Archive for 7月, 2016

< 統計数字の裏に見えるもの ⑨ 労働組合組織率 >

 調査とか統計の数字は、前提条件に問題のあるものも多いから、そのまま信ずるわけにはいかないが、社会の動きを知る上で欠かせないものの一つではある。今回は労働組合の組織率をとり上げたい。

1.日本の労働組合の組織率 : 17.5 % (2014年 厚生労働省調査)

2.組織率の変化 : 55.8 %(1948年)→ 33.2%(1957年)→ 20% (2002年)

3.労働組合数 : 25279  組織労働者数 985万人

4.ナショナルセンター : 日本労働組合総連合会 (連合) 671万人
                  全国労働組合総連合 (全労連) 58万人
                  全国労働組合連絡協議会(全労協)10万5千人

5.国際比較 :OECD加盟34か国の労組組織率の平均は20%弱。組織率の高   いのは北欧諸国で60%から80%超。低いのはフランス、韓国、アメリカで10%   前後

日本の労働人口に占める労働組合員の割合(組織率)は、戦後の昂揚期には50%を超えていたが、年々衰退して、ついに先進国の平均である20%を割り込み、17%の半ばまで低落した。

組織率低落の原因は、産業構造の変化などもあろうが、最大の原因は労働者が安くはない組合費を払ってまで労働組合に加入する意味を見いだせなくなったからだろうと私は考えている。特に労働組合の最大の任務である生活保障、賃金引き上げが、政・労・使交渉とは名ばかりで、政府と経団連との話し合いで決まるようになっては、もはや、労働組合の存在意義そのものが問われていると私は思う。本来、賃金を含む労働条件は、労使が対等の立場で話し合って決めるべきものだ。そのために、労働3法では、労働者の団結権や団体交渉権そして争議権を保障しているのである。それは、憲法28条に基づき、個人としては弱い立場の労働者を団結の力で守るための保障措置である。労使交渉は儀式ではない。

労働組合に賃金交渉力がないことは、当然労働分配率(企業の儲けのうちの労働者の取り分)の低下をもたらす。新興国の賃金上昇によって、OECD諸国の労働分配率は軒並み低下しているし、分配の内容も一律には計算できないにしても、日本のようにこの30年間で20%も下がったのは異常である。
その分、経営側の取り分が増大し、内部留保金は今や、国家予算の3.5倍の360兆円に達している。

これが実質賃金の低下をもたらしているし、くわえて物価の値上がりが、労働者世帯の家計を苦しくしている。政府・日銀は年2%の物価上昇がなかなか達成されずデフレから脱却できないとしているが、それは生活者の実感からかけ離れている。物価統計に上昇がみられないのは、季節変動が大きいとして、生鮮食料品を除外しているからだ。エンゲル係数(生活費に占める食糧費の割合)の異常な上昇がそれを証明している。エンゲル係数は消費税の導入で急上昇し、常時25%を超えるようになった。さらに、統計に表れない値上がりもある。私は週に2~3回はスーパーに買い物に出かけるが、好物のチーズパンなどは、数年前の3分の2に縮んだ。実質30%以上の値上げである。かくして、低賃金労働者の家計は破たんに近づき、QOLは極端に悪化していく。 憲法で保障された”健康で文化的な生活“などはどこの国の話かということになる。
 
低賃金労働者の多くは、賃金が正規労働者の60%しかない非正規労働者である。非正規労働者は年々増え続け、ついに2000万人を超え、2016万人に達している。最大のナショナルセンターである連合が、非正規労働者に目を向け始めたのはつい最近のことで、差別的な賃金や労働条件の改善には冷淡であった。差別労働については政府も同断である。国際労働機関(ILO)の最重要条約である「雇用と職業に関する差別待遇の禁止」を定めた111号条約を未だに批准していない。加盟国185国のうち未批准は13か国しかない。

日本に本格的な労働運動が根付かない原因の一つは、日本の労働組合が企業内組合( company union 企業内組合、御用組合の両義)であるからだ。企業内の力関係から労働組合の企業への癒着、従属が生まれ、御用組合化していく。その点が、職能別組合から産業別組織へ発展した西欧の労働組合との違いだ。従って、労働組合と企業の間で結ばれる労働協約は、企業内でしか効力が無く、西欧のように同一職種の労働者への波及効果が小さい。企業内のタテの関係が、労働者のヨコの連帯に優先してしまうのである。労働者の多くが、横の連帯による労働組合の力で賃金などの労働条件の向上を図るより、縦社会企業の中で早く管理職になって企業内で出世しようと競争する。企業は一括採用という日本独特のリクルート方式を、同期入社社員の競争という形で労務管理のテコにしている。NHK労組(日本放送労働組合=日放労)では、かって、組合員管理職という得体のしれないものを容認した。そうしないと、組織がもたないというのが執行部の見解であった。

ところで、安倍政権は、政治主導で2019年度を目途に、同一労働同一賃金を実現したいとしている。しかし、現在の日本の労働状況から見て、本来の意味の「同一労働同一賃金」を実現することは出来ないだろう。経団連は早速、「欧米型の同一労働同一賃金の導入は困難」であるとして、日本型の労働慣行を反映するよう提言した。これによると「日本は企業別の労組が中心で、同じ企業の中でも様々な賃金制度があり、仕事の内容によって賃金を揃えるのは難しいから、仕事の中身だけでなく、個人の役割や貢献度等を企業が総合的に判断して、同一労働と評価される場合には同じ賃金を払うことを原則とする」よう求めている。政府・経団連の蜜月関係を考えれば、こういう方向へ進むことは容易に想像できる。

これでは今までと何も変わらない。羊頭狗肉の内容が[同一労働・同一賃金]という美名のもとで定着すれば、日本の労働運動はさらに大きな打撃を受けかねない。欧米型の産業別労組への脱皮と、それによる労働者の企業間の移動の自由が確保されてこそ、同一労働同一賃金は機能するし、労働者の人権を守ることができるのである。

私はおよそ20年間労働組合の末端役員として労使交渉に関わったが、その時の指針は、「労働組合を持たない労働者は、本質的には奴隷と変わらない」という労働法学者・藤田若雄・元東大教授の信念と海運労使の賃金交渉を取材中に知り合った全日本海員組合・中地熊造組合長の「労働者に満足な賃金を支払えない企業は社会的に存在する意味がない」という言葉だった。

そういう立場から、現状を見ると、まさに「情けない」の一語に尽きる。いわゆるブラック企業の横行は、「本質的には奴隷状態」の労働者を作りだし、「まともな賃金を払わない、あるいは払えない企業」によって、30代になっても結婚できない、子供を産めない多数の国民が生み出されている。同じ生産ラインで働く仲間の賃金が4割も低いことに無関心な職場に連帯意識が生まれるはずはない。差別による連帯感の欠如は、ルサンチマンを呼び起こし、それはやがて、イギリスやアメリカに見るような社会の分断を招くことになるかもしれない。

キリスト者であった藤田若雄が言うように、労働組合が「誓約者集団」であることは現実には難しいが、せめて組合指導者には労組の使命に対する信念を持ち、信念に従って行動してほしいと思う。少なくとも役員である間は、労働組合を出世の踏み台にするようなことはやめなければならない。しかし現実にはそれも難しいようだ。山崎豊子の大ベストセラー「沈まぬ太陽」は、日本航空をモデルに、労働組合の現実を描き出している。

この小説は、労働組合の委員長として信念を貫いた人物と、労働組合を踏み台として出世しかつての仲間の物語を縦軸として展開するが、その中で取り上げられている問題のひとつは、労働組合には企業経営の不正をチェックする機能があるということだ。枚挙にいとまがないほど次々に明らかになる大企業の反社会的行為を見れば、社外取締り役などは全く役立っていないのは明らかで、現場を知る労働者の代表である組合こそが、不正防止に関与しなけばなならい。或る調査では、社員の3人に1人が現場で企業経営の不正を見聞きしているが、それを告発できない。告発しても企業の報復措置から労働組合が社員を守ってくれるとは期待されてないからである。むしろ労使一体の企業防衛意識の下で異端者とみなされ、はじき出される危険さえある。労働組合が事前に企業経営の不正に警告することは、結果的に企業を救うことになり、不正発覚による大リストラによって社員が職を失うことも防ぐことになるのである。

日放労は、かつて、報道機関の労働組合としてNHK経営と厳しく対立したことがあった。田中角栄がはじめて閣僚(郵政相・NHKの監督官庁の長)になった時の小野吉郎事務次官がNHK会長に天下った時のことである。小野氏は有能な人物でNHKの改革にも卓見を持っているという人もいたが、それとこれとは別の次元の話であって、原則的に許されるべきではないというのが日放労の立場であった。リクルート事件で刑事被告人となった田中前首相の私邸を小野会長が公用車で見舞いに訪れたことをきっかけに、日放労は小野会長の辞任を求める全国署名運動を展開した。私も、夜中まで湘南海岸の団地を署名集めに走り回った。署名者は1週間で200万人に達し、小野会長は辞任した。国民の目となり、耳となり、口となるべき公共放送の労働組合として、権力の介入、支配に反対することは当然だったと私は思っているが、これが、やがて政府・与党幹部と結びついた政治部記者上がりの会長らによる日放労つぶしにつながっていった。日放労は弱体化し、政権の意を受けた資質に欠ける会長の下で、NHKは今、政府広報局への道を歩んでいるように見える。旧日本放送協会が、政府の宣伝機関となった戦前・戦中の歴史をくり返してはならない。

労組の組織率が衰退の一途をたどっているのは労働者にとって不幸であるし、国民の大多数を占める(被)雇用者の不幸は、この国の社会全体の不幸にもつながると私は思う。労働組合の存在と運動が、原点に返り、働く者が幸せになる社会を創る原動力になる日が来ることを願っている。(M)

* 次回は< 統計数字の裏に見えるもの ⑩ 幸せの指数 >を 8月27日(土)に投稿する予定です。

前回は学習指導要領に語彙数を定めることの意味について考えました。今回はそれが学校での指導にどのような意味を持つのか、実際の指導では語彙をどのように扱ったらよいのかを考えます。

最初に「語彙指導」とはどういうことかを考えてみましょう。授業で使う教科書にはいろいろな語が出てきますが、それらを「指導する」とはどういうことでしょうか。高校卒業までに4,000~5,000語を指導すると言っても、それらを受容語彙として(つまり耳で聞いて理解できる、または目で見て理解できるように)指導することなのか、それとも発表語彙として(つまり話したり、書いたりするときに使うことができるように)指導することなのかは不明です。一般に、成人における発表語彙(productive  vocabulary)は、受容語彙(receptive vocabulary)よりもずっと小さいのが普通です(注)。つまり、たいていの語は、まず受容語彙として記憶してから、それを実際に自分で使用することによって、発表語彙に発展します。「語彙指導」というときには、教師は語彙のこれら2つの面を意識的に区別して指導することが必要です。

次に受容語彙と言っても、「耳で聞いて理解できる」というのと「目で見て理解できる」というのでは、特に初期の学習者にとっては、別の技能になるので注意を要します。母語の場合にも、子どもたちにとって、「聞くこと」と「読むこと」を一体化するのは難しい活動です。彼らは小学校で何年もかかってその技能を学びます。英語学習の場合にも、「聞くこと」と「読むこと」を一体化するのは決して容易なことではありません。現在の小学校における英語教育は「聞くこと」と「話すこと」に重点を置いているので、耳で聞いて理解できる語でも、目で見てそれと認知できないのが普通です。そういうわけで、「聞くこと」と「読むこと」を一体化させることは、主として中学校でなされる重要な活動の一つです。そういう活動を十分に行わなかったために、高校で落ちこぼれてしまう生徒のなんと多いことでしょうか!

さて、実際問題として、教科書に出てくるすべての語を記憶させ、それらを受容語彙にすることはほとんど不可能です。またその必要はありません。なぜなら、英語教科書にはレッスンのトピックによって、比較的に頻度の低い専門用語が使われたりするからです。教科書に出てきた単語のすべてを発表語彙にすることなど、考えてはならないことです。英語学習初期においては授業で使われる語彙の大部分が基礎語彙なので、いずれは発表語彙に発展させるべきものですが、それでも、聞いて理解できたものを直ちに発表語彙にさせようなどという指導は無茶なことです。英語学習のどの段階でも、まず受容語彙(つまり、聞いて理解でき、見て理解できる語彙)を増やすように指導することが重要です。それを積み重ねて、高校卒業までに受容語彙が5,000語に達すれば大成功です。

ところで受容語彙が5,000語といっても、語をどうカウントするかによって、実際の語数には大きな違いが出ます。語のカウント方法は大まかに分類すると、次の3つの方式が認められます。

(1)形(綴り字)が違えばすべて別の語として数える。<異なり語方式>

(2)上記(1)のうち、規則的な変化形(名詞の複数形や動詞の規則的な変化形など)は1つの語にまとめる。<見出し語方式>

(3)上記(2)に加え、不規則な変化形や派生語(接頭辞・接尾辞を付加して造られる語)はすべで1語にまとめる。<ワードファミリー方式>

語彙の話をするときには、上記のうちのどのカウント方法によるのかを明確にする必要があります。そうでないと話が食い違ってきます。学習指導要領は以前から上記(2)のカウント方法(見出し語方式)によっています。しかし英米で出版される英英辞書や多読用学習教材の多くは、ワードファミリー方式によっています。ですから、高校卒業までに5,000語を学んだと言っても、語のカウント方法によって、実際の習得語数は大きく違ってきます。ある研究者によると、ワードファミリー方式で数えた3,000語は、約5,000語の見出し語に相当するといいます。そうだとすると、日本の学校で高校まで英語を学んでも、世界の英語の常識では3,000語レベル程度にしか達していないのです。それでも、日本人の英語学習者としてはこのくらいが限度ではないでしょうか。これで英語学習者用の英英辞典(OALDやLDCE)は利用できますし、レベル別多読用教材も3,000語以下のレベルのものなら読めます。真に実用に役立つような語彙の獲得にはまだまだ先があることを知ればよいのです。

文科省は近年、大学に対して、すべて英語で行う授業をしきりに推奨しています。そういう大学には補助金を増やすとまで言っています。そうなると、高校までに見出し語方式で5,000語を学んだといっても、いきなり専門科目の授業では歯が立たないと思われます。多くの授業は専門用語だけを覚えれば理解できるというものではありません。授業についていくためには、少なくとも基本的な語彙は充分にマスターしている必要があります。いちいち知らない単語を辞書で確かめる余裕はないでしょう。ある調査では、英語を母語とする大学生が知っている語(受容語彙)はワードファミリー方式のカウントで約1万7千語と推定しています(注2)。大学での本格的な英語の授業についていくためには、やはり英語母語話者を主体とする大学に留学するなどすることが必要です。文科省が推奨しているTOEFLはそのために作成されたテストですから、留学の意欲を持つ高校生に受験を薦めることが本来の目的にかなっています。

日本人学習者と英語母語話者とのこの大きなギャップを埋めることは、さまざまなレベルの生徒を対象とする普通の学校では望むべくもありませんし、不可能と分かっている目標に挑戦させるのは、無駄な努力を強制するのに等しいことです。その目標の達成は、結局のところ、大学レベルまたはそれ以降の個人の意思と努力に俟つしかありません。高校卒業までに学校でできることは、個人が必要に応じて自力で前途を切り拓くことのできるだけの基礎力を与えることです。基礎力は見出し語方式で5,000語程度(ワードファミリー方式で3,000語)を目指すのが妥当なところではないかと筆者は考えます。

語彙指導で重要なことは、高校段階までは結果だけを問題にするのではなく、学びのプロセスを大切にするように指導することです。特に基礎語彙は多面的に用いられますから、一つの語を習得するのにさまざまな場面での出遭いが必要です。受容語彙を発表語彙に発展させるためには、知っている語を使って文章を作る経験を積み重ねることが必須です。受容語彙は出遭いの経験、発表語彙は使用の経験を積むことです。単語のテストは必要ですが、点数を競うだけのテストはむしろ危険です。生徒がそれによって自分の語彙学習を反省し、それによって自己の学習を改善する資料とすることが重要です。

(注1)望月正道・相澤一美・投野由紀夫『英語語彙の指導マニュアル』(大修館書店2003)は、成人の母語話者を対象とした受容語彙と発表語彙の数量を比較した研究データを紹介しています。それによると、一つの研究ではその比率は5:1、他の一つの研究では4:1となっています。また第二言語としての英語の学習者を対象とした研究では、それが2:1となっています。これらの研究から、一般に、英語母語話者の受容語彙は発表語彙に比べて非常に大きく、第二言語学習者ではその差がずっと小さいと考えられます。

(注2)上記『英語語彙の指導マニュアル』の第1章6節に、Goulden et al.(1990)が英語母語話者の大学生を対象に実施した調査が紹介されています。その結果は、彼らの受容語彙は13,200語から20,700語で、平均は17,200語でした。

小・中・高の新学習指導要領の作成が目下進行中です。今年度中に公示され、東京オリンピックが開催される2020年度から、順次実施されることになっています。そのことに関して先日の朝日新聞に、「英語語彙4000~5000語に」という見出しの記事が載っていました。それによると、6月20日の中央教育審議会において、高校卒業までに指導する英語の語彙数を現在の3,000語程度から4,000~5,000語程度に増やすことが決まったそうです。その内訳は、小学校で600~700語、中学では1,600~1,800語、高校では1,800~2,500語ということです。ほかにも高校英語の科目についていくつか書いてありましたが、ここでは英語語彙の問題に限って、(1)学校における指導語彙数を国で定めることの意味、(2)実際の指導において語彙をどのように扱うべきか、の2点から考えてみたいと思います。英語教育において、指導語彙数の問題は避けては通れません。

語彙数の問題が中央教育審議会においてどのように議論されたのかは不明です。新聞報道によると、その決定には中国や韓国など海外の状況も参考にしたとありますから、それらの国の英語教育の実態を調査し、そのデータを参考にしたと思われます。そのこと自体は悪いことではありませんが、どんなデータが使われたのかは私たちも知りたいところです。そこで文科省のホームページから「韓国の英語教育」を探し出し、それを読んでみました。噂では韓国の進学競争は激烈を極めていて、日本よりもはるかに深刻な状況だということです。そのあまりの激しさに、父母や教育関係者から改善の要望が強く出されているとも聞いています。しかし、文科省にファイルされている韓国の英語教育に関する報告書では、そういう面はまったく見えません。学校における教育はもっと穏やかで、児童や生徒の学びを大切にする姿勢が前面に出ていています。日本の学習指導要領のように、いかにも公文書だという、冷たい感じはしません。

韓国で2001年に開始された「第7次教育課程」によると、英語の語彙数に関しては次のようになっています。

初等学校第3~6学年:4年間で450語以内

中等学校第7~9学年:3年間で800語

高等学校第10学年:450語(第11、12学年で英語は選択教科)

上の語彙数を同国の「第6次教育課程」(1997年)と比較すると、中学校3年間での語彙数が1,050語から800語に減っています。ただし、小学校での履修分を加えると、小・中学校全体では増加しています。高校では第11、12学年で選択教科となったため比較ができませんが、第10学年の語彙数が450語と少なめになっていることが注目されます。このデータから、韓国の教育が21世紀に入って従来の詰め込み主義教育から脱しようとしている様子がうかがえます。

これに対して日本の文科省は「脱ゆとり」を掲げ、かつての「詰め込み教育」への復帰を目指しているようです。語彙に関しては、指導内容を1977年度に始まった「ゆとり教育」以前のレベルに戻そうとしていることは明らかです。筆者の推測では、文科省が韓国(および中国)の英語教育を参考にしたのは、小学校における英語教育の実態でした。その中で特に、小学校でも指導すべき語彙数を指定することができるというアイディアは魅力的でした。ここで600~700語を確保できれば、かつての4000~5000語レベルを高校卒業までに確保することが可能だと計算したのでしょう。語彙数のような、指導内容の細かな点では中教審の委員たちはよく分かりませんので、審議会の承認を得ることは容易です。こうして文科省は、「英語が使える日本人」の育成を旗印にして、実質的な「詰め込み教育」の再生を図っていると考えられます。

さてここで、学習指導要領に語彙数を指定することの意味について考えてみましょう。どういう理由で、文科省は小・中・高における語彙数を指定するのでしょうか。そしてそれは、教育現場にとってどんな意味があるのでしょうか。

学習指導要領で語彙数を指定する理由として第一に考えられるのは、学習者の負担を軽減することです。どの言語でも、ほとんどの語は本質的に恣意的な記号ですから、学習者はそれぞれの語をただ記憶するしかありません。記憶するには個人の所有する心的エネルギーの代価を払う必要があります。それはなかなか大変なことです。特に英語学習初期の子どもたちは、次々に新しい語を記憶しなければならない状況ではパニックに陥りますから、与えられる語はできるだけ少なくして、記憶の負担を軽減する必要があります。その点である程度の語彙制限は正当なものだと言えます。

次に、語彙数を制限するのは入試問題作成のためだという議論を取り上げます。語彙制限がないと、入試問題の作成が困難になるという問題です。中学校の入試に関しては、小学校英語教育の多様な現状から見て、中学入試に英語を課すのは著しく公平性を欠くことになります。これは極力阻止すべきだという主張は正当なものです。しかし高校入試では、これは深刻な問題になっています。公立高校入試のペーパーテストでは、問題作成者はその地区の中学校で使われている英語教科書に出現する語彙をすべて調査し、それに基づいて受験者に不公平にならないような配慮をしています。これは正しいあり方です。しかし私立高校の多くは、入試問題の作成にそんな面倒な手間はかけません。したがって、有名私立高校への入学志望者は特別な受験勉強を必要とします。この問題を何とかしようとすれば、高校入試から英語テストを排除するしかありません。

大学入試に関しては文科省でも現在そのあり方を検討しており、どのような改革がなされるかが注目されています。英語の入試問題には語彙の問題だけではなく、解決しなければならないいろいろな難問が控えています。簡単に結論が出せるとは思えません。無理をして決めればすぐに綻びが出ます。選択肢の一つとして、問題作成を各大学の良識に任せ、全国の大学入試問題を審査する公的機関を設けてそこで審査した結果を公表するというのはどうでしょうか。

もう一つ、学習指導要領の語彙数指定によって直接的に影響を受けるのは検定教科書です。規定の語彙数を守らないと検定が通らないからです。これも難しい問題を含みます。現行の中学校学習指導要領では、中学3年間に指導する語彙数は「1,200語程度」となっています。小学校には語彙についての指定がないので、中学校の検定教科書は1,200語程度の語数に収めなければなりません。これはなかなか窮屈な制限です。ところが次の学習指導要領では、小学校で600~700語を教え、その上に中学校で1,600~1,800語を上積みするとなると、合計2,200~2,500語が使えることになります。これで中学校の検定教科書は、現在よりもずっと自由度が高くなるでしょう。しかし反面、語彙数が約2倍に増大することになるので、学習者の負担がそれだけ増え、学校での指導がたいそう難しくなることが予想されます。これは現場にとって実に大きな問題となります。指導語彙数の増加は、これからの英語教育を考えるうえで、早急に解決を必要とする現実的問題を提起しています。(次回につづく)

2002年7月、文科省は「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」なるものを公表して私たちを驚かせました。このニュースを耳にした(または目にした)人々の中には、思わず「おー」と声を上げた人もあるのではないでしょうか。そして「学校でそういう英語を教えてもらえるなら結構なことだ」と思う反面、「ほんとうにそんなことができるのだろうか?」「どうやってやるのだろうか?」と疑問を持った人も多かったでしょう。明治になって学校で英語が教えられてから百年以上になりますが、小学校から大学にいたるまでの全国の学校が、いっせいに「英語が使える日本人の育成」というような目標を掲げたことはなかったのです。

そこでまず文科省のホームページを開いて、その構想の内容を確かめましょう。2002年に発表されたこの文科省構想は、2003年3月、「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」として具体化しました。それはまず、遠山敦子文部科学大臣による本計画の趣旨説明(約2,000字)で始まっています。以下に、そこで用いられている文章の表現を用いながら、要点をまとめてみます。

*グローバル化が急速に進展した現代の国際社会においては、子どもたちが21世紀を生き抜くために、国際的共通語としての英語のコミュニケーション能力を身に付けることが不可欠であり、このことは、我が国が世界とつながり、世界から理解、信頼され、国際的なプレゼンスを高め、一層発展していくためにも極めて重要な課題である。

*本「行動計画」は、今後5ヵ年で「英語が使える日本人」を育成する体制を確立すべく、平成20年度を目指した英語教育の改善の目標や方向性を明らかにし、その実現のために国として取り組むべき施策を具体的な行動計画としてまとめたものである。

*文科省は、さまざまな機会を通じて本行動計画を広く国民への理解を促すとともに、改善に向けた各種の取り組み状況などを評価し、毎年、計画を見直すこととする。

文部科学大臣によるこの趣旨説明を読むと、新しい世紀を迎え、長年にわたって惰眠を貪ってきた我が国の英語教育システムをここで一挙に改革し、国を挙げて英語が使える日本人を育成しようという意気込みが感じられます。確かに、英語教育はこのままではいけません。何らかの改革が求められています。しかし、「行動計画」の本文に入り、冒頭に書かれている「『英語が使える日本人』育成の目標」を見て、そこで愕然とします。そこには日本人に求められる英語力として、次のような、にわかには信じがたい目標が記載されているからです。

「目標」国民全体に求められる英語力:「中学校・高等学校を卒業したら英語でコミュニケーションができる」

○中学校卒業段階:挨拶や対応、身近な暮らしに関わる話題などについて平易なコミュニケーションができる(卒業者の平均が実用英語技能検定(英検)3級程度)

○高等学校卒業段階:日常的な話題について通常のコミュニケーションができる(卒業者の平均が英検準2級~2級程度)

専門分野に必要な英語力や国際社会に活躍する人材等に求められる英語力:「大学を卒業したら仕事で英語が使える」

○各大学が、仕事で英語が使える人材を育成する観点から、達成目標を設定

これは明らかに誤った前提に基づいて書かれています。文科省のエリート官僚たちがまじめに議論して作成したものとは思えないものです。調べてみますと、この「行動計画」は、その発表の前に急遽開かれた「英語教育改革に関する懇談会」(2002年1月~5月まで5回開催)の議論に基づいて作成されたもののようです。しかしその懇談会の「議事要旨」を読んでも、このような具体的な目標について議論された形跡はありません。おそらく文科省は、必要に迫られて、この目標を後から急遽付け加えたのでしょう。とにかく、この「行動計画」は問題だらけです。その問題点のいくつかはすでに英語教育の専門家たちからも指摘されています(注1)。しかし文科省がそのような批判を受けて改訂した形跡は今のところありませんので、上記の「目標」の部分に限って、すぐにも修正を必要とする問題点を以下にまとめます。

第1の問題点は、「中学校・高等学校を卒業したら英語でコミュニケーションができる」というのが、国民全体に求められている英語力だとしている点です。筆者の想像では、これを見た一般の人々は「すばらしい目標だ」と思うかもしれません。しかし理性のある人ならば、次の瞬間「これはおかしい」、あるいは「それは不可能だ」と思うはずです。国民全体が英語を使えるようにするというこの目標は、英語を日本国の第二公用語にすると宣言していることに等しいものです。日本が国策として英語を公用語とするのがよいと考えている人もいますが、それが間違っていることは、これまでの論争ですでに決着がついています(注2)

第2の問題点は、中学校・高等学校の到達目標が、「挨拶や対応、身近な暮らしに関わる話題などについて」および「日常的な話題について」、英語でコミュニケーションができるようになるという目標が掲げられていることです。なぜ日本人が英語で挨拶したり、日常的な話題について英語で話したりすることがそれほど大切なのでしょうか。そういうことが「英語が使える日本人」に求められる英語力だと言うのでしょうか。たしかに英語入門期の授業では、挨拶や身近な暮らしに関わる話題が取り上げられことが多いようです。しかしそれが英語を学ぶ主要な目標だとは考えられません。これを書いた人たちは、日本人の英語学習目標について、大きな誤解をしているのではないでしょうか。

第3の問題点は、中学校卒業段階・高等学校卒業段階のそれぞれの目標に付いている括弧内の記述が、あまりにも稚拙なことです。中学卒業者の平均が英検3級程度、高校卒業者の平均が英検準2級~2級程度とあります。ここで「英検」があたかも権威あるもののように出てくるのも問題ですが、この目標作成者は、この程度の英語力で「コミュニケーションができる」と本気で考えているのでしょうか。そうであれば、その見識を疑わざるを得ません。

そういうわけで、この「行動計画」はその前提となる目標の記述において、根本的な誤りをおかしています。それは文科省の予算獲得の役には立ったかもしれません(事実、英語教育改善のための文科省予算として、2003年度は前年の3.4倍、11億100万円の予算を獲得)。しかし、それが現実の英語教育改善に役立っているかは疑問です。この「行動計画」には英語教員を対象とした研修計画など、今後さらに充実を図るべき重要な項目も含まれています(注3)。したがって次の段階に入る前に、文科省は英語教育の目標に関する理念を糺し、「行動計画」を早急に見直す必要があります。

(注1)岩波ブックレットNo.748『「英語が使える日本人」は育つのか?』(2009年)の中で、山田雄一郎氏はこの文科省の「行動計画」を次の3つの点から批判しています。1.日本人全員が日常的な挨拶や対応を英語で行うことを当然のように考えるのは誤っている。 2.学校教育の各段階に一定の数値目標を設けることは方法論的に誤っている。3.到達目標の判定基準に各種の試験を持ち出しているが、そこには明らかな矛盾がある。

(注2)故小渕恵三首相の私的諮問機関として委嘱された「21世紀日本の構想懇談会」の報告書(1999年)の中に、「長期的には英語を第二公用語にすることも視野に入ってくる」という文言があり、注目されました。その懇談会の委員の一人であった舟橋洋一氏が、その後に『あえて英語公用語論』(文春新書2000年)を出版して反響を呼びました。論争では圧倒的に反対論が優勢で、英語公用論が危険に満ちたアイディアであることが指摘されました。(参考:鳥飼久美子著『「英語公用語」は何が問題か』角川書店2010)

(注3)文科省はこの「行動計画」の作成によって2003年度に11億100万円(2004年度11億1,700万円)の予算を獲得し、その6割以上を教員研修のために使いました。この点では、この「行動計画」は最低限の役割を果たしたと言えるかもしれません。文科省はたぶんそのように考えているでしょう。ただし、実際に教員の研修を立案し実施する各地方教育委員会が、真に教員の英語力と指導力を高めることに役立つ研修を行っているかは不明です。文科省は専門家を含む第三者による検証をしっかりと行ってほしいものです。