Archive for 4月, 2016

<統計数字の裏に見えるもの ⑥ 大學進学率>

 調査とか統計の数字は、前提条件に問題があるものも多いから、そのまま信じるわけにはいかないが、社会の動きを知る上で欠かせないものの一つではある。今回は大学への進学率をとり上げたい。

1.大学(含む短大)への進学率 (含む浪人) : 56.5 % (2015年 文科省) 
 大学学部への進学率 (現役) 48.1% (2014年 文科省)
  専門学校進学率 (現役) : 17% (同上)
  進学年齢人口 120万人
2.各国の大学(高専)進学率と(進学年齢人口)
  アメリカ 71%(440万) 韓国 69%(69万) イギリス 67%(80万)ドイツ 53%(83万) フランス 41%(78万)中国 36%(1880万) インド 20%(2120万)
  * UNESCOの2012年の調査によると世界平均は 42.24%
  
 日本には、大学が779校、短大が346校あって、若者の2人に1人は大学へ行く。私は尋常小学校から高等師範学校まで、全て旧制の学校制度の中で育ったので、大学というのは憧れの対象であったし、大学生はいわばエリートの象徴であったから、若者の半数が大学へ行くという時代の到来には正に隔世の感を覚える。多くの若者が高等教育を受けること自体は喜ぶべきことだと思うが、手放しで喜べないのは大学への進学が経済的な理由で機会均等でないことと、何のために大学へ行くのかについて疑問が残るからである。

 若者の半数が大学へ行くということは、残りの半数は何らかの理由で大学進学をあきらめているということでもある。最大の理由は学費がないからだろう。大学の80%近く、短大のほとんどは私立で大学生の80%は私大生だから、学費がかかる。私立大学の授業料は平均で年間80万円を超え4年間では327万円、国立大学の学費も54万円で4年間214万円、しかもどんどん高くなっている。

 大學進学もカネ次第という傾向に拍車をかけているのが、塾や予備校へ通うための費用である。今や”塾歴時代”という言葉さえあるほどで、小学校はおろか有名幼稚園に入るための塾さえあるという。文科省などの調べによると、学習塾の費用を含めた学費は、幼稚園から大学まで公立で通した場合、1021万円、私立の場合は、文科系で2367万円、理科系で2489万円かかるという。これを就学期間19年で割ると年間、公立で53万7千円、私立理科系で131万円、月割にすると4万5千円、11万円となる。

 雇用者の平均年収が414万円、月額にすると34万5千円だから、平均的な親は、子供の教育費に四苦八苦するし、大学へ進学する子供が複数いたり、親が要介護だったり、家のローンを抱えていれば、まったくお手上げとなる。「国公立大学以外への進学はダメ」という親も多いという。恥ずかしながら私も息子にそう宣言したひとりである。それによって進路を狭めてしまったことは否めないだろう。

 そこで、子供は奨学金に頼ることになり、大学生の2人に1人が奨学金を借りているが、公的な機関である日本学生支援機構の奨学金はすべて返済しなければならないうえ、無利子のものは30%で、70%が利子つきだから、実質的には教育ローンと変わりない。平均借入額は300万円ほどで、月3万円くらい返済しなければならないから、非正規の多い若者の卒業後の生活に重くのしかかる。キャバクラででも働いて早く返さないと人生の設計が立たないと考える人も出てくる。

 返済していない人が33万人滞納額は900億円にのぼるというが、宇宙のゴミと消えた人工衛星打ち上げ費用の三つ分だ。カネの使い方を根本的に間違えているのではないか。機構では、滞納者の多い学校名を公表するらしい。私もかつて、日本育英会(支援機構の前身)の貸与金の返済を怠って、裁判にかけると脅されたことがある。

 大学教育にはカネがかかる。それは当然のことかもしれないが、日本では私的な負担が大きすぎるのである。そのため、同じ世代の中で進学格差が生ずるだけでなく、それが次の世代さらにはその次の世代へ引き継がれ、大きな経済格差を生じていく。日本の教育費の公費負担はOECD加盟34か国中最低水準で、加盟国の教育費の私的負担は平均30%であるのに対して64.7%と倍以上になっており、OECD事務局は、日本では特に就学前と高等教育において私費負担が大きいと指摘している。

 次の社会を担う中核となる人間を育てるというのなら、先ずはイギリス労働党のコービン党首やアメリカ大統領予備選擧で善戦しているサンダース上院議員が提唱しているように金融取引税の新設などによる公立大学の学費無料化を考えるべきだし、給付型奨学金も早く実現すべきだろう。また、企業は私費を投じて修学した学生を採用して利益をあげているのだから、利潤の一部を奨学金として拠出する社会的責任があるのではないか。

 ところで、なんでそんなにカネをかけてまで大学へ行くのか。大学へ行って何を学ぶのか。自民党の代議士が、”大学を出てキャバクラで働く”と発言して非難を浴びたが、非難すれば済む問題ではないだろうと私は思う。

 東京工業大学の三島良直学長は今年の入学式の式辞で、この大学で学ぶ目的は「将来、科学・技術の力で新しい社会を切り開き、より良い人間社会をつくりあげることに貢献すること」であるとのべている。また、東京大学の五神真総長は昨年の入学式の式辞の中で、「知のプロフェッショナルになってほしい」として、1.自ら新しいアイディアや発想を生み出す力 2.考え続ける忍耐力 3.自ら原理に立ち戻って考える力が大切だとのべている。

 だがこれは建前であり、大多数の若者たちが争って大学へ行くのは、言うまでもなくよい会社に就職したいからだ。ベネッセの調査によると、小学生の80%近くが「よい大学へ行くと、(良い会社に入れるなど)幸せになれる」と考えており、それはまた親たちの希望でもあるようだ。大学生一般の希望する就職先の第1位は地方公務員で、いわゆる一流大学の学生は大手金融機関が第一志望だという。つまり学生たちの大多数にとっては、大学は研究や学問の場ではなく、官公庁や企業に就職するためのパスポートを得るための場所なのである。

 日本の大学は、少子化の影響で定員割れのところも続出しているから、何処でもよければ全入状態で、分数の掛け算さえできない学生でも一旦は入ってしまえばトコロテン式に押し出してくれる。.だから何としても4年間大学にしがみついていなければならない。親からの仕送りは20年前の月10万2千円から、現在では7万円と3万円余り減っているから、大学生の生活を支える奨学金とアルバイトの比重が増している。ブラックバイトでも何でもしなくてはならないから、勉強の時間が減る。こういう状態だから、大学とは名ばかりの大学が増える。世界の大学ランキングで、500位までに日本の大学は、11校しか入っていない。

 イギリスの哲学者で社会思想家でもあるジョン・スチュアート・ミルは「大学教育について」のなかで、「自分と家族が裕福になること、或いは出世することを人生の最高の目的とする人たちに大学が占領されないよう絶えざる警戒が必要である」と警告しているが、150年後の日本の大学の姿を見たらなんと言うだろうか。

 異常とも思える現状を変えるには、大学へ行っても、行かなくても、夢をもって生涯を幸せに暮らすことのできる社会を目指すことが解決の本道であると私は思う。ドイツのマイスター制度のようなものを考えたらどうか。匠の長たちの滋味あふれる顔と、汚職の言い訳をする政治家や経済人の顔つきを比べて、どちらが幸せな人生を送ったのかとつくづく思う。(M)
  
* 次回の <統計数字の裏に見えるもの ⑦ 出生率> は5月28日(土)に投稿する予定です。

前回から始めたこのシリーズのタイトルを「私の英語教育時評」に改めます。ご存知のように、「英語教育時評」は大修館の『英語教育』をはじめ、他のいくつかの英語教育雑誌の主要コラムとなっています。それらと区別するためにも、ここでは「私の」を付けたほうがよいのではないかと考え、この桐英会ブログのコーディネーターである田崎清忠氏とも相談し、そのようにいたします。

さて今回は学校における教師間の同僚性(collegiality)の問題を取り上げます。同僚性とは、教師が授業の専門家として成長するために、同僚と協力しながら互いに学び合うことです。筆者は1952年に東京高等師範学校を卒業し、東京のある私立中学・高校の非常勤講師を始めたときから、最後は文教大学大学院の言語文化研究科の教授で終わるまでのほぼ50年間、一貫して教師という仕事に従事しました。その間多くの先生方と同僚になりました。今その方々を一人一人思い浮かべてみて、あの人とはうまく仕事ができた、あの人とはやりやすかったがあの人とはやりにくかったなど、同僚性についてはさまざまな感想を持っています。しかし正直なところ、積極的に同僚と学び合うような関係を築くことができたのはごく僅かで、その点で反省すべきことも多々あります。

同僚性ということがなぜ重要かと言うと、すべての教師は、自己の教師としての専門性を高め授業力を磨き上げるために、絶えず学びを必要としているからです。そのような「学び」が教師の研修のコアです。学びはもちろん一人で行うことも必要ですが、それだけでは不充分です。個性のある教師がバラバラに生徒を指導するのでは、生徒は戸惑うばかりです。昔のエリート校では個性ゆたかな教師に人気がありました。チップス先生もそんな一人でした(注1)。今日でも一部の私立学校には、そのような教師の個性を尊重する気風が残っているかもしれません。しかし現代のより民主的な学校はそうではありません。エリートだけではなく、すべての生徒に一定の学力を保障しなければなりません。特に英語の基礎づくりに関係する中学・高校の英語科では、その指導はある程度統一されていることが重要だからです。

さて教師間の同僚性を高めるためには、同じ学校または学年で、同じ教科を担当する教師たちが互いに授業を見せ合い、意見を交わし、互いに学び合うことが重要です。それを嫌がる教師は現代の教育者として失格です。同僚の中に一人でも授業を見せることを拒否するようなことがあれば、学年または学校全体の協働はうまく機能しません。同じ学科の教師たちは、ウマが合うとか合わないとかの感情的な好悪ではなく、同じ目標に向かって進む同士として、互いに授業に関する知識と技能を分かち合うべきだという論理で割り切る必要があります。自分の授業を他の人に見てもらうことによって、見せる教師は何かを学びます。そして他の人の授業を見ることによって、見る人も毎回必ずいくつかのことに気づき、それが自分の学びに結びつきます。こうして同僚間で授業を見せ合うことが、学校における望ましい同僚性を築き上げる第一歩となります。

ここで日本の教師教育の遅れについて触れる必要があります。日本の小学校・中学校・高校の教師の大部分は大学の学部卒業者ですが、教育を重視する世界の国々では、今や小学校教師ですら大学院修了者が大半を占めるようになっています(注2)。大学の学部卒では、教師の学ぶべき知識や技能が飛躍的に増大している今日では、その内容をカバーしきれないのです。日本の英語の教師も、誰もがすでに気づいているように、英語だけ知っていれば教えられるという時代ではなくなっています。1990年代からの四半世紀に、世界の教育は大きく変化したのです。日本の教育行政は、政府の経済優先政策によって教育予算をできるだけ節約するという方針を取ってきたために、今や教育に熱意を持つ先進諸国にどんどん先を越されつつあります。現在では学部を卒業して教師になっても、とうてい一人前の教師とは言えません。教師の職を得てからも、絶えざる研修が必要です。そしてその研修は一人だけで行うだけでは不充分で、学校全体(少なくとも、同じ学年または教科を担当する教員たち)が協力して、一貫した生徒指導に当たることが必要になっているのです。

そこで教師間の同僚性の質を高めるために、授業の進め方についての情報交換ができる体制を学校の中で整えることが望ましいわけです。小学校では、学級担任がクラスの主要教科を担当するのが普通です。各学年が複数の学級から成る規模の小学校では、同じ学年の教師たちが授業の進め方について頻繁に意見を交わし、優れたアイディアを共有することが必須です。また、同じ学校内の教師たちが互いに授業を見せ合い、意見を交わすという研修活動を日常的に行うことも重要です。筆者は小学校の教育事情には詳しくありませんが、現在は多くの小学校がそのような方向を目指し、また実践しているように見えます。

一方、中学校や高校はもっと複雑になります。それぞれの教師は教科の担当者であり、同時にその一部(中学校ではほとんど)が学級の担任でもあります。ですから中学・高校には教科会議と学年担任会議があって、定期的に担当教員が集まって協議する必要があります。筆者の経験では、中学校の担任会議は行事の計画や実施、また常時発生する生徒指導の問題などに多大の時間と労力を費やす必要があったので、教科会議にはあまり労力をかける余裕がなく、そのほとんどは進度の調整やアンケートの企画・集計などの事務的な処理で終わったように思います。高校では逆に教科を中心に教師が動いていて、学級担任の仕事は教科指導の合間にやっているという感じのようです。そういうこともあって、高校教師の一部に自分は教科の専門家であるという自負があり、他の教師たちとの協調を嫌う人が少なからず存在します。教員の同僚性を築くためにはそういう壁を打ち破ることが不可欠ですが、それをどう打ち破るかは多くの高校の課題となっています。しかし中学校も高校も、改革は不可避的です。

(注1)チップス先生は James Hilton (1900-54)の有名な小説 Good-bye, Mr. Chips (1934)の主人公で、伝統あるパブリックスクールの名物教師。この作品はその後戯曲化され、映画にもなりました。

(注2)IEA(国際教育到達度評価学会)が2011年に実施した数学・理科教育動向調査に関するデータによって、日本の教師教育の水準が極めて低く、憂慮すべき状態にあることが分かっています。この国際調査の対象国は67カ国で、小学校4年の算数では、国際平均で22%の子どもたちが修士以上の学位を有する教師の授業を受け、中学2年生は24%の生徒が修士以上の学位を有する数学の授業を受けています。ところが日本では、小学校4年生で修士以上の学位を持つ教師の授業を受けているのはわずか5%、中学2年生では9%しかいません。これは理科においてもほぼ同様です。ちなみに教育先進国として知られるフィンランドでは、小学校4年生で81%、中学2年生で78%が修士以上の学位を持つ教師の授業を受けています。日本は経済先進国の中ではこの点で最低水準にあり、日本よりも下位にある国々の多くは、アフリカや中東諸国などの比較的に貧しい途上国です。(上記のデータは、佐藤学『専門家として教師を育てる』岩波書店 2015 による。)

2009年に改訂され、2013年度から実施となった高等学校学習指導要領には、「(英語の)授業は英語で行うことを基本とする」という文言が入って物議をかもしました。実施から3年経って、現在の高校現場はどうなっているでしょうか。少しは変化が見られるのでしょうか。教師や生徒が英語の授業でどれくらいの割合で英語を使っているかを調べたものはありますが、実際の英語使用の量的または質的な変化を調べたものは出ていないようです。おそらく、文科省の方針に沿って先導を託されたスーパーグローバルハイスクール(SGH)などの教師たちは、きっと必死になって英語を使って授業をしていることでしょう。しかし実際のところ、それ以外の一般の高校では、従前とそんなに違っていないのではないでしょうか。

「授業は英語で行うことを原則とする」という文言をめぐってなされたこれまでの議論の多くは、授業で使われる英語の分量に関するものでした。たとえば、「教師は英語をどれくらい使えばよいのか」や「どういう場合に日本語を使ってよいのか」、あるいは「生徒にどれくらい英語を使わせたらよいのか」というような、極めて表面的・技術的な議論でした。少数ですが、学習指導要領に書かれたこの文言に真っ向から反対する人もいました。大学の英語教師に多かったようです。日本人に英語を教えるには日本語の知識を利用するのが効果的であり、英語を英語だけで教えるのは非能率的である、という本質論からの反論でした。しかしこの反論は、英語の授業で日本語を効果的に使用すべきだという再反論でうやむやにされてしまいました。

ここで筆者は、「英語の授業は英語で」という文科省の作成した標語は矛盾に満ちたパラドックスであると考えます。それは日本の教育行政を司る権威を持った組織が発する文言だけに、ある意味で危険に満ちたパラドックスでもあります。

「英語の授業は英語で」という文言には、一見してさほど違和感を持つ人はないかもしれません。英語の授業なんだから、英語が授業で使われるのは当たり前だと考えるでしょう。英語の教師たちにもそのように考える人が多いと思います。しかし、この文言が学習指導要領に書かれているものであることに思いを馳せると、「はてな?」と首をかしげるのは筆者だけではないでしょう。なぜなら、学習指導要領は文部大臣の名によって公示される、法的拘束力を持った文書だからです。公立学校の教員がここに書かれたことを無視することはできないのです。教員がそれを口で批判することは許されるべきことですが、それには相当の勇気が必要でしょう。まして、それに反する行為を公然と行うことは許されません。意図的にそれに反する行為を繰り返したときには処罰される可能性があります。ですから、「英語の授業は英語で」という一見無害に思える文言も、法律的な縛り文句となると危険なものになり得ます。これが第一のパラドックスです。

第二のパラドックスは、「英語の授業は英語で」と言われて直ちにそれを実行できる高校教師がどれだけいるでしょうか(注)。文科省はそういう調査をしたのでしょうか。寡聞にしてそういう調査があったとは聞いていません。英検準1級程度以上の高校教員は公立高校で55%くらいいるようですが、その程度の英語力で高校の授業を英語でできるのかどうかは全く不明です。先に書いたように、教師が授業で必要とする英語力と、英検で測る英語力とはかなり違うものです。高校の授業を英語で行うことのできる教師はそれほど多くはないと筆者は推測しています。授業力を高めるための適切な研修を実施すれば、英語で授業を行うことのできる教員はかなり増加するはずです。しかしそのためには、教育行政者と教員の多大の努力とともに、莫大な予算が必要になります。そういう裏付けなしに、この実施の困難な文言を学習指導要領に軽々に載せるというのは、危険なパラドックスであると言わざるを得ません。

第三に、たとい全国の高校で「英語の授業は英語で」が文字通りに実施されることになったとしても、日本人高校生の英語力が一斉に向上するという保証はありません。なぜなら、日本人が英語の学びについていけない最大の原因は学習時間数の絶対的な不足にあるからです。以前にこのブログで検討しましたが、中級程度のレベルを修了するのに最低2,000時間は必要とするというのに、日本の中学・高校で生徒たちが受ける授業は1,000時間にも達しません。学校の授業だけでは、高校生の大部分は中級レベルの学びに入ったところで終わってしまうのです。それはこれまで学校で英語を学んだほとんどの人々が経験して知っていることです。間もなく小学校から英語が教科として学ばれますが、それでも必要な授業時間数が確保されるわけではありません。高度の英語運用力を身につけるには、これまで通り、個人による特別な学習経験が必要なのです。そんなことを文科省の英語教育行政官が知らないわけはありませんから、「英語の授業は英語で」という文言は、意地の悪い逆説的言明としか考えられないのです。これで日本の英語教育が前進するなどあり得ないことです。

(注)学習指導要領に書かれたからといって、英語を使って教えたことのない教師がすぐに英語で授業を始められるものではありません。おそらく、英語を話すことを得意とする一部の教師たちは何かの形で実施をする(または、すでにしている)でしょうが、他の大部分の教師たちは、ほぼこれまで通りの授業を続けていることでしょう。文科省はそのような様子を知って、もっと教員の研修に力を入れなければならないと考えているようですが、それぞれの教師が実際に英語を使った授業展開を経験するというのでなければ、効果は期待できません。よくある講習会形式の研修では、日本人として例外的に英語の達者な先生方の話を聞くだけのものが多いようです。それではたいして研修の成果は期待できません。