Archive for 4月, 2013

日本人の英語学習における発音の問題は、これまで大きな議論になってきました。学校の英語の先生方は皆さんこの問題に大きな関心を持っているでしょうが、実際にはどうなのでしょうか。せいぜい、授業では発音にも注意して指導している、ということではないでしょうか。発音の問題は多岐にわたりますが、議論の中心は常に、どうしたら日本人学習者がもっと上手に英語の発音ができるようになるかということです。ここでは「気づき」の観点から、日本人学習者がどこでどのように発音技能の獲得につまずくのか、という問題に限って取り上げます。

 筆者の限られた英語指導の体験ですが、大学生を含め数年にわたる英語学習の後にも、英語らしい発音を身につけていない学習者が非常に多いように思われます。いわゆる「日本人英語」(Japanese English)であることは一向にかまいませんが、英語らしいリズムや抑揚に欠ける英語は聞きづらいものです。英語を話す場合には内容が重要であって、発音は大した問題ではないと言う人もいますが、筆者はそうは思いません。第1に通用しない発音では話になりません。第2に、たとえ通じはしても、しばしば相手に誤解されたり不快感を与えるような発音では、正常なコミュニケーション活動はできません。特定のネイティブ・スピーカーの発音を真似する必要はありませんが、世界のどこででも通用する国際語としての英語発音を身につけることは、グローバルな舞台で活躍しようとする日本人にとって必須のことではないでしょうか。

 英語の発音に上達するには発音技能の獲得が欠かせません。それは特殊な技能と言うよりも、地球上のすべての人間が用いる一般的な技能ですから、誰でも時間をかけて順序正しく練習すれば必ず上達するはずです。ただし母語を習得するときのようにはいきません。赤ちゃんは地球上のどんな言語でも習得できる能力を持っていて、たまたま生まれた土地の言語を話すようになります。私たちは日本に生まれたので日本語を習得しました。その中には発音技能も含まれます。ただし日本語にもいろいろな変種があるので、生まれ育った土地によって多少の違いがあります。しかしその違いは、生後の生活環境や教育によってほとんど克服されます。このようにして、日本で生まれた日本人は、多少の違いはあっても、日本のどこででも通用する日本語を話す発音技能を獲得します。

 これに対して、いったん母語である日本語を習得した人々(5、6歳以上の幼児期を過ぎた人々)は、生まれたばかりの赤ちゃんのようにはいきません。脳と発音器官が日本語の発音に適するように調整されてしまったので、赤ちゃんのときに持っていた、どんな言語の音声にも適応できる柔軟性が失われています。つまり彼らは、日本語の発音システムに完全に縛られてしまっています。ですから、耳から入ってくる英語の音の物理的特徴を、そのまま素直に耳で受け取ることができないのです。それでも多くの人は、ひたすら耳から入る音を模倣しようとします。しかしきちんと耳でとらえられない音を、どうして正しく真似ることができるでしょうか。そういうわけで、幼児期を過ぎてから英語を学ぶ日本人は、英語の発音システムに適応できるように、脳における発音関係の神経組織を再編成すると同時に、自らの発音器官を調整し直す必要があるのです。これは大仕事です。そこで日本人の学習者が最初になすべきことは、同じ人間言語でありながら、英語の発音システムと日本語のそれとは大きく違うということを、まずしっかりと理解することです。

 英語と日本語の発音がいろいろな面で違うことは、英語学習の初期において誰でも気づくことです。しかし多くの学習者はこう考えるようです。同じ人間の使う言語だからいろいろ違いはあるが、慣れてしまえば自然に解決するだろうと。問題をあまく見るわけです。しかしそれが間違いであることが後になって分かります。だが時すでに遅く、学習初期の誤った発音練習によって誤った発音技能が身についてしまうと、それを初心に戻ってやり直すのに膨大な量のエネルギーを必要とします。多くの日本人が英語の発音を学ぶときにおかす大きな誤りの原因は、英語の音声を日本語の発音システムに当てはめて発音することにあります。日本語とまったく異なる英語の発音システムを受容して身につけるためには、私たちは言語音声面での大きな自己変革を必要とするのです。たかが外国語の発音を学ぶのに「自己変革」とは大げさだと感じる方もあるかもしれません。しかしこれを、筆者は決して誇張だとは考えていません。「たかが発音くらい」という奢りと侮りが惨憺たる結果を生むことは、これまでの日本の英語教育の歴史が証明しています。(To be continued.)

「野党としての民主党はどうなるのか」
(1)先週のテレビの国会中継では、民主党の蓮昉議員の質問を視聴することが出来ました。彼女は党代表の海江田氏よりも迫力がああって、民主党政権時代の反省の上で、自民党政権の在り方を批判したり、要望をしたりしていました。しかし、答弁する大臣や安倍首相は何かにつけて、「それは民主党政権の時におやりになったことですよ」という言い訳が多かったように感じました。

(2)自民党は3.11 大震災の被災地救済が進まないのは、「民主党が被災地に関係のない地域に金をばら撒いたからだ」と言うのですが、蓮舫氏は、「そういうこともあったことを反省した上で、今なお続く予算の使用をストップさせることを要望したい」と主張していました。しかし、どうも関係大臣や首相の答弁は煮え切らないものでした。放射能の被災地の救援は特別に難しいことは確かですが、救済が遅れている理由を前政権のせいにするのは卑怯だと思います。また民主党も第2、第3の蓮舫氏を生み出す必要があるでしょう。

(3)福島の放射能を含む土壌の処理に関しては、4月27日の「TBS 報道特集」によると、汚染土壌の処分を引き受けた鹿児島県の南大隅町とその町長が、ある正体不明の人物の暗躍によって、おかしな事態になっているとのことでした。責任者である東京電力はもっとしっかり対応してもらいたいとも思いました。大勢の被害者がさらに犠牲にされたのではたまったものではありません。

「ジャーナリズムの在り方について」考えること
(1)私は60年も前の高校教師時代の教え子から、原 寿雄『ジャーナリズムに生きて—ジグザグの自分史85年』(岩波現代文庫、2011)という書物を最近貰いました。この本の帯には、「“全てを疑え!”“いい答はいい質問から”をモットーに生きたあるジャーナリストの足跡」とあります。文庫本ながら、250ページに近い内容で、ジャーナリズムの在り方を追求しています。昔の教え子から学ぶことのほうが多い昨今ですが、彼女はこの著者の研究グループに参加してテレビやラジオ番組の在り方を勉強しているとのことでした。

(2)最近、産経新聞が自社の主張として、「国民の憲法」要綱を発表して、様々な議論を呼んでいます。そのこと自体は民主主義国家として許されることでしょう。しかし、その狙いは私が「世相を切る!(その36)」で指摘した石原慎太郎議員の主張に近く、危険なものと思います。そもそも憲法というものは、政権が過ちや、行き過ぎを犯すことの歯止めとしての機能を持つものです。それを権力の都合のよいように変えられのでは、憲法の存在意義が無くなると思います。自民党の「憲法草案」にも同じような感じを持ちます。

(3)原氏の本には、様々な問題に直面してのジャーナリストとしての苦悩が書かれていますが、1954年のビキニ環礁での水爆実験で日本人の漁民が被爆した事件や、2005年にNHK が戦時中の“慰安婦問題”を取り上げた番組が、当時の自民党政権によって改変された疑惑があると報じた朝日新聞のことも論じています。これは政治権力のテレビ番組への介入だと批判する原告団の告訴によって、最高裁まで争われた事件でした。しかし、判決は政治的圧力の有無には触れずに、原告敗訴となったものです。この時の自民党の内閣官房副長官だったのが現在の安倍首相です。著者の原 寿雄氏は、「“安倍一族”とその権力に屈したNHK を黙認することになり、日本のジャーナリズムの今後に大きなマイナスの影響を与えるのは、残念だ」という趣旨のことを述べています(p. 220)。

(4)私たちは、安倍首相がこれまでどういう考え方で政治に関わってきたかをもっとよく知って判断する必要があると思います。しかも、こういう歴史的な経過は、中国や韓国の政治家には知られているということも認識すべきでしょう。日本をダメにするのは不況やデフレばかりではないのです。(この回終り)

(139) 教育問題私見 松山薫

② 安倍教育改革への根本疑問

 安倍首相は、2月末の第183国会の施政方針演説の中で「強い日本をつくる」と前置きして、「経済成長」に続く2番目の柱として「教育再生」を挙げた。

 彼は、6年前の第1次安倍内閣の時にも教育再生を政策の重要課題として、教育の目標に、「国と郷土を愛する態度を養う」といういわゆる愛国心条項を盛り込んだ教育基本法の抜本改正とこれに伴う教育三法の改正を実施した。教育3法つまり、教員免許法、学校教育法、地方教育行政法、の改正では、教員免許の10年更新制度、副校長の新設、中学校での武道の必修化などを実施した。ダメ教員の排除、学校の管理体制の強化、日本の伝統と文化の学習を狙ったものだという。戦後教育の在り方を根本的に変えかねない改正だが、民意を十分に聞いた上での改正とは到底思えない。これらの改正案には世論調査で反対や消極的な意見が多かったにもかかわらず、全野党の反対を押し切って強行採決したのである。

 私は武道の必修化については、メディアで、柔道の授業での怪我の多発がしばしは伝えられるようになってから「え!そんなことがあったの?強制?まさか!」という感じで知った。うかつと言えばうかつだが、昨年のベネッセ・コーポレーションの調査では、該当する生徒達の保護者でさえ授業が何時始まるかや内容がよくわからず、70%以上が不安を感じている中での実施だから、拙速、強行といわれても仕方ないだろう。

 私は中学校の正課や教練で4年間、剣道、銃剣術、自主的に柔道を学んだが、10年間かなり打ちこんだ柔道が何とかものになった程度である。その間、両肘と膝に怪我をして、今でも古傷が痛むことがあるが、自分で選んだ道だから後悔はない。1年か2年週1回くらい学んで分かったつもりになっては弊害のほうが大きいし(アーカイブ2010−9−14柔道の思い出)、格闘技を素人の指導者が教えれば重大な事故が起きるのは当然だ。最初から分かりきったことを何故性急に強行するのか。だから受身だけ教えるという記事も読んだが、何でそこまでして強制するのか。

 スポーツ界、特に武道の世界では、実績のある上の人には逆らいにくい雰囲気や人間関係が存在する。上の人には逆らわず、叱咤激励に耐えて黙々と努力する人間を作り上げ、そういうモデルに沿はない人を異端、ダメ人間として排除し、上意下達を容易にする社会をつくろうとする政策の一環ではないのかという疑念を私はぬぐえない。

 昔の修身や国語の国定教科書は、そういう人物を作ることを究極の目的にしていた。小学校3年生の国語教科書に乃木大将の幼年時代という話が載っていた。乃木大将は日露戦争の英雄で、ほとんど聖人扱いされていた人物である。「或る年の冬、大将が思わず『寒い』と言ったところ、父は大将を井戸端へ連れて行き、着物を脱がせて、頭から冷水を浴びせかけた。大将は、これから後、一生の間『寒い』とも『暑い』とも言はなかったという」 このページには大きな挿絵がついており、小さな子供が素っ裸で正座しているところへ、父親が釣瓶の桶から冷水を浴びせている。この話は挿絵の故もあって私の頭に深く刻み込まれた。私と同年輩の人達は大抵憶えているのではないか。この話には続きがあって、「母親もえらい人で、大将がたべものの中に何かきらいなものがあると、三度三度の食事に必ずそのきらいいな物ばかり出して、大将がなれるまでうち中のものがそればかり食べるようにしたので、大将は好ききらいがなくなった」という。つまり、寒中に子供を裸にして水を浴びせるという行為は、子供を立派な人間に育てようという親の愛情から生まれた”愛のムチ“だということを子供たちに印象づけるように工夫されている。

 こういう教科書で育った私たちは、自分の頭では何も考えず、いや、考えることを許されず、長上には絶対服従し、文句を言わずに、むしろ喜んで、国のために命を捧げる愛国少年になっていった。

 乃木希典は長州藩の支藩に生まれ、松下村塾の創立者で吉田松陰の叔父に当たる玉木文之進に師事しているから、長州生まれの安倍首相も多分この話を知っているだろう。私はここで乃木希典の人物月譚をしようというのではない。10歳前後の子供の頭に、このような「教訓」を刷り込むことによって、どういう人間が育つたのかと問いたいのである。同じ過ちを繰り返してはならない。(M)

気づきの観点から、学習には2つの種類が認められます。1つは気づきによって理解が得られる学習です。ときには「ああそうか」と、一瞬にして理解が成立することもあります。長い間あれこれ思考をめぐらせていて、あるとき突然「なるほど、そういうことか」と理解が得られる場合もあります。もう1種類の学習は技能獲得のための学習です。技能の学習が一瞬に成立することはまずありません。それはほとんど常に一定の学習順序を経て、時間をかけて作り上げていくものです。それゆえ技能の獲得にまず必要なことは、学習者がこの時間的な順序づけに気づくことです。途中で投げ出してしまう学習者は、この時間の階層に気づかないために失敗するのです。

 私たちの英語学習には、知識を得るという面もありますが、学習に注がれるエネルギーの大部分は技能の獲得に当てられます。学校の教育課程の中に位置づけられる英語科についても、これを知識教科と考える人は少なく、多くの人は技能教科と考えていると思います。たしかに、英語の学習には英語という言語についての知識や、英語を用いる人々の背後にある文化についての知識も必要です。しかし英語の学習は、まず聴き・話し・読み・書くという、技能の獲得にあることに異論を差しはさむ人はいないでしょう。

 技能の獲得には練習が欠かせません。練習が滑らかさを生みます。しかし、ただ反復するだけの練習では良い結果は得られません。そこでも気づきが必要です。気づきがあってこそ、練習は有意味なものになります。気づきのない練習は退屈を生み、記憶にも残りません。なぜなら、技能を獲得するには、私たちは自分自身を変える必要があるからです。つまり、それまで出来なかったことが出来るようになるためには、私たちは自分自身を再構成する(restructure)ことが必要なのです。最初「エ・ク・ス・キュー・ズ・ミー」としか言えなかったものを、 “excuse me” と英語らしく言えるようになり、それを適切な場面で使えるようにするには、頭の中を空にして、ひたすら反復するというだけではだめです。 “Ex-cuse-me” という、日本語の音節構造とは異なる英語特有の音節構造を発することができるように、自分の発音器官を統制し直すことを学ばなければならないのです。そこには日本語と英語の音韻構造に関するたくさんの気づきが必要です。そしてさらに、それがどのような場面で使われるのか、 “I’m sorry” とどのように違うのかを、新しい気づきを得ながら学び続けることが必要なのです。

 技能を獲得するための活動は、意識の観点から、3つの段階に分けられます。第1は未知なものとの「接触」(contact)です。私たちは自分になじみのない新しい事態に遭遇すると、最初はためらったり、用心深くなったり、ぎこちなくなったりします。また妙に我慢強くなったり、かたくなになったり、独りよがりになったりすることもあります。たとえば、まだ英語の発音に慣れていない初歩の学習者の場合には、ネイティブ・スピーカーの発する音声を聴いてそのまま真似するように言われても、そんなに簡単ではありません。はじめに音を注意深く聴いて、恐る恐る声を出してみます。それがモデルの発音と同じでないことが自分でも気づきますが、どうしたらよいか分かりません。外国語の発音の習得に関しては、どうしても指導者の適切な指導(できれば個人指導)が必要です。それが不適切な場合には、発音の正確さはいつまでも課題として残されます。日本人の英語学習では、英語音声との最初の接触の段階での躓きが命取りになります。そしてこれは、日本の英語教育の最大の問題点の一つです。

 第2は「練習」(practice)です。これは経験の積み重ねです。たとえば /th/ の発音は、 “Thank you” のように文頭の場合と、 “I’m thinking of going to the theater this evening” のように文中にある場合では、意識の配分が違ってきます。しかも後者の文例では /th/ が4回も現れます。 “Thank you” が正しく言えても後者のような文を正しく言えるとは限りません。4つの /th/ のそれぞれに意識を置いて練習することが必須です。こうしていろいろなコンテクストで現れる /th/ を、練習によって、ある程度自分で自信をもって対応できると感じたとき、その技能は第3の「習熟」(mastery) の段階に達しつつあると言えます。習熟はそれぞれの試行練習におけるエネルギーの消費が減少することです。一つの文を言うのに4か所の /th/ を意識しなければならなかったのが、練習によってしだいに自動化され、エネルギーの消費が減少するわけです。「自動化」(automatization) とは、派遣される意識の量(すなわちエネルギー量)が減少することです。ここまで到達すれば、学習者の次になすべきことは、経験を積んで/th/ の出現するあらゆる場合に対応できるようにすることです。(To be continued.)

(138)
<教育問題私見> 松山薫

< はじめに >

 東京高等師範学校を卒業して教師になりたてのころ、よく「教師は10年やって一人前」だと聞かされた。私は6年余りでやめたから、まあ半人前といったところだろう。それにやめてからすでに55年も経っているから教育現場の実状を知悉しているわけではない。しかし、勤務評定に反対して教師を辞めた時、「これから始まるであろう困難な状況を前に、自分だけ辞めるのは卑怯ではないか」という自責の念とともに「これからこの国の教育はどうなっていくのか」という暗い予感を持ったことから、教育問題には常に強い関心を寄せてきた。家内も若い頃私の倍くらい教師をつとめていたから教育特に教師の内面の問題については興味があるようで、TVのニュースが教育問題に触れると、自然に二人で話し合うことがある。私は学生自治会の活動家であったし、日教組の末端役員もつとめたが、家内はどちらかと言うと日教組
には好意を持っていなかったらしい。だが、そうして話し合っていると、安倍首相や橋下大阪市長らが唱える“教育の危機”とは全く別の意味で、危機感を持たざるをえない点は共通している。前にこのブログに、「社会を変えるものは短期的には政治、長期的には教育である」と書いたことがるが、今回はそれを敷衍して「政治と教育のかかわり、教育と社会とのかかわり」についての私見を書き残したい。

 私の背中を押しているのは、「過去を学ばなければ現在はわからない。現在を理解できなければ未来を語ることは出来ない」という歴史学者・家永三郎先生の教えである。300万人の同胞の命を奪った戦争、そして有史以来の敗戦・亡国という悲劇を経ながら、戦前・戦中の全体主義国家から、戦後の与えられた民主主義国家へ国民的総括なしにのっぺらぼうに続いてきてしまったこの国では、過去に学ぶことが決定的に不足しているのではないか。また、同じ歴史学者の加藤陽子東大教授が原発事故に関連して指摘しているように、「一過性の熱狂の後は、憑き物が落ちたように忘れてしまうのが我が民族の習い性であった。」としたら、悲劇を繰り返すことになるのではないか。

 前にも引用したかと思うが、元文芸春秋編集長の作家、半藤一利(83)は、「昭和史」(2004年刊行)の総括の中で、敗戦にいたる昭和の20年間の歴史が我々に示してくれた教訓として、第一に「国民的熱狂を作ってはいけない。その国民的熱狂に流されてはいけない」第二に「危機において日本人は、具体的に理性的な方法論を全く検討しようとしない」第三に「日本型のタコツボ型社会における小集団主義の弊害」第四に「国際社会の中の日本の位置づけを客観的に把握できず、主観的独善に陥っていた」第五に「何かことが起きた時に、直ぐに成果を求める短兵急な発想で、その場その場のごまかし的な方策で対処する。時間的、空間的な広い意味での大局観が全くない」を挙げている。私は、同じ時代を生きてきた者として、深い共感を覚える。

 戦後の原発推進一辺倒の政策やそれを無批判に支持したメディア、その流れに身を任せた国民、そして起きた第二の国難とも言われる福島第1原発の惨事とそれへの対応を見れば、これ
らの教訓が全く生かされていないことは誰の目にも明らかだろう。① 原子力の平和利用という熱狂に我々は流されたのである。② 原子力村というタコツボ小集団の安全神話を信じたのである。⑤ 政権は大量の放射能漏れという非常事態に右往左往して、大局的な対応をあやまった(ブログアーカイブ・2011−3−26)のである。この国の未来を決める教育問題について、再びこういうことがあってはならないと思う。(M)

睡眠が私たちの学習に重要な役割を担っていると前回述べました。納得していただけたでしょうか。読者の中には、睡眠は疲れた脳を休息させるためなのだから、3時間か4時間の睡眠で充分だと考えている方もあるかもしれません。実際に、忙しい人はそうしているようです。また最近の調査によると、日本人の多くは睡眠時間が7時間以下で、他の国の人々よりもかなり短いようです。日本人は一般に勤勉ですから、長い睡眠時間を取るのは怠け者で、できるだけ目覚めている時間を長くするのが勤勉の証拠だと考えているようです。森鴎外は3、4時間の睡眠で足りるように自己訓練し、そうして軍医の仕事をしながら小説を書いたなどと聞くと、自分もそれにならって頑張ろうと思う人が多いようです。しかしこれは、私たちの睡眠に関する考え方からすると、あまりお奨めできません。

 睡眠は一般に考えられている以上に、私たちの学習にとって大きな意味があります。睡眠は第一に私たちが自分と付き合う時間です。目覚めている間は、学校にいる子どもたちも、会社や自分の仕事場で仕事をしている大人たちも、多忙な時間を過ごします。いろいろな人に出合い、さまざまなことをし、自分と付き合っている暇などほとんどありません。多くの人は目覚めている間、情報を入手したり、発信したりすることに意識を向けます。少々頭痛や腹痛があっても忘れています。身体の不調が仕事を妨害するようになると、仕事を休むことを考えざるを得ません。そういう場合は医者に行くか、家に帰って寝ることになります。身体の不調は、その人が自分自身と付き合うことを必要としている兆候です。

 健康な人は眠っている間どんな学習をしているのでしょうか。私たちはこう考えています。私たちの自己は、目覚めていた間に取り入れた情報を選り分け、自分にとって有用なものを保持し、無用なものや有害なものを廃棄します。そのようにして自分に独自の心的世界を発達させ、それをできるだけ健康な状態に保とうとしているのです。しかし睡眠中に人が何をしているのかを正確に知ることはできません。その研究の仕方はまだ確立していないのです。たとえば、人が目覚めている間には「内省」(introspection)という方法が利用できますが、眠っている間はそれができません。睡眠時の研究は覚醒時とは異なる研究手段を必要とします。夢はその手がかりを与えてくれるので重要ですが、実際には、睡眠中の夢の大部分は目覚めたとたんに失われてしまいます。かつてフロイトによる「夢の分析」が注目を集めましたが、それで人が睡眠時に行っていることが分かったわけではありません。現在、夢の分析研究は精神分析の基礎資料として利用されていますが、それが抑圧された願望を充足させるということでは一致しても、それ以外のことではまだ混沌としています。

 では私たちにとって、睡眠とは何なのでしょうか。ガテーニョは “Sleep IS memory, wakefulness HAS memory” (The Science of Education p. 36)と言っています。これを直訳すると「睡眠は記憶であり、覚醒は記憶を持つ」となりますが、これは説明を要します。つまりこういうことです。目覚めているときには、私たちの自己は外部からの様々な強い刺激にさらされます。それらは私たちには予見できないものであり、それゆえ充分に準備がなされていないものです。私たちは記憶を頼りに入ってくる情報を一時的に処理しています。一方夜になると、睡眠が昼間入力した情報を取捨選択し、心のバランスを取り戻し、心的統合をもたらします。そしてその統合状態が次の覚醒時にも持続し、環境からの未知の攻撃に直面しても、それらに抵抗できる力を与えてくれます。

 学習の観点からすると、これの示唆するところは重要です。私たちは目覚めている間に情報を取り入れることに忙殺されますが、それらを整理して記憶するという学習の主要な部分は、睡眠中に起こることになります。すると私たちの学習は、睡眠中の意識の働きが主体であって、睡眠と睡眠の間に覚醒という意識活動が挿入されるという考え方もできます。鴎外の生活について以前読んだことがありますが、彼は昼間に軍医としての仕事をし、夕方帰って3時間くらい睡眠を取ったあと深夜から夜明けまで執筆し、朝方仮眠を取って役所に出かけたということです。それが事実であるとすれば、鴎外は1日3時間の睡眠で済ませたのではなく、「睡眠→覚醒→睡眠→覚醒」というサイクルで、1日を2分して使ったことになります。鴎外が責任ある地位の軍医の激務をこなしながら精力的に著作を進めるという、普通には考えられない2つの仕事を遂行することができたのは、睡眠と覚醒のサイクルを上手に使い分けたからだと思われます。そのような生活であれば、私たちも参考にできるかもしれません。(To be continued.)

(137)<北の核−7>

結語  Can you change ?

 日本の政治家の言うことは近視眼的で聞くに堪えないことが多いが、これは、統治機構や選挙制度にも問題があるからだろう。平均3年足らずでやって来る総選挙で落ちれば政治屋稼業から足を洗うか、半人前といわれる参議院議員に身をやつして時を待つしかないし、彼等の代表である総理大臣にしてからが、総選挙の結果一年前後でころころ変わるのでは、政治家は目先の人気取りに励まざるをえず、百年の大計をたてろと言っても無理だろう。どだい、この国には、政治家と有権者が互いに触発し合って政治的に成長していくというシステムが存在しないから、世襲議員や利益誘導型の政治家が跋扈し、もらいものの民主主義は
70年近くたってもまともに機能しない。その結果、国家の運営は、明治以来連綿と続く官僚体制にゆだねられることになるが、これがまた、既得権の上に胡坐をかき、企業社会と癒着して、保身と勢力争いに明け暮れているとなると、この国の行く末はどうなるのか。半世紀にわたって、国内外の情勢を追いながら、こういうなさけない状況を見続けてきた私は、どうしても首相公選などの新しい統治機構と一票の格差のない選挙制度の確立が必要であり、そのような政治体制による半世紀先を見据えた根本的なchangeつまりparadigm shift が不可欠だと考えている。しかし、そのための天啓だと私が感じた原発事故の風化などをみると、多くの国民はそうは考えていないようにみえる。「社会を変えたいと思う人は多いが、実際に変えられるとは思はない人が多い」(小熊英二 慶応大学教授「社会を変えるには」)というのが現状だろう。「これを契機に、日本は変わらざるをえないと言われた東日本大震災から2年。アベノミクスで円安・株高・デフレ脱却と浮かれる今の日本には、繁栄した昔に戻りたいという思いが反動のように渦巻いている。」という意見さえある。(藻谷浩介 日本総研主席研究員)

 だが、50年先を見通せば、変えようと思はなくても社会は根本的にかわると私は考える。この国の社会が変わらざるをえないのは、人口の激減、世界的な食糧・資源の枯渇などいくつかの決定的要因があるが、平準化の問題もそのひとつである。すでに、G-7が、力を失いG-20へ変化したように、いわゆる先進国だけが繁栄をむさぼる世界はやがて姿を消すだろう。早くGDP信仰から抜け出し社会を動かす新たなmomentumを見出して、それに基づく国づくりに踏み出したほうがよいというのが21世紀を生きる人達への私のadviceである。

軍備による安全保障の平準化は、核兵器がもたらした。通常兵器の時代ならば、北朝鮮のような ”小国” がアメリカや中国のような ”大国” と対等に渡り合うということはあり得なかったろう。ところが「核兵器」という化け物がそれを可能にした。核兵器による武力衝突は、互いに国家の存亡をかけることになるから、大国が小国に対して一方的に有利というわけにはいかなくなったのである。ドゴールの下でフランスの核武装を主導したガロア将軍の中級国家論の骨子は次のようなものであった。「もし、1956年、ハンガリーがソビエトに撃ち込める廣島型原爆を3発持っていれば、ソビエトはハンガリーと交渉せざるをえず、両国間に暫定合意が生まれていたであろう。」

 ガロアの言うように、核のからんだ紛争は、国家を壊滅的状態に陥れるだけでなく、人類を破局に追い込みかねないから、解決は話し合い、外交決着ということになる。北の核をめぐる問題も、紆余曲折はあっても、結局外交的決着で終るものと私は考えるが、それで核の問題が解決されるわけではない。日本でも今度の北の核問題を利用して、核武装を推進しようとする政治家がいる。そういう方向へ進めば、世界はダモクレスの剣だらけになる。「意図的」な核戦争や「偶発」核戦争の危険は格段に大きくなるだろう。

  人類がダモクレスの剣の恐怖から逃れるためには、論理的に言って核兵器の廃絶しかないし、その前段階として核兵器を使わせないようにするには、国際管理しかない。その道がいかに困難で遠くても、そこへ向かって進まなければならないし、それに逆行する動きには反対しなければならない。そのことを世界で初めて公式に認めたのは世界最強の核戦力を持つアメリカの大統領だった。北朝鮮が2回目のテポドン実験を実施した2009年4月5日、アメリカのオバマ大統領はチェコのプラハで核廃絶への決意示す演説を行なった。

 「核廃絶と聞いて、そんな実現できそうもない目標を設けることの意味を疑う人もいるだろう。しかし、我々が平和を追求しなければ、平和には永久に手が届かない。協調への道をあきらめ
ることは簡単でそして卑怯だ。そうやって戦争が始まる。そうやって人類の進歩が終る。人類の運命は我々自身が作る。世界をより平和なものして去る責任を引き受けよう。」
「プラハの春」で挫折を味わいながら、後に非暴力の「ビロード革命」を先導したチェコの市民たちは、演説が終ると、”We can change ! ” の大合唱でこれに応えたという。
 
 オバマ大統領はこの演説でその年のノーベル平和賞を受賞した。私は今、改めてこの演説の持つ歴史的な重要性に注目したい。北朝鮮の核による緊張で、アメリカ人の中にも核廃絶の機運が強まることを期待し、オバマさんには、残る4年間の任期の中で、ぜひこの演説で明らかにした核廃絶への道筋を不退転の決意で、追求してもらいたい。それは、オバマ大統領がこの演説で述べたように、人類史上初めて核爆弾を使った国の逃れることのできない責任である。 (M)

私たちはみな、母の胎内で新しい生命を得たその瞬間から、自分自身と付き合ってきました。ですから私は、自分の身体がどのようにして作られてきたかを知っているはずです。知っていると言っても、そのプロセスを言葉で説明することはできません。母の胎内にいたときには、私はまだ言語を知らなかったからです。しかしそのときの私は、たしかに意識を働かせていました。意識の活発な参加がなくては、私の身体のどの部分も作られることはなかったでしょう。ただ、言語をまだ持っていなかったので、言語的な記憶としては何も残っていないのです。

 ここで「意識」(consciousness)ということについて考えてみましょう。この用語は扱われる分野によって様々に定義されますが、私たち(ガテーニョと筆者)は次のように考えています。意識は、個人のなすすべての活動に姿を表わします。それは、「私がそこに在る(I am present there)」ことを自己にフィードバックする気づきの状態です。たとえば、今の私はこの原稿を書く仕事にすべての注意を向けています。私は気を散らすものには自分を閉ざしています。FM放送からはモーツァルトの音楽が流れていますが、集中するときには聞こえていません。それが私の集中を妨げるときには、手を伸ばして電源をオフにすることができます。私は長年の学習によって気づいた事柄を総合し、その中に私の意識を正確に置き、パソコンのモニター画面に目を凝らします。それと同時にキーボードを叩いてこれらの語を画面に書き加えます。キーボードを叩くこと自体は自動的な技能になっています(注)。私は書いている内容を分析し総合することにエネルギーを集中し、それ以外の事柄にエネルギーを向けないようにします。意識は私の自己と密接に繋がっているエネルギーなのです。

 これを胎児のレベルに当てはめてみましょう。母親の子宮内では、胎児は主として自分の身体を作ることに専念しているのですが、同時になすべきことが他にもたくさんあります。実際に、胎児が早産して臍帯なしに生き延びることができるということは、それが母親の胎内において身体を作ることだけでなく、自分自身に関して何かをなしてきたことの証明です。つまり胎児は、しだいに分化していく組織に関わると同時に、すべての組織を自己に所属させてそれぞれの機能を最もよく発揮させるようにするという、二つの大きな仕事をなしているのです。だからこそ、未熟な状態で生まれてきても生き延びるだけの、驚くべき身体的機能を発揮することができるのです。これが胎児の身体形成に意識がかかわっていることの証拠です。

 母の胎内での生から胎外での生への転換は、私たちの一生の中で最大の難関でした。誕生と共に環境が急激に変化してしまったからです。生まれてきた赤ちゃんは多くの新しい任務を負わされます。まず肺に空気を送り、自分で血液に酸素を供給しなければなりません。食物は、これまで母親が処理したものが臍の緒を通して組織の中に送り込まれていました。こんどは自分の口から取り入れ、それを食べ(または飲み込み)、自分の器官が処理することができるようにしなくてはなりません。また、これまでは息を吸い込む必要がなかったのに、こんどは空気を吸い込むという新しい行動を作り出さなければなりません。それらに失敗することは死を意味します。それらの行動はすべて本能によって獲得されると言う人がいますが、それは見当違いです。赤ちゃんの注意深い自己は、誕生以前にも多くの仕事をなしたのですが、ここでもまた抜け目なく見張っており、次々に直面する困難な課題を解決するために自己の持てるすべての力を利用するのです。そういうことができるのは、赤ちゃんがお母さんの胎内で自分とじっくり付き合ってきたからなのです。

 生まれてきた赤ちゃんはよく眠ります。睡眠はしばしば人生の無駄な時間と考えられてきましたが、最近は違ってきました。しかしそれは依然として多くの謎を含んでいます。私たちの考えでは、睡眠は個体が環境からの影響を絶ち、自分自身に付き合う時間です。眠っている間、人は外からの一切のエネルギーの流入を絶ち、自分自身の中に閉じこもり、覚醒時に外から取り入れた多量の情報を整理し、過去から現在に至る全体の中での位置を理解しようとしているのです。母の胎内から生まれ出た赤ちゃんは、この世界から受ける多量の刺激に圧倒されて、自分自身の中に退避する必要があるのです。それが睡眠であり、睡眠によって赤ちゃんは自分との対話を取り戻すことができるわけです。大人は赤ちゃんほどの睡眠時間は必要としませんが、それでも平均7~8時間は眠ります。このように考えると、睡眠は私たちの意識的な生の、非常に重要な一部なのです。(To be continued.)

 (脚注)「自動的技能」というのは、ある仕事を反復することによってしだいに意識の量を減らしていき、最終的に最小限の意識をもってその仕事を遂行できるようになる技能のこと。そうすることによって私たちは自己を解放し、他の必要な仕事に専念することができるのです。

「安倍政権を待ち受けるものは?」
(1)株価は上昇し、日銀との連携はうまくいっているし、社員の給料を上げるという会社も名乗り出ています。得意満面の総理の顔を想像するのも難しくないこの頃です。でも私は、そう簡単にはものごとは進まないと思っています。その理由を考えてみます。

(2)大きな理由の1つは、庶民の道徳心、注意力の低下です。しかも、これは世界的な現象なのです。アメリカ人による銃の乱射事件とか、日本では通り魔的に大勢を殺傷する事件が続発しています。政治家はこういう問題を指摘されると、「モラル・ハザード」といったカタカナ語を使って弁明しようとするでしょうが、「モラル・ハザード(moral hazard)=倫理観の喪失」は「カタカナ語」の場合は拡大解釈をされて使われることが多いようですから、「道徳心の低下」と言うべきだと思います。

(3)「道徳」と聞くと、「昔の“修身”を復活させるのか」といきり立つ“進歩的教育者”がいるものです。しかし、日本の現状を見て、「道徳心が低下している」と感じないとしたら、よほど鈍感な人間だと思います。もちろん大部分の日本人は真面目で、公徳心があるのは確かでしょうが、「悪貨は良貨を駆逐する」と言われるように、公徳心の無い人間は、少数でもその影響力は大きいのです。1軒の“ゴミ屋敷”があるだけで、周囲の何十軒もの人々が迷惑をします。

(4)東京で聞けるラジオ放送では、首都高速道路などの状況を30分に1回くらい知らせていますが、最近特に多いのはトラックの横転事故です。スピードの出し過ぎや運転手の不注意によるものです。その度に何キロもの渋滞が生じています。景気が良くなれば、交通量は益々増えて、事故も増えることでしょう。景気の回復は良いことだけをもたらすと考えてはいけないのです。

(5)前の野田政権は、「社会保障と税の一体改革」にばかり気を取られて、その他のことには八方美人的な対応で失敗しました。今度の安倍政権も似たような点があると私は感じています。「景気さえ良くなれば」という視点だけで、“ネットカフェ難民”のような貧困者には目が届かないでいるからです。テレビでは、“ネットカフェ難民”の中には高校に通えない娘を連れた母親もいることを報じていました。(“ネットカフェ難民”については、用語の問題を含めて、様々な問題がありますから、関心のある方は、インターネットで調べられるとよいでしょう。)

「天気予報」の問題点は?
(1)私は、テレビの天気予報について、「週間予報」などは提示時間が短くて不親切だと批判したことがあります。千葉県に在住の高校時代の教え子が、「天気予報は都会向きで、農村の生活感覚など無視している」との批判を寄せてくれました。彼女は、都内の高校の英語教員でしたが、定年後は、房総半島の先端に近い農村に住んで、田んぼや畑で働いています。

(2)彼女の指摘では、気象予報士は、「お出かけには折りたたみ傘を持っていかれたほうが良いでしょう」、とか「薄い上着を一枚はしょって」などの言い方をしますが、「駅のホームで待っていれば、すぐに電車が来るような都会を想像させる」と言うのです。確かに気象予報士のコメントは大都会向きだと思います。私たちは日常的なことに慣れてしまうと、そうでない場合に気づきにくくなります。私も改めて反省させられました。(この回終り)

(137)<北の核−6>

 終章(2)希望 

 真偽はさだかではないが、断片的な情報によると、北朝鮮の核爆弾は、これまでのところ全て原爆で、プルトニウム爆弾が主体であったが、近年はウラニウム爆弾に転換中で、あわせて数発程度を保有しているのではないかという。北朝鮮は鉱物資源の豊富なところで、大規模なウラン鉱もある。ウラニウム爆弾は劣化が進むプルトニウム爆弾にくらべて管理保管が容易なところから、濃縮施設が整えば、核爆弾の備蓄が進む可能性が高いという。核弾頭は、3回の核実験によって1トン以下に小型化されていると見られ、実験による地震の規模から、威力は数キロトン(nominal bombの数分の1) と推計されているが、3回目の実験は水爆に近い強化原爆であったという推測もある。強化原爆が完成すれば、威力は200キロトン (nominal bombの10倍 )以上ということになる。

 一方、運搬手段のミサイルは、V2をモデルにソビエトが開発したスカッド・ミサイルの系統に属し、短距離のものから射程1300キロの「ノドン」、3000キロの中距離「ムスダン」、その改良型で数千キロ程度のKN08, それに1万キロを超える大陸間弾道弾「テポドン」を保有しているといわれる。装着できる弾頭の重さ(payload)は、1トン程度ではないかとみられており、ブースターには常温の液体燃料を使用するため1時間程度で発射可能であるともいわれる。いずれにせよ正確なところはわからないが、仮に上記のような核兵器が実戦配備となれば、韓国は勿論、日本全土、アメリカの東海岸までが核攻撃の対象になる。

 北朝鮮の核による攻撃が迫っていることをアメリカが察知すれば、アメリカは通常兵器による北朝鮮ミサイル基地の攻撃に踏み切るだろう。つまり、考えられるシナリオはこうだ。北朝鮮が、核攻撃を準備していることをアメリカが偵察衛星で察知した場合、アメリカ軍は、B-2やB-52、潜水艦から発進させた通常弾頭の巡航ミサイルで北朝鮮の核ミサイル基地をたたく。同時に米韓合同軍が地上及び海上から北朝鮮へ侵攻する。同時に或いはその前に北朝鮮軍が韓国へ侵入する。つまり、休戦中の朝鮮戦争が再開されるわけだ。北朝鮮の核基地は、地下化や、移動基地化され、所在もよくわかっていないらしいから通常兵器による第1撃で壊滅させるのは不可能かもしれない。

 そうなると、北朝鮮の核ミサイルが発射される。核ミサイルは一旦発射されれば完全に防ぐ手段は今のところない。アメリカの迎撃システムBMDは、確度90%以上だというからテポドンは多分大気圏外で撃墜されるが、もし、一発とどけば300万人、最大6000万人が死傷するという計算もある。韓国については、アメリカはすでに戦術核兵器を引き揚げているし、北朝鮮は韓国を併合するつもりだから、多分土壇場まで核兵器は使わない。そうなると最大の被害を被るのは日本だ。日本については原発も狙うと公言しているので、朝鮮半島中部西側の旗対嶺付近にあるあるという基地から核ミサイル「ノドン」が発射されれば、まさに指呼の間にある日本海側の島根、福井、新潟などの原電には、7~8分で届いてしまうから防ぎようはないだろう。そうなると、「日本は人の住めないところになる」という金正日の遺言はまんざら妄言だといえなくなる。

 北朝鮮が核戦争へ向けて暴発するという悪夢の予感は消しがたいが、私には、そうはならないのではないかという希望的観測もある。その根拠は「個人と組織は違う」ということだ。

 北朝鮮は狂気ではあっても、狂人ではない。刃物を持った狂人の暴発は止められないが、組織という集団の中には、暴挙への歯止めとなる部分がある。日本を核兵器によっては廃墟と化した後、北朝鮮という国が国際社会の中で果たして生きていけるのか、国民は隣国の無惨な姿を狂喜して迎えるのか、と考える人達がいるはずだと私はどこかで信じている。

 前回核兵器の使用を検討したアメリカの例を挙げたが、中国も核兵器の使用を検討したことがあったといわれる。1069年東部国境をめぐって両国が武力衝突した時のことだ。特に、アムール川(黒龍江)支流の中洲、ダマンスキー島(珍宝島)をめぐる師団規模の戦闘では、中国側には数百人の死者が出たという。当時中国は文化大革命という異常事態にあり、共産党指導部内の激しい権力闘争の中で、異常な判断が下される可能性はあったのではないか。しかし、そうはならなかった。人類を破滅に追いこみかねない核兵器の使用への懼れが、指導部を踏みとどまらせたのだと私は思う。

 核とは人類にとってなんなのか。北朝鮮の核問題を契機に、より多くの国々、より多くの人々が本気で考え、行動することになれば、禍を転じて福となすことが出来るかもしれないと願ってこのブログを書いている。(M)