Archive for 1月, 2015

(1)名古屋の女子大学生による殺人事件は、世間に大きな衝撃を与えました。しかも本人は、「“誰でもよかった。名古屋大の卒業生で死刑になった者はまだいないだろう”といった趣旨のことを述べている」と報じられました。テレビでもラジオでも、大騒ぎで報道していましたが、すぐに過去の出来事として、忘れ去られようとしています。

(2)私はこういう事件が繰り返されないようにするためには、もっと“人間性の本質に関わる問題”を考えるべきだと思っています。と言いますのは、ちょうど1年前に、女子高校生が同級生を殺した福岡の事件について、このブログで論じたことがあるからです。それは、『母性本能の喪失』と題したもので、「女性の母親としての本能が失われつつあるのではないか?」という問題提起を意図したものでした。人間は動物としての本能を残している半面、発達した頭脳の働き、つまり“理性”のお陰で、お互いの存在を認める態度を守ってきた面があると思います。

(3)ところが近年は、そのバランスが、しばしば崩れてきているのです。私が『母性本能の喪失』と言うのは、女性だけを差別する意識からではありません。男性は外で働いて、家族を養う義務を忠実に果たしてきました。しかし、近年は会社での人間関係がうまくいかずに、家族に暴力を振るったり、分かれ話を切り出した恋人をすぐに殺したりしています。つまり、理性よりも動物的な本能が強く働くようになってきたように思うのです。

(4)話は変わりますが、昨年末に、昨年の1年間で最も顕著なことを1つの漢字で表すと「税」だと発表されました。私は、「税金」の問題も社会問題として看過できないものですが、「ちょっと芸がないな」と思いました。私だったら、“乱”を選んだと思います。“反乱”の“乱”で、昨年から今年にかけて世界中で、“反乱”が起きています。身近な問題では、“日本語の乱れ”があります。不必要で、間違いのある英語の文句を挿入した歌詞の氾濫がその具体例です。このことは、『年末年始のテレビ・ラジオの番組』というブログでも問題にしました。

(5)日本語には、“曖昧性”があることは確かです。しかし、これは必ずしも“短所”ではなく、長所でもあります。年度初めに、新入社員が先輩社員に、「今年入社しました・・・です。よろしくお願いいたします」と挨拶をします。ある日本語の少し分かるアメリカ人から、「誰に何をお願いするのか?」と尋ねられたことがありますが、英語の発想から言えば理屈に合わないことも、日本人同士ならばお互いに了解出来るのです。

(6)国会における審議の中継放送などでは、政治家もやたらと“英語混じりの言葉”を使うことが多いようです。「そんな議員に、教育問題の法律など決めて貰いたくない」と思うのは私だけでしょうか?世の中どこも“乱れて”います。「今のうちに、何とかしなければ、取り返しがつかなくなる」と私は心配します。

(7)「犬の死骸が大量に河川敷などに放棄されていた」というニュースもありました。多数の動物を殺し、その死骸を放棄して平気なような人間は、やがて人間を殺すことも平気になるでしょう。1997年(平成9年)には、神戸で男子中学生による連続殺傷事件がありました(酒鬼薔薇事件)。発端は動物の殺傷でした。こうした行動は、やがて戦争へと発展すると思います。「そんな見方は、自虐的過ぎる」と反論する人もいるでしょうが、私は、世界中が“悲観すべき状態”になっていると考えています。(この回終り)

(217)< 人権大国への道 最終章 >

6.50年後の人権大国を目指して

③ ベクトルを変えるには : 「日本人権党」の創設

 内閣府が昨年6月に行った日本の将来像に関する世論調査によると、「50年後の日本」の未来は現在よりも明るいと思うか、暗いと思うかという問いに対して、明るいと答えた人の割合が33%であるのに対して、暗いと答えた人の割合は60%で、ほぼ2倍に達している。多くの国民がこの国の将来に漠然とした不安を感じているのであるが、私は、これまで述べてきた所与の条件を考えれば、当然だろうと思う。だから私は、この国のパラダイムをなるべく早く変えなければならないと考えるのである。50年後といえば、今年生まれた子供たちが社会の中核を担う時代である。この子供たちに、持続可能な、より良い社会をひきつぐ責任は今社会の中核をなす人たちにある。

 「社会を変えるには」という小熊英二の著書は、新書版売上第一位だということで、日本には”社会を変えたい”と考えている人達が結構いるようにも思える。また、トマ・ピケティの「21世紀の資本」やその解説書が日本でも経済書としては異例のベストセラーとなっていることは、今の世界や日本がどこかおかしい、このままでよいのか、と感じている人が増えていることをうかがわせる。その根底にあるのは、内閣府調査が示すように、この国の現状に対する不満と将来への不安であり、それに正面から向き合おうとしない政治への不信といら立ちの現れでもあるだろう。確かに、次の選挙のことしか頭にない政治家達は目先の対応に追われて、「人口減少」「食糧危機」「地球温暖化」「資本主義の末期症状」「核の脅威」など人間社会が直面しつつある根源的な問題に正面から取り組もうとせず、先送りしている。

 私はこれまでこれらの根源的な問題についてかなり詳しく自分の考えを述べてきたし、社会が向かうべきパラダイムについても自分なりの意見を提案してきた。ではどうすれば社会はかえられるのか。世の中を変えようと思えば武力革命がいちばん手っ取り早いが、ロシア革命は70年ほどで潰えたし、間もなく70年になる中国革命もうまくいっているようには思えない。何故なのか。武力や暴力では、人間の意識は変わらないからではないかと私は考えている。だから、社会を変えるには、意識の変革、発想の転換、つまりベクトルの変更が必要だと思うのである。そして、その役割を果たすのは、政治とマスメディアの影響力を含めた教育である。
 
 政治については、前回述べたように、民意を反映できるような ① 選挙制度の改革 ② 首相公選制の導入 がベクトルの変更に大きな役割を果たすと考えている。ただ、そのような改革が出来たとしても、日本には、いまのところ本当に民意を反映できるような政党がない。そこで私は、「日本人権党」の創設を提案したい。

 私の考える「日本人権党」の綱領の第一は、勿論「人権の尊重」具体的には「いのちをまもる」「4つの自由」の保障であり、目標は、「自由と公正」を規範とする社会の構築である。それはとりもなおさず、今は空文化、死文化している日本国憲法の人権条項の実現ということになる。そしてその中核は、人間同士の殺し合いである戦争を絶対悪とする前文ならびに第9条の遵守である。戦争世代である我々が体験したように、自由も民主も公正も、一旦戦争が起きれば根底から吹っ飛んでしまうからである。

 私は、「日本人権党」の創設に当たっては、西ドイツ緑の党を一つのモデルとして学ぶ必要があると思う。
 西ドイツ緑の党は、1980年3月 下記の4つの原則からなる綱領草案を採択している。
1 自然の搾取、略奪、破壊に抗議し、見渡すことができ、自ら決定し、自給する経済、行政、社会システムを構築する
2 外部からの強制を受けず、人間が自然環境や自らの願望、欲望と調和しながら自らの生を共に連帯して構築する
3 底辺民主主義の徹底。 党役員、議員らの底辺からの絶えざるコントロール
4 非暴力
 緑の党はこれらの原則に基づく理想主義的な運動を展開したがゆえに、現実との相克の中で20年近くにわたり試行錯誤をくりかえしたが、次第に州議会から連邦議会へ進出し、ドイツ政府が脱原発を決定する原動力となった。結党に当たっての綱領草案の精神は今も失われていない。現在緑の党は世界30か国に存在して、国際組織「グロ−バル・グリーンズ」を結成している。

 教育については、先の<教育についてのシリーズ>で、自分で体験し、考える学習の重要性を強調したが、先般中央教育審議会が文科省の諮問を受け“ active learning” の導入の検討を明らかにしたことに注目したい。文科省や中教審の意図が奈辺にあろうとも、自ら考える人間が増えれば、一部の指導者の言動に国民が引きずられる危険性は相対的に低くなり、社会が底辺民主主義へ変わっていく可能性が高まるからだ。

 最後にマスメディア、特に日本においては大手新聞とNHKが国民意識に与える影響力がベクトルの変更にかなり決定的な影響力を持つものと思う。現状では、私の考えるパラダイムとは真逆の方向へベクトルを変えようとするメディアの力が優勢になっていると感じている。いわゆる在京6紙(発行部数はABC協会調査)の動向について、「安倍官邸と新聞・・2極化する新聞の危機」は次のように分析している。

読売(986万部)朝日(760万部)毎日(342万部)日経(288万部)産経(167万部)東京(52万部)は原子力政策や安全保障政策など政府の重要政策について読売・日経・産経(合計1441部)が賛成、朝日・毎日・東京(合計1154部)が反対と論調が真っ二つに分かれる”2極化現象“を起こしており、安倍政権はこの分裂を巧みに利用してマスメディアを操作している。評論家の半藤一利は作家の野坂昭如との往復書簡の中で、安倍政権のやり方を見ていると「権力側には狡智に長けたものがいるようです」と評しているが、私も同様に感じている。

 また、NHKについては、安倍政権が送り込んだ籾井会長の下で、幹部が過度に会長の意向を忖度し、職員は息苦しさを感じていると伝えられている。要するに自己規制が蔓延しているということだろう。今回の「イスラム国」による日本人人質殺害事件のニュースをfollowしながら、残念ながら私もそう感ぜざるを得なかった。長年NHKを取材してきた元日経新聞記者で、私もNHK労組の放送研究集会で意見を交わしたことのある松田浩は新著「NHK」の中で、「政府のトップ人事支配によってNHKの公共放送としての独立性が脅かされ、政府の国策放送(広報宣伝機関)へと変質しかねない事態が進行している」と述べ、この本の帯では、これを、政権によるNHK乗っ取り作戦と表現している。

 大部数主義に頼る日本の大手新聞と受信料で成り立つNHKは、国民意識に逆らっては存立できないから、ベクトルが変わると、戦前回帰の方向へ急速に進む危険性が強いと危惧している。同時に、あまりにも強引な現政権のやり方は、いつか破綻するのではないかとも思っている。 50年後の日本へ向けてベクトルはいずれの側へ変わるのだろうか。 今この国は重大な岐路に差し掛かっているように思う。(M)

< 参考書籍等 >
* 緑の党 新しい民主の波 : 永井清彦  講談社現代新書
* 緑の党 なぜいま緑の党か : 小野一  講談社選書
* 安倍官邸と新聞 2極化する報道の危機 : 徳山喜雄  集英社新書
* 半藤一利と野坂昭如の往復書簡 : 通販生活 2015年春号
* NHK 新版  危機に立つ公共放送 : 松田浩  岩波新書

* 次回は2月14日(土)に<人権大国への道 最終章>(おわりに)を投稿する予定です。

トマ・ピケティというフランスの経済学者が書いた『21世紀の資本』という大部の専門書が評判になっています。その日本語版が書店にうず高く積んでありました。経済学の知識に疎い筆者が理解できるようなものではなさそうなので、その入門書を一冊買って読みました。私の理解したところでは、資本主義経済というのは必然的に格差を生み出し、資産を持つ人はますます豊かになり、そうでない人たちはますます貧しくなるということを、歴史的なデータを分析して立証したということのようです。ではその格差をいかにして縮小するかを知りたいところですが、ピケティがそこで提案しているのは、所得に対する累進課税と、グローバルな規模での資産に対する累進課税です。しかし素人が考えて、そんなことが容易に達成できるとは思えませんので、読者は再び振り出しに戻ることになります。

格差の問題はいまや経済だけの問題ではありません。教育における格差も次第に顕在化しています。安部彩『子どもの貧困Ⅱ』(岩波新書2014年)によれば、日本における子どもの貧困は予想外に高く、6人に1人という割合だそうです。「貧困」というと、筆者の年代では飢えたストリートチルドレンを連想します。昭和20年(1945年)に戦争が終わったあと、焼けただれた東京にはそういう子どもが至る所に見られました。上野駅の地下道には孤児となったそのような子どもたちや浮浪者があふれていました。今の若い人には想像もできない光景でしょう。

現代における子どもの貧困は、かつてのストリートチルドレンのように顕在化はしてはいません。しかしその実態は誰もが驚くようなものです。この分野の研究者として知られる安部彩氏の前掲書には、次のような衝撃的な記述があります。これは事実を述べたものです。少し長くなりますが、実態を知るための基本的な情報ですので、そのまま引用させていただきます(注)

「ユニセフの推計(2012)によると、2000年代半ばにおいて、日本の18歳未満の子どもの貧困率は、先進35カ国の中で上から9番目の高さにある。先進国といっても、メキシコからアメリカまでいろいろあるので、これを、一人あたりGDPが3万1000ドル以上の国に限ると、日本は20カ国中4番目に子どもの貧困率が高い国となる。日本の子どもの貧困率は、20%を超えるアメリカに比べると低いものの、5%に満たないアイスランドや、5~10%に収まっているフィンランド、ドイツ、フランスなどと比べると、はるかに高い14.9%である。」

この貧困率の数字を知って驚かない人はいないのではないかと思います。筆者もはじめ、あまりにも高いその貧困率に驚愕し、自分が社会の実態についていかに無知であるかを知って恥じたのでした。幸い、2013年6月の参議院本会議において、「子どもの貧困対策の推進に関する法律」(略して「子どもの貧困対策法」)が可決成立しました。遅きに失するきらいはありますが、日本でも厚生労働省が中心となって、ようやくその対策に乗り出すことになりました。

貧困は経済の問題に留まりません。教育の問題とも深く関わっています。経済的な貧困は教育的格差と連動しているからです。経済的に余裕のない家庭では、子どもに充分な教育の機会を与えることができません。塾に行かせることも習いごとをさせることもできません。学校教育は格差をできるだけなくすようにしていますが、学校外の生活ではそれが歴然と現れます。前の民主党政権時代に始まった高等学校の授業料無償化は、最近の教育政策の中では画期的なものです。しかし親の負担しなければならないものは、授業料以外にもいろいろとあります。教科書(義務教育では原則として無償ですが)、参考書、学習器具、制服、部活動のための服装や器具など、さまざまな物品にかかる費用はほとんど親が負担しなければなりません。当然ながら、親の経済格差がそこに反映します。貧しい親をもつ子どもは、必要なものも買ってもらえません。そのために部活を断念したり、仲間外れにされたりします。そこには望ましからぬ格差が必然的に生じます。格差は差別につながり、ひいては公教育の基本原理である「機会の平等」という理念から遠ざかることになります。

さらに事態は深刻な事態へと発展します。公立学校にはどこにも貧困家庭の子どもたちがいて、そのことを好ましくないと考える父母がいるものです。そういう親たちは子どもを私立学校へ入れたがります。特に1970年代後半から1990年頃までの日本経済の爆発的成長期と最盛期には、そういう傾向が顕著に現れました。当時の私立学校は公立学校の4倍以上の経費がかかると言われましたが、多くの父母は無理をしても子どもを私立に入れようとしました。その傾向は、東京などの大都会では、今も続いています。2011年度から始まった小学校への英語教育導入の背景には、そのような事情があります。つまり、多くの私立小学校で実施している英語教育を公立小学校にも取り入れなければ、教育の機会均等の原則が保てないという現場からの声です。このことが文科省を動かし、小学校に英語教育を導入することになった決定的要因であったと筆者は考えています。

ところで、これほど多くの貧しい子どもを抱えながら、日本の子どもたちは国際学力テスト(PISA)で、ほとんど毎回、非常に良い成績をあげます。教育に支出する国の予算が先進国中でも最低レベルだというのに、これはいったい何故なのでしょうか。まるで奇跡のようです。その主要な理由のひとつは、明らかに、親が無理をしながらも莫大な私費を子どものために投じていることにあります。それならば、現在のままでもよいではないか、と言う人もいるかもしれません。資本主義経済の持続を望む政治家の多くも、たぶんそう考えているでしょう。しかしこれは危険な考え方です。このままの状況が続くと、子どもの教育機会や学習意欲が親の所得によって決定される傾向がますます強まることになります。学校教育において、親の所得によって機会の不平等が生まれ、子どものその後の人生が決定づけられるというような事態が生じれば、その人々は学ぶ意欲を失います。そういう人たちが増えていけば、活気のない停滞した社会になることは必然です。少なくとも子どもには将来の可能性を等しく与える教育政策が求められます。そしてこのことは、私たちの英語教育とも深く関わっています。

(注)ユニセフのこの調査で、貧困率が10%以下の先進国を低い順に列挙すると、次の11カ国です:アイスランド(4.7)、フィンランド(5.3)、オランダ(6.1)、ノルウェー(6.1)、デンマーク(6.5)、スウェーデン(7.3)、オーストリア(7.3)、スイス(8.1)、アイルランド(8.4)、ドイツ(8.5)、フランス(8.8)。また日本よりも貧困率の高い国は、イタリア(15.9)、スペイン(17.1)、アメリカ(23.1)の3国です。ここから日本の子どもの貧困率14.9%が非常に高い数値であるかがはっきり分かります。そしてこの高い貧困率の一因となっているのは、日本における「ひとり親」(特に母子家庭)の貧困率が際立って高いこことが挙げられます。厚生労働省の2009年の調査によれば、それはなんと58.7%という驚くべき数字になっています。母子家庭の半分以上が貧困に苦しんでいるのです。

(216) < 人権大国への道 最終章 >   

6.50年後の人権大国を目指して 

② 公正な社会への道筋

 近代社会の幕開けとなったフランス革命の旗印は「自由・平等・博愛」であった。しかし、自由と平等は両立しえないといわれる。確かに、資本主義経済の自由競争の行きつく先の勝者は、論理的には1人となるから、結果の平等はありえないし、現実にも買収・合併などによる寡占、独占が世界規模で進んでいる。競争原理主義者はさらに、結果の平等を求めることは悪平等であり、求められるのはスタートの平等なのだという。では、今の日本の社会で、スタートの平等は確保されているのか。答えは完全に“No ! “ だ。スタート地点の50メートル先から、或いは50mメートル後ろから走りだしたりする人がいては、公正な競争は成り立たない。だが、それがこの国の現実ではないか。

 前者の典型的な例が、政治の世界における世襲議員の跋扈である。今回の選挙の結果はまだ整理されていないので、2009年発行の「世襲議員」と2011年発行の「世襲だらけの政治家マップ」のデータを借りたい。「世襲議員」によると、「父母または祖父母が同じ県内の選挙区で当選し、国会議員、知事または政令指定都市の市長を務めていた議員」は、2009年には、衆参合わせて720人の議員中133人で18%だったという。また、「世襲だらけの政治家マップ」は範囲を県議などにも広げて都道府県別に衆参両院議員の地盤継承状況を挙げているが、読むのもうんざりするような数である。親族に政治関係者がいて地盤を共有しているという世襲議員の定義によると自民党議員の4割が世襲議員であるという。

 さらに問題なのは、世襲議員でなければ総理大臣になることはほぼ不可能であるという事実だ。第80代の羽田孜から96代の安倍晋三まで11人の総理大臣のうち8人が世襲議員で、自民党出身の総理大臣は全員が世襲議員である。若いうちに父親等の親族が死ぬなどして、跡目を継いで当選回数を重ねなければ総理大臣にはなれないし、若くして当選するには世襲が絶対的に有利だからだ。安倍晋三が世襲議員でなければ、52歳という戦後最年少で総理大臣になることはありえなかった。閣僚についても同様で次安倍内閣では、17人の閣僚のうち、世襲議員が麻生副総理をはじめ9人と半数を超えており、総理大臣以下内閣の構成員18人中10人が世襲議員である。異常というほかはないと私は思う。

 この現象は小選挙区制が続く限りなくならないだろう。選挙区が狭ければ、”地盤、カバン、看板 ”が最も有効に機能するからだ。一度でも選挙運動に参画してみればよくわかる。私は、参議院全国区、衆議院東京1区、東京都議選、江東区議選、それに茅ヶ崎市長選挙に運動員あるいは選挙参謀として参加して、岩盤のような“3バン”の固さをいやというほど味わった。

 政治家の近親者は政治家になるなと言っているわけではない。政治家になりたければ、税金もかけられずに引き継ぐ親の資金管理団体のカネにたよらず、父祖伝来の地盤からではなく、別の選挙区から立候補しなければ不公正だと言っているのである。それでも、看板つまり親の七光りの分だけは有利になるのだ。さすがに、自民党や民主党も世襲議員の不公正さには正面から反論する余地がなく、一応は「立候補制限」などを考えたようだが、いつの間にかうやむやになった。これについて聞かれた自らも世襲議員である自民党派閥の領袖が、「世襲制限なんて」とせせら笑う姿がTVに映し出された。世襲議員の本音だろう。安倍首相の親族は「よく、政治家の世襲について批判的におっしゃる方もありますが、子供が本当に国政の場で働くつもいでいますなら、全く関係のない方よりも、親を見て育っているのですから、ふさわしいと私は思います。”後継者“というのではなく、国会議員としてふさわしいかどうかは、有権者の方に決めていただくのですから、世襲というだけで単純に批判は出来ないのではないかと思います。」(安倍晋三:その人脈と金脈)」と述べているが、このような理屈が通るなら、国会議員を家業とする家族が増えるほど日本の政治がよくなるということになる。

 世襲議員の弊害について、ジャーナリストである「世襲議員」の著者は、「公の国会議員の職を家業と考えている世襲議員」が政界にのさばり、「優秀な人材を政界に集めていないことが日本の社会の行き詰まりをもたらし、社会の停滞感につながっている」と指摘し、元エリート官僚である「世襲だらけの政治家マップ」の著者は「日本ほど2世政治家がおり、しかもその政治家達が枢要な地位を占めている国はない。いわゆる地盤が私有財産のような存在になり、個人の後援会組織が利権獲得のマシーンと化して、世襲による円滑な相続を要求する」と述べ、その結果「バカ殿政治がまかり通る」と批判している。世襲議員がバカ殿であるかどうかは一概には言えないと思うが、一般論として〝おんば日傘”で育った人間は、世間知らずで、自己中心的、常に上から目線で物事を見るということは言えるだろうし、有権者はこれまでしばしばその実例に接しているが、最近では、女性初の総理大臣候補だったという小渕優子・元経済産業相の例はその典型だろう。共同通信社の世論調査(2009)によると「国会議員の世襲には問題がある」が61.2%で「問題はない」32.6%の倍近くに達している。
 
 これらの著者は、政治家としての世襲議員の資質だけでなく、世襲議員が跋扈することによる  社会的弊害にも目を向けているが、私もそれが最大の問題だと思う。不公正に選ばれた国会議員達とそれを支える地方政界、これに取り入ろうとする財界や利益団体さらにはこれを擁護するいわゆる有識者らによって構成される既得権益集団が社会に覆いかぶさり、事実上この国を動かしているのである。だから、私は、まず、選挙によって世襲議員の跋扈という不公正・不明朗な現状を打破していかなければ、公正を規範とする本当の民主主義社会は生まれないと思う。

 次に後者の例は、貧困の世襲である。UNICEFによると、日本の子供の貧困率は16.3%で、先進20か国の悪い方から4番目、OECD35か国ではワースト8に入っており、しかも年々悪化している。貧困とは、世帯の所得が、社会全体の真ん中の所得の半分以下であることを言うのだが、厚労省の2012年の調査によると、この中央値は244万円であるから、貧困値は122万円つまり月額10万円ということになる。こういう世帯で暮らす子供が16.3%、つまり6人に1人いるわけで、出願だけで10万円以上かかる大学へ進学できるはずはない。今や日本の大学は就職予備門と化しているから、大学を出なければまともな就職口はない。こうして貧困が世襲されていく。
 
 私もカネがないから高等師範しか入るところがなかった。在学中、新制大学が発足し、編入できることになったが、国からの給費と授業料相当額を返済することが条件であった。この制度を利用して何人かの同期生が新制大学に編入し、中学の同期生で高等師範の社会科に在籍していた友人は東大へ転校して弁護士になった。校門の近くで転校手続きに来た彼とばったり会い、私が「よかったね」と声をかけると、彼はなんだか照れくさそうに、「じゃー」と一言だけ言って去って行った。私は特に弁護士になりたいと考えていたわけではないが、弁護士の方が教師より自由に生きられそうだと思っていたので、彼の後姿を見送りながら、何となくうらやましかった。これは私の恨み節であるが、カネが無くて進学できない若者の気持ちは痛いほどにわかる。 あれから60年たった今も、状況は変わっていないどころか、悪化しており、社会へのスタートラインで差別される若者が増え、憲法26条にいう、「能力に応じて、等しく教育を受ける権利」は完全に死文化している。私は重大な人権侵害だと考えている。

 このような状況を変えるには社会のあり方を抜本的に変えるしかないと思うが、人生のスタートラインでの差別を何とか早く緩和するには、当面は公的な支援つまり学費の無償化や返還不要の奨学資金制度を考えなければならないだろう。しかし、この国の政府は教育に口は出すがカネは出さない。OECD諸国の中で、日本は教育機関への公的支出が最下位であり、先日閣議決定された来年度予算の政府案でも、教育関係費は前年比1.3%減少となっている。こういう政府の下で、卒業後の進路に義務を負わせない給費生の大幅な増員や、返還不要の奨学金制度の新設は無理だと思わざるを得ない。それに、勉強する意欲のない学生に税金をつぎ込むことには納税者の反発もあるだろう。 

 そこで私が提案したいのは、大学卒業に当たって国家試験を課し、その成績と奨学金の返済率を連動させることだ。今や大学進学率は51%に達し、カネさえあれば誰でも大学へ入れる状態になった半面、分数の掛け算さえできない大学生を生んでいるという。私は、今の共通一次試験をやめて、各大学の卒業基準とは別に、任意で受けられる大学卒業の国家認定試験を導入すべきだと思う。この試験の成績と、奨学金を連動させ、成績上位者から一定の割合で奨学金返済率を逓減するような制度を作ってはどうかと考えている。

 社会をよりよく変えていくものは、短期的には政治、長期的には教育であると先に書いた。この車の両輪がいずれも正常に機能していないのであれば、よりよい社会は生まれない。だから、ベクトルを変える必要があると私は思う。(M)

< 参考書籍等 >

世襲議員 構造と問題点 : 稲井川茂  講談社
世襲だらけの政治家マップ : 八幡和郎 他  廣済堂新書
安倍晋三 その人脈と金脈 : 別冊宝島2240  宝島社
格差社会 : 橘木俊詔  岩波書店
貧困の連鎖を断ち切るために: 大沢真理 NHK「視点・論点」(2014−9−29)

* 次回は 1月31日(土)に <6−(3)ベクトルを変えるには> を投稿する予定です。

幼児を除いて、日本人のほとんどが英語と無縁では暮らせないほど英語が身近なものになっている現在、英語の学びを全く必要としないと考えている人はあまりいないと思われます。かつては日本で暮らす日本人は日本語だけ知っていれば困ることはありませんでしたが、今や、そういう時代ではなくなりました。すべての人が何らかの形で英語を使うことが必要になってきたのです。

そういうわけで、英語が使える日本人を育成する教育を推進するために、文部科学省(以下、文科省)が中心となって、いろいろな施策が提案されています。最近のニュースでは、第1に小学校における英語教育を拡充させること、第2に中学校・高等学校において「使える英語」をもっと徹底して教えること、第3に大学入試を改革し、トーフルなどの外部試験の結果を入試・就職の判定資料として積極的に利用することなどです。現在、そのための具体的な実施策がいろいろと考えられているようです。しかし、客観的に見て、それらの施策が成功する見込みはあまりないように思われます。入試の方法など、部分的に改善されることはあるかもしれませんが、日本人の英語コミュニケーション力を全体的に向上させるというようなことはとうてい無理です。その最大の理由は、国が新しい教育施策のための財政措置を全く考えていないからです。文科省も結局、金を使わずに派手な効果を狙うことしか考えていません。

はなからそのような悲観的な予測を述べることは差し控えたいのですが、これまでの経過と現状を見るとそう言わざるを得ません。たとえば、2011年度から小学校5年生と6年生に週1回の「外国語活動」が新設されました。これは教科ではありませんが、教科に準ずる新しい科目の新設でした。当然のことながら、そのためには相当数の指導教師の養成計画と採用計画が必要になります。しかし文科省はそのための予算を獲得できませんでした。新設の「外国語活動」は原則として小学校の担任教師(大部分は英語を使用した経験のない教師)に指導させることで、お金をかけずに実施に踏み切りました。「外国語活動」が新設されて認められた初年度経費は、わずかに『英語ノート』の作成のための教材事業費(1億7,22万円)だけでした。小学校から英語指導という、わが国の英語教育史上に残る大事業においてそうなのですから、他は推して知るべし。

中学校・高等学校の英語科目の充実についても、文科省は口を出しますがお金は出しません。学習指導要領の中で「コミュニケーション能力の育成」を特段に強調し、改訂ごとに高等学校の英語科目をいろいろといじくり回してきました。しかし思うような結果を得ることができず、ついには「授業は英語で行うことを基本とする」という一言を学習指導要領に加えることで、お茶を濁そうとしています。もちろん文科省が何もやっていないわけではありません。自分たちのやっていることを世の人々に示さなければなりません。世間受けのする、即効性のある派手なプロジェクトには予算がつきます。そのひとつが「スーパー・イングリッシュ・ランゲージ・ハイスクール(SELHi)」というプロジェクトでした(注1)

SELHiは、文科省が先導的英語教育を推進するという名目で全国各地にそういうハイカラな名前の高等学校を指定し、研究のための予算をつけ、2002年度から2009年度までの8年間実施されました。その効果が当初の目的を達成するものだったかどうかは不明です(注2)。このプロジェクト実施の経験を踏まえて、文科省は今年度(平成26年度)から「スパー・グローバル・ハイスクール(SGH)」というさらに大げさな名前の実験校を全国に作って、国際的に活躍できるエリートを養成しようとしています。実に格好のよい、自らエリートをもって任じる官僚好みのプロジェクトです。こうして文科省とその背後にある政治勢力は、日本の将来の指導層の育成にせっせと励んでいるというわけです。それ以外の大多数の普通の人々のことは、彼らの念頭にはないのです。

昨年末のことでしたが、文科省の来年度の予算を削るために、財務省は小学校1年生の35人学級を40人学級に戻すように要求したという新聞記事を見ました。2年前に学級人数を35に減らしたのに、その効果がまるでないというのがその理由だと言います。驚くべきことです。まだその効果の判断資料も出ていないというのに。このような報道を見ると、国の財政当局は教育予算を削減することに熱心で、よほどの政治的メリットがないかぎり、新しい企画に金を出すことはなさそうです。国の財務担当者にとっては、緊急の課題が山積していて、教育予算を増やす余裕など全くないというのが本音なのでしょう。教育予算を削って軍備費を増やすという考え方は以前には問題視されましたが、今やほとんど議論もなく、それが当然のことのように実行されつつあります。世の中の普通の人たちにとって、国によって整備されるべき英語教育環境は確実に悪化しつつあります。

以上はこの国の英語教育に関する施策の一端を見ただけですが、そのような悪化しつつある教育環境の中で、私たちはどのように英語の学びと教育を推し進めたらよいのでしょうか。どのような状況の中にあっても、私たちの地道な英語の学びと教育は止めるわけにはいきません。私たちは少しずつでも前進しなければなりません。

(注1)SELHiとは、ウィキペディアによると、「2002年度から開始された日本の高等学校における先進的な英語教育を研究するための文部科学省主導のプロジェクト」です。文科省の指定を受けた高等学校にはそのための研究予算(毎年300万円)が支給され、それぞれ3年間で、英語教育に重点を置いた教育課程・カリキュラムの開発や中学校および大学との効果的連携の在り方などを研究し、報告書を作成する義務が課せられました。このプロジェクトは2009年度に終了しましたが、その8年間で指定を受けた高等学校は述べ169校でした。このプロジェクトを継いで、2014年度からは英語指導と強化するだけでなく、英語を使って活躍できる国際的な人材を開発するための新たなプロジェクト「スーパー・グローバル・ハイスクール(SGH)」がスタートしたわけです。

(注2)SELHiの先導的研究の成果についてはさまざまな意見があり、一概に述べることは困難なようです。このプロジェクトを主導した文科省によると、SELHiに指定された高等学校の多くは教員間の協力体制が整い、学習指導に効果を挙げたとしています。しかしこのプロジェクトが終了した後も、実施校における指導がさらに深化するのか、また周辺の高等学校の英語科教育にどのような影響を及ぼすかについては、いまだ不明であるとしています。筆者の見解では、もしSELHiの実施が高等学校の英語教育に一定の効果が認められたのならば、そのプロジェクトをさらに延長して、より多くの高等学校にこの研究を経験させるべきでした。全国169校では少なすぎます。文科省がこのプロジェクトを8年間で終了した真の理由は、実験校における成果がきわめて限定的であると判断したためと推察されます。

(1)例年の通り、視聴率では31日のNHK の「紅白歌合戦」が強かったようですが、最近は視聴者の好みも変化していて、「歌番組を4時間近くも視聴する人が減少傾向にある」とのコメントも耳にしました。NHKは今後はそうした傾向に対応する番組を考える必要があるでしょう。それにしても、NHK に対抗すべき民放の番組は、勝れたものが少な過ぎると思います。

(2)私は、元英語教師の習性で、若い人たちの歌う、ほとんど無意味な英語の挿入された歌詞には強い違和感を覚えました。語法として部分的に正しい英語でも、日本語に無い“r”と“l”や、“th”の発音まで正確に出来るできる日本人歌手は、ほとんど居ないように思えました。私は、5日の早朝に、江利チエミ、雪村いづみ等の歌を聞きました(NHKラジオ深夜便)が、彼女たちは、英語の発音もかなり正確に歌っているように思えました。

(3)日頃のコマーシャルの中には、「ただ聞き流していれば、英語を話せるようになります」と宣伝しているものがありますが、多くの日本人にとって、それは不可能なように感じます。では日本の中学や高校で、「日本語に無い英語の音を正確に教えて、効果を上げているのか?」と問われれば、私も躊躇せざるを得ません。英語の音に“聞き慣れる”ことは大切です。それと、“正しく発音出来る”ことは別物と考えるべきだと思います。

(4)英語教育の目標を「英語を話せるようになることだけではなく、広い意味の“教養”も含む」とする立場からは、文科省が示してしている“5つの提言”(インターネットで読むことが出来ます)には、賛成出来ないのです。英語を“国際共通語”と位置付けて、「今度の東京五輪・パラリンピックのために話せる英語力をつけるべきだ」といった趣旨の提言だからです。

(5)英語教育の効果は、”英語を話せる”ことだけで判断すべきではないとすれば、(英語)教員養成大学や学部における指導内容や指導教員を総入れ替えしなければならないでしょう。ずいぶんと時間を要する大問題です。“話せる英語教育”を優先的に特別扱いにしている地域もあるようですが、本当に効果が上がっていることを実証出来るのか、甚だ疑問に思います。その生徒たちの追跡調査を長年にわたってする必要があるからです。

(6)“話す英語”に関しては、私は昨年末にノーベル平和賞を受賞したパキスタンの“マララさん”(長い名前なので略称です)の英語に感心しました。易しい単語で、しかも説得力のある英語だと感じたからです。やたらと単語の棒暗記を強いる日本の受験指導では、“易しい英語で長く話す力”はとてもつかないでしょう。

(7)そこで思い出したのですが、私は昭和27年にある県立高校の英語教師になり、英語指導は1年生の担当でした。ある日、3年生の男子生徒がやって来て、「英語のスピーチ・コンテストに参加したい」と私に言ったのです。担当の先生には、「君には無理だ」と言われたとのこと。先輩の先生方を差し置いて、新米教員の私が指導することには、ためらいを感じましたが、その生徒の熱意に負けて、原稿を読ませてもらいました。

(7)今では、その原稿も手元にはありませんが、記憶に残っている最初の部分は次のようになっていました。タイトルは「健康は富に勝る」というものでした。
“Most of us know that health is more important than anything else. However, very few of us know how to keep us healthy. We often eat too much. We often sleep too long, especially on Sundays.
We must realize that it is very important for us to eat regularly, to get up regularly, to take exercise regularly. These are not easy for many of us, and yet, they are worthwhile. 以下略)
この生徒は入賞はしませんでしたが、「主張したいことは良く分かる。あとは聴衆に話しかける時のジェスチャーをもう少し勉強しなさい」といった趣旨のコメントを貰ったとのことでした。易しい英語で、言いたいことを話したり書いたりする訓練は可能だと思いました。

(8)訂正とお詫び;前回のこのブログで、私は2つの間違いをしていました。ブログ仲間の松山 薫さんから指摘されたことですが、(1)「安倍内閣が閣議決定をした数百兆円の補正予算」と書きましたが、この金額は計算ミスでした。(2)「閣議決定をした」も間違いで、“予算”については、国会の審議を経る必要があります。「安倍内閣は重要なことでも、閣議決定で決めてしまう」という私の先入観が邪魔して、間違った書き方をしてしまいました。“予算”である以上、国会の審議を経るべきものでした。
 読者の皆様にお詫びして、以上の点を訂正させて頂きます。(この回終り)

< 人権大国への道 終章 > 

6.50年後の人権大国を目指して 

  < 人権大国への道 > を終わるにあたって、私の考える人権大国としての50年後の日本の社会のパラダイムと、そこへ向かうためのベクトルの変更について私見を述べたい。

 人間は生き物であるから、生存本能が根底にあり、食べ物、住居、エネルギーを得ること、そして外敵から身を守ることが生存のための基本的な条件である。現在、大多数の日本人にとって、この基本条件は一応満たされている。しかし、私たちの世代が生きた敗戦前後には、この基本条件はほとんど存在しなかったことを思えば、<所与の条件>で述べたように将来どうなるかは、さだかではない。

 また、この基本条件が一応満たされているとしても、人間という精神性を伴った社会的動物にとっては、その満たされ方が問題になる。つまり、基本的条件を得るための社会の規範が問題なのである。広辞苑によれれば、規範とは、「判断・評価または行為などのよるべき基準」とある。

 これまで書き連ねてきたブログをお読み下さった方にはご理解いただけると思うが、私が目指す人権大国の社会を支配する規範は、「自由」と「公正」である。現在の日本の社会には残念ながらこの二つの規範の存在感が薄い。今後ますます薄くなっていく気配さえ感じられる。「自由」や「公正」は勿論のこと、生きるための基本条件さえなかった戦前・戦中の社会を知る者の一人として、そのような社会が再び来ることがないよう願いながら、「いのち」を生かす、たたかいの一環として書き続けてきた< 人権大国への道を>を終わりたい。

(1)自由な社会への道筋

 生存の基本条件である食料、住居、エネルギーを得るためには「カネ」がいる。「カネ」を得る手段として日本人の大多数は企業や官公庁などに雇われて働いている。被雇用者(以下雇用者という)数は、6400万人弱、人口の約半分、生産年齢人口7900万人の8割強をしめている。雇用者は労働基準法に基づいて経営者と雇用契約を結ぶが、これが経営側に有利な一方的なものが多い。私がNHK労組の役員をしていた時に「キャロル」事件というのがあった。二人のプロデューサーが部外のプロダクションで「キャロル」という映画を撮ったというので協会は解雇を通告してきた。そのうちの一人が国際局員であったので、放送系列執行委員であった私が交渉に当たったのだが、協会側は雇用契約の”忠誠義務”を盾に頑として譲らなかった。就職した以上、その企業のために全身全霊で働くのが義務だというのである。私はついに”それでは奴隷と同じではないか!”と怒鳴ってみたが契約条項の厚い壁は破れなかった。

 加えて、雇用者の人権を守るべき労働組合が極めて弱体(企業別の御用組合)もしくは存在しない(組織率17%)ことが、雇用者の人権を守ることができない大きな要因となっている。「労働組合の存在しない労働者は本質的に奴隷と等しい」という労働法学者、藤田忠雄の指摘は、以前にもまして真実味を帯びてきているのだ。

 雇用者は、建前上、労働3法よってまもられることになっている。まともな待遇を受けられなければ、ストライキをする権利も憲法で保証されている。しかし、もう何年いや十何年もトンとストのニュースを聞かない。最近、マクドナルドのフライドポテトが「小」しか売っていなかったのは、アメリカの港湾労働者のストライキのためだと聞いて、産業別労組のアメリカではまだストがあるのだと妙に懐かしい気分になった。労働基準法違反は多すぎて大多数が摘発できないという。

 こういう労使環境を利用して、ブラック企業がのさばる。厚生労働省の調査によると、ハローワークに寄せられた苦情の4割で実際の労働条件が求人票の内容と違っていたという。私も昔のハローワーク(職業安定所)に3か月通ったことがあるが、まさに悲惨な雰囲気だった。結局ロクな仕事は紹介されず、新聞広告で就職した。労働条件は社長の一存で決まり、悪くはなかったので雇用契約書に判を押したが、社長が酒乱であることまではわからなかった。

 連合の調査では、自分の働く企業がブラック企業だと思っている人は、20代、30代で30%を超えているが、誰かに相談した人は半数しかおらず、労働組合に相談した人は1%に満たない。
つまり、いまのところ、大部分の日本人は、経営側の言うままに黙々と働いて一生の大半を過ごす以外に方法がないわけだが、今後は、グローバル化に対応する雇用の流動化とかでそれさえ難しくなりつつある。だったら、自由社会なのだから自分で起業すればよいとか、NISAで株をやったらという甘いささやきが聞こえてきそうだが、こういう甘言に乗ったら、悲惨なことになるのがオチだろう。私は自分で4つの有限会社を立ち上げ、天の時、地の利、人の和に恵まれてうまくいったが、一つの企業の成功の裏側は、起業を志した人たちの死屍累々であることを忘れてはならないだろう。知人が株式投資をやりたいというので、証券教室へ付き添っていったところが、初日に講師の話を聞いて、これはダメと直感した。証券会社の退職者だという講師達の妙に景気のよい話を聞き、彼らの風体をみて、「そんなに儲かるなら、こんなところで講師なんかやっていることはないだろう」と思ったのである。株式投資は、元金が少なければ、うまくいっても小遣い稼ぎがせいぜいだろう。一方、元金が大きければ、わずかな値上がりでも巨額の儲けが転がりこむ。こうして貧富の格差が広がっていくのだ。未だ読んでいないが、世界的な大ベストセラーになったトマ・ピケティの「21世紀の資本」は、資本の所有者に富を集中させるメカニズムを分析し、その結果として格差が拡大していくことを経済学の立場から跡付けているという。

 つまり、この国の働く人たちには、仕事を選ぶ自由はないのである。自由であるためには選択肢が必要なのだが”日本株式会社”と揶揄される今の日本では、生活者の大部分には企業に就職して「カネ」を得るしか事実上生きる選択肢がない。失業してみたら実感できるだろう。これが日本人の最大の不幸だと私は思う。だから私は、パラダイムの転換によって選択肢を確保するよう提案をしたのである。

 将来の食糧・資源不足に備えて、一次産業とその多角化それに観光業を絡ませた農漁村の再生である。年間3兆5千億円の農林予算の半分は無駄な公共事業に費消されている(参議院農林水産委員会の中村敦夫委員)というから、財源は調達できるはずだ。

 私がこのような提案に至ったのは、大平正芳元首相が生涯の念願とした「田園都市国家の建設構想」を知ったことがきっかけだった。「田園都市国家の構想」では、建設の手法として * 脱工業文明 * 人間生活の総合的環境の整備 * ボトム・アップ * 共存の論理 * 自発的な創意工夫 などを挙げている。つまり、競争原理ではなく創造原理による共生社会の建設である。

 一方で、1次産業では働きたくないという人もいるだろうし、従来型の新自由主義的競争原理による第2・3次産業を中心とした社会の方がよいと考える人もいるだろう。自らの意思で選択し、二つの社会の間では一定の条件を付けて行き来できるようにすれば、ブラック企業は必然的に淘汰される。
二つの異なる社会の並存と選択によって根本的な意味での職業選択の自由、生き方を選べる道が確保されるのであって、この国の働く人たちが納得のいく人生を送るためには、このようなパラダイムへの転換をはかるべきだと私は考える。(M)

 < 参考書籍等 >
* ハローワークの求人票に対する追跡調査結果 :  厚生労働省HP
* 田園都市国家の構想 : 田園都市国家研究グル—プ  大蔵省印刷局 
* 共生社会の概念 : 厚生労働省HP

* 次回は、1月17日(土)に <6−(2)公正な社会への道筋> を投稿する予定です。