Archive for 2月, 2016

< 統計数字の裏にみえるもの ④ 貧困率 >

調査とか統計の数字は、前提条件に問題があるものも多いから、そのまま信ずるわけにはいかないが、
社会の動きを知る上で欠かせないものの一つではある。今回は「貧困率」をとりあげる。 

④ 貧困率

1.貧困率 :日本の相対的貧困率 16.1% 30歳未満の若年世帯 27.8% 1人親世帯 54.6%
2.相対的貧困率の国際比較 :日本の相対的貧困率は、OECD34か国中、メキシコ、トルコ、アメリカに次いで4番目、OECD加盟国平均は10%強
* 相対的貧困率は、手取りの世帯所得を世帯人数で調整し、中央値の半分以下を貧困として計算するもので、先進国における「格差」を示す。 
  これに対して絶対的貧困率は、必要最低限の生活水準、消費水準(世界銀行の基準では1日1.25ドル)に達していない貧困者が全人口に占める割合で、発展途上国の「貧困状況」を示す。

“ はたらけど はたらけど 猶わがくらし 楽にならざり じっと手を見る ”と石川啄木が詠った「一握の砂」が発表されたのは、明治43年(1910)のことだった。啄木は東京朝日新聞の校正係として、低賃金と肺結核、東京の狭い借間、借家住まいでの嫁姑の確執、医療費の借金、借金に絡む妻との不和にあえいでいた。

 それから100年余り、世界3位のGDP大国となったこの国では、今もなお、多くに人達が同じような苦しみを味わっている。

 例えば、働いても、働いても、まともな賃金を得られない非正規労働者の人達である。非正規労働者は2000万人、全雇用者に対する割合は40%を超えている。非正規労働者の月収は、正規雇用者の6割程度、年収は55%と約半分しかない。特に、一家の生計の柱である35歳~44歳の非正規労働者の平均賃金は、月額 20万3千円(46歳)で正規雇用者の37万9千円(45歳~49歳)の53%にとどまる。

 2015年の2人以上の世帯の月平均消費支出は29万円弱だから非正規の人達の生活の苦しさが思いやられる。連合総研の調べでは、非正規労働者の収入が世帯全体の半分以上を占める家庭では、2割以上が生活苦で、食事の回数を減らしているほか、病気になっても医者にかかるのをやめたり、社会保険料や税金が払えなくなったりしている。

 日々の生活の苦しさもさることながら、非正規の人達が最も不安なのは将来設計が立たないということだろう。雇い止めで職場を失う不安は、失業した者でなければわからないと思うが、これに追い打ちをかけるのが、非正規の継続雇用を3年までとする労働者派遣法の改正である。さらに、解雇の金銭解決という非情な制度が検討されている。非正規労働者が雇用の調整弁とされているのである。

 非正規労働者の低賃金に歯止めをかけるためとして、安倍政権は、「同一労働、同一賃金」の法制化を目指すというが、ILO条約の基本命題であるこの原則をこれまで無視し続けてきた自民党政権が、どうして急に方向転換したのか。人件費の増大を恐れる経団連や正規労働者の既得権が侵害されるとして反対してきた連合とどう折り合いをつけるのか。参議院選挙をにらんだ羊頭狗肉の姑息な手段でないことを願う。

 “ はたらけど、はたらけど、わがくらし、楽にならざりき ”とわが手を見つめてあきらめの中で不安に駆られているのは年金生活者だ。40年間働いた夫と専業主婦の60歳~64歳の高齢者世帯の受給額は14万7508円、65歳以上の世帯が20万726円となっている。年金支給額からは介護保険と健康保険の保険料が天引きされるから実際の手取りはずっと少ない。年金生活者にはデフレが最も暮らしやすいのだが、政府・日銀は年2%のインフレを目指している。インフレの下ででは実質の年金収入はどんどん目減りしていく。国民の6人に1人が後期高齢者になる2020年問題、さらには5人に1人になる2025年問題を目前にして、オリンピックに浮かれている間に、年金額の引き下げはもとより、支給年令の引き上げも避けて通れなくなるのである。

 そこで、安倍政権が打ち出したのが“1億総活躍時代”というスローガンだが、65歳を超える退職者にハローワークで紹介されるのは、清掃、警備、運転、新聞配達、ビラ配りなどの生きがいとはつながらない単純労働である。健康を害したら即仕事を失う。お先真っ暗な高齢者の中には生きる気力をなくす人も出てくる。

  昨年の自殺者は2万4千人余り、一日65人が自ら命を絶っている。中高年の自殺者は無職の人が多いという。原因には病気、家計の破たん、借財、それによる家庭内の不和などが絡み合っている。つまりは、現在も続く啄木と同じ悩みだ。日本の自殺率(10万人当たりの自殺者数)は20で、アメリカの2倍、イギリスの3倍以上とG-7中では最悪の水準にある。TVでは毎日のように鉄道の人身事故のテロップが流される。多くは飛び込み自殺だろう。

  数年前のことだが、横浜の知人の家からの帰途、JR根岸線の洋光台駅で飛び込み自殺に遭遇した。電車が切通しを走るホームの中ほどにさしかかった時、人が飛び込んだのだ。乗客は全員降ろされて階上にある改札口への通路で待たされた。私はかなり時間がかかるだろうと思って、電車賃はムダになるが、駅から外へ出た。本屋と喫茶店で時間をつぶして駅へ戻ってみると、通路にはまだ乗客たちがぎっしり立っていた。彼らは全く無表情で、文句をいう人もなく、ただ押し黙って立っていた。私にはその沈黙の集団が何となく不気味に感じられた。明日は我が身かもしれないという心の闇をのぞいたように思えたからだ。

 運行が再開し乗客達はゾロソロとホームへ降りて行った。私がもう一つ不気味に感じたのは遺体の処理の手際のよさだった。駅員たちが倉庫から担架などを持ち出してホームへ降りていくのを目撃してから、運行の再開まで1時間ほどしかかかっていない。十数年前に上野駅で飛び込み事故に出会った。その時はホームで2時間近く待たされたが、その間ずっと線路脇に残されていた白い女性用の靴の片方が今も目に浮かぶ。私はふと、人身事故の頻発から、遺体の処理がマニュアル化されたのではないかと感じた。

 昨年の暮れ近く、埼玉県の利根川で高齢の夫婦と娘が心中を図り、47歳の娘だけが救助された。一家は認知症の母親を娘が介護し、父親は新聞配達をして月18万円ほどの収入を得ていたが、病気で働けなくなりひと月前にやめた。収入も貯蓄もなくなった父親は娘に「一緒に死のう」ともちかけたという。娘は生活保護を申請し、受理されていたのになぜ心中したのか。長年生活保護世帯に接してきた専門家は、生活保護を申請する決心をするまでの心の葛藤は生易しいものではないという。律儀な人ほどそういう感情が強いと思われる。生活保護を受けたあとも心の葛藤は消えない。生活保護を受けている世帯の自殺率は、他の世帯の2.2倍になっている。一方、別府市では、生活保護者が朝からパチンコ屋に入り浸っているという通報を受けて、福祉事務所の担当者達がパチンコ屋や競輪場を巡回して25人の生活保護者を見つけ、2回以上見つかった人には1~2か月保護費の支給を停めた。このニュースにネットでは市役所の措置に称賛が相次いだ。私には弱い者同士がいがみ合う社会の歪みを映し出しているように思える。

 安倍政権は、経済のパイを大きくすれば、そのうちみんなに恩恵が及ぶと言って来た。しかし、トリクルはいまだに滴り落ちず、上の方にばかり溜まって格差はますます拡大しているのが現実だ。

 或るNGOの格差に関する調査によると、世界で最も裕福な62人と、世界人口の半分に当たる36億人が保有する資産が同額であるという。世界の上位1%が残りの99%よりも多くの富を保有しており、この中には日本人も1800人含まれている。

 このように格差が開くのは何故なのか。ノーベル経済学賞を受けたプリンストン大学のグルーグマン名誉教授は 1.個人個人の生産性の差異 2.運、不運 3.権力 を挙げている。私もそうだと思うが、特に3.が問題だと考える。格差の原因が政治や経済の仕組みの歪みにあることは明らかだからだ。

 ところで、私にとって一年で一番憂鬱な税金の確定申告の時期が近づいてきた。先日出版元からの税金調書をもとに、わずかばかりの印税の経費の計算をしたが、年々視力が衰え、拡大鏡を片手に領収書と睨めっこをしているうちに、もうすぐ傘寿の老人になんでこんなことをさせなきゃならないのだ、いやになるほど儲けている奴や巧妙に所得隠しをしている奴らからもっときちんと取り立てろ言いたくなってくる。以前、家まで貯金通帳を調べにきた税務署員に「こんなことをしている暇があったら巨悪を摘発する努力をしたらどうだ」と怒鳴ったことがあったが、状況はさらに悪化している。

 上記のNGOは、「富裕層の資産は租税回避地( tax haven) に890兆円あると推定し、tax havenの悪用が富と権力の集中に拍車をかけている」としてtax haven の早急な撲滅などを各国政府に呼びかけた。

 暗い話ばかり書き連ねることになったが、それがこの国の現実だと私は思う。啄木は、「一握の砂」が発表された2年後に26歳で世を去ったが、その間、いわゆる“大逆事件”で処刑された幸徳秋水らの無実を明らかにするために心血を注いだ。死後に発表された「悲しき玩具」の中に“ 百姓の 多くは酒をやめしという もっと困らば なにをやめるらむ ”という一首をのこしている。死を前にして、彼は明らかに、自らの住む社会に内在する不公正に目を向けていたのである。

 日本と同じく相対的貧困率の高いアメリカの大統領選挙戦に彗星のごとく現れた民主党の大統領候サンダース上院議員は、若者たちの支持をうけ、バーモント州の予備選擧で本命候補のヒラリー・クリントン前国務長官を大差で破った。 勝利の演説でサンダース候補は「この国は巨大な危機に直面している」として「そうした中で、旧態依然たる主流派エスタブリシメントに政治や経済をゆだねておくわけにはいかない。自分が勝ったのは、国民が本物の変化を求めているからだ」と述べた。

現実を直視する中から、自分たちはどんな社会に住みたいのかを考え、それを実現するための政治や教育に関心を持てば、本物の変化が必要なことは自明の理であると私は考えている。(M)

* 私が住みたい社会については、当ブログに連載した「人権大国への道」で詳述した。

* 次回の < 統計数字の裏にみえるもの ⑤ 子供の貧困率 > は3月26日(土)に投稿する予定です。

生徒の英語の学びの目的は多様です。そして目的によって、学びの目標や学び方も違ってきます。文科省が告示する学習指導要領も、その点は承知の上で作成されています。その総括目標には、小・中・高とも、「外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め」と「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り」が含まれています。けっして「コミュニケーション能力を養う」だけが目標ではないのです。しかし最近の文科省のやっていることを見ると、学校の英語教育はまるでコミュニケーション能力を養うことだけが目標で、それ以外の英語の学びはほとんど念頭にはないようです。日本人が英語を学ぶことによって得ることのできる価値が、コミュニケーション能力のほかにも多々あることに、世の人々も文科省も、もういちど気づくべきです。

文科省が英語コミュニケーション能力の育成にこだわる理由は、官僚たちが自分たちの立場上の利益のために、声の大きな政治家や国民の一部(成功した企業人や英語至上主義の学者など)の声のみに耳を傾け、英語教育の実態をよく知っている専門家の声や、真面目な実践を行っている英語教師たちの声を無視するからです。最近の文科省は学校や教師を対象としてしきりに実態調査をしますが、官僚たちの多くは教育実践の経験がないので、その結果を正しく解釈して改善策を練り上げることができません。昨年公表された高校3年生を対象とした技能別英語力調査では、約8割の生徒が中学生以下の英語力しか持たないことが明らかになっても、文科省のやることは「生徒の英語力向上推進プラン」なる机上のプランを立て、学力調査の名のもとにテストまたテストで教師と生徒の尻を叩くことだけです。こうして日本の教育行政は、英語教育に関して誤った前提のもとに、誤った政策を強引に推し進めることによって教育の混乱を増大させているだけではなく、国民教育の将来を危ういものとしています。

文科省だけではなく世の中の多くの人々も、学校を出てすぐに役に立つような英語を教えろと言いますが、それはそもそも無理な話なのです。英語は日本人にとって外国語ですから、どんなに頑張っても、高校までに基礎段階を固めることまでしかできません。そのことは、明治以来百年以上にわたる英語教育の経験がすでに証明しています。日本の学校を出てすぐに英語を思い通りに使える人はいないのです。文科省が高校卒業時までに取らせたいとしている英検準2級などは、正直なところ、とうてい実用と呼べるレベルには達していません。留学でもしない限り、大学を卒業してもまだ不充分です。このブログで再々述べてきたように、週に3時間か4時間の学校の授業だけではどだい無理なのです。英語を学び始めたときには新鮮な楽しみを感じても、やがてそれがいつ果てるとも分からないハードな訓練を必要とする教科であることを知って、多くの者が途中で落伍するというのが実情です。世の人々も文科省も、まずこの事実をしっかりと見極める必要があります。

おそらく、国策として10%か20%のエリートを養成することも必要なのでしょう。文科省はそういう生徒たちのために「スーパーグローバルハイスクール(SGH)」という大げさな名前の付いた高校を各地に作って宣伝しています(注)。しかし残りの80%~90%の生徒はどうするのでしょうか。英検準2級を目標にその者たちの尻をひっぱたくこと以外に名案はないのでしょうか。彼らの多くは英語の学びの途上のどこかで躓き自信を失った生徒たちです。尻をひっぱたくだけでは成功の見込みはありません。多くの者はますます自信を失うだけです。しかも目標とするのが英検準2級では、たとい到達できたとしても実用にはなりません。文科省は、どのようにしたら彼らが英語の学びを取り戻し、英語を学ぶことの楽しさを味わうことができるようになるかを真剣に考えるべきです。筆者の考えは、実践的コミュニケーション能力育成に偏り過ぎている現在の英語教育政策を、もっと多様な生徒の学びに対応する健全で柔軟なものに転換することです。

まず学校における英語教育の理念を考えてみましょう。それは、実用的なコミュニケーション能力を育成するだけではなく、個々の生徒が生涯を通じて自らの英語をプラッシュアップできる土台を学校でしっかりと作ってあげることです。それがしっかりできれば、実用は後から従いてきます。高校卒業生が将来どんな英語力を必要とするかは不明です。すべての人が英語を使って何かをするわけではありません。ひょっとして英語以外の外国語を必要とするかもしれません。誰が将来どんな外国語をどの程度必要とするか(あるいは全く必要としないか)、高校段階では分からないのです。それにもかかわらず、英語の基礎はすべての人に必要です。なぜなら、生徒たちは英語を学ぶことによって、日本語と日本文化だけに浸っていては決して知ることのできない広大な世界を経験することができるからです。英語はその世界への窓口なのです。

そういうわけで、少なくとも高校までの英語教育は、「英語によるコミュニケーション能力の育成」というような、特定の目的に矮小化すべきではありません。英語の学びは、生徒たちが将来どのような目的に英語を使うことになっても、また英語を使う機会が皆無であっても、人間として生きて行くために必要な知識と知性を獲得させるとともに、他国の全く知らない人々とのコミュニケ―ションを成立させる技能と心の準備を得させるものなのです。この点で学校における英語の学びは、それ自体を目的とすることができるものです。

学校における英語教育は、学習指導要領にあるように、まず「外国語を通じて、言語と文化に対する理解を深める」ことに全力を挙げるべきです。これは単にお飾りの枕ことばではありません。ここで言う「外国語」が「英語」に限られていることの可否はさておき、日本人は学校で外国語である英語を学んではじめて、自分の母語である日本語と自分の国の文化を相対化することができるのです。なぜなら、外国語を学ぶことは自分の日常使っている言語を客観的に見ることを余儀なくし、自分がどっぷりと浸かっている特異な文化を外から眺めることを可能にするからです。そういうわけで、英語や他の外国語を学んだ人は、日本語と日本文化だけしか知らない人よりも、未知の言語や文化に対して柔軟に対応することができるようになります。これは21世紀を生きるすべての日本人にとって必要不可欠な知識であり教養です。

学習指導要領に挙げられているもう一つの目標、すなわち「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成」については、すでに触れたように、英語や他の外国語を使う人々とのコミュニケーションが日本人どうしのコミュニケーションと異なることを考えると、その重要性ははかり知れません。そのことは実際に外国人と外国語を用いてコミュニケーションの経験をしてみてはじめて理解できます。そういう場を英語授業の中で経験することによって、生徒たちは外国人とのコミュニケーションがどのようなものであるかの知識を得ることができます。彼らの英語がたとい不完全なレベルであっても、これは学びの途上で随時に実行できます。この経験は、これからの世の中を生きる若い生徒たちにとって、大きな価値ある財産となるはずです。

(注)文科省は平成27年度、全国で56校の「スーパーグローバルハイスクール(SGH)」を指定しました。学校種別では国立7校、公立31校、私立18校です。また「SGHアソシエイト」として55校を指定しています。内訳は国立1校、公立24校、私立30校です。文科省はインターネット広報で次のように書いています。「急速にグローバル化が加速する現状を踏まえ,社会課題に対する関心と深い教養に加え,コミュニケーション能力,問題解決力等の国際的素養を身に付け,将来,国際的に活躍できるグローバル・リーダーを高等学校段階から育成する。」

生物学者である福岡伸一氏の短いエッセイが新聞に連載されています(朝日新聞毎木曜日朝刊「福岡伸一の動的平衡」)。その中に「『DNAとは』では伝わらぬ科学」と題する文章がありました(2月4日版)。その要旨は、「DNAとは」というような言い回しで始まる説明は、語り手はそのことを熟知した者として、必然的に上からの目線で話すことになり、啓蒙的な(時として高圧的な)口調になるというのです。福岡氏は初めてスキー・レッスンを受けたときの経験を述べ、インストラクターが「なんでこんな簡単なことが伝わらないのかな」という顔をするのを見て、「それはあなたがどのように上達したのか、そのプロセスをすっかり忘れてしまっているからでしょ」と心の中で思った、と述べています。そしてこの文章を次のような言葉で結んでいます。

「科学も同じ。 “とは” の前にある術語や概念に、人間が到達したプロセスこそが、時間軸に沿って丁寧に語られなければならない。DNAの属性を説明するのではなく、細胞の中に見つかった酸性の糸の役割と構造が解かれていく、その切実な道程が跡づけられたとき、初めて科学は皆のものになる。つまり科学の最終的な出口は言葉なのだ。」

これは私たちの英語教育も同じ、と言えるのではないでしょうか。つまり、学びのプロセスを大事にする教育ということです。私たち教師は、「なんでこんな簡単なことが伝わらないのか」と生徒を非難したくなることがあります。しかし、「それは自分がどのように上達したのか、そのプロセスをすっかり忘れてしまっているからではなかろうか」と反省してみるべきなのです。教師自身もかつて学びの途上でいろいろな壁にぶつかってどうしてよいか分からず、先生に質問しても納得のいく説明をしてもらえず、自分で試行錯誤しながらくっついていくというような経験をいくつもしたはずです。そういう自分の学びのプロセスを論理的に分析してみようと考えるところから教育の科学が生れます。

筆者にもそういう試行錯誤の経験がいくつかあります。その一つ、中学4年のときでした。戦争が終わって2年ぶりに学校の授業が始まったとき、英語の音読がうまくできずに悩んだことがあります。何とか先生のように読めるようになりたいと思いました。しかし自分の問題点が何であるかが分からず、そのために先生に直接訊くこともできず、試行錯誤しながら自分で教科書の音読を試みました。音読の上達に必要な気づきは、音の出し方、続け方、リズムやイントネーションなどに関して山ほどあります。繰り返し音読しているうちに、それらについて少しずつ気づくことがあり、その一つ一つを自分のものにしながら根気よく続けているうちに、1年くらい経って、やっと自分で満足できる程度に読めるようになったのでした。

今から考えると、あのとき先生に音読をチェックしてもらっていたら、あんなに苦労せずにもっと速く上達したのではないかと思います。だからと言って先生を恨んでいるわけではありません。優しい先生で、魅力的な音読をなさいました。だから私は先生のように読めるようになりたいと心から思ったのです。しかし先生はご自身の音読訓練の経験を分析して生徒に分かりやすく話すことまでは考えておられなかったのでしょう。福岡伸一氏のスキーの先インストラクターのように、ひたすらモデルを示すだけでした。筆者の著書の一つ、『英語コミュニケーションの基礎を作る音読指導』(研究社2004年)は、音読指導に苦労されている英語の先生方を援助したいという願いを込めて書いたものです。

語彙の学びについてはどうでしょうか。いかにして語彙を増やし、忘れないように記憶にとどめ、それぞれの語を自分の必要とするときに使える状態にしておくか――これは英語を学ぶ人の誰もが苦労する問題です。しかし語彙は音読よりも習得がずっと難しい。それはもっと広く深い、心の中の意味の世界に関係しているからです。一つの新しい語を覚えることは、その語の表わす意味を自分の既存の意味世界に受け入れ、そのネットワークの中にきちんと位置づけることを必要とします。そういう難しい問題を含むために、語彙習得のプロセスを説明するのは容易ではないのです。語彙習得の研究も、それが私たちの脳の中で行われるプロセスだけに、まだ充分に解明されてはいないようです(注)

語彙習得のプロセスが明らかにならなければ、決定的に有効な語彙指導の方法を見つけ出すことはできないでしょう。しかしそうだからと言って、何も方策がないわけではありません。英語の学びに長年関わってきた人は皆、それぞれに語彙の習得に取り組んだ経験を持っています。そういう経験を参考にして、これからこの困難な仕事に取り組もうとしている生徒たちに役立つアドバイスを与えることは可能ですし、ぜひそうありたいものです。その場合に先生が自分の語彙習得法を紹介するのはかまいませんが、それが唯一の方法であるかのように生徒に強制するようなのは感心しません。なぜなら、語彙の習得のプロセスはいまだ科学的に解明できないほど複雑なのですから、これが絶対と言える方法は存在しないからです。

ここでは、これまでになされた語彙習得の研究から、英語教師が心得ていたほうがよい事柄をいくつか挙げることにします。まず語彙習得の合理的説明を難しくしている理由の一つに、それがしばしば偶発的に起こるプロセスだということがあります。一度出逢っただけで覚える単語もあるかと思うと、何度出逢っても覚えられない単語があります。それはおそらく、その語が複雑な意味構造を持つためか、あるいは自分の脳の中に存在する意味体系へ受け入れる準備がなされていないためと想定されます。したがってそれぞれの単語について習得の難易を予見することはできません。

しかし語彙の習得で比較的にはっきりしている経験則がいくつかあります。第一に、個人における語彙の習得は、結局のところ、学習者個人の継続的な意志の力によることです。なんとかしてそれを自己の経験に結びつけようとする強い意志が働いてはじめて、それを記憶に留めることができるのです。第二に、意志の力は常に学びの目的や動機と密接に関連していますから、英語の語彙を増やすことが自分の人生にとっていかに重要な意味を持つかを自覚していることが重要です。英語を真剣に学んだことのある人はすべて、一つひとつの語には音形や意義だけではなく、それが使われるコンテクストがあり、それが導きだす様々なイメージやイディオロギ―の世界が広がっていることを知ります。語彙を学ぶということはそういう広大な言葉の世界と関わりがあるのです。

語彙の習得でもう一つ大事なことは、それは個人の生涯にわたって継続するものだということです。母語の場合でさえこれでよいという上限はありません。この点で発音の習得とは大きく違います。発音はいったん習得の域に達すればそれでほぼ完成しますが、語彙の学びは一生続きます。学校での英語の学びは、その長いプロセスのほんの最初の部分に過ぎません。その先には常に数万の未征服の語彙が控えています。

(注)英語語彙指導に関しては、望月正道・相澤一美・投野由紀夫著『英語語彙の指導マニュアル』(大修館書店2003年)が参考になります。日本でもこのような教師向けの語彙指導マニュアルが出版されるようになったのは歓迎すべきことです。しかし第2言語や外国語の語彙習得のプロセスに関しては、本書でも言及するように、現在のところほとんど何も分かっていないとうのが実情です。今後この分野の研究の進展が望まれるところです。

教師が「教える専門家」であった時代には、教師は教えることに専念し、教える内容についての知識を持っていれば務まりました。「教える内容」とは、自分の勤務する学校(ここでは小・中学校および高校)で生徒に教えるべき教科の内容です。そして日本の教育システムでは、各学校・各学年で取り扱う教科内容は文科省の告示する学習指導要領によってかなり詳細に規定されており、教師は学習指導要領に決められている教科内容に従って教えるように義務づけられています。もちろん、すべてが学習指導要領によって定められるわけではなく、それぞれの地方教育委員会や学校で決めなくてはならない教科の選択や内容もいくらかはあります。しかしその裁量範囲はそれほど大きなものではありません。通常の学校の教科内容はほとんど学習指導要領によって定められていると言ってよいでしょう。ですから、教師は学習指導要領を読みさえすれば教える内容の概略を知ることができ、教師に託された課題は、内容に関わるそれぞれの項目をどのように指導するかということでした。

しかし教師が「学びの専門家」の時代になって、教師はさらに多様な知識と能力を求められるようになりました。教師は単に「教える内容」についての知識だけではなく、それに加えて、各教科の「学び」に関わるさまざまな問題についての広い知識と、その知識を眼前の問題に具体化する実践的な判断を必要とするようになりました。教師が生徒の学びに注目するようになって、いままで見えていなかったいろいろな問題が立ち現れてきたからです。そこでは単に個別の知識だけではなく、実行に至るさまざまなアプローチを比較検討し、その中から最善のものを選択し決定する知恵と見識が求められるのです。こうして一つ一つの決定ごとに、教師は見識を問われることになります。そういう見識を持っているかどうかで、良い教師とそうでない教師との差が生じるわけです。

具体的な例として、教師が担当するクラス数とクラスサイズの問題を考えてみましょう。学校教師は学年の初めに担当が決まると、必ずこの問題に直面します。日本では1クラスの生徒数は小学校から高校まで40人が上限となっていて、都会の多くのクラスは30人から40人、過疎地の小・中学校ではもっと人数の少ないクラスもあります。高校の多くは選抜なので定員いっぱいの40人が普通です。教師は新学期が始まる前に、自分が今年度は何クラスで何人の生徒を担当するかによって、どのように授業を進めるかを慎重に検討し、計画を立てなければなりません。その場合に問題になるのがクラスサイズです。小学校の担任教師は自分のクラスの生徒全員を知ることが可能ですが、中学・高校ではそうはいきません。英語科の場合には一人の教師が5クラスくらいを担当するのが普通ですから、毎週延べ約200人の生徒に接することになります。極端な場合、高校では週1時間か2時間の授業を10クラスも担当しなければならない場合があります。こういう事態にどう対処するかは、生徒の学びを大切にする教育を実践する際に教師が熟慮しなければならない大きな問題となります(注)

少々脇道にそれますが、かつて純粋に教育的見地から、英語コミュニケーション能力の育成にふさわしいクラスサイズはどれくらいかを議論したことがあります。それは「日本英語教育改善懇談会(改善懇)」(現在は「日本外国語改善協議会(改善協)」と改称)の席上でした。筆者も出席して意見を述べたことを覚えています。その結論は12人が最適で、10人から20人の間ならば許容範囲であろうということでした。その論拠は、出席者の教員の個人的な経験だけではなく、その頃広く行われていた諸外国での第二言語習得クラスの実験結果を踏まえたものでした。改善懇はその結論を要望書にまとめ、総理大臣、文部省、中教審などに提出しました。それを教育行政に携わる人々がどれくらい参考にしたかは知りませんが、教育現場ではその後40人クラスに2人の教師を当て、クラスを2分して20人クラスにして指導する学校(主に私立学校)が増加したと聞きました。改善懇での議論もあながち無駄ではなかったのです。

一般に、1クラス40人のクラスでは教師中心の講義形式の授業は可能でも、全ての生徒の学びに注目して一人一人に発言や発表の機会を与える必要のある演習科目では、十分な成果を期待することは難しいと考えられています。英語の授業では、たとえば英文構造を理解させることを目的とする文法の授業では、講義形式でも可能だという意見があります。昔の受験校と称された高校にはそういう講義を得意とする教師がいて、どんな大きなクラスでも生徒全員を惹きつけることができると言われたものです。「英文法」という科目が廃止された現在の高校ではそういう人は少なくなっているようですが、大学予備校には今もそういう名物教師がいて、噂によると、たいそうな高給を得ているようです。しかし、中学校から高校1年または2年くらいまでの英語の基礎段階では、1クラス40人は多すぎます。英語の授業の多くはいわば演習科目ですから、学校はできるだけ20人を上限とするクラスにするように努力することは当然のことです。

とにかく現実には、英語の教師が40人クラスを5クラス(各クラス週3~4時間)担当することは普通のことです。その場合にも、学びの専門家である教師は、まず授業が始まる前に、200人の生徒全員の名前を覚えることが必須です。すべての生徒の学びの現状を的確に把握するためです。それはたいへんな労力を要しますが、これは教師の任務の一部だと考えるべきです。それと同時に、教師が熟考し決定しなければならない事柄がいろいろとあります。その中でも特に重要と思われるのは次の項目です。

1)学びの年間達成目標と学期ごとの中間目標の設定、2)それらの目標を達成するための授業デザイン、3)授業における教師と生徒のコミュニケーションの取り方、4)授業において生徒に発言・発表をうながす方策、5)ペア活動・グループ活動の実施方法、6)テスト・評価方法とその実施プラン、など。

これらは大学の英語科教育法などの授業ではごく一般的な問題としか扱わないので、それぞれに千差万別の特徴を持つ実践現場では、大学で得た知識はあまり役に立たないことがあります。実際のところ、教師は授業の一コマ一コマで適切な判断を求められる多数の細かな問題に直面します。次回以降、これらの諸問題についてじっくり考えていこうと思っています。

(注)一人の教師が時間割の都合で週1~2回のクラスを多数割り当てられた場合には、生徒の名前を覚えるだけでも容易ではなく、したがって個々の生徒とのコミュニケーションは表面的なものにならざるを得ません。こういうケースでは、学校はその授業を最初から講義科目として設定するのがよいでしょう。たとえば受験対策など、一定の明確な目的を持って設けられる授業では、教師による講義が中心の授業でも効果を上げることができます。それでは予備校の授業のようになると反発する人もあるかもしれませんが、高校では大学受験のための指導をすべて予備校に任せるのは、むしろ怠慢のそしりを免れません。どのような場合にも、英語科教員の担当時間の配分や時間割の都合などで、明確な目的を欠く授業の設定は極力避けるべきです。