Archive for 8月, 2011

「島田紳助引退問題」で学ぶべきこと
(1)テレビ番組のことを論じる以上は、この問題は避けて通れないでしょう。私は、彼の出演する番組を結構見てきましたし、脚本から演出までやり、しかも自ら出演してのパフォーマンスもずいぶん見てきました。前回の「私のテレビ批評」で、テレビ制作関係者は、「平気でうそをつくことが身についてしまうようだ」と私は指摘しました。したがって、島田紳助の引退会見を聞いていても、「うそがあるのではないか」と疑念を持ちました。

(2)1つには、人間は何かやましい気持があると、口数が多くなるのが普通です。紳助もしゃべり過ぎました。枝野官房長官の記者会見にもそういう傾向が見られます。何かもっと知っているのに隠している感じがするのです。菅総理がはっきり言わないので、不満ながら、首相の言うべきことをカバーしているのでしょう。そういえば、民主党の総裁選に立候補した5人は、用意した原稿を読むのではなく、自分の言葉でものを言う感じがしました。「誰が総裁になっても菅よりはまし」という下馬評が妙に納得できました。

(3)島田紳助は、暴力団関係者とは付き合いはない、と強調していましたが、それが“うそ”であることは、警察側からばらされてしまいました。これまでも、芸能人などの麻薬との関係はよく問題にされました。カメラの前や、舞台の上で演技をするというのは相当にストレスになるもので、そういう人たちには喫煙者が多いようです。煙草くらいですめばいいですが、次第にもっと強い誘惑に負けてしまうことがあるのでしょう。

(4)もう1つ視聴者として知っておくべきことは、テレビ出演者のギャラ(出演料)はかなり高額だということです。推測も含みますが、民放の番組には芸能人たちのギャラの額をバラす意図のものがあって、ちょっと売れだすと30万円の家賃を毎月払っている者もいるようです。もちろん、出演者によって大きな差がありますが、前に紹介いした「ゴチになります」という番組では、最下位になると、全員の食事代を20万から30万円くらい自腹で支払う罰をうけます。しかし、出演者によっては、もらうギャラのごく一部でしょう。コマーシャルの出演料などは、1回で数千万円という話もあります。

(5)したがって、島田紳助くらいになると莫大な収入があるはずです。所属している吉本興業は、ケチで有名な事務所ですが、それでも大物には破格の待遇をするでしょう。映画全盛の頃は、俳優たちは世間の人たちから垂涎の的とされるような高収入を得てきました。ハリウッドで有名な俳優たちの豪邸は、日本のテレビでもよく紹介されます。そういう現象が銀幕に限られていた時代はともかく、テレビは庶民に身近なものだけに、今回の“事件”は影響が大きいのだと思います。テレビの視聴者は、与えられた番組を受身的に受け入れるのではなく、日頃から批判的な目で見張っているべきだ、というのが、今回私が学んだ教訓です。
なお前回のトーク番組の話で、お昼の NHK の番組を“お元気ですか日本列島”としましたが、午後1時からの“スタジオパーク”でした。お詫びして訂正いたします。(この項終わり)

< 私見 日本の生きる道 ③−6 終章 >

 大震災、巨大津波、原発災害という未曾有の困難に直面して、国のあり方を考え直す機運が高まっているなかで、文春識者達が指摘した日本の各分野における病根を、私なりに分析しながら、日本が生きる道を考えてきた。私の結論を述べて終章としたい。

 文春識者達が現代日本の”病根“を指摘したのは、大震災直前のことだったが、戦後60余年の間に蓄積されたこれらもろもろの病根は、未曾有の大災害に遭遇して過去への反省となって一挙に顕在化し、原発災害については根本的な誘因になったことが明らかになった。同じ過ちを繰り返さぬために、我々は新たな道を歩まねばならないというのが私の前提であり、そのためには、先ずベクトルを変え、相当の年月をかけて”産業社会から共生社会“へのパラダイム・シフトを実現する必要があるというのが私の結論である 

 勿論反対の人も多いだろう。 例えば、民主党の次の総裁候補の1人と目される前原前外相は「20年かけてGDPを2倍に」と唱えている。 国民は「あいまいな日本の私」を捨て、自分の頭で考えて自らの判断を持ち、大いに議論することから始めてはどうか。 人生の残り少ない私が、3ヶ月にわたって「日本の生きる道」を論じてきたのは せめて議論には加わりたいと思ったからである。

 何故、国民に開かれた、つまり公開の、十分な議論が必要なのか。60余年前、敗戦の後、私達はそれを怠った。そのことが、根源的な反省のないまま、戦前と戦後をのっぺりとつなげ、数々の病根を繁殖させる土壌になったと私は考えている。第二の敗戦とも言われる今回の大災害に当たって、同じ過ちを繰り返してはならないと思う。政府や政治家を責めるだけでは、問題は解決しない。なぜならば、それは、彼らに全責任を負わせ、その代わり彼等の決定を受け入れることにつながるからである。現在の国家は、好むと好まざるとにかかわらず、運命共同体としての一面を強く持っている。しかし、その運命は、国民自身が選択するのであって、戦前のように一部の人間に決めさせてはならないだろう。

 議論の出発点は原発の是非だ。そのためには、国民が十分に理解し、判断するに足る客観的な情報が提供され、それに基づいて多くの公開の討論の場が設けられる必要がある。NHKなどはその先頭を切るべきだろう。少しずつそのような番組が増えているようだが、この国の将来にかかわることなのだから、もっと全国民を巻き込むような情熱と工夫が欲しい。それが報道機関としての公共放送の最大の責務だろう。

 例えば、大手新聞社の論説責任者による徹底討論会(つまりデス・マッチ)を企画したらどうか。今のところ、朝日、毎日は「脱原発」、読売、日経は「原発維持」のようであるが、それぞれの新聞社には原発についての社論の形成をめぐって少数意見を押しつぶしてきた過去があるはずである。それを明らかにすることが、「原発安全神話」のタイコ持ちと揶揄されるマスメディアの国民への背信に対する贖罪であり、言論機関としての再出発の証しになるのではないか。

 また、外国の事例の紹介も必要である。福島原発の事故を受けて脱原発を決めたドイツ政府は「この決定は、長い間の国民の議論によって導かれたものである。」と言明している。ドイツにおける脱原発運動に先鞭をつけたのは、ポスト産業社会を目指して1980年に発足した「緑の党」であった。その設立当時の綱領は既成政党へのalternativeとして「エコロジー、反核平和、反原発、フェミニズム、社会的マイノリティーの保護」を目指し、役員のローテイション、党役員と議員の分離などのいわゆる底辺民主主義をうたっていた。この超理想主義的な考え方や組織原則が、40年の間に、現実との相克のなかでどのように変化し、国の基本政策を変えさせる原動力になったのかを知ることは、「緑の党」の政策への賛否にかかわらず、とかく線香花火的に終る日本の改革運動や我々の議論にとって貴重な道しるべになる。

 更に、かつてはアメリカの裏庭と言われ、アメリカの大資本に頼って生きていた中南米では多くの国で、新しい第三の道、つまり社会主義でも資本主義でもない「地域コミュニティーを基盤とし、それに支えながら人々が自らの人生を編成し、社会に平等に参加し、さまざまな機会を得ることの出来る共生社会」を目指す胎動が広がりを見せている。この運動の原動力となったブラジルのルーラ前大統領(通称)の話も聞いてみたいし、各地の現状も知りたい。

 人間は、のどもと過ぎれば熱さを忘れる。原発事故についても既にその兆候が現れ始めている。それを待っている人達もいるだろう。国民の将来を決める「原発問題」について、どこまで、レーゾン・デートルを賭け、持続的に報道できるか、これから日本のジャーナリズムの真価が問われる。

 十分な情報に基づく国民的な議論を経て、「脱原発」か「原発維持」かのベクトルを決定するには衆議院総選挙がふさわしい。ねじれ現象を解消するためには、さ来年7月の衆参同日選挙がよいかもしれない。日本国民は長い間の自民党一党支配のもとで、事実上選択の自由を奪われ、政権の思うままになってきた。その間に社会全体に根を張った病根によって、にっちもさっちも行かなくなり、昨年やっと、政権交代が実現した。結果は無残なものであったが、国民がalternativeを実感しえたことは前進であった。日本を五里霧中に追い込んだ自民党や政権交代による再生の切なる願いを裏切った民主党に今さら期待をかける人はいないだろう。もはや、政界は再編しかない。再編の対立軸は「脱原発」か「原発推進」かである。そのような再編が実現すれば、次の総選挙では、ベクトル変更をかけた国民の選択が問われることになる。民意を正確に反映させるため国会は、当然その前に一票の格差を解消しなければならない。

 総選挙は、国政全般について国民の審判を問うもので,「原発」という単一の問題については国民投票が望ましいという意見もあるが、私はそうは考えない。なぜなら「原発問題」はいわゆるシングル・イッシュウではなく、社会のパラダイムを変えるかどうかを問うものであり、国の将来にかかわり国民生活のあらゆる分野における改革の序章になるかも知れないからである。もっと具体的にいえば、政財官の鉄の三角形、権益構造にメスをいれ、本当の政治主導、国民主導への転換への一里塚だからである。

 最後に「国民全てが農に帰る」という武村正義の提案が何故私の心の共鳴板をたたいたのかについて述べたい。

 今、世界は大きな転換期にある。2008年秋のリーマンショックは、アメリカ金融資本による世界1極支配(パックス・アメリカーナ)の終わりを告げるものであった。マネーゲームの果ての巨大な債務は、ECを分裂の危機に追い込み、本家のアメリカもドルの垂れ流しによって生き延びる道を断たれた。アメリカとの“戦略的互恵関係”によって世界の第2極を狙う中国の一党支配体制は内側から崩れ始めている。強固と見られた中東の独裁体制を崩壊させた“Jasmine Revolution“ は、民衆が持ったthe Internetという強大な武器の力を全世界に示し、もはや、力による国民の統制は不可能であることを知らしめた。

 このような世界史的転換の時に、日本は未曾有の大災害に見舞われた。これがなければ、この国は、従来通りの対米追随、経済成長至上主義を若干は修正しつつ続けていくことになったろう。次の首相を目指して民主党の代表候補に名乗りを上げた人達はそのような考えのようだ。しかし、この災害を契機に、国のあり方を根本的に考え直そうという人達も生まれてきた。私もその1人である。対米追随、経済成長至上主義からの脱却はどうしたら可能なのか。武村提案は、50年というスパンの中で、パラダイムの転換をなしうるひとつの方向を示唆している。

 他国に頼らずに生きるためには、食糧、水、エネルギーの確保が絶対条件である。武村提案はこの条件を満たしている。幸いなことに日本には、それを可能にする条件もある。但しそれには人口の減少が必要なのだが、この国の人口は既に減少へ向かっている。日本の人口は江戸時代は3千万人で推移し、明治から昭和にかけて膨張して、昭和初年に倍の6千万人に達した。富国強兵政策の故である。人口が1億人を超えたのは1970年代の高度経済成長期であった。成長を支える労働力が必要だったからである。国交省の推計によると、50年後の日本の人口は8千万人程度になると言う。8千万人なら、日本の耕地面積で十分食っていけるというのが武村提案の骨である。その点日本は恵まれている。中国などは、一見広大な国土を擁しているように見えるが、その膨大なの人口を食わしていけるarable landはない。

 武村の「全国民が農に生きる」と言う提案は、同時に、経済成長至上主義との決別をも意味している。田中角栄は常々「この小さな、資源のない列島の上で、1億2千万人が豊かに暮らしていくのは大変なことなんだよ」と言っていた。この大変な(実は、右肩上がりの成長が無限に続くという不可能な)ことをやるために、彼は「日本列島改造論」という無謀な計画を立案した。今、列島破壊のこの計画に賛成する人はいないだろう。世界の国々が、経済成長を求めて、有限な地球の資源を奪い合い、それを原発という怪物が作り出すエネルギーによって製品化するというのなら、それは、列島改造論の世界版になりかねない。  

 そうなる前に、日本は、未来を見据え、いかなることがあっても食糧と水、エネルギーを確保しうる基盤を作らねばならない。そのためには他国に頼ることをやめ、国も個人も、先ず自分の足で立つことが、全ての基盤になる。その基盤の上に、人々が支えあって暮らす、環境に優しい共生社会を築くに何が必要なのかを考えよう。そういう方向へ向かうalternativesのひとつが、「農に帰ろう」という武村提案の呼びかけであると私は理解し、共鳴したのである。(M)

今回は英語話者についての誤解を取り上げます。英語話者というと、一般には、英語の母語話者のことを指します。つまり英語のネイティブ・スピーカーのことです。たしかに、かつてはそうでした。日本が戦争に負け、マッカーサーの率いる連合軍によって占領されたときには、英語のネイティブ・スピーカーと言えばアメリカ人のことでした。しかし21世紀の今日、英語話者とはアメリカ人のことであり、英語とはアメリカ人の話す言語のことだと考える人はいないでしょう。もしそう考えている人がいるとしたら、とんでもない誤解です。英語は今やアメリカ人やイギリス人の言語であるにとどまらず、世界中の多くの人々に用いられるリンガフランカ(共通語)のようなものになっているからです。しかし英語がどんな国や地域で話されていて、全体でどのくらいの使用人口があるのかを正確に知ることはかなり難しいことです。

 世界における英語の使用地域とそのおよその人口を知るもっとも手っ取り早い方法はインターネットで調べることです。たとえばWikipedia.orgで検索すればすぐに出てきます。しかしこの情報は非常におおざっぱで、正確さからは程遠いものです。もうすこし信用度の高いと思われる調査で見てみましょう。言語学者クリスタル(David Crystal 2003)の調査によると、英語を第1言語として使用している地域と人口はおよそ次のようです。

United States 215,424,000 / United Kingdom 58,190,000 / Canada 20,000,000 / Australia 14,987,000 / Ireland 3,750,000 / South Africa 3,700,000 / New Zealand 3,700,000 / Jamaica 2,600,000

これら8つの地域が英語母語話者数の図抜けて多い地域です。そして世界全体の英語母語話者数は、クリスタルの推計によると3億2千万から3億8千万です。では英語を第2言語として習得し使用している人の数はどれくらいでしょうか。これもいろいろなデータから推計するよりほかありませんが、同じくクリスタルによると、3億から5億くらいと推定されています。それらの地域は、上記の8つの地域における第2言語使用者に加えて、その多くはインド、ナイジェリア、フィリピンなど、かつて英国または米国の植民地であった国または地域です。

 では英語を外国語として習得した人はどれくらいいるでしょうか。この数を正確に知ることはほとんど不可能です。なぜなら、どの程度まで習得したら英語話者あるいは英語使用者と言えるかの判断が困難だからです。このブログの読者は英語を習得した人としてカウントされる自信があるでしょうか。事実その数は学者によって5億から10億まで大きな幅があります。言語情報科学を専門とする寺澤盾氏によると(『英語の歴史』中公新書)、その数は7億5千万くらいが妥当であるとしています。すると、このことから確実に言えることは、英語の話者はネイティブ・スピーカーよりもそれを第2言語または外国語として用いる人のほうがはるかに多いということです。英語のネイティブ・スピーカーの数倍にのぼる人々が英語を実際に使用することができる——この意味するところは重大です。

 つまり、英語はかつてのように、それを母語とする人々だけの言語ではなくなったということです。母語話者以上に多くの人々が英語を使うことができ、実際に使用しているということです。しかも英語の使用者とその学習者の数はますます増大していることが知られています。日本人が英語で話す相手は、もはや英米人をはじめとする英語のネイティブ・スピーカーであるとは限りません。私たちの相手は英語を第2言語または外国語として習得し、それを一種のリンガフランカとしていろいろな目的に使用している人たちです。私たちは韓国人や中国人をはじめとし、東南アジアやアフリカやヨーロッパの人々とも英語を使ってコミュニケーションをすることができます。もちろん、英語を知っていれば世界中の人々と話ができるわけではありません。少なくとも世界人口の4分の3は英語を知らないのですから、英語さえ知っていれば世界で通用するというような言い方は間違っています。現存する世界のすべての言語は英語と同様に尊重されなければなりません。日本語もその一つです。日本語も英語のようにもっと広く世界で使われるようになるとよいのですが、それはそう簡単ではありません。私たちが世界の多くの人々と交流しようとすると、現在のところ、まず英語を習得することから始めるのが実際的です。日本の教育行政もそのように考えています。そこで次に考えるべきことは、私たちはどのような英語をどの程度まで習得したらよいのかということです。(To be continued.)

(1)「トーク番組」で考えること
 トーク番組(アメリカでは Talk Show )は、テレビではとても人気があるようです。視聴率を気にする民放では、人気がありそうだと分かると同じタレントや俳優、音楽家などを出演させます。ですから、続けて視聴していると「またこの人かよ」とうんざりすることがあります。所属事務所の力関係も作用しているのでしょうが、とにかく「繰り返し登場」は避けられないようです。

(2)トーク番組は、「生放送」と「録画放送」があって、後者の場合は、録画した日と放送する日がずれるわけですが、ほとんどの番組では、そのことを隠くそうとします。8月18日の日本テレビ“ごちななります”(ご馳走になります)では、今度の24時間テレビ(8月23日午後6時半開始)にマラソンを試みる徳光和夫フリーアナウンサーが出演していました。録画は何日も前に行われているはずなのに、「徳光さん、明後日走るのに大丈夫ですか」といった白々しい会話が交わされていました。こういうことがあるので、テレビ制作関係者は「平気でうそをつく」ことが身についてしまうのでしょう。

(3)フジテレビの“ライオンのごげんよう”では、司会の小堺一機が、実際の日付と放送の日がずれていることを時にバラしたりしていますが、その方が好感が持てます。師匠の“きんちゃん”(萩本欣一)の教えが生かされている感じがします。“徹子の部屋”(テレビ朝日系)も正直なトーク番組だと思います。録画で以前の放送を振り返る時は、きちんと何年何月何日放送と断りますし、おしゃべり自慢の黒柳徹子も、聞き上手にふるまっています。特に今年の8月15日前後のいくつかの終戦秘話とも言える再放送は見応えがありました。

(4)フジテレビお昼の“笑っていいとも”のコーナーには、“テレフォンショッキング”というのがあります。最後に次の出演者に電話することから来ている名前でしょうが、主体はタモリとゲストのトークです。こういう番組を途中から見ると、ゲストの顔は見覚えがあっても、「誰だったかな?」と思うことがあります。この番組では、プラスチックの名札を作って、それを出演者が持参して自分のテーブルに置くようにしています。視聴者への配慮として当然ですが、どの番組でも心がけてほしい点です。

(5)平日の昼間は、タモリから始まって、午後3時近くまで上記のトーク番組が続きます。国会中継や高校野球中継がない限り、NHK も“お元気ですか日本列島”で、ゲストとのトーク番組を放映しています。視聴者からの便りを紹介したり、質問に答えたりする量は多い方ですが、他の番組では時間の関係で、質問などは省略してしまうことが多いようです。視聴者にもっと親切な時間配分をしてもらいたいと思います。

(6)時間配分と言えば、週間天気予報なども、提示時間が短すぎます。自分の住んでいる処と、週末に出かける先の予報を見たりしていると画面が消えてしまうことがよくあります。テレビは同じ画面の繰り返しが多いくせに、必要な処ではとても不親切です。もっと視聴者のことを考えた画面構成にしてほしいものです。(この項終わり)

<終戦の日に想う ②> 松山 薫

② 「国の盾」

 私の住む神奈川県の県央と呼ばれる地域には、戦争中、軍の施設が数多く散在していた。
帝都(東京)から近く、農地が多くて買い上げに支障が少なかったからだろう。我が家から車で30分ほどのところにある県立相模原公園は、昔座間の相武台にあった陸軍士官学校の演習場だった。現在は二つの丘にはさまれた谷あいに立派な洋式庭園を持つ広大な公園になっている。ある時、ひと気のない丘の松林の中の散歩道を歩いていると、誰かが谷へ向かって歌をうったっているのが聞こえた。立ち止まって耳を傾けると、それは、私が義兄に教わった「昭和維新の歌」だった。「功名なんぞ夢の跡、消えざるものはだだ誠、人生意気に感じては、成否を誰かあげつらう。」何故か私も声を立てずに歌っていた。私に気づいた老紳士は、目礼して立ち去って行った。私は時々この丘に立って、向こう側の丘を眺めて佇むが、風の強い日には松籟の中に、国の盾となる覚悟で演習場を駆け巡った若者たちの雄たけびが聞こえるような気がする。
 
 先日NHKのBS放送で「前代未聞の戦争画」という番組が放映された。藤田嗣治と並ぶ戦争画の巨匠小早川秋声の「国の盾」という作品にまつわる話であった。真っ黒な背景の中に、
戦死した兵士が横たわっているこの絵の小さな写真を、前にもどこかで見たことはあったが、画面いっぱいに映し出された作品には強い衝撃を受けた。横たわる兵士に、中学時代の教官の姿が重なったからである。入学以来およそ3年間、配属将校として軍事教練にあたった川名廣喜教官は、美術学校出の陸軍予備役中尉だったが、戦争末期に召集され、中国戦線で戦病死された。

 「国の盾」の兵士は、画面の真ん中に、腕を胸に組み仰臥している。軍装から判断して、これは陸軍の将校であろう。胸から腰にかけて、白い布を柄に巻いた軍刀が立てかけてある。行軍演習の途中、落伍しそうになる我々を声をからして叱咤した川名教官が腰に吊っていた軍刀とそっくりなのである。教官は「貴様ら、戦場で落伍したら必ず便衣隊(ゲリラ)に殺されるぞ。命を無駄にするな!」と叫んでいた。川名教官は厳しい人であったがどこかにやさしさを感じさせる人でもあった。学校の仮校舎が青山に在ったこともあって、よく教練を休んで神宮外苑の絵画館へ連れて行ってくれた。川名画伯の絵が飾られていることもあった。教官の人柄を偲んで、中学の同期生の中には、つい最近まで未亡人と交流を続けていた人達もいる。

 ところで、「国の盾」の戦死者の顔には日の丸がかけられている。この旗は、戦死した人が死の瞬間まで身につけていたものに違いない。黒い背景と日の丸の赤が強烈な対照となって、その下に隠された生身のような鼻梁の高さを浮き出させている。その鼻の高さが、川名教官を想起させた。日の丸には墨で親類縁者の寄せ書きが書いてある。私は小学生の頃から習字の塾へ通っていたので中学の頃には一応の文字を書けるようになっていた。出征する兵士の家族から、日の丸の白地に「神州不滅」「米英撃滅」「武運長久」などの文字を書くよう何回か頼まれ、私は少々得意だった。兵士たちはこの日の丸を襷がけにして、「勝たずば生きて還らぬ」覚悟を強要されて戦場へ向かった。戦陣訓に言う。「恥を知るものは強し。常に郷党家門の面目を思い、愈愈奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」。こうして、死なずにすんだはずの何十万人もの命が失われ、その何倍もの家族や縁者の心に生涯癒すことの出来ない傷を負わせたのである。私自身それに手を貸したという思いは消えず、この旗を正視できなかった。

 この絵を秋声は、最初「軍神」と名付けたが軍に受け取りを拒否され「大君の御盾」と改めた。そして戦後さらに「国の盾」に変えた。戦争と国家に対する秋声の屈折した思いが感じられる。終戦の日は、戦没者を悼むだけでなく、国家が若者の運命を狂わせ、あまつさえ,死地へ送るようなことが二度とあってはならないと誓う日でありたい。(M)

日本人が英語を学ぶときの難しさは、前回に述べた音韻の違いと並んで、日本語と大きく異なる語順の違いにあります。いろいろ指摘できますが、いちばん大きな違いは動詞と目的語の位置です。日本語がSOV型の言語であるのに対して英語はSVO型の言語です。誰でも知っている違いですが、「ああそうですか」ではすますことのできない大きな違いです。日本語の語順に慣れてしまった日本人は、これを英語の語順に切り替えるのは容易なことではありません。私たちは長年の日本語の使用を通して、述語の中心である動詞よりも先に、その対象のほうに意識が行くようになっています。この違いは、おそらく、認知の仕方や思考の様式にも影響を与えと思われます。認知実験にも、日本人が物事の状態や動作よりも、その目的語となる物や人を先に意識することを指摘しているものがあります。その違いがどういうものかを、次の例で見てみましょう。

(1)(わたしは)その男をいぜん見たことがある。/ I’ve seen him before.

(2) 太郎が試験に落ちたことを(わたしは)知らなかった。/ I didn’t know that Taro had failed the exam.

上の日本文と英文はそれぞれ同じ内容のことを述べていますが、語順がまったく異なることから、話者の伝えようとしているものが微妙にずれています。(1)の日本文は「その男」の情報が中心であり、「いぜん見たことがある」という情報はそれに付け加えられている感じです。ですから「その男を」を「その男は」に替えることができます。これに対して英文のほうは、「いぜん見た」という情報が中心になっています。ですから、たぶん、seenとbefore(とくにforeの部分)に強勢が置かれます。(2)の日本文は「太郎が試験に落ちた」が話題の中心であり、「(わたしが)そのことを知らなかった」という情報はむしろ2次的なものです。これに対して英文のほうは「(うっかりしていて)わたしは知らなかった」という部分が伝えようとする主要な情報であり、that以下の目的語の部分はその情報の補足といった感じです。このように言葉を情報の伝達という観点から見ると、日本語では物事の対象である目的語が最初に意識されて先に表現されるのに対して、英語では目的語が述語の一部として動詞のあとに置かれることになります。この表現の違いは発想にも関係する大きな違いのように思われます。

 次に副詞の位置に注目してみましょう。(1)の日本語では「いぜん」という副詞が目的語と動詞の間に挿入されています。しかし英語ではbeforeが文尾に置かれています。英語では動詞と目的語の間に副詞を挿入することは普通ありません。なぜかと言うと、英語のVとOは非常に密接に結びついていて、その間に他の種類の要素が入ることを嫌うからです。これも日本語と英語の大きな違いの一つです。

 ついでながらもう一つ、日本語のSOVのSはしばしば省略されることに注目しましょう。省略と言うよりも、日本語は主語をなるべく表面に出さないようにする言語です。とくに一人称の「わたし」や「わたしたち」は出さないようにします。そのため、日本語には英語のような主語は無いと主張する文法学者もいるくらいです。とくに一人称の「わたし」を繰り返すことは日本語では敬遠されます。「わたし」のことを書いて「わたし」を表面に出さないのが良い文章とされてきました。これに対して、英語は主語をいちいち几帳面に表現します。日記を書くときでさえ、‘I’ をいちいち書く人がいるようです。そういうこともあって、英語は自己主張を好む言語だと言われることがあります。

 日本語と英語の語順の違いは他にもあります。前置詞に続く目的語(名詞句)がそうです。日本語の助詞は名詞句のあとに置かれる「後置詞」です。これも大きな違いです。次の例ではbe afraid of, be fond ofが動詞と同じ役目をはたしています。

(1) うちの子どもたちは雷をこわがる。/ My children are afraid of thunder.

(2) ブロードウェイのミュージカルが楽しかったのですっかり好きになった。/ I enjoyed musicals in Broadway and grew very fond of them.

 もう一つ忘れてはならないのは修飾語の問題です。日本語では修飾語はどんなに長くても被修飾語の前に置かれますが、英語は2語以上になる分詞・不定詞・関係詞節などの修飾語句は後置されます。これも日本人にとって習得がやっかいです。しかしいったん習得してしまうと、長い修飾語は後置するほうが合理的であり、日本語はその点で不便な言語であることも分かります。(To be continued.)

< 終戦の日に想う ① > 松山 薫

① 軍人だった先輩達の思い出

 66回目の終戦の日がめぐってきた。毎年、310万人の戦没者を追悼する政府主催の式典が行なわれる。亡くなった方々が最大の犠牲者であることは言うまでもないが、戦争の傷あとは、多くの国民に広く、深く、長く及んだ。若き日に「国の盾」たらんと志して軍関係の学校に入り、戦後は軍国主義者として差別された人達も、私は戦争の犠牲者だと思っている。私には10人近い旧軍人の縁者、知人、友人がいたが、既に皆な世を去り、私自身来年のこの日に生存しているかどうかわからぬ年になったので、戦争によって運命を狂わされた先輩達の思いの一端を書き残しておきたい。

 10歳年上の義兄は、関東軍の将校で、3年間シベリヤに抑留された後故郷の富山県魚津に復員した。79歳でなくなった通夜の晩、親戚の1人が「彼は復員後しばらくして一緒に川のほとりを散歩していた時、立ち止まって立山連峰を見つめていたが、突然河原に伏し、大地にしがみつくようにして号泣した」と語った。山形から駆けつけた元従卒だったという人は、「岡本大隊長は将来必ず中将、大将になる人だと皆思っていました」と言っていたから、敗戦は大きな人生の挫折であったろう。しかし、彼は少なくとも私には一切愚痴をこぼさず、親兄弟そして家族のために小さな会社に入って懸命に働いた。私の家族にもたいへん気を配ってくれた。晩年には鎌倉の寺めぐりをしていたが、連れて帰れなかった多くの部下の鎮魂のためだったろう。肺気腫で亡くなる数日前、病院に見舞うと、苦しい息の下から「薫君。長い間世話になった。有難う」と言ったので、「私こそ本当にお世話になりました」と頭を下げると「お互い長男だから苦労したよな」と言ってかすかに笑い目を閉じた。
 
 女性キャスターの草分け的存在である田丸美寿々さんの父君の成三さんとはNHKの同僚であった。彼は廣島文理大英文科を出てしばらく高校の英語の教師をしていたので、話が合った。田丸さんは教師を辞めてアメリカへ渡り新聞記者をしていたのだが、40近くなって一家で帰国しNHKに入ったのである。夜勤の夜などよく一緒に飲んだが、何故教師を辞めて渡米したのかについては話さなかった。ただある時、士官学校を出て、見習士官の時に終戦になり、故郷の廣島に帰ったときに、廃墟の中で死に物狂いで或る人を探したと語ったことがある。その人の面影を忘れるために国を離れたのではなかったかと私には思えた。私がNHKを辞める決意をして健康診断をしてもらおうと局内の診療所へ行った時に、当時は報道局にいた田丸さんと偶然出合った。「辞めるんだって?また義兄さんに殴られるぞ。まあ、決心したんだったらたら頑張れよ」と励ましてくれた。「田丸さんどっか悪いんですか?」と尋ねた私に「いや、坐骨神経痛がひどくてね」と言って苦笑した。医師の話では、士官学校時代に中国戦線のクリークでの戦闘を予想して何時間も泥水に使っていたせいではないかということだった。突然の訃報が届いた時、田丸さんはまだ70歳を過ぎたばかりであった。若い頃の無理やもしかして放射能が命を短めたではないかと私は思った。美寿々さんと自宅付近の川の堤防を散歩中に倒れそのまま息を引き取ったという。所沢の斎場で行なわれた告別式での美寿々さんの惜別の辞は、深く結ばれた父娘の絆を感じさせ心を打った。

 当時のNHKでは数少ない戦争記者だった田中至さんは、海軍兵学校を出て直ぐ敗戦になり、復員船に乗り組んで働いた後、青山学院で学び、東京新聞の記者になったが、この新聞社が潰れてNHKへ移ってきたのである。安全保障問題について私に手ほどきしてくれた人であった。私の勉強のために鹿島研究所の核戦略の本の翻訳も紹介してくれた。戦術関係の用語などはよく田中さんに教えてもらったが、驚くべき勉強家だった。少しでも時間があると本を読んでいた姿を思い出す。私の長男は1965年(東京五輪の前年)9月22日に生まれたが、かなり難産であったらしい。午前中から柏市内の病院で待機していたが、なかなか生まれない。そのうちラジオの正午の時報が聞こえた。「お昼のNHKニュースです。ニューデリーの田中特派員発。インド・パキスタン戦争が終わりました。・・・」その時看護婦さんが「男のお子さんですよ。母子ともにお元気です」と知らせてくれた。帰国した田中さんに「危険なことはなかったですか」と尋ねると、「彼等は本気で戦争していたとは思えなかったよ」と言って、いつものように飄々と笑った。

 田中さんと海兵の同期だった日本語ニュースデスクの本間孝さんには、徹底的に日本語を直された。戦争中の勤労動員と敗戦後の混乱で、ほとんど授業を受けられなかった私は、漢字も、送り仮名も、敬語の使い方も、文法も自己流で、ニュース原稿も自分流に書きなぐった。本間デスクは、黙って原稿に手を入れ、時には全文書きなおしてくれた。本間さんは“痔持ち”で酒はあまり飲まなかったが、酒席ではいつもニコニコと我々の勝手な議論を聞いていた。戦争の話は一度も聞いたことがない。田丸さんとは同じ年で、時々NHKの食堂などで話し込んでいるのを見かけたが、二人だけの席では戦争中の話をしたのだろうか。今、このようなブログを書いていられるのも本間デスクのおかげである。

 これらの先輩達は、東大でも京大でも受験すれば合格できたと思うが、占領中は進駐軍の軍国主義思想の排除命令で、軍関係の学校に在籍した者の国公立大学・高専への入学は、定員の一割しか認められなかった。そのため多くが私立大学を卒業しており、NHKのような組織では、割を食っていたことは間違いない。しかし、先輩達は、戦争で運命を狂わされながら、愚痴を言わずに誠実に生き、日本復興の礎を築く一端を担ったと思う。先輩達には、余計なことをするなと言われそうだが、直近の後輩として、そのことを書き残しておきたい。(M)

日本人にとって特に難しいと考えられる英語の特質は何でしょうか。いろいろ挙げられますが、なかでも音韻と語順が非常に難しいように思われます。音韻とは英語を構成する基本的な音声システムのことです。また語順は英文の基本的な文法特性です。これらを自分のものとしなくては、英語は使えるようになりません。日本人にとって音韻と語順の学習が大切なことは筆者だけの見解だけではなく、そのように考えている専門家は多いと思います。まず英語と日本語の音韻を比較してみましょう。

 初めに音節の構造を比べてみましょう。音節は言語を構成する基本的な単位です。日本語の音節は、基本的に「母音」または「子音+母音」で構成されます。ですから音節の末尾はつねに母音です。つまり、日本語では母音が独立した音の単位であり、子音はつねに母音と組み合わされる音で、単独では起こらない音なのです。「か」は /ka/ ですが、日本人は /k/ の音を単独で意識することはありません。ただし、「・・・です」と言う場合、最後の母音が消えて /des/ のようになることはあります。しかしこれも本来は /desu/ なので、関西の人はそのように発音します。話し言葉では、本来あるべき音が抜けてしまうことはしばしば起こる現象です。そうやって話すときに必要とするエネルギーを節約するわけです。

 これに対して英語の音節構造はずっと複雑です。日本語の音節は「子音+母音」が基本であるのに対して、英語の音節は「子音+母音+子音」が普通です。それに加えて子音が2個以上連続することも珍しくありません。ですから、成人の日本人学習者は子音と子音の間に母音を入れてしまう習慣から抜け出すことがなかなか難しい。Streetを「ストリート」というように発音してしまう人が多いのはそのためです。このプログの読者は次の語を英語らしく発音できるでしょうか。

<語頭の子音連続> blend, break, clean, cream, drive, fly, friend, few, glass, grammar, pleasure, present, sleep, spring, squirrel, strange, try, through (注)子音が3つ連続するときの最初の子音は /s/ に決まっています。

<語尾の子音連続> adult, apples, asked, bathed, books, gentle, gloves, laughed, little, months, needles, perhaps, possible, reached, recently, text

 上の例はすべて語内の子音連続ですが、数個の単語が集まって作るチャンクではどうでしょうか。チャンクの中では単語の切れ目で切らずに、全体をひと息に言うことが大切です。すると単語と単語の間にも子音連続が起こります。子音連続だけでなく、子音で終わる語のあとに母音が続くと、それが一体となります。たとえばHe was an old man. と言ってみましょう。was とan が一体となって「ワザン」のように、またanと oldがつながって「アノウル」のようになります。oldのdは次のmという子音と連続すると、破裂せずにmに同化されます。ここではldmの3つの子音連続が起こるわけです。かなり細かな音韻規則なので、そこまでは学校でも教えないかもしれません。しかし英語の特徴的な音声を身につけるためには必要な知識であり、その技能を習得する必要があります。日本人が英語の発音に自信がない人が多いのは、一つには、日本の英語教育における音韻指導の欠陥あるいは手抜きにあると思います。

 さて、英語の音韻の特徴には、もうひとつ注意すべきものがあります。それは前に述べたように強勢とリズムです。日本語はすべての音節が等間隔に発音される傾向があります。それに対して、英語は強い強勢のある音節を強くはっきり・ゆっくり、弱い強勢のある音節は弱くすばやく(ときに曖昧に)発音します。そこでリズムができます。この違いは大切です。He was an old man.では、太字の音節を強くはっきりと、そうでない音節はできるだけ弱くすばやく発音します。先にあげたヘミングウェイのThe Old Man and the Seaの冒頭部分をもう一度引用しますので、語と語の間のつなぎと音節の強弱に注意してもう一度読んでみてください。

He was an old man / who fished alone in a skiff / in the Gulf Stream / and he had gone eighty-four days now / without taking a fish. // In the first forty days / a boy had been with him. // But after forty days without a fish / the boy’s parents had told him / that the old man was now / definitely and finally salao, / which is the worst form of unlucky, / and the boy had gone at their orders / in another boat / which caught three good fish the first week. //

そういうわけで、日本人が英語の音韻システムを習得するのは、多くの人が考えているよりも、ずっと難しい技能なのです。(To be continued.)

<新潟の大洪水に想う >

 記録的な豪雨と大洪水に襲われた新潟県の中越地方は、私にとって第二の故郷であり、新潟市の信濃川堤防からみはるかす越後平野とはるかな山なみは、忘れることの出来ない心象風景になっています。

 昔を偲んで時折口ずさむ長岡高校和同会(同窓会)の歌に「本邦一の大河なる、信濃川はその西に、悠揚沃野をひたしつつ、北海さして流れ行く」という歌詞があります。長野県(では千曲川と呼ばれる)から流れてきた信濃川は小千谷付近で魚野川(ツツガムシ病で知られていた)と合流して水かさを増し、越後平野に入ります。そこでそれまでの急流がウソのようにゆったりとした流れになり、アメリカのコーン・ベルトを流れるミシシッピ川のようにmeandering しながら田畑を潤し、新潟市の真ん中を貫通して日本海に注ぎます(長岡から新潟までは約60キロ)。大河が屈曲しているため、ひとたび洪水が起きると、穀倉地帯である越後平野は水浸しになり、海抜が低いためなかなか水が引かず、甚大な損害を被る歴史を繰り返していました。

 そこで、信濃川の水を越後平野の途中で日本海に逃がす運河の掘削計画が江戸時代の末期に始まり、紆余曲折を経ながら、延べ数百万人が働いたと言われる大工事は昭和初年に完成しました。長岡市のはずれから弥彦山の麓にいたる約10キロの大河津分水(おおこうづぶんすい)です。この分水のおかげで、越後平野の洪水はほぼなくなりました。私が昭和30年に長岡の栃尾から新潟市に転勤し、信濃川をまたぐ昭和橋を初めて徒歩で渡った時、川幅が多摩川程度しかなく、日本一の大河の河口にしては意外に狭いなと感じたのは、大河津分水のことを知らなかったからです。

 今度の洪水で堤防が決壊した三条市の五十嵐川には、たびたび魚釣りに行きましたが、川幅はせいぜい2~30メートルで、歩いて渉れるところもあったように記憶しています。この五十嵐川の中流域で合流するのが、旧栃尾市の真ん中を流れ、7年前の洪水で大きな被害を出した刈谷田川です。この川も普段は幅20メートルほどの浅い川ですが、ひとたび上流の山岳地帯に大雨が降ると、両岸の堤防一杯まで50メートル近い濁流が渦巻くことになりました。昔、堤防が決壊して栃尾高校(の前身)が冠水し、奉安殿の御真影を取りに行った教頭が濁流にのまれて殉職したという話が残っています。
 
 ところが最近はそういうことは無いというのでよく聞いてみると、五十嵐川や刈谷田川の上流の山あいにダムが出来たからだというのです。多分このあたりを金城湯池の選挙地盤とする田中角栄のおかげではないかと思われます。しかし、一旦想定を超える大雨が降ると、上流の小さなダムは水圧に耐えられず大放水しなければなりません。それでかえって洪水を大きくしてしまうのです。それは想定外であったのかどうか。
 
 さすがの大河津分水も今度の豪雨には耐えられなかったようで、信濃川本流の下流域も大洪水に見舞われました。長岡にいた頃よく通った長生橋一帯が水浸しになっているTV画面を見て思い出したことがあります。この橋の近くの河川敷を田中角栄のファミリー企業が買とり、後に転売して巨利を得たという彼の失脚の原因のひとつになった事件です。自分がつくったダムと大河津分水があるから洪水はないとふんだのではないかと思います。
 
 東日本の大津波で福島第一原発が制御不能に陥った時、東京電力は想定外の出来事だったと弁解して非難を浴びましたが、自然の猛威は時として人智を超える可能性があることを今度の大洪水でも思い知らされました。 (M)

英語の語彙や文法の学習についての話は一応前回で打ち切り、今回からは英語学習について多くの人が持っていると思われる誤解や偏見のようなものを取り上げ、そのような誤解や偏見を解いておきたいと思います。最近の認知心理学の研究では、人の行動が各自の持つ信念(beliefs)に大きく影響されることが分かっています。しかし多くの人は自分がどんな信念を持っているのかに気づいていないことが多いようです。そのことに気づくことを「メタ認知的気づき」と言いますが、これは自分をより客観的に観るために必要であり、自己の行動を改善するのに大事なことだということが最近の研究で分かってきました。

 さて、日本人は英語学習についてどんな誤解を持っているでしょうか。まず、「英語は難しい言語だ」と多くの人が考えているようです。これはいろいろな調査に現れます。筆者自身もかつて教えていた大学生に調査し、そういう結果を得ました。そしてそれは、自分が英語を習得できないのは仕方のないことだという、自己弁護に使われます。英語は難しいから自分には手に負えないというのです。それは自己の所有する能力を否定する悲観的な見方をうながし、英語学習に対して消極的な態度をもたらします。こうなると英語はますます難しく、超えることのできない高い壁として立ち塞がります。しかし冷静に考えてみると、どの言語にしろ、それを外国語として学ぶ場合には、母語と比較して易しいと言える言語はありません。母語をある程度習得しまった後では、どの言語も難しいものです。そこで、英語が難しい言語だというのはどういう意味で言われるのかを、詳しく吟味する必要があります。

 最初に赤ちゃんが誕生して直面する母語の習得を考えてみましょう。赤ちゃんにとっては、言語が難しいということは問題になりません。赤ちゃんは自分の生まれた環境を選ぶことができません。それは親から与えられたものです。言語の中には、性・数・格などによって語形を変化させるものがたくさんあります。ヨーロッパの言語の多くはそうです。ドイツ語やフランス語を学んだことのある人は、最初に学ぶ名詞や冠詞や形容詞の語形変化や動詞の活用に苦労します。こんな複雑に変化する言語を赤ん坊はどうやって覚えるのだろうか、と不思議に思います。しかし赤ちゃんの言語習得が、そのような個別言語の特性によって遅れるという報告は見たことがありません。赤ちゃんはどの環境に生まれても、数年で与えられた言語(つまり母語)の獲得に成功するのです。これは不思議なことですが、チョムスキーらの生成文法理論は、人間は言語の普遍的特性に関する知識を生得的に与えられていると考えます。その内容がどのようなものかについてはまだ議論が絶えませんが、その基本的な考え方は多くの言語学者が受け入れているように思われます。

 そうだとすると、ある言語が他の言語よりも難しいと感じるのは、大人になって母語以外の言語を学ぶときに生じるものです。大人はなぜ他の言語を難しいと感じるのでしょうか。その大きな理由は、自分のすでに獲得した母語を基礎として新しい言語を学ぶからです。音韻や語彙や文法規則などをすべて自分の母語の体系と比較してしまうのです。そして母語に似ていたり、それより単純な特徴を見つけると安心しますが、母語とは異なる特徴や、より複雑な構造に出合うとなかなか馴染めないのです。たとえば、外国人(特に漢字圏以外の国から来た外国人)にとって、日本語の文字の学習は非常に難しいようです。むかし日本に来て、「日本語は悪魔の言語だ」と嘆いた人がいました。日本は経済提携協定(EPA)に基づいて、現在インドネシアやフィリピンから多くの看護師候補者を受け入れていますが、この人たちは来日して3年以内に日本の「看護師国家試験」(年に1度実施)に合格しなければなりません。そうでないと帰国させられることになっています。これは厳しい試練です。2010年の第2回国家試験で初めて合格者が出ましたが、インドネシアとフィリピンから来た人で合格したのはわずか3人(1%)でした。これではあまりに厳しすぎるというので、医学や看護の専門用語には日本語の病名に英語を添えたり、「摂取する」を「食べる」に言い換えたりして易しくすることが検討されるようになりました。外国から来た人たちは日本語を話すことに関しては2年もすると不自由しなくなるのですが、日本語の漢字かなまじりの複雑なライティング・システムと表記法を習得するのは容易なことではないのです。

 では私たち日本人にとって、英語という言語のどんな特徴や構造が難しいのでしょうか。それをはっきりと理解することが英語学習を成功させるのに必要なことのように思われます。ただ「英語は難しい」では、壁をいっそう高く厚くするだけで、何の利益もありません。(To be continued.)