Archive for 11月, 2013

(番外−2)東京オリンピック返上論    松山 薫

 2020東京五輪の招致に決定的な役割を果たしたといわれる安倍首相の「原発汚染水はunder control」という発言の欺瞞性については、これまでも何回か採り上げてきたが、安倍首相と並んで招致の”功労者“といわれる猪瀬東京都知事の選挙とカネをめぐるスキャンダルが明るみに出て、私は、東京招致の正統性に決定的な疑問を抱かざるを得なくなった。

 日本国と首都を代表する二人の政治家が、信頼という政治の根底を踏み外したことは、フェアプレイを根本とするオリンピックの理念を真っ向から否定するものであり、猪瀬知事は辞任以外に都民や国民、世界の人々を納得させる道はない。そうなると都知事選挙のやり直しだが、その時には五輪返上を主張する候補者にも出てもらい、その候補の得票数によっては2020東京五輪を返上することを考えなければならなくなるはずだ。候補者には、いち早く東京五輪招致に反対し「最後のひとりになっても反対する」と頑張っている元ニュースキャスターの久米宏がよいかもしれない。

 私は前回の東京オリンピックを取材してオリンピック運動の持つ意義と力を実感した。
(アーカイブ 2012−6−9 五輪取材余話)。だからオリンピックそのものに反対しているわけではない。しかし、石原前知事時代からの東京招致運動には疑問を感じていた。その理由は次の通りである。

① 近代オリンピックの創始者ピエール・ド・クーベルタンが、ギリシャ国王のギリシャ恒久開催という執拗な要求を退けて、5大陸での開催を貫いたのは、オリンピックを通じて世界人類が結ばれることを願ったからであり、東京に限らず、複数の都市が立候補した場合は、未開催の都市を優先すべきだと思う。
② 今回の立候補都市のうち、未開催都市はイスタンブールのみであった。しかも、5回目の立候補である。したがって、私は何らかの優先権を与えるべきであったと思う。勿論IOCの規約上は、そのようなことは出来ないから、IOC委員の見識が問われたのである。
③ イスタンブールはアジアとヨーロッパを結ぶ地点にあり、また、開催されればイスラム圏では初めてとなる。今、世界はイスラムを理解することが緊急の課題となっている。オリンピック精神に照らして、東京よりイスタンブールに開催の大義があった。
④ このため、投票日直前まで、海外のメディアは、イスタンブール優勢を伝えていた。これを覆したのは、日本チームのロビイングだったとされる。このこと自体がきわめてアンファアな印象を与える。
⑤ オリンピック精神の中核は言うまでもなくフェアプレイである。東京の招致費は前回も不明朗な点が多く問題になった。祝賀ムード一辺倒の中で、今回の75億円の使途も公表されていない。
⑥ 最もンフェアであったのは、東京招致の最大の障害といわれた福島第一原発の汚染水もれについての、” under control “ という安倍首相の発言だった。嘘をついて五輪を招致しといわれても仕方ないだろう。国の代表者がこのような言動をし、それを国民が支持する。後世、国家の品格が問われることになるかもしれない。
⑦ それまでしてオリンピックを招致するのは、11兆円とも100兆円ともいわれる経済効果である。オリンピックを金儲けの手段にする傾向を助長する。東京の組織委の予算は、3412億円、そのうち放送権料が800億円、企業の協賛金が1155億円と、企業からのカネが60%を占める。
⑧ マスメディアによって喧伝されるオリンピックムードは、今日本が抱える深刻な諸問題−貧富の格差、社会保障の衰退、労働条件の悪化、偏狭なナショナリズムの台頭など−を覆い隠す役割を果たす。
⑨ 選手は、東京で開催すれば色々有利な点がある。しかし、本当に実力のあるアスリートなら、どこでやろうが問題ないはずだ。むしろ私は日本人の素晴らしさを、外国で示してもらいたかった。
⑩ ブエノスアイレスのIOC総会で東京招致が決まった時、”Congratulations !”と猪瀬知事の手を握ったジャック・ロゲ会長は今どんな気持ちでいるだろうか。この大会で引退するロゲ会長はサマランチ前会長の下で招致運動をめぐってIOC委員の中に拡がった腐敗を一掃しようと戦った人だった。

 猪瀬知事は、医療法人の徳州会から5000万円を受け取った事実について、最初は「まったくない」と主張しながら、すぐ前言を翻し、受け取りを認めた。立候補の挨拶に行ったと述べながら、選挙には使っていないと強弁するこの人物の弁明を信ずる人がいるだろうか。徳州会がどんな組織であるか病院建設の認可や医療行政を担当していた猪瀬前副知事が知らなかったわけはないだろう。

 今から40年近く前、私が茅ケ崎市に住んでいた頃のことだが、旧態依然たる市政を、市民参加の市政に変えたいと願って私の同僚が茅ケ崎市長選挙に立候補した。その頃徳州会は大阪に続く全国で2番目の病院を茅ケ崎市に作ろうとして市の医師会から猛反対を受けていた。我が陣営は「命だけは平等」「24時間患者受け入れ」などの理念に賛同して徳州会の進出を支持し、私も賛成の応援演説をぶってまわった。その時初めて徳田虎雄に会ったが、病院のスタッフを猛烈に叱咤し、時にはビンタをくれる強烈な個性は未だに脳裏に焼きついている。

 その後徳州会茅ケ崎病院は地域の中核病院になった。私自身、この病院で胆嚢摘出手術を受け、1ヶ月の入院生活を送ったが、東南アジアに建設予定の病院へ行きたいので英語を勉強しているという若い外科医の皆さんをはじめ献身的な看護師さん達、病院食とは思えないうまい食事を提供してくれたスタッフに、若き日の徳田虎雄の理念がなお生きていることを感じて嬉しかった、だが同時に、長引いた入院のつれづれに、多くの患者達の話を聞いているうちに、徳州会が、「健友会」という組織を通じて政治活動の資金を作っていることも知った。医師会の既得権益と金権体質を批判していた徳田もまた、ミイラ取りがミイラになってしまったのである。多くの人々の善意を徳田は金に換えた。猪瀬はその金にたかったのである。選挙の直前に曰くつきの人物から金を借りて、釈明できると思っているなら、政治家としての資格はない。言い訳をすればするほど自縄自縛になるだろう。 

 コラムニストの天野祐吉は亡くなる少し前に、朝日新聞に連載の「CM天気図」で経済成長万能のこの国の空気を嘆いていた。“金だ金々、金々金だ、金だ金々、この世は金だ、・・・”というざれ歌を引用して、「今この国は景気さえよくなれば、憲法を変えようが原発を再稼動させようが”ええじゃないか、ええじゃないかの空気に溢れている。昔はこういう情けない空気を新聞やテレビは痛烈に批判したもんだが、いまはアベノミックスがどうしたこうしたと金勘定のニュースが最優先みたいだ」と述べている。寿命を悟ってのこの世への置き土産ではなかったかと思う。彼が親交のあったという小沢昭一もまた、“金だ元から末まで金だ。みんな金だよ一切金だ。金だ金だよ五輪も金だ”と軽妙に歌いとばしただろう。同時代を生きた同年代の一人として、心からの共感をおぼえ、微力ながら彼等の志を継ぎたいと思う。(M)

「何のための改変か?」
(1)通常は毎年4月と10月はテレビ・ラジオの番組がかなり変更になります。最近の芸能ニュースで視聴者の多くが驚いたのは、フジテレビの人気番組『タモリの笑っていいとも!』が来年3月で終りになるというものでしょう。その理由については、「タモリが放送局と喧嘩した」とか、「プロジューサーがタモリに無理難題をつきつけた」とかいろいろ言われています。

(2)ここでは、そうしたゴシップに付き合うことは止めます。『笑っていいとも』の特色の1つは、タモリがゲストとの“トークショー”のコーナーだと私は思います。トークショーの成否は、“ゲストの質”よりも、“聞き手の技”にかかっています。その点、タモリは良い技を持っていると私は評価してきました。彼には、本番直前までその日のニュース番組を視聴していたと思わせる発言が何回かありました。彼は目に見えないところで努力していると思います。

(3)トーク番組の成否は、司会者(質問者)の腕にかかっているわけで、黒柳徹子の『徹子の部屋』(テレビ朝日系)もそうですし、『はなまるカフェ』(TBS 系)では、尋ねるほう(主として薬丸、岡江)がかなり細かい気遣いをしています。この『はなまるカフェ』も3月には消えるようです。

(4)ラジオはテレビよりも電波の届くところが限られるようですが、私のところでは、NHK の第1、第2、文化放送、TBSくらいしかうまく受信出来ません(外にアンテナを張ることはマンション経営者から禁じられています)。それでも、ラジオは、目まぐるしいテレビ画面の無駄な繰り返しがないだけ、落ち着いて聞けますから、時局問題などはラジオで聞くほうが私は好きです。

(5)長寿番組というものはマンネリ化してしまうことは確かです。それを防ぐのも出演者(特に司会者)の腕にかかっていると思います。『サワコの朝』(土曜日、TBS系)の阿川佐和子氏は、『聞く力』(文芸春秋新書)という本を書いて、それがすごく売れたようです。一方、同じくTBS の土曜日の看板番組『世界不思議発見』は草野 仁氏が司会をしています。草野氏はバラエティ番組に出過ぎだと思いますが、司会者としての細かい気遣いが感じられます。

(6)同じくTBSの『噂の東京マガジン』(日曜午後1時~2時)の司会の中心は森本 毅郎氏で、その公平な発言が視聴者に受けているようです。森本氏も草野氏も元NHK のアナウンサーで、偶然かも知れませんが、やはり若い頃からの基本的な訓練が出来ている感じがします。民放のアナウンサーでも優秀な人がいますが、民放はスポンサーを大事にしなければならないので、プロジューサーの権限がアナウンサーの個性を生かしていない感じがします。フリーになると急に腕前を上げるアナウンサーが少なくありません。

(7)ここで、「なぜ番組を改編するのか?」という問題の答を考えなければなりません。民放では何よりも視聴率を大切にしますから、少しでも視聴率の低下が始まると、「何とかしなければ」ということになるのだろうと思います(この点では、NHK も似たようなものです)。民放は視聴率が下がれば、スポンサーがつかなくなりますから、各局とも必死なのだと思います。そうでなくても、スポンサーはインターネットに取られています(私はネット上の広告はとても邪魔で大嫌いです。だから無料で利用できるのだと分かっていてもいやです)。

(8)“WOWOW” がやっているように、視聴者が見たいものだけ選ぶことが出来て、それを有料にするのも1つの方法です。NHKは現在でも料金の徴収にはかなりの洩れがあると言われていますから、「見たい者が見たい分だけ払う」という方式が良いと私は考えます。実施上は様々な問題(例えば詐欺のような)があるでしょうが、研究してみる価値はあると思います。どこかの国の放送のように、政府がすべてを制御するような放送局が出来ないうちに。(この回終り)

Q1 : <大学生>いつも思うのですが、学校で習う英語と母語話者の使う英語はかなり違うのではないかと。そうだとすると、教科書の英語が分かるようになっても、母語話者の英語は分からならないのではないか。実際のところはどうなのでしょうか。(前回のQ2)

Q2 : <会社員>学校を出て10年になります。TOEICは720点までいきましたが、いまだに英語に苦労しています。ネイティブ・スピーカーの言うことがしばしば聴き取れません。公式の場のスピーチなど、きちんとした英語はだいたい聴き取れるのですが、非公式な場の雑談のようなものが苦手です。

A : 上記のQ1は前回に掲載したQ2ですが、この問いに関する答えをまだ充分に尽くしていませんので、今回もう一度取り上げることにします。まず前回の最後に書いたことをまとめておきます。およそ次のようなことでした。

私たちが学校で教えられる外国語としての英語は、概してフォーマルなスタイルの英語である。それに対して英語の母語話者が日常生活で使う話し言葉は、インフォーマルなスタイルの言語が大部分を占める。したがって、私たちが知っている英語と、母語話者が実際生活で使う英語とはかなり違っている。

話し言葉においてフォーマルな英語とインフォーマルな英語とが実際にどれくらい違うかを記述するのは容易ではありません。その違いは使用される言語のあらゆる面(音声、語彙、イディオム、文法など)にわたっているからです。前回に例として挙げた挨拶の英語も、フォーマルなものとインフォーマルなものとではかなり違っていました。しかもインフォーマルな言い方にはさまざまなバライエティ(変種)があります。ここでは、よく使われる英語の挨拶の例を「フォーマル」、「インフォーマル」および「ニュートラル」(neutral:フォーマルとインフォーマルの中間)の3つの範疇に分けて列挙してみます(注1)

フォーマル:Good morning (afternoon, evening), Mr. Green.

ニュートラル:Hello, Mr. Green. / How are you?

インフォーマル:Hi, John. / How’re you doing? / How’ve you been? / How’s it going? / How’s everything going? / How are things? / What’s up? / What’s happening? / What’s going on?

これで全部ではありません。もっとくだけたHeyなどというのもありますが、そこまで挙げるとキリがありません。というわけで、学校の授業でそれらすべてを扱うことは不可能ですから、生徒が学ぶものがごく限られたものだけになることは止むを得ないことです。そこで、学校でもっとインフォーマルな表現も扱うようにしてはどうかという提案が出てきます。その通りです。教科書の英語はフォーマルなものに限るというのは極端です。インフォーマルなものも、頻度の高いものは授業で扱ってよいはずです。実際に、近年の中学・高校の検定教科書はかなりのスペースが会話文や対話文で占められるようになっており、必然的にインフォーマルな表現も多数扱うようになっています。上記に掲げた挨拶の中では、Hello, Mr. Green. / Hi, John. / How are you doing? などの表現を検定教科書で見つけ出すことは難しくありません。

しかし一種類の教科書で扱う挨拶の種類は限られていますので、学習者が網羅的な知識を得るためには、他の教科書や参考書で研究するほかありません。それよりも問題としたいのは、学習者が話し言葉のバライエティに関する知識をどの段階で、どのように学ぶのがよいかということです。常識的に言って、小学校や中学校の初級の学習段階で多様な英語表現を学ぶことは、学習者の負担が増えますし、望ましいことではありません。先ほどの挨拶で言えば、「フォーマル」または「ニュートラル」の表現を1つか2つ使えるようになればよいでしょう。実際に多くの英語指導者はそのようにしていると思います。

しかし中級以上の段階で会話に関心のある学習者は、頻度の高いインフォーマルな表現を記憶しておき、実際のコミュニケーション場面で困惑することのないように準備する必要があります(注2)。英語母語話者とのコミュニケーションをスムーズに行うためには、英語表現のバライエティについての知識がある程度必要だからです。しかし一般には、それは相手の発言を理解するためであって、英語母語話者と同じようにインフォーマルな英語の使い手になるためではありません。そのような使い手になるためには、果てしのない努力が要求されることを覚悟しなければなりません。実際の使用場面を数多く経験して、自分自身も少しずつそのような表現が使えるようになっていくのが理想的です。

(注1)出典:高橋朋子、田中茂範、鈴木佑治、安部 一『英会話 機能表現スタイルブック』(アルク1994)。この本は日常会話で使用される頻度の高い表現を状況別に収録しています。類書は多数ありますが、これは信頼できる英会話の入門書としてお薦めできます。

(注2)2013年度から高校で実施されることになった新カリキュラムでは、「外国語」の中に「英語会話」(標準2単位)という科目が新設されました。この科目は、中学程度の初級段階を修了した学習者で、英語による日常的会話に特に関心のある者を対象として作られた科目です。今年スタートしたばかりなので、どれくらいの高校生がどのようにこの科目を履修しているのかは不明です。

(171) これからどうする‐マクロの展望

③ 人権は守られているか

4. < 恐怖からの自由 >

 「人間の安全保障」の「欠乏からの自由」と「恐怖からの自由」は、相互に絡み合っており、色々な概念がありうるが、「恐怖からの自由」には、基本的には肉体的な恐怖、精神的な恐怖、具体的には、戦争や紛争、不当な裁判による投獄や拷問などの暴力に対する恐怖、天災や事故など災害に対する恐怖、病気や欠乏に対する恐怖からの自由などがある。

私は、戦争体験者の一人として、日本国憲法前文の言う「平和のうちに生存する権利」こそが、絶対不可欠な「恐怖からに自由」であると考えている。
 
 日本の国民は戦後70年近く、「平和のうちに生存する権利」を享受してきた。その原動力はやはリ、日本国憲法であったと私は思う。しかし、その間、世界ではたびたび戦争や紛争が起き、何百万の人達が死傷し、難民となっている。こうした現実から、日本国憲法は理想論であるとして戦備を拡大強化する改憲論が台頭してきており、日本国民の「平和のうちに生きる権利」は岐路に立っている。

 平和を維持する条件について、国際政治学者の藤原帰一・東大教授は、次の三つの類型を挙げている(戦争の条件:集英社)。

1.軍事力の均衡の他に戦争を起こさない状況はありえないとするいわゆる現実主義
2.軍事力を放棄するといういわゆる絶対平和主義
3.戦争を違法化し、戦争を起こした主体へ制裁を課す集団安全保障主義

 言うまでもなく、1.は自民党などの考え方 2.は日本国憲法の立場 3.は国際連合の理念である。自民党政権が、憲法改正を目指し、「国家の安全保障」のための特定秘密保護法や国民投票法によって、外堀を埋めようとしている時、国民の一人一人が、自らの、そして家族の生命にかかわる「人間の安全保障」の問題として「平和のうちに生きる権利」をどのように護るかを真剣に考える必要があるだろう。

 藤原教授は「リアリズムも平和主義も現代の国際政治における平和の条件を提示しているとは考えない。武力行使が平和の条件を与えているとも考えない。求められているのは、そのような観念のどれに頼ることもできない霧の中で、できる限り戦争に頼ることなく、暴力と不正を回避することである」と述べている。現状認識としては私もそう思う。しかし、「戦争に頼ることなく暴力や不正を回避する」ことは出来なかった。今後も回避できなくても致し方ないということですますのか。地域紛争が核戦争につながる可能性もあることを考えれば、それではすまされないだろう。(アーカイブ 2013−3~4 北の核 1~7)

 私自身は、これまでにも述べてきたように、3.の立場をとる。国連の理念は「集団安全保障」である。国連憲章の中核となる第7章では、国連の主要な目的である国際の平和と安全を維持するため、国連軍を編成することになっている。しかし常任理事国の不一致や思惑で、これまで一度も正規の国連軍が編成されたことはない。

 国連軍の編成と活動によって、5500万人といわれる第2次世界大戦の犠牲の上に生まれた国際連合も、300万人の犠牲の上に成り立った日本国憲法の理想も生かされることになると思うからである。これは理想論ではない。現実に世界は少しずつではあるが、その方向に進みつつあると思われる。シリアの化学兵器使用をやめさせるためのアメリカの軍事介入は実現しなかった。アメリカが世界の警察官としての役割を担うことは今後も困難だろう。
それに変わりうるものは国連しかないのが現実である。国連加盟国は当初の55カ国から、200カ国近くまで増えた。ガリ・元国連事務総長が提案し、アメリカなどの反対で潰された国連の強制執行部隊の創設が、やがて実現すると私は考えている。

  戦争に劣らず「平和のうちに生きる権利」を脅かすものは原発である。チェルノブイリでは数十万人、福島では30万人以上が生活を根こそぎ奪われ、これからも放射能の脅威におびえながら暮さなくてはならなくなった。このような事態がまた起きないという保障は全くない。

 福島第一原発の原子炉建屋内の様子が全くわからない中で、4号機の圧力容器の上にある核燃料棒プールから1500本を越える使用済み燃料棒などを取り出す作業が始まった。前例のない危険な作業を、汚染水問題で管理能力の欠如をさらけ出した東電が安全に遂行できるのかどうか、福島の人達は勿論、日本中がハラハラしながら見守らなければならない。そしてそれは、廃炉の完了まで、多分不都合な真実を隠したまま、40年も続く。(M)

Q1 : <中学1年生>近所にアメリカ人(奥さんが日本人)が住んでいて、登校するときたまに会います。私はその人に会うとGood morningと挨拶します。するとその人はニコニコして何か言いますが、よく聞き取れません。「ハウアユドー」 のように聞こえます。それはどういうことでしょうか。

Q2 : <大学生>いつも思うのですが、学校で習う英語と母語話者の使う英語はかなり違うのではないかと。そうだとすると、教科書の英語が分かるようになっても、母語話者の英語は分からならないのではないか。実際のところはどうなのでしょうか。

A : 日本では、小学校でも中学校でも、英語の授業をGood morning. の挨拶で始めるところが多いと思います。かつて筆者が中学校の教師をしていたときも、1年生から3年生まで、毎授業をGood morning (afternoon), everyone. で始めていました。生徒は判を押したようにGood morning (afternoon), Mr. Tsuchiya.と答えます。さらにHow are you? と問いかけます。すると生徒は Fine, thank you. And you? と答えるのでした。しかしあるとき、生徒たちが声をそろえて言おうとするために奇妙な抑揚がつくことに気づき、その問いを全員に向かって言うのを止めることにしました。それ以後はHow are you today, Kato? のように、個人に向けて言うことにしました。

こういう授業風景は今もいたる所で見られると思います。そこで日本では、英語で挨拶するときには Good morning (afternoon, evening). と言うものだと多くの人が思い込んでいるのではないかと心配です。しかし人に出合ったときの挨拶にはいろいろあるはずで、日本語がそうですし、英語もそうです。相手や場面によって、いろいろ違った挨拶の仕方があって当然です。Good morning. だけではないのです。外国人と英語で挨拶をする場合には、そのことを知っておく必要があります。

さて、Q1の中学生が近所に住むアメリカ人にGood morning. と挨拶するのはよいことです。そのアメリカ人も心の中できっと喜んでいるに違いありません。ですから彼は反射的にニコニコ顔でそれに応えています。おそらく彼が言ったのは How are you doing? でしょう。それは Good morning. よりもややくだけた感じの挨拶で、日本語で言うと「どうしています?」という感じです。「元気ですか」に似ているかもしれません。アメリカの学校のキャンパスではよく耳にする言葉です。きっとそのアメリカ人はそういう言い方を長年使ってきたのでしょう。これに対しては Just fine. や Fine, thanks. などと答えます。

このように話し言葉というのは、相手との関係によって、また発話がなされる状況によって、いろいろと異なる表現が使われます。学校の英語の授業ではいつも Good morning. かもしれませんが、実社会では多様な表現が使われています。朝の挨拶としてはGood morning. はいちばんフォーマルな(formal形式ばった)言い方です。学校で毎日会う友人などにはそういう挨拶はしないでしょう。もっとくだけたインフォーマルな(informal)言い方が普通です。先ほどのHow are you doing? もその一つです。学校でいちばんよく耳にするのは Hi, John. のような言い方です。相手の名前を呼ぶのが親しみを感じさせます。最近の日本の中学校の教科書はそういう言い方も出すようにしています。

以上のように、話し言葉のスタイルは大きくフォーマルな言い方とインフォーマルな言い方に分けられますが、学校の教科書の英語はフォーマルなものが主体となります。その理由は、私たちは英語を外国語として学んでいるので、生活に密着したインフォーマルな英語よりも、まずフォーマルな英語を身につけるのがよいという考え方が基本にあるからです。それに書き言葉の多くが、新聞の英語がそうであるように、概してフォーマルな文体で書かれていることも関係があります。

これに対して実際生活ではフォーマルな英語を使うことはむしろ例外的で、親しい人たちの間でなされる会話では、だいたいインフォーマルな言い方が使われます。時にはさらにくだけたスラング(slang)のような言葉も使われることがあります。そういうわけで、Q2の大学生の指摘するように、私たち日本人が学校で教えられる英語と、ネイティブ・スピーカーが実際生活で使う英語とでは、かなり違ったものになっているというのが現実です。そのギャップをどうやって埋めるか—これは日本人学習者の直面する大きな課題です。(To be continued.)

(番外) 崩れ行く日本の統治機構

< 誤魔化し横行の司法・行政・立法 >    松山 薫

 昨日、最高裁判所は、昨年12月の衆議院議員選挙の一票の格差について「違憲状態」という判断を下した。違憲状態であって違憲ではないから選挙は無効にはならないという。私には「違憲」と「違憲状態」の違いが分からない。私の日本語感覚で言えば同じことだから、最高裁判所の誤魔化しとしか考えられないのである。

 「本12月8日未明、帝国陸海軍は西太平洋において米英両国と戦闘状態に入れり」というのは、太平洋戦争の勃発を告げる大本営発表であった。我々軍国少年は、ラジオから流れるこの放送を何回も何回も聞いて武者震いしたのだから忘れようがない。その時聨合艦隊はすでに真珠湾を攻撃していたから「戦闘状態に入れり」というのは「戦争が始まった」という意味以外には解釈できない。だから、「衆院選の区割りは違憲状態であった」と言うのは「違憲であった」と変わりがないと普通の日本人が受け取って当然だろう。

 最高裁判所は砂川事件での自衛隊違憲の地裁判決を、統治行為論というわけのわからない論理で覆して以来、憲法の番人としての国民の負託を裏切り続けてきた。今回の判決で、誤魔化しはここに極まったと私は思う。 誤魔化しの「最高裁判事国民審査」を、根本的に改めない限り、事実上の任命権者である内閣への司法の従属は続き、3権分立の根幹を揺るがす。

 また、主権在民という憲法の根本原則を危うくしかねない「特定秘密保護法案」を審議している国会の有様を見ていると”情けない“の一言に尽きる。この重大法案を審議する昨日の参議院特別委員会には、はじめ与党議員は誰も出席しなかったという。次の通常国会で予算措置ができるよう、何とかこの法案を今国会で成立させたい自民・公明と、与党に擦り寄る維新の会の裏折衝が続いていたからだ。

 この裏折衝で出てきた結論というのがまさにfarceとしか言いようのない代物だった。まず、秘密保護期間は最長60年以上となり、指定した人物はこの世の人ではなくなっているから、指定に当たって何の歯止めにもならないし、場合によっては”不都合な真実“が半永久的なブラックボックス入りとなる。その上、特定秘密に当たるかどうかを判断する“第三者機関”というのが、この秘密情報を利用する国家安全保障会議(NSC)の議長をつとめる首相であるというのだから“第三者”という日本語の意味が分からなくなる。

 一方、 行政府の長である安倍晋三首相は、福島第1原発の汚染水は”under control “だと多くの国民があきれるような発言をしてオリンピックを招致した。国家としての品格はどこへ行ったのか。さらに、招致を成功させるため、宮内庁が再三反対したにも拘らず皇族を招致活動に利用した。北京五輪や東京都知事の言動を見るまでもなく、最近の五輪は一大政治ショーになっているから、オリンピック招致運動への皇族の利用は、政治利用にに他ならない。園遊会で、山本太郎が天皇に原発問題の手紙を渡したと騒ぐが、どちらが政治利用として罪深いか言うまでもなかろう。

 「違憲」と「違憲状態」が同じであるとすれば、現在の衆議院議員は違法の存在となる。最高裁と衆議院議員は、「違憲」と「違憲状態」がどう異なるのかを国民が分かるように丁寧に説明する責任がある。もしこれができなければ、行政に従属的な最高裁によってお墨付きを与えられた、法律上何の権限もない議員達が、国民主権をないがしろにする「特定秘密保護法案」のような重大法案を成立させることになり、3権分立による日本の統治機構は、もはや基盤が腐ったとしか言いようがない。(M)

Q1 :(高校2年生)英語の授業でディスカッションをすることがあります。しかし話そうとすると、文法などが気になってすぐに英語が出てきません。話すことはあっても、頭の中でどう話すかを考えてまごまごします。話すときには文法なんかを気にしないほうがいいですか。

Q2 :(英文科の大学生)外国人と会話をするとき、文法など考えないのでめちゃめちゃな文になります。あとで、あそこはこう言うべきだったと反省したりします。こんなことで英語は上達するのでしょうか。

A : 上記2つの質問は英語を話すときに文法をどれだけ意識するかの問題です。一般に、話すときには文法をほとんど意識しないのが普通です。英語学習の途上にある人は、言葉の流暢さ(fluency)と正確さ(accuracy)を両立させるのは容易ではありません。流暢に話そうとすれば誤りをおかすことは避けられませんし、誤りを恐れて文法を意識しながら話をすれば流暢さが失われます。学校の英語の授業では正確さが強調され、生徒はできるだけ誤りをしないように指導されます。そのことが日本人のスピーキングの発達を阻害していることは明らかです。話すときにはなるべく文法を意識しないようにしなくてはならないのです。とは言っても、最初からそれができるわけではありません。どんな学習者も、初めは文法を意識せざるを得ません。正確さと流暢さの問題は、英語を話すことを学ぶときに誰もが遭遇するディレンマです。このことは英語だけでなく、母語である日本語の場合にもしばしば起こります。

では、どのようにしたら文法を意識せずに、しかもあまり誤りをせずに話すことができるようになるのでしょうか。結論を先に言いますと、必要なのは練習と実際の使用経験とフィードバック(自己修正)です。以前は一にも二にも練習だと言われた時代がありました。そして練習と言うと、教室での反復練習が主でした。しかし反復練習だけでは不充分であることが分かってきました。たとえば、ある文法項目を教室で繰り返し練習しても、その練習で獲得した技能が実際の言語使用では機能しないことがしばしば起こったからです。

たとえば、私たちは「3人称単数現在」(3単現)の文法規則を頭で理解し、耳と口を使って反復練習しても、実際の言語使用場面になると誤りをおかすことを避けられません。そうなのです。教室で練習したり自分で練習したりすることは必要ですが、それだけでは十分ではないのです。文法規則というのは、その規則を意識する余裕のない実際のコミュニケーション場面を数多く経験し(注)、そこで何遍も誤りをおかし、気づいた誤りを反省し、少しずつその知識を意識下に沈めていくことが必要なのです。同時に、話すときの無用のプレッシャーを取り除き、自分の話している内容に集中できるようにしなくてはなりません。

だからと言って、学校の授業や文法書で獲得する文法知識が無用だというわけではありません。その知識は文の構造を分析したり、文章の意味を解釈したり、じっくり考えながら英文を作ったりするときには役立ちます。しかし冒頭の2人の質問者が指摘するように、外国人と会話をしたり、ディスカッションで発言をしたりするときには、自分の発話が正しいかどうかをいちいちチェックする余裕がありませんから、表面的に知っているだけの文法知識はあまり役には立たないのです。自分で発話を構成するときには意識のほとんどが話の内容に占められてしまうので、そこで使われる規則は無意識的に使用できるようになっている(自動化されている)ものだけなのです。

しかし日本に生活している私たちは、学校の授業以外に英語でコミュニケーションを行う機会はそう多くはありません。そこで限られた経験を最大限に利用する必要があります。私たちはいろいろな機会に自分のした発言の誤りをチェックし、修正する努力をしなければなりません。その一つの方法として筆者がお薦めしたいのは、自分の話した英語を記録する(録音するか、後で思い出してその通り書いてみる)ことです。そうすることによって、自分が夢中になって話した英語を自分でチェックして修正し、無意識的に使った自分の文法がどんなものであるかを知ることができます。これがフィードバックです。ただしこの方法が成功するためには、学習者は基礎的な文法知識をある程度身につけている必要があります。そうでなければ自分のおかした誤りに気づくことができません。初歩段階の学習者の場合にはそれができないので、学校の先生などのアドバイスが必要になります。社会人の方は、自分の習熟度に合った適当な指導者を見つけることが、正確さと流暢さの問題を解決する鍵になります。

(注)同じ文法規則でも、ある場面では正しく使うことができるのに、他の場面では多くの誤りをおかすことがあります。たとえば、友人などと気楽に話しているときにはほとんど問題がないのに、面接試験や大勢の人の前で話すときには流暢さを失い、多くの誤りをおかすことがあります。これは、試験官や聴衆が話し手の注意をそらし、普通には使用できるはずの規則の使用を妨げるからです。どんな場面でも流暢さを保って誤りをしないようにするためには、相当の自己訓練と慣れが必要です。このことは母語の使用場面を考えると容易に理解できます。

これからどうする マクロの展望

<経済大国から人権大国へ> 

 ③−人権は守られているか 

 3.欠乏からに自由

 フランクリン・ルーズベルトの4つの自由の第3「欠乏からの自由」とは、貧困や飢餓からの脱出のことで、第4「恐怖からの自由」とあわせて「人間の安全保障」と呼ばれ、国家の安全保障に対して、個人としての人間の人権をまもることを意味している。2つの「安全保障」が相克する時、常に前者が優先されてきた。「強い国」を標榜して安倍政権が「国家安全保障」を優先させ、民主、人権、平和の3原則を軸とする憲法を変えようとしている今、本当にそれでよいのかが国民に問われている。

 日本はアメリカ、中国に次ぐ世界第3のGNPを有する経済大国ではあるが、「人間の安全保障」という観点から見ると、経済大国が即人権大国でないことは中国の現状からも明らかであり、”日本株式会社”と称される日本の経済・社会体制もまた多くの問題を内包している。特に新自由主義の競争原理によって人間が企業の道具として扱われるようになって、この国の「人間の安全保障」は危機的状態にあるように思う。

 その典型がいわゆるブラック企業である。これについてはすでに何回も触れているので多言しないが、マネー資本主義の下で利益至上の熾烈な生き残り競争が続くかぎり、ブラック企業はなくならないし、利益のためなら何でもありという風潮は、安倍政権の企業優先の政策によってますます助長されるだろう。労働組合の「連合」は、遅ればせながら最近、大手紙に意見広告を出し「安倍政権の”世界で一番企業が活躍しやすい国を創る“という成長戦略は、即、”働かせ方、やめさせ方の自由化“につながり働く人の90%を占める被雇用者を直撃する」と主張した。しかし、政府に頼って賃上げ要求をするような労働組織に反撃の力があるとは思えない。

  利益至上主義は、先ごろから芋づる式にぞろぞろ出てきた高級ホテルのメニューや一流デパートの食材表記の“偽装”に、その一端を露呈している。偽装ではなく誤表記だなど強弁しているところもあるが、それなら何故全て、高いものが安い方へシフトしているのか。安いものを使って利益を上げるという過当競争の中の必然的結果であることは誰の目にも明らかだ。予算が足りなくて常温扱いになったというヤマト運輸や日本郵便のクール宅急便事件も同根だ。利益を求めて過当競争の末の必然だから、これらの事例は氷山の一角にすぎず、日本の病根であると断言できる。この病根が「人間の安全保障」を蝕んでいく。

 「人間の安全保障」のうち「欠乏からの自由」には、食料と燃料それに住居の量と質の確保が根源的に必要だが、食料の60%を海外に頼る日本の食の安全は、果たして本当に確保されているのか。レーチェル・カーソン(「沈黙の春」の著者)が生涯を賭けて告発し続けたアメリカの農薬汚染はいまや全世界に広がっている。スーパー最大手のイオンは2010年度食材の80%を重金属汚染などで安全性に疑問のある中国から調達したという。TPP交渉の結果によってはアメリカの遺伝子組み換え食品が堂々と輸入されることもありうるだろう。原産地表記のごまかしや、あいまい表示も跡を絶たないから、消費者個人には防衛のすべがなく、「人間の安全保障」が脅かされている。

 また、TPP交渉で日本政府が聖域だとしていたコメの関税問題は譲歩が決定的になった。。ミニマムアクセス米に加えて主食用のコメを輸入すれば、日本の農業特に稲作は壊滅的な打撃を受ける可能性が強い。日本のコメは農協(全中)の米価吊り上げ政策や農地転用への抵抗で高値になり、消費者のコメ離れの要因になった。この根本を正さずに、外圧で市場を開放すれば、悔いを千載に残すことになりかねない。弥生時代以来日本人はコメとともに生きてきた。コメの衰退は、食生活だけでなく、日本の文化や風土に取り返しのつかない悪影響をもたらす。

 次に、エネルギー資源については、日本は96%を海外に依存しているが、世界の資源獲得競争は激しさを増し、価格は高止まりしている。ガソリンなどは私が車を運転していた10年前の倍近くになったままだ。今年上半期の貿易収支の赤字は4兆6千億円で過去最高、所得収支を併せた経常収支の黒字幅も年々縮小しており、日本が外貨を稼ぐ力は衰えている。食糧やエネルギーは輸入すればよいという政策は早晩破綻するかもしれない。それで政・財・官・学が一体となって核燃料サイクルの研究開発に邁進してきたのだが、福島原発の事故を契機に、その裏側に隠されていた数々の問題が明るみに出て、いまや国民の70%が脱原発に傾いている。これは原子力利用に伴う巨大なリスクに対する「人間の安全保障」の要求だが、政・財・官の鉄の三角形は民意を無視して再び原子力依存を強めようとしている。

 食料、エネルギーに次いで重要な土地と住居についてみると、大都市圏への人口集中の結果、地方では空き家が170万戸も生じた一方で、都会の一戸建ては「猫の額にマッチ箱」が常態化した。東京の空中写真を見ると、地震が起き、火事になったらどうなるのかと慄然とせざるをえない。雨後のたけのこのように建ち並ぶ高層住宅群も無事ではないだろう。バブル経済時代に太平洋ベルト地帯の人口密集地には大量の集合住宅が建てられた。私自身そういう団地のひとつに住んでいるのだが、多くは、その後改正された耐震基準(震度6弱対応)を満たしていない。耐震工事をしようにも、住民の高齢化で、工事費が賄えない。首都直下地震や東海地震、東南海地震などで震度7クラスの地震に見舞われたらひとたまりもないだろう。もっとひどいのは都会のアパートである。6畳2間の木造アパートの駐車場に何百万円もする高級車が停めてあるのを見ると、この国の経済、社会のゆがみを感ぜざるをえない。

 一見「欠乏からの自由」は確保されているように見える今の日本は、一皮むけば、危うい橋の上を渡っているように私には思える。(M)

 

 

Q1 :(東京の中学2年生女子)先日電車の中に外国人の家族がいました。2人の子どもは幼稚園くらいでとてもかわいかったです。ああいう人たちと知り合いになれたらいいなと思いました。しかし話しかける勇気はありませんでした。こんな時はどのように話しかけたらよいのでしょうか。

Q2 :(英会話に関心のある大学生)外国人と英語で会話するとき、いつも相手が話の主導権を握って僕は聞き役になってしまいます。もっと対等に話をしたいのですがうまくいきません。自分が話を主導するにはどうしたらよいかご教示ください。

A : 上記の質問はいずれも会話のルールに関係する事柄です。まずQ1 ですが、これは「点火のルール」(注)に関するものです。会話を始めるには何かのきっかけが必要です。どんな風に会話を切りだすかは状況によって異なります。この場合のように、電車の中で知らない人に話しかけるのは普通のことではありません。この中学生が子ども連れの外国人家族を見て話しかけたくなった気持ちは理解できます。そして思いとどまったのは適切な判断でした。日本人の中には英会話の練習のためにやたらに外国人に話しかける人がいるそうですが、日本に来ている外国人にとっては(日本人に英語を教えることに興味を持っている人を除いて)たぶん迷惑なことです。そのような行為はエティケット(etiquette)に反します。

「点火のルール」とは、結局のところ、話すべき時に話し、話すべきでない時には黙っているということです。電車の中で知らない人と会話が始まる典型的な状況は、乗っている電車の行き先などその電車に関する情報を知りたいとき、または誰かから尋ねられたときです。あるいは、気分の悪そうな人に「大丈夫ですか」などと問いかけるようなこともあるでしょう。しかし都会では一般に、電車の中でやたらに知らない人に話しかけることはしないものです。以上は都会の電車内での会話ルールで、必ずしも普遍的なものではないかもしれません。

次にQ2 にいきます。どんな会話も何かの話題をめぐって展開するものです。話題は会話が成立するための重要なポイントです。非公式なパーティーでの初対面の日本人と外国人との会話場面を考えてみましょう。そういう場合がいちばん難しいのではないかと思います。近くにいる人と目があったら、それが点火の合図になります。互いに簡単な自己紹介をすることから始まることが多いでしょう。さて次に何を話題に取り上げるかですが、外国人と英語で会話をする場合には、自分から先に話題を提供することが主導権を握るために決定的に重要です。相手の持ち出した話題で始めたら、たいていは相手に主導権を握られ、あなたはもっぱら聞き役になることを避けられません。

たとえば、あなたが日本の天候や気候に関する話題を得意とするなら、そこに話が行くように仕向けるのです。パーティーの会場が東京なら “How do you like the weather in Tokyo?” のように問いかけます。食べ物のことを話題にしたいなら “What’s your favorite food?” のように持ちかけます。外国語として英語を学んでいる日本人は、母語話者のように広い話題をカバーすることはできません。英語で話すためには、その話題に関連する知識と語彙が必要です。日本語では論じることができても、英語ではそうはいきません。英語で話すとき、自分には言いたいことがたくさんあるのに思うように話せない、という経験を誰もがします。いろいろな話題について英語で論じる準備を普段からしておいて、外国人と話す実体験をたくさん積むことによって、しだいにカバーできる話題が広がっていくのです。

もうひとつ、日本人であるあなたが会話の主導権を握る場合に注意すべきことがあります。それはあなたに興味のある事柄ならどんな話題を取り上げてもよいわけではないことです。そこにはやはり暗黙のルールがあります。以前は宗教と政治の話題は避けるべきだと言われていました。たしかに、あまり深入りしないほうが安全です。しかしあなたが相手の立場や言い分を聞く耳を持っていれば大丈夫です。それよりも、privacyや racism, sexismに関わる話題には注意すべきです。また、日本人がよく使う “we Japanese” や “you Americans” という言い方で、個人が国民全体を代表しているような議論はしないほうがよいでしょう。外国人と個人的に話をするときには、自分は日本人の代表で相手はアメリカなど特定の国の代表だなどとは考えないことです。そうではなくて、私はあなたと同じ「人間」なのだという気持ちで話すのがよいと思います。これは筆者が自分の体験から得たコミュニケーションのルールです。(To be continued.)

(注)J. V. ネウストプニー著『外国人とのコミュニケーション』(岩波新書 1982)p. 42以下を参照。日本人の多くは「英語ができないから、コミュニケーションができない」と考えているが、この本の著者は「コミュニケーションができないから、英語ができないのだ」と主張し、当時の日本人学習者に大きなインパクトを与えました。

(169)これからどうする‐マクロの展望      

<経済大国から人権大国へ> 

③ 人権は守られているか 

 2.信教の自由と政教分離

 信仰の対象、信仰の表現、信仰団体の組織を自由に決めることは、重要な人権のひとつであり、世界三大宗教といわれるキリスト教、イスラム教、仏教の間、さらにその宗派間の争いを経て、今ではイスラム教を国教とする国などを除き、程度の差はあっても、多くの国で制度上の権利として認められている。  

 日本では、徳川時代、キリスト教が弾圧され、隠れキリシタンの悲劇を生んだし、明治憲法は「臣民タルの義務ニソムカザルカギリ」などの条件付で信教の自由を認めたものの、実際には神道を特別扱いし、戦争の時代に入ると国家神道による思想統制が強化された。先に資料を添付した国定修身教科書(アーカイブ 2013-5-25 道徳教育考—2)の巻6(6年生用)は、冒頭伊勢神宮(当時は皇大神宮と言った)を採り上げ、国民は一生に一度は必ず参拝すべしとしている。日本のいわば国教となった神道は、皇国史観を裏打ちとして、国民の思想統一の基幹部分をなしていた。これに反するものは、特高警察(思想警察)によって厳しく監視された。(アーカイブ 2013−6−8 石切り山のひとびと)。大本教は、2回にわたって治安維持法、不敬罪などによる悲惨な弾圧をうけて、取調中16人が死亡している。現在の創価学会の前身である「創価教育学会」も治安維持法、不敬罪による弾圧で、創設者の1人が獄死した。また、天皇を神として崇拝することが「臣民の義務」であったから、天皇以外の神を信仰の対象とするキリスト教関係者にも弾圧が及んだ。

 このような歴史の反省に立って、日本国憲法は、第20条で信教の自由を保障するとともに、いかなる宗教団体も、国から特権を受け、または政治上の権力を行使してはならないと規定し、第89条では、公金を宗教組織に支出することを禁じている。オウム真理教のような反社会的邪教さえ存在していたことを思えば、現在の日本では信教の自由は守られていると言えるだろう。しかし、政治が特定の宗教へ肩入れすれば、信教の自由を脅かすことになる歴史の教訓を忘れてはならないと思う。

 ところで、自民党の憲法草案には、第20条の第3項に「但し、社会的儀礼、習俗的行為の範囲を出ないものについてはこの限りではない」という一項が追加されている。この追加項目は、愛媛県知事の靖国神社玉串料訴訟や三重県津市の市立体育館建設の地鎮祭への公金支出をめぐる訴訟での「この地鎮祭の目的は専ら世俗的なもので、その効果は神道を援助、助成、促進するものではないから、憲法違反には当たらない」とする最高裁判決を意識したものとみられる。政教分離をめぐって常に問題になるのが、靖国神社への首相や閣僚の参拝であるからだ。

 安倍晋三著「新しい国へ」の中に、「靖国批判」はいつから始まったか」という一節があり、津の地鎮祭判決を挙げて「靖国参拝自体は合憲」であるとしている。しかし、国政の最高責任者や国政を預かる閣僚、国会議員の参拝は世俗的なものとは言えず、戦時中、国家神道の中心的存在だった靖国神社を援助、促進する効果を持つことは常識的に明らかであり、それ故に、彼らは「個人として」を強調するのだろう。信念として行くのなら、職を辞してから行けと言いたい。

 靖国参拝は、戦争責任者である東条英機らA級戦犯14人を合祀したことによってさらに問題が複雑になった。これについて「新しい国へ」は、彼等は犯罪者ではないとし、その理由として「国内法で、彼らを犯罪者とは扱わないと、国民の総意で決めたからである」と述べている。国内法とは何を指すかは不明だし、前後関係から戦後間もなくのことらしいから、到底国民の総意で決めたとは考えられない。

 東京五輪取材余話(アーカイブ 2012-6-9)の中で、学徒出陣の壮行会のことを書いたが、この壮行会で長広舌をふるい彼らを死地へ送ったのは時の首相であった東条英機大将であった。侵略戦争を指導し、多くの同胞を無駄死にさせた張本人達に戦争責任がないという感覚の人物がこの国の最高責任者であることに私は悲哀と憤りを感ずる。

 戦争中、靖国神社と並んで国家神道の象徴的存在は伊勢神宮であった。前述の創価教育学会の牧口常三郎は、伊勢神宮の大麻(神札)を張ることを拒否して、投獄され、転向を拒否して獄死したのである。私は古代史の愛好家であるから、伊勢神宮に文化的価値のあることは理解している。しかし、安倍首相は古代史フアンとして式年遷宮に参加したわけではないだろう。政教分離の原則に、身を正して処すべき最高権力者がTVにさらされる機会をとらえて、敢えて参列した意図がわからぬほど国民は愚かではない。

 安倍首相が政治上の師としている森喜朗・元首相が、在職中、神道政治連盟国会議員懇談会で、「日本の国はまさに天皇を中心とする神の国であることを国民にしっかりと承知していただくという思いで活動してきた」と延べ物議をかもした。安倍首相は3年前にこの議員蓮盟懇談会の会長に就任している。靖国参拝や伊勢参りがこの路線の上にあることはまちがいない。

  政教分離を厳密に考えないと、やがて信教の自由に影響が及び、信教の自由の侵害が、思想の自由全般に及び、さらに思想の自由と言論の自由が表裏一体であることを思えば、やがて基本的人権全体の危機につながることを歴史は教えている。(M)