Archive for 12月, 2012

(123)   

<私版 今年の十大ニュース >

< 国内 >
1. 年末衆院総選挙 自・公圧勝 民主惨敗 維新第3極に。    第2次安倍内閣発足
2. iPS細胞の山中教授にノーベル賞 生命の新しい扉開くか
3. 領土紛争  尖閣、竹島、北方4島
4. 原発再稼動 規制委員会発足 原発直下に活断層
5. 企業不祥事  オリンパス AIG投資顧問 三菱自動車
6. 電気機器業界 韓国に押されて大幅赤字に ソニー、東
   芝、パナソニック
7. 深刻ないじめ事件相次ぎ表面化
8. 笹子トンネルの天井落ち、9人死亡
9. 東京スカイツリー営業開始
10.森光子、山田いすゞ、吉本隆明、小沢昭一ら逝く
*  ロンドン五輪日本選手活躍 吉田選手に国民栄誉賞

[ ひとくちコメント・順不同 ]
( ) 選挙がインチキならデモしかないじゃないですか
( ) 昭和遠く、大正は歴史となりにけり
( ) 平身低頭の“らしくない”顔つき
( ) 政治のベクトルは「真逆」へ
( ) 「3丁目の夕日」がなつかしい
( ) 話し合い以外に道なし
( ) 利益のためなら何でもあり
( ) 経済優先・安全軽視の落とし子
( ) 平準化は歴史の必然
( ) 扉の向こうの期待と不安

< 海外 >
1. 大接戦の末、米大統領にオバマ氏再選
2. 米の新国防戦略発表 アジア重視 
3. 中国指導部交代
4. 中国海軍力強化  初の空母就航
5. 先軍政治の北朝鮮”ミサイル”発射成功 
6. シリア内戦泥沼化  日本人ジャーナリスト凶弾に倒れる
7. ヨーロッパ財政危機・信用不安
8. アメリカ シェールガス大国に
9. ミャンマーの民主化進む
10.韓国に初の女性大統領
*  スティーブ・ジョブス 死去

[ ひとくちコメント・順不同 ]
( ) 軍事政権と海外企業の思惑一致
( ) 国連を無力化している犯人はだれか
( ) 他山の石か、明日はわが身か
( ) 政治指導者の男女格差世界110位(WEF)の日本女性
( ) 日本はますます不沈空母化 全国各地へオス!
( ) トップ7年、No.2 4年 下放で地獄を見た新指導者
( ) 格差是正か自助か 世界的2大潮流の激突
( ) 13億を養う資源確保に必要とか
( ) 戦前の日本そっくり
( ) エネルギー大国化の裏に大公害の予兆 (M)

      

教師による文法訳読を中心とした授業から、生徒による発表活動を中心とした授業への転換は必ずしも容易ではありません。しかし、これからの世界を生きていく若者たちにとって英語がコミュニケーションの手段としてますます必要なものになるだろう、そして英語に習熟することは彼らの死活問題となるかもしれないという認識は、しだいに多くの教師たちに共有されつつあると思われます。そこで、授業でできるだけ多くの生徒に発言または発表の機会を与えると共に、日常の授業をもっと活性化する必要があります。

 筆者はこれまで語研の研究大会(一般財団法人・語学教育研究所研究大会)で優れた教師たちによる多くの公開授業を見てきました。それらはすべて技術的に優れた授業でした。教師はできるだけ多くの英語を話すことによってインプット量を増やし、small talkのような、生徒との英語によるinteractionを工夫していました。また、テキストの効率的な理解と、それに基づくretellingなどの発表のさせ方を考案していました。教師は良い発音で良い英語を話し、生徒にも良い英語を話させようと努めていました。生徒たちも教師の指導によく従っていて、見ていて気持ちのよい授業でした。

 しかし一方では、筆者はそういう授業を見ていて、参観者の目が教師にだけ注がれていて、生徒が何をしているか、またそこに至るまでに何をしてきたかを見逃しているのではないかと心配しました。授業の流れはスムーズで、教師が適切な設問をし、生徒がそれに見事に答える、というような表面的な事柄だけが注目されて、「あんな授業は自分にはできそうもないな」というような感想を抱いて帰ることにならなければよいが、と思ったものです。

 言うまでもなく、授業は教師のためのものではありません。生徒が学習するためのものです。生徒がたくさんのことを学習するためには、授業中に行なっているいろいろな活動が、彼らにとってチャレンジするだけの価値のあるものでなければなりません。公開授業ではどうしても参観者の目が教師のすることに注がれますので、教師がそれを意識するのは避けられないでしょうが、ふだんの授業では教師が生徒のしていることをしっかり見ていることが重要です。学習は個々の生徒の内面で起こるものです。ですから、本来の授業はもっと地味で、他人には見せたくないような泥臭いものかもしれません。公開で行なわれるような見栄えのする授業も、実はそういうふだんの地味な授業が積み重なって成り立っています。ですから授業の参観者も、単に教師が何をするかだけではなく、その授業を成り立たせている生徒の内面的な活動にもっと注目すべきなのです。

 授業中に生徒を学習に専念させるためには、彼らを常にチャレンジングな活動に追い込む必要があります。エアコンのついた部屋で先生の話に気持ちよく耳を傾け、時々先生の発する平易な問いにYesや Noなどと答えているだけでは、真に必要な学習は起こりません。授業を決まったルーティーンの上を走らせるのではなく、眠気を吹き飛ばすような大胆なタスクに挑戦させることで、生徒のチャレンジ精神を活性化するのです。たとえば、ただ英語のテキストを漫然と聴かせるのではなく、あらかじめ聴くべきポイントをいくつか示して、それらに集中して聴かせる工夫をしてはどうでしょうか。あるいは、テキストの内容が理解できた段階で、その内容について自分の感想や意見をまとめるというような活動も、生徒にとって非常にチャレンジングなタスクになるでしょう。そうするためには、しばらく思索のための沈黙を必要とするかもしれません。その間クラスは一瞬戸惑い、停滞しているかに見えるでしょう。話し出す前に、頭に浮かんだものを各自のノートに書いてみる必要があるかもしれません。そのような活動は公開授業では取り上げにくいものですが、意味のある活動です。

 実際に、現実の言語使用ではじっくりと考えなければなられない場面がしばしば起こります。「今度の国政選挙で自民党が大勝しましたがその原因は何だと思いますか」というような世論調査が行われています。回答者はきちんと考えて答えているのでしょうか? このような世論調査の方法と結果にはいつも疑問を感じます。この問いに選択肢で答えるのは容易でしょうが、論理的に筋道たてて述べるのは簡単ではありません。英語の授業でも、自分の考えをまとめてそれを表現するというのは容易ではありません。授業はスムーズに展開しないかもしれません。しかし高校生にとっては、それは取り組む価値のある魅力的なタスクではないでしょうか。(今年の投稿はこれで終わります。皆さんどうぞ良い新年をお迎えください。)

選挙結果で考えたこと
(1)総選挙の結果は、周知のように自民党が圧勝し、民主党が惨敗という結果になりました。私はこの結果にはがっかりしましたが、その後の情勢を考えてみると最悪な状態は免れたかなと考えています。その理由は、第3の勢力として有望視されていた日本維新の会が、49議席程度に留まったことです。
橋下大阪市長は、“やり手”かも知れませんが、その発言は軽はずみなところがあって、あまり信用出来ないからです。維新に簡単に合流した石原元都知事も似たような点があります。ただし、どういうわけかこの二人は選挙には強いのです。

(2)東京及び周辺の関東の人間は、これは私の個人的な推測ですが、“てれくさい”とか、“外聞が気になる”とかで、めったに本心は明かさないものです。そこで、少なくとも政治に関しては本心の分かりやすい人物を選ぼうという気持ちが働くのかも知れません。その点、“大阪のおばさんたち”は普段から本心で話し合っているせいか、街頭インタービューなどで、マイクを向けられても、よどみなく実によくしゃべります。日本維新の会などについての評価もはっきりしているようです。

(3)民主党の惨敗を受けて、野田首相は、「全ての責任は私にある」と言って、党代表を辞任しましたが、私はこの人は本当の敗因が分かっていないように思えました。最大の原因は、明白な大臣の失言や無能力、法律違反的な行為などについて、“罷免”という手段を取らずに、内閣改造で誤魔化してきたことだと考えます。そのために、大臣の数ばかり増えて、しかも当選回数はある程度あっても、行政の経験が乏しいために、失政が続いてしまったのです。

(4)新しく発足する安倍政権にしても、同じような失敗が繰り返されるのではないかと私は心配しています。国民の多くが望むのは、景気の回復、雇用の増大です。確かに、株価は急騰しましたが、私の素人判断ですが、子どもが父親に小遣いの増額をねだったら、父親がポケットマネーから出してくれたようなもので、父親の収入が増えたわけではないのです。したがって、長く続くはずがありません。世界的な不況の中で、日本だけが急に景気がよくなることなどあり得ないでしょう。現に、日本の貿易赤字は増大しているのです。

(5)安倍政権にも、経済問題、外交問題を含めて、張り切り過ぎて勇み足などないように願うばかりです。しかも、アジア諸国からは、「日本の右傾化」はとても警戒されているのです。外交は、お互いの信頼関係が無いとうまく行きません。NHK は昨夜(12月23日)、数時間の特別番組で、日本の今後の政治的課題について、視聴者の意見も紹介しながら、議論をしていました。視聴者の声も様々でした。明らかに見解の違う点のある公明党と組んで、自民党がどういう政治を行なっていくのか、目が離せない歴史の重大な場面だと思います。(この回終り)

(122)総選挙の結果に思う 松山薫

第64回衆議院選挙は、自民党の圧勝と民主党の壊滅的惨敗そして第3極としての日本維新の会の登場という結果になった。 前回、憲法問題が隠された最大の争点であると述べたので、この点に絞って選挙結果を考えてみたい。

今度の選挙では憲法問題はほとんどまともに論議されなかった。朝日新聞の調査によると、投票した有権者がもっとも関心を持った政策を4択でたずねたところ、一位は「景気・雇用」の35%、「憲法改正や安全保障・外交」は12%で最下位であった。

これは多分、改憲を政権公約には掲げるが、あえて争点にはしないという自民党の思惑通りであったろう。自民党がこのような戦術を採ったのは、小選挙区で勝つために、公明党との選挙協力が不可欠であったからだ。公明党は改憲には慎重で、加憲という立場をとっているし、選挙母体である創価学会の池田会長は主著「人間革命」で反戦平和の立場を明らかにしている。
そこで、今度の選挙では、改正戦略の第一歩として、第96条の改定に目標をおいた。第96条には「国会が衆参両院で3分の2の賛成を得て改正を発議、国民投票に付して過半数の賛成を必要とする」とある。国民投票の手続きを決めた法律は先の安倍内閣の時にすでに成立しているから、自民党としては、その時頓挫した手続き問題の審議を再開し、改正の発議を2分の1に引き下げようとはかるものである。これには、維新の会やみんなの党も賛成しているから、成立の見通しが立てやすい。それに、選挙直前の北朝鮮の〝ミサイル”打ち上げや、尖閣、竹島問題で国民感情は、国防軍、集団自衛権行使に有利に動いているという判断から、あえて、9条を争点にして票を逃がすのは得策でないと判断したものと思われえる。ただ、本丸の9条改定についても、選挙公約には掲げて、マニフェストになかった消費税の増税を強行して袋叩きにあった民主党の前轍をふむことをさけた。

今回の選挙結果で、憲法改正の可能性が蓋然性に変わったかに受け取られそうだが、このような選挙結果をもたらした背景を考えると、必ずしも、そうではないように思う。それは、今回の選挙結果と憲法改正に対する民意には乖離があると思える、つまり、議席数に憲法問題についての民意はあまり反映されていないと考えられるからである。その理由は以下の通り。

* 改憲が今度の選挙では争点にならなっかので、今後の選挙で、改憲が最大の争点になり対立軸がはっきりすれば、民意は違った形で現れる可能性がある。

* 自民党圧倒的勝利の選挙区選挙では、白票がこれまで最高の240万票に上った。このことは、自民党、日本維新の会の圧倒的有利のメディア予想のなかで、他党への投票が死に票になること嫌って、棄権したり、白票を投じた人がかなりいると推測させる。その中には、改憲政党への反撥を持つ人が多いのではないか。

* 選挙制度への疑問に加えて、多党化の中で政策の対立軸が不分明になり、誰に投票すべきかいわば意中の人が見つからずに棄権した人が多く、投票率は、60%を切って戦後最低となったが、対立軸がハッキリすれば、投票率は上がる「郵政民営化選挙(67.5%)」。そうすると全く異なった民意が示されるかもしれない。

* 違憲状態のまま実施された一票の格差は、最低2万7000票で当選、最高9万3千票で落選(つまり死に票)という信じられないような数字となって現れた。全体では、格差が2倍以上の選挙区が70を超え、自民党が43%の得票で237議席、民主党が22.8%で27議席、死に票が53%という異常な事態がおきた。都会の無党派層の票は徹底的に軽視されたが、この層には9条の改憲に否定的な人が多いのではないか。

こうしたことから、憲法改正、特に第9条が選挙の対立軸となった時には、今度の選挙とは異なった結果がでる可能性が高いと私は考えるのである。

その点は、自民党も十分承知しているから、改正の第一歩を96条に絞り、真の目的である9条改正をぼかしながら、8月の参院選挙で改憲政党が3分の2を獲得できるようあらゆる手段を動員してくるだろう。まずは、10兆円規模の大型補正予算、公共投資優先の来年度予算で、かつてと同じ土建業者を最大の集票マシンとする地盤固めに乗り出すだろう。

日本国憲法は、明治憲法が忠君愛国を基本理念とし、日本人としてのアイデンティティを強調するあまり、国威発揚の戦争を引き起こし、日本人が人間としてのアイデンティティを失ていった過去へ決別する道しるべであった。改憲勢力が言うように、この憲法がアメリカによって主導されたことは間違いないが、大事なのは内容である。日本国憲法は、民主、平和、人権を基本理念としているが、これは20世紀に二度の大戦を体験した世界人類の痛切な      反省の上に立って合意された国連憲章の言う普遍的原理に基づいている。

自民党が今年の4月に発表した憲法改正草案は、国防軍(草案では自衛軍)の創設を盛り込む一方、現行憲法11条にある基本的人権の条文をはずしており、国家を優先し個人の自由を制限する匂いがするなど、基本理念を根本的に変えようとしているように見える。

私は、日本人としてのアイデンティティを否定しているのではない。日本人としてのアイデンティティと人間としてのアイデンティティが両立できる社会であることを望んでいる。そして憲法はそれを保障するものでなくてはならないと考えるのである。

勿論制定後65年を超え、社会の変化によって実情に合わなくなった点があることもたしかである。国民的合意があれば、それらの点を変えることは、必要だろう。しかし、民主、平和、人権の基本理念を変えることは、国の形をかえ、現在の国民のみでなく、将来の世代にも影響する重大な事案である。これを隠された争点のままにして、いつの間にか改憲ということにしてはならない。

ところで、小選挙区・比例代表並立制の今の選挙制度は、前回政権交代という歴史的な結果をもたらしたが、今回は絶対得票率で3割台の政党が議席の6割を占めるという、民意を反映しない結果をもたらし、一票の格差是正とならんで選挙制度の抜本的改革が必要である事を強く印象づけることになった。自・公・民3党合意で是正はきまっているものの、政治家に任せれば、ゲリマンダー的な操作が行なわれる恐れが強いから、公正な第3者委員会で、民主主義の基盤である選挙が公正に機能するような制度をチエを集めて作ってもらい、国民的議論を経た上で、決めてもらいたいと思う。(M)

高校の先生方には、40人のクラスでは発表活動などできはしないと最初からあきらめている人が多いのではないでしょうか。生徒に英語を使わせる経験を積ませることは大切だが、その時間をどのようにして生み出したらよいのか分からない、というわけです。たとえば、各生徒に1分を割り当てても、全員が発表するには40分以上かかり、たぶん1回の授業では済まないでしょう。しかし、そういう時間が月に1回か2回あってもいいのではないでしょうか。1分あれば100語以上は話せますから、けっこう内容のあることが言えます。

 あるいは、毎授業に5人ずつ割り当てておいて、1分間のプレゼンテーションをさせるというのはどうでしょうか。クラス全員が発表を終えるのに8時間の授業が必要ですが、生徒にとってその機会は重要な意味を持つでしょう。クラスメートの前で英語を話すというのは、生徒にとって生涯初めての衝撃的な出来事であり、けっして忘れることのできない貴重な経験になるからです。1か月後に再び発表の機会が訪れることを知っていれば、彼または彼女は、こんどはもっと上手にやろうと心の準備をするでしょう。経験したことがなければ、何も起こらないのです。

 筆者はかつて担当した英語専攻の大学1年生のクラスで、高校の授業で英語のプレゼンテーションを経験したことがあるかどうかを尋ねたことがありました。驚いたことに(その後はそんなことに驚かなくなりましたが)、そういう経験を持つ学生が2割にも達しないことを知りました。英語専攻の学生でそうですから、他は推して知るべし。現在はもう少し改善しているかもしれません。ぜひそうあってほしいと願っています。

 しかし少ない授業時間の中で、なんとか生徒による発表の機会を作ろうと努力している教師たちがいることを筆者は知っています。今年11月に行われた語研大会(一般財団法人・語学教育研究所研究大会)の研究協議会において、「生徒の発話を促すinteraction」というテーマで二つの高校の研究授業が紹介されました。一つは矢田理世氏(筑波大学附属高校)による高校1年生の授業、もう一つは由井一成氏(日本女子大学附属高校)による高校2年生の授業でした。いずれも生徒の学力が高いことで知られている高校なので、そのまま一般の学校で真似のできる授業ではないかもしれません。しかし授業の構成の仕方などには参考になる点があると思いますので、その授業展開を見てみましょう。

 それらは語研における中学・高校の授業研究の一環として行われたもので、どちらの授業にも生徒によるプレゼンテーション(story-retelling)が含まれているのが特徴です。矢田氏の授業の展開は以下のようになっています(2012年度研究大会プログラム・資料集『語研FORUM』に基づく)。

1. Greetings (1 min.) 2. Small talk: about working dogs—guide dogs, police dogs, sheep dogs (5 min.)  3. Review: story-retelling practice (10 min.) 4.  Story-retelling presentation (16 min.)  5. Introduction of the new material (14 min.)  6. Silent reading with answering questions (4 min.)  7. Greetings

 一見してこの授業はかなり盛りだくさんに見えます。整理をしてみましょう。まずsmall talk(雑談)は授業の導入と考えてよいでしょう。テキストの題材に関係する事柄(ここではworking dogs)を取り上げて雑談的に生徒と英語でやり取りをします。これはできるだけ英語で授業を進めようとする教師がよく用いる授業の1こまです。この授業の目標「生徒の発話を促すinteraction」の趣旨にも合致しています。

 この授業の主要部の前半は3と4です。生徒にプレゼンテーションを準備させ、数人の生徒に実演させるという活動です。その内容は前の授業で学習したテキストのretellingですから、前の授業でしっかりと音読やread and look-upのリハーサルをしていることが前提となっています。しかしここでは、いきなり実演に入るのではなく、準備のための時間が10分用意されています。授業者はそのほうがスムーズに進行することを経験的に知っているのでしょう。

 授業の後半部(5と6)はテキストの次のパートのoral introductionおよび黙読です。ここでの主な目的は、テキストの内容を耳で聴いて理解すること、そしてそれを目で読んで理解することです。その所要時間が20分足らずであることに注目してください。理解したものを音声化してretellingできるようにするには、次の授業での音読指導と生徒各自によるプラクティスが必要になります。(To be continued.)

(121)投票日を前に

Author: 松山 薫

(121)<投票日を前に>松山薫

⑥ 大局観の喪失: 尖閣問題

  総選挙の投票日を前に尖閣列島の領有権をめぐる中国との対立が先鋭化し、日本政府はとうとう自衛隊の戦闘機を出動させた。北朝鮮の“ミサイル”打ち上げをめぐって”アホ“と酷評された官房長官は「断固として領土、領海を守る」という談話を発表した。このままエスカレートすれば戦争になりかねない。
中国が軍用機や軍艦ではなく、海洋監視船や監視機を使っているのに、日本側が戦闘機を出動させたことは、中国側に軍艦や軍用機を出動させる口実をあたえた。不測の事態が起こりかねない状況(自民党安倍総裁)になってしまったのである。もし戦闘行為が起きた場合、国際世論が、先に戦闘体制に入った日本側に不利になることも間違いない。
 領有権問題は当然双方に言い分がある。領土問題は存在しないなどという空論にこだわっていては、何の解決にもつながらない。自国の主張に理があるのなら、堂々と国連や国際司法裁判所で争えばよいではないか。少なくとも、話し合いが続いている間は戦争にはならない。ただ、それでも、中国に日本の侵略を体験した世代が生きている間は解決は難しいだろう。
それゆえに、1972年の日中国交正常化にあったては、「小異を捨てて大同につく」という大局に立って、この問題の解決を後世にゆだねたのだ。尖閣列島周辺海域にあるという天然ガス資源も、エネルギー資源が段々に枯渇していく世界の将来を考えれば、両国の子孫のために温存しておくことがもっとも望ましいと私は思う。
 そうした中で、今度の対立の原因を作ったのは”暴走老人”と称される日本維新の会の石原代表だ。私と同年代のこの人物は、自分も体験したはずの過去の悲惨な戦争から何も学はなかったらしい。

⑦ 本当の争点 

 憲法が争点になっていないという記事が朝日新聞に載っていた。10日に放送されたNHKの世論調査結果でも、有権者の関心のトップは経済問題、2番目が社会保障であり、憲法問題は霞んでいる。
しかし、私は憲法が、今度の選挙の隠された最大の争点だと考えている。12もの政党が乱立した政界は、遠からず憲法を対立軸として再編されると思うからだ。5年前安倍内閣が改憲を旗印に、「国民投票法」を成立させた最大の狙いは、憲法を軸とした政界の再編そして、あわよくば護憲勢力の一掃ではなかったかと思う。そして、それを永続させるための布石が「愛国心」を盛り込んだ教育基本法の改正であったと私は考えている。

 今度の選挙では現憲法廃棄を主張する自民党や維新の会が議席を大幅に増やすとメディアは伝えており、維新の会の石原代表は、自主憲法を作るなら自民党に協力すると述べているので、憲法改正が現実味を帯びてくることが予想されるが、彼らにとっても、憲法改正は容易ではない。少なくとも来年6月の参議院選挙までは、ねじれ国会が続く。その参院選も半数改選だし、
今度の衆院選挙で落選するであろう民主党の有力議員が鞍替え立候補してかなり当選することもありうるので、改憲政党の議席が3分の2を占めることは困難だろう。

 そうなると、改憲を急ぐ自民党の安倍総裁(総理)や老い先短い維新の会の石原代表は、次の衆院選の前に、“日本を取り戻す”という何のことか分からないが、なんとなく王政復古調の大義名分の下に、改憲勢力の大同団結を目指して、政界再編に乗り出すのではないかと私は思う。もともと彼らは同じ自民党員であり、維新の会やみんなの党、国民新党だけでなく民主党の中にも、もと自民党議員がかなりいるから、今度の衆院選の結果次第では、遠くない将来、政界再編によって、3分の2を超える改憲政党が出来る可能性がでて来る。今度の選挙の結果やその後の推移によっては、早ければ来年6月に、衆参同日選挙という手を考えるかもしれない。そういう意味では、今度の衆院選は護憲勢力の外堀を埋める“大阪冬の陣”であり、やがて、寝返った軍勢を加えての総攻撃、”夏の陣”が予見されるのである。

 ところで、衆議院総選挙は、次の総理大臣を選ぶことにもつながる。自民党が勝てば、安倍首相ということになるだろう。副総理格は選挙の論功行賞で安保おたくの石破幹事長か。
 改憲の目玉は、集団自衛権の合法化、行使であり、安倍総裁は、日米共同作戦中、米兵が血を流しているのに、自衛隊が傍観していれば、その瞬間に日米同盟は終ると強調している。
なんだか、進軍ラッパや軍艦マーチが聞こえてくるような話だが、問題はそんなことではない。たとえば、中国を相手に日米が集団自衛権を発動して戦争になった場合、最大の被害を受けるのはどこの国か。戦争には決定的に不利な縦深のない国土、その国土に54基の原発や再処理施設を持つ脆弱性を考えれば、中学生でもわかるだろう。勇ましい言葉によって、大局をあやまらないようにしてもらいたい。

 太平洋戦争の開戦を告げる日本海軍の真珠湾攻撃を指揮した連合艦隊司令長官の山本五十六は、越後長岡藩士の家に生まれ、旧制長岡中学から海軍兵学校へ進んだ。 当然彼は、幕末の長岡藩を仕切った二人の家老の生き様を心に刻んでいたはずである。一人は司馬遼太郎の「峠」で知られる河合継之助、もう一人は山本有三が戯曲にした”米百俵“の小林虎三郎である。二人はほぼ同年齢で、江戸へ遊学し緒形洪庵の蘭学塾に学んだ。しかし、北越戊辰戦争に当たって二人がとった行動は対照的だった。官軍に講和を申し入れ、軽くあしらわれて激怒した継之助は、徹底抗戦を指揮し、自身も重傷を負って、会津へ逃れる途中で戦死した。1300人の長岡藩士のうち300人が討ち死、300人が負傷し、町は焼け野原と化した。家士の窮乏を見かねて、支藩からコメ百俵が送られてきた時、藩の中心となっていた徹底非戦派の虎三郎は、直ちに分配せよと迫る藩士の白刃の下で、このコメを売って、学校を建てると主張して譲らなかった。この金を資金の一部として、国漢学校が開設され、洋学校そして旧制長岡中学へと引き継がれ幾多の人材を生んだ。山本五十六は日独伊三国同盟に反対し、アメリカとの戦争にも慎重であったといわれる。彼の頭の中に、故郷の二人の先達の歩んだ道があったことは間違いないと私は思っている。

 旧制長岡中学の最後の卒業生で、二人の家老の治績にも詳しい歴史作家の半藤一利は、軍部の暴走に焦点を当てて昭和の戦争をあとづけた自著「昭和史」の後書きで、戦争の歴史から学ばなければならないのは「国民的熱狂を作ってはいけない。その国民的熱狂に流されてはいけない。一口に言えば、時の勢いに駆り立てられてはいけないということだ。」とのべている。
私流に解釈すれば、目先の現実に流されることなく、大局を見誤らないようにせよということだと思う。

 先日、私と同年の小沢昭一が死んだ。彼は敗戦の時海軍兵学校の生徒であったが、戦後は強烈な反戦平和主義者になった。「正義の戦争より、不正義の平和」を選ぶことを信念としていたという。戦争の重い体験と戦後の長い苦悩の末にたどり着いた信念は、戦争の現実も真実も知らない政治家や評論家達の勇ましい発言より、人間社会のあり方に根ざした、はるかに重い結論である。

 明日は、半藤一利や小沢昭一の”熱い心 ”と”クールな頭 ”で、悔いの無い一票を投じたい。
それにしても、違憲状態の中で行なわれる選挙の我が一票の軽さには納得できない。選挙後違憲訴訟が提起されるであろうが、憲法の番人であるはずの最高裁が、どのような判断を下すか注目したい。 (M)

クラスサイズの問題は古くから英語教育の大問題として議論されています。高校の英語教師が訳読式授業にこだわる原因も、おそらくクラスサイズにあると思われます。高校の学級定員は、「高等学校設置基準」により40人以下とすることになっています。実際には、公立・私立を問わず、どこも定員いっぱいの生徒を入学させます。そこで40人という大クラスで教えるのに最も効率的なのが、訳読を中心とした講義スタイルの授業だというわけです。これならば、教師が中心になって訳をしたり、文法を解説したりすることができますから、生徒が多少多くても困らないというのです。確かに、生徒を惹きつけるだけの魅力を持っている教師ならば、あるていど可能かもしれません。事実、名物教師と言われる人にはそういう授業を得意としている人がいます。生徒にやる気さえあれば人数なんか問題ではない、たとえ100人を相手にした授業でも、一人ひとりの心に届く指導が可能だと豪語します。

 しかし本当にそうでしょうか。それは一定の基礎学力を備えた生徒たちを対象とした大学受験指導のような、限られた範囲の英語指導の場合には言えるかもしれませんが、一般の高校教育に広く当てはまることではないでしょう。40人ものクラスでは、現実に、さまざまな問題が起こります。第1に、生徒の学習意欲や学習能力の多様性の問題があります。学習意欲の乏しい生徒がいれば、やる気を起こさせる指導をする必要があります。また学習意欲があっても、個々の生徒の学習目的は異なっており、学力・能力も多様です。彼らの個性や能力は一人ひとり違うからです。たとえ大学受験ということでは一致していても、それだけが高校英語教育の唯一の目的とは言えません。予備校の授業は大学受験のための学習ということで一致しているのでしょうが、一般の高校ではそうはいきません。生徒の多くも予備校と同じ授業を期待してはいないでしょう。一人ひとりの心に届く指導をするためには、教師はそれぞれの生徒の特徴をよく知る必要があります。

 第2に、大クラスに特有の講義スタイルという授業そのものに問題があります。言うまでもなく、高校の英語は決して知識を伝達するための教科ではありません。知識の伝達は指導のほんの一部です。それよりも、英語そのものの使用経験を積ませることのほうがずっと重要です。教師の一方的な講義では、生徒の英文理解力はあるていど向上するかもしれませんが、理解した英語を実際に使う経験が不足しますから、私たちの言うところの「発表力」(または「プレゼンテーション能力」)を養うことはできません。最近の大学入試も、まだ十分とは言えませんが、そのような発表力を含める問題に改良されつつあります。そしてその指導は大学での英語教育にも受け継がれるはずのものです。

 それにしても、英語の授業に40人というクラスサイズは教師が個々の生徒を理解するには大きすぎます。また、生徒全員に発表活動を経験させることも、非常に難しくなります。それは国際的に見ても異常なクラスサイズです。「日本外国語教育改善協議会」という名の集会が1972年以来活動を続けていますが、そこでは英語のクラスサイズについて、「外国語の授業を行う場合、1クラスの生徒数の上限を15名とし、外国語教員の増員を含め、必要な措置を講ずること」という意見と要望をまとめてアピールしています(「小学校、中学校及び高等学校の学習指導要領の実施等に関する意見」『英語教育』2011年10月号、大修館書店)。しかしクラスサイズの問題は、残念ながら、近い将来に正常化される見込みは皆無です。今行われている選挙運動でも、筆者の知るところ、学校におけるクラスサイズの問題に触れている候補者はいません。

 英語教師の多くは、15人のクラスならば今よりもはるかに良い指導ができるだろう、せめて現在の半分の20人にしてほしいものだ、と考えていると思います。本当にそう考えているならば、それを実現する努力をすべきではないでしょうか。実際にそれを実現している学校があることを筆者は知っています。もちろん、一人の教師では実現できません。実現可能なプランを立て、英語科の教師たちを説得し、校長を説得し、他の教師たちをも説得しなければなりません。それにはさまざまな障碍があるでしょうが、大義名分があれば不可能ではないと思います。たとえば40人のクラスを英語の時間だけ半分にして、二人の教師で分担するという方法があります。そしてそれを提案する前に、40人のクラスで発表活動を可能な限り拡大する工夫をすることが重要です。そのうえで、もし半分の20人ならば、さらにこれだけのことが可能になると主張するのです。従来の訳読法だけに頼っていてクラスを半分にしてくれと言っても、誰も耳を傾けてはくれないでしょう。(To be continued.)

「難病者の発言」で考えたこと
(1)12月4日(火)・5日(水)の二晩にわたって、安積遊歩(あづみ・ゆうほ)という方の「車椅子から見える人間社会」という話を聞きました。私はそれまでこの人のことを知りませんでしたが、生まれたときから、骨がすぐに折れてしまう難病を持っていて、身長も1メートル少しで伸びなくなってしまったそうです。世間で言う“重度の身体障害者”なのです。インターネットで、「(NHK ラジオ深夜便)安積遊歩」と検索すると、彼女の明るい笑顔を見ることが出来ます。

(2)私が聞いていて驚いたのは、安積さんは、はきはきとした話し方で、その日本語がとても正確なことでした。前回のこのブログで私は、日本人が話す時の気になる“口ぐせ”のことを書きましたが、安積さんの話し方にはそういう“口ぐせ”がありませんし、むしろ問いかけるアナウンサーのほうが、口ごもることが多かったように思います。アナウンサーが、「貴女は骨が正常でないですから…」のように言いかけると、安積さんは、「なぜ“正常”を基準にされるのですか」と反論するのです。確かに、障害の無い人間は、自分たちが普通であって、そうでない人たちを“異常者”と呼んで平気です。

(3)この世の中は、“正常者”のほうが多いですから、“少数者”(マイノリティ)を差別してはいけないという意識を忘れないでいることは易しいことではありません。私自身も骨折をしてから、まだ歩くのが少し不自由ですが、外を歩いてみると、如何にでこぼこの道が多いかに驚きます。新築の家やスーパーなどでは、車いすが通りやすいようにバリアーフリーに配慮はしてありますが、駅近くの路上などは、点字ブロックの上に平気で自転車が置き去りになっていて、人々の無関心さがわかります。

(4)そういう身障者に不利な状況にあって、安積さんは、明るく仲間を励ますばかりでなく、世界各国に招かれて講演しているとのことです。日本では、乙武洋匡(おとたけ・ひろただ)氏が、生まれつき両腕が無い状態で、明るく頑張っている様子がテレビで紹介されることがあります。また、彼は検定教科書の題材にも取り上げられましたが、自らも教員免許を取得して若い世代の教育に貢献しています。今年で70歳になるイギリスの理論物理学者のホーキング博士も、車いすの重度障害者ですが、現在でも、コンピュータによる合成音声に頼りながら、講演をしているとのことです。

(5)こういう人々の精神力は驚嘆に値しますが、その一方では、恥ずかしいことですが、身体障害者の支援を口実に義援金を集めて詐取した事件が大阪であったばかりです。しかも、NPO の理事長や理事をしている人物です。こういう人間には刑務所で、安積さんの話の録音を四六時中聞かせてやったらいいと思います。

(6)総選挙の投票日が近づいて、各候補者は追い込みに懸命です。自分が当選すれば、明日にでも景気が良くなるようなことを言っている候補者が多いですが、政治家よりもはるかに発信力のある身体障害者がいることを肝に銘じて、肌理の細かい政治を実践してもらいたいと思います。(この回終り)

(120)<総選挙の争点-3> 松山薫

⑤ 教育改革

 今日は、大東亜戦争(太平洋戦争)開戦の日である。当時私は小学校の6年生であったが、その後の旧制中学での愛国教育で完全な軍国少年に仕立て上げられた。間違った教育の恐ろしさを身に沁みて感ずる。

 今回の総選挙では教育が争点のひとつに挙げられているが、目玉は教育委員会制度の改革である。教育委員会制度は、戦前・戦中の軍国主義教育に文部省を頂点とするヒエラルキーが
果たした役割への反省から、アメリカのlayman control (政治や行政の一部を市民にゆだねる方式)にならってできたもので、占領軍はこれによって”草の根軍国主義“を絶つことを考えたらしい。したがって初めは教育委員は公選制であったが、いわゆる(戦前への)“逆コース”の時代に、2重行政になるという理由で、首長の任命制にかえられた。ただ、政治による教育への直接介入を防ぐため教員の任免権、教育予算の編成権、公立小・中学校教科書の選択権などは教育委員会に残された。その後予算権はなくなり、実質的に首長の支配が強まった。選挙公約で、日本維新の会は教育委員会の廃止、自民党と民主党は見直しを主張、みんなの党は存否は自治体にまかせるとしている。 
  
 社会を変える力。それは短期的には政治であり長期的には教育である。また、政治は教育を変える力があるし、教育は政治を変える力がある。このような力関係の中で、政治は常に教育に介入し、自らの力を拡大し、維持しようとする。

 自民党の安倍総裁は、街頭演説で、民主党が選挙の争点として教育問題を取り上げないのは、幹事長が日教組出身だからだと叫んでいる。自民党の日教組攻撃は、敗戦直後、私が教師であった頃から始まった。当時、参議院選挙の全国区は日本全国が1選挙区であったから、50万人の組合員を擁する日教組の組織内候補者や推薦候補者は社会党或いは共産党所属でほとんど全員が当選した。一党支配を確立した自民党としては、まさに目の上のたんこぶのような存在であったろう。自民党は、教員の政治活動禁止法、さらに勤務評定制定と日教組弾圧をエスカレートさせた。教育委員会公選制の廃止も同じ文脈の中で強行された。私が内部から見たところでは、当時の小・中・高校の教師には、土着の人が多く、思想傾向はむしろ保守的だった。それでも社会党候補に投票したのは、戦争中の軍国教育への反省と「教え子を再び戦場へ送るな」という社会党のスローガンに共鳴したからだったろう。自民党はそれを、日教組は赤い頭の丹頂鶴の一握りの指導部に牛耳られていると攻撃したが、まさに、教師を自主性のない操り人形として愚弄するものであった。今なお、自民党や維新の会は同じ愚行を繰り返している。維新の会の教育バウチャー制度についての反対意見は、ジャンジャック・ルソーやペスタロッチの考えをひいて、先にこのブログで述べた。(アーカイブ2011年7月教育の理想と現実)。教師の資質や教育の成果は単純な物差しで計ることはできないし、長い年月を経てあらわれてくることは、「二十四の瞳」や「北のカナリア」アメリカ映画「陽のあたる教室」を見ても分るだろう。

 元リクルートの社員で東京都の公立校で最初の民間人校長になったという人物は、先日NHKのTVに出演した際、司会者や出演者のタレントに「あんた民間人校長になったらどうですか」と呼びかけた。本人は冗談のつもりかもしれないが、これは見過ごすことの出来ない発言だ。校長というのは誰にでもできるような仕事なのか。その校長の下で働く教師とは、そんなに軽い職業なのか。彼らは教育や教師の仕事について、根本的に思い違いをしている。

 私は4人の校長のもとで働いたが、私にとっての校長は、初めて教師として赴任した栃尾高校の菊池政次先生しかいない。菊池先生のことは、先にこのブログに“教育者”のタイトルで書いたことがあるが(アーカイブ2011年2月)、もう一度ここに書き残しておきたい。菊池先生は、東京高師、文理大で東洋史を学び、やがて陸軍士官学校の教官になった。敗戦後は奥さんの郷里である長岡に隠棲していたが、長岡高校の要請もだしがたく、再び教壇に立ち、間もなく栃尾高校の校長として赴任した。私が出合って3年目に新発田高校の校長に転任することになったが、その送別会の席上、私は日頃胸にしまっていた疑問を思い切って切り出した。「何故再び教師になったのですか」という質問に、菊池先生は私が酒を注いだ杯を置き、「君が考えているほど立派なことじゃないよ。しいて言えば、食うためかな。」と答え、「もっとも、食うために働くというのも立派なことだと思うが」と付け加えた。私はさらに「食うために教師をやっていれば一人前の教師になれるのですか。よい教師になるには何かが必要なんじゃないですか」とたたみかけた。「生徒を大切に思うことかな」と答えた菊池校長は「もっとも、私にはそんなことを言う資格はないが」と付け加え、杯を飲み干した。その時私はずっと心のうちにあった憶測が確信にかわった。菊池先生は多くの有為な若者を戦場へ送った自らの過去を悔い、教え子を再び戦場へ送る動きへの防波堤になるために再び教壇に立ち校長になったのだ。

菊池校長が新発田高校へ赴任して間もなくある事件が起き、地元の新聞にも報じられた。秋の体育祭が終った後、恒例の焚き火が始まり、父兄や同窓会のメンバーに交じって生徒が酒
を飲み始めたらしい。菊池校長がこれを止めようとしたところ、同窓会員らに担ぎ上げられ、近くの田んぼに放り込まれたというのだ。菊池校長は県教委に呼び出され、同窓会と和解するよう求められたが、断じて応じなかったという。後に、事の真偽を菊池校長に訊ねた時には、笑って答えなかったが、私は「生徒を大切に思う」という信念を貫いたのだと思っている。

 私は、自民党や日本維新の会とは別の観点から、現在の教育委員会には大きな問題があると
考えている。それは実質的に教育委員会を牛耳っている教育長以下の事務局の学閥支配である。

 これについては、先にこのブログで自分の体験に触れ、先年明らかになった大分県教委における汚職事件の報道で、校長の選任などで、同じ様なことが今もなお連綿と続いていることを知った(アーカイブ2011年4月)。メディアが情報公開法に基づいて、各県や主要都市の教育委員会事務局の主要職員の学歴と職歴を調べて公表してもらいたいと思う。このような調査報道を続けることで教育委員会の浄化や首長・議会との癒着の根が絶やされることを望みたい。
私は、現在の教育の疲弊をもたらした諸悪の根源は、職員会議の形骸化であると思っている。職員会議こそが学校の民主化の基盤であると考えているからである。職員会議での徹底した論議によって、生徒を大切にする教育の姿や具体策が見えてくるであろうし、無能な校長は淘汰され、将来の校長や教育長にふさわしい人材もおのずから明らかになってくるだろう。

 われわれ世代の多くは、敗戦で価値観の180度転換に直面し、教師を信じられなくなって、自分で生きていく道を探さねばならなかった。それゆえに長い道のりとなったが何とか自分で新しい価値観を身につけることが出来た。軍国主義一色に染まった当時の教師達のことを考えると、教師が自分の頭で考え、自分の信念を持とうと努力するのでなければ、生徒は不幸なことになる。自分の頭で考え、行動する人間が生まれるわけはないからだ。職員会議の活性化によって自ら考え、行動する教師が生まれ、それを校長がまとめ上げていわば校風を作り出す。そのような学校を地域の人達がlayman controlの教育委員会を中心に包み込む。このような教育活動に国が十分な予算措置でバックアップする。それには根本的な教育改革、その前に政治改革が必要だが、私の理想とする教育体制が何時の日かこの国に生まれることを願っている。(M)

音読練習と朗読によって暗誦できるほどになったテキストは、さまざまな形の発表活動に発展させることができます。口頭によるそのような発表を、最近はプレゼンテーション(presentation)と呼んでいます。広義には文書による発表も含みますが、ここでは主として口頭による発表を考えます。

 口頭発表だけに限っても、いろいろな形のプレゼンテーションがあります。発表者が一方的にしゃべりまくるものから、実演や音声機器、スライド、ヴィデオなどを使って説明するものまでさまざまです。そう言えば、学校における授業の大部分が、教師によるプレゼンテーションです。教師は50分の授業の中で、まず今日予定されたテキストの内容を生徒に理解させようとします。あるときは口頭説明で、あるときは板書や実演によって、またあるときは視聴覚機器を使って、できるだけ効率的にそのテキストの内容を理解させようとします。これはプレゼンテーション以外の何物でもありません。ここで取り上げるプレゼンテーションは、理解したテキストを基にして、こんどは生徒が行なうプレゼンテーションです。

 そこで3つのタイプのプレゼンテーションを取り上げることにします。それらは特に珍しいものではなく、できるだけ生徒に英語を話させようと努力する教師たちが、すでに多くの教室で実行しているものです。筆者も長い教員時代を振り返って、これらが比較的に容易に実行でき、持続性があり、しかも効果があると確信できたものです。

 <タイプ1> 物語を語る(story-telling):物語性のあるテキストであれば、その物語を追って話すことはさほど難しくありません。Read and Look-upがスムーズにできるようになれば、テキストを下に置いて、ほとんど顔を上げたまま言えるようになります。パラグラフの最初だけちょっとテキストを見て確認するくらいですみます。無理に暗記するように言われると、生徒は語句の小さな単位にこだわるために、文章の流れを見失ってしまいがちです。それが棒暗記と言われるものです。意識が意味よりも形式に向いてしまうのです。それよりも、時々テキストに目を向けて、次に言うべきことを確認しながら話すほうが自然です。そのほうが意味的にまとまりのあるチャンクをワーキング・メモリーの中に保持し、処理することが容易になるからです。したがって、実際に出てくる語句がテキストと違っていてもかまいません。むしろ、自分の使い慣れた語句に置き換えられるのが自然です。

<タイプ2>  実物・絵・図表などを使って説明する(show and tell):誰かの書いたテキストを暗記してそのまま語るという活動は、考えてみると不自然な活動であり、通常のプレゼンテーションではあり得ません。スピーチでも、自分が書いた原稿を丸暗記してそのまま語ることはあまりないでしょう。原稿から目を離し、聴衆を見ながら話す場合には、原稿とはかなり違ったものになることは自然なことです。誰かの文章を引用する場合には、そのテキストを朗読すればよいわけで、暗誦する必要はありません。テキストに書かれている重要な内容を他者に伝えるという形のプレゼンテーションとして、このshow and tellはとても重要です。内容によって実物・イラスト・地図・図表など、可能なものは何でも利用します。最近の学会での口頭発表の多くもそうです。発表者がひたすらペーパーを読むというのはもう過去のものになりつつあります。教科書のテキストも、その内容についてのプレゼンテーションにはいろいろな工夫ができますし、生徒にそれを考えさせるとよいでしょう。

<タイプ3> 要点を語る(gist-telling):これはテキストの内容を要約して語るという形のプレゼンテーションで、生徒にはなかなか難度の高い活動です。それができるようになるためには、いくつかの段階を経る必要があります。Read and Look-upとQuestions and Answersがスムーズにできるようになれば、この活動に移行することが容易になるでしょう。さらに、生徒がクラスの前に出てプレゼンテーションを行なうことができるように、テキストの要約をノートに書いたり、要点を箇条書きにまとめたりするなどのタスクを与えることができます。教師はその間クラスの中を巡回して生徒の相談に乗ることが必要でしょう。このタスクを二三人のグループで行なうように工夫することもできます。その後で幾人かの生徒に発表してもらいます。

 このような生徒によるプレゼンテーションを実行するのに障碍となるのがクラスサイズです。そういう活動を取り入れたいがクラスの人数が多すぎて実行不可能だという声をしばしば耳にします。実際にどうしたらよいのでしょうか。これはしっかりと考えておかなければならない問題です。(To be continued.)