Archive for 12月, 2014

(1)歳末選挙でも大勝した自民党安倍政権は、数百兆円にもなる補正予算を閣議議決定して、“安倍ノミクス”の続きを進めようとしています。“ハロイーン”から、“クリスマス”、“お正月”とお祭り騒ぎの好きな日本国民は、この機会にお金を使うのは確かです。“安倍ノミクスが目指す「金銭の好循環」は起こるのでしょうか?

(2)一方では、暗いニュースも続いています。最大のものは、アメリカとロシアの対立です。安倍首相は重大な決断を迫られていると思います。すなわち、アメリカに味方をすれば、「北方領土返還」の話は、更に遠のくでしょうし、アメリカが北朝鮮を再び「テロ支援国家」に指定すれば、そして日本がそれに賛成すれば、日本の拉致者帰国交渉は大きく阻害されることになります。

(3)危険はそれだけではありません。オーストラリアで自爆テロが起きたように、“イスラム国”との対立は、日本国内でのテロ事件を招く可能性が大きいのです。安倍首相は今こそ国民に「集団的自衛権」がどういう危険性を含んでいるかを詳しく説明すべきだと思います。

(4))韓国の美容整形病院では、患者の居る手術室で院長が誕生パーティを開き、国内で非難されています。問題は韓国だけに留まるものではなく、欧米諸国から見れば、東洋人は“無知な民族”ということを印象づけることでしょう。中には、東洋人を軽蔑し、人種差別的な偏見を抱く白人もいると思います。かくして、東洋と西洋の相互理解は益々不可能になっていきます。

(5)“今年の漢字”は「税」と発表されましたが、私は納得出来るものと思いました。もう1つ選ぶとすれば、「乱」を加えたい心境です。世界いたるところで「反乱」が起きた1年でした。しかも、これは来年も続くことでしょう。

(6)首都圏関係のニュースを聞いていると、「~線は、人身事故のために全線で運転を見合わせています」といった報道が毎日のように聞かれます。鉄道事故の原因は様々ですが、自殺によるものが多いとされています。

(7)そこで、日本人の自殺は本当に多いのかと思って調べてみましたが、この統計は順位を出すのが難しいようです。同じ国の中でも、宗教的信条によって大きな差があるからです。カナダなどは、国としての自殺率は低いいのですが、イヌイットなどの原住民は多いとされています。イスラム諸国のように、宗教的信条から自殺を禁じているところもあります。

(8)私は、「いじめによる自殺」とか、「親の虐待による自殺」のようなものはもっと積極的に防止策が講じられるべきだと思います。「景気を良くすること。この道しかない」と考えているような安倍政権の下では、特に若者や子どもたちに生きる希望を与えられないと思うのです。

(9)東京駅で記念切符を売り出すということで、何千人という人が集まったために大騒ぎになったことについて、様々な批判がありました。私は「記念切符を求めること」にしか希望を見出さない人々にむしろ同情したくなりました。

(10)「趣味に生きる」といった平和で、落ち着いた生活さえしにくい日本の現状はやはりどうかしていると思います。2015年は少しはマシな年になることを祈りたいのですが。(この回終り)

<前回の修正と補足>前回の「述語について」の文章の中に誤りがありましたので、その修正と補足をします。その個所は「(1)英文にはすべて述語動詞がある」について説明した文章です。該当の段落すべてを抜き書きします。下線部が修正・補足した部分です。

「まず(1)について。英文に動詞が必要なことは、少し英語を学んだ人には自然に気がつくことです。しかし日本語を習得した日本人にとっては、すべての文に動詞が必要だということは自明のことではありません。なぜなら、日本語には動詞の無い文はいくらでもあるからです。たとえば、日本人は美しいものを見て、「美しい。」と言います。かわいいものを見て、「かわいい。」と言います。日本語の「美しい」や「かわいい」などの形容詞は、終止形を使えば、主語と動詞が無くても、それだけで文になります。一方、英語では主語と動詞が無いとちゃんとした文になりませんので、美しい建物を見て “It’s beautiful.” と言い、かわいいこけし人形が並んでいるのを見て “They’re cute.” のように言うのが普通です。この英語と日本語の違いは、学校ではほとんど教わることがないかもしれませんが、とても重要なことです。」

今回は、前回までに述べた英語と日本語の構造上の違いを、マクロ的観点からまとめてみます。(したがって、原則からはずれる表現や細かい規則には目をつぶります。)

(1)英語の基本5文型にはすべて主語があります。他方、日本語の基本文は主語を必要としません。したがって、英語をそのまま日本語に翻訳すると、意味は理解できても不自然な日本語になる場合が多いのです。そのひとつの例として “I love you.” を挙げました。これは典型的な S+V+Oの英文です。これを日本語に翻訳すると「わたしはあなたを愛しています。」となります。この日本語は完全に理解可能です。しかし多くの人は、なんとなく不自然だと思うのではないでしょうか。その理由は、「わたしは」や「あなたを」という不要な要素が入っているからです。これらを抜くと、「愛しています。」だけが残ります。日本語としてはこれで文になりますし、意味は充分に伝わります。男性と女性が向き合っている状況では、これがいちばん自然な感じがします。日本語では、このように、状況から容易に判断できる主語や目的語は文の表面には出ないのです。

(2)英語の基本5文型では主語と述語動詞が密接に関係していて、動詞の形は主語の人称や数によって決まります(たとえばI am; You are; He is; They areなど)。ただし、英語の動詞の語形変化は他のヨーロッパ言語に比べて非常に簡単になっているので、学習者はそのことに気づきにくくなっています。他方、日本語の基本文には英語のような主語が要らないので、述語(正確には述部)だけで文になります。英語やヨーロッパの言語と違って、述部は主語とは関係なく、独立した文にすることができます。たとえば次のAさんとBくんの対話を見てみましょう。

Aさん:昨日どこへ行ったの。Bくん:後楽園に野球を見に行ったよ。

もしこれらの文に、「きみは昨日どこへ行ったの。」「ぼくは後楽園に野球を見に行ったよ。」のように、「きみは」や「ぼくは」を入れたらどうなるでしょうか。すると、そこに他の意味が加わって、原文とは意味がかなり違ってきます(注)。このような例も、日本語では状況から判断できる主語は表面に表わさないというルールによるものです。

(3)英語の述部は原則として動詞で始まり、その後に補語や目的語がくっ付く形になります。他方、日本語の述部では動詞がつねに末尾に来ます。これが日本語の一大特徴をなしています。他の要素(補語や目的語や修飾語など)は原則として動詞の前に置きます。次に3つだけ例を挙げておきます。

・日ごとに寒くなっている。(It’s getting colder day by day.)

・この薬で気分がよくなった。(This medicine has made me feel better.)

・来年はもっと頑張らなくちゃ!(We must work harder next year!)

私たちの関心は英語をいかに楽しく学ぶかということですので、日本語の問題にこれ以上立ち入ることはやめます。読者の皆さま、どうぞ良い新年をお迎えください。2015年が平和な年になりますようお祈りいたします。

(注)相手に向かって「昨日どこへ行ったの。」と尋ねるのと、「きみは昨日どこへ行ったの。」と尋ねるのとでは違います。前者は通常の尋ね方ですが、後者には「他の人のことはともかくとして」という言外の意味が入ってきます。同様に、「後楽園に野球を見に行った。」は普通の言い方ですが、「ぼくは後楽園に野球を見に行った。」と言うときには、「他の人はともかくとして」という言外の意味が加わります。

前回に述べたことは、英文にはすべて主語(S)が必要であり、それが文の最初にくることでした。そして主語を原則として必要としない日本語を使用している私たちにとっては、つねに主語を必要とする英語を学ぶことが決して容易ではないことを知りました。英文は主語と述語から成っていますので、今回は主語に続く述語(より正確には述部;Predicate)を見てみます。もう一度5つの基本文型をながめてみます。

① S+V; ② S+V+C; ③ S+V+O; ④ S+V+O+O; ⑤ S+V+O+C

これら5つのすべてにおいて、主語Sの後にくるのが述語です。すると誰でも最初に気がつくことは、英文の述語はすべてその頭に動詞(V)がきて、その後に補語(C)や目的語(O)が続くということです。このことから次の3つのことが言えます。

(1)英文にはすべて動詞(より正確には述語動詞)が必要である。

(2)述語動詞は主語の後、述部の頭に置かれる。

(3)補語や目的語は動詞の後に置かれる。

まず(1)について。英文に動詞が必要なことは、少し英語を学んだ人には自然に気がつくことです。しかし日本語を習得した日本人にとっては、すべての文に動詞が必要だということは自明のことではありません。なぜなら、日本語には動詞の無い文はいくらでもあるからです。たとえば、日本人は美しいものを見て、「美しい。」と言います。かわいいものを見て、「かわいい。」と言います。日本語の「美しい」や「かわいい」などの形容詞は、終止形を使えば、主語が無くても、それだけで文になります。一方、英語では主語と動詞が無いとちゃんとした文になりませんので、そういうときには “It’s beautiful.”  “They’re cute.” のように言うのが普通です。この英語と日本語の違いは、学校ではほとんど教わることがないかもしれませんが、とても重要なことです。

次に(2)の、主語の直後に述語動詞がくることに注目します。これも非常に重要なことです。なぜなら、英語では述語動詞の形が主語の性質によって変化するからです。つまり、主語と述語動詞は密接に関係しているのです。どのように密接に関係しているかを知る例としては、be動詞を使う文が分かりやすいでしょう。次のように、主語が何人称であるか、またそれが単数か複数かによって、動詞の形が変化します。

I am a student. / You are a student. / He (She) is a student. / We (They) are students. / I (He, She) was a student. / We (They) were students.

これらは英語学習の初期に出てくる文なので、生徒たちはなぜそのように動詞の形が変化するのかについて疑問に思うことはないかもしれません。先生に尋ねても、「英語ではそういうことになっているのだ」というようなことしか答えてくれないでしょう。しかしよく考えてみると不思議です。その不思議さは、英語の後にフランス語やドイツ語などを学んだときに氷解します。ヨーロッパの言語がみなそういう文法規則のある言語であることを知るからです。つまり、主語と動詞が密接に関連しているのです。フランス語やドイツ語では、主語の人称や数(単数・複数)だけではなく、性(男性・女性など)によっても変化します。幸いに、現代英語はそのような複雑な変化が退化して簡単になりました。英語では「be動詞の変化」と「3人称単数現在」の規則を知っていれば、この問題はほとんど解決します。日本語には原則として英語のような主語が無いのですから、動詞の形を主語に合わせるなどの面倒なことはまったく考慮する必要がないわけです。

(2)と関連して、日本人の学習者にとっていちばん難しいのは、(3)を含めた述部の語順の問題でしょう。英語は主語が必要であり、その後に述部がきて、その先頭に動詞がきます。これに対して日本語は主語が不要であり、動詞がつねに文の末尾に置かれます。日本語で動詞の前に置かれる補語や目的語やその他の要素(修飾語句)が、英語ではほとんど動詞のあとに置かれることになります。これは非常に大きな違いです。なぜなら、頭の中で文を作るプロセスが日本語と英語ではまったく違うものになるからです。たとえば文を作る場合、英語話者では主語と動詞(何がどうするか)が最初に意識されるのに対して、日本語話者では補語や目的語(対象が何でどんなものか)が動詞よりも先に意識されるに違いないのです。この違いは、一般に考えられているよりも、ずっと大きいと思われます。日本人のほとんどが英語を不得意とする最大の原因は、おそらく、ここにあると考えられます(注)。日本人が英語を学ぶときには、このような語順の違いを克服し、頭の中で自動的に語順を切り換えられるようにすることが必要なのです。

(注)英語の5文型に相当する日本語の基本文型は、金谷武洋『日本語に主語は要らない』(講談社選書メチエ2002)によると、次の3つです。

①名詞文:赤ん坊だ。②形容詞文:愛らしい。③動詞文:泣いた。

英語に比べて驚くほど簡単です。金谷の日本語文法は、『象は鼻が長い』の著作で知られる三上章のアイディアを発展させたものですが、本ブログの筆者(土屋)の見解では、金谷の論述は説得力があり、その根幹部分の記述の妥当性は、彼の長年の日本語教育の実践によって実証されていると思います。金谷の提示する日本語文法が正しいとすれば、日本人が英語に苦労する最大の理由は、日本語の基礎構造があまりにも単純明快な言語だからということになります。

(214) < 人権大国への道 終章 >

5.私の安全保障論 ② 平和への道筋 (2)

 今年は、第1次世界大戦の開戦から100年に当たる。第1次世界大戦では戦車が登場し飛行機も使われるようになった。これによって、自らは安全なところに身を置きながら、相手を大量に殺すという非人道的な戦闘行為が戦争の中核的手段となっていった。1900万人の「いのち」を奪ったというこの戦争が終わった時、戦争の惨禍への反省の上に、人類史上初の本格的な国際機構として国際連盟( the League of Nations )が創設された。国際連盟の創設を主導したアメリカのウッドロー・ウィルソン大統領は、「人類を解放する力は一つしかない。それは人類自身の力、世界の道義的な力の結集である。そして国際連盟規約には世界の道義的な力が総動員されている」と述べている。国際連盟規約には現在の国連憲章と同じような、集団安全保障の考えが盛り込まれていたが、この規約が実際に効力を発揮することはなかった。最大の理由は、創設の主役であったアメリカが、自身の手を縛られることを嫌って、議会で3分に2の多数の賛成を得て連盟規約を批准することができず、国際連盟に加盟しなかったからである。その後も続く“大国の身勝手”、ダブル・スタンダードを象徴する出来事だった。そして、国際連盟を事実上崩壊させたのは、軍事大国として列強の一角を占めていた日本の脱退だった。そのあと、世界は第2次世界大戦へ突き進んで行った。人類はたった一つしかない平和への大道、「道義的な力の結集」に失敗したのである。

 来年は、第2次世界大戦が終わってから70年になる。この戦争ではついに核兵器が登場し、大量殺戮による非人道性は極限に達した。数千万人の「いのち」を奪い、その何倍もの家族に忘れがたい悲しみを与えた戦争が終わろうとするおよそ1年前、戦勝国による戦後世界を構想するダンバートン・オークス会議がワシントン郊外で開かれた。国連憲章の原案となった文書を採択したこの会議を主導したのもアメリカであった。私は、この会議にかけたアメリカの熱意と良心に感動して国連中心主義に傾いたのだが、戦後のアメリカの行動は、再び”大国主義”とダブル・スタンダードに終始し、占領によってアメリカへの隷属的立場になった日本もそれに同調せざるをえなくなったのである。

 国連の中核である集団安全保障機能については国際連盟創設の頃から特にアメリカとフランスの間で意見が対立していたが、国際連合になってからも、特に安全保障理事会の拒否権がガンになって、国連の安全保障機能は、冷戦中、東西の対立による安全保障理事会の拒否権の乱用によって機能不全に陥っていた。冷戦が終わった時、当然、国連本来の機能を取り戻そうという動きが起きた。その一つが第6代事務総長に就任したエジブトのブートロス・ブートロス・ガリによる重装備の「平和強制」部隊創設の構想であった。つまり、国連は当初の構想通り「牙」を持たねばならないという提案であり、「平和強制部隊」は各国の常備軍の一部を国連待機軍にすることでまかなうというものであった。この待機軍は憲章第7章に基づく国連直属の世界警察軍であり、憲章に特段の規定のない平和維持活動(PKO)のための待機制度とは根本的に異なる。

  私は、国連の本来あるべき姿に立った当然の提案だと思ったが、この提案はソ連の崩壊によって唯一の超大国となったアメリカの逆鱗に触れ、ガリ事務総長は、従来2期という任期を一期で交代させられて、後任にはアメリカの推薦するガーナ出身のコフィ・アナンが当てられた。しかし、アメリカの操り人形と思われていたアナン事務総長も、イラク戦争の時には、アメリカの単独行動主義を強く批判し、「いかに不完全とはいえ、過去58年間世界の平和と安定のために頼りにされてきた国連の(多国間主義という)大原則に根底から挑戦するものだ」とアメリカを批判するようになっていた。

 国連はアメリカの敵なのか、それともアメリカの道具なのか。いずれにせよ、このままでは国連が所与の目的を遂行することはできないのである。世界各地で紛争が絶えず、核戦争の可能性も皆無とはいえない今日、それは人類全体にとっての不幸である。第三次世界大戦は核戦争だから、国際連盟、国際連合に続く第3の国際機関はもはやありえない。だから、次の世界大戦を避けるためには、いまの国連を集団安全保障の機関として強化するしか道はないと私は考えている。

 そのように考えるのは私だけではない。坂本義和元東大教授の国連軍構想については前回述べたが、政治レベルでは、細川護煕が日本新党の創設に当たり、1992年6月号の文芸春秋誌に発表した「日本新党(自由社会連合)結党宣言」の中で、国連軍構想を含む国連強化への貢献を打ち出した。さらに、細川内閣を陰で操ったと言われる小沢一郎は、翌年出版した「日本改造計画」の中で、核兵器の国際管理案とともに、日本に国連待機軍を作ることを提案して次のように述べている。「日本が海外での武力活動に参加するのは、唯一国連による平和維持に協力するためである。その限りにおいて憲法第9条に違反しない。むしろ憲法の精神に合致する。その意味で自衛隊が国連待機軍として国連の要請の応じて出動し、国連の指揮下に入ることは憲法に違反しない。国連が自ら常設軍を保持する場合に、日本が国連常設軍に自衛隊を提供することも憲法に違反しない。…生身の若者を海外へ送り出すにあたっては、一点の瑕疵もあったはならない。本当に日本は世界の平和だけを願って活動するのだということを、一点の疑いもなく、言葉ではなく行動で示す必要がある。」

 この小沢提案を知って作家で評論家の高橋源一郎は、極めて発展性のある議論だと思ったという。日本が国連待機軍を創設すれば、国連安保理事会の常任理事国入りの有力な手ががりになるからだ。さらに他の小国が国連待機軍を創設する呼び水になる。また、作家の島田雅彦は、文芸春秋誌の「これが私たちの望んだ日本なのか」という特集の中で、「憲法9条に忠実に、戦争放棄を徹底し、自衛隊を国連に委ね、世界初の世界共和国宣言をするのはどうか。…こういう議論を悪い冗談だと思う人がまだ多数を占めるのは悲しいことだ」と述べている。私は今でも、民主党政権の首班候補選挙で小沢一郎が敗れたことを残念に思っている。

 最近新聞で「国際連合日本駐留部隊の構想」という本の広告を見て読んでみた。筆者は医師で、世界連邦主義の立場から自衛隊を廃止し、国連の日本駐留部隊を創設する、この部隊は日本の専守防衛を任務とし、PKOには参加するが、国際紛争を武力で鎮圧す強制執行には参加しないとしている。なお、この本の資料に「世界連邦日本国会委員会名簿」(2010)がついており、首相経験者5人を含み自民党から共産党まで140人の国会議員が名を連ねている。私はいつの日にか、国会で国連世界警察軍の創設が決議されることを願っている。

 ところで、冒頭にも述べたように、安全保障を即軍備に結びつけるのは間違っている。クラウゼビッツの「戦争論」を待つまでもなく、戦争は政治、外交の行きづまりの上にあるのだから、平和は本来外交によって確保しなければならないのである。ところが、日本外交は、アメリカの占領政策とその延長である世界戦略の下でしか、選択肢を持ちえないで70年を過ごしてきた。国民の多くもそれに馴らされて対米協調、米国追随は当然或いはやむをえないと考えているようだ。それが、多くの国民から、「国とは何か」という根本的な命題、それを「国のあり方」に具現化していく力を奪ってしまったのではないか。国民の総体的な力は政治そのものであり、政治家に反映される。だから、現在の日本には、アジア・太平洋戦争のさなかに、「小日本主義」を唱えた石橋湛山のような政治家が見当たらないのは当然かもしれない。
 今年のノーベル平和賞候補に「日本国憲法第9条」をという運動があった。そうなれば安倍政権の暴走に歯止めをかける一石にはなるかもしれないと思いながらも、それはありえないだろうと考えていた。マララさんが子供たちの将来のために「いのち」をかけて戦っているのに比べて、どこか他力本願なのである。「平和」とは「いのち」をまもるたえざる「たたかい」のプロセスであるという坂本義和さんの言葉を忘れてはならないと思う。

 さて、第47回衆議院議員選挙は、予測されたように”棄権者が未来を決める総選挙“となった。戦後最低の投票率によって、自民党は絶対得票率25%で、60%を超える議席を獲得した。死に票の多い小選挙区比例代表制という選挙制度と、違憲状態という一票の格差でこういう結果になるのである。投票に行かないヤツが悪いという論評があるが、自分の一票がみすみす死に票になるのがわかっていて投票に行けというのは無理があるのではないか。私は投票には行ったが、小選挙区については白票を投じ、一人一票に賛成しなかった二人の最高裁判事に不信任票を投じて帰ってきた。選挙制度は民主主義の基盤である。民意をできるだけ正確に反省する制度に改めるべきだろう。そうしなければ、結果のいかんにかかわらず政治不信が募る。香港の若者たちが身をもってそれを教えてくれたではないか。

 私自身は、問題もあるが、全国一区の比例代表制が最も正確に民意を反映すると考えている。何も変わらなかったように見える今度の選挙結果でも、比例区の得票数を見ると、小選挙区の獲得議席数から想定されるものとは異なる有権者の意識の一端が垣間見える。メディアの議席予想では半減と見られていた維新の党が、ほぼ選挙前の議席数を維持できたのは、比例区の得票数が伸びたからであった。このことは、予想以上の議席を得た共産党についてもいえる。一方、壊滅的な打撃を受けた次世代の党は、比例区で惨敗した。選挙戦では維新の党の江田代表が”既得権益の打破“、共産党の志位委員長が”安倍政権2年間の総括“を最大の争点として掲げたのに対して、次世代の党の平沼代表が”自主憲法の制定、集団的自衛権の積極的活用“を訴えていたこと考えれば、投票率の低さと合わせて、選挙結果は必ずしも有権者の民意を正確に反映しているとはいえず、圧勝と言われる安倍政権の基盤が必ずしも盤石ではないことを示しているように私には思われる。(M)
 
< 参考書籍等 >
人間と国家(上・下): 坂本義和  岩波新書
「平和への課題(Agenda for Peace)」:ブートロス・ブートロス・ガリ 
日本新党綱領 : 細川護煕  文芸春秋1992年6月号
日本改造計画 : 小沢一郎 講談社
国連日本駐留部隊の構想: 今井康博  牧歌舎 
高橋源一郎 : 「通販生活」 2010年秋冬号  カタログハウス社
島田雅彦 : 「文芸春秋」 2011年4月特別号 
戦後史の正体: 孫崎亨  創元社
国連とアメリカ: 最上敏樹  岩波新書
* 次回は 1月3日(土)に <人権大国への道 終章> 6.50年後の日本を想う
  を投稿する予定です。

前回に続いて、文法の面白さを示すためにもう一つ例を挙げます。皆さんは中学校か高等学校で5文型というのを習ったことがあると思います。それらを列挙すると次のようです。

・第1文型:SV(主語+動詞)Spring has come. / Birds are singing.

・第2文型:SVC(主語+動詞+補語)He is a teacher. / I am a student.

・第3文型:SVO(主語+動詞+目的語)Alice has a dog. / She loves it.

・第4文型:SVOO(主語+動詞+目的語+目的語)Tom wrote her a letter.

・第5文型:SVOC(主語+動詞+目的語+補語)The letter made her happy.

学校で文法をきちんと教えられなかったという人も、「5文型」という名前くらいは聞いたことがあるでしょう。ひょっとして、すべての英文がこれら5つの文型のどれかに入ると思いこんでいる人もいるかもしれません。たしかに多くの英文がこれらのどれかに当てはまることは事実ですが、すべての英文を無理やりどれかに当てはめようとする必要はありません。どの文型にも当てはまりそうもない英文はいくらでもあります。そういう議論は文法の専門家に任せることにして、ここでは上記5文型の表をじっくりながめて、そこからはっきりと分かる英語の重要な文法的特徴を指摘することにします。それらをしっかりと理解することは、英語学習の基本中の基本です。

さて5文型の表をながめて誰もが最初に気づくことのひとつは、英文にはつねに「主語」(Subject) が存在するということです。前回の文法の話でも述べたように、英語のセンテンスにはつねに主語が必要なのです。もちろん例外はあります。たとえば命令文には主語がありませんし、日記文の1人称代名詞(I)は省略されるのが普通です。また映画などの台詞で気づくように、打ち解けた話し言葉では主語が省略されることがあります。そういう例外はありますが、きちんとした英文には原則として主語が必要なのです。そんなことはもう「耳ダコだよ」とおっしゃるかもしれません。しかしこのことを頭の片隅で知っているのと、心の底から理解しているのとではずいぶん違います。なぜかと言うと、私たちが日常使っている日本語は、英語とはまったく違って、原則として主語を必要としない言語だからです。

例を挙げましょう。次の(1)~(5)の日本語には主語と言えるようなものがありません。主語らしいものがあるとしても、表面にはっきり出ていません。これらを通常の英語で表現すると< >内のようになります。日本語をそのまま英語に置き換えることができないので、それぞれが英語特有の表現に変えられていることに注意してください。あらためて驚くことですが、英文にはすべて明確な主語があります。

(1)ちょっと頭痛がする。<I have a slight headache.>

(2)お子さんはいらっしゃいますか。<Do you have children?>

(3)ここはどこですか。<Where am I? / Where are we?>

(4)この部屋には窓がない。<This room has no windows.>

(5)電車の中で財布を盗られた。<Someone stole my wallet in the train. / I had my wallet stolen in the train.>

日本語と英語をこのように並べてみると、両者の間にはとてつもない大きな違いがあることが分かります。その違いは尋常なものではなく、天と地ほどの違いのように感じられます。この違いを感じる人は、同時に、日本人が英語を学ぶのは容易ならぬ大事業だと思うはずです。英文では必ず主語が文頭に来るのは当たり前のことですが、日本語を習得した日本人には、それはけっして当たり前のことではありません。英語を知るということは、文を主語で始めるという感覚を全身で受けとめることです。それは一朝一夕にできることではなく、長期にわたる厳しい自己訓練を覚悟しなければなりません。

最後に、日本語と英語の表現の仕方が非常に異なることを示す例として、ノーベル賞作家・川端康成さんの『雪国』の冒頭部分を見てみましょう。それは次の短い文です。

「国境の長いトンネルを抜けると、雪国であった。」

この文の主語は何でしょうか。これを読む日本人は、文の主語が何であるかを考えることなく、感覚的にすっと理解します。しかしこれを英語に翻訳するとなると容易ではありません。主語が何であるかを考えなければならないからです。翻訳家は何とかしなければならないので、日本語の文を英語的に解釈して主語を作り出すことになります。サイデンステッカーさんの翻訳は次のようです。

“The train came out of the long tunnel into the snow country.”

これではただの客観的事実を述べただけで、原文の主観的・感覚的な叙述とはまったく異なる、面白みのないものになります(注)。日本語と英語の違いはこれほどまでに大きいのです。

(注)『雪国』のこの部分の解釈とその英訳については、言語学者・池上嘉彦氏がかつてNHK教育テレビの「シリーズ日本語」という講座で取り上げ、意味論的に掘り下げて考察していました。そのことは同氏の著書『英語の感覚・日本語の感覚 <ことばの意味>のしくみ』(NHK出版2006)にも取り上げられていますので、興味のある方はご参照ください(第6章の3)。

(1)衆議院議員の選挙中ですから、政治問題を避けて、日常の報道やCMで、疑問に思うことを考えてみることにします。まず取り上げたいのは、“過払い金”に関するCMです。利息だけでも数百万円の“過払い”をしている人が大勢いるようです。何か事業を始めようとする人であれば、かなりの額の借金をすることはあり得ることでしょう。

(2)私は金融業のことは全くの素人なのですが、金を借りた人はその時に、「利息が高過ぎる」と思わなかったのでしょうか?ニュース報道では、「無許可で金融業を営んだり、高額の利息を要求したりして警察に捕まった」といった事件を耳にします。後から“過払い金”を戻すことは犯罪とは関係ないのでしょうか。

(3)人によっては数百万円の“過払い金”を受けとれる場合がるようですし、ラジオやテレビでひっきりなしにCMを流して、なお儲かる団体などが存在しているとは、私には理解出来ません。間もなくこの手続きは終了するようですが、犯罪に近いようなこのことに時効があるのでしょうか?

(4)事件報道と言えば、「どうしてそんな地位と年齢の人物がすぐにばれるような犯罪を犯すのか?」という疑問を感じることがよくあります。例えば、海上自衛隊の隊員が、部下をいじめて、自殺に追い込むような事件もありました。“パワハラ”や“セクハラ”に関係する事件は毎日のように報道されています。こんな状態では、日本民族はいずれ自滅してしまうでしょう。

(5)報道についてのこのような悲観的な見方については、「真面目に職務を果たしている人のほうがはるかに多いのだから、そんなに悲観的になる必要は無い」と反論されるかも知れません。そういう反論をされると、私は小学校6年生の時に先生から教わった「朱に交われば赤くなる」という諺を思い出すのです。

(6)その男の先生は、習字の時間に生徒の文字を添削する時に使用する朱色の筆と水を入れた容器を取り出して、「いいかな、皆はこの水のようにきれいで、悪いことなどしない生徒だ。でもそこにこの朱色の筆を入れると、はら、すぐに全体が赤くなるだろう」と言われてクラスを見渡しました。

(7)先生はさらに続けて、「クラスに一人でも悪い生徒がいると、皆が悪くなる」ということを分かりやすく説明してくれたのです(“朱に交われば・・・・”の諺は他にも解釈があるようですが)。私にはこの恩師の説明が強く記憶に残っています。政治家は一人でも悪い奴がいればその影響は計り知れないと思います。国民は何事にも批判精神をもって対処する必要があるのだと思います。

(8)この1週間は、珍しく4種類の新聞を読みました。私は1紙をほとんど全部読みたいほうなので、同じ新聞を購読していません。たまたま今週目を通したのは、「朝日」、「読売」、「東京」「毎日」の4紙です(ざっと目を通しただけで、全部は読んでいません)。新聞も、テレビの番組がいかに視聴率を稼げるかに夢中であるように、販売部数を伸ばすことに懸命のようです(売れている新聞が良い新聞とは言えないでしょうが)。

(9)以上の4紙をあえて“右”か“左”か、で分ければ、最右翼に「読売」が来て、最左翼に「東京」が来るようです。他の2紙はその中間でしょうか。本来、ジャーナリズムというものは、“公平”を旨とすべきものでしょうが、完全に公平を保つのは不可能だと思います。どこまでを新聞社の個性として認めるべきかは読者が判断すべきことだと思います。普通の家庭では、何紙も購読する余裕はないですから、ラジオやテレビなど他のメディアを活用して、なるべく視野を広げたいものです。

(10)娯楽性というものも無視できません。連載小説や4コママンガ、時事漫画など興味をそそられます(連載小説などは購読していないと継続して読めませんが)。それにしても、毎日1紙だけを中途半端に読んで捨ててしまうというのは、もったいない話だと思います。しかし、都会から離れた山間部の地域などでは、配達してくれるだけで有難いと言わざるを得ないでしょう。現実には、“情報量にも格差が生じている”のが現代社会だと思います。

(11)書物と同じで、新聞も電子化されつつありますが、便利なようで問題の多いのが“デジタル化”です。“便利さだけに頼ると人間はバカになる”ことも自覚しておきたいと考えます。(この回終り)

(214)< 人権大国への道 終章 >

           
5.私の安全保障論  ② 平和への道筋 (1)

  私が安全保障問題を自分のストックとしての知識の根幹にしようと考えたのは、国際報道の仕事にもようやく慣れてきた30代の初めの頃のことだった。国際局のスタッフとしては、当然幅広いフローの知識が必要であることは前回触れたが、それだけだと雑学の大家で終わってしまい、社会的な事象を分析的に考察するための知識を畜積することはできない。安全保障問題を選んだのは、前にも書いたが、60年安保闘争を国会構内で取材して、デモ隊と警官隊の流血の惨事を目撃したことがきっかけであった。その時頭をよぎったのは、戊辰の役・会津戦争の凄惨な殺戮を目の当たりにして、板垣退助が詠んだという「うつ人もうたるる人も哀れなり、おなじみ国の民と思えば」という和歌だった。それから100年後の1960年、日本人が敵味方に分かれて殺し合うことなどあり得ないと思っていた。だが、この時、岸信介首相は自衛隊に治安出動を命じようとして、赤城宗徳防衛庁長官に押しとどめられた。もし自衛隊が出動していたら、日本は内乱状態に陥り、戊辰戦争、西南戦争以来の同朋相打つ悲劇を繰り返していたかもしれないのである。同時に、「おなじみ国」を「同じ地球」と読み替えれば、二つの世界大戦を経た今もなお、戦争が絶えない。人はなぜ殺し合うのか。殺し合いを命ずる国家とはなんなのか。どうすれは、悲劇は避けられるのか。結局それが生涯を通じての私の命題となった。

 そこで、海軍兵学校の出身で東京新聞のニューヨーク特派員からNHKに転籍してきた戦争記者の先輩に、防衛庁防衛研修所の教官をしていたニューヨーク時代の友人、小谷秀二郎氏を紹介してもらった。研修所では、若手研究員や各省から派遣された官僚、新聞社の外報部の記者らと研究会を開くとともに、小谷さんの名前で出版される軍備管理・軍縮関係の洋書の翻訳を手伝った。3年間の研究会が終わるにあたって、小谷さんから内閣調査室に提出する論文を書くよう指示され、「自衛隊の国連軍化」と題する小論文を書いた。私の提案の骨子は次の通りであったと記憶する。

① 自衛隊を国連待機軍と国際緊急援助隊に再編する。 
② 隊員数は両隊合わせて2万人程度とする。
③ 両隊は日本に常駐し、経費は日本政府が負担する。
④ 両隊の指揮権は国連事務総長の任命する国際公務員に委ねる。

これによって、
① 国連創立の目的である集団安全保障の中核部隊ができる。
② 日本国憲法と自衛隊の2律背反性を解消できる。
③ 無制限に拡大する性格の国防費を制限し、産軍複合体の復活を阻止できる。
④ 真に人類の平和的生存に寄与することで、自衛隊員の士気を高め、国民の自衛隊にたいする最大限の協力を得ることができる。
⑤ 日本軍国主義の復活を危惧するアジアの隣国の反日感情を解消し、平和国家としての日本に対する世界の信頼をかちとることができる。

 私がこのような提案をするに至ったのは、ひとつには、学生時代に国連創設を決めたダンバートンオークス会議の記録を読んで、敗戦による人間不信から立ち直るきっかけをつかみ、それ以来、戦争を避け、平和を永続させるには国連を強化する以外に方法はなく、そのために日本は最大限の努力を惜しんではならないと考えるようになったからであった。もうひとつは、小谷さんの翻訳書の多くが、鹿島建設会長の鹿島守之助が設立した鹿島平和研究所の出版会から上梓されることが多く、ここから出ていた本で“ヨーロッパ共同体の父”といわれるクーデンホフ・カレルギー(青山栄次郎)の汎ヨーロッパ主義を知って共鳴をおぼえたからであった。 

その後、NHKの地下にあった資料室で安全保障関係の資料や書籍を読み漁っていて、1959年 6月の雑誌「世界」に掲載されていた坂本義和東大教授の「中立日本の防衛構想」という論文に出あった。当時少壮の国際政治学者として注目されていた坂本さんの論文に私は大いに力づけられたが、基本的に同調できない点もあった。

この中で提案された「中立的な諸国の部隊からなる国連警察軍の日本駐留案」は、1956年の中東戦争に際して国連総会で創設された国連緊急警察軍を下敷きにしたもので、骨子は次のとおりである。
① 日本駐留国連警察軍は、現在の東西対立に対して中立的な立場をとる諸国の部隊から編成する。
② 国連総会において任命された司令官の指揮下に入る。
③ この国連警察軍は常に非核武装でなければならない。
④ その経費は日本国民が負担する。

坂本提案はさらに、この構想の実現性、実現した場合の実効性について検討しているが、検討の対
象が米ソ冷戦下の状況であるので、ここでは省略する。坂本さんが指摘したのは、核抑止は幻想であり、核戦争は起こりうるという前提に立てば、アメリカの核戦略の中に組み込まれた日米安全保障条約にたよるより、国連強化に尽くす方が日本の防衛にとってはるかに安全性が高いという点であった。

 その点については私も同感であったが、その後の冷戦の終結によって、坂本提案がどうなるのかについて、私の基本的な疑問点とも絡んで、新たに敷衍された論文を期待していた。

 それから20年くらい経ってからのことだが神奈川大学で開かれた日本平和学会の総会を取材した際、坂本教授が昼休みに友人とキャンパスを散歩しているのを見かけた。名刺を差し出して一寸話をうかがえないかと問いかけたが、「これから、皆と食事なので」と断られたので、右手の人差し指を挙げて「一つだけよろしいですか? 国連軍の日本駐留構想は、もうやらないのですか?」と訊ねると「そんなことはありません。これからですよ。これから」と答え、ちょっと笑って去って行った。

 坂本義和教授のこの提案は、京都大学系の国際政治学者、田中直吉法政大学教授や、京都大学教授の高坂正顕・正尭父子らから、“非現実的”であるとして激しい批判を浴びた。

 これに対して坂本教授は「日本のメディアなどでは、“理想主義”という言葉があたかも”実現性が乏しい夢“という含みで用いられることが多いが、それは事実ではない」と次のように反論している。第一に、人間にとって”理想”と”現実“を別物のように対立させることは”非現実的である。何故なら、およそ人は生きている限り、生きる目的を持っており、その目的は、まだ十全に実現されていない目標、つまり”理想”に他ならない。第二に、”現実”は歴史的に動いており、人間の目的志向、価値志向によって動かされているからである。また第三に、国際政治の現実の中で、何が起こりうるかを考え対応の選択肢を検討することは、いわゆる”現実主義者”においても、彼らの言う”理想主義者”においても異なることはないが、根本的な違いは現実主義者が国家という抽象的な実体の視点に立つのに対して、理想主義者は身体を持った市民の立場で最悪事態を具体的にとらえるのである。

 確かに”現実主義者“は、現実に埋没し、人間社会の進歩という歴史の歯車を停滞させ、もしくは後戻りさせる危険性があるし、理想主義者の創造性が進歩への原動力であったことは疑いない事実であると私も思う。戦乱の絶え間なかったヨーロッパで、日本人を母に持つオーストリアの若い貴族クーデンホフ・カレギ—が抱いた汎ヨーロッパ主義という「理想」が、今や28か国を包摂するヨーロッパ連合として「現実」になっていることを思うと、坂本さんの所信を一概に否定することはできないだろう。

 前回触れた坂本さんの遺言ともいうべき〝「いのち」をまもるたたかいの研究“ を繰り返し読んで、
平和研究に生涯を捧げた坂本さんが最後の論文の題名に、あえて漢字ではなく、何故ひらがなを選んだのか、それは、より根源的なものに目を向けよという願いを示しているのではないかと私は思った。

 さて、第47回衆議院議員選挙が2日に公示された。前回のブログで、“争点隠し選挙”であり、4年間の白紙委任を取り付ける手段であると指摘したが、大手紙の告示日紙面のリードを読むと、朝日、毎日、読売とも争点は安倍政権の2年間を問う選挙であるとしており、”争点隠し“の方は今のところあまり成功していないようだ。こうした中でNHKだけは、「アベノミクスを最大の争点とする選挙」と安倍政権の主張をそのまま繰り返しており、私には異常な感じがする。しかし、安倍政権の黒幕は、”争点隠し”が成功しないことは織り込み済みで、”争点ばらけ”でも十分だと考えているだろう。焦点がボケれば選挙戦は低調になり所期の成果が得られるからだ。
一方、低投票率で自民・公明の与党に有利という点については、野党側の選挙区調整が前回の3倍程度まで増えているので、今のところこれが議席数にどの程度反映されるかわからない。これから一週間の選挙戦では、私は、この2点がどうなっていくかに注目してみたい。野党側が大幅に議席を伸ばすには、「風」が必要だが、「風」を起こすようなインパクトのある政策も、人物も見当たらないから、多少の変動はあっても、安倍政権と与党の思惑通りの結果に終わる公算が大きい。(M)

< 参考書籍等 >

* 新版 核時代の国際政治: 坂本義和  岩波書店
* 国連とアメリカ: 最上敏樹  岩波新書
* 集団的自衛権と日本国憲法: 浅井 基文  集英社新書
* 憲法9条の軍事戦略: 松竹 伸幸  平凡社

次回は12月20日(土)に < 平和への道筋 ② > の投稿を予定しています。

文法がどんなに面白いものであるかを示すために、一つの例を挙げましょう。“I love you.” という英語を知らない日本人はいないと思いますが、これはなかなか面白い表現です。この3語から成る短いセンテンスは、英語の文法や文化について、いろいろなことを私たちに考えさせます。

まず “I love you.” とはどういう意味でしょうか。中学生でも「わたしはあなたを愛しています。」という意味だということは知っているでしょう。では次に、あなたはこの通りの日本語を誰かに言ったことがありますか?と尋ねてみましょう。たぶんないでしょう。大人の読者でも、「わたしはあなたを愛しています。」と言った経験を持つ人は少ないのではないかと思います。筆者もありません。日本語では、これよりも、「あなたのこと好きです」や「きみが好きだよ」などのほうが普通でしょう。若い人ならば、「愛しているよ」と言うかもしれません。

「わたしはあなたを愛しています。」という日本語が使われないのはなぜでしょうか。その理由は、これがいかにも翻訳調の文で、変な日本語だからです。筆者の感覚では、そのような気持ちを表わすときには、むしろ英語の “I love you.をそのまま言うほうが、自分の気持ちを伝えるのに適切なように思います。つまり、「わたしはあなたを愛している。」という日本語は、それくらい変な日本語だということです。

この日本語はなぜそんなに変な日本語なのでしょうか。その答えは、簡単に言うと、この日本語が日本語の文法規範(規則)から外れた文だからです。どこが普通の日本語と違うでしょうか。そうです、不要な語が使われているからです。日本語では、特に強調したりするとき以外には、「わたしは」という主語は要らないのです。このことは少し考えてみると分かります。目の前にいる人と話をするときに、「わたし」や「あなた」をやたらに使うでしょうか。「あなたはどこへいらっしゃるのですか。—わたしは買物にいくところです。」などという会話は自然な日本語ではありませんね。外国人の使う日本語みたいです。つまり、日本語の文は原則として主語を必要としない言語なのです。これに対して英語は、どんな場合にも(例外はありますが)、主語を必要とする言語です。

そういうわけで、「あなたを愛しています。」という言い方ならば自然な感じがします。さらに、「あなたを」を言わずに、「愛しています。」や「愛しているよ。」のほうがもっと自然な感じの文になります。なぜなら、日本語では「あなたを」という目的語も、会話がなされている状況から明らかな場合には、言わないほうが普通だからです。それに問題なのは、日本語ではいつも「あなた」と言うわけにはいかないことです。相手によって、場面によって、日本語は2人称をいろいろに使い分けます。「あなた」「あんた」「きみ」「おまえ」「てめえ」「きさま」など。うっかり間違うと大変なことになります。一方、英語は相手が誰であろうとつねに “you” です。この日英語の違いは絶大です。英語では “I love you.” の “you” を省くことは絶対にできません。

最後に “I love you.” のセンテンスで注意すべきことは、 “love” という動詞の意味と使い方です。日本語では「愛する」と訳しますが、ほんとうに「love=愛する」なのでしょうか。「愛する」という言葉を日常的に使う日本人はどれくらいいるでしょうか。英米人の多くの家庭では、夫が妻に、妻が夫に、また親が子どもに、子どもが親に、日常的に “I love you.” と言うそうです。日本の家庭ではどうでしょうか。だんだんとグローバル化されてきましたので、そういう家庭もあるかもしれませね。母が息子に「愛しているよ」と言うのも珍しくないかもしれません。しかし息子が母に「愛しているよ」と言うでしょうか。そういう家庭はまだ少ないと思います。 “love” と「愛する」は似てはいるけれども、その使い方は同じではないのです。

最近は「国を愛する」という言葉が日本でもよく耳にするようになりました。その結果、この言葉に抵抗のない人が増えただろうと思います。ところで “love” という語は、キリスト教文化と深くかかわっています。キリスト教は「愛の宗教」と呼ばれているように、 “love” がこの宗教のキーワードになっています。日本のキリスト教会に行くと、礼拝で歌うゴスペル・ソングの中に、「わたしは神を愛します」や「神はあなたを愛している」、「あなたは神に愛されている」などの文句がふんだんに使われています。これらの「愛する」や「愛される」はどういう意味なのでしょうか。 “I love you.” の意味を深く知るために、 “love” という語をいろいろな角度から研究してみてはいかがでしょうか。