Archive for 1月, 2017

教材の問題

昨年12月21日に文科相に提出された中教審答申の中には、小学校外国語科の教材に関して、「国は、教科化に対応した教材を開発し、平成30(2018)年度には先行して活用できるようにする必要がある」と書かれています。実際に、現在すでにその仕事が始まっているようです。そうでなければ、2020年度から使用する英語教科書が間に合いません。小学校の英語教育に関係する人々は、どんな教科書が現れるのかを心待ちにしていることでしょう。

しかしここにいくつかの大きな問題が存在します。一つは、文科省の初等中等教育局には英語教材を開発するための人材が集められているようですが、どんな教材が作られるにしろ、文科省作成の教材はその後に民間の教科書出版社で作成される教科書の作成基準のようなものを提供することになります。実際に、文科省は2014年度に小学校高学年用の「Hi, friends! Plus」という補助教材を開発し、2015年度から研究開発校で使用させています。また「読む」「書く」に関する基礎を養うための補助教材もすでに作成し、そのデジタル教材を地方教育委員会に配布し、2016年度には研究開発校で使用させてその検証を行っています。このように、今回の小学校高学年の英語教科化の手順のすべては文科省主導で行われています。まさか文科省は小学校の英語教科書を国定にするつもりではないでしょうが、現在の進行状況からすると、結果的には、民間教科書会社で作成される教科書を統制し、その多様性を失わせるのではないかと危惧されます。

そればかりではありません。そのスケジュールの忙しさは尋常ではありません。まさに一刻を争うビジネスの様相を呈しています。日本英語検定協会(英検)が発行している『英語情報』(2016 2・3月号)によると、文科省は小学校の英語教材に関して次のようなスケジュールで動いているとのことです(注)。すなわち、2015・16年度に新たな補助教材の配布・検証が行われ、2017年度に教科書が作成され、2018年度に教科書検定がなされ、2019年度に教科書採択がなされるというのです。小学校5・6年生のための新しい教科書作成に、2017年度の1年間しか当てられていません。なんとあわただしいスケジュールなのでしょうか。全体計画を立案する人たちは机上の計算合わせでどうにでもなるのでしょうが、これを実行する人たちはたまったものではありません。

この間、教材作成に加えて、小学校における「英語教育推進リーダー」の育成研修や、十数万人にのぼる小学校教員を対象とした英語指導力向上のための研修が行われています。しかし、そこでまともな研修が行われているとは考えられません。数回の研修で英語力や指導力が向上するはずがないからです。おそらく、文科省作成の小学校英語教材(デジタル教材、ワークシート、活用事例集等を含む)の使い方を学ぶことになるのでしょう。そうして小学校の先生方を鼓舞し、「私たちも教材をうまく利用すれば英語を教えることができるのだ」という自信を持たせようとするのでしょう。こうして小学校の「外国語」は2020年度の開始を目前にして、まさに突貫工事が強行されています。しかし文科省は、それによって生じる負の効果を計算に入れてはいないでしょう。

評価の問題

中教審答申は、小学校高学年の教科としての外国語教育における「観点別学習状況の評価」について、中・高の外国語科と同様に「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「主体的に学習に取り組む態度」の3観点により行う必要があると述べた上で、その「評定」について次のように書いています。

「小学校高学年の外国語教育を教科として位置付けるに当たり、「評定」においては、中・高等学校の外国語科と同様に、その特性及び発達の段階を踏まえながら、数値による評価を適切に行うことが求められる。その上で、外国語の授業において観点別学習状況の評価では十分に占めることができない、児童一人一人のよい点や可能性、進歩の状況等については、日々の教育活動や総合所見等を通じて児童に積極的に伝えることが重要である。」(下線は筆者)

新設される小学校高学年の「外国語」の評価について、中教審答申がここまで踏み込んで記述するのは奇異な感じがします。現行の中学・高校の学習指導要領には、評価についての記述はありません。もちろん、中教審答申の記述がそのまま学習指導要領に記載されるのではないのでしょうが、今回改訂される学習指導要領には評価に関して何らかの記載がなされる可能性があります。もしそうなると、学習指導要領は法的拘束力を持つものですので、その影響は絶大です。全国一斉にそのようにすべしということが徹底されるわけですから、評価に関して各学校で工夫をする余地がほとんどなくなり、教育の画一化はいっそう決定的なものとなります。小学校における「外国語」という新しい教科の理念や方法がまだ定まらない教育現場において「数値による評定を適切に行うこと」が求められるとは、従来の教育現場の常識では考えられないことでした。

さらに、そこから生じる波及効果を考えなくてはなりません。小学校において英語の評価が他の教科と同様になされると、それは中学入試に大きな影響を与えることは確実です。おそらく、私立学校の多くが中学入試に英語を導入するでしょう。小学校高学年の現行の「外国語活動」とは違って、教科としての「外国語」では「読む」と「書く」の指導がなされます。文科省はもはや、中学入試に英語を課さないように全国の私立学校に要請することはできないでしょう。その結果がどうなるかを推測してみると、難しい中学入試を目指して英語の学習に励む一部の子どもたちがいる一方で、そこから取り残され、小学校段階で英語の学習に興味を失ってしまう子どもたちが量産されることになります。筆者が想像するのは、およそ次のような英語学習格差の様相です。

公立小学校での英語教育は、その専門家が指導する学校とそうでない学校とで大きな差が生じるでしょう。また、高学年での週2単位の指導時間をどのような形態にするかによっても、指導効果に相当の格差が生じるはずです。それは学校の指導体制の不完全さによって生じる環境的格差といえます。次に、子どもの家庭経済の状況によっても大きな格差が生じます。それはいわば社会的格差です。小学校での英語の授業に満足できない子どもやその親たちは、もし家庭経済が許すならば、塾に通わせることを考えるでしょう。小学校高学年の英語が教科化されていちばん喜んでいるのは学習塾・進学塾および英検です。しかし塾に通うには金がかかります。英検を受けるにも受検料がかかります。貧困家庭はもちろん、家計に余裕の乏しい多くの家庭では塾や英検を諦めなければなりません。かくて小学校の英語教育は、その卒業時において、ごく少数のエリートと残り大部分の非エリートとを選り分けるという、選別の教育に堕すことになります。もしそうなったら、日本の未来に希望はありません。

(注)この情報は文科省初等中等教育局外国語教育推進室から得た資料に基づいています。

< 社説よみくらべ > 2.「トランプ新大統領の就任演説」

2.トランプ新大統領の就任演説

 世界中の注目の中で、“不動産王”のドナルド・トランプ氏によるアメリカ合衆国の新政権が発足し、歴史に記録される就任演説がおこなわれた。就任演説に対する各社社説の見出しは次の通り。

讀賣新聞 「価値観と現実を無視した演説」
朝日新聞 「内向き超大国を憂う」
毎日新聞 「分断を世界に広げるな」
北海道新聞「国際秩序の維持に努めよ」
河北新報 「強いられる海図なき船出」
中日新聞 「建国の精神を忘れるな」
京都新聞 「“国益”至上主義では危ない」
中国新聞 「一国主義 懸念浮き彫り」

 社説の見出しから容易に推測されるように、トランプ大統領の就任演説については、各社ともおおむね全否定である。“America First”を一国主義だと断じ、今後の国際協調への懸念、特に自由貿易体制崩壊への不安を表明している。これらは、トランプ次期大領領を典型的なポピュリストとして、就任前から展開してきた主張と変わりがなく、あえて内容を紹介するまでもない。これでは、前回紹介したように橋下前大阪府知事に「明日のメシに苦労せず、きれいごとのおしゃべりをして…お互いに頭がいいということを見せ合っているのが、過度にpolitical correctnessを重視する現在の政治家・メディア・知識人の政治establishmentの状況じゃないですか。そんな連中に社会の課題がわかるはずがない」とこき下ろされても仕方がないのではないか。

 さて私の意見ですが、前回「社説の中で自分の共鳴する部分に下線を引き、それをつなぎ合わせると、ほゞ自分の意見になります」と書いたので、今回はこの手法でトランプ就任演説を私の立場からscanning してみたら次のようになりました。(日本語訳はNHKによる)
 
 「きょうの就任式はとても特別な意味をもちます。・・・権限を首都ワシントンの政治からアメリカ国民に返すからです。あまりに長い間、ワシントンの小さなグループが政府の恩恵にあずかる一方で、アメリカ国民が代償を払ってきました。…政治家は繁栄してきましたが、仕事は無くなり、工場は閉鎖されてきました。既存の勢力は自分達を守ってきましたが、国民のことは守って来ませんでした。・・・すべてが変わります。・・・本当に大切なことは、どちらの政党が政権を握るかではなく、私達の政府が国民によって統治されているかどうかということなのです。・・・我々は世界がこれまでに見たことのない歴史的な運動の一部を担う数百もの瞬間に出会うでしょう。この運動の中心には重要な信念があります。それは、国は国民のために奉仕するとうことです。アメリカ国民は子ども達のための素晴らしい学校を、家族のための安全な地域を、自分たちのためによい仕事を望んでいます。これは当然の要求です。
しかし、あまりにも多くの国民が、違う現実に直面しています。母親と子供達は貧困にあえぎ、国中に錆びついた工場が墓石のように散らばっています。教育はカネがかかり、若く輝かしい生徒たちは知識をえられていません。そして犯罪やギャング、薬物があまりに多くの命を奪い、可能性を奪っています。
取り残される何百万ものアメリカの労働者のことを考えもせず、ひとつまたひとつと工場は閉鎖し、この国を後にしていきました。中間層の富は、彼らの家庭から奪われ海外で再配分されて来ました。
・・・私たちは、新しい道、高速道路、橋、空港、トンネル、そして鉄道をこの国のいたるところに作るでしょう。私たちは、人々を生活保護から切り離し、再び仕事に着かせるでしょう。アメリカ人の手によって、アメリカの労働者によって、我々の国を再建します。・・・私たちは、世界の国々に、友情と親善を求めるでしょう。しかし、そうしながらも、全ての国々に、自分たちの利益を最優先にする権利がることを理解しています。自分の生き方を他人に押し付けるのではなく、自分たちの生き方が輝くことによって他の人たちの手本になるようにします。最後に、私たちは大きく考え、大きな夢を見るべきです。・・・話すだけで常に不満を述べ、行動を起こさず、問題に対応しよとしない政治家を受け入れる余地はありません。・・・行動を起こすときが来たのです。…」

 以上の部分は驚くほどに日本の現状に酷似しており、これまで6年間にわたってこのブログで述べてきた私自身の改革の方向と一致していますから、ほとんど全面的に共鳴できます。トランプ氏を大統領に選んだ多くのアメリカ人も、このような理念に共感をおぼえたのではないでしょうか。政治は共感・共鳴によって動くのであって、それをポピュリズムだと決めつけても何も解決しません。

 問題はこれ以外の部分つまり、現実にどのような政策を実施するかです。トランプ政権の実務を担当する閣僚を見ても、上記の理念とはかけはなれた経歴の人物が多いように思われます。その乖離は埋められていくのか、それとも理念が失われていくのか、今後問われるのはその点だと思います。

 ところで、私は今度のアメリカ大統領選挙を見ていて、リーマンショックによって顕在化した競争至上主義のグローバリズム、その主役となったマネーゲームとその結果生じた経済的。社会的格差の、崩壊の予兆を感じました。

 そのひとつは、トランプ氏と同じく、大統領選挙戦で初めは泡沫候補とみられたバー二―・サンダース上院議員が絶対本命視されていた民主党のヒラリー・クリントン前国務長官をあと一歩というところまで追いつめたことです。特別代議員制度という極めて不公正な制度によって、ヒラリー・クリントン候補が辛勝しましたが、これがなければ結果はどうなっていたか分からなかったのです。サンダース候補の政策は次のようなものでした。

1.連邦最低賃金15ドル(約1600円)の導入
  2.労働組合結成権の確保
  3.TPP反対を含む通商政策の変更
  4.国民皆保険の実現
  5.巨大銀行の分割
  6.公立大学の無償化
  7.水素破砕法による資源探査の禁止
  8.炭素税の導入など強力な気候変動対策
  9.インフラ公共投資に対する累進課税の強化
  10.包括的な選挙制度の改革
  11.巨額の政治資金の制限

 新聞は、これらの政策を実現不可能と批判していましたが、はるかに過激なトランプ政権の政策がそのまま実行されれば、漸進的な社会改革の希望が遠のくことになります。50年先を見据えて早くベクトルを変え徐々にパラダイムを変えていくことを願う私にとって最も残念なことでした。(M)

標題の『英語教育』誌の書評は、以前、本ブログの投稿メンバーの一人であった故・浅野博氏が定期的に投稿されて多くの読者を得ていました。しかし残念なことに、浅野氏は2015年10月に急逝され、今日までその穴を埋めることができずに打ち過ぎていました。今回、本ブログの投稿者の一人である土屋澄男がその穴の一部を塞ぐことを思い立ち、毎号とはいきませんが、広く紹介する価値があると思われる特集などを、コメントを加えながら読者諸氏にご紹介することにします。

数日前に発売された『英語教育2月号』(大修館書店)は、その第1特集として「大幅増に向けて語彙指導をアップデートする」と題して、12点の記事を掲載しています。それらを通読してみて、小学校から高校に至るまでの英語授業で指導される語彙がどういうものであるかを理解するうえで、初等・中等教育の英語教育に関心を持っておられる方々には大いに参考になると思うので、以下にそれぞれの記事についてコメントを交えながら紹介をいたします。

最初の「語彙大幅増時代にどう立ち向かうか」(白畑知彦)は、新学習指導要領で規定することになる高校卒業時までに4,000語~5,000語を指導するという目標を達成するために、英単語の具体的な学習法を11カ条にまとめて提案しています。それらは白畑氏の経験に基づいており、第二言語習得の観点に合致した合理的な学習法です。記事の中に「(学習者は)英単語学習に積極的に取り組むこと」という文言が見られますが、それは本稿の評者がブログで再々述べている「単語指導の要諦は学習者に主体的に取り組ませること」という考え方に合致するもので、理にかなった語彙学習法です。

次の「語彙習得を理解するための基本」(相澤一美)は、語彙の記憶プロセスや知識の側面に関する基本的な事柄がコンパクトにまとめられています。教師は単に指導語数が5,000語に増えたことに注目するだけでなく、精選された語彙の知識を与え、それらの知識を深めることが重要だとしています。そのためには教科書だけでは不十分で、「教師が学習語彙表を作成し、教科書で使用されていない高頻度語を重点学習させる必要が出てくる」と述べています。なお、この記事の中に「レマ換算」という用語が出てきますが、英語を教えている先生(特に小学校)には英語の専門家でない方も多いので、ちょっと註をつけてほしいと思いました(これは雑誌編集者の責任でもあります)。

3番目の記事は「教科書の語彙指導を深める超基本語の教え方」(星野由子)です。たとえばmake, have, takeのような基本動詞は多義的であり、教科書ではそれらが一度出現すると、以後は新語として扱っていません。これは現行教科書の明らかな欠陥です。したがって、教師がそういうことを明示しないと、生徒はいつまでたってもそれらの語を正しく理解することができず、使うこともできません。この記事はそういう語彙指導の大事な面を教えてくれます。

4番目の「リーディング指導で意識したい受容語彙・発表語彙の指導」(長谷川祐介)では、「(語彙の指導は)まず意識的な学習をしたうえで、多様な文脈の中で繰り返し触れることが最も合理的な学習方法です」と述べ、リーディング指導の中で語が使用される文脈を印象づけることが重要だと強調しています。続いて5番目の「日英パラレルコーパスで補完する教科書の語彙指導」(日台滋之)は、著者らが開発した“EasyCone”と称する「自己表現活動に必要な表現語句を集めたコーパス」を用いて行う授業の紹介です。このコーパスはWebからダウンロードして利用することができるそうです。

6番目は「英語授業に語彙学習方略指導を取り入れるとは」(田頭憲二)です。「語彙学習方略」とは「学習者が効果的、または、効率的に自らの語彙量を増やし、その語を使用できるように意図的に用いている方法」のことです。この記事で強調されているのは、教師が特定の語彙学習方略を説明し推薦したとしても、生徒はそれを用いるようにはならないことです。生徒の方略を変容させるためには、「彼自身に、その新たな方略を体験させ、その中で、新しい方略を用いることでかかるコストとその有効性に対しての価値判断をさせることが重要」なのです。これはすべての教師に共有してもらいたい知見です。

7番目「英語の枝を広げる派生接辞の指導」(森田光宏)と8番目の「失敗しない!未知語推測方法と指導のポイント」(鈴木健太郎)は、それぞれ語彙指導のノウハウがコンパクトにまとめられている記事ですが、ここでは紙面の都合上、内容についてのコメントは省略いたします。

9番目の「小学校での語彙指導―大切にしたいこと・注意したいこと」(金森強)では、小学校では卒業までに600語程度までの英語語彙を指導することになりますが、指導時間数からみて、その指導は「音声受容語彙としての語彙力育成を重視すべきであろう」と述べています。評者もそれが適切であると賛同します。それにしても2020年の開始を前にして、どのような教科書ができるのか、文科省で作成中の新教材もその全貌が明らかではありません。この記事の著者が言うように、「準備のための時間的な余裕が十分にあるかどうかが懸念される」のは金森氏だけではありません。

10番目は「語彙増に向けた語彙のテスト・評価改善の可能性」(水本篤)です。語彙に関するテストは単に語彙サイズの大きさだけではなく、語彙知識の多くの側面(多義性、同意語、反意語、派生語、統語情報、コロケーションなど)に関する語彙知識を測定する形式をテストに取り入れる必要があります。この記事は、「今後の語彙増に対応するために、語彙指導の優先順位を見直し、学習者の語彙習得を促進するためのヒントをいくつか提示した」ものです。

11番目は「学術語彙リストによる語彙指導を考える」(杉森直樹)です。「学術語彙」(academic vocabulary)とは「幅広い学術科目にまたがって頻出する語彙」のことです。それらの語彙は、英語で専門書を読んだりペーパーを書いたりすることが必要な大学ではむろん必要です。高校段階でも、教科書や大学入試問題にかなりの学術語彙が含まれていますので、大学進学希望者はそれらを学ぶ必要があります。最近、大学教育学会で「新JACET8000共通学術語彙リスト」が開発され、本記事にそのリストの内容が紹介されています。

特集の最後は「English Vocabulary Profileを語彙指導に活用する」(内田諭)です。 “English Vocabulary Profile”とはEUの支援を受けてケンブリッジ大学などが中心となって進めている研究プロジェクトで、英語の運用力を語彙の観点からCEFRに関連づけて評価するものです。しかしこれが日本人の英語学習にどう役立つのかは評者には判断できませんので、コメントは控えます。以上

中央教育審議会(以下、中教審)が学習指導要領改訂に関する審議結果をまとめ、昨年12月21日、松野博一文部科学相(以下、文科相)に提出しとのことです。その概要はこれまでの新聞報道でほぼ承知をしていたものですが、中教審での審議を経てその全体像が明らかになったいま改めてそれを見直してみて、英語教育に携わる人々に必然的に生じると思われる一般的な疑問点や問題点をいくつか挙げてみます。言うまでもなく中教審は教育全般にかかわる教育の理念や方法を検討する機関ですから、新しい学習指導要領の細部についての改訂作業は現在も続いているのでしょう。学校におけるその施行は2020年度の小学校から始まりますので、それまでにはまだ少なくとも3年の準備期間があります。いろいろな意見を取り入れて改善の手を加えるチャンスはまだ残されていると思われます。

今回はその第1回として小学校における英語教育、特に高学年(5, 6年生)における教科としての英語指導をめぐるいくつかの疑問点を取り上げます。筆者はネット上に公表されている中教審の答申を読んでいて、小学校の英語教育に関して常識では理解のできない不可解な記述があることに気づきました。これでよく中教審の審議が通ったものだと頭を傾げたくなるような事柄もいくつかあります。今回特に問題として取り上げたいのは次の3点です。

(1)小学校高学年の外国語教科の指導時間が確保できていないこと。

(2)誰が授業を担当するのかが明確でないこと。

(3)その他、教材や評価などの問題。

今回はこれらのうち(1)と(2)の問題を取り上げて筆者の感想を述べます。(3)についてはさらに大きな問題に発展しそうなので次回にまわします。

その1.指導時間確保の問題

小学校高学年において「外国語」を教科とし、年間70時間程度の指導を当てる方針は前回の中教審の審議ですでに決定されていました。今回の答申の「小学校の外国語教育における改善・充実」の項目には、この点に関して《・・・「聞くこと」「話すこと」の活動に加え、「読むこと」「書くこと」を含めた言語活動を展開し、定着を図り、教科として系統的な指導を行うためには、年間70単位時間程度の時数が必要である。》と書かれています。これは想定の範囲ですが、問題はこの時間数をいかにして確保するかです。小学校の授業時間数は現行の週28コマ(年間980コマ)が限界とされており、ここに「外国語」の教科として週2コマを増やすと1コマ分(年間35コマ分)がはみ出す計算になります。それを現場でどう解決するかは難しい課題です。理論的には不可能なことです。これを文科省がどのように解決するのかは気になるところでした。

この点に関しては中教審でも議論があったのでしょうが、結局は各学校に工夫して捻出してもらうほかないという結論だったようです。ここで文科省は説明責任をはたすために一計を案じたのです。「時事ドットコムニュース」によれば、去る12月26日、文科省は小学校における授業時間確保に関する実践的な調査研究を行う方針を決め、17年度に16地域(64校程度)をモデル地域に指定し、土曜授業、夏期授業、土曜と夏期授業の組み合わせ、授業日数は変更せずに週当たりの時間数を増加、などのパタンを想定しで施行させることにしたというのです。そしてそのための関連経費約5300万円を、同年度予算概算要求に盛り込んだということです。筆者はこの記事を読んで、さすがは知恵者ぞろいの文科省だと感心しました。しかしこれで一件落着とはいきません。なぜなら、もともと無理なものを強引に押し込めるのですから、そのゴリ押しの弊害は何かの形で(たとえば教員の勤務条件をさらに悪化させる、子どもの学びの集中力を低下させるなど)、早かれ遅かれ顕在化するものだからです。

その2.指導教員の問題

小学校の英語を誰が教えるのかは、当初からの難問でした。これについては筆者も本ブログや雑誌(『語研ジャーナル第15号』2016)などに意見を述べました。その要旨は、小学校での英語教育は英語の基礎教育であり、これまでの中学校入門期の指導と共通する部分はあるものの、高校や大学の英語教育とはまったく異なるものだということです。英語ができれば誰でも教えられるというものではないのです。まして日本語を知らないネイティブ・スピーカーなどに教えられるものではありません。入門期の英語指導者が特別な知識と技能を必要とすることは専門家の常識となっています。今度の中教審の答申にも、たしかにそのことに触れられてはいます。たとえば「指導体制、教員養成・研修等」の項目に《・・・教科化に対応する専門性を一層重視した指導体制を構築することが必要である》とあります。中教審も文科省も、教科としての英語指導者の重要性についてはよく認識しているようです。

しかし今度の中教審答申には、その具体的な方法に関して私たちを納得させるような企画は何もありません。そこには、「教育委員会、大学等と連携し、教員の養成・採用・研修の一体的な改善の取り組みを進め、小学校教員の専門性を高める・・・」とか、「中・高等学校の教員免許を有する小学校教員や退職教員が専科指導を行ったり・・・」など、様々な方策が細かく記されています。しかし、そのほとんどがこれまで言われてきた事柄ばかりで、目新しいものは何もありません。そして最後の部分に、「このような取組を通じて、学級担任はじめ全教員が外国語に触れ、外国語を指導する力を身に付けることができるよう、構内研修や外国語教育における域内の連携体制を充実させていく・・・」などと書かれています。そんなことが現在の忙しい小学校の現場で実施できると文科省は本気で考えているのでしょうか。これは机上で作成された架空のプランにすぎず、英語教育の専門家の目からすると、とうてい実施可能なものとは思えません。

どうやら文科省は、小学生に英語を教えるなどは簡単なことであって、数回の研修で要領を教えれば、誰でもすぐ教えられるようになると考えているようです。そして、そのための最良の教材を文科省主導で作成する自信があるようです。とんでもない安直な考えです。このやり方では、結局のところ、日本全国のいたる所で英語を実際に使ったこともない学級担任が「外国語」を担当することになるのは明白です。変な英語を使って、一生懸命に授業を進めようとする小学校の先生方の姿を想像して胸が痛みます。英語教育に長年関わってきた専門家としてもう一度申し上げますが、日本語と語系を異にする英語という言語の基礎を小学生や中学生に教えるということは大変に難しいことなのです。従来中学校から指導を開始していた日本の英語教育がうまく機能しなかったとすれば、その大きな原因の一つは、入門期の英語指導に十分な専門家を配置できなかったことによるのです。

<社説よみくらべシリーズ> 1.元旦社説よみくらべ  松山 薫

 <社説よみくらべシリーズ>の第1回は、「元旦の社説」としました。「一年の計は元旦にあり」ということで、各社ともその年の最重要課題と考えるものをとり上げるからです。まず、全国紙、ブロック紙を中心に各社の今年の年頭社説の見出しを掲げます。
 
讀賣新聞   「 反グローバリズムの拡大防げ 」
朝日新聞   「 憲法70年の年明けに 」
毎日新聞   「 歴史の転機 日本の針路は 世界とつながってこそ 」
北海道新聞  「 あすへの指針 分断を修復する努力こそ 」
河北新報   「 ポピュリズムの時代 格差と分断 克服への一歩を 」
中日新聞   「 年の初めに考える 不戦を誇る国であれ 」
京都新聞   「 新年を迎えて 分断克服し共存への対話を 」
中国新聞   「 ポピュリズムの世界 民主主義は試練の時だ 」

これらの社説について、先日の「投稿予告」(1月1日)で述べた新聞の使命3項目 1.真実の究明と権力の監視 2.危険の予知と警鐘  3.先見の明と世論の喚起 を私なりに 1.現状認識  2.現状への評価  3.対処の方策 と置き換え、この3点を考慮して内容を紹介します。

年頭社説は、昨年を振り返り、今年を展望するということから、かなり長文のものが多いのですが、ほぼ各紙に共通しているのは、トランプ氏のアメリカ大統領選挙での勝利とそれを可能にしたといういわゆる”populism ” そしてトランプ新大統領のanti-globalism的”America First” 政策に対する危惧です。ただ、populismやglobalismの評価についてはニュアンスに差異がみられます。

読売新聞社説は、反グローバリズムとポピュリズムの広がりで世界は分断される危機にあるという現状認識を示し、この危機を乗り越えるために国際社会は結束しなければならないという処方箋をしめしている。当然グローバリズムは善、ポピュリズムは悪という認識を前提としているわけである。

朝日新聞社説もまた、各国を席巻するポピュリズムは人々を煽り、社会に分断や亀裂をもたらしており、ポピュリズムを民主主義における獅子身中の虫と断罪し、これに対抗するためには、立憲主義の理念を深め、個人の尊重を第一に、多様な価値観、世界観を持つ人々との共存をはかれと呼びかけている。

毎日新聞社説は、私達は歴史の曲がり角に立っているという認識を示し、それをもたらしたものは国家から選択の自由を奪ったグローバル経済であるとしている。これに対して国家の「偉大なる復権」を目指すポピュリズム政治家が出現したが、彼らの主張には国際協調の放棄や排外ナショナリズムという「毒素」が含まれているとし、これに対して日本が採るべき対応は持続可能な国内システムの再構築と臆することなく世界とのつながりを求めることだという。

北海道新聞の社説は、世界は転換点に立つという認識を示し、新自由主義が色濃いグローバル経済は競争原理むき出しで、様々な場面で摩擦を生む。その摩擦を煽って独りよがりな政策を推し進めようとするポピュリズム(大衆迎合主義)が台頭し、排外的なナショナリズムと重なり合う。格差と分断は日本でも深刻だとして、社会保障の整備を急ぐとともに、「競争より共生」を優先すべきだとしている。

河北新報社説は、今や国際社会は「カオス」(混沌)のまっただ中にある。カオスの渦をかき回すのがポピュリズム(大衆迎合主義)である。と断定し、単純明快な論理を振りかざすリーダーが群衆の情念に訴える手法と向き合わねばならない時代がきたし、これは格差と貧困が生んだ経済のグローバル化の反動であるとして、一人一人がそれぞれの立場で格差と分断を乗り越え、連帯、共存への一歩を踏み出すことが求められるとしている。

中日新聞社説は、日本国憲法の求めるものは武力によらない平和の実現である。対象は戦争だけではなく、貧困や飢餓、自然災害など多様だ。残念だが世界は不安定に向っているようだ。格差とテロとナショナリズム、それらが絡み合って国や民族が相互不信を深めつつあるが、そういう時だからこそ、世界に貢献する日本の平和主義を改めて考え、人類の前進のために平和主義の理想を高く掲げようと呼びかけている。

京都新聞社説は、新年を迎え暗い話になるが、「日本の没落」を意識する時があると切りだし、少子高齢化、人口減少、経済の停滞、公的債務の膨張等々の現実は古い言い方をすれば「国力の衰退」を表しているという。社説はその原因には触れていないが、とるべき態度として、ありのままの現実に向き合い、自分の頭で考えることであるとしている。その上で昨年は世界で様々な亀裂と分断が顕在化した年だった。今年はその底流にある人々の憤りと閉塞感がゆがんだナショナリズムを伴って噴出するのではないかと懸念している。そして「理解も共感も絶した他者と、それでもなお共存していく能力が分断を克服する基礎だというスペインの哲学者オルテガの言葉をひいて、これこそ没落への処方箋ではないかと結んでいる。

中国新聞の社説は、世界に広がるポピュリズム(大衆迎合主義)がすべて民主主義の敵だと一刀両断にするつもりはないが、アメリカのトランプ次期大統領については、ポピュリズムの危うい面を指摘すべきだろう。欧米の民主主義は、ポピュリズムの荒波に耐えうるのか、それとも変質していくのか。今年は全世界がそれを注視せざるを得ない年になる。社説は日本でも民主主義の基盤である3権分立が危機的状態にあると警告し、原点に返って自浄作用が必要である。昨年亡くなったジャーナリスト、むのたけじさんの「強風でも散らぬ葉がある。無風でも散る葉がある」という言葉を引いて、民主主義は自ら鍛えるものであると受け止めたいと述べている。

各社説の中で、共感できる箇所に下線を引いて、ひとまとめにすると、ご自分の意見に近いものが出来上がると思います。

さて私の意見です。読売新聞社説は、グローバリズムは善、ポピュリズムは悪と断定していますが、私は必ずしもそうは考えません。グローバリズムをよしとする背景には、経済成長は無限に続けるべきもの、成長なくして人々の幸せはないという考え方があるからです。本当にそうなのでしょうか。
京都新聞は「自分の頭で考えろ」と言っているし、桐英会ブロガーの先輩である英文学者で評論家の外山滋比古さんは、「自分の頭で考え、日常の”なぜ”を素通りしない」ことを信条としている(朝日新聞2016-5-30 「聞きました」) というから、私も、先輩にならって、大所高所からではなく、身近なところから、グローバリズムとポピュリズムについて考えてみます。

戦前から戦中にかけての私の家族は祖母、両親と子供7人の大家族で、これをしがない銀行員の親父一ひとりの給料で支えていました。一家は、世田谷の奥沢駅から5分ほどの住宅地にあった敷地50坪、6DKの借家に住み、にぎやかに暮らしていましたし、親父は貸付係で帰宅はいつも遅かったが、土曜日は観世流の謡の稽古、日曜日は同僚と関東一円の釣り行と結構楽しく過ごしていたようです。当時共稼ぎは極めて珍しく、大抵の主婦は専業で、多産の結果病弱だった母は、ほとんど何もせず、家事は女中さんに任せていました。

それから70余年、日本の経済力の一応の指標となるGDPは、現在は私が小学生だった昭和初期の15倍くらいになっています。GDPが国民の幸福度とは直接関係ないことは、前にも述べたが、それにしてもパイはずいぶん大きくなったのに、夫婦共働きでも国民の生活は一向に豊かにならないのは何故なのでしょうか。私の身近な疑問です。自分の頭で考えると、パイは大きくなったが、大部分を既得権層がとり,人口が増えたにもかかわらず、庶民(the rank and file of the people)の取り分の比率がどんどん下がた結果ではないでしょうか。つまりは分配の不公正で、これが続く限り、“一億総活躍社会 ”になったとしても、人々が豊かになることはないということになります。

これを、経済学ではthe Winner-Take-All model (独り勝ちの論理)というらしく、或る経済学者は、経済効率を上げることで社会全体が豊かになるというのは、今日の日本社会においては幻想に近いと述べています。( 岩波新書 格差社会 橘木俊詔 )つまり、人々が本当に豊かになり、幸せになるためには、現在の経済構造を変えるしかないということでしょうね。それに気付いた庶民の反乱がいま世界各地で起きているのだと思います。

一方、ポピュリズムについては、中国新聞が、「ポピュリズムはすべて民主主義の敵だと一刀両断するつもりはない」と一応理解を示しているものの、大方は全否定的です。一部の社説は、populism を 「大衆迎合主義」と訳していますが、Webster International Dictionary には political doctrines purporting to represent the rank and file of the people となっていますから 本来悪いconnotationは無く「人民主義」あるいは「庶民主義」と訳すべきでしょう。歴史的にみてもポビュリズムは「エリート主義」に対抗するものでした。

「人間みんなボチボチや」という小田実の考えに共鳴する私としては、「エリート主義」には民主主義にそぐわない面が多いと考えています。学問や仕事に対する向き、不向きはあっても、人間として総体的にみればそれほど違いはないということでしょうね。私はセールスマンとしては全く無能でマネジャーに怒鳴られてばかりいましたが、entrepreneurとしては一応の実績を残せたと自己満足しています。

 私の付き合いの範囲の話ですが、大手紙の特に政治部、経済部の記者にはエリート意識の強い人が多かったように記憶しています。そのことが、アメリカ大統領選挙の結果を見誤った原因だと橋下徹・前大阪府知事は、朝日新聞のインタビューで指摘しています。「負けたのは知識層です」「アメリカ社会には、分断は既にあった。トランプはそれを正直に見せただけ」「明日のメシに苦労せず、きれいごとのおしゃべりをして…お互いに頭がいいということを見せ合っているのが、過度にpolitical correctnessを重視する現在の政治家・メディア・知識人の政治establishmentの状況じゃないですか。そんな連中に社会の課題がわかるはずがない」とこき下ろしています。「民主主義の本質は大衆迎合だ」という橋本氏の結論には疑問を感じながらも、これらの発言には共感するところが多々あります。

 ともあれ、各社の年頭社説を読むと、今年はどうやら「カオス」の年で、先見の明を使命の一つとする新聞にも、日本が、世界がどうなっていくのかわからないようです。自分で考えるしかないでしょう。
「社説よみくらべ」では、皆さんが“なんでだろう“ と考えるきっかけになるようなものを提示していきたいと思っています。 (M)

            

< 社説よみくらべ > 投稿予告   松山 薫

 桐英会ブログを読んでくださっている皆さん、良いお年をお迎えのことと思います。昨年は仕事の都合で、3か月間投稿を休みましたが、それも終わりましたので、今月からまた投稿を始めたいと思います。今回は <社説よみくらべ>シリーズ を投稿します。

 NHK国際局報道部にいた頃、私は毎日10紙内外の国内新聞の社説を読んでいた。当時のNHK国際放送番組基準の第一章には、「 内外のニュースを迅速かつ客観的に報道するとともに、わが国の重要な政策及び国際問題に対する公式見解並びにわが国の世論の動向を正しく伝える。」とあったから、この国の世論の動向をつかむために社説を読むことはスタッフとして必須の仕事だった。

勿論、新聞の社説が世論のすべてではないが、特に日本の全国紙は、何百万という大部数を維持するため、世論の動向を無視しては成り立たないから、社会の「空気」には極めて敏感である。また、社説はいわゆる社論を代表するものであり、その新聞社の記事全体のトーンを決める。私が中性子爆弾(原爆の一種)の勉強をしていた頃、戦後の科学記者の草分け的な存在として在京記者の中でも一目置かれている朝日新聞の記者がいた。彼は原爆はもちろん、原子力発電にも批判的だったが、ある時から彼の論調が微妙に変わったと感じた。後で知ったことだが、その頃朝日新聞は原発反対から容認へ社論を変えたと言われる。

ネット時代に入って、活字新聞の影響力が低下したのは否めないが、新聞社の社論は系列のTVネットにも及ぶから世論の形成にはなお大きな力を持っている。新聞論調が世論に影響を与え、そうして醸成された世論が新聞の論調と一体化し、異論を排除し、社会の「空気」として定着していく。

そのような図式の典型を私達は明治以来の日本が戦争に突き進んで行った歴史の中に見ることができる。また、戦後、原子力発電が資源小国日本の経済成長の希望の灯として賞揚され、この災害列島の海岸線に50基を超える原子炉が立ち並ぶ風景を誰も異様と感じなくなった頃、つまり原発が「空気」のようになった頃に、福島の悲劇が起きた。そして今、私はそれを2020年東京五輪への新聞の論調と社会の「空気」の中に感ずる。
 
社説がどのような過程を経て書かれるのかについては、前に、丸谷才一の「女ざかり」を借りて投稿したことがある。新聞社の女性論説委員の筆禍事件を題材にしたこの小説はまた、新聞社が政治権力に屈し、それが闇に葬られていく過程をリアルに描いている。この小説を読んだ時、私はNHKが1964年の東京五輪を前に、内幸町の放送会館から旧陸軍の代々木練兵場があった国有地の現在の場所に移転した時のことを思い出した。格安の払い下げ価格をめぐって、蔭で政治権力との癒着がうわさされたが、真相は解明されなかった。

或る新聞記者は、新聞の使命として次の3項目を挙げている。(七千二百歳の遺言:三島昭男)

1.真実の究明と権力の監視  2.危険の予知と警鐘  3.先見の明と世論の喚起

新聞が本当にこのような使命を誠実に果たしているのかどうか、社説のよみくらべに当たっては、これら3項目を判断の基準としたい。

 ところで、私が入局した頃のNHKでは、記者制度は出来たばかりで、報道の主役は新聞社や通信社から来た記者達だった。会長は毎日新聞OBの阿部真之助だったし、彼の急死の後を継いだのは後にNHKの天皇とよばれた朝日OBの前田義徳で、私の直属の上司である報道部副部長もエリザベス女王の戴冠式を取材しのが自慢の元毎日新聞の記者だった。初めての記者研修の講師だった元読売新聞記者の報道局次長は「記者のモットーは”すべてを疑え”ということだ。よく憶えておけ!」と怒鳴るように言った。私は「ということは、そのモットーも疑え」ということですか?」とチャチャを入れたくなったが、当時の徒弟制度的な雰囲気の中では殴られそうだったのでやめておいた。それに、私達敗戦時の
若者は、軍国主義、全体主義の下で、徹底的に騙され、いのちさえ奪われそうになったのだから、疑えと言われなくても十分に疑い深くなっていたのである。

 この元新聞記者の号令には、もう一つ合点のいかないことがあった。“全てを疑え”と言っても、人間の社会である以上、疑うべくもない人類普遍の原理が存在し、それは記者としてのモットーよりも先に来るべきものだと考えていたので、一方的な言い方に違和感をおぼえたのである。

 敗戦による価値観の大転換にいやおうなく向き合わされ、悔いのない人生を送るためにはどうしたらよいのかを考え悩んんだ末たどり着いた私としての普遍の原理は、「自由・公正・人権の尊重」であった。その後、教師と失業、セールスマン、零細貿易商社の社員、ジャーナリスト、著述業、企業家そして経営者といくつもの仕事を経験しながら、この原理こそ、貫くべき吾が道であるという確信を深めて今日に至っている。「社説よみくらべ」では、この原則に沿って私見をのべてみたい。

 ”社説よみくらべ」は、全国紙、ブロック紙、地方紙の中からいくつを選んで、なるべく意見の分かれる問題についての社説をとり上げたいと考えていますので、投稿日はあらかじめ決められませんが、月1回程度のペースで進めるつもりです。と勇ましく進軍ラッパを吹いたものの、今夏には米寿を迎える身、からだはあちこち痛んでおり、何時まで続けられかわかりませんが、可能なかぎりは続けたいと思いますので、よろしくお願いいたします。 (M)