Archive for 8月, 2012

行間を読むとはどういうことでしょうか。そしてそれはどのようにすれば可能になるでしょうか。すでに見てきたように、書き手は文章を書き進める際に1つ1つの語句を意識的に選択します。特定の場面で用いられる決まり文句などには自動的に(つまり、ほとんど無意識的に)選択されるものもありますが、その際もまったく意識が働いていないとは言えません。そして書いた文章を推敲する際には、すべての語句を意識に上らせて吟味します。どんな天才的な作家でも、推敲をまったくしない人はいないと思われます。天才作曲家モーツァルトは頭の中に浮かんだ曲をスラスラと楽譜に書いて、あとで書き直すことはなかったと聞いていましたが、最近の研究では決してそうではないことが判明しています。彼は人一倍緻密で完璧主義者だったようです。そして多くの場合、そのような書き手の意識の働きは必ずしも出来上がった文章や曲の中に直接現れてはいません。

 書かれた文章は、推敲という点で、話された言葉とは大きく違います。特にアドリブの話し言葉は書き言葉の下書きに似て、語彙選択の誤りや、支離滅裂な文章構造や、不適切な表現が至る所に出てきます。そのうえ、話し言葉は概して冗長です。強調したいことを反復したり、意に尽くさないと感じる表現を他の表現に言い換えたりするからです。話したものをそのまま書き留められたら、話者は恥ずかしい思いをするでしょう。印刷するときには、たいてい話者自身または編集者の手によってつじつまの合うように修正され、なんとか読める文章に仕上げられます。政治家がアドリブでした談話を記事にされて、失言だと非難されるのはよくあることです。

 書かれた文章は、推敲される時点で冗長さが削られ、誤りが修正されます。強調の仕方も、話し言葉とは異なる仕組みが使われます。話し言葉では強調が音調によって表わされますが、書き言葉ではそれができないので、他のいろいろな工夫がなされます。大切なのは、全体的に書き言葉では簡潔さが好まれることです。最近は書き言葉の伝達手段が多様になり、簡便にスピーディーにできるようになったので、以前よりも冗長になってきています。それでも話し言葉に比べるとずっと簡潔です。電話ではとめどもなく話し続けることができても、メールは短いほうが好まれます。そういうわけで、書き言葉を深く理解するためには、書き手がそれを書くときに持っていた知識や感情など、そこに書かれていないものを読み取ることが必要になるわけです。それが行間を読むということです。

 行間を読む(read between the lines)ということで連想されるのは聖書です。聖書は古い書物であり、「ザ・バイブル」(the Bible)というその名の通り、近世以前のヨーロッパでは書物と言えば聖書のことでした。15世紀半ば、高価な手書き写本に代わって活版印刷本が作られました。そのとき作られた『グーテンベルク聖書』(ラテン語)から半世紀後には、このメディアは広く受け入れられ、ヨーロッパ各地に多くの印刷所が作られました。かの宗教改革者マルティン・ルターは22歳のとき(1505年)修道院に入りましたが、そのときラテン語聖書の一冊が手渡されたということです。数年後にヴィッテンベルク大学教授となって『詩篇』を担当することになったとき、彼はラテン語の詩篇全文のテキスト(行間を大きく開けたもの)を印刷に付し、それを聴講の学生全員に持たせたということです。ルターが授業の準備のために使った講義の草稿が現在も残っていますが、それには行間と欄外の余白に、彼の直筆による細かな書き込みがぎっしり詰まっています(徳善義和『マルティン・ルター』(岩波新書2012)。彼は聖書を神の言葉と信じていたので、聖書の行間に隠されている真の意味を捉えようと必死に努力したのでした。聖書の行間を読むというルターの努力が、やがて宗教改革という運動となってヨーロッパ全土に広がることになります。

 聖書のような古典を読むのと、現代語で書かれた文章を読むのとでは違うという反論がなされるかもしれません。近代の外国語教育理論ではそのように言います。確かにまったく同じではありません。しかし私たちにとって英語は外国語ですから、ヨーロッパ人がギリシャ語やラテン語の聖書を読むのと基本的に違いはないと考えます。それらの古典語は現在そのままでは使われていませんが、かつては実際に使われていた言語でした。ですから、古典を深く理解するには、それらの言語が使われていた時代についての膨大な知識と深い思索が必要になります。それに比べれば、現代世界で広く使われている英語を読むことはずっと楽なはずです。(To be continued.)

“甲子園の砂はどこへ行く?”で考えたこと
(1)夏の高校甲子園大会では、奇しくも春の選抜大会と同じ学校の決勝戦となりました。私はどちらかというと、春に決勝戦で負けた青森の光星学院に勝って欲しいと思いましたが、自慢の打撃が振るわず負けてしまいました。負けたチームが必ずやるように、彼等は涙を流しながらベンチ前の砂を集めて持参した袋に詰めていました。私はこの光景を見るたびに、「持ち帰ってどうするのだろう」と疑問に思うのです。砂を入れる袋を用意しているということは、負けることを覚悟しているようで、縁起も悪いでしょう。

(2)タレントの中には、「知り合いの選手から甲子園の砂を分けて貰ったよ」と自慢する者もいるようですが、そんなに値打ちのあるものとは思えません。選手が負けた試合を思い出して、「次回こそは」と復讐を誓うのは結構ですが、それならば、スポーツ新聞や週刊誌のスクラップなどのほうがコメントも書いてあるし、反省材料に適しているのではないでしょうか。私には「甲子園の砂」の意味がよく分かりません。

(3)早くに敗退して姿を消しましたが、宮城県代表の仙台育英高校は以前訪れたことがある学校なので、応援していました。私が訪問した時には、学校長など関係者から、学園の歴史や建学の精神などを話してもらいました。モットーは、至誠・質実剛健・自治進取とのことでした。私の世代では、「質実剛健」などは、戦時中によく言われたのを覚えていますが、「自治進取」が付加されていることに新鮮味を感じました。

(4)以前は、勝ったチームの校歌しか聞けませんでしたが、今は試合の前の学校紹介で両校の校歌が歌われます。これは改善だと思います。ところで、今年は例年にない猛暑の中で熱戦が続けられましたが、選手には熱中症で倒れるということがないのも日頃の鍛錬のお陰なのでしょう。チーム全員が共通の目的に向かって鍛えた技を競うというのは見事なことだと感心します。でもスポーツに勝敗はつきものです。負けた悔しさを次の活躍のための力として欲しいものです。

“オバマ大統領の演説”で感じたこと
(1)アメリカの大統領選挙が事実上始まりました。共和党の候補者は比較的穏健なロムニー氏になりそうです。オバマ氏については、期待が大きかっただけに失望から来る反対も多いようです。しかし、彼は演説が上手ですね。支持者を前にして、”I believe in you. You believe in me.” (私はあなた達を信頼します。あなた達は私を信頼してください)と訴えていました。もちろん原稿など見ません。

(2)たまたま前夜は、野田首相が領土問題で臨時記者会見をして、所信表明をしました。しかし、首相は用意した原稿を読むだけで、声の抑揚にも乏しく、全く迫力がありませんでした。「不退転の決意で」といった抽象的な言葉では、日本国民にも訴える力がありません。記者団からの質問にも、「“近いうちに民意を問う”と言われたが、選挙はいつになるのか」といった見当違いのものがありました。国会は本会議などを1日開くと1兆円近くかかると言われているのに、与野党ともに、何を考えているのでしょうか。

(3)政治家の中には、「自衛隊を常駐させて国土を守れ」と主張する人がいますが、自衛隊の船が中国の軍艦に沈められたら、どうするのでしょうか。「戦争になっても構わない」というつもりでしょうか。国連に訴えても、中国やロシアが拒否権を使えば、国連は全く機能しないことはシリアの例でも明らかです。石原都知事や橋下大阪市長などは、そこまで考えているのでしょうか。

(4)外交というのは、お互いに国益を主張する駆け引きです。冷静に、しかも時間をかけて説得力のある説明をしなければなりません。したがって、首相や外務大臣がしょっちゅう交代するようではとても不利なのです。足元を見透かされた外交交渉がうまくいくはずはありません。このままでは、日本の外交はお先真っ暗です。(この回終り)

(105) 英語との付き合い 31

茅ヶ崎自由大學 (承前)

 私は1968年から10年間の契約で、茅ヶ崎市が藤沢市に接する浜竹というところの戸建の借家に住んでいた。両市の境目は東海道線の辻堂駅で、我が家は丁度その境目に位置していたので、何かにつけて両方の都市の格差に驚いた。当時下水道の整備が遅れていた茅ヶ崎市の我が家のトイレは未だに汲み取り式であった。整備された藤沢駅前に比べて、茅ヶ崎駅前にあった公衆トイレはまさに顔を背けたくなるような汚さで有名だった。多くの市民が格差を実感していただろう。重岡健司氏は、自分の子供たちが通う小学校の校庭が余りに未整備で危険なことに怒り、PTA会長になった。それが彼の市民運動家として始まりであった。NHKからニューヨークのAP通信社に出向した重岡氏は、ロサンゼルス市の都市計画を取材し、全てが市民参加で進められている状況を見て、帰国したらこれを茅ヶ崎で実現したいと決意したという。帰国後同志を募り、市民参加の街づくりをスローガンに次の市長選挙に挑む運動を続けているうちに、自分が市長候補に推されるハメになってしまった。

 重岡氏は弁舌さわやかな上、容姿に優れた熱血漢であったから、運動員や支持者はPTA役員をはじめ、女性が圧倒的に多かった。この人達と選挙運動を進めるうちに私はあることに気づいた。彼女たちの知性の高さと旺盛な好奇心それに行動力である。特に教育問題への関心が高かった。茅ヶ崎自由大學は、重岡氏を中心に、こうした女性達が作った学習会で、選挙はわずかの差で旧勢力にやぶれたが、学習会は残った。

 自由大學の学習会は著名人を招いての講演会が主体で、参加希望者の数を見て会場を決めていたが、英語の学習会は定期的に開催するので、そうはいかず、茅ヶ崎駅に近い貸し教室を使用し、instructorは私と高橋氏が休日に交代でつとめることになった。第一回の英語クラスに集まったのは11人、サラリーマン、教師、労組の委員長、主婦と多士済々であった。後に茅ヶ崎方式英語会となるこの学習会の基礎を作ったのはまさにこの11人の士であった。中でも日刊工業新聞の記者(後に論説委員長・現経済評論家)だった松本明男氏には、その後も長く親身のお世話になった。松本さんは茅ヶ崎校のホームページで「1981年4月、『一粒の種』のように、湘南の地の一隅で育まれたこの『小さな実験的学習会』がいまや全日本規模へと輪を広げ、グローバル化時代における国際コミュニケーションの促進に役立っている姿を見ると感慨無量なものがあります。」と語っている。

 茅ヶ崎自由大學の英語クラスは口コミで会員数を増やし、第3期には50人近くになった。それに伴って生じたのが資金の問題である。私は、教本販売による英対話学習の全国展開を主目的に、検証作業である学習会は一応3年間で終了予定だったので会費は無料とした。そして講習料を取ってくれという会員には、皆さんはいわば英対話学習法の効果を調べるめの”モルモット”なので、カネをもらうわけにはいかないのだとつたえていた。しかし、会員が増えてくると、英語力に従ってクラスを分けなければならず、教室も借りる回数が大幅に増え、教材の作成費もかさむようになり、個人では負担しきれなくなった。そこで、かかった経費を会員に分担してもらうことを、自由大學に提案したが、無料で。手弁当の市民運動という趣旨に反するということで拒否された。もはや、この学習会を途中で止めることは不可能になったと判断し、将来のことを考えれば、費用の分担制は不可避であると考えて、話し合いを重ねたが、結局折り合いがつかず、英語クラスは自由大学を離れて独立することになった。 (M)

これまで見てきたように、英文を読んでその意味を理解するプロセスと、理解した意味を自然な日本語に表現するプロセスとはまったく違うものです。もちろん、後者は前者を前提としているのですから、両者には深い関係があります。しかし理解と表現の両プロセスは、いわば方向が逆ですから、まったく違うと言ってよいでしょう。では、それぞれのプロセスはどのようなもので、それらはどのような点で違うのかをもう少し詳しく見てみましょう。なお、以下に述べることは行方氏の『英語の読み方』(岩波新書)を参考にしていますが、出来上がったものは行方氏のものとは違うものですので、ここに書かれているものの責任は私にあります。

 まず意味の理解のプロセスから始めます。英文を読むときに私たちが最初にしようとすることは、普通には、文章全体の意味をとることです。この場合には必ずしも日本語に訳す必要はありません。辞書もキーワード以外は引きません。文章のだいたいの意味が取れればよろしい。ここで「文章」というのは「バラグラフ」(paragraph)に置き換えてもよいでしょう。なぜなら、特に英文の場合には、パラグラフがひとかたまりの意味を表す単位とされているからです。1つのセンテンスが1つのパラグラフの働きをすることもありますが、それはむしろ例外であって、1つのパラグラフはたいてい数個あるいはそれ以上のセンテンスから成ります。たとえば、英語学習の初期には ‘I am a boy.’ のようなセンテンスが出てきますが、これはそれだけで1つのまとまった意味を表すとは言えません。私たちはこういうセンテンスをいきなり発することはありません。「きみは男の子らしくないね」などとからかわれて、「そんなことない、僕は男だ!」と言い返すなど、何かの状況、つまりコンテクストがあって、はじめてこのセンテンスは意味を持ちます。そして当然のことながら、パラグラフはさらに大きな単位(章など)の他のパラグラフと意味的に関連しています。

 文章のだいたいの意味が理解できたならば、知らない単語やよく理解できない語句を辞書で確かめます。著者がその文章を書いたときに感じていた気分や、その文章で伝えたいと思っていた意図をくみ取るには、読者は1つひとつの語句について詳しく知ることが重要です。アドリブで話される言葉と違って、書かれた文章はたいてい推敲されています。ですから書かれているほとんどすべての語句は推敲される時点で著者の意識に上って吟味されます。すると読者がいま理解しようとしている文章の内容を著者と共有するためには(深く読むとはそういうこと)、著者が選んだ語や表現について深く知ることが必要です。そして時には、なぜここにこのような語句が選択されているのかを考える必要があります。前回の例で述べたように、オリンピック施設の紹介をしている記者が、なぜここに ‘the water-polo arena’ を選択したのだろうかと考えてみると、その文章の前後のコンテクストからその理由を発見することができます。また、 ‘to defy the law of gravity’ という表現から、ニュートンの「万有引力の法則」を連想し、著者がその語句に込めたであろう感情を共有することができるわけです。行方氏の勧める「1語1語を徹底的に研究し正確に読むこと」というのは、そういうことだと私は理解しています。このプロセスでは英和辞書や英々辞書を参照する必要がありますから、当然のことながら、日本語訳は(きちんとした日本語訳でなくてよいが)文章の深い内容理解のために、つまり内容理解の思考の手段として、必須の道具になります。

 文章を読んで理解するための次のプロセスとして、論理的なつながりに注意して読むということがあります。あるセンテンスは、そのセンテンスの前後のセンテンスと密接に関連しています。先に述べたように、1つのセンテンスがコンテクストと切り離されて突如として現れることはありません。 ‘I am a boy.’ というセンテンスが前後のコンテクストと無関係に現れたら読者は戸惑い、著者はここで発狂したと思うでしょう。そういうわけで、多くのセンテンスは接続詞やそれに代わる副詞などを使って論理が一貫するように書かれていますが、名文と言われるような文章はむしろそういう接続詞や副詞をなるべく使わずに、センテンスが自然につながるように工夫されていることが多いと思います。私はけっして名文家ではありませんが、文章を書くときにいちばん苦心するのはその点です。とにかく、なんらかの方法でセンテンスが論理的につながるように工夫することは、文章を書く人が必ず経験する意識的プロセスだと言ってよいでしょう。ですから書き手の意識的プロセスを共有するためには、読者もそれを追体験する必要があるわけです。そこまでくれば「行間を読む」という、最後のもっとも難しいプロセスに入ります。これがどういうプロセスなのかを次に考えます。(To be continued.)

「高校野球の熱戦」をきっかけに考えたこと
(1)プロ野球の人気は今一つの感じですが、甲子園の高校野球は大変に盛り上がっているようです(執筆は準々決勝の時点)。その中で、私が気になったニュースは、作新学院(栃木県)の野球部員1名が強盗容疑で逮捕されたのに、野球部はそのまま甲子園で試合を続けたことです。秋の国体は学校の申し出で辞退するようですが、高校野球連盟(高野連)には、「部員1名だけの不祥事は問題にしない」という前例があるようです。

(2)政治の世界では、裁判で無罪になると、「堂々と政界に復帰する」ことが多いようですが、裁判は、「疑わしきは罰せず」という原則があるので、無罪になることがよくあります。しかし、実際は、“限りなく黒に近い”ということがありますから、その政治家は事件の内容を国民に説明する責任があると思います。小澤一郎氏も、最終判決はまだですが、そのような責任は果たしていません。高校生にやたらと“連帯責任”を負わせることには、私も賛成しませんが、部員1名の事件であっても、その中身によって判断を変えることがあってもよいのではないかと思うのです。

(3)政治の問題にしても、日本では、「前例がない」というのは、その都度、関係者に都合のよいように解釈されてきたと思います。日本の管轄する領土に、中国の活動家たち(札付きの常連らしい)が無断で上陸しても、「逮捕監禁して裁判にかける」という前例がない、ということで、強制帰国つまり無罪放免という結果になりました。野田総理が後から、「甚だ遺憾に思う」などと言っても、迫力がありません。

(4)防衛大臣の言動も相変わらず国民には不可解です。垂直離着陸機のオスプレーにしても、「アメリカ軍の言う通りにします」という方針が心中にあるはずなのに、、「事故原因の調査結果を待つ」などと言っていました。2012年8月19日の The Daily Yomiuri によれば、「操縦ミス」という見解に対して、パイロットは「事故は風力のせいだ」と述べているようです。そんな風は特に沖縄ではよく吹くようですから、墜落事故の原因を調べても、“安全性”の保証にはならないことは素人にも分かることです。

(5)10年ほど前に、「21世紀こそ平和の世紀に!」と願ったのもつかの間で、まるで子どもの遊びの「国盗りゲーム」が現実になってしまいました。領土問題は、ナショナリズムを煽るには格好の材料です。解決のために望ましいことは、お互いに冷静になって時間をかけながら話し合うことしかないでしょう。中国も韓国もそれぞれ、国内の事情がありますから簡単には譲歩しないでしょうが、以前に話し合いのついているはずの問題まで蒸し返されたのではかないません。時間をかけて説得を続けるよりありません。

(6)1951年のサンフランシスコ講和条約では、アメリカが日本の領土を決めることにしたのだから、領土問題はアメリカに訴えるべきだという見解もあります。しかし、以前のような国力の無いアメリカは、仲介の労を取ることは避けているようです。日米安保協定などは戦勝国が敗戦国に押し付けたようなものですから、先日亡くなったハマコー(浜田幸一氏)が、日頃言っていた「日本はアメリカの属国なんだよ」という言葉が妙に真実味を帯びて感じられる昨今です。(この回終り)

英語学習と「訳」(15)

Author: 土屋澄男

前回に取り上げたタイム誌からの引用文の最後のセンテンスをもう一度見てみましょう。それは次のようでした。

The Olympic Park spans 2.5 sq km and houses eight of the 34 Olympic venues, including the main stadium, the water-polo arena and an aquatic center designed by Zaha Hadid, an architect whose buildings appear, like high divers, to defy the law of gravity.(大意:オリンピック・パークの大きさは2.5キロメートル平方で、そこにオリンピック施設34のうち、メイン・スタディアム、水球競技場、水泳競技場など8つの施設が建てられている。それらをデザインしたのはザラ・ハディッドという建築家で、この人の建てたものは、高飛び込み選手のように、重力の法則をまったく無視しているように見える。)

 この訳でおよその意味は理解できたことになりますが、この文章の書き手であるタイム記者の気持ちや意図のようなものをここから掬い取ってみましょう。まずオリンピック・パークに造られた8つの施設のうち、メイン・スタディアムと水泳競技場と共に、私たちにはあまり馴染みのない水球競技場(the water-polo arena)が挙げられているのはなぜだろうかと考えます。これはさほどポピュラーな競技ではなく、日本ではほとんど話題にもなりませんでした。そのための専用の施設が造られていたとは私も知りませんでした。これはじつは、この記事の前の方で記者がかなりのスペースを取って説明していた事柄なのです。水球は19世紀にスコットランド人が考案した競技で、1900年のオリンピック種目に初めて登場し、イギリス男子チームが優勝しました。しかしその後他の国が強くなり、イギリスは1956年以降出場すらできませんでした。女子の水球は2000年のオリンピックから公式種目に加えられましたが、やはりイギリスは出場していません。今回は主催国として男子は久しぶりに、女子は初めて出場が認められたという、わけありの種目なのです。

 次に、上記の記事の最後に書かれている ‘the law of gravity’ に注目してみましょう。これは「重力(引力)の法則」ですが、この語句を見てアイザーク・ニュートンを連想しない人はいないと思われます。その法則を無視するような建造物というのですから、私など思わず心の中で笑ってしまいます。ニュートンの法則を無視することは、イギリスの誇る科学をあざ笑うことになるのですから。これを書いた記者はこの文章にそういう逆説的ユーモアの効果を意図したに違いありません。さらに、それに ‘like high divers’ という語句を挿入することで、いっそうその効果を強めることになります。あの目のくらむような高い飛び込み台から落下するのはよほどの勇気を必要とするに違いないと、私など想像しただけで脚がすくみます。

 ロンドン・オリンピックは心配されたような大きなトラブルもなく(もちろん小さなトラブルはいろいろあったのでしょうが)、無事に終了しました。主催国Team Great Britain (TGB) は予想しなかったメダルダッシュに驚いたようです。終ってみれば金29個を含む65ものメダルを獲得したのですから。日本の選手ならば「やった!」と歓喜するところでしょうが、イギリス選手の多くは控えめに “I can’t believe it!” と言って喜んだようです。テニスのマレーなど、7月のウィンブルドン決勝ではフェデラーに接戦で負けてイギリス人を落胆させたのに、どういうわけかオリンピック決勝では同じフェデラーを相手にストレート勝ちしました。やはりイギリス人にはロンドンでのオリンピックは特別だったのでしょう。

 上記のタイム記者が8月20日号にロンドン・オリンピックの中間報告を書いていますので、その一部を引用します。

Brits excel at losing graciously. The Olympic gold for generosity surely goes to Team Great Britain’s male gymnasts, who were already celebrating their silver medal in July 30 final when a challenge on the scoring for the Japanese team succeeded, demoting the Brits to bronze. “To get a medal is unbelievable,” said Team GB’s Louis Smith, smiling broadly. “Silver? Bronze? It doesn’t matter.” (TIME  August 20, 2012)

この文章は特に注釈を必要とはしないでしょう。解釈は容易でも、これをどのように日本語に翻訳するかとなるとけっこう難しい(下線部など)と思います。単に意味を取るのとそれを自然な日本語に翻訳するのとでは、日本語の表現力という別の技能が必要になるからです。下記に筆者の試訳を載せますのでごらんください。同一のテキストでも、その翻訳は訳者の数だけあります。読者の皆さんも試してみてください。

試訳:イギリス人というのは負けっぷりがいい。オリンピックに「寛容」という種目の金メダルがあったら、それは間違いなくイギリスティームの男子体操選手が獲得することになる。彼らは7月30日の団体戦ファイナルでいったん銀メダルを取って喜んでいたのだが、日本ティームが得点に抗議してそれが受け入れられたために銅に落ちてしまった。イギリスティームのルイス・スミスさんは大きな笑みを浮かべてこう言った。「メダルを取れたなんて信じられないよ。銀だろうと銅だろうと、どっちだっていいさ。」 (To be continued.)

(104) 英語との付き合いー30

準備活動

  英対話学習システム計画を具体化するのに先立ち、私はいくつかの準備行動を起こした。

① 最新の英語教育や学習法について知るため、およそ50冊の関係書を速読した。これらのうち、心に残ったのは、次の2冊であった。

一冊は、アメリカの心理学者カレブ・ガテーニョ博士の外国語学習法“Silent Way “の翻訳書だった。誰が「沈黙する方法」なのかといえば、教師である。教師は生徒が自分で気づくのをサポートするのが本来の役割だというこの方法論は、私達が新人の英文ニュース記者としてたどった道筋に、通底するものがあったから強い印象を受けた。私たちにとって幸運だったのは、高等師範学校の同期生で文教大学教授だった土屋澄男氏(このブログで英語学習法を執筆している)が、日本におけるガテーニョ研究の先駆者のひとりだったことである。土屋氏にはその後、我々の出版社からガテーニョ博士の「子どもの『学びパワー』を掘り起こせ」の翻訳書を出してもらった他、私の次の代表者に決まっていた高橋義雄氏を文教大学湘南キャンパスの講師に推薦していただき、さらに、私を文教大学や語学研究所の講演会の講師によんでもらった。特に有難かったのは、私達の英対話学習法の構想を、大修館の「英語教育」誌に連載する仲介の労をとってもらったことである。私はこの連載の中で、学問的な裏づけのない私たちの考えが、どこかに大きな欠陥を持っていたら是非教えて欲しいと思い、英語教師や教授法・学習法の専門家の批判を期待した。反響はなかったが、私としてはとにかく権威ある専門誌で多くの人達の目にさらされたことで、おおいに安心したのである。

 もう一冊は、鎌倉在住の作家富岡多恵子さんの“英会話私情”であった。富岡さんは私より少し年下だが同じ戦争末期世代であり、戦後のアメリカかぶれを批判した著書の内容には大変共感するところが多かった。内容は、大阪女子大英文科出身の富岡さんが、敗戦後、英会話なるものを習得すべく努力してみた結果、英会話学校とは一種のお稽古ごとを習うところだと悟り、特に、プールや芝生の庭があるアメリカの家庭の少年少女の生活を扱った教材には、あまりの現実離れに憤慨して、この国には、私の望む英語の会話を教える学校はないと結論づけている。私は、遠くない鎌倉の空を見ながら、「富岡さん。貴女が望むような学校をオレが作って見せるよ」と心に誓った。

② 最近の英語学習法について一応勉強した後、この国の英語教育の現状を知るため、高等師範学校の同期生で、文部省の主任教科書調査官をしていた小笠原林樹氏を訪ねた。鰻の寝床のような部屋で調査官達が英語教科書の検定をしており、一番奥のところにある自分の席で、彼は教科書や学校での英語の公教育について、いろいろ説明をしてくれた。具体的な内容については言及を避けるが、現状には批判的な部分があり、私には周りの調査官たちも同じ意見なのではないかと感じられた。私は自分がやろうとしていることの概要を説明して辞去したが、彼は玄関まで見送ってくれ「オイ頑張れよ」と激励してくれた。

③ 出版社詣でと著作権法の学習

   5冊の教本類は、最終的には自費出版することも覚悟していたが、まずは“Go for broke !”ということで、研究社を初め英語関係の出版社へ売り込みをはかった。しかし、当然ながら、無名の著者の聞いたことのないような内容の本の出版を引き受けてくれるところはなかなかみつからなかった。それを知った英語デスクの石川啓一氏が、自分が翻訳書を出した新宿の同文書院という中堅の出版社を紹介してくれた。ダメモトのつもりで、
  担当編集者の柴田誠氏に会ってみると、彼は石川氏の人柄と英語力にほれ込んでおり、石川さんの推薦ならと、とにかく一冊だけ出版を引き受けてくれることになった。
   
 出版するとなると出版契約が必要になるので、著作権法の解説書を数冊買い込んで勉強した。著作権法というのはかなり難解な法律で、しかも、著者より出版する側に有利に出来ており、条文の関連性や整合性を何とか理解するのに数ヶ月かかった。しかし、このときの勉強がその後、いろいろな場面− 例えはデジタル化の際の著作権の考え方など— で生きてきたから、今から思うと不可欠な学習だった。

④ 実証実験の場の確保

   私は初め、自分たちの用語集や教本を使って3年間実証実験を行ない、修正すべきところは修正し、出版を中核として、英対話学習法を全国展開していくつもりだった。そこで、私の住む茅ヶ崎市で市民運動をしていたNHKの同僚の重岡健司氏に相談したところ、自分達のやっている「茅ヶ崎自由大學」という学習グループの英語部門としてやってみてはどうかという誘いを受けた。渡りに船と誘いに乗り、次の会員募集時に便乗して、英語学習グループを発足させた。1981年4月のことである。 時を同じくして、茅ケ崎海岸では、松下政経塾が実質的に開講し、大阪の小さなしもた屋の2階で、英会話学校NOVAが誕生した。(M)

英語学習と「訳」(14)

Author: 土屋澄男

「書き手の気持ちや言外に込められた意味など英文の裏の裏まで読み解く」ように読むためには、具体的にどのようにしたらよいのでしょうか。適当な英文を選び、行方氏の「読み方」に則して読んでみることにします。次は先日行われたロンドン・オリンピックに関するタイム誌の記事です。開会式前の準備の整ったロンドンの模様を報告したものですが、単なる報告記事ではなく、書き手はこの歴史ある古い都ロンドンに造られた近代的オリンピック施設の、ある意味で不調和な姿を強調するようなスタンスを取っています。リポーターはタイム誌の専属記者と思われます。

 The Olympics will assemble 10,490 athletes from 204 countries, attract up to 8.75 million spectators and capture worldwide TV audiences. These hordes will see a new side to the more than 2,000-year-old host city, quite literally. An enormous shiny spaceship has alighted in East London on the intersection of three hardscrabble boroughs—Hackney, Newham and Tower Hamlets—flattening slums and covering wastelands. The Olympic Park spans 2.5 sq km and houses eight of the 34 Olympic venues, including the main stadium, the water-polo arena and an aquatic center designed by Zaha Hadid, an architect whose buildings appear, like high divers, to defy the laws of gravity. (TIME July 30−August 6, 2012)

 これは、これから開催されるロンドンでのオリンピックの予想される規模や施設について述べたものです。知らない単語を辞書でしらべれば、高校生でも大意を取ることは難しくないでしょう。この文章は4つのセンテンスからできていますが、まずそれぞれの文の大意を取ることから始めましょう。

第1文:今回のオリンピックは204の国々から10,490人の競技者を集め、875万人もの観客を引きつけ、世界中のテレビ視聴者をとりこにすることになる。

第2文:それらの人々は、2000年を超える開催都市ロンドンの、文字通り斬新な側面を見ることになるだろう。

第3文:ハックニー、ニューアム、タワー・ハムレッツという3つの地区の交わるイースト・ロンドンに、きらきらと光る巨大な宇宙船が舞い降りているが、そこはロンドンの不毛の地域で、スラムを壊し荒れ地を覆ってこしらえたものである。

第4文:オリンピック・パークの大きさは2.5キロメートル平方で、そこにオリンピック施設34のうち、メイン・スタディアム、水球競技場、水泳競技場など8つのオリンピック施設が建てられている。それらをデザインしたのはザラ・ハディッドという建築家で、この人の建てたものは、高飛び込み選手のように、重力の法則をまったく無視しているように見える。

 高校生ならば、上の大意訳のように、およその意味が取れればよいと思います。しかしそれでこの文章が完全に解釈できたわけではありません。なぜなら、これはオリンピックに関する事実を単に客観的に記述しているのではなく、その記述の仕方から、執筆者の主観的な思いや態度が至るところに現れているからです。「書き手の気持ちや言外に込められた意味など英文の裏の裏まで読み解く」ということを頭に入れてこの文章をもう一度読み返してみます。すると次のような点に気づきます。

 まず気になる語句がいくつかあります。特に ‘hordes’ と ‘hardscrabble’ が引っかかります。 ‘horde’ を辞書で引いてみます。Concise Oxford Dictionary (COD) には次のように書いてあります。

n. Troop of Tartar or other nomads; (usu. derog.) numerous company, gang, troop.

つまりこれは、中世いらい中央アジア方面からしばしばヨーロッパ人を脅かし続けたタタール人の軍団や遊牧民の群れを指している語なのです。今日ではそれは単に「人々の群れ」を意味するようになっていますが、CODの括弧内に示されているように(usu. derog.)、軽蔑的な感情を含んでいます。そういうわけで、記事を書いた記者はこの語を使うことで、オリンピックのためにロンドンにやって来る人々や、競技をテレビで楽しむその他大勢の人々を冷やかしているのです。彼らは「かつてヨーロッパ人を恐れさせたタタール人の軍団のようだ」というわけです。しかしそうは言わずに、その感じを ‘hordes’ という一語に込めています。

 もう一つの ‘hardscrabble’ も意味深長な語です。これは見出し語として出している辞書は少なく、COD にも出ていません。OALD には次のように出ています。

 adj. (AmE) not having enough of the basic things you need to live.

これはアメリカ英語のようです。「働けど働けど食べるのもままならない」とか、「いくら骨を折っても報われない」という意味の語です。ですから ‘hardscrabble boroughs’ というのは、ロンドンのあまり陽のあたらない地区(特にハックニー、ニューアム、タワー・ハムレッツ)を指します。 ‘hardscrabble’ という語を使うことによって、そこのスラムを撤去したり、荒れ地に覆いをしたりして、ロンドンの恥部を必死に隠そうとしたロンドン市の努力を揶揄する記者の意図が、巧妙に表わされています。(To be continued.)

“閉会式”で思ったこと
(1)25日間続いたロンドン・オリンピック、2012がやっと終わりました。この“やっと”という気持ちは、国語辞典にはない用法だと思います。「島民が待望の本土との橋がやっと完成した」といった使い方が普通ですが、「日本のマスコミの扱いにうんざりしている者には、“やっと終わったか”というのはかなりの人の共感であるはずです。「国語辞典はまだまだ欠陥が多い」と言わざるを得ません。

(2)今回の閉会式そのものも感心出来ません。前回のブログでは、開会式のテーマを「自然への回帰」のようなことで、イギリスの19世紀の植民地拡大政策から、「世界の目をうまくそらせた」という趣旨のことを書きましたが、「まず長すぎる」というのが閉会式の感想です。世界の目が集中しているのですから、お国自慢をしたい気持ちは分かりますが、3時間以上も続ける意味はないと思います。残った選手だって、家族や応援していうれたファンたちと語り合いたいのではないでしょうか。

(3)セレモニー(儀式)というものは、結婚式やその披露宴などを含めて、短いほうが良いと私は思います。特に日本の結婚披露宴などは、新郎新婦に関係の無いような昔話を長々とする人がいてうんざりします。今回のロンドンの閉会式もそれに近い印象を持ちました。ビートルズを産んだお国柄であり、閉会式のテーマが「イギリス音楽の調和」だとしても、歌が多いし、長過ぎる印象を持ちました。

(4)しかも、NHK の中継のアナウンサー(男女二人)は、余計なおしゃべりをするものですから、歌を聞きたいというファンも落ち着いて聞けなかっただろうと思います。しかも「今度は白い箱がいくつも出て来ましたよ」「それが中央に集まって来ましたね」などと、画面を見ていれば分かるようなお粗末な描写力です。開会式でも閉会式でも、びっくりさせるような企画があるでしょうから、取材陣にもあらかじめ資料を配るようなことをしないようです。したがって、現場中継のアナウンサーたちも知らないことが多いのでしょうが、描写力の弱さは日頃の訓練の不足によるものです。

(5)ゲームが進行中の7月29日の「産経新聞」は、一面の「くにのあとさき」というコラムに、東京特派員の湯浅 博という記者の記事を掲載していました。4千字程度のコラムで、欲張っていろいろなことを書こうとしたために何を言いたいのかが分かりにくい記事なのですがが、女子サッカーチームの応援に夢中になることを「90分のナショナリズム」とテレビ解説者が評したが、「これは五輪で日の丸が振られると、『健全なナショナリズム』と表現する心理と共通点があるようだ」と指摘し、「それは、政治家の靖国神社参拝や国旗国歌の尊重を『偏狭なナショナリズム』と批判するための差別化である」と書いています。

(6)中国や北朝鮮のような一党独裁の国(今のロシアもこれに近い)の国民と違って、自費で現地に行くような日本人の応援者は、もっと単純な気持ちだと思います。そのことが危険な政治離れ、国家離れだと批判するならば、下手にオリンピックなどと関連付けないほうが良いでしょう。ただし、日本のテレビのように、オリンピックの結果から、「感動話」ばかり抜き出して、それを繰り返し視聴者に押しつけるのはいいかげんにしてほしいと私は言いたいです。(この回終り)

英語学習と「訳」(13)

Author: 土屋澄男

読んで難しいと感じる文章があります。日本語にもありますし、英語にもあります。私たちの母語である日本語を読むときは、難しい文章に出合ってもあまり深く考えずに、分かったような気になって先に進むことがよくあります。ある文章に出合って、よくは分からないけれどもこんなことだろうと見当をつけて先に進みます。ところが読み進むうちに、先ほどの文章の理解はそんな意味ではないということが分かり、最初からもう一度読み直すことになります。皆さん誰でも、そんな経験をしたことがあることでしょう。どうしてそういうことになるのかを考えてみると、文章を読んでそれを理解するというのは、字面(じづら)の意味がわかっただけでは十分ではなく、その文章の根底に隠されている、著者の意図がどういうものだったのか、また著者はどんな気持ちで書いたのか、ということまで理解することが必要だからです。母語の場合には、そういうことが著者の選んだ語彙や文構造や文章の表現法などににじみ出ていることが分かるのです。しかし外国語である英語を読む場合には、そういうことに気づかないことが多いわけです。

 小学校や中学校の「国語」の授業にはそういうことを指導する時間があります。筆者もそういう授業を受けたことがあります。先生が、著者はこの文章をどんな気持ちで書いたのだろうか、などの質問をしたことを覚えています。しかし先生の設問が難しすぎたり、またあるときは易しすぎたりして、どうもピンと来ない場合が多かったように思います。先生の質問の意味がわからなかったり、またなぜ先生はそんな分かり切ったことを質問するのかとかと思ったりして、戸惑うことがありました。きっと教材が学習者である自分のレベルに合っていなかったのでしょう。ところが東京高等師範で受けた英文解釈の授業では、ある英文を読んで著者は何を言いたいのか、著者は建設的な意見を述べているのか批判的に論じているのか、それとも皮肉を言っているのか、などが分からないために訳がうまくできないということがしばしばありました。

 言うまでもなく、訳をするためには原文を完全に理解しなければなりません。曖昧な理解のまま訳そうとすると、かならずゴマカシが露呈します。あるとき英語のテスティングの本を数人で翻訳することになり、監修者として全員の訳文をチェックする役目を引き受けたことがありました。私は原文を全部読んだ後で、いちいち英文を参照することなく、日本語の訳文だけを読みました。そして筋の通らない変な日本語だなと思うところだけチェックし、原文に当たってみました。すると十中八九、その訳に間違いがあることを発見しました。訳者は原文を正しく理解していないために、訳文が論理性を失って読む者にオヤという感じを与えるのです。私たちは母語については、たぶん教育を受けたおかげで、そういう高度な技能を発達させています。これが大人になって学んだ外国語については、なかなかそういう域に達しません。

 では英文の深い読みついて、母語話者のような高度な技能に達していない一般の日本人英語学習者はどうしたらよいでしょうか。そこで登場をねがうのが行方昭夫著『英文の読み方』(岩波新書2007)です。著者はこの本の初めのほうに、「ざっと読み流して大まかな意味を取り、曖昧な訳が出来たとしても、それで英文が「読める」とはとてもいえないのです。コンテクストを把握した上で、書き手の気持ちや言外に込められた意味など英文の裏の裏まで読み解き、それを活かした日本語に直せる力こそが、総合的な英語力の何より重要な基礎だと確信するようになったのです」(5頁)と自分の経験を述べています。

 この文章の中で、「コンテクストを把握した上で、書き手の気持ちや言外に込められた意味など英文の裏の裏まで読み解き」という部分に特に注目したいと思います。それは結局英文を正確に読むことですが、私たちは外国語である英語でも、そのような高度な技能の獲得は可能でしょうか。著者は、この本で述べるような学習を実行することによって可能であると言います。そのために5つのステップを取るよう薦めています。①まず多読によって英文に慣れること、②1語1語を徹底的に研究し正確に読むこと、③論理の継ぎ目に注意しながら読むこと、④行間を読んで「言外」のニュアンスを読み取ること、⑤訳すときに日本語の表現を工夫すること、の5つです。このうち⑤は翻訳の問題になりますので除外するとして、①から④までが「書き手の気持ちや言外に込められた意味など英文の裏の裏まで読み解く」のに必要なステップということになります。ただし、これは英語学習の初級段階を終えた人々へのアドバイスで、まだ初級段階の途中にある人には薦められません。次回には具体的な例を挙げて英文を深く理解する方法を考えてみます。(To be continued.)