Archive for 10月, 2016

最初に余談から入ります。読者の皆さんも同意してくださると思いますが、今度のアメリカの大統領選挙には呆れて開いた口が塞がりません。民主党のクリントン氏はメール問題などを抱えてぱっとしません。もう賞味期限が切れている感じです。他方ではトランプというめちゃくちゃな人間が共和党の大統領候補に選ばれ、この男を支持する人が国民の半数近くを占めるというのですから驚いてしまいます。万一トランプ氏が大統領に選ばれることになれば、アメリカもおしまいだという感じがします。アメリカがこんな風になってしまった原因はもちろんいろいろとあるのでしょうが、私たちの英語教育に関係のある問題を一つだけ挙げると、日本の政権が目指している「英語が使える日本人の育成」が行き着くところが、このアメリカの大統領選に見られるような低級な論戦(ディベート)であるような気がします。つまり日本も、口先だけで相手を言い負かすというような社会と国づくりを進めているのではないでしょか。

そうならないためには、私たちの英語教育も目先のことだけでなく、もっとしっかりとした理念に立つものにしなければなりません。テスト、テストで子どもたちを追いまわし、生徒も教師も親もテストの結果だけを気にする教育は止めなければなりません。今年度のノーベル医学生理学賞を受賞した大隅良典氏は、国が産業への応用などすぐに役立つ実用的な成果を重視するあまり、その土台となる基礎研究力が低下するのではないかと心配しています。「この研究をしたら役に立つというお金の出し方ではなく、長い視点で科学を支えていく社会の余裕が大事」と大隅さんは言っています。そしてこの状態が続けば、日本のノーベル賞受賞者はやがてゼロになるだろうと警告しています。

そこで筆者は、英語教育の分野においても、学校を出てすぐに役立つ英語を身につけようと国が主導することには大きな危険を感じます。親も教師もその方針で教育しますから、子どもは語彙や文法や読み書きの基礎の学びをおろそかにし、すぐに役に立ちそうな(しかし実際に使うかどうかは分からない)表現をたくさん覚え、稚拙な英語を使って口先だけで相手を言い負かすディベートに熱中することになります。さらに、文科省の言う「四技能のバランスの取れた英語力」なるものを学校卒業までに身につけないとろくな将来を約束されないとなると、若者たちは自分の本当にやりたいことを後回しにしてまで英語に力を注ぎますから、科学分野でノーベル賞を取れる人はしだいに減少するでしょう。科学の分野だけではなく、他の多くの学問分野の基礎研究も後退を余儀なくされ、日本の大学の全般的学問レベルはますます低下することになります。

テストとその結果だけにこだわる教育は本物の教育にはなりません。すでに述べたように、それは選別のための教育になります。それに加えて、テストというのは概して知識の量を測ることを得意としていますが、知識の質やその応用力を測ることは得意としていません。たとえば、単語や文法をどれだけ多く知っているか、基本的な英語表現をどれだけ多く知っているか、などはテストである程度しらべることができます。したがって従来の多くのテストは、単語や文法の知識に偏りかちでした。しかし英語力は単語や文法の知識だけで構成されているわけではありません。どれだけ英語が読めるか、書けるか、聴いて話せるかをしらべるためには、実際に英文を読ませたり、書かせたり、話したりさせなくてはなりません。近年のテストの多くはそういうテストを目指していますが、短期間に多数の受験者の答案を処理する必要から、様々な問題が生じています。

なかでも「妥当性」と「信頼性」の問題が非常に重要です(注1)。いくつか例を挙げましょう。本ブログでもかつて指摘したように、大学入試センター試験は多くの大学教員の協力を得て慎重に作成されているのですが、それでも妥当性に疑問のあるいくつもの設問が見出されます。ペーパーによる発音問題がその一つです。英語の発音は受験者に実際に発音させることが必要です。ペーパーテストで発音の良し悪しを測れるものではありません。ペーパーテストで測れるのは、この単語の強勢はどこにあるか、この単語の母音はどう発音するかなど、単語の発音に関する知識です。もしそういう知識の量をきちんと測定することを目的とするのであれば、その妥当性と信頼性を高めるためには、その目的にふさわしい量の設問数が必要です。入試センター試験のような数問の発音問題では、何も測っていないと同然です。

また、入試センター試験のリスニング問題には男女の短い対話を聞かせ、その内容を正しく聴取できたかどうかをたずねる設問が毎年出題されています。しかしこのテストの妥当性には疑問があります。それはちょうど私たちが街頭や電車の中などで、近くにいる男女のプライベートな対話を立ち聞きしているような場面設定です。そういう見知らぬ人たちのプライベートな対話を立ち聞きする技能を学校の教室で訓練することはまずありません。大学入試のリスニング問題に対話・会話のスクリプトを用いる場合には、学校や教室などの高校生が日常的に経験する場面でのスクリプトを用いるべきです。私たちが他人の対話・会話を聴くときには、聞き手はそれがなされている場面と、それに参加している人たちに関する情報をあらかじめ把握しているのが普通だからです(注2)

さらに、テストで測れるものは目に見える学力であり、目に見えない学力は測れません。英語の学力には、テストでは測れない重要なものがいろいろと含まれています。前回に挙げた勤勉さ、情熱、直観力、忍耐力はその例です。しかしこういう個人的な資質や能力をテストによって手早く測定する方法は開発されていません。おそらくロボット工学でもそこまで踏み込んだ研究はまだ進んでいないのではないかと思います。チェスや将棋の名人を負かすロボットは開発されていますが、どんなに科学が進歩しても、宇宙のすべてを人間が知り得ないのと同様に、上記の人間的な資質や能力を備えたロボットが開発されることはないと思われます。これからの人間の教育は、単にロボットが得意とするデジタル的知能だけではなく、人間的な魅力に富んだアナログ的知性を高める教育にもっと力を入れてほしいと筆者は考えています。

(注1)「妥当性」(validity)とは測りたいもの(知識・技能など)を測っているかどうかということ、「信頼性」(reliability)とは同じ受験者が同じ条件で他の機会に受験した場合でも一貫した結果を出すかどうかということです。ある種の標準化されたテスト(知能検査・学力検査など)では予備調査を行って、問題項目ごとにその妥当性・信頼性について厳密な検討がなされます。しかし入学試験や学校の日常テストなど、一回限りのテストでは予備調査を実施することができません。したがって各問題項目の妥当性・信頼性は、それぞれの問題作成者の経験によるカンに頼ります。そこでテスト教育が盛んになればなるほど経験の乏しい人が問題作成に関わることになり、妥当性や信頼性に乏しいテストが増加することになります。

(注2)大学入試センターの問題については以前に詳しく検討しました。興味のある方は本ブログの「英語学習の自己評価(13)~(15)」(2012年1~2月)をご覧ください。

前回に続いて、「四技能のバランス」のうちその評価に関する部分を取り上げて議論します。というのは、文科省が四技能をバランスよく指導するというだけではなく、学力評価においても四技能テストの必要性をしきりに説いているからです。大学入試センター試験に代わる次のセンター試験では、スピーキングとライティングの実技テストの導入も検討していると聞きました。しかしこのテストは一時に50万人を超える受験生を対象にするのですから、どう考えてもその解決法を見出せるとは思えません。それよりももっと重要な、議論すべき問題があるように思われます。すなわち、入試において四技能テストをすべての受験生に課す必要があるのか、また四技能のそれぞれの得点を単純に足し算しだだけで総合的な英語力が測れるのか、などの根本的な問題です。

そこでまず、中学生や高校生に英語四技能テストを一律に強制することの是非について議論します。まず結論を先に述べます。基礎学力の固まった生徒たちに対しては、四技能テストを行って総合的な英語学力を判定することに意味があるかもしれません。しかし英語基礎学習の途上にある生徒たちを対象とする試験においては、四技能テストを実施することには無理があります。その理由は、すでに前回触れたように、英語の基礎学力は四技能がバランスよく一様に発達するものではないからです。あるときには「聴く・読む」の技能に集中し、あるときは「話す」や「書く」の技能に専念することもあり得ます。したがって英語学習の初期や中期においては、四技能は必ずしもバランスが取れているわけではないのです。たとえば小学校から英語を教科として教えるようになっても、中学入試に英語の四技能テストを実施するなど考えられないことです。

高校入試はどうでしょうか。英語の基礎学習中期にあたる中学校課程を修了したからといって、すべての受験生に四技能の入試を課すことには無理があるように思われます。高校入試では従来どおり「聴く・読む」の受信技能だけを義務とし、「話す」と「書く」の発信技能については、それを得意とする生徒にのみ選択受験させるのがよいと筆者は考えます。その主な理由は次の3つです。1.英語の習得過程においては受信技能の発達が先行し、発信技能はその後を追う形で発達すること。2.受信技能に関してはテキストのレベルをある一定の基準に制限することが比較的に容易であるが、発信技能に関しては発信のレベルを制御することが困難であること。3.中学校3年間で発信技能の指導を全生徒に徹底することは、現在の授業時間数やクラス生徒数などの教育条件下では困難であること。

大学受験についてはどうでしょうか。英語四技能テストを全受験生に課すことは歓迎すべきことでしょうか。結論を先に述べると、高校までに基礎学力が固まった生徒に関しては動機づけの点からも意味がありますが、そうでない生徒(つまり、依然として四技能の発達途上にある生徒)に対してそれを義務的に課すことには問題が生じます。特に高校3年の時点でおよそ70%の生徒が英語の学びから落ちこぼれているという現状からして、その生徒たちは英語四技能テストがほとんど絶望的な壁として前面に立ちはだかっているように感じるのではないでしょうか。それは大学進学を希望する多くの高校生たちを絶望にまで追い込み、彼らをとてつもない行動に走らせる要因となる可能性があります。最近の十代後半の少年たちによる数々の凶悪事件はその危惧をますます高めます。大学入試における英語四技能テストの実施は、そのような技能を入学後に必要とする学部・学科に限って実施するのがよいと筆者は考えます。

今度は視点を変えて、四技能の問題を教師の側から見てみましょう。たぶん、多くの教師は生徒の四技能がバランスの取れたものにしたいと考えることでしょう。その理由は主に次の2つであると考えられます。1.生徒たちが将来与えられるどんな状況にも対応できるようにしておくのが望ましいこと。2.「聴く・読む」の受信力と「話す・書く」の発信力とは密接に関連していること、すなわち、受信力を高めることが発信力を高めることにつながるとともに、発信力を高めることが受信力を高めることに寄与することが経験的に知られていること。そういうわけで、教える教師が常に四技能のバランスを視野に入れて指導する姿勢は正当なものだと言えます。

しかし、実際に英語を学ぶ生徒たちは教師の思惑通りには動きません。これは、それぞれの生徒の個性からみて当然のことです。その個性として、第一に学びに対する態度や目的意識が挙げられます。留学をするなど、はっきりした目的を持って英語を学んでいる者はごくわずかです。一般の中学生・高校生にとっては英語学習の目的は漠然としており、普段は英語を何のために学ぶのかは意識していません。問われればそれなりに目的らしきものを述べるでしょうが、英語を実際生活で使用する経験がほとんどないので、自分の人生に英語がどう関わっているかを体験することがありません。英語はこれから世界の人たちとのコミュニケーションに必要なものだと先生が言えば、そうかなと思うだけです。現実には、学校で英語という教科があるので学ぶだけで、英語が好きか嫌いかは英語を楽しく学ぶことができるかどうかにかかっています。先生が親切で、授業がよく理解でき、自分の学びがそれなりに評価されれば好きになります。教師には生徒のこの基本的な心情を満たす責任があります。

第二に、生徒の学び方にもそれぞれ個性があります。人間には性格的に内向的な人(introverts)と外向的な人(extroverts)がいます。一般に他人とのコミュニケーションが得意な人には外交的な人が多く、内向的な人は社交性が乏しいので他人とのコミュニケーションが苦手だと言われています。英語の授業においても発信技能を訓練する場面では外交的な性格の人が活躍し、内向的な人はともすると後ろに引っ込むことになりがちです。そうすると、コミュニケーション能力養成に力を入れる授業では、内向的な人は不利にならざるを得ません。中学生・高校生時代は自意識が極度に発達する時期ですから、そういうことで英語が嫌いになったり、ときには英語の学びを諦めたりすることもあります。中学・高校の教育では、そういうことも考慮に入れる必要があります。

そしてもう一つ、すべてのテストは人間の持つ多様な能力を測定するにはあまりにも欠陥が多いということを私たちは認識する必要があります。第一に、英語の学力は「聴く・話す・読む・書く」の四技能から構成されると言いますが、それらをどのように組み合わせて評価するのがよいかについては定説がありません。それら四技能の得点をどのように配分したらよいのか、適当に配分して四技能の得点を合計した総合点というのは何を表しているのか、問題が山積しています。すべてのテストはその妥当性を疑ってみる必要があります。さらに、より根源的な問題ですが、英語学力には普通のテストでは測れない他のもろもろの能力が関連しています。たとえば勤勉さや情熱や直観力や忍耐力など。しかし従来のテストはそれらを無視しています。(これらの問題はとても重要なので次回に引き続き検討します。)