Archive for 1月, 2013

知識の発達が遺伝的に決定づけられているのではなく、個体と環境との相互作用を通して個体の中に形成される認識構造の変化によって特徴づけられることは、20世紀の発達心理学者ピアジェ(Jean Piaget 1896-1980)によって明らかにされました。彼は知識とは何かという認識の根本問題から出発し、それがどんな法則に基づいて変化し、発展していくかを実証的に研究したのでした。彼の研究の中でも特に、環境が遺伝子に働きかけて変化をもたらすのではなく、個体が環境に働きかけて変化をもたらすという点に注目したいと思います。

 ピアジェ以前の心理学では、知能の発達を規定するのは、遺伝的要因、自然的環境の影響、社会的環境の影響という3つの相互作用によると考えられていました。そのこと自体は誤りではありませんが、ピアジェは、子どもの認識の発達を説明するにはそれだけでは不充分だと考えました。それら3つの要因を独自のやり方で統合する、もう一つの重要な要因があると考えたのです。彼はそれを「均衡」(equilibrium)と名づけました。個体は外界に対して開かれた体制であって、外からの影響を受動的に受け取るだけではなく、むしろ積極的に働きかける存在です。そして内と外との相互作用を通して、自己の中に安定した状態、すなわち均衡を作り出しています。しかしそれは、やがて新しい環境への働きかけの中で再び新たな活動が開始され、次の均衡が求められます。こうして子どもの認識の発達は、その構造が斬新的に均衡を形成していくプロセスだというわけです。

 この考え方を私たちの英語学習に当てはめてみましょう。新しい言語の学習を始めたとき、私たちは、自分のすでに獲得している言語知識を大きく変化させる必要を感じます。このことを ‘wear’ という動詞を例に取って考えてみましょう。あなたが “Would you like to wear a suit?” という問いを耳にして(またはそれを目にして)、 ‘wear a suit’ が「スーツを着る」の意味であると知ったとします。しかしその後、下の例のように、あなたはこの動詞がいろいろな目的語を取ることを知ります。そしてそのつど ‘wear’ の意味を確認し、この語の使用範囲を修正し、拡大することが必要になります。

to wear an apron ( a hat, a moustache, a ribbon, a ring, jeans, socks, shoes, sunglasses, tattoos, etc.)

幼い子どもたちは、おそらく、耳から入るこのような例に出合ってその意味を推定し、経験を積むことによって ‘wear’ という動詞の意味とその使用範囲をしだいに確定していくのでしょう。その途中のプロセスは、まさにピアジェの言う「均衡」の要因によって支えられているのに違いありません。つまり、子どもは新しい例に出合うごとに、 ‘wear’ について自分が理解している仮説的な定義を修正する必要を感じます。そして、そのようにして生じる不安定な心的状態から抜け出すために、その仮説を更新することによって新たな均衡を創り出すのです。子どもたちは自然な言語習得環境の中で、そのような心的操作をごく当たり前のこととして行っているのです。

 しかし学校で学ぶ成人の英語クラスでは、学習者はすでに母語である日本語を知っています。ですから ‘wear a suit’ が「スーツを着る」であるのに対して、 ‘wear an apron’ は「エプロンを着る」ではおかしいことが分かります。そこで、なぜおかしいかを説明する必要を感じます。そしてそれが単に表現の違いであることを知ります。つまり、スーツとエプロンは共に身に着ける衣類の一種ですが、英語ではどちらの場合にも同じ動詞が使えるのに対して、日本語では別の表現を取ることが要求されます。しかし子どもと同様に、 ‘wear’ がいろいろな目的語を取りうることを知るまでには、長期にわたる多くの言語経験を必要とします。おそらく多くの成人学習者は、この動詞の意味範囲を中途半端な理解で終わることでしょう。成人は、四六時中ことばの学習に浸っている子どもにはとうてい太刀打ちできません。しかし教室での学習は、子どもの自然学習よりも有利です。 ‘wear’ は「衣類や装飾品などを一時的に身に着ける」という意味であることを教師から教わり、整理された例を示されてこの動詞の使い方を知り、短期間のうちにそれに習熟することができるからです。

 しかしそこには重大な落とし穴があります。学校ではそのような知識をまとめて学習して記憶することができるのがメリットですが、子どもが長い期間をかけて最終的な均衡に至る知識の形成プロセスが、そこでは抜け落ちてしまうからです。自分の知識の不足に気づいて、自分自身の手で現在の知識構造を均衡に向かって変革するプロセス—これこそが知的学習の真髄だと筆者は考えています。それは知能検査で測定する知能とは明らかに異なる種類のものです。(To be continued.)

(127)英語との付き合い−43

英語を学ぶ日本人の考え(5)

5.文法学習

● アンケート回答者の選択(末尾の数字は後掲書の番号)

* 文法教育を非難、否定する愚者がいるが、外国語教育において、文法教育をなおざりにしてはいけない。文法偏重主義は難詰されるべきだが、偏軽は慎むべきである。文法は言葉のルールである。(9)
* 日本人は「読むこと」の訓練は受けている。学校英語と受験勉強で訓練されているからかなりの程度はできる。しかし、「書くこと」の訓練はほとんど受けていない。ところが英語を書くのはきわめて難しいのだ。...文章英語には「語学」が必要になるのである。しかもその言葉は正しいものでなければならない。口頭のコミュニケーションでは、内容があれば評価される。文法や用語は多少間違っていてもよい。しかし文章では、内容だけが高度であってもダメで、文章そのものが正確でなければならない。(3)
* 音韻や語彙や統語に関する言語形式を操作する能力を「文法的能力」とすれば、それはコミュニケーション能力の基礎をなす能力であると言える。常識的にも、実際に言語を用いてコミュニケーションを行うためには、まず、その言語の音声システムと基礎的語彙、統語の知識を獲得しなければならないからである。(4)
* わが国では5文型というのが有名で、現在でも英文法の基本は5文型と信じて疑わない人がいるようである。文型というのは結局は動詞のパタンである。5文型は簡潔で便利ではあるが、全ての動詞のパタンをわずか5種類に分類するのは無理がある。OALDはホーンビーの考案した「動詞パタン」(verb pattern)に基づいて、すべての動詞の項目に、それぞれの動詞がどのパターンに使われるかを示している。そのパターンの数はOALD第6版(2000)では22である。それらは英語学習者がじっくりと研究すべき文法項目である。なぜなら、動詞のパターンを知らずにセンテンスを組み立てることは不可能だからである。動詞はまさにセンテンスの心臓と言うべきものである。(4)
* 日本語と英語でものの見方や考え方がどう違うか、それを最も抽象的なレベルで捉えたものが文法であってみれば、文法は、義務教育における外国語学習の目的そのものであるというべきである。目的であるだけでなく、文法はまた手段でもある。文法という抽象的な手段によらなければ,あらゆる言語現象は、その現象の数だけの個別の事象として教えなければならなくなる。(2)
* 文法は常に全体としてしか教えられないもので、学年ごとに文法事項を割り当て、それを教えるのは難しい。中学校で初めて五文型を教わったときの驚きは今でも忘れられない。世界がこれだけの形で記述できるということではないか。どんな複雑な重文だろうと複文だろうと、要するに、五文型の構造が繰り返されているだけなのだ。文型を発見するには、主語と述語動詞をみつければよい。主語や動詞を見つけるには品詞の知識が欠かせない。...八品詞というが、基本は名詞。(2)
* 中学や高校の文法では説明できない、そういうものもある。そういう場合は、疑問は疑問として大事にしておくことと教えればよい。・・・今学習しているそれよりさらに高度な文法の領域があること、そういう壁の存在を示唆しておくことが重要なのだ。(2)

● 私の見解

 サイレント・ウェイの翻訳書を読んだ時に、はじめて、CHUNKINGという言葉を知り、外国語はCHUNKINGによって理解するという考え方に共鳴しました。その後、初めての教本「時事英語教本基礎編」を書いた時、ガテーニョ博士が行った実験の結果に基づいて、用例の語数を7を中心に組み立てるよう苦心しました。博士の実験では、チャンクの中の語数は、5,7といった奇数のほうが、偶数より記憶に残りやすいとなっていたからです。考えてみると、これが、教本作りにあたって、私が自分に課した最初の“縛り”でしたが、1年間という出版までの期限の中では、なかなか理想どおりには行かず、心残りな結果となりました。ただ、英語の文章を、きちんとチャンクに分けられるかどうか、そして、チャンクの中に文法があり、さらにチャンクとチャンクを結ぶ文法がある、それを理解することが、文法の学習であるという考え方は、その後の教本つくりの中にずっと生かしてきたつもりです。チャンクの中で前置詞は重要な役割を担います。しかし、日本語にはそれに相当するものがありません。そこで、BOOK−1の10項目の文法事項のうち、前置詞を初めに置いたわけです。また、チャンクとチャンクを結ぶ接続語の中で、関係詞が重要な役割を果たしますが、これも日本語にはありません。それで関係詞に関するUNITを8つ設けました。(CHUNKINGについては、日本におけるサイレント・ウェイ研究の先駆者のひとりである土屋澄男氏の「音読指導」研究社に平易に説明されている)
私は、外国語学習には文法学習が不可欠だと考えていますが、学習の時期には慎重な配慮が必要だと思います。文法を演繹的に学んで、それを実際の言語活動に活用するのは相当に難しいことで、方法と時期を誤れば挫折の原因になります。かといって、外国語の最低限の基礎力を付けるための学習に当てられる時間は、母語の習得に使われる時間とは比較にならないほどに少なく、(ある計算では300対1といわれる。筑波大学名誉教授 浅野博著 教育・英語・LL—考え方と実践 リーベル出版)帰納的な方法だけでは習得にものすごい年月がかかってしまいます。従って、両方を併用する以外にはないと思うのですが、教える時期は、帰納的な学習で、ある程度英語の運用能力がついてからがよいと考えています。私は前述のように、旧制中学校では学徒動員と戦後の混乱でほとんど授業を受けておらず、日本語の文法も習った記憶がないのですが、教科書だけは支給されていましたので、秋田でぶらぶらしていた頃、読んでみて、それまで、日本語の使い方について疑問に思っていたことが、次々に氷解していくのに興奮したことを覚えています。
「茅ヶ崎方式英語学習法」では、BOOK−1が、統語法に関する(つまりCHUNKINGに関係する)10項目の文法事項で構成されていますが、「教本の使い方」のなかで、文法については「なんとなくわかればよい」という断り書きが入れてあります。文法の学習は重要であることを初めに自覚してもらわないと、0にはいくつを掛けても0だと思うからです。BOOK−1,BOOK−2で用例の中で実際にこれらの文法事項に触れながら,帰納的になんとなく理解してもらって、BOOK−3とBOOK−4では、演繹的な学習(巻末の文法事項、慣用語法用例一覧表)も加えて、SYNTAXの基本を身につけてもらう仕組みになっています。
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1.日本語力と英語力 斉藤孝・斉藤兆史 中公新書 2.英語は日本人教師 上西俊雄 洋泉社 3.超英語学習法 野口悠起雄 講談社  4.英語の音読指導 土屋澄男 研究社
5.世界の英語を歩く 本名信行 集英社新書  6.あえて英語公用語論 船橋洋一 7.英語を子供に教えるな 市川力 中公新書  8.日本人は何故英語が出来ないのか 鈴木孝行  岩波新書  9.誰がこの国の英語をダメにしたのか  澤井繁男  NHK出版10.英語屋さんの虎の巻 浦出善文 集英社新書 (M)

外国語学習には高度な知的能力が必要だということは、疑いのない事実として、一般に受け入れられているように思います。英語も日本人にとっては外国語ですから、その学習には高度な知的能力が必要だということになります。しかしそうなると、英語の学習に成功する人は知的能力の高い人(つまり頭のよい人)であり、失敗する人はその能力の低い人(つまり頭のわるい人)ということになりますが、本当にそう言いきってよいものでしょうか。

 まず「知的能力」とは何でしょうか。一般の人たちは、その問いを聞いて、「知能検査」や「知能指数」(IQ)を思い浮かべるのではないでしょうか。過去にそのような検査を1度か2度受けたことのある人も多いことでしょう。筆者も昭和11年頃、小学校に入学する前後だったと思いますが、「知能検査」のようなものを受けさせられた記憶があります。しかしその結果がどうだったのかについては記憶していません。両親がそれについて何か話をしていたことを、かすかに覚えているだけです。この「知能検査」というのは、20世紀の初頭にスピアマン(Spearman)という人が「一般知能」という概念を導入し、ビネー(Binet)が知能検査の端緒を拓いて以来、急速に普及したものでした。しかしそこで測られるものが何であるかについては、今日に至るまで議論が続いています。

 近年、「知能」(intelligence)に関する問題は、「認知」(cognition) という用語によって、より幅広い領域にわたって議論がなされています。それはあらゆる精神作用と関連しています。たとえば知識の獲得、記憶、注意、学習、情報の処理、思考、評価、判断、問題解決、意志決定など、精神科学が扱うほとんどすべての領域にまたがります。あまりにも広すぎて、研究者自身も自分の立ち位置がよく分かっていないのではないかと思われるほどです。それほどまでに、現代の認知科学は人間のすべての意識的な精神活動を扱おうとしています。

 そういう中から私たちの英語学習に役立つ情報を探り出すのは容易ではありませんが、筆者の理解するところ、現代の認知発達心理学者の多くは、知能を構成するものの一部に遺伝的に規定された生得的な因子が含まれていると考えているようです。その因子は ‘g ’ (general factor)と呼ばれ、それが知能という概念を構成するものの中心にあると言います。しかしもちろん、私たちの知的な活動が ‘g’ によって決まってしまうわけではありません。私たちは母の胎内にいた時から、与えられた独自の環境の中で育ちますから、その影響を受けないはずがありません。一般的に言って、私たちの知能の発達は遺伝的な要素と環境的な要素が複雑に交差しており、どちらがより多くの割合を占めるかは一概には言えません。研究者によっては遺伝的要素が50% 以上と言う人もありますが、それはあくまで大量のデータを処理した統計的な数値であって、実際には一人ひとり違います。このような数値にこだわるのは、学習者としては賢明ではありません。

 言語の学習には、他の分野の学習には見られない大きな特徴があります。それは、子どもの母語の習得が成人の第2言語(または外国語)の習得とは非常に違うことです。多くの子どもは母語の習得に成功しますが、その同じ子どもが成人になると、第2言語の習得には失敗することが多いということです。なぜそうなのかを説明することは容易ではありませんが、結局のところ、幼児の言語習得には遺伝的要素が大きな役割を演じるのに対して、成人の言語学習にはそれがあまり機能しないということのようです。つまり、成人は母語の習得で利用していた生得的な言語習得能力の多くを失ってしまうということです。(筆者の個人的な見解では、成人はその能力の全部を失ってしまうわけではなく、無意識的な学習においては、その一部を利用していると考えています。)

 もう一つの違いは、習得や学習の環境です。成人の外国語学習は子どもの自然な母語習得とは違って、ほとんどすべての学習過程が人工的に設定されたものになります。日本では、英語の学習は学校の教育課程の中に教科として組み込まれていますから、他の教科と同様に、学習者のすでに持っている知的な能力が大きな役割を果たすことはむしろ当然のことです。すべての教科の学習に共通する知能因子 ‘g’ が存在するとしても、個人の全体的学習能力に差があることは当然です。そこで重要なのは、その個人差を「格差」(人格の差)と捉えるか「個性」(特性の差)と捉えるかです。それによって学習の方向は非常に違ったものになります。「格差」と捉えるならば、学習の前途は真っ暗闇です。「個性」と捉えるならば、前途は洋々です。知能検査や安直な学力テストの結果から、「頭がよい」とか「頭がわるい」とかを、そう簡単に決められてはたまりません。(To be continued.)

安倍政権の落とし穴
(1)こういう場合の「落とし穴」は、英語では、”pitfall” と言いますが、英語の辞典では、「目に見えない危険や困難点」と定義しています。自信満々の安倍政権には、予期出来ない危険や困難さが待ち構えているように思います。そうした問題点のいくつかを指摘してみます。

(2)新閣僚の人選には、予期以上の困難さがあったせいか、決定までにはかなりの時間がかかりました。したがって、閣僚名簿の発表は年末26日の夜分遅くなってからでした。NHK のラジオとテレビでは、首相と新閣僚の記者会見を数時間にわたって、放送していましたが、私は2時間くらいで視聴を止めてしまいました。どれも首相以外は政策ではなく、意気込みだけみたいなものですから、聞いてもほとんど意味がないと思ったからです。

(3)特に気になったのは、麻生副総理兼財務大臣の不敵な笑顔でした。それは新年になっても続きました。過去にも首相経験があるので、自信満々なのでしょうが、一番危ない気がしました。案の定、社会保障と医療の問題に関連して、「老人は早く死んでもらわないと困る」といった趣旨の発言をして、取り消しや謝罪をするはめになりました(1月21日)。しかも、その謝罪は弁解がましくて、いさぎよさは感じられませんでした。

(4)安倍首相は、東南アジアの国々への訪問を早めに打ち切って、1月18日にはアルジェリアの人質問題に対応するために急いで帰国しました。この「何でも自分が先頭に立って指揮をする」という態度は、本当に首相として望ましい姿なのでしょうか?「部下を信用していない」という印象を与える恐れはないのでしょうか?私はとても疑問に思いました。

(5)東京の官邸と連絡の取りにくい地域にいたのであれば止むを得ませんが、今回は帰国する必要はなかったと私は考えます。訪問した国々は、日本の事情を理解はしてくれたでしょうが、やはり予定はきちんとこなすほうがより良かったと思います。特に対中国を意識しての東南アジア訪問であればなおさらです。私は、前回の安倍首相の軽率さに危険を感じましたが、この性格は治しようがないのだと思わざるを得ません。

(6)安倍首相の「景気対策」についても、様々な見解が出ています。2013年1月21日の朝日新聞では、「安倍内閣の経済の評価は49%」という世論調査の結果を報じていました。安倍首相の自信が示すほど、国民は信頼していないのです。私も経済問題は素人ですが、世界的な不況の時期に、日本だけが景気が良くなるとはとても思えません。デフレ脱却には、インフレという危険が伴うことは、専門家が指摘する通りでしょう。月給や年金は上がらないで、物価だけ上ることもあり得るわけです。日銀を“脅して”の、「物価上昇2%を目指す」というのは、本当に大丈夫でしょうか?

(7)その他では、原発問題ばかりではなく、教育問題も山積しています。大所高所から大局を把握して、しかも細かい配慮が必要な「国のリーダー」としての素質があるようには私には思えないのです。(この回終り)

(126)英語との付き合い—42

<英語を学ぶ日本人の考え方>(4)

英語を学ぶ日本人の考え方 (1)英語を学ぶ目的  (2)どんな英語が必要か (3)英語学習の心がまえ に続く。

4.学習の方法

● アンケート回答者の選択 (末尾の数字は後掲書の番号)

* 多くの人は、実用英語とは英語を「話すこと」だと考えている。しかしこれは大きな間違いだ。実際の場面で必要なのは「聞くこと」なのである。そして聞くことができれば、ほぼ自動的に話すことができる。だから実用英語の訓練は、実際に話されている英語を聞くことに集中すべきだ。 ...普通の仕事であれば「正式な英語を聞けること」が基本である。その訓練には英語の演説やニュース番組を聞けばよい。(3)
* 語学の学習には、丸暗記や真似が不可欠な時期があると思う。…また、バラエティーにとんだ英文を出来るだけ暗記しておくことはきわめて有益である。(9)
* 自然な英語の音にたくさん触れて慣れることも、たしかにだいじだが、大量の音声教材を理解できないまま聞き流したところで、役に立つ英語の表現はいつまでたっても身についてこないし、勉学に必要な達成感もえられない。…よく「噛みしめる」ようにして聞き取る工夫をするとよい。そのためには最初からあまりにも大量の教材をこなそうと考えないことだ。自分の語彙の範囲で十分に理解できて、しかも内容的に興味がもてるような音声教材を選ぶとよい。経験からいうと、だいたい七、八割聞きとれる教材をえらぶとよい。 (10)
* 「英語を書くという作業は、ある意味では「聞く、話す、読む、書く」という言語の4つの技能の中で最も難しいかもしれない。…自分の書いた英文を教養のあるネイティヴスピーカーにみせると、次のような問題点を指摘されることがある。○ 文章全体の論理が一貫していない ○ 文章に結論がない ○ どういう意味で使っているのかわからない言葉がある ○ 主述関係がよくわからない○ 代名詞がなにをさしているのかわからない ○ 冗長な言葉や無意味で無駄な表現がある。(10)
* 英語教育強化論の韓国の金大中大統領は「英語は、米国の母語でも、英国の母語でもない.それは世界語だ」と述べている。大統領は獄中につながれている時、英語の学習を始めた。48才になっていた。1993年、英国を訪れた時、小さなラジオをポッケットにしのばせ、時間があればそれを聴いてヒヤリングの練習をした。韓国の英字紙、コリア・ヘラルドを毎朝読む。毎晩ベッドに入る前に、10の英単語と例文を暗記してから就寝する。(6)
* 自分の世界を自分みずからの言葉で表現するためには、日常目に入るもの、耳にすることをできる限り、少なくとも単語のレベルで知っておかなくては駄目です。もし自分の言いたいことに必要な単語を知っていれば、文法や発音など少しぐらい間違っても、自分の思いや考えは、具体的な場面さえあれば、相手にほとんど通じます。(8)
* 会話においては、耳の問題、すなわち聴解力がある。しかし、聞き取りというものは、細かなテクニックはいくらもあるけれども、基本的には慣れるしかない。…話すことについては、英作文に力を入れることを奨めたい。(9)
* 私が英語学習において常々主張しているのも、素読、暗誦、文法, 読解を含めた型の訓練の必要性です。(1)
* 技の習得を支えるのが、徹底した型の訓練と、技へと昇華させるための反復練習で、それが学びの基本です。(1)
* 英語学習を整理すると、次の4つの段階に分けることが出来る。1.知識の蓄積 (単語、熟語、決まり文句、鍵となる英文など)← 丸暗記 2.分類・分析による体系化 (文法)← 論理性 3.訳出による母語再認識 ← 思考力 4.英作文による英語の再確認 ← 認識力 (9) 
* 私は、従来のそれなりに構築されてきた英語教育体系を破壊することなく、それに加えて音声面での実効性ある教育を強化し、それも日本人教師が行うことを提案する。私が提案する音声面の教育とは、英語のアルファベットは表音文字であるというごく当たり前の、それでいながら日本ではほとんど無視されてきた側面に光を当てるものである。アルファベット教育が正しく行われるなら、英語の音声面の能力は飛躍的に強化されると私は確信している。(2)
* 英会話の勉強は、聴く訓練に集中すればよい。それが自動的に話す能力を高めるので、話す訓練は特別必要ない。(3)

● 私の見解

 英語を勉強したいが、どのように勉強してよいか分からない。そういう成人が大勢いるので、書店には、個人の体験談から、雑誌の特集、英検やTOEICの受験参考書、それに研究書まで、英語学習法に関する本が溢れています。それらを読んでみて、あまりにも安易ではないかと思われるものが多すぎると感じまし。
このシリーズで引用している10冊の本は、むしろ例外に属するものだと思います。

 我々の学習法の基本的な方法論は、茅ヶ崎方式英語会のHPに15周年記念講演という形で載せてありますし、各段階の学習法は、7冊の教本に具体的に書いておきました。ブログには長文すぎるので、興味のある方はそれを読んでください。 ここでは、そういう学習法を思いついた端緒と帰結だけを書いてみたいと思います。

 私は中学3年の時軍事教練中に左耳を殴られて鼓膜が傷ついたため、右耳の半分くらいしか聴力がありません。NHKの国際局で英語ニュース班に配属され、初めにやらされた外国放送
のモニターがうまくいかず、なかなか聴き取れないのは、左右の聴力が不均衡なせいではないかと思い始めました。そうなると何時までここにいても一人前にはなれないから他の部署へ移
してもらおうと決意しかかったある夜、突然聴き取れるようになったのです。自分の努力不足を棚に上げ、古傷のせいにしようとした甘ったれ根性を恥じるとともに、安堵と喜びで、深夜、NHKの前に出ていた屋台のおでんやで独り酒を飲みました。眺めるともなくビルの谷間の夜空を見ていると月が建物の陰に隠れて、星が見え、北斗七星ではないかと思われる星座が瞬いていました。その時ふと、星が単語で、それを繋いだ星座が句や文ではないかという妄想にとらわれました。

 それから20年以上たって、自分達の英文記者としての体験を下敷きに、成人のための英語対話の学習法を構築できないかと考えた時に、その妄想がよみがえりました。あの時、英語を聴き取れるようになるまでなんであんなに時間がかかったのか。英語の音韻になれていないことも大きかったが、聴き取れるようになってから振り返ってみると、最大の原因は結局語彙の不足だったのです。 当然のことながら、知らない単語は聴き取れませ。一定の単語や語句を音声ともども頭に叩き込むことが、聴き取りの不可欠の条件であり、同時にそれが、他の3技能の基盤ともなるという至極当然な結論に達しました。数人の仲間にこの話をすると、同じ体験を持つベテラン記者の彼等の心にストンと落ちたようです。 それから、数人の同志による星の点検、つまり、英対話のための必要にして十分な単語や語句の選定が始まりました。そして出来上がったのが、「基本4000語」です。同時に、この4000語で、ニュースを素材とする教材は全てカバーできるだろうという見通しもつきました。

 したがって、「国際英語基本4000語」こそが、我々の学習法の基盤です。この4000語を(読んでわかり、聴きとることが出来、書いたり、話したりに使えるよう)使用語化することが、我々の学習法の A to Z です。この用語集が、30年を超える長い教材作成の旅路の出発点となりました。(M)

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1.日本語力と英語力 斉藤孝・斉藤兆史 中公新書 2.英語は日本人教師 上西俊雄 洋泉社 3.超英語学習法 野口悠起雄 講談社  4.英語の音読指導 土屋澄男 研究社
5.世界の英語を歩く 本名信行 集英社新書  6.あえて英語公用語論 船橋洋一 7.英語を子供に教えるな 市川力 中公新書  8.日本人は何故英語が出来ないのか 鈴木
孝行  岩波新書  9.誰がこの国の英語をダメにしたのか  澤井繁男  NHK出版 10.英語屋さんの虎の巻 浦出善文 集英社新書 (M)

今年になって始まったこの「英語の学び方再考」シリーズは、学習の途上で浮かび上がってくる学習者の疑問を列挙することからスタートしました。それらの疑問に答えるには、学習の前提となる到達レベルについて読者と合意しておく必要があると感じたので、前回の「学習上の制約」という話になったわけです。要するに、日本に住んで日常的に日本語を使う環境で暮らしている日本人には、あらゆる面で英語のネーティブ・スピーカーと同等の英語運用力を望むのは無理だということでした。「学習上の制約」とは、簡単に言えば、英語の学習と使用経験に厳しい時間的・環境的な制約があるということです。ですから、日本人の英語達成目標はネイティブ・スピーカーと同等になることではなく、各自が必要とする限られた分野での達成を目指すのが実際的だというわけです。

 さて、学習途上で学習者が疑問に感じることの第1は、「英語学習はできるだけ早く始めるのがよいと言われているが、自分はもう遅すぎるのではなかろうか」という年齢の問題でした。これについては、学習の到達目標があらゆる面でネイティブ・スピーカーと同等の運用力を獲得することにあるとすれば、大方の答えは「もう遅すぎます」ということになるでしょう。そのことは、これまでの第2言語習得の研究からほぼ明らかになっています。もう少し具体的に言うと、子どもは3歳を過ぎると言語習得の生得的な能力が低下し始め、6歳か7歳になると多くの子どもが新しい言語の学習に抵抗を示すようになります。そして人によって違いはありますが、10代の思春期までのどこかの時点で、言語を自然に習得する能力を失ってしまうようです。「失ってしまうようです」と曖昧な表現にしたのは、それ以後もその能力をいくらか残していると主張する研究者もいるからです。

 そこで、言語の学習は ‘the younger the better’ (年少者ほどよい)という考えが世に定着し、これがあらゆる場合に適用するかのように信じられてしまいました。わが国でも、英語学習は中学校からでは遅すぎる、小学校から始めるべきだという声が高くなり、文科省もついに2011年度から小学校5年と6年に「外国語活動」という週1回の授業(教科ではない)を設け、その中で英語を教えることにしました。新聞報道によれば、文科省はさらに小学校低学年への英語教育の導入を検討しているようです。たしかに、このような外国語教育の早期化は日本だけでなく、世界的な傾向になっています。しかしこの「年少者ほどよい」という言語学習原理は、本当に信じてよいのでしょうか。

 実を言うと、世の人々の信じている ‘the younger the better’ という原理は、第2言語習得の学問的研究の成果を曲解しているのです。元のそれには条件が付いています。「第2言語の習得に適した自然な環境においてのみ」という条件です。つまり、学習者が第2言語の使用される自然な環境の中にどっぷりと浸り、常時さまざまなネイティブ・スピーカーと交わって豊かなコミュニケーション活動を行っている場合に限られるのです。日本の小学校における「外国語活動」の導入も、早期英語教育のためだとすれば、明らかに間違っていると言わざるを得ません。もしどうしても必要だと言うのであれば、子どもたちの目を世界に開かせるという全く別の目的でなされるべきです。

 ところで、学校の教室のような人工的な学習環境では、上の原理は ‘the older the better’ (年長者ほどよい)に逆転します。実際に、これまで報告されている教室における英語学習では、ほとんど例外なく、幼い子どもよりも年長者や成人のほうが優れています。その証拠の一つとして挙げられるのがカナダのバイリンガル教育の実践データです。英語を第1言語とする子どもたちが、幼稚園または小学校からフランス語のイマージョン・プログラムによって教育されました。しかしその子どもたちは、もっと遅く9歳~11歳(またはそれ以降)からイマージョン・プログラムに入った子どもたちに、短期間のうちに追いつかれてしまったのです。この例のように、学校のようなフォーマルな指導の下で行われる言語学習では、ほとんど例外なく、年長者が有利なのです。

 以上の考察から出てくる結論は、英語の学習者は自分の年齢のことを気にしなくてよいということです。新しいことに挑戦する意欲のある人は、恐れずに始めてください。本当に英語を学びたいという気持ちが心の底からわき起こったならば、直ちに始めるべきです。だがそこで、疑い深い人たちは新たな疑問に悩まされるようです。「わたしはAさんのように頭がよくないから、英語の学習能力も劣っているのではないだろうか」と。これが次回のテーマになります。(To be continued.)

(125)<初夢続き>松山薫

Author: 松山 薫

(125) 初夢−続き

 それからしばらく経った冬の泊まり勤務の深夜のことだった。仕事が一段落した午前2時過ぎ、いつものように、数人のスタッフが部室の片隅にあるソファ・コーナーに集まって、軽食を始めることになり、私は私物を入れてあるロッカーへ自家製のサンドイッチを取りに行った。薄暗い廊下の片側の壁にそって80人分のロッカーが並んでいる。私のロッカーの数メートル先にある平八郎君のロッカーの前に黒い人影が見えた。飲みすぎて電車がなくなり、仮眠室に寝に来たなと思って、「やあ」と声をかけると、人影はス‐ッと仮眠室へ通ずる階段の方へ消えていった。朝になったら「お早うございます」と言ってノコノコ出てくるだろうと気にも留めていなかったが、彼は現れなかった。

 泊まり明け勤務を終えて帰宅すると、家内が「田丸デスクから電話で、帰ったら直ぐ電話するように」という伝言があったという。何か原稿に重大な誤りでもあったかと思って電話すると、「佐藤平八郎が死んだ。変死なので警察の検死があるかもしれないから直ぐ彼の下宿へ行ってくれ。俺もなるべく早く行くようにする」と言うなり電話を切ってしまった。私の頭には一瞬“失恋自殺”という思いがよぎった。

 京浜東北線大森駅近くの彼の下宿へ駆けつけると、すでに田丸デスクはじめ数人の部員が来ていた。死因は一酸化炭素中毒だということだった。酔って帰って石油ストーブに火をつけ、そのまま寝込んでしまったらしい。不完全燃焼で天井は真っ黒になっていた。通夜の席で、私は、当夜一緒に飲んだという同僚に、彼は一旦局へ寝に来たようだったがと訊ねると、「いやそんなことはありません。」一緒に新橋駅まで行き、彼は終電車に乗るために階段を真っ直ぐ上っていったというのである。そうすると、ロッカーの前のあの人影はなんだったのか。

 それから2年後の冬、数人の同僚で福島県の猪苗代へスキーに行く途中、佐藤平八郎君の実家へ立ち寄って3回忌の線香を上げさせてもらうことになった。水郡線のいわき石川駅で降り駅前の雑貨屋で彼の家への道筋を聞いたところ、店の主人に「もしかして平八郎さんのお知り合いの方ですか」と尋ねられ「そうですが」と答えると「大変惜しい人を亡くしました。町では評判の秀才で、皆期待していました」と言う。この町から現役で東大に入ったのは彼が二人目だということだった。

 佐藤家では、突然の訪問にもかかわらず、母堂と姉上が、心から歓迎してくれた。通された部屋は彼が高校時代に勉強部屋にしていたところだということで、当時そのままに残されていた。自慢の息子の思い出をとつとつと語る母親の顔を私は正視できなかった。帰り際に姉上が、菩提寺の名を告げ、直ぐ近くだからよかったら墓参りをしてやってくれないかと言った。乗り継ぎの時間が迫っていて墓参はかなわなかったが、私は必ずもう一度来ると心に決めた。

 雪解けの3月に私は一人で再び石川町を訪れた。駅前の雑貨屋で買い物をし、寺の位置を確かめ、小高い丘の上にある菩提寺へ行った。住職にお経を上げてもらい、花と線香を供え、ヒューヒューと泣くような寒風のなかで冥福を祈った。山門から町を見下ろすと、彼が中学・高校へ通った白い一本道が町はずれへ向かって伸びていた。私はふと、彼はこの道のような真っ直ぐな人生を歩きたいと願っていたのではないかと思った。

 その日は、大子温泉に泊まった。季節はずれのためか、旅館はひっそりとしており、私のほかには宿泊客はいないようで、夕食を運んできた仲居さんは、晩酌の相手をしてくれた。名物のこんにゃくの刺身や久慈川の鮎を肴に、なんとなく肩の荷を下ろしたような気分で酔って、寝る前にひと風呂浴びようと大浴場へ行くと、ここにも誰も居らず、大きな浴槽の縁に身を沈めて滾々と湧き出るお湯を見ているうちに、ついうとうとしたらしい。誰かが呼んでいる声でハッと我に返ったが、誰もいなかった。湯船の向こう側から溢れて流れ出る湯で湯気が立ち上り、全面ガラスの向こう側は漆黒の闇だった。

翌朝、朝餉を運んできた仲居さんに、その話をして、確かに闇の中で人の声がしたようだったというと、「ああ、それなら、下の川のせせらぎが、風向きによって、そんな風に聞こえるんですよ。幽霊でも出たと思ったんですか」と言って笑った。

 あれから50年、平八郎君のことはたびたび夢に見たが、初夢に現れたのは初めてだった。「安全地帯に身を潜めていては社会は変わらない」というマハトマ・ガンジーの言葉を思い出して、自分の分まで生きて欲しいという年頭のエールだったと受け止めたい。(M)

これまでに書かれた英語学習論の多くは、日本人でありながらネイティブ・スピーカー並みの英語運用力を身につけるという、かなり高度なレベルの習得を目指した英語学習を論じるものでした。その理由は、それらの著者たちが自分自身の経験を通して、そのような運用力を実際に身につけた人であったからでしょう。「私はこうして成功したのだから、あなた方もそのようにしたらよい」というわけです。あるいは、著者自身がそこまで到達していない場合でも、著者の経験と研究から、こうすればよいはずだという理想的な英語習得の姿を描き出して見せるものでした。筆者が以前に書いた『あなたも英語をマスターできる』(茅ヶ崎出版)も、そういう類のものでした。

 最近では、日本人でありながら英語圏で生まれ育ち、英語を母語のように習得する人が珍しくなくなりました。また若い頃から海外に移り住んで、英語を第2言語として使いこなす人も増えています。そして今や、そのようにして英語を身につけた「バイリンガル」と言われる人々が、いろいろな分野で活躍するようになっています。ですから、自分の国から一度も離れたことがない日本人が、そういう人を見てうらやましく思い、どうにかして自分もそのような英語を身につけたいと思うのは当然のことかもしれません。しかし、日本に生まれ育って日本語をかなりの程度まで身につけてしまった人々には、それは容易なことではありません。本当にそうしたければ、なるべく早く決心して、英語を主言語として使用する土地に移住しなければなりません。日本に住み続けながら英語を日本語と同様に使えるようにしたいというのは、虫のよい話なのです。

 このような議論に対して、一度も日本の国外に出たことがないのにネイティブ・スピーカー並みの英語を身につけたという人がいるではないか、と反論されるかもしれません。昔はそういう人がいると信じられていました。以前「百万人の英語」というラジオ・テレビの英語講座で有名な五十嵐新次郎氏(早稲田大学教授)がそうでした。筆者もその放送を聞いて発音の勉強をしたことがあります。五十嵐先生は留学経験がないと聞いていましたが、その発音は普通のネイティブ・スピーカーよりもずっと上手だと感じました。しかしそれは五十嵐先生が英語音声学の専門家だったからで、先生が日本人のための英語講座を担当するのに必要なレベルの英語を完璧に習得なさっていたということにすぎません。ラジオの英語講座を担当したということから、先生がご自分の母語と同様に、あらゆる分野での英語運用に習熟されていたということではありません。

 つまり、私たちは自分の関心のある限られた分野においては、専門的な訓練を積みかさねるによって、ネイティブ・スピーカーと同様の(またはそれ以上の)英語力を身につけることができるということです。それは間違いなく可能であり、英語の達人と言われた伝説的日本人もたいていそうです。しかし一部のバイリンガルのように、母語である日本語でカバーすることのできるすべての分野を、第2言語である英語で代行できる技能を身につけることは、ほとんど不可能だと言ってよいでしょう。なぜなら、私たちの生きている時間と環境には厳しい制約があります。私たちの一生はそう長くはありませんし、私たちは日常的に日本語を使う環境の中で生活しているからです。その環境を変えることは理論的には可能ですが、多くの日本人はその中で生活することを選択しています。(選択しているのではなく「余儀なくされているのだ」と言うかもしれませんが、この場合どちらでもかまいません。)そういう時間と環境の制限の中で一定の時間を割いて英語の学習を進めるとすれば、私たちのなすべきことは、自分がどうしても英語を必要とする分野に限定して学習を進めることではないでしょうか。筆者は前回、「ここで言う英語学習の成功者とは、自分にとって必要な英語力を身につけた人のことです。ですからその到達レベルは個人の必要に応じて異なります。」と書きましたが、それはそういうことです。

 ある限られた分野での、個人の必要に応じたレベルの英語運用力ということになると、それはネイティブ・スピーカーの獲得する言語能力とは必ずしも一致しません。従来の第2言語の使用能力は常にネイティブ・スピーカーのそれを基準にして判断されましたが、これからはもっと限定された運用力について語ることになります。たとえば、英語で日常会話はできなくても、自分の専門分野の論文を読み書きし、自分の論文を口頭でプレゼンテーションできるというような、限られた分野の英語能力を考えることができます。特に理系の研究者や学生たちには、現在そのような能力が必須です。そういう能力を効率的に養成するという研究は、これまであまりなされていないように思われます。(To be continued.)

私の初夢物語
(1)ブログ仲間の松山さんの「初夢」は非常に現実的な手堅い文章でしたが、私は逆に非現実的な“夢物語”をしてみたいと思います。現在日本では、国民一人一人に“番号”をつけて、税金の納入や年金の受取りがすぐに分かるようにしようという意図が関係官庁で検討されています。しかし、なかなか実現出来ないのは、そういうものをコンピュータで管理すると、そのデータが何者かに盗まれた時には大混乱が起こると言われているからのようです。

(2)確かに、メールで覚えの無いメッセージを発信した廉(かど)で、逮捕される人たちまで出るのですから、コンピュータによる管理は信用出来ません。こうしたことが起こらないようにするには、どうしたらよいだろうかと考えたのが私の“提案”です。新春ですからこんな夢を見ても許されるのではないでしょうか?非現実的で、非科学的なことは承知の上です。

(3)私が街を歩いていて、“無ければいいのに”と思うものは、電信柱です。イヌを散歩させる愛犬家は、“電信柱は不可欠だ”と主張するかも知れませんが、将来は愛犬専用の散歩道を造って、排泄物などは指定の場所で自動的に処理できるようにしたらよいのではないでしょうか?そうなれば、ビニール袋とスコップを持ち歩く必要も無くなるのです。街並みの美しさを誇るパリの通りも、早朝にはうっかり歩けないほどイヌの排泄物が溢れていて、膨大な費用をかけて清掃車が通りを洗い流しているとのことです。

(4)空中を飛び交う電波は、端末部分ではテレビの映像やラジオの音声に変換出来るのですから、かなりのエネルギーを持っています。そのエネルギーをもっと拡大して、家庭、オフィス、工場などの照明に使えるようにするのです。ニューヨークのマンハッタンのように、電線は全て地中に埋めてあると、街並みの見栄えは良いですが、一旦停電すると修復がとても困難なようです。私の方式ならば、電波さえ発信すればすぐに電気が点(つ)きます。

(5)次に改善すべきは、コンピュータの能力です。強力な電波を発信することは普通の人には必要ないことなので、地方自治体が許可した一部の業者に限定されます。その人たちも、許可を得た以外の周波数を使うと、管理者には、どこが発信元かすぐに分かる仕組みになっていますから、悪意のある割り込みなどは出来ないのです。また、その頃のパソコンは、人間の感情まである程度読める能力があって、老人ホームでは、老人の気持ちが分かる介護ロボットが活躍しているのです。

(6)問題はそれだけ巨大なエネルギーを生み出す電気をどうして得るか、ということです。その頃には、絶対に爆発などしない、原子の力を利用した安全な物質が発明されて、利用されているのです。その大きさは、缶コヒ—1本分くらいで、日本中の必要なエネルギーを得られるのです。

(7)私は、ノーベル賞の「提案部門」で賞をもらうことに決まって、授賞式に出席すべく、電車で成田空港へ向かっていました。ところが、途中で局地的豪雨に襲われ、線路脇の土砂が崩れて、電車が脱線転覆してしまいました。意識不明で助け出されたところで、私は目が覚めました。これが「初夢物語」の結末です。地震大国の日本で、自然に逆らうことなど考えてはいけないのだとも思いました。(この回終り)

人は自分の意志で何かを学び始めるとき、どうすれば最も効率的にその学びに成功するのか、それにはどれくらいの時間や期間が必要なのかについて、あちこちから情報を集め、いろいろと考えて計画を立てるものです。しかし日本人の多くは学校教育のカリキュラムの中で、英語を「学習すべき科目」として義務的に学び始めますから、それについてあれこれ考える必要がありません。したがって、学習の目的や方法について深く考える必要もありません。そのために、「クラスの仲間たちについていければよい」という他律的な態度が身についてしまい、自分で計画を立てて学習を進めていくという自律的態度が育ちません。いつも意識しているのは親の期待と目先のテストや入学試験です。その結果、高校や大学まで6年、8年と学んだ後に、あるとき自分の英語力がきわめて不充分であることに気づいて唖然とすることになります。

 そこで、英語学習を始めたのち何年かたって、英語を自分の個人の生き方にかかわる問題として真剣に捉えようとするとき、人は自分の立ち位置を見失って、どうしてよいか分からないという気持ちになります。そして、このまま英語の学習を続けて行ってはたして使い物になる英語が身につくのだろうか、もう遅過ぎるのではなかろうか、そもそも自分には語学の才能が乏しいのではなかろうかなど、いろいろと疑問がわいてきます。以下では、そういう多くの学習者が抱くと思われる七つの疑問を取り上げて、それらが事実に基づく正しい疑問なのか、あるいは誤った信念に基づく根拠のないものなのかを明らかにしたいと思います。

(1)英語学習はできるだけ早期に始めるのがよいと言われている。だが自分は20歳を超えてしまった。もう遅すぎるのではなかろうか。今から始めて間に合うのだろうか。

(2)英語学習には高度の知的能力が必要なようだ。友人のAさんは頭がよいから英語もよくできる。自分はAさんほど頭がよくない。だから英語の学習能力も劣っているのではなかろうか。

(3)英語学習には性格的にそれに向いている人と向いていない人とがあるようだ。友人のBさんのように社交的な人は得をする。自分は引っ込み思案だから損をする。英語の学習に向いていないのではなかろうか。

(4)英語学習には記憶力がいちばん重要なようだ。自分はどうも単語や熟語の暗記が不得意だ。一所懸命に覚えてもすぐに忘れてしまう。これでは先の見込みがないのではなかろうか。

(5)英語学習に成功する人たちはみな各自の学習方法を知っているようだ。しかし自分はいろいろ試みてみたが、どうしても自分の学習法がつかめない。どうしたらよいのだろうか。

(6)英語は毎日コツコツとやらないと上達しないと言われている。自分はそういうやり方ができない。やる時はやるが、やる気がしないときは全く手がつかない。そういう人間は語学に向いていないのではなかろうか。

(7)英語学習には金がかかる。留学したいが金がない。個人教授を頼みたいが、やはり金がない。財力のない者は英語学習の成功者にはなれないのではなかろうか。

 結論を先に言いますと、これらの疑問や悩みの大部分は、英語学習の基本的な事柄についての学習者の誤った信念または誤解に基づくものです。成功者となるためには、まずそのような間違った信念や誤解から自由になることが大切です。これらの個々の項目については次回以降に順次議論するつもりですが、その前に、議論の基礎となる英語学習の到達レベルについて述べておきます。

 ここで言う英語学習の成功者とは、自分にとって必要な英語力を身につけた人(日本人)のことです。ですから、その到達レベルは個人の必要に応じて異なります。それは必ずしも英語の母語話者と同じレベルに達することを意味しません。母語話者と同じになるためには、英語が常時使われる環境で生活するという、特別な習得環境を必要とします。これは普通の日本人には望めない環境です。日本に住んで日本語で生活をしている普通の日本人の場合には、英語の習得範囲とレベルはずっと限定されます。その獲得能力は決して自分の母語の運用力を超えることはありません。その主な理由は成人の外国語学習は常に母語を基礎として学習されるからです。ですから、バイリンガルを見て自分もそのようになりたいと心から望む人は、現在の言語環境を全面的に変える必要があります。しかし、たいていの日本人はそうではなく、これまで通り日本語を使いながら英語もあるていど自由に使えるようになりたいと思っているのではないでしょうか。ここでの議論はそういう人たちのためのものです。 (To be continued.)