Archive for 9月, 2013

「“予備校講師大もて”で考える教育問題」
(1)予備校講師の林 修氏は、「いつやるか?今でしょう」と口癖のように教室で言っていたのを民放のお笑い番組が見つけて起用した人物で、テレビ界でも人気者になってしまいました。民放テレビは、“面白ければ何でもあり”が基本方針ですから、視聴者が面白がれば誰でも出演させるわけです。

(2)入試問題を解くのには何らかのコツがあるのは確かです。昔から受験問題の“傾向と対策”は受験生の関心の的でした。そのことを上手に説明してくれる予備校に人気があるのは当然ですが、そういう予備校に入ること自体が目的になってしまうというおかしな傾向さえ生じているのです。

(3)ある民放のテレビ番組では韓国の受験事情を取り上げていました。日本のセンター試験に当たる“統一試験”(大学修学能力試験)は韓国では非常に大事ですから、遅刻しそうな受験生がいると、警察のパトカーがサイレンを鳴らしてその受験生を試験場に送り届けることがあることを紹介していました。一方では、それほど受験生を大事にしても、「日本のようにノーベル賞受賞者が出ないのはどうしてか?」ということも議論になっているようです。

(4)しかし、日本でも教育問題は山積しています。その1つは貧富の格差です。東京大学合格者の親の年収は、日本人の平均的な年収(約500万円)よりはるかに高いと言われています。これにも諸説があるようですが、東大合格者の家庭の収入が全国平均よりも高いのは確かなようです。小さい時から苦労もせずに育って、有名大学に入り卒業した人物が、将来国の指導者になるようなことを素直に受け入れてよいものでしょうか?

(5)スポーツ選手には輝かしい成績を上げる人がいますが、何度かスランプに陥りながらも、コツコツと基礎的な練習を繰り返えすような個人的な努力をする人物が多いようです。連続無敗記録を更新して、チームのリーグ優勝に貢献した田中将大投手こと、“マー君”は、優勝の後でも、「応援してくれたファンやチームメートのお陰」と謙虚に語っていました。苦しみに耐えての訓練ばかりではなく、こういう“謙虚さ”も教育の目標にすべきでしょう。

(7)最近文科省が実施した“学力テスト”で、公立小学校の国語の成績が全国最低だった静岡県の川勝知事が、成績の低かった県内86校の校長名を公表しました。どうしてそんなにテストの点数にこだわるのでしょうか?そして、学校長にどんな指導を期待しているのでしょうか、私にはさっぱり分かりません。

(8)2011年にドイツでの世界大会に優勝した日本の女子サッカーチーム、“なでしこジャパン”を指揮した佐々木監督はスパルタ式ではなく、うまく選手のやる気を引き出す指導でこの見事な成果を得たと言われています。学校での勉強の指導も、ただ厳しくすれば良いというものではないはずです。ましてや、体罰などは逆効果しかないはずです。

(9)現在続いているテレビの人気アニメ“サザエさん”(フジテレビ系)では、学校の成績が良くないカツオ君が、父親からよく“バカモーン!”と怒鳴られますが、成績は少しも良くなりません。親や教師は、“たかがマンガ”と思わずに、子供の勉強方法や指導法を学ぶべきでしょう。ただし、長谷川町子原作の“サザエさん”では、あくまでもサザエさんが主役で、父親がカツオ君を怒鳴りつけるような場面はなかったと記憶しています。

(10)前回の訂正:前回のブログ「2020年東京オリンピック」に入力ミスがありました。読者の方々にお詫びして訂正させて頂きます。(5)加えはいます。→加えてはいます。および(6)の最後、考えなければないと思います→考えなければならないと思います。(この回終り)

(163)参院選管見−これからどうなる

④−7 安全保障−外交

 安倍首相は、26日、国連総会で一般討論演説を行ない、「日本は“積極的平和外交”に乗り出す”ことを表明した。”積極的平和外交”というのは首相が最近安全保障問題に絡んで使い出した用語だが、内容はよくわからない。英文textでは Japan will newly bear the flag of “ Proactive Contribution to Peace “. となっている。newlyと言っているから、これまで日本政府が推し進めてきた平和憲法に基づく外交を一層強化することとは異なるようだ。

 1956年の暮れに日本が国連に加盟を認められた翌年、岸内閣の下で発行された最初の「外交青書(わが外交の近況)」は、日本外交の基調として ① 国連中心主義 ② アジアの一員としての立場の堅持 ③ 自由主義諸国との協調 の3原則を掲げた。これは日本国憲法の基本精神と完全に一致していた。3原則は、この憲法が国連憲章の精神を引き継いだものだから当然のことであった。歴代の政権が、真摯にこの3原則に沿って外交を展開していれば、日本は世界に信頼される国になっていただろう。自民党政権にしてみれば、色々事情はあったろうが、現実にはそうはならなかった。

 現実にはどうであったのか。元外務省国際情報局長で元防衛大学校教授の孫崎享は、「戦後の日本外交を動かしてきた最大の原動力は、アメリカからの圧力と、それに対する“自主路線”と“追随路線”の相克だった。」の述べている(戦後史の正体 創元社)。この著者によると、自主路線派は、重光葵、芦田均、鳩山一郎、石橋湛山、田中角栄、細川護煕、鳩山由紀夫の各首相であったという。これらの首相は、吉田茂に始まるいわゆる保守本流ではなかったから、日本の外交は大筋として”対米追随路線“であったということになる。私はNHK国際局に在勤中ほぼ毎日、膨大な外国通信社の原稿を読んで世界情勢をwatchしたが、特に、Washington発のby-line(記者の署名入り原稿)に注目していた。日米貿易交渉などの記事を読みながら、どうして日本側はこうも弱腰なのかと情けない思いを抱かざるを得なかった。  孫崎は、貿易交渉に当たった大蔵省の担当者の話を引用して「アメリカとの交渉で、今度は勝てるかもしれないとがんばる。とたんに後ろから矢が飛んでくる。首相官邸からだ。『もうそれ以上はやめておけ』というのだ。そんなことが何回あったか分からない。」と回顧している。そうした中で、アメリカ側が“tough negotiator(手ごわい相手)と認めたのは、私の知る限り、小沢一郎だけだった。小沢は自主路線派の田中派の番頭格であり、国連中心、アジア重視を外交の基本としている。

 吉田茂が言うように、敗戦国が占領軍に反抗することは事実上不可能であった。占領軍総司令官のダグラス・マッカーサーは、日本の軍国主義を根絶し、自由主義陣営における民主主義国家のモデルに育て上げるという方針を、朝鮮戦争の勃発によって放棄し、日本政府に事実上の再軍備を命じた。保守陣営の復古組や旧軍グループがこれに同調し、日本はアメリカの世界戦略にがんじがらめに組み込まれていくことになる。アメリカは都合のよいときだけ都合のよいように国連を利用し、大体は無視、場合によっては脱退の脅しをかけてきたから、アメリカに追随する日本の3原則の ① 国連中心主義 は破綻する運命にあった。

 朝鮮戦争の休戦後、アメリカは、中国の影響力が東南アジアに及ぶことを恐れ、1954年この地域の親米政権に東南アジア条約機構「SEATO」を結成させた。いわゆる共産主義“ドミノ”への対抗策であったが、東南アジアの中心部に位置するインドシナ半島は、ベトナム戦争で、中国の支援を受けたホー・チ・ミンによって制圧された。この結果、アメリカの対ソ戦略の一環であった日米安保条約は、中国封じ込めの手段となり、現在に至っている。これによって、3原則の ② アジアの一員としての立場の堅持も難しくなった。

 こうして残ったのは、③ 自由主義諸国との協調のみとなったが、その中核は、アメリカの外交・軍事戦略への隷属に他ならず、アメリカ追随外交は、「日米同盟の深化」という名の下に、その度合いを強めつつ、敗戦後70年近い今日まで続いている。その象徴ともいえるのが、イラク戦争における小泉政権の事実上の”参戦“であった。日本政府は、湾岸戦争で130億ドル(1兆円)という膨大な戦費を負担しながら、「カネでアメリカの若者の血を買うのか」と痛罵され、この後遺症によって、アメリカのイラク侵攻に当たっては、”Show the flag ! ”, “Boots on the ground!”という脅し抗するすべもなく、自衛隊を事実上の戦闘地域へ送ることになった。戦後日本人の精神的支柱になってきた「不戦の誓」はこうして崩れ、平和外交もまた、ご都合主義のお題目となった。本来の平和外交とは、不戦憲法の下に、外国に脅威を与えない平和共存を旨とするものであったはずだ。

 こうした歴史的経緯の中で出てきた「積極的平和外交」という概念が、自衛隊の海外での活動の積極化と結びついていることは間違いないだろう。安倍首相は国連演説の前日、ニューヨークの講演会で、集団自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更に触れ、その中で「私の愛する国を積極的平和主義の国にしようと決意している」と述べている。つまり、自衛隊をアメリカ軍の友軍として世界各地へ派遣することを前提にした外交を考えているのではないか。国会の議論もなく、国民の同意も得ずして、このような国際公約をすることは許されないと私は思う。先のIOC総会での「汚染水をめぐる状況はコントロールされている」という先走り発言に続く暴走発言ではないか。(M)

 

英語の単語を覚えることは忘却への挑戦です。忘却曲線との闘いです。つまり、いかに忘却を防ぐかということが単語の記憶の最大の課題です。そしてその有効な手段は有意味化することだと前回に述べました。では単語の学習をどのようにしたら他の語句と関係づけ、それを有意味化する—つまり自分のすでに所有している構造化された語彙ネットワークの中に統合する—ことができるでしょうか。

これまでの言語心理学的研究から、記憶された語彙は個人の脳の中でさまざまなネットワークを形成していることが分かっています。それを明らかにしようとして古くから使われている研究方法は連想法です。私たちの多くは「寒い」と言われると「暑い」という語を連想します。「成功」に対しては「失敗」を思い浮かべます。高名な心理学者ミラー(Miller, G. A. Language and Communication 1951)による連想の分類を参考にして英語の例を挙げると次のようです。

(1) contrast(対比):man-woman, husband-wife, come-go, give-take, black-white, cold-hot, sweet-bitter, up-down, etc.

(2) similar(類似):father-dad, mother-mom, woman-lady, chair-stool, sky-heaven, pretty-lovely, swift-fast, etc.

(3) subordinate(下位概念):human-woman, animal-cat, flower-rose, tree-oak, fish-sermon, planet-earth, color-blue, etc.

(4) coordinate(等位概念):bird-fish, cat-dog, apple-peach, lettuce-tomato, rose-tulip, lady-gentleman, cup-saucer, bread-butter, etc.

(5) superordinate(上位概念):apple-fruit, spinach-vegetable, panda-animal, boy-human, trout-fish, table-furniture, etc.

(6) assonance(押韻):boy-toy, pack-tack, bread-spread, seeing-believing, handsome-lonesome, diligent-intelligent, etc.

(7) part-whole(部分と全体):door-house, petal-flower, nose-face, string-violin, minute-hour, day-month, town-city, etc.

(8) completion(完成):basket-ball, black-board, boy-scout, fox-hunter, control-tower, yellow-card, Zen-Buddhist, etc.

(9) word derivatives(語の派生):run-ran, swim-swimming, mouse-mice, beauty-beautiful, careful-carefulness, etc.

(10) predication(主述関係):dog-bark, cat-mew, spring-come, summer-hot, student-study, mountain-lofty, etc.

上記の分類はよく考えられてはいますが便宜的なものです。すべての連想語がこの分類にうまく当てはまるわけではありません。たとえばchairの刺激語に対してbrokenが連想されたとすると、それはたぶん「主述関係」に分類されるでしょう。しかしgrandmaが連想されたとすると、それはどの項目に該当するでしょうか。そういう連想は必ずしも突飛なものではありません。被験者はchairという語から、かつて祖母が座っていた椅子をイメージしたのかもしれません。私たちの日常的連想は実に自由で多様ですから、異なる観点からすると、また別の分類も可能かと思われます。しかし語の連想に関するこれまでの研究によって、人は語を有意味なものとするために、「対比」(contrast)と「グループ分け」(grouping)という2つの基本的な認知操作を行うことが分かっています。

第1の「対比」というのは、「暑い—寒い」のように、意味的に両極にあるものが互いに連想を引き出すことです。すべての言語は多数の形容詞の反意語を持っています。そしてそれらが互いに連想反応を引き起こします。これは明らかに言語に関する普遍的現象の一つとして挙げられます。いま筆者の手許にあるJames Deese, The Structure of Associations in Language and Thought (1965) に、相互に高い頻度で連想反応を引き起こす一般的な英語形容詞のリストが載っています。それを以下に資料として挙げておきます。単語帳やカードを使って記憶しようとする学習者は、反意語のある語については、それを並べて書いておくことをお薦めします。

alone – together / active – passive / alive – dead / back – front / bad – good / big –little / black – white / bottom – top / clean – dirty / cold – hot / dark – light / deep – shallow / dry –wet / easy – hard / empty – full / far – near / fast –slow / few – many / first – last / happy – sad / hard –soft / heavy – light / high – low / inside – outside / large –small / left – right / long – short / married – single / narrow – wide / new – old / old – young / poor – rich / pretty – ugly / right – wrong / rough – smooth / short – tall / sour –sweet / strong – week / thick – thin

(次回は第2のGroupingの説明に入ります。)

(162) オリンピック‐2

Author: 松山 薫

(162) オリンピック‐2

② 失われたオリンピックの理念

 近代オリンピックの創始者、クーベルタンは、フランスの貴族で、当時の慣習に従って士官学校への道を奨められたが、これを嫌って教育者を志した。イギリスのパブリックスクールを視察中、ラグビーを見て、スポーツが人間形成にはたす役割の重要性に気づき、やがてオリンピックの復活に力を注ぐことになった。オリンピック憲章には、彼の教育者としての理念が強く反映されている。憲章の「根本原則」として、オリンピック精神とは「人間の尊重に重きを置く平和な社会の確立」であり、オリンピック運動の目的は「相互理解に基づくスポーツを通して、平和でよりよい世界を築くことである」と謳っている。1925年に採択されたこの憲章の精神と目的は、現在の国連憲章や日本国憲法の精神と目的に完全に一致している。

 近代オリンピックを創設するに当たって、クーベルタンは古代オリンピックの聖地アテネのあるギリシャ国王と開催地をめぐって激しく対立した。ギリシャ国王は、古代オリンピックと同様、近代オリンピックも開催地を常にギリシャにするよう強硬に要求した。しかし、5大陸をあらわす5つの輪の五輪旗の発案者であるクーベルタンは、世界各地での持ち回り開催の理念を貫いた。

 クーベルタンのスポーツによる人間形成、世界平和への思いに共鳴したのが、日本では講道館柔道の創始者、嘉納治五郎であった。教育者として通算25年にわたって東京高等師範学校の校長を務めた嘉納治五郎は、クーベルタンによって、アジアで最初のIOC委員に任命され、死の直前までオリンピックの東京招致に尽くした。講道館柔道の根本原理は「精力善用」「自他共栄」であり、オリンピックの「根本原則」と通底している。

 オリンピックは長くアマチュア選手のスポーツ大会であった。日本最初のオリンピック選手は、東京高師の学生でマラソン世界記録保持者の金栗四三であったが、貧乏学生の金栗には渡航の費用がなく、全学挙げての募金活動によって第5回ストックホルム大会(1912)に送り出された。しかし、レースでは酷暑と睡眠不足によって26キロ付近で失神して近所の家に運ばれ、「消えた日本人」として記憶された。それから半世紀あまりたって1967年、金栗は再びストックホルムで開かれた第16回オリンピックに来賓として招待された。75歳の金栗は、競技場のゴールの手前から100メートルを走ってテープを切り、「日本の金栗、ただいまゴール、タイムは54年8ヶ月5時間32分、これで第5回ストックホルム大会の全日程は終了しました」という場内アナウンスが流れたという。東京オリンピックで私は、同窓の後輩であり、嘉納師範直系の柔道部出身者として、この話を心に刻んで取材し、何人かの外国人選手や役員に話したところ、”That’s the Olympic spirit! “ということで、後の話がうまくいったこともある。

 1974年の憲章改正で、プロの参加が認められるようになってから、メダル獲得競争による国威発揚や勝利至上主義によるドーピング問題がオリンピックの理念に影を落とすようになった。プロ化とTVの発達による大規模化を経済効果に結びつけたロサンゼルス・オリンピック以来、サマランチIOC会長の下で商業主義化が進み、オリンピックは利権の巣となり、数々のスキャンダルを生んできた。オリンピックは「憲章」や「根本原則」からどんどん遠ざかって、このままでは国威発揚のための巨大なスポーツ・ショーと化すのではないかという声が聞こえる。もっとも、「金持ちの都市や企業が金を払って、世界中の人が一流のショーを楽しむということでよいのではないか」という声もあるが、私はスポーツ選手は芸人ではないと思うしオリンピックは芸能ショーではないと考えている。IOC「根本原則」(6)が言うように、スポーツは fair play の原則がなければ成り立たないからである。

 fair playによって成り立つはずのスポーツの最大最高のイベントであるオリンピックを招致する為の最大の決め手がIOC委員へのlobbying(議員・委員らへの非公式な働きかけ)だというのが私には不可解である。IOCは国際委員会と名乗っているが、委員は各国の推薦や選挙によって選ばれるのではなく、内部の推薦で決まり一旦委員になれば80歳まで勤められる。開催希望国が少なく、時には立候補ゼロが心配された時代ならそれでよかったかもしれない。ロサンゼルス大会以来巨大化してオリンピックがうまみのあるイベントになってからは、開催国の決定に絡んで常にIOC委員の贈収賄が取り沙汰されることになった。サマランチ時代には16人のIOC委員が疑惑の対象として調査され、6人が除名された。IOC委員の1人はTVのインタビューで、今回もすれすれのことが行われたと述べている。
(スキャンダルの内容についてはSee「神々の崩壊」田中宇 風雲社)

 2020年の東京大会は7月下旬から8月上旬に開催される。熱中症が猛威を振るう酷暑の時期の開催は誰が考えても不適切だが、これは東京の招致委員会が提案し、IOCが決定したものだ。そうせざるをえなかったのは、最大のスポンサーであるアメリカのTVネットワークの意向を無視することができなかったからだといわれる。  

 前回の東京オリンピックには、アジアで初めての大会という絶対的な大義名分があったし、 軍国主義日本が平和国家として甦った姿を世界の人達に知ってもらうというオリンピック憲章の精神に合致する意義があった。4年前のIOC総会で東京が落ち、リオデジャネイロが成功したのは、南米大陸では初めてという大義名分があったからだ。今回の総会では、イスタンブールがイスラム圏で最初のオリンピックという大義名分とアジアとヨーロッパを結ぶ架け橋という意義を唱えて立候補した。東京にはそのような大義名分はなかった。そこで考え出したのが、“東日本大震災からの復興”であったが、これが、福島原発の汚染水問題につ
いて世界の関心を呼び起こすことになり、招致チィームは火消しに追われることになった。

 このような中で、出てきたのが安倍首相の「状況はコントロールされている」という発言である。質問者はそれ以上追及しなかったし、同行した日本人記者団も沈黙したままだったが、この発言を聞いた日本人の多くは「状況はコントロールされるどころか、ますます悪化している」と思ったただろうし、正確な状況が報道されるにつれて、国外でも「安倍首相はウソをついたのではないか」という疑惑が深まるおそれがある。嘘つき、は英語ではliarであるが、この言葉は日本語よりはるかに強い響きを持ち、時には全人格を否定することさえある。最高責任者の発言だけに、日本の国としての信頼にかかわることになりかねない。

 五輪招致に影響するということで、あえて延期された汚染水問題に関する国会の閉会中審査が近く開かれる。野党には真実を追究する責任があるし、安倍首相には説明責任がある。2020年東京オリンピックが unfair な方法で招致されたという疑惑を払拭し、選手はもとより、多くの国民が、一点の曇りもない心でオリンピックを迎えられるよう、真実が明らかにされることを切に期待したい。(M)

  

単語帳や単語カードを作って単語を覚えても、しばらくするとほとんど忘れてしまうという経験は誰もが持っています。前に覚えようとしたことがあるのに、その単語に初めて出合ったような気のすることがあります。また、以前に覚えた単語だということは分かっても、肝心の覚えた内容が思い出せないこともあります。実際のところ、私たちは覚えたものをどのように忘れ、また保持するのでしょうか。

単語の記憶と忘却に関してはこれまで多くの実験研究がなされています。初期になされた最も有名な研究はエビングハウス(Ebbinghaus, H. 1850−1909)のものです。彼が1885年に見出した忘却曲線と呼ばれるものがありますが、それは現在でも多くの研究者によって支持されています。それは、覚えた単語が時間の経過とともにどのように忘れられていくかを示すカーブです。学習の条件によって忘却率(または把持率)は違ってきますが、曲線そのものの基本的な形は変わりません。それはおよそ次のように述べることができます。

「無意味綴りの学習に関しては、その忘却曲線は学習中止直後に急速に下降し、時間がたつにつれてその下降は緩やかになる。有意味綴りの学習に関しても、その忘却曲線は無意味綴りの場合とほぼ同様の下降傾向を示す。しかし忘却の程度は、無意味綴りに比べてずっと低い。」

これについては若干の説明が必要でしょう。エビングハウスの実験は「子音+母音+子音」からなる彼独自の無意味綴りの音節を使ったものでした。彼は自分自身を被験者とし、13個からなる無意味綴り8系列の詩の形をしたものを完全に暗唱し、そのあと一定時間後にその材料を再学習し、第1回の成績と比較して忘却率を次のように計算しました。

33分後41.8%;1時間後55.8%;8.8時間後64.2%;24時間後66.3%;48時間後72.2%;6日後74.6%;31日後78.9%

この無意味綴りの記憶実験は、①学習直後に忘却が急激に進んで、1時間後には50%以上が失われること、②その後忘却は緩やかになり、1カ月後には20%くらいしか思い出せないこと、を示しています。

記憶する材料が有意味綴りの場合にはどうでしょうか。エビングハウスの後に行われた多くの実験から、有意味綴りの語についても無意味綴りに似た忘却曲線が得られることが分かりました。しかしその忘却の程度はずっと緩やかで、把持率が高くなります。最初の急激な曲線の下降も分や時間単位ではなく、日数や週単位になります。筆者が以前教えていた生徒を対象にした未知語の記憶実験では、最初の1日で30%~40%が失われましたが、その1週間後に行った再テストでは、最初に記憶した単語の約50%が保持されていることが分かりました。ただしこの数値は、記憶する有意味材料の性質、被験者の学習段階、実験方法などによって違ってきますので、絶対的なものではありません。重要なことは、記憶したものの多くが学習終了直後に失われますが、その全部が失われるわけではなく、かなりのものが長期間保持されるということです。単語の覚え方を工夫すれば、保持の期間はさらに延長されることが分かっています。

どんな工夫をしたら語の把持率を高めることができるでしょうか。これについて最近いろいろな研究が行われていますが、最も重要なことは、記憶したい語を有意味化することです。記憶した語の忘却率と把持率は、それらが無意味か有意味かによって違うのです。無意味綴りでは学習直後に半分くらいが忘れられるのに対して、有意味綴の場合には半分くらいが長期にわたって把持される可能性が高くなります。中学生や高校生が用いる単語帳や単語カードは、英単語の綴り字とその日本語訳が書かれているものが大部分です。その方法では一つずつバラバラに記憶しなければなりません。無意味綴りを覚えるのとほとんど変わりません。もっと工夫をする必要があります。そのポイントは記憶する単語を有意味化することです。

新しい語の知識を有意味化するとは、一口に言うと、その知識を自分のすでに所有している、もっと大きな構造化された知識に統合することです。たとえばmemorizeという単語を覚えるとき、これを単独で覚えた場合の把持率は無意味綴りと同じ50%以下ですが、それを自分のすでに持っている知識と関連づけることができれば(たとえばmemoryという名詞の動詞形として関連づけて覚えるなどすれば)、長期にわたって50%以上の把持率を保つ可能性があります。そういうことについて、次回にもう少し詳しく述べることにします。(To be continued.)

(1)日本中が、まだ“2020 Tokyo”の決定に酔いしれている感じがありますが、私はとてもお祭り気分にはなれません。第1に疑問に思うのは、どうしてオリンピックを7.8月の東京でやることに同意したのかということです。今年の夏は特に“ゲリラ豪雨”が多くて、島根県や秋田県などでは各所の土砂くずれで家まで流されるような大きな被害が出ました。

(2)敗戦直後は、“国敗れて山河在り”と言われたものですが、現在はその山河さえ形を変えているのです。「7年後にはそんな天災はない」とは誰も断言できないと思います。安倍首相は単純な思考力の人物ですから、「福島の原発事故など制圧している、東京には何の影響もない」と本当に信じ込んでいるのでしょう。“オリンピック招致による景気回復”しか頭に無いことは明白です。

(3)西アフリカのガーナ共和国でのサッカーの国際試合の実施には、欧米諸国から反対論が出ているとの報道がありました。最高摂氏40度を越すような地域でサッカーの試合をすることは、欧米の選手にはとても不利だからです。どこの国でも、自国の選手の有利な点を主張するのは国際試合ではよくあることです。

(4)最近の日本の天気予報では、「本日の最高気温は35度を超えます。関東以西では“運動禁止”となっています」のように言うことが多いのですが、法律的な強制力はありませんから、「運動会の予行練習をした中学校で、多くの生徒が熱中症で病院に送られた」といったことが後からニュースになるだけです。
どうしてこういう予報に強制力を持たせるような法律ができないのかと不思議に思います。

(5)最近の安倍政権は、議会を開かずに、閣議決定で出来ることだけさっさと決めてしまいます。野党の民主党が及び腰で反対を主張していましたが、相変わらず党内のまとまりは無いようです。さすがに最近の主要新聞の社説などでは、「国会を開いて、堂々と議論せよ」といったことを書いているようですが、安倍首相はどこまで聞く耳を持っているのでしょうか。いかにも国民の声を聞くふりをして、多数の委員を任命して、中には安倍政権の方針に反対の人も加えはいます。しかし、無視出来るような少数派に過ぎません。

(6)これまでも、東京一極集中には批判があったのに、これからは、大手ゼネコンがオリンピック関連施設の工事を始めれば、3.11の大地震被災地の復興はますます遅れてしまうでしょう。国民のめいめいが、東京オリンピックが何をもたらすかを真剣に考えなければないと思います。

(7)私は、1964年の東京オリンピックのときは中学校の教員として団体見学の生徒を引率した経験がありますが、団体扱いでは生徒の希望など考慮されずに、割り当てられた競技しか見学出来ませんでした。招致のためのプレゼンテーションがうまくいったからといって、全てうまくいくとはとても思えないのです。実際は問題山積だと思います。(この回終り)

(161)オリンピック

① オリンッピックとナショナリズム

 2020年のオリンピック夏季大会の東京開催が決定した。マスメディアは、日本中が祝賀ムードに沸いているように伝えているが、本当にそうだろうか。少なくとも明日の生活に追われている人達の多くにとっては、どうでもよいことなのではないか。また、今の日本には、オリンピックより先に解決しなければならない重要な問題が山積していると考えている人達も大勢いるはずだ。汚染水問題で事実上禁漁を強いられている福島の漁民はどう考えているのか。スポーツやお祭り騒ぎに無関心な人達がいても不思議はない。それが、多様な価値観を尊重する民主主義社会の当然の姿である。私自身は、オリンピック開催の意義は十分理解しているつもりだが、(2012-6-9 オリンピック 取材余話)、東京開催がこの国に何をもたらしたのかを7年後に検証するまで、単純に喜ぶことはできない。

 私が今最も気がかりなのは、「強い日本を取り戻す」として国家主義的な傾向を強めている自民党政権が、オリンピックを、異論を排除し、挙国一致体制をつくりだすために利用するだろうということだ。自国の選手を応援するのは素朴な国民感情だが、それをどこかで巧妙に操るものがいると考えておいたほうがよい。日本選手が活躍し、日の丸が掲揚され、君が代が吹奏されれば、多くの国民が素直に、或いは熱狂的に感動し、現在残っている、日の丸、君が代の国旗、国歌制定の不公正な経緯に対する基本的な疑問もどこかに吹き飛んでしまうだろう。

 私は、ニュース映画で見たベルリン・オリンピックで、ハーケンクロイツのドイツ国旗が乱舞し、ハイル‐ヒトラーの声が鳴り響いた光景を忘れない。ナチスはベルリン・オリンピックを最大限に利用して、民族浄化を強行し、異論を排除して国論を統一し、それを背景にして独裁を強化し、ワイマール憲法の人権条項を停止することで事実上骨抜きにして、第2次世界大戦へ向かったのである。

 安倍首相の近著「新しい国へ‐『強い日本を取り戻すために』」の中に、「ナショナリズムとは何か」という一章があり、その冒頭は「日本が輝いたときー東京オリンッピック」となっている。小学校の4年生だった安倍少年は、オリンピックでの日本選手の活躍を見て、世界の中で小さな国だと思っていた日本が、世界に向かって存在を誇示していることを誇らしく思ったと述懐している。つまり、彼の中ではこの時からずっと、オリンピックはナショナリズムと結びついている。この本の中で彼はナショナリズムを“民族主義”と訳しているが、nationalismの第1義は、国家主義或いは国粋主義であり、民族主義と訳されるのは、植民地などが国家として独立を求める場合の用語である。いずれの場合も国家第一主義であることに変りはなく、事実この本は彼のいう「強い国を取りもどす」とは、国家を第一義にすえた国作りの推進である。オリンピックがそのために利用されることは間違いないだろう。

 
 それにメディアが拍車をかけることになりそうな情勢である。4年前の招致運動の際には、150億円近い招致費の乱用や経理書類の紛失などメディアにも、何故今オリンピックなのか、何故名古屋や大阪はだめで東京なのかという批判がみられたが、今回は、東京都民の支持率が70%を超えた頃から、メディアは挙げて東京招致の応援団と化した。私はここに日本のメディアの本質を見る気がする。日本のメディアの特色は、共産圏の政府系新聞を除くと、他に例を見ない大部数を発行していることだ。それゆえに、国民の意向が一定の方向に動き出すと、それに逆らえば存立の基盤がゆらぐ。世論に迎合せざるをえなくなるのである。NHKは視聴料が基盤だから尚更そうなる。それらのメディアに登場する有名人士からお笑い芸人まで、その空気を読めなければ、お呼びがかからなくなるから、迎合的になる。こうして異論は押し流され、気がついたらもはや傍観者は”非国民“、反対者は”国賊“と呼ばれかねない事態になっているかもしれない。それは、言うまでもなく”いつか来た道“である。

 リオデジャネイロでの記者会見で、安倍首相は、福島原発での汚染水漏れについての外国人記者の質問に、両手を胸のところまで挙げ、それを山なりに両側に下して、英語で”under control “と答えた。The fire is now under control. と言えば、”鎮火した”という意味だ。国民は誰もそうは考えていないだろう。この発言が招致の決定的要因だったという報道はあったが、少なくとも当日、「おかしいのではないか」と疑問を呈した報道は見当たらなかった。わずかに、NHKTVニュースの中で、付けたしのように、漫画家のやくみつるが、それならそうと安倍首相は、まず国民にきちんと説明すべきだとの述べているのを見たが、私も同感だ。安倍首相はウソをついて、オリンピックを招致したという疑いが拭えない。

 文芸評論家の斎藤美奈子は「この半年、『国威発揚』『翼賛報道』に近かったのは、東京五輪招致報道だ。反対者は非国民扱いされかねない勢いだった。」とふりかえり、東京招致決定で、メディア挙げての祝賀報道によって、反対者はさらに抑圧されるのではないかと懸念している(朝日新聞9月10日「戦後68年の夏」)。この国の民主主義の基盤を根底から覆しかねない危険な状況の兆しだと私は感じている。 (M)

Q1: (中学2年生)英語の単語が覚えられなくて困っています。覚えてもすぐに忘れてしまいます。中学3年間で1200もの単語を覚えなくてはならないそうですが、私には無理なように思えます。単語を覚える良い方法があったら教えてください。

Q2: (高校1年生)高校の教科書には新語が多く、覚えるのが大変です。友人は単語帳を作って覚えていると言いますが、あれって本当に効果があるのでしょうか。

A: 単語を覚えるにはどうしたらよいか? これはおそらくすべての英語学習者にとっての最大の課題です。そして単語を覚えようとして誰もが思うのは、それが多くの時間とエネルギーを消費する根気を要する学習だということ、しかも自分の記憶力が貧弱なことを思い知らされるつらい経験だということです。先の中学生の言うように、覚えてもすぐに忘れてしまうのです。そしてどうして私はこうも記憶が悪いのだろうかと、しばしば嘆くことになります。しかし、単語が容易に覚えられないというのは極めて正常なことなのです。あなたの記憶システムに問題があるわけではありません。このことを初めにしっかり心に留めておいてください。

そこで英語学習を始めるにあたってまず知っておくべきことは、単語の記憶はすべての人にとって難しいということです。例外的に単語の記憶を得意としている人がいるかもしれません。そういう人は記憶すること自体に異常な興味を持っていて、それを自分の特技として発達させた人です。記憶術などを研究している人はそういう特技を持っています。しかし普通の人は単語の記憶などに興味を持つことはできません。できるだけ能率よく覚えたいというだけです。単語の記憶がなぜ面白くないかと言えば、単語というのは恣意的な記号に過ぎないからです。たとえば「本」という物を日本語で「ホン」と呼び、英語で [buk]と呼ぶのには何の必然性もありません。その呼び方は各言語で定められた恣意的な記号なのです。人間の脳はコンピュータと違って、そのような恣意的な記号を記憶することを得意とはしていません。そして人間は残念ながら忘却を防ぐことができません。

さてそのような恣意的な記号である単語を記憶するにはどうしたらよいのでしょうか。Q2の高校生は単語帳を作るのがよいかどうか迷っているようです。まずこの問題から考えてみましょう。単語帳(または単語カード)と言ってもいろいろありますが、いちばんよく見るのは<例1>のように単語の綴りと意味が書いてあるものです。<例2>のように発音記号と品詞を書いて、それも一緒に覚えようとする人もいます。

<例1>memory 記憶  <例2>memory [mém∂ri](名詞)記憶

どちらがよいでしょうか。<例1>では学習者が学ぶのは日本語に対応する英語の単語だけです。後にその単語に出合ったときに、たまたまその語を思い出せれば役に立つこともあるでしょう。単語テストの事前準備としてなら、それが大いに役立つ可能性はあります。しかしその単語がいろいろな場面で使えるようになるかどうかは、依然として疑問です。<例2>のように発音記号を書くのはどうでしょうか。発音記号というのは発音の補助記号ですから、本来それほど苦労して記憶するほど重要なものではありません。発音に特別な注意を必要とする語を除いては、全ての語に発音記号を付すのは無駄な努力です。これに反して「名詞」というような品詞を付記するのはよい工夫です。なぜなら、すべての単語は「品詞」という文法特性を所有しており、品詞の知識なしに語は使えないからです。

さて、こういう単語帳や単語カードを作り続けるにはかなりの時間とエネルギーを必要としますので、先生方の中には、それを作ること自体が単語の学習になるはずだと考える人がいます。また生徒のほうも、出来上がったものを眺めて、自分は真面目に学習に取り組んでいるという自己満足が得られます。しかしその努力の実際の効果はどうなのでしょうか。それで本当に英語の単語を覚えたことになるのでしょうか。

これらの問いに対する納得できる答えを得るためには、意識的な努力によって記憶された単語のリストがどれだけ長く記憶に留まり、その後の個人の言語使用にどれだけ役立つかを明らかにしなければなりません。そこでまず、これまでの研究で確立している「忘却の法則」から始めることにします。人間の記憶には忘却という特性があります。忘れることは人生の一部です。単語の記憶においても、私たちは忘却の法則を免れることはできません。(To be continued.)

(160)参院選管見

④−6)社会保障制度−現代の“姨捨”は避けられるか

 年金や医療それに失業保険などの制度が整ったのは1960年代のことだから、私が教師を辞めて失業した時には不備だらけで、ほとんど役に立たなかった。医療保険の高額補填制度などはなく、公立学校共済会の20万円足らずの退職金は母のクモ膜下出血の治療費に瞬く間に消えた。後はまさに孤立無援、自己責任の戦いとなった。失敗すれば一家心中に追い込まれる。それを思うと今日の社会保障制度が大多数の国民にとって不可欠の存在であることは間違いない。問題は、保険料の額と制度の持続性である。10年前に自・公政権が“年
金百年安心プラン”なるものを発表したが、誰も信じなかった。不信を反映して国民年金の納付率は右肩下がりで昨年も60%を割り込んでいる。

 社会保障制度、なかんづく医療保険制度によって日本人の寿命は延びて世界一・二の長寿国となった、一方で、社会保障制度の拡充に伴って国家財政の負担は膨張を続け、いまや国家予算の3分の1、30兆円に達し、今後も毎年3兆円のペースで増えるという。すでに1000兆円を超えた財政赤字は、社会保障制度をこのままにしておけば、後代に持ち越されて大きな負担になるだろう。また、国の借金は国債によって賄われるから、世界経済の変動によって国債の金利が上がれば、膨大な国債の利払いがかさんで国家財政は破綻する。つまり、ギリシャの二の舞だ。(そうはならないと言う経済学者もいることはいる)

 誰が考えてもなんとかしなければならない中で、政府の「社会保障制度改革国民会議」は先月、「生産世代がリタイアした世代を支えるという従来の方式から「各年代が所得に応じて保険財政を支える」という方向転換と、① 窓口負担や医療保険料の引き上げ ② 介護サービスの縮小 ③ 年金給付年齢の引き上げと給付額の減額などを中心とする具体的な提案をした。政府はこれに基づいて2~3年をかけて関連法案を国会に提出する。民主党は、税金による最低保証年金制度の創設や後期高齢者医療制度の廃止が盛り込まれていないとして、「国民会議」から離脱した。私も民主党の提案の方がベターだとは思うが、衆参両院選挙で誕生した巨大与党の前にまさに”蟷螂の斧”で、改革はこの方向で進むだろう。

  一方、財源となる消費税の増税については民主党も賛成しており、政府が設けた「60人の消費税ヒアリング」でも、増税そのものに反対したのは2人だけであったから、時期はともかく増税は必至で、高負担・中福祉への転換は決定した。この方向で進めば、団塊の世代が後期高齢者になる10年後には、消費税の更なる引き上げと福祉サービスのカットにより、高負担・低福祉になっている可能性が高いことは容易に推測できる。

 そこで、高負担・低福祉を補う一番手っ取り早い手段として家族制度の復活、なかんずく扶養義務の押し付けが考えられている。現在の法律でも家族の相互扶養の義務は定められているが、実際には機能していないので、自民党の草案では憲法上の義務とすることを考えている。

 敗戦後、アメリカ占領軍は、家父長的家族制度が戦前の日本の封建思想の温床だったとして、戸主制度を廃止、日本政府は民法の改正によって財産の均等相続、男女同権と夫婦中心の家族制度に改めた。新しい家族制度と経済発展による所得の増加、人口の都市集中と住宅難解消のための団地建設、一方では農村の過疎化で核家族化が進んだ。総務省の調査によると今年3月の1家族の平均人数は2.32人で過去最低を記録している。またこの調査では、65歳以上は総人口の24.4%と4人に1人と迫り、過去最高になった。一方で生産人口は始めて8千万人を割り、2.56人で高齢者1人を支える構造になっている。この構造変化は今後さらに進むから、消費税を少々上げたところで、社会保障制度の破綻は避けられない。 で、家族制度の出番となる。

 国家財政の無駄を省き、それでも足りないのであれば、私は家族が経済的に助け合うことに必ずしも反対ではない。しかし、それには、誰が、どこで、どのように、支えるのかを明確にしておかないと、家族の特定者に負担が偏り、親はそれが心理的負担になり、事実上「年寄りは死んでください国のため」ということになりかねないと私は思う。

 高齢化社会を考える時、思い出されるのは、深沢八郎の小説「楢山節考」である。70歳の母親を背負って山へ捨てに行く長男「辰平」の思いを、核家族が普通になったいま、ほとんどの人達は想像できないのではないか。我々昭和一桁世代の長男の多くも、「辰平」と本質的にかわらない苦労をしてきた。戦前・戦中の家族制度では、封建時代からの嫡子相続制が引き継がれていたが、相続するものがない大多数の長男には、家族を扶養する義務だけが残った。長男は長女と結婚すると両方の両親4人を扶養する義務があった。その上、幼い弟妹がいれば、それも養わなければならなかったのである。長男と結婚した長女も4人の両親の介護で自分の人生の大半を犠牲にすることが多かった。前にこのブログで、亡くなる直前「お互い長男だったから苦労したよな」と言ってかすかに笑った義兄のことを書いたが〔2011−8−13軍人だった先輩達〕、通夜の晩、かなり酔った私は、最後の感謝の気持ちで義兄の亡骸のとなりに布団を敷いて寝た。夜半に目覚めて、薄明かりの中で白布に覆われた義兄「善平」の横顔を見ているうちに、何故か、映画「楢山節考」の辰平の顔がダブって、胸が詰まった。(M)