉強してもらった。

 WORDとEXCELそれにネットの閲覧とメールの送受信に必要な学習時間を検討した結果最低60時間は必要という結論になり、毎週一回2時間、30回で終了とうカリキュラムを作成した。初めて事務所にPCを入れた時の体験から、高齢者や女性は導入期の対応をあやまると、かえってPC嫌いにさせてしまう危険が大きいと考え、最初の1ヶ月間は採算は度外視しても、マンツーマンに近い体制をとるよう石川代表にお願いした。さらに、最初の2時間は、私が担当し、PCとはどういうものなのか、PCを使うことでどんな可能性が開けてくるのかを、受講者の心に響くように説明することにした。また、英語会の方針に沿って、会費は出来るだけ安くと要請したが、録音機一台あれば済む英語の学習会とちがって、PC教室には少なくとも10台のPCと予備機、さらにネット関連の設備や教材用のアプリケーションソフトなども必要なため、会員50人規模で、月額1万円以下では不可能という算定結果が出て、不本意ながら承認した。それでも近辺のPC教室より相当安かったので、会員は開設一年で100人を超えた。当時小中学校でPCの導入が始まろうとしていたので、学校の先生方の入会者もあり、熱心な学習態度でクラスをリードしてくれたし、私もボランティアの補助講師として夜の学習会に参加した。

こうしてPC教室は順調に発展を続けたが、思いがけないことが起き、教室をたたまなければならない事態になってしまった。政府が、無料のPC講習会を全国で始めたのである。

 この政府によるPC教室は、IT(information technology)を〝イット”と呼んで話題になった森喜朗首相の肝いりで、総務省がIT情報本部を立ち上げ、いわゆる有識者、財界人、NHKなどの関係業界代表らによる会議を設け、550億円近い補正予算を組んで、2001年の4月にスタートした。新聞、TV,雑誌も華々しく提灯を持った。しかし、私は、たった12時間で、PCの基本操作を覚え、後は自分で実行できるというのは、我々の体験からしてあまりにもPCを甘く見た安易な計画ではないかと唖然とした。結局大多数の受講者は、入り口を覗いただけで、PCへ拒否反応を示すことになるだけだと思った。莫大な国費が無駄ガネになる恐れがあり、同時に民業圧迫によって、多くのPC教室がつぶれるか、生徒数の激減による受講料を値上げに追い込まれることになるだろうと予感した。

 この予感は的中して、我々のPC教室の入会者は半減し、12時間で放り出された人達がもどってくるかもしれないという淡い期待も(多分予想どおりの拒否反応によって)裏切られ、安い会費が裏目に出て、経営は大赤字に転落した。政府という看板とタダという誘惑には太刀打ちできず、いうなれば「ごまめの歯軋り」をしながら、我々のPC教室は4年足らずで幕を閉じた。(M)

コミュニケーション能力を育成する任務を負わされて、現代日本の英語教師はいくつかの実際的問題に直面します。最大の問題は、学校教師の多くが英語によるコミュニケーションを指導された経験がなく、指導した経験もないということです。1998年・1999年の学習指導要領改訂において、中学・高校の英語科目標が「聞くことや話すことなどの実践的コミュニケーション能力を養う」とされたとき、英語教育界が大きく動揺したことを思い出します。もちろんこの趣旨に賛成の人もいました。筆者が当時理事長をしていた財団法人・語学教育研究所(語研)はこの目標を歓迎しました。それこそが、語研の長年主張してきたものだったからです。しかし現場の多くの教師たちは、そんな目標を本当に達成できると文部省は考えているのか?という感じだったようです。彼らはそのような教育を受けた経験がなく、どのようにして聞くこと・話すことを教えたらよいかを知らなかったからです。

 中学校では、語研が以前から提唱していた「オーラル・メソッド」や、第二次大戦後にアメリカからやって来た「オーラル・アプローチ」または「オーディオリンガル・メソッド」の考え方と指導法がかなり普及しており、戦前の旧制中学校で行われていた「文法訳読法」をそのまま踏襲している教師は、皆無ではありませんが、もはや少数派になっていました。中学校用検定教科書の本文にも対話や会話が多く取り入れられ、中学生に身近な生活について問答したり話し合ったりするテキストが増えていました。そういうわけで、これからの英語教育の目標は「聞くことや話すことなどの実践的コミュニケーション能力を養う」ことだと文部省が宣言したと聞いて、さほど驚く教師はなかったでしょうし、むしろこの目標を歓迎した教師が多かったと思われます。なぜなら、中学校教師が生徒の学習指導に苦労するのは、聞き話すことよりも、英語の読み書きの指導だからです。

 一方、高校の多くの教師たちは「聞くこと・話すこと」を強調するこの目標に違和感を持ちました。卒業生の大部分が就職する高校では、この新しい目標が歓迎されました。しかし卒業生の大部分が大学進学を希望する高校では、これはたいへん困った目標でした。なぜなら、生徒も教師も大学入試を意識せずに英語を学び教えることは不可能だからです。そしてその入試問題は、いまだにリーディングを中心としたペーパーテストだからです。大学に進学したい生徒は、何を置いても、英語が読めるようにならなければならないのです。このことは生徒だけでなく、教師にとっても無視することのできないプレッシャーとなります。「聞くことや話すことなどの実践的コミュニケーション能力を養う」だと?「ふざけるな!」というのが彼らの本当の気持だったのではないかと想像されます。

 そういうわけで、1999年に改訂(2003年4月から実施)された高校学習指導要領は、まさに世紀末的様相を現場に生み出しました。その混乱は「オーラル・コミュニケ—ション」という科目の扱いに見られます。「オーラル・コミュニケーションA・B・C」(略して「OCA・OCB・OCC」)という3つの科目が新設されたのは1989年の学習指導要領でしたが、その中のOCCは多くの高校において「OCG」に変化しました。「OCG」とは「オーラル・コミュニケーション」の名において行われるGRAMMARの授業のことです。1999年の改訂によって、それらの科目は「オーラル・コミュニケーションⅠ・Ⅱ」に変更されましたが、実態は変わりませんでした。「OCⅡ」はほとんどの高校で「OCG」に変化しました。その証拠は「オーラル・コミュニケーションⅡ」の検定教科書の発行点数がきわめて僅少であったことに見られます。文科省もそういう実態に気づいたのでしょう。こんど改訂された学習指導要領では、「オーラル・コミュニケーション」という科目そのものが消えました。

 このようにして高校の「オーラル・コミュニケーション」の授業は、この20年間きわめて異常な状況を生み出しました。文科省はおそらく公には認めないでしょうが、この科目の設定は明らかに失敗でした。こんどの改訂では(高校での実施は来年4月から)、「聞くことや話すことなどの実践的コミュニケーションの能力を養う」という目標そのものが、「聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力を養う」という穏健な文言に変えられました。しかしこんども新たな火種があります。新しい科目として「英語表現Ⅰ・Ⅱ」が入ったことです。一部の高校教師から聞いたところでは、これらの科目は実質的に「グラマー」の授業に変化するだろうということです。文科省と高校現場の乖離はまた新たな混乱を生みそうです。そしてそのことは、高校生たちの英語学習に少なからぬ影響を与えることになります。(To be continued.)

NHK に異議あり!
(1)NHK も最近は少しおかしいと思わざるを得ません。例えば、朝の「テレビ小説」ですが、まだ終了までに一週間もある時(9月末)に、出演者をトーク番組に登場させて、撮影の時の苦労や裏話などを語らせていました。民放は、スポンサーを失いたくないので、自局の番組の宣伝をするのは止むを得ない点がありますが、NHK が同じように視聴率を気にして、人気のあるタレントを追いかけ、出演させ、自局の番組の宣伝をしているのは理解に苦しみます。

(2)「朝ドラ」(「連続テレビ小説」の俗称)にしても、前回の「梅ちゃん先生」では、頑固で無理解な父親と、おせっかいで、無鉄砲な行動をするヒロインの話でした。今度の「純と愛」も、小さなホテルを経営する無理解な父親とけんかして家を飛び出したヒロインのおせっかいで、無鉄砲な話です。「梅ちゃん先生」のヒロインが、不可能だと思われた医学の試験に合格したのと同じように、今度のヒロインも、大阪の大きなホテルの求人に応募して、奇跡的に採用されるのです。フィクションですから、似た話になることはあるでしょうが、NHK が同じような話を続けて放映しなくてもよいのにと思います。

(3)「朝ドラ」もこのところ視聴率の低迷が続いていて、NHK は回復に懸命なようですが、今は視聴者の好みの幅が広くなっているのですから、どこの局も苦労しているわけです。NHK は 3.11 大震災の問題を風化させまいと、現状の問題点を指摘する番組も度々放送をしているのですから、そういう使命にもっと力を入れればよいと思うのです。

内閣改造の影響を考える
(1)野田内閣が3度目の内閣改造をしましたので、様々な批評がなされています。私が気に入った評言は、「在庫一掃内閣」というものです。新内閣発足の時の「適材適所に人材を配した」という自負心はどこへ行ってしまったのでしょうか。失敗した人事を、本人にも責任を取らせずにやり直すといった姑息な手段は許せません。案の状、田中法務大臣のような暴力団と付き合いのあった“不良品”が紛れ込んでいたのですが、官房長官は、「30年も前のことです」と無責任な発言をしていました。

(2)最近の殺人事件とか幼児虐待事件などでは、犯人が「日頃からいらいらしていて」と言うことが多いようです。誰でも、どこでも「いらいらする気持ち」は経験するものですが、その気持ちが犯罪にまで発展してしまう遠因は政治の混乱にあると私は考えます。昔から「不景気になると犯罪が増える」とは言われましたが、現在の不景気は世界的な規模のものですから、日本だけが抜け出すのはとても困難です。だからこそ、政治力に期待するのに、何もしてくれないのでは、庶民が絶望的になることは仕方がないではありませんか。

(3)被災地復興予算が、直接に復興とは関係ないところに使われているという指摘がなされています。官僚が作る文章には、必ずと言っていいほど、「など(等)」という言葉が付け加えられていますから、この語の解釈次第で、予算を何にでも使うことが可能になるのです。しかし、こういうことの積み重ねが、庶民の“いらいら感”の増幅に繋がると私は思います。やはり、早く解散、総選挙をすべきではないでしょうか。(この回終り)

(112)英語との付き合いー38

<15周年記念と引退>

 茅ヶ崎方式英語会の設立に当って立てた10年計画をなんとか実現できたのは、結局茅ケ崎自由大學の英語クラスを始めてから15年目の1996年のことだった。この年の9月に記念講演会の開催と記念文集の発行を実施することにしたが、講演会は台風の襲来で開催不能になり、講演の内容をパンフレットにして配布した(講演内容は茅ヶ崎方式英語会公式HPに掲載)。また、記念文集は、多くの会員の皆さんから投稿をいただき、自前の出版社である茅ケ崎出版が作成し、関係者に配布することができた。私はすでに67歳になっていたので、運営からは完全に引退し、余生を教本類の完成にかけることになった。

1.自前の教室と事務所の確保
会員が増え、自前の教室なしにはやっていけなくなったので、残りの資金のうち300万円を投じて、市役所の筋向いの国道一号線沿いに新築された3階建てのビルに二つの教室と事務所を確保した。この教室と事務所は今も中心的な協力校である茅ヶ崎校として使用されている。

2.自前の出版社の設立
15周年を迎える2年前、石川啓一氏の遺族から、石川家が九段下に新築した10階建ての貸しビルの2室を1年間無料で提供するという涙の出るような有難い申し出があった。このうちの1室を出版社にすることとし、代表には長年世話になった同文書院の柴田誠氏を引き抜いた。柴田さんとしては家族を抱え、清水の舞台から飛び降りるような決断だったろう。以後、茅ヶ崎方式英語会の教本類は、心置きなくここから出版できるようになったし、季刊教本は月刊誌に発展した。また、茅ヶ崎方式の基盤になったガテーニョ博士の”Silent Way”の解説書を土屋澄男さんが翻訳した「子供の“学びパワー”を掘り起こせ」や、戦後のNHK国際局の英語アナウンサーの草分けである水庭進さんの「英語街道を行く」なども出版できた。

3.週刊教材作成・頒布会社の設立と協力校の全国展開 
もう1室は、九段教室を開くことになり、毎日スイミングスクールのスタッフで、綱島分校の会員であった森由美子さんと平井朋子さんを責任者として引き抜いた。毎日スイミングの岡田代表には「オレのところの看板娘をふたりもかどわかすとは」と冗談めかして文句を言われた。その後お2人には、茅ケ崎方式英語会の週刊教材の作成とそれを使う協力校の展開の仕事をお願いした。2人の献身的な努力で協力校は北海道から沖縄まで180校に広がった。料金は1クラス4週間分1万円、コピーは自由なので、30人のクラスだと、一人当たり1回分は、100円程度になり、安い教材を提供するという目的は達せられたと思う。

この二つの事業はいまならNGOがよいと思うが、当時NGOは存在しなかったので、有限会社とし、最低資本金300万円のうち各200万円を出資、残りは有志にだしてもらった。これで当初資金は残り100万円となった。

4.月会費3000円、入会金なしの約束は、私が代表を務めた10年間は完全実施した。茅ヶ崎校の会員数は、鎌倉分校をあわせて400人に近づいていたので、なんとか収支を均衡させることが出来た。

経済的にめどがついた10年目に予定通り高橋義雄氏に代表を引き継いだ。高橋氏は、NHKを早期退職し、私の初志貫徹に協力してくれた。これで、私は心置きなく、茅ヶ崎方式英語学習法の教本・教材システムの完成など残された課題に取り組めるようになった。 (M)

「コミュニケーション能力」(communicative competence)を構成する下位能力については、Canale and Swain (1980) による分類がよく知られています。いろいろな書物に引用されているのでご存じの方も多いと思いますが、ここでできるだけ簡潔にまとめておきます。彼らによると、「コミュニケーション能力」は次の4つの下位能力から成ります。

(1)文法的能力(grammatical competence):すべての言語は一定の表現形式を持っています。まず話し言葉では音声が、書き言葉では文字が使われます。いずれの場合にも単語が一定の文法規則に従って並べられて何かの意味を表します。つまり「文法的能力」とは、言語によるコミュニケーションにおいて、音声または文字を使って語彙・文型・文法などの言語形式を操作する能力のことです。文法用語をたくさん知っていることとは違います。

(2)社会言語学的能力(sociolinguistic competence):言葉が使われる社会的なコンテクスト(場面・文脈)を理解し、その場にふさわしい言葉遣いで表現する能力のことです。私たちが母語を使う場合には、いくつかの可能な表現の中から、その場にいちばん適切だと思われるものを選んで使っています。外国語を習得するときにも、そういう能力を身につける必要があります。たとえば、現代英語には日本語のような複雑な敬語システムは存在しませんが、同じ内容でも丁寧さの度合いが異なるいくつかの表現があり、それらの違いに注意することが必要です。

(3)談話的能力(discourse competence):一連の発話や文章をまとまりのあるものとして理解する能力、また、与えられたコンテクストの中で一貫した発話や文章を構成する能力です。これはかなり高度に知的な操作を必要とするので、母語においても個人の能力の差は大きいと思われます。実際に、話の上手な人とそうでない人、文章の上手な人とそうでない人がいます。この能力を向上させるには多くの文章を読んだり書いたりする経験が必要であり、母語による経験だけでなく、英語による経験や訓練も役立つと考えられます。

(4)方略的能力(strategic competence):自分の言語技能の不完全さを補うために、いろいろなストラテジーを使ってコミュニケーションを続行する能力です。これは外国語でコミュニケーションを取ろうとするときには非常に重要です。相手の言うことが分からない場合に黙っていては話が途切れてしまうので、何とかして話を続けるような工夫が求められます。また言語外のいろいろな手段(ジェスチャー、顔の表情など)を使うことも必要になるでしょう。このような言語外の伝達手段は文化によって異なりますので、接触しようとする相手の文化を研究することも必要になります。

 コミュニケーション能力が上記のような下位能力から成っているとすれば、教える教師たちはそのことを意識せざるを得ませんし、指導に当たって常にそのことを意識することは正しいことです。しかしそうかと言って、それらの下位能力を最初から平等に扱おうとしても無理でしょう。(2)の社会言語学的能力や(3)の談話的能力は、英語によるコミュニケーション場面をいくらか経験した後に初めて理解が可能になります。たとえば自己紹介ができるためには、What’s your name? Where do you live? Do you live with your family? Do you have brothers and sisters? Do you go to school? Which school do you go to? What are you interested to do? などの質問に応えられ、そのような問答を他の人と自由にできるようになることが必要でしょう。これらの問答のいくつかはうまく指導すれば中学1年生でもできるようになりますが、それができるまでには相当量の基礎練習が必要です。たとえば、英語の音声に慣れて英語らしい発音でこれらの文が言えるようになること、英語の単語を覚えて文の読み書きができるようになること、文をただ暗記するだけでなく、文型に注意してそれを他の場面でも使えるようにすること、など。つまり、基礎とは(1)の文法的能力の獲得にほかなりません。

 もちろん、教師はこのような「コミュニケーション能力」の下位能力についてよく知っている必要があります。知っているのと知らないのとでは指導の仕方が違ってきます。知らなければ、語彙や文法の基礎的な事項を扱っているときに、それが実際のコミュニケーション場面での使用とどう結びつくかを生徒に示すことができません。基礎練習だけでは退屈な作業に終わります。逆に、実践的コミュニケーション能力を養うという理由で、性急に高度な活動を生徒に要求するとすれば、生徒はそれに必要な音声や語彙や文法の基礎的な訓練を欠いているために、コミュニケーション活動を表面的になぞるだけになるでしょう。近年のコミュニケーションを強調した英語指導がうまく機能していないのは、そういうことに原因があるように思われます。(To be continued.)