Archive for 7月, 2011

<日本の病根 ⑤ 教育> 松山薫

⑤ 教育の理想と現実

 「経済は誰のために」のところで触れたエリック・フリードマンの新自由主義、市場原理主義は教育にも大きな影響を及ぼした。それを象徴するのが「教育バウチャー制度」であり、先ずアメリカで導入された。「教育バウチャー制度」というのは、“公立学校の維持に必要な公教育費の総額を公立学校の生徒数で割り、一人当たりの教育費を算出する。これを教育バウチャー(クーポン券)として生徒の配布し、生徒はこれを行きたい公立や私立の学校に授業料として支払う。学校は運営資金としてクーポン券を獲得するために競争する”という制度である。

 日本ではこれを、学校選択制という形で導入を図った。しかし、このような考え方は、結果として、社会格差の教育格差への波及と固定化につながる恐れが強く、戦後日本の教育の指針であった旧教育基本法と相容れなかった。旧教育基本法の理念は、戦前の複線型教育制度への反省から、公教育の機会均等を実現することであったからである。教育基本法の取り扱いは、この国の将来にとって根本的な重要性を持つだけに、十分な国民的議論が必要であったはずだ。

 ところが、安倍内閣のもとで行なわれた教育基本法の改定は、衆議院では、自民党・公明党によって野党欠席のまま強行採決され、参議院では質問を打ち切って採択された。しかし、教育の機会均等は憲法26条にもうたわれた国民の基本的権利である。安倍内閣は自主憲法の制定を掲げて憲法の改正にも乗り出した。参議院議員選挙の大敗北で安倍内閣は退陣し、憲法改正は遠のいたが、改正教育基本法は残った。これに基づく教育振興基本計画の中で、学校選択制の推進がうたわれている。

 こうした教育の現状の中で文春識者が指摘した教育の病根を見ると、識者達の間でも戦後教育の是非について見方が大きく分かれていることがわかる。

自分の頭で考えない  戦後教育の欠陥  偏差値万能主義  受験競争  躾の欠如  道徳教育の不在  人材選別の権威主義  国際的に通用する人材不足

 ただ、どちらの見方に立つにせよ、「自分の頭で考える」ことは教育の原点であるはずだから、今回の原発事故が、国策という名の一方的な押し付けに対し、考えることを放棄したツケであることを思えば、原発の是非をめぐって国民的議論を起こすことは、教育の原点について、ひいてはこの国の未来について考える絶好の機会になるかもしれない。

 私は教員を養成する学校で学んだので、近代教育の祖といわれるジャン・ジャック・ルソーやペスタロッチの教育論に触れる機会があったが、私としてはペスタロッチの考え方により強く共感を覚えた。「民衆教育の父」と呼ばれるぺスタロッチは、「玉座にあっても、木の葉の屋根の陰に住んでいても、全て同じ人間である」という信念の下に、産業社会における貧困の原因が教育格差であると考え、全ての子供たちに生きる力を身につけさせることを教育の目標とした。私は、教師になるなら、失意のうちに世を去ったこのスイスの教育者の考え方を受け継ぎたいと思った。勤務評定の強行によってぺスタロッチ的な考え方はやがて否定されるのではないかという暗い予感を持って教師を辞めることになったが、文春識者の挙げる教育の病根をみると、どうやら私の予感は当たったようだ。

 ところで、上越新幹線長岡駅近くの小さな墓地に、私の尊敬する二人の教育者が眠っている。ひとりは、前にこのブログに「教育者」というタイトルで書いた菊池政次先生、もうひとりは、幕末の長岡藩の家老であった小林虎三郎で、2人の墓所は50メートルほどしか離れていない。小林虎三郎の名前は、小泉首相が所信表明演説で“米百俵”の話に触れたことから知られるようになった。戊辰戦争で焼け野原になった長岡に、支藩から百俵の米が送られてきた。明日の食い扶持にもこまっていた藩士達は、刀の鯉口を切って虎三郎に分配を迫ったが、虎三郎はこれを拒み、米を売った金を国漢学校の資金に当てた。この学校の流れを汲む長岡洋学校、旧制長岡中学からは、明治から昭和にかけて多くの人材が輩出している。「国が興るのも、街が栄えるのも人材だ。食えないからこそ人材を育てるのだ。そこから築き上げていかない限り、長岡が本当に息を吹き返すことは出来ないのだ。」という虎三郎の言葉は、教育が百年の大計であり、未来のために金を惜しんではならないことを教えている。日本の公教育予算のGNP比が、OECD28カ国中の最低であるという現実を、目先の政争に明け暮れる政治家達はどう考えているのだろか。(M)

                    

「フジテレビの27時間テレビ」のこと
(1)土曜日(23日)午後8時から始まった“27時間テレビ”は、エログロナンセンスそのもので、ユーモアのかけらもない駄作でした。ちなみに、“エログロ”は、広辞苑にも載っていますが、“エログロナンセンス”は、大正時代から使われて、特に昭和初期の不景気と歴史的な意味のある用語です。ここでは、「意味のないグロテスクな騒ぎ」の意味で使っています。

(2)日曜日(24日)には従来からある番組も加えていましたが、大勢の芸人たちのバカ騒ぎが間に入るので、見ていても落ち着きませんし、後味の悪いものでした。お笑いコンビ“ナインティナイン”の矢部浩之が100キロを走るという設定でしたが、もともと、ほとんど意味のない馬鹿騒ぎをするコンビですから、最後の数百メートルを岡村隆史と並走させても、“感動した”とはとても言えませんでした。

(3)長時間放送は、もともとは日本テレビがチャリティ番組として始めたものですから、真似をするにしても、「被災地救援27時間テレビ」のように、何かテーマを決めるべきでしょう。あれだけ芸人を集め、忙しい番組構成をするのは、あまりにも時間とお金の無駄です。金を出すスポンサーも本当に納得しているのかと気になります。

(4)月曜日(25日)に平常の番組に戻ったと思ったら、中国の列車事故が大きく報じられました。さすがに言論統制の厳しい中国も、原因究明を曖昧にしたままの当局へは批判が集中しているようです。やはり一党独裁は恐ろしいと感じましたが、日本も今や“菅政権独裁”となっているのではないかと憂鬱になりました。25日(月曜日)の“TVタックル”(テレビ朝日系)でも菅首相の迷走問題を論じていましたが、テレビ番組は、どうしても“面白くする”意図がありますから、十分に突っ込んだものにはなっていませんでした。

(4)土曜日の早朝(5時半)からの、フジテレビは、毎週視聴者からの疑問や批判に答える番組をやっていますが、23日には、テリー伊藤(演出家)がコメンテーターとして出演して、「これからのテレビは、テレビでなければできない特徴を出すべき」といったまともな主張をしていました。この人の発言は物議をかもすことが多いようですが、当然のことを言っているという印象を持ちました。ただし、テレビ局は、どんな意見も“聞きっぱなし”にするのが普通ですから、番組の改善は期待できないと思います。(この回終り)

音読によるチャンク学習の締めくくりとして具体例を挙げてみます。音読ではチャンキングが大切であり、どのくらいのチャンクに区切ったら読みやすくなるかを実感していただくためです。例として選んだのは、ヘミングウェイの晩年(1952年)の傑作The Old Man and the Sea の一部です。次は書き出しの最初のパラグラフです。できるだけ自然な読み方になるようにチャンキングしてみましょう。

He was an old man / who fished alone in a skiff / in the Gulf Stream / and he had gone eighty-four days now / without taking a fish. // In the first forty days / a boy had been with him. // But after forty days without a fish / the boy’s parents had told him / that the old man was now / definitely and finally salao, / which is the worst form of unlucky, / and the boy had gone at their orders / in another boat / which caught three good fish the first week. // It made the boy sad / to see the old man come in each day / with his skiff empty / and he always went down to help him carry / either the coiled lines / or the gaff and harpoon / and the sail that was furled around the mast. // The sail was patched with flour sacks / and, furled, / it looked like the flag of permanent defeat. //

どうでしょうか、うまく読めたでしょうか。このパラグラフの総語数は148でチャンク数は25ですから、1チャンクの平均語数は5.92(約6語)です。チャンキングは読み手が読みやすいように決めればよいのですが、短期記憶の容量が7±2であるという点を考慮して、上記の例では1チャンクが10語を超えないように設定しました。ほとんどが5語から9語の範囲に収まっています。これならば、高校生でも少し練習すればうまく読めるようになるでしょう。またディクテーション(書き取り)の練習をするときにも、このチャンキングならうまくいくはずです。

 もう一か所、同じ作品から引用してみます。何回か読んで一番読みやすいと思うチャンキングを考え、チャンクの数をかぞえてみてください。一つのチャンクは最大10語くらいまでとします。テキストの内容は、老人が大きな魚をようやく捕えて帰路についたとき、大きなサメが現れたところです。

They sailed well and the old man soaked his hands in the salt water and tried to keep his head clear. There were high cumulus clouds and enough cirrus above them so that the old man knew the breeze would last all night. The old man looked at the fish constantly to make sure it was true. It was an hour before the first shark hit him.

The shark was not an accident. He had come up from deep down in the water as the dark cloud of blood had settled and dispersed in the mile deep sea. He had come up so fast and absolutely without caution that he broke the surface of the blue water and was in the sun. Then he fell back into the sea and picked up the scent and started swimming on the course the skiff and the fish had taken.

これが絶対というようなチャンキングはありませんが、読みやすく、しかもできるだけ自然な読み方をするとなると、どこで区切るかはだいたい決まってくるものです。筆者の読み方では、下記のように、最初のパラグラフは11、後のパラグラフでは13のチャンクになりました。多少違っていてかまいませんが、違っていたら、どちらがベターか考えてください。

They sailed well / and the old man soaked his hands / in the salt water / and tried to keep his head clear. // There were high cumulus clouds / and enough cirrus above them / so that the old man knew / the breeze would last all night. // The old man looked at the fish constantly / to make sure it was true. // It was an hour before the first shark hit him. //

The shark was not an accident. // He had come up from deep / down in the water / as the dark cloud of blood had settled / and dispersed in the mile deep sea. // He had come up so fast / and absolutely without caution / that he broke the surface of the blue water / and was in the sun. // Then he fell back into the sea / and picked up the scent / and started swimming / on the course the skiff and the fish had taken. //

ヘミングウェイの文章はシンプルで平易ですから、大学生はもちろん、高校生でも読める人は多いと思います。この夏休みの自主課題として、この作品を徹底的に音読するというのはいかがでしょうか。Scribnersの原書でも127頁ですから、それほど過酷な課題ではないでしょう。ぜひ挑戦してみてください。しかしいったん始めたら最後までやり通すこと——これが英語習得の奥義です。(土屋)

< 日本の病根 ④ >

④ 社会 失われた絆

 「これが私たちの望んだ日本なのか」の中で文春識者達が挙げた社会の病根は28項目に上るが、主なものを更に分類すると、次の4っに区分け出来ると思う。
 
1.ハングリー精神の欠如 チャレンジ精神の欠如 進取の気
  性のなさ  根性の不足  独立自尊の欠如 個性の欠如 
  他力本願 目先の利益優先 先送り主義 夢の欠如
2. 正義感の欠如 責任感の欠如 公共心の欠如 
  モラルの低下 環境への無関心
3. 自己犠牲の精神の欠如 利己主義 自由万能の考え方
  欲望の肥大化 足るを知ることの欠如
4 寛容の精神の欠如 和の精神の欠如 助け合い精神の
  不足 他者への無関心 連帯感の欠如 

 このように分類してみると、次のような社会が浮かび上る。

1.  の分類項から浮かび上がるのは、夢も希望もない没個
    性の無気力さ。
2. そういう無気力さが生む社会正義の欠如。
3. 社会正義の欠如から生まれる自分だけよければという
    利己主義。
4. 利己主義から生ずる他人への思いやりのなさ、その結果
    である連帯感の欠如。
 
 こう並べてくると現代日本人の社会は、もはやこれらの病根が骨がらみになって、病膏肓に入っており、手の施しようがないように見える。何とかしようと思えば、根本の病巣を突き止め、それに対する特効薬を見つけなければならない。
 
 私見によれば、根本の病巣は、人と人を結ぶ絆の喪失であり、特効薬は、他者への思いやりとそれに基づく連帯感の復活ではないか。この両三年、団地の高齢化対策にたずさわっていて、同じ様な病根は高齢化が進む我が団地にも広く、深くはびこっているように感ずる。しかし、私達は絶望しているわけではない。私達と書いたのは、高齢化対策アドバイザーが4人いるからだ。限界集落に近づく自分達のついの住み家を何とかしようという思いが連帯感を生みつつあるし、他にも同じ思いの人達がいることも段々わかってきた。
 
 震災前に数々の社会的病根を挙げた文春識者達も、震災後少し考えを変えたかもしれない。ある調査によると今度の大災害の被災者に義捐金を送った人は成人の85%に上るという。被災地でボランティアをしたいと考えている人も50%を超える。また、W杯女子サッカーでの日本選手の活躍への開催国ドイツを初め多くの国々の声援は、東日本大震災からの復興に立ち向かう日本への応援と重なった。 先日マレーシアの首都クアラルンプル行なわれた日本人会主催の盆踊り大会には3万5千人が参加したという。日本が戦後60年いかなる国にも脅威を与えることなく、困っている国には出来るだけの援助をして生きてきた道が今世界の人々の共感を呼んでいるのではないか。国の内外に、人間同士の絆を強めようとする機運が強まっているように感じられる。このような動きがインターネットによって増幅され、世界市民的な連帯感を生むことを期待したい

 人は苦境に立たされた時、人の思いやりが心に沁み、それを、いつか、だれかに、返したいと思う。敗戦で生きる目標を見失い、中学を休んでピーナツ売りをしていた時のことだ。新宿の闇市でピーナツを仕入れ、古雑誌で作った三角の袋に小分けして、京王線の下高井戸駅前の焼け跡で筵の上に並べて通行人に売っていた。50袋ほどのピーナツは。たいてい2~3時間で売り切れ、いくばくかの利益がでた。それを元手に次の仕入れをするのである。ところがある日、あまりの空腹に耐えかねて、商売ものの袋を破ってピーナッツを食べてしまった。そうなるともう我慢の糸が切れ、あっという間に残りの10袋あまりを食い尽くした。利益はおろか、元手まで食い込んでしまったことは明らかだった。我ながら情けなさにしばらくへたり込んでいたが、もう一度やりなおそうと思い直し、新宿へピーナツを仕入れに行った。いつもの店でいつもの若者に仕入れのカネを渡すと、「カネが足りないぞ」と言われ、事情を話して「その分だけ入れてください」と頼んだ。浅黄の軍服に半長靴の予科練帰りらしいその若者は、いつもと同じ量を袋に入れてくれ、驚く私に、「いいからもってけよ」と言ってさわやかに笑った。彼の笑顔は、同じ様な境遇で苦しむ私に対する連帯のエールだったと思う。私にとって生涯忘れられない、決して忘れてはならない思い出である。(M)

“なでしこジャパン”に関連して
(1)“なでしこジャパン”のサッカーチームが世界大会で優勝したことで、どの局もどの番組も繰り返し同じような場面を放送しました。特に、試合をほぼ独占中継したフジテレビは、1週間経ってもまだ同じ話題を追いかけています。まるで、“なでしこジャパン”を応援しなければ、“非国民”と言われそうな雰囲気です。私が以前にも批判しました“感動の押しつけ”です。フジテレビは間もなく始まる“27時間テレビ”で、さらに“感動の押しつけ”をしようとしています。

(2)日本人の中には、スポーツには関心の無い人もいますし、戦争中の言論統制を経験した世代には、“非国民”と言わんばかりのこの雰囲気は、むしろ苦々しい思い出と繋がります。私は個人としては、ほとんどのスポーツが好きですし、女子サッカーの夜中の中継も1時間ほど見ました。でもスポーツには勝敗はつきものです。世界一になったからといって、有頂天になるのは馬鹿げていますし、ましてや、ニュース伝達者の冷静な姿勢というものが見えなくなるのは恐ろしいことだと思います。

(3)考えてみれば、今の日本にはこの程度のことで“うさを晴らす”以外に気持ちがスッキリすることがないということなのでしょう。例えば、日本人が“安全無害な”エネルギーの開発に成功して、ノーベル賞を受けるといった場合ならば、私は喜べます。しかし、「それで景気を快復させよう」と大企業が言い出すのでは、素直に喜べません。もう「景気」の意味を再考すべき時だと思うからです。

(4)あきれて怒る気にもなれないのは、菅首相の言動です。ある報道によれば、女子サッカーの応援に数千万もかかる政府専用機を使って、ドイツまで行きたいと言ったそうです。側近たちは、「そんな金と時間があるなら、被災地のことを考えろ」と忠告したのではなく、「党の総裁になってから選挙に一度も勝っていない総理が行くのは縁起が悪い」と言ったとも報じられました。そんな側近の声しか首相の耳には入らないのでしょう。

(5)今の政府が“政治家主導”になっていないことは、「そこは危険だから住むな」とか、「汚染の疑いのある牛肉は食べるな」のような言い方が多いことで分かります。日本社会では、「お上の命令には逆らえない」という庶民の姿勢が伝統的に残っていますから、権力を手にした政治家はどうしてもそういう庶民の態度に甘えてしまうのでしょう。「するな」ではなく、「しましょう」と言うだけでも、考え方が違ってくることを教えたいものです。(この回終り)

ここで音読の効用についてまとめておきましょう。音読は、第一に、英語の音声的技能をしっかりと身につけさせてくれます。私たち日本人にとって英語は日常語ではありませんから、母語のように自然に身につけることは困難です。意味のよく理解できた英文をたくさん音読することによって、意識的に、英語らしい発音を身につけていく必要があります。学校で習えば自然に発音が上手になるわけではないのです。その発音はネイティブ・スピーカーと同じレベルの発音である必要はありません。しかし理解可能な、英語らしい発音でなければなりません。そのためには、子音や母音の発音だけではなく、正しい区切り方(チャンキング)、強勢とリズム、イントネーションを身につけることが重要です。音読はそのための非常に良い練習の場を提供してくれます。英語の知識は充分に持っているのに、発音が悪いために損をしている人がなんと多いことでしょうか。その人たちは自分が英語の発音に向いていないなどと、悲観的に考えているのではないでしょうか。どうかそういうマイナス思考から脱却して、自信をもって発音できるように、自分自身の英語を作り上げてください。

 英文の音読によって得られるものは英語の音韻システムだけではありません。チャンクは「語が集まって意味的にまとまりをなすかたまり」ですから、それは英文を理解するときだけでなく、英語で発話をしたり文章を作成したりするときにも、頭の中で(ワーキング・メモリーとして)処理される重要な単位となります。そのような語のかたまりを「語彙チャンク」と呼ぶとすれば、英語が使えるようになるには、語彙チャンクをどれだけ多く蓄え、どれだけ自由に使えるようにするかが当面の課題になります。それらは、このブログの「英語文法の学習」ですでに述べたように、形式的には名詞句・動詞句・形容詞句・副詞句・前置詞句などですが、それらの中には多数のイディオムや慣用表現やコロケーションが含まれます。良い英文を何回も音読し、有用と思われるチャンクを記憶し、それらを実際の発話や作文で幾度も使うことによって、必要な言語能力が養われるのです。

 次に音読は文法規則の自動化に役立ちます。これは以前にはあまり言われなかったことですが、最近ようやくこのことに気づかれるようになりました。正しい音読をするためには、英文を正しく区切ること(つまり「チャンキング」すること)が必要ですが、そのためにはいろいろな文法の知識が必要です。たとえばどれが主語の名詞句でどれが動詞句か、またどれが動詞でどれが修飾語か、などの基本的な知識が不可欠です。これらの知識は英語のもっとも基本的な知識であり、この知識なしには英文を理解することも作り出すこともできません。音読はそのような知識をただ頭で理解するのでなく、実際に声を出して言葉を体験することで、感覚的に瞬時に認識する能力を養うのに役立ちます。同時に、他の諸々の文法規則についても、反復によって自動化されます。

 音読のもう一つの効用は、それをスピーキングの技能へと発展させることが容易なことです。音読はそれ自体を楽しむという面もありますが、音読の方法を少し工夫すれば、それをスピーキングに発展させることができます。舞台や映画の俳優たちは台詞を覚えなければなりません。台詞を覚えるためにはまず音読することから始めます。次に、人によっていくらか違うかもしれませんが、台本を見ないで言う練習をするはずです。学校の英語の授業で ‘read and look up’ という練習をしたことはありませんか。テキストを目で見て、次に顔をあげてそれを反復するというものです。まず短いチャンクから始めて、慣れてきたら一口で言うチャンクを長くしていきます。テキストを音声化したものがあればそれを聴き、文字を見ずに、間を空けずについていくという練習法(shadowing)もあります。暗唱は得意な人と得意でない人がありますので、得意でない方はあまり無理をせずに、read and look upで留めておいて結構です。それでも、自分で文を作るとき、記憶したチャンクがほとんど無意識に頭の中から出てくるということがある筈です。そのような言葉の無意識的な使用が習得につながります。筆者は以前に『英語コミュニケーションの基礎を作る英語指導』(研究社、2004)という本を書きましたが、その中で、音読について次のように書きました。「英語によるコミュニケーション能力を養うためには、まず英語の音韻と統語の基本的システムを習得し、自分の意志を伝達するのに必要な基本的語彙および語彙チャンクを蓄積することが必須である。これらの基礎的言語能力なくしてコミュニケーションは成り立たないのである。そして、基礎的言語能力を養成する最良の方法は音読である。」(p. 155) この考えは今も変わっていません。(To be continued.)

< 日本の病根 ③ > 松山 薫

③ 経済は誰のために

 私は、1929年、つまり第1次大戦後の世界大恐慌の年に生まれた。父は銀行員であったが、当時、上役の机の上には履歴書がうず高く積まれていたという。お前の代わりはいくらでもいるから文句を言わずに働けという無言の脅しであった。失業者があふれる中で、辞めれば即一家心中という恐怖にかられ、大家族を支えるために、ただひたすら働いていたのだろう。父の遺影を見るたびに、苦労をかけたなあと思う。それから80年経ち、私が父の亡くなった年齢に近づいた2008年、リーマンショックによる世界同時不況が起きた。自動車業界を中心に、派遣切りや雇い止めが急増し、路上生活者が目立つようになった。不況に企業が雇用調整をするのは当然だと説くTV評論家の顔が、親父の銀行の上役と重なり、働く人達にとっての経済の仕組みが基本的に何も変わっていないことを痛感させられる。

文春識者が挙げた経済に関する現代日本の病根は次の10項目である。
財政破綻  地方の疲弊  少子高齢化  世代間の不公平  社会保障制度のひずみ 犯罪的経済人の跋扈  不公平・不公正税制  富の偏在  女性差別  若者の雇用不安

 政治と経済は根っこのところで結びついているから、政治的な対米従属性が経済的従属性に結びつくのは当然である。戦後日本はアメリカ頼りで経済復興を果たしてきたが、それはまた、アメリカ経済を補完する役割を果たすことでもあった。よく考えると、それはさまざまなところに現れているのだが、顕著な例として挙げられるのが、1990年代の初めに日本がアメリカに約束した10年間で630兆円に上る公共投資である。これは、アメリカの対日貿易赤字を縮小するための日本の内需拡大を狙ったものであったが、今日の財政破綻の一因になったことは明らかである。またこれらの投資に当たっては、地方自治体が事業主になるので、地方財政を圧迫することにもなった。北海道夕張市の財政破綻はその一例である。その夕張市では総合病院が破綻して、個人の医師が後を引き継いでいたが、救急患者の受け入れを拒否して、患者が死亡するという事件が起きた。救急患者を受け入れる予算が全く無かったからである。

 現在日本の財政赤字は、中央、地方合わせて800兆円を超え、もはや財政再建は不可能に近ずきつづある。これを何とか民間の活力によって再建しようと試みたのが、小泉構造改革であった。その政策の理論的背景には、小泉首相と同じ劇場型政治家と知られるアメリカのレーガン大統領のレーガノミックスの生みの親、エリック・フリードマンの新自由主義、市場原理主義の考え方があった。規制を撤廃し、企業の自由を最大限に保証して、すべてのものを市場を通して取引するという考え方である。”聖域なき改革”を旗印に、抵抗勢力を仕立てては、次ぎ次に規制緩和、撤廃を推し進める政治手法に、国民は喝采を送り、小泉政権は5年半も続いた。しかし、この改革の結果残ったものは、アメリカ的格差社会、不平等社会であった。フリードマンの考え方を推し進めれば、こういう結果になることは。アメリカの先例を引くまでもなく、世の中は一握りの経済的強者とその他大勢の弱者から成り立っているのだから、当然の帰結ではなかったか。中でも、医療、福祉、教育、労働条件など、人間が生きていくための基盤となる社会的インフラまで市場原理、つまり” カネモウケ“の対象にしたことから、経済的ひずみが拡大し、夕張のような悲劇が起きた。春秋の筆法を持ってすれば、この不幸な患者は、フリードマンに殺されたことになる。

 いつの世にも、誤まった政策の犠牲者は庶民である。働きたくても働く場のない人達は勿論、
働いている人達の多くも常にやりばのない不安や不満を抱えている。特に日本では労働組合の力が弱いから、その不安や不満を代弁してくれるものがない。労働法学者の藤田若雄(元東大教授)は、「労働組合を持たない労働者は本質的には奴隷と同じである」と言ったが、従業員は企業に身も心も捧げることを求められ、“karoshi”という日本語がOEDに掲載されたりすると、あながち誇張した言葉とも思えない。最近の九州電力やその子会社による”やらせメール”などから、一層その感を深くする。多分悩みながらも、結局は”長いものには巻かれろ”ということになったのではないか。もし悩みも良心の呵責も無く会社ぐるみで”やらせメール”を送ったのなら、それはもはや評論家佐高信のいう“社畜”と化したとしか言いようがない。

 昭和大恐慌から更に80年をさかのぼれば、坂本龍馬が生きていた時代である。NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の中で最も私の印象に残ったのは、竜馬が苦界に身を沈めた女性に「ワシの願いは皆が笑って暮らせる世の中をつくることなんじゃ」と語りかける場面であった。我々の社会にとって、龍馬の願いは、見果てぬ夢に終るのであろうか。(M)

 

日本の高校生では、おそらく、1つのチャンクが10語を超える長さになると、短期記憶の容量を超えてしまうことがあると思われます。すると、それをひと息に読むことが難しくなります。できるだけ10語以下になるようにチャンキングしてみてください。そうすると、何通りかのチャンキングが可能であることが分かり、それによって読み方がいくらか違ってくることに気づくでしょう。たとえば、前回挙げたアリスがうさぎの穴に落ちていくときの様子を描いた最初の文は、次の(1)のようにできるだけ小さなチャンクにして読むときと、(2)のようにやや大きめのチャンクにして読むときでは、リズムやイントネーションが微妙に違ってきます。一度声に出して読んでみてください。

(1) The rabbit-hole / went straight on / like a tunnel / for some way, / and then / dipped suddenly down, / so suddenly, / that Alice had not a moment / to think about stopping herself, / before she found herself falling down / what seemed a deep well. //

(2) The rabbit-hole went straight on / like a tunnel for some way, / and then dipped suddenly down, / so suddenly, / that Alice had not a moment / to think about stopping herself, / before she found herself falling down / what seemed a deep well. //

(1)の読み方は、この文章を初めて読むときや、小さな子どもに読んで聞かせるようなときの読み方になるでしょう。読む速度は非常に遅くなります。英語ではそれぞれのチャンクの最後のところで音調が変化しますから、これだけたくさんの切れ目があると音調の変化が頻繁に起こり、よほど表情をつけて読まないと聞いている人は退屈します。(2)はそれぞれのチャンクが数語ですから、「7±2」の範囲に収まっており、高校生以上の学習者ならば、すこし練習すればさほど無理なく読めるようになるでしょう。ネイティブ・スピーカーが読むような、もっと自然な読み方では、さらに大きなチャンクになると思われます。このテキストではコンマがチャンクの切れ目を示しています。原作者は、明らかに、このテキストが読まれるときのチャンキングを意識して書いています。

 このように音読は書かれた文章を音声化する作業です。それは英語の音声システムを自分のものにする大切な学習活動です。文章のすべてが音声化されることを期待して書かれているわけではありませんし、どのようにしても、うまく音声化できない文章というのがあります。そういうテキストは初級や中級の英語学習者には不向きです。しかし現代語で書かれる普通の文章の多くは、作者自身の頭の中に響いてくる音が文字に変換されるという作業が無意識的になされており、作者はいつも意識しているわけではないけれども、それが読者によって音読されることもある程度予想しています。いちばん分かりやすい例は戯曲です。戯曲は作者の書いた文章がそのまま俳優によって発話されることを前提としていますから、俳優はそれぞれの台詞を暗記し、自分のものとし、それをあたかも自分の言葉であるかのように発し、演じるものです。すぐれたエッセイもそうです。上記のルイス・キャロルの『アリスの地下の冒険』は子どもを楽しませるためのファンタジックな童話ですが、それは10歳のアリスによって声を出して読まれることを作者は期待しています。ですからこういうテキストをたくさん音読することで、英語という言葉の響きとリズムと抑揚を身につけていくことが大切だということがお分かりいただけたと思います。英語の母語話者もたぶん幼い頃からそのようにして英語の音声を身につけました。私たち日本人もそのようにして日本語の音韻システムを身につけました。英語学習の第一歩は良いテキストの音読から始めるのがよいというのが筆者の主張です。

 先ほど送られてきた雑誌を見ていたら、シェイクスピア研究者として著名な東大教授・河合祥一郎氏の文章が目にとまりました。「私はこうして英語をモノにしました・・・」というエッセイで、高校生のとき、BBC制作のJane Eyreのラジオドラマを録音して文字に起こし始めたが、音だけでは不安なので、ペンギン版の原書を買ってきてその文字を追いながら録音を聴き、最後には朗読されたすべてを文字に起こしてタイプ原稿を完成させたというのです。これはすごい! 河合氏は今も英語の原書を学生に音読させ、毎回30ページくらい読み進める授業をなさっているそうで、次の言葉に感銘を受けました。「そうした授業を通して改めて、洋書は音読して読むのが一番だと実感している。発音してみて初めて作品がどんな音で綴られているか理解できる。自分で朗読した後、ネイティブによる朗読を聴いて読み方のコツを学びとる時間があれば理想的だ。」(「英語教育8月号」大修館書店、p. 13)これはまさに筆者の言いたいことを代弁してくれています。 (To be continued)

< 日本の病根 ② 承前 >

② 政治の貧困

 文春識者が大震災前に挙げた日本の病根のうち、国内政治に関するものは、次の14項目である。

官僚支配体制  中央集権体制  地方分権、地方主権への理解不足  政治家の堕落  
政治家の餓鬼化  国会議員の劣化  一党支配体制の残渣  野党の力不足  小選挙区制の弊害  首相公選制がないこと  政権の不安定  ポピュリズムの横行  愚かな国民  国民の政治的無関心  

 その直後の3月11日に起きた想定外の大災害への対応の中で、はからずも、これら政治の病根が一気に吹き出したようにみえる。対応が後手、後手にまわる政権と与党、それをなじるばかりでなんの建設的協力も提案もしない野党、被災者そっちのけで政治的駆け引きにうつつをぬかす政治の有様に、ほとんどの国民はただあきれ果てている。震災被災地での暴言で辞任した松本復興相の言動などを見ると金子兜太の言う”政治家の餓鬼化”も極った感がある。ちなみに、この人物は3代目の世襲政治家である。だが、このような政治家や政治を生んだ責任は国民にもあるだろう。見方によっては、これらの病根のよって来るところは、すべて国民の政治的無関心に帰着するからだ。

 小田急線でNHKに通勤していた頃、私は車中でTIMEなどアメリカの週刊誌を読むことを習慣にしていた。レーガンvs.カーター の大統領選挙の特集を読んでいると、相模大野駅から乗った中年のアメリカ人女性が ” Which do you think will win ? “と声をかけてきた。特集の表紙を見たのだろう。“ Reagan, I suppose. “ “ Why do you think so ? ”、 午後の出勤で電車が比較的空いていたので、20分くらい立ち話をした。この女性は経堂駅で下車する時、日本に来て初めて日本人と政治の話をすることができてたいへん嬉しかったと言って降りていった。多分相模原の米軍施設に勤める軍人の妻だろうと思うが、十分傾聴に値する意見を聞かせてくれた。自分達の代表を選ぶのだという気概さえ感じられて、羨ましく思った。

 アメリカ大統領選挙は4年に一度の政治的なお祭りだという人もいるが、私はそうは思わない。一年に及ぶ選挙戦を通じて、候補者も有権者も政治的に鍛えられていく。戸別訪問が許されているから、有権者はいやでも旗幟を鮮明にし、その理由を述べ、時には論争しなければならない。そのためには情報を集め、自分なりに分析をしたうえ、自分の判断が正しいかどうかを知るため、日々のTV報道などに関心を持たざるを得なくなる。そういう有権者の厳しい目 よって、大統領にふさわしくないと思われる候補者は、化けの皮は少しづつはがされていく。
大統領選挙戦には弊害も指摘されるが、有権者の政治意識を高める役割は、それを補って余りあると思う。民主主義の根幹は制度であり、手続きであるという原則を改めて確認したい。

 日本においては、半世紀にわたる自民党一党支配の中で、国のリーダーは国民のあづかりしらぬところで決められ、党内派閥の都合でたらい回しされ、近年では、それがころころ変わるという珍現象さえおきていた。2009年秋の民主党による政権交代の後も、党内の派閥の離合集散で国のリーダーが決まるという構図は変わらず、政治の混乱に拍車をかけてしまった。もはや落ちるところまで落ちた以上、国のリーダーを選ぶ制度、手続きの改革の方法を真剣に考えなければならないだろう。

 その場合の有力な選択肢に、大統領制に近い首相公選制がある。首相公選制の導入には憲法の改正が必要である他、いろいろ問題点もある。例えば、小泉元首相の私的な懇談会の報告書は、次のような利点と問題点があるとしている。先ず利点としては 統治機構の中に広く国民全体の利益を代表する部門が一定の独立性をもって存在するようになる。2.首相の政治的基盤と民主的正当性が確保される。3.在任期間の安定と業績や責任が明確になる 4.官僚制に対する上からの統制が強化される。一方問題点としては、1.首相が属する政党少数派である場合の国会とのいわばねじれ現象による政治の停滞 2.首相を選出し内閣を支えることで求心力を保っている政党が弱体化して、議員が一層地域利益密着型になる可能性がある。などを挙げている。

 首相公選論は敗戦直後から出ては消えまた出ることを繰り返してきたが、首相公選制に対する批判で目立つのは、ポピュリズムの問題である。前記の報告でも、国民が候補者の政策や首相としての能力を十分に理解し評価した上で投票するに足る客観的な情報が適切に提供され、国民がそれを活用して冷静な投票が出来るかどうかの懸念が残るとしている。ポピュリスト的政治家としては、アメリカではレーガン大統領、日本では小泉首相がよく引き合いに出されるが、彼等の政治手法に有権者が論理よりも感情によって動かされたことは否めない。

 不死鳥のように甦る「首相公選」論は、政治のありように対する不信感の表れであり、実現の方法を真剣に考える必要がると思う。これによって有権者の政治に対する無関心が解消されるならば、他の13の病根の半分くらいはおのずから消えることになるだろう。
* ポピュリズム(populism )本来は人民(people)のための政治という意味だが、大衆迎合、衆愚政治という意味に用いられることが多い。(M)

テレビの“食べる場面”を考える
(1)相変わらず“グルメ”番組は衰えを見せず、“食べる場面”はほとんどの番組に現れます。被災地を扱うのでも、「名物の~が復活した」とか、「芸能人がグループで炊き出しをして、その目玉は…」といった報道の仕方です。女性のレポーターが多いようですが、一口食べて、口を手で隠しながら、「うーん」と鼻声を出して、「とても美味しいです」といった言い方をします。花粉症だったらどうするのだろう、と思わせるようなしぐさです。

(2)3、40年前までは、“食卓の場面”というのは、一家団欒の象徴でした。今風に言えば、「家族のコミュニケーションの場」だったわけです。それが最近は、食べること自体が目的になってしまって、しかも、つたないレポーターが貧弱な語彙で味の報告をしても、視聴者に訴えることにはなりにくいのです。「味」を言葉で表現するのは簡単ではありません。かなり以前に、日本人ソムリエの説明のCD を聞いたことがありましたが、「このワインにはほのかに香る南仏の大地の香りがして…」などと言うのを聞いて、それ以上聞くのを止めました。「南仏の大地の香りなんてし知るか!」といった心境でした。

(3)食べさせるテレビの番組で一番ひどいのは、朝日テレビ系の「お試しか?」です。人気レストランやコンビニの商品のうち、10位以内の商品を当てないと、罰ゲームとして注文した商品を全部食べるというものです。世界には、食料難に苦しむ子どもが沢山いるという時代に、「むりやり食べさせる」という神経が私には分かりません。食料自給もままならぬ日本で、クイズならともかく、食べることをゲームにするような時代ではないはずです。

(4)食事とか食物というものは、ある地域や民族の文化と深く結びついているものですが、地球規模の国際化とともに、食文化にも変化が要求されています。例えば、日本人は、お蕎麦を食べるのに、大きな“すする音”を立てます。音を立てないと美味くないとか、無音だったら、落語の芸も意味がなくなると言う人もいます。しかし、欧米人はスープを飲む際も音を立てることはテーブルマナーに反するし、そういう音には不快感を覚えるようです。つまり、これはエチケットの問題です。エチケットであるならば、相手に不快感を与えないように配慮すべきでしょう。欧米人にへつらうことにはならないと思います。

(5)それにしても、トーク番組でも、バラエティでも、どうして必ずと言ってよいほど、“食べ物”を出すのでしょうか。フジテレビの「めざましテレビ」などは出演者が役得のように考えているとしか思えません。「立ち食いはお行儀が悪い」という批判には、「デパ地下の試食のようなもの」と弁明をしたことがありますが、最近は全員が座りこんで、特に独り者の大塚キャスターなど、ここぞとばかり“朝食”にかぶりついています。進行役のアナウンサーだけは食べずにいますが、当然のことです。それにしても、番組制作者の神経は異常だと思わざるを得ません。(この回終り)