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6.”共謀罪法“ の成立

 「共謀罪」の構成要件を変更して「テロ等準備罪」を新設する「改正組織的犯罪防止法」が、参議院での委員会採決を省略し、本会議での中間報告によって採決を行うという異例な国会運営によって成立した。7月中に施行される見通しである。各紙とも banner headline で伝え、ほとんどの新聞が社説でとり上げた。

各社社説の見出しは次の通り。

読売新聞    「凶行を未然に防ぐ努力続けよ」
朝日新聞    「権力の病弊 ”共謀罪“市民が監視を」
毎日新聞    「一層募った乱用への懸念」
日経新聞    「あまりに強引で説明不足ではないか」
産経新聞    「国民を守るための運用を 海外との連携強化に生かせ」
北海道新聞   「国会の本分捨てたのか」
河北新報    「”Ⅰ強“ の数の横暴極まる」
中日新聞    「『私』への侵入を恐れる」
京都新聞    「行き過ぎた運用に歯止めを」
中国新聞    「議論封じる暴挙許せぬ」
西日本新聞   「監視すべきは1強政治だ」
南日本新聞   「数の力の暴挙に政権のおごり極まる」

読売と産経を除いては、法案の審議過程や内容に強い懸念や反対を表明している。

法案の問題点として、一般人が捜査の対象になるのではないか、組織的犯罪集団の定義とは、どうやって準備行為を見極めるのかといった点が挙げられており、政府側の曖昧な答弁でそれが解消されないまま、将来に禍根を残すことになりかねないと懸念している。
さらに、法律の内容もさることながら、強引な国会審議のあり方についての批判が目だち、国会の閉会を急いだ背景に「加計学園問題」があると道新が指摘している。また、加計問題の疑惑がこれ以上拡大すると、来月の東京都議会議員選挙で、“小池新党”に押され気味の自民党や公明党、維新が、さらに苦境に追い込まれることを恐れたためだと推測した社説( 道新、河北、京都、中国)もある。
新法の名称については、読売、日経、産経が「テロ等準備罪」としている他は、上記各紙の社説はすべて「共謀罪」を使用している。

「読売新聞社説」は、2020年のオリンピック、パラリンピックを控えテロ対策は喫緊の課題であり、改正法を有効に機能させなければならない。「既遂」を処罰する現行の刑事法の原則に縛られたままでは有効な手立ては講じられないから、テロ等準備罪が必要だと論じている。また、法の対象が組織的犯罪集団に限定されており、適用には実行準備行為も必要とされているから、これらの限定がなかった「共謀罪」とは別物だとしている。「一般人も処罰される」という野党の主張は不安を煽るだけであり、監視社会になるという批判も、警察が新たな捜査手段を手にするわけではないから、的外れだとしている。ただ、採決の手段については乱暴だったと批判している。

「朝日新聞社説」は、捜査や刑事裁判にかかわる法案は「治安の維持、安全の確保」と「市民の自由や権利、プライバシーの擁護」という深刻な対立を惹き起こすが、「二つ価値をどう両立させ、バランスをどこに求めるか」が重要であるとし、「共謀罪法」について政府の姿勢はあまりに問題が多く、「この法律がなければ五輪は開けない」という安倍首相の主張などまやかしが目立ったとしている。何でもあり、のこの政権が産み落とした「共謀罪法」はやがて市民の自由と権利を蝕む危険をはらむから、日本を監視社会にしないためには、国民の側が法の運用をしっかり監視し、異議を唱え続けねばならないと結んでいる。そして、刑事法の原則の転換につながるこの法案の制定の過程は、国会の歴史に重大な汚点を残したと強く批判している。

「毎日新聞社説」は、捜査機関が権限を乱用し、国民への監視を強めるのではないかというのが、この法律の最大の懸念材料であった。捜査機関が捜査を名目に行き過ぎた監視に走る可能性があることは、これまでの例を見ても明らかで、その懸念は一層強まったとしている。政治的な活動を含めて国民の行動が警察権力によって脅かされてはならない。監視しようとする側を、どう監視するか。国民の側の心構えも必要になってくると結んでいる。また、法案の取り扱いについては、テロなどの治安上の必要性は認めるとしても、こんな乱暴な手法で成立させた政府を容易に信用することは出来ないと述べている。

「日経新聞社説」は、法案の内容には触れず、採択の手続きについて、最後には多数決で決めるのが国会のルールだとしても、与党の都合で法案審議の手続きを一部省略し、早期成立にこだわるような手法は、あまりに強引過ぎると批判している。

「産経新聞社説」は、東京五輪を控え、日本がいつまでもテロや組織犯罪に対して国際社会の外にいるわけにはいかない。新法の一刻も早い成立が望まれた所以であると歓迎している。「平成の治安維持法」などの批判は劣悪なレッテル貼りで、戦前と戦後では体制も社会情勢も異なり、比較の対象にはなりえないを批判している。

「北海道新聞社説」は、憲法が保障する基本的人権の重大な侵害つながりかねないと批判された「共謀罪」を、与党は議論を封ずる奇策で押し切った。立法府の本分を捨てたに等しいと、自民・公明を批判する一方、野党についても、徹底した論戦で問題点を明らかにさせ、政府与党を論破する。国会外の市民とも連携するとうのが正攻法である。そうでないと、いつまでも数の力を跳ね返せないと野党に注文をつけている。

「河北新報社説」は、「共謀罪」では、一般の人が捜査の対象になるのかどうかなどの根本的な疑問に対する政府の答弁は一貫性を欠き、審議すればするほど曖昧で、不完全な法の実態が浮かびあがった。「奇策」を使ってまで成立を急いだのは、「安倍一強」の強権政治が如実に表れ、数の横暴が頂点に達した結果だと断じている。

「中日新聞社説」は、この法律によって日本の刑事法の原則が覆える。まるで人の心の中を取り締まるようだ。「私」の領域への「公」の進入を恐れる。として、身に覚えのないことで警察に呼ばれたり、肩家宅捜索を受けたり、そんな社会になってしまはないだろうか。なにしろ犯罪の実行行為は前提になっていないのだからと心配している。

「京都新聞社説」は、戦後民主主義の基本となる「内心の自由」を侵しかねない。適用基準が明確でなく、捜査機関が乱用する恐れがあると、野党のみならず、多くの国民、有識者が指摘してきたが、政府の説明は二転三転し、国民の不安を解消できなかった。行きすぎた運用に対する歯止めを施行前に整えておくべきだと主張している。

「中国新聞社説」は、最大の不安は一般の人が処罰の対象になるかどうかだろう。政府は「ならない」というスタンスだが、捜査機関による恣意的な運用の恐れが指摘されている。条文に歯止め策がないからだ。私たちはテロ対策という包装紙に誤魔化されてはいけない。監視社会への切符は要らないと
している。

「西日本新聞社説」は、国家権力には縛りが必要だ。国民主権をうたった憲法の下で、権力の行き過ぎがないよう国民が国家の動きを監視していく。そうした立憲主義の基本理念に照らして、この法案はいわば、正反対の性格を帯びていると評している。

「南日本新聞社説」は、捜査対象が際限なく広がるのではないか。国民が抱く不安を払拭する説明はついに聞くことができなかった。反原発や反基地などの市民運動にも矛先が向くのではないか、と懸念を表明している。

さて私の意見です。

 ほとんどの新聞が社説でとり上げたのは、この法律が、国連人権理事会の人権問題特別報告者から指摘されたように、民主主義社会の基盤となる基本的人権や言論の自由を制約する恐れがあるからだろう。また、一部の社説は法律の内容よりも、政府・与党の強引な国会運営に焦点をあてているが、内容未消化のまま、数の力で一方的に法律を作り上げるというのでは、議会制民主主義は内側から崩壊する。これらの観点から私は「共謀罪」に強く反対する。メディアには、国民に監視を呼びかける前に、自らの使命として、この法律の運用に、執拗に目を光らせ、やがてこの法律の廃止に追い込んでもらいたいと思う。

 何しろこの法律はわかりにくい。4月の各社の世論調査では、賛否が大きく割れた上、NHKの6月の世論調査でも「どちらともいえない」「わからない」が合わせて半数近くになっている。
私自身も「共謀罪」が「市民団体が処罰される」などの批判を浴びて過去3回廃案になっていることは知っていたが、その「共謀罪」の「構成要件を変える」というのはどういうことか最初は理解できなかった。それは、対象となる犯罪を676から277に絞ったということらしいと分かったが、それでも対象犯罪があまりに多岐にわたっていて、それらがどうしてテロと結びつくのかわからない。「墳墓発掘死体損壊罪」が何故テロと結びつくのか。道化役を演じさせられたらしい岩田勝年法相に同情したくなった。法案を作成した法務官僚や警察官僚には解っていても、後から法案を読んだのでは、なかなか理解できない。国民は、自分達が理解できない法律によって取り締まられるわけである。「テロを取り締まるのだからいいだろう」という程度の理解でいると、後でとんでもないことになりかねないと私は思う。

それに、日本の警察は、アメリカから極秘の情報監視システムを供与れたと元CIA局員のエドワード・スノーデン氏が共同通信に伝えている。 警察の捜査次第で、個人のプライバシーは丸裸にされかねない。違法なGPS操作で、容疑者を9か月も付け回したという最近の警察の捜査を見ると、杞憂とは言い難いだろう。疑わしきは罰せずという原則が、疑わしきは罰するという方向にむかうのではないか。

 産経の社説は、この法律を「治安維持法」になぞらえることを批判し、その時代とは、体制も社会情勢もちがぅと主張しているが、権力の本質を甘く見ているような気がする。私は、出版社を立ち上げた時、何回か横浜弁護士会に相談に行った。横浜弁護士会は、治安維持法違反で「横浜事件」の被告を裁いた横浜地裁のすぐ隣にある。私は雑談の合い間にそのことに触れてみたが、弁護士さんは知ってか、知らずか、まったく関心を示さなかった。治安維持法による最後のでっち上げである凄惨な「横浜事件」について、文芸春秋誌の編集長であった池島信平は「我々古い編集者は自分達が甞めた苦しみをもう国民の誰一人にも甞めさせないという気持ちを今なお持ち続けている」と書き遺している。過去から学ばなければ現在は理解できず、未来を語ることはできない」という箴言を忘れてはならないだろう。

「まさか私が」と思っているうちに、「え、何で私が」ということにならないようにというのが、昔、沖縄戦の伝単を見ていて「非国民」と罵られて殴り倒され、憲兵隊に突き出すと脅されたことのある私の切なる願いである。 (M)

「英語化は愚民化」というのは、政治学者である九州大学大学院準教授・施(せ)光恒(みつひさ)氏が著した本(集英社新書2015)の書名から拝借したものです。その本の副題は、「日本の国力が地に落ちる」というものでした。それを最初に見たとき、そのあまりにも挑戦的な題名にやや反発を感じたように思いますが、読んでみて成るほどそうかと納得できる点が多く、英語教育の専門家とは異なる発想が随所に見られ、大いに啓発されたものでした。それが出版されてから2年後の今、もう一度読み返してみて、そこで指摘されていたことの多くが現実となって迫ってくる恐れが高まっていると感じます。

施氏の言う「英語化」とは、今世紀に入ってから政府と文部科学省が打ち出した、学校教育における一連の英語重視政策を指しています。まず2000年に、政府の立ち上げた「21世紀日本の構想懇談会」が、これからの時代を生きる日本人にはコンピュータと英語が必須だと提言しました。それを受けて文科省は、それまで消極的だった小学校での英語教育を実施する方向に転換し、着々とその準備を開始しました。そして2002年、「『英語が使える日本人」の育成のための戦略構想』なるものを打ち上げ、私たちを驚かせました。その戦略構想の目玉は英語教育の早期化でした。まず小学校高学年(5・6年生)を対象に、「総合的な学習の時間」や「特別活動」の時間を利用し、教育の一環として外国語会話(英語会話)を教えることになりました。次いで2008年の学習指導要領改訂で、それを独立した「外国語活動」に格上げしたのでした。そして今度の改訂では、「外国語活動」を小学校3・4年生に移し、5・6年生では「外国語」という名の教科にすると決めたのです。

学校教育における英語重視政策は小学校教育に留まりません。2009年の高等学校指導要領改訂には「授業は英語で行うことを基本とする」と記し、従来の学習指導要領とは違って、その規定が普段の授業の進め方にまで及ぶことになりました。そして文科省はその後、中学校でも英語の授業は英語で行うように通達を出しました。そのモデルとなる実践を推進するため、ご存知の方も多いかと思いますが、2002年度から各地に「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール」(SELHi)が新設され、また2014年度からは「スーパー・グローバル・ハイスクール」(SGH)が設置されました。このように、小学校から高校に至る英語教育の改革を、文科省は着々と実施に移しています。

さらに文科省は「英語化政策」の方針をエスカレートさせ、大学の授業を早急に英語化するように促しました。その促し方は実に巧妙で、「スーパーグローバル大学創成支援」と称するプロジェクを2014年度から強力に推し進めています。それによると、文科省は世界大学ランキングトップ100を目指す「トップ大学」及びグローバル化を牽引する「牽引型大学」を選定し、認定した大学に最大で年間50億円(10年間)の補助金を出すというものです。その補助金の分配には、英語で行う授業の割合が重視されます。文科省はその権限を最大限に活用し、大学への補助金で釣ろうという巧妙な仕掛けです。このプロジェクトには104校の応募があり、2014年9月には、国公私立大学を併せて37大学が認定されています(注1)。そのような驚くべきプロジェクトが、きわめて短期間に進行したのです。

本ブログの読者の中には、現代のグローバル時代において文科省が英語教育を強力に推進することは当然であり、そこに何の問題があるのかと思う方もおられるかもしれません。今度の文科省の「英語化政策」の推進については、経済界、特に財界から強力な要望があったと言われています。また、安倍首相は楽天の三木谷社長と親交が深く、その人の影響力が大きかったとも聞いています。しかしそういうトップからの意向を文科省が汲んで(最近の流行語では「忖度して」)、多くの教育専門家の警告(注2)を無視するような決定を次々に進めていることを知れば、誰もが不安を感じるのではないでしょうか。ここで立ち止まって、その方針で進めることが本当に日本国民にとって必須のことなのか、そこに何か危険な落とし穴があるのではないか、と考えてみる必要があります。

専門家の警告の一つは、小学校から大学までの日本中の教育機関がこぞって「英語を使える日本人の育成」に力を注ぎ、子どもたちや若者たちが英語学習に多大のエネルギーを費やすことによって、失われるものが少なくないのではないかということです。ここで、施氏が前記著書の第二章で提供している3つの重要な視点を取り上げます。これらによって、私たちは国を挙げての「英語化」への選択が危険に満ちたものであることを認識する必要があります。

1.日本語が「国語」の地位を失う危険があること:もし英語が事実上のグローバル言語として、日本国内でも高度な学問・芸術そしてビジネスなどに日常的に使われることなった場合には、日本語はしだいに衰退し、いわゆる「国語」でなくなってしまう危険があります。かつてイギリスなどの植民地であった国々(たとえばフィリピン、インド、インドネシアなど)が、彼らの第二言語である英語でしか高等教育を受けられないために、いかに苦労してきたかは周知の事実です。それは彼ら自身が統一した「国語」を持っていなかったことにも起因します。彼らは英語でしか学問や芸術やビジネスを語ることができなかったのです。日本は幸いにして確固たる「国語」を持っていました。それが戦争に負けても、他の国々のように植民地化されることを防ぎ、自分たちの言語で諸外国のすべての学問を修めることを可能にしたのです。

2.「グローバル化=英語化」なのか:「これからは英語の時代だ」というのは本当だろうか。そもそも「グローバル化」というのは世界全体が英語化することなのだろうか。そんなことを単純に信じるのは英語を母語とするアメリカ人などにはいるかもしれませんが、普通の日本人には信じられないことです。日本の総理大臣はG7やG20に出て行って日本語を使わないのでしょうか。そんなことはありません。挨拶や食事中の会話などは英語でするかもしれませんが、きちんとした議論の場には通訳者がいて、首相は日本語を話します。確かに、グローバル化した世界は英語が自由に使える人を多数必要とします。しかし、国民みんながそのレベルに達する必要はないし、どだいそれは無理です。

3.翻訳文化が日本の近代化の原動力である:ヨーロッパの中世において、当時の普遍語で書かれたラテン語聖書の「土着語」(英語、ドイツ語、フランス語など)への翻訳がヨーロッパに近世をもたらしたように、日本は幕末の文明開化の時代から発達させた先進的欧米文化を翻訳によって土着化させることに専念し、それに成功しましました。その努力のおかげで、現代日本人はいかなる先進的学問をも日本語で学ぶことが可能になっています。この貴重な伝統を放棄し、英語一辺倒の教育を推し進めるなど愚の骨頂なのです。

そのようなわけで、英語を偏重する教育を強引に推し進めることはエリート層の一部には役立つかもしれませんが、国民の中核をなす中間層を愚民化する可能性が高いのです。学校教育において、「英語が使える日本人の育成」などという看板は早急に取り下げるべきです。

(注1)「トップ型」の大学には、北海道大、東北大、筑波大、東京大などの国立11大学と、慶応義塾大、早稲田大の私立大学2校が認定され、年間4億2000万円~5億円の補助金が配分されています。また「グローバル化牽引型」の大学として認定されたのは、千葉大、東京外国語大など12の国公立大学と、国際基督教大、上智大などの12の私立大学です。これらの大学への補助金額は年間1億7000万円~3億円です。

(注2)いま筆者の手許にある資料を3冊だけ記します。①山田雄一郎 / 大津由紀雄 / 斉藤兆史『「英語が使える日本人」は育つのか?―小学校英語から大学英語までを検証する』(岩波ブックレット2009年) ②柳瀬陽介 / 小泉清裕『小学校からの英語教育をどうするか』(岩波ブックレット2015年) ③斉藤兆史 / 鳥飼久美子 / 大津由紀雄 / 江利川春雄 / 野村昌司『「グローバル人材育成」の英語教育を問う』(ひつじ書房2016年)

今年3月に公示された新学習指導要領で、文科省は小学校の高学年(5、6年)の「外国語」を教科とし、週2単位時間に相当する授業を行うことにしました。「外国語」といっても実質は「英語」です。英語を教科とすることの問題点、またなぜ「英語」ではなくて「外国語」なのかについての議論はさておき(注1)、ここでは小学校の英語の読み書きの指導をどうするかの問題を取り上げます。現行の学習指導要領では、小学校の「外国語活動」は読み書きの指導に消極的で、「音声によるコミュニケーションを補助するものとして用いること」(注2)としています。それがなぜ今度の改訂で文字を積極的に指導するように変更されたのか。そして読み書きの指導が解禁となるからには、ぜひ正しい指導を行ってほしいものです。どのようにしたら正しい指導になるのか、また指導する先生方はどのような事柄に留意すべきかを考えます。

まず、今回の改訂で「外国語」に文字指導を加えることになった理由は何でしょうか。それはおそらく、「言葉を学ぶことは文字を学ぶことだ」という日本人の通念に文科省が逆らえなくなったのでしょう。文明開化の明治期に近代的学校制度がスタートした最初から、というより、それ以前の寺子屋での四書五経素読の時代から、子どもたちが寺小屋や学校へ行くのは文字を学ぶためでした。文字を学ぶことは全ての学問の始まりでした。そして現代の小学校においても、子どもたちが小学校に入学して最初に学ぶのは文字の読み書きです。読み書きができなくては、他の教科の学びも困難だからです。しかも日本語は、他の多くの言語に比べて文字のシステムが複雑です。「ひらがな・カタカナ・漢字」の3種類の文字を使い分けなくてはなりません。

このことは日本人には当たり前のことですが、日本語の読み書きの学習は英語の母語話者にとっては想像以上に習得の困難なシステムのようです。「日本語は悪魔の言語だ」と言って嘆いた外国人がいたそうですが、本当にそうなのかもしれません。日本人の子どもにとっても、特に漢字の習得には小学校の6年間を必要とします。当用漢字の習熟をも含めると、その学習には9年の義務教育の全過程を必要とします。それでも(というより、難しい学びだからこそ)、日本人の識字率は世界一を誇ります。このことはOECD(経済協力開発機構)の調査でも明らかになっています(注3)。その成果は、文字の学びに関して日本の子どもたちが長期にわたり忍耐強い努力を怠らないためです。

前回の学習指導要領の改訂(2008年3月告示、2011年度から施行)で小学校高学年に「外国語活動」が新設されたとき、文科省は、音声面の指導を中心にして文字の読み書きをできるだけ控えるように指示しました。それが入門期における外国語学習の常識とされていたからです。しかし実際にそれを実施してみると、生徒からは「文字をもっと学びたい」、教師からも「文字をきちんと教えたい」という要求が高いことが分かりました。英語教育の専門家や実践者の中には、初期における音声指導の重要性を認めながらも、文字の指導に関してそれほど遅らせる必要はなく、むしろ初期の段階からきちんとした文字指導を行うべきだと主張する人もありました。その主な理由は、文字を知らなければ単語や表現を記憶しにくく、家庭での自己学習も難しいということです。

そういうわけで、今回の学習指導要領改訂で、小学校中学年の「外国語活動」で英語の音声に触れさせた後に、高学年で文字を扱うということになったことについては筆者に違和感はありません。しかも子どもたちの多くがそれを望んでいるというのですから、それに反対する理由はありません。そういうことよりも、そこでの問題は小学校で英語を担当する教員に正しい文字指導ができるのかということです。小学校教員の多くは大学卒なので、中学から大学まで英語を学んだ経験があります。ですから英語を話したり書いたりすることには自信がない人も、読み書きならば教えられると考えているかもしれません。しかしそれは危険です。日本語を知っていれば誰でも小学生に読み書きを教えられるというものではないように、英語を知っていれば誰でも小学生に英語の読み書きを教えられるものではないからです。専門家に言わせれば、英語の文字指導は英語教育の素人が考えるほど簡単なものではないのです。

それがいかに難しい知識と技術を必要とするかは、その分野の専門家の書いたものを読むと分かります。最近、田中真紀子著(神田外語大学教授・同大学児童英語教育研究センター副センター長)「小学生に英語の読み書きをどう教えたらよいか」(研究社2017年)という本が出ました(注4)。この本によると、その難しさの原因は次の2点にあります。

(1)英語の文字は音素を表していること:日本の子どもたちが最初に接するのは「ひらがな」ですが、これは音節文字です。ですから子どもが「ひらがな」を読めるようになるためには、語を構成する音の連なりを聞いてそれを音節に分解して弁別でき、語を構成する文字の連なりを見てそれを一つひとつの文字に分解して識別できるようにし、さらにその音節と文字を対応させることができるようになる必要があります。これに対して、英語の文字は音素を表しています。ですから英語が読めるようになる第一歩は、それぞれの文字が音素と結びついていることに気づく必要があります。そこで、英語の文字の学びは音素を弁別できるようにすることが最初の課題となります。そのためには英語の音に十分に慣れて、その主要な音素を意識的に弁別できるようになることが重要です。実は、これは英語を母語として育つ子どもたちにとっても大変難しい学びです。それは単に英語のアルファベットの名前(エイ、ビー、シーなど)を知るのとは全く異なる学びなのです。

(2)英語の綴り字は基本的にはフォニックスの規則に従っていること:英語の綴り字の最大の問題は、ラテン文字を借用しているのにラテン語のように音と文字の対応が規則的ではなく、その対応がかなり不規則なことです。バナナ(banana)は規則的ですが、りんご(apple)やオレンジ(orange)になると違ってきます。これが英語の学習者を悩ませる大きな問題です。しかし、英語の文字と発音の関係はでたらめではないのです。よく調べてみると、そこにはかなりの規則性が見られます。それを教えるために工夫されたのがフォニックスです。特に米国では、1990年代に行われた読みの科学に関する研究に基づいて、現在ではフォニックスが全米の小学校で取り入れられているようです。日本においても、その研究は小学校英語の指導者に必須のものです。

最後に英語の読み書き指導で最も重要と思われることを付け加えます。それは、これまでの多くの中学校教師が経験していることですが、文字の読み書きの学びには個人差が大きく、比較的に進歩の速い子と遅い子がいることです。このことをしっかり頭に入れておかないと、必ず落伍者を産み出します。しかしここで落ちこぼれてしまうと、その子はそれ以後の学びについていけなくなる公算が大です。ですから指導者は、飲み込みの速い子に目を留めて、遅い子を置いてきぼりにしないように注意しなくてはなりません。英語が教科になったからといって、それを選別の道具にすることは許されないことです。

(注1)英語を教科とすることの問題点はすでに本ブログで取り上げました。ではなぜ「英語」としないで「外国語」とするのか―それに疑問を感じる読者もあるかもしれないので、ここで若干の説明を加えます。日本の英語教育は少なくともタテマエとしては、小学校から高校に至るまで、これまで一貫して「英語」は「外国語」の中の一つとして扱われています。しかし現実には、英語がつねに第一外国語の地位を占めてきました。その現実を踏まえて、現行の小学校・中学校の学習指導要領は「英語を取り扱うことを原則とする」と書いています。ただし一部の中学校(主として私立中学校)では、伝統的に、英語以外の外国語を取り上げているところがあります。また高校(公立高校を含む)では、文科省がそれを奨励していることもあり、他の外国語(中国語・韓国語・フランス語・ドイツ語・スペイン語・ポルトガル語など)を第1外国語または第2外国語として取り上げている学校があります。しかし実際には、大学入試が英語に偏っているため、高校生は他の外国語を選択する余裕がなく、英語以外の外国語履修者はきわめて少数(高校生総数の約1.5%)です。

(注2)現行の小学校学習指導要領の「外国語活動」には、内容の取扱いについて次のように書かれています。

「外国語でのコミュニケーションを体験させる際には、音声面を中心とし、アルファベットなどの文字や単語の取扱いについては、児童の学習負担に配慮しつつ、音声によるコミュニケーションを補助するものとして用いること。」(外国語活動 第3 指導計画の作成と内容の取扱い 2.のイ)

(注3)OECD(the Organization for Economic Cooperation and Development)が2011~2012年に24の国・地域の16~65歳成人を対象としたリテラシー調査(読解力調査)では、日本の平均点は296点の第1位で、2位のフィンランド(288点)を8点上回っていました。この8点差は統計的に有意とされています。ちなみに3位はオランダ(284点)、4位はオーストラリア(280点)、5位はスウェーデン(279点)と続いています。

(注4)この本は「理論編」と「実践編」から成り、その中心は「音素認識を高める指導」と「フォニックスを使った読み書きの指導」です。そして指導の対象が小学生ですから、歌やチャンツを使ったり、絵本を使ったり、身体を使ったりする工夫が必要になります。英語を専門としない小学校教員で、高学年の「外国語」を担当することになった方々は、ぜひこのような本をじっくり読んで、英語の読み書き指導の基本を理解していただきたいと思います。