Archive for 11月, 2015

統計数字の裏にみえるもの  ① 犬・猫

 調査とか統計の数字は、前提条件に問題があることも多いから、そのまま信ずるわけにはいかないが、社会の動きを知る上で、やはり欠かせないもののひとつではある。今回は、国内の犬・猫をめぐる統計数字をとり上げたい。

1.犬と猫の飼育数: ペットフード業界によると、ペットの飼育数は、去年の段階で犬、猫それぞれ1000万匹前後、合計2000万匹と推計されている。世帯数は5450万、一世帯で2匹以上飼っているところもあるから、およそ3軒に1軒が飼育世帯ということになろうか。
2.犬と猫の販売数:2014年度総販売数 75万匹 (犬 61万7千匹  猫 13万3千匹)
3.犬と猫の殺処分数: 2014年度自治体が引き取った犬・猫の総数 10万匹
            内殺処分 2万1395匹  (犬の40% 猫の73%)

 三つの統計数字に共通するのは、ここ数年の減少傾向である。特に犬の減少が目立ち、今年あたり猫の数が犬を上回るらしい。その原因の一つは、どうやら人間の高齢化のようだ。散歩に連れていかれなくなって飼うのをやめるという。たしかに私の住む団地でも、数年前までは夕方になると、犬に散歩をさせる人達が目立った。しかし、世帯主の平均年齢が70歳ともなると、自分や連れ合いのことだけでせいいっぱいになって、犬までは手が回らないのだろう。

 犬は散歩させないと狼に先祖返りして狂暴になることがあるようで*、私は20代の初めに橇を曳かせるという自分勝手な目的で大型犬を飼い、ほとんど一日中つなぎっぱなしで、たまに解き放つとあっという間にどこかへ消えてしまい、ついには近所の子どもの尻に噛みついて大騒ぎになった(2010-9-25 桐英会ブログ 犬の話)。家内などは大泊(サハリン州コルサコフ)に住んでいた幼い頃に樺太犬に噛みつかれた恐怖心から今でも犬が怖いらしい。樺太犬はいわゆる「特定犬*」ではないが、大型の犬なので、かまれた痕が腕に残っている。
* 犬と狼の祖先は異なるという説もある。* 犬は一日4回散歩させるのが理想だという説がある・・ドイツ動物愛護連盟 * 土佐犬、秋田犬、紀州犬、ジャーマン・シェパード、ドーベルマンなど体高 60センチで体長70センチ以上の犬

 犬の散歩人がゾロソロ歩いていた頃の団地では、糞害が大きな問題であった。たしかに私も何回か、踏んづけたことがあった。夕方の散歩の折などは、玄関まで来て気付くので後始末が大変だ。猫の方は大体家の中で飼っているのだが、ベランダの仕切り板の下をくぐって隣家へ忍び込み、干してある布団の上で昼寝して小便をたれたりする。統計数字からもわかるようにタダでもらうことが多い猫は、犬に比べて捨てやすいらしく、団地の裏にある市立の公園に猫を捨てる人が後を絶たない。そういう猫が住み着いて、さかりがつく頃には、すごい鳴きごえを上げて一晩中暴れまわる。

 減少傾向のもう一つの原因は集合住宅の増加だろう。私が今の団地に移り住んだ35年前には集合住宅は全戸数の2割強程度だったが、今は4割を超えている。集合住宅での犬、猫の飼育にはたしかにいろいろ問題がある。旧住宅公団や住宅公社が建てた集合住宅では、小鳥を除くペットの飼育は原則禁止となっており、我が団地でもこの規約をめぐって住民同士の対立が続いていた。対立がピークに達し、ついに臨時総会が開かれて、住民の間にささくれ立った空気が漂う中で、私は管理組合の副理事長になった。副理事長には決まった担務が無いから、こういう問題を担当することになる。臨時総会では、原則禁止を守れという意見が強かったと聞き、私は別の原則を立てた。「人間の勝手な都合で、犬や猫の命を奪うようなことをしてはならない」という原則である。

 団地の“犬奉行”としての私に新しい「原則」を思いつかせたのは、遠い昔の思い出だった。一つは、前記の「犬の話」に書いた自分の飼い犬の「殺処分」である。別れ際の恐怖に満ちた目の色と遠くから聞こえてきた長く尾を引く鳴き声が私の記憶から消えることはなかった。もう一つは、東京の芝浦屠殺場へ取材に行った時の体験だ。アメリカで黒人差別が顕在化してきたころ、ロサンゼルスタイムズの記者に「君はアメリカが差別社会だと言うが、日本には差別はないと言えるのか」と問い詰められ、日本における差別について調べたことがあった。その一環として行った屠殺場では、屠殺人の親方らしき人物が出てきて「これから牛を殺るが、打ち損じると暴れるから、脚に綱をつける。その一本を持ってみろ。頭から糞尿を浴びるぞ。朝日の記者はやったが、NHKはどうする。やれば取材に応ずる」と言った。私は取材の目的とは関係ないと考えたので断ったが、その時我が〝愛犬”の目の色を思い出していたのは確かだった。

 役員が交代する団地の定期総会を前に、私は理論武装をするために、近隣の団地やペット飼育で先進的な取り組みをしているという多磨団地の管理組合を訪ね、実情を調査した。動物愛護法や県の愛護条例それにペットの飼育について勉強し、最後に平塚市の郊外にある神奈川県動物保護センターへも行ってみた。捨てられた犬、猫は新たな飼い主が見つからない限りここで殺処分される。大きな箱にまとめて入れられガスを注がれる。ペットのアウシュビッツだ。かつてはここだけで年間2万匹の犬が殺されたこともあったという。今でも全国で年間2万匹もの犬や猫が無惨に命を奪われるこの国の現実の裏には、なにがあるのか、或いはないのか。ドイツでは、犬の保有者に税金をかけ、それを財源として殺処分をなくすためのティアハイム(動物の家)があって、そこへ犬を引き取りたいと言ってくる人には、引き渡す際厳しい条件を付けているという。日本でも早くそういう日が来ることを願っている。(M)

* 次回の 統計数字の裏にみえるもの 
   ② 「休暇」 は 12月26日に投稿予定

教師が授業の一部または全部にペアやグループの活動を取り入れ、クラス全体が協働的な学びの場となるようにするためにはどのようなタスクを提供したらよいか――これが現代の多くの教師たちの直面している課題であろうと思われます。日本の学校においても、そのような授業に学校全体で取り組んでいるところが最近かなり増えています(注)。しかし英語の授業研究としては、その取り組みはまだ始まったばかりです。むしろ他の教科(国語、社会、数学など)の先生方の中に、大胆な試みをしている方が目立ちます。英語の先生方はそういう授業を見学したりして、自分の授業では何ができるか、どういうことから始めたらよいのか、を研究するところから始めてはいかがでしょうか。

さてペアやグループの活動を成功させる鍵は、教師がどんなタスクを選択し提供するかにあります。ただグループを作って何かの課題を与えさえすれば、タスクになるというものではありません。たとえば、文法の練習問題をいくつか生徒に与えて、ペアやグループで正解を考えさせるというような課題は、ここで言うタスクではありません。なぜなら、それらは練習のための課題であり、教室以外の場面ではほとんど応用がきかないからです。タスクは現実の生活で起こり得るものであることが望ましいのです。たとえば、印刷された英語の文章を与えて、その中から誤りと思われる個所を探し出して訂正させるというタスクはどうでしょうか。これは「間違い探し」(Spot the Differences)と呼ばれるタスクで、一人でやってもあまり面白いものではありませんが、ペアやグループで行わせると、生徒たちはけっこう夢中になります。

この「夢中になる」ということがタスクの重要なポイントになります。なぜなら、言語習得の最も重要な部分は、私たちが何かの仕事の遂行に没頭し、自分が言語を使用していることをほとんど意識せずに使用しているという状況の中で行われるからです。文法のことを意識しながら文法を学ぶのでは、文法は決して身につきません。それは文法に関するある種の知識を得させますが、使う場面から遊離していますから、実際に役に立つ知識とはならないのです。文法を習得するには、他の有意味な仕事をしている中で、文法知識が意識下で作用している状況を作り出す必要があるのです。上の「間違い探し」では、与えられた文章の誤りを探し出すという「校正」(proofreading)や「推敲」(polishing)という仕事を行うことで、現実的な仕事と結びついています。それは自分が文章を書いたり、他人の書いた文章を批判的に読んだりするときに、私たちが日常的に行っていること――いわば私たちにとって「有意味な仕事」――なのです。それがここで言うタスクです。

以上のような観点から、従来の英語の授業でしばしば使われてきた対話モデルの提示と練習法を批判的に検討してみましょう。次の対話は新しい文法事項(現在分詞を含む後置修飾構造)を提示するために工夫された対話文で、現在も多くの中学校用教科書に用いられているタイプのものです。

A: Who’s that man?  B: Which man do you mean?  A: I mean the man sitting on the bench.

この対話のいちばん普通の提示法は、教師がこの対話を音読して聴かせ、それぞれの文の意味を説明し理解させます。同時にthe man sitting on the benchの「名詞+現在分詞句」の構造に注目させ、他にも二つ三つの例を挙げて理解を促します。各文の意味と構造が理解できたならば、次は音読の練習です。生徒は先生のあとについて復誦し、自然なリズムとイントネーションですらすらと言えるまで繰り返します。その後生徒はこの対話を暗誦するように言われます。ペアを組んでAとBの役割を分担して練習することもあります。最後に、何人(組)かの生後が名乗り出たり指名されたりして、他の生徒たちの前で実演します。こういう授業風景が、かつては全国至る所で見られたものです。

しかし、このような練習にどのような意味があるでしょうか。「現在分詞で始まる形容詞句が名詞の後ろに付いてその名詞を修飾する」という、日本語には見られない英語の文法構造を身につけることは重要です。英語の学習過程のどこかでしっかりと理解し、自分でもそのような構造を作ることができるようにする必要があります。しかし上記の対話モデルを暗誦し、すらすらと言えるようになったからと言って、それで実際場面で使えるようになるのでしょうか。偶然にそれが当てはまる現実場面に遭遇したときは役立つこともあるでしょう。しかしそれはめったにないことです。そのような英語表現をいくら記憶していても、実際にはほとんど使えないというのが実情です。なぜそうなるのか? それは生徒が自ら選択した言語ではなく、与えられた言語だからです。口先だけで暗記した文や文章は使い物にはならないのです。モデルを記憶するのではなく、そういう構文を必要とする状況の中で、自らの判断でその表現を選択し使用するという経験が必要なのです。

そのようなわけで、一般に、タスク活動は新しい文法項目を提示する段階で行うことには向いていません。生徒は知らない文法形式を理解したり使用したりすることはできないからです。それはむしろ総合的な発展学習として行うのに適しています。例として「絵の描写」というタスクを取り上げてみましょう。ここに1枚の公園の絵があります。幾人かの子どもたちがそこで色々なことをして遊んでいます。子どもたちを見守る大人も何人かいて、幼い子どもをブランコに乗せている父親や、立ち話をしているお母さんたちもいます。木陰のベンチで昼寝をしている人もいます。そのような絵のコピーを生徒全員に配布し、その絵に描かれている人物や事物について英語で説明するというタスクを行わせることにします。どんな方法が考えられるでしょうか。

筆者の考えたタスクを紹介しましょう。まず生徒をペアにします。そしてAの生徒が絵の中のある人物や事物を英語で説明し、それを聞いたBの生徒がその人物や事物を特定します。正解が得られるまでAとBは自由に質疑応答します。一つできたら役割を交代し、Bが別の人物または事物を説明し、Aにそれを特定させます。たとえば次のようなやり取りが行われます。

(A) I’m looking at a little boy. He is running in the sunaba. I’m sorry I don’t know the English word for sunaba. Do you know? (B) No. Let’s ask Mr. Yamada later. I see two boys in the sunaba. Which boy? (A) The boy [who is] running after a girl. He has a small shavel in his hand. (B) Oh, I see. You mean this boy, don’t you?

もちろんペアによって対話の進め方は違っており、そこで生徒たちが発する文には不完全なものが多く含まれると思われます。しかしこのタスクの目標は、色々な人物や事物の特徴を相手に伝わるように言語を用いて描写することにあり、そこでの言語の誤りは許容されなければななりません。大切なことは何とかして相手に意味を伝えることです。最初から完全にはできませんが、とにかく始めなければ発展はありません。そしてそのような活動を継続するためには、学びに参加する生徒たちの理解と協力がぜひ必要です。そのために生徒たちにどのような指導が必要かを次回に述べます。

(注)教育学者の佐藤 学氏(東大名誉教授、学習院大学教授)は、自らの教育理論に基づく「共同学習」を広めるために、1990年代から、全国各地にパイロット・スクールを作る努力をされています。その理念と実態については『学校を改革する 学びの共同体の構想と実践』(岩波ブックレットNo. 842)によって概略を知ることができます。<補足>東京大学には「大学発教育支援コンソーシアム推進機構」(CoREF: Consortium for Renovating Education of the Future)という組織が設けられ、東京大学における小・中・高支援プロジェクトの推進を行っています。具体的には各地の教育委員会と連携し、現場の先生方とともに教育の質を高める実践的な活動に取り組んでいます。最近は特に「協調学習」というテーマで、毎月数校の公開授業を全国各地で行っています。そのスケジュールなどの詳細については、インターネットで「東京大学 大学発教育推進コンソーシアム」と入力して検索してください。

前回の「協働(協同)」の定義を引き継いで、今回はその必要性について考えます。英語教育ではどちらかと言うと、「協働」よりも「協同」のほうが広く用いられているので、以下ではおもに「協同」を用います。前回に予告した「タスク」の内容は、協同の学びの必要性を理解し、それを実行に移すときに考えるべき事柄なので次に回します。

英語の学びになぜ「協同」が必要なのでしょうか。教師や学習者がそのことをしっかりと理解し、心から納得しておくことが重要です。そうでないと、そのような形態の学び方は長続きしません。ちょっとやってはみたが、うまく出来なかったから止めた、となります。生徒たちが協力して学びを進めて行くという授業形態は、これまでの一斉授業の形態とは大きく異なります。従来の多くの英語の授業は(たぶん英語以外の教科の授業も)、生徒が中心ではなく、教師が中心になって展開していました。教師が説明し、問いを発し、生徒がそれに答えるという形の授業でした。それは明治初期にわが国の近代的学校制度が発足して以来の伝統的な授業形態でした。高校や大学では、おそらく、現在もそのような授業が大部分を占めていると思われます。そういう講義型の授業は、大学などの大教室で行われる講義ではさほど違和感はありせんが、英語の授業では大きな問題があります。

講義型授業の最大の問題は生徒が受け身の学習態度を身につけてしまうことです。生徒は常に教師の説明を注意深く聴いて理解し、それを記憶するように求められます。そこでは生徒に必要な知識と情報はすべて教師の手に握られています。教師は自分の手にしているものを小出しにして、少しずつ生徒に咬み砕いて説明します。英語の授業の多くはテキストの理解から始まりますが、そのために必要な英語の音声・語彙・文法・意味・文化などに関する知識は膨大です。細かく説明すれば、どんなに時間があっても足りないほどです。熱心な教師ほど勉強しますから、自分の持っている知識を生徒に理解させようと必死です。教師を信頼している熱心な生徒はその説明に熱心に耳を傾け、ノートを取り、必死に記憶します。しかしそこでは、自分の言いたいことを表現するというような能動的な活動と学びは、ほとんど経験することがありません。

しかも実際には、そういう授業で教師の説明に耳を傾ける生徒はほんの一部です。昔はそういう生徒が多かったと言われますが、それは、当時の生徒たちが必要とする知識と情報の多くが学校の教師の手に握られていたからです。現代ではそうはいきません。情報はあらゆるところから容易に手に入ります。教師が熱心に説くことも、その大部分は生徒の興味を惹くような新鮮さに欠けています。ですから、ほとんどの生徒は教師の話に集中していません。居眠りをしている生徒がいます。中には弁当を食べたり、内職したり(他の教科のテキストを読んだりマンガをみたり)している生徒がいます。こういうことは小学校ではあまり見られないかもしれませんが、中学校や高校では(特に高校では)普通に見られる授業風景です。恐るべきことですが、それが現状です。

そういう授業から、もっと多数の、できればクラス全員を参加させる授業に変えるにはどうしたらよいでしょうか。それは日本でも最近とみに議論が盛んになっている問題です。そしてその解決の糸口を与えてくれるのが、「協同的学びをうながすグループ学習」なのです。そこでは数人の生徒たちがグループを作って、互いに協力してタスク(課題)を遂行するという形で授業が進行します。そうすることによって生徒たちは積極的に学びに参加し、タスクが彼らにの興味を惹くものであれば、各自の知識を活用してクループの学びに貢献することができるという満足感と楽しさを味わうことができるのです。

現在、そのような協同の学びを中心とする授業が世界各地で実行されるようになっています。日本では今も教師中心の一斉授業が普通のようですが、これはむしろ特殊な授業形態なのです。あるデータによれば(注)、数学の協同的な学びに対する生徒の好感度を調べたところ、日本と韓国の生徒が他の国々に比べて顕著に、そういう形態の学びを嫌うということです。他の多くの国々では、今や協同学習形態が普通になっていて、生徒たちもそういう形態の授業を好む傾向にあるのに対して、日本と韓国だけは例外的存在となっているというのです。これは数学だけではなく、たぶん外国語の授業もそうでしょう。

外国語の授業に協同学習を取り入れるのは、単にそれが現代に流行している授業スタイルだからというのではありません。そうすることが絶対に必要だと考えられるようになっているのです。外国語を自分の思い通りに使うことができるためには、このブログで先に述べたように、「自立」と「創造」という目標を達成する必要があります。しかし、言語能力は最終的に個人の中に結実するものではありますが、その習得過程では他の多くの人々との交わりを必要とします。生れてからずっと人とのコミュニケーションを絶たれた子どもは言語を獲得することができません。人は他の人々(言語習得の途上では特に信頼のできる他者)との交わりが必要不可欠です。教室をそのような協同的な学びの場とする工夫が現代では求められているのです。

一斉授業形態にこだわる先生方の多くは、たぶん、慣れない方法で授業を行うことに不安や抵抗を感じるでしょう。こんなにクラスの人数が多くてはどうしようもないと感じるかもしれません。一般の中学・高校の学級定員は40人ですから、4人ずつのグループを作ると10グループできることになります。それらすべてのグループを活発に活動させるのは容易ではありません。思いつきでやってみて失敗するのは当然です。生徒も慣れていないのでどうしてよいか分からず、時間を無駄にしてしまうことが多いでしょう。グループ学習を成功させるには、先生方の十分な研修と周到な授業設計が必須です。幸い、その理論を述べた信頼できる参考書がいくつか出ていますし、そのような実践を行っている学校を見つけることも難しくはないでしょう。

教師中心の一斉授業形態はすでに前世紀の遺物となりつつあります。もう遺物だと言う人もいます。現代の先生方は、できるだけ早く協同学習形態の授業を試みるべきです。そうでないと、あなたの教師としての存在意義を問われることになります。ただし、今までの伝統的授業法をすべて捨てるのは実際的ではないし、それはほとんど不可能でしょう。それに、これまでの授業にも優れた点はいくつかあります。ただ、それだけに頼ってはならないのです。これからの世界を生きる生徒たちのことを考えてみましょう。彼らは他者とのコミュニケーションの中で、自分の知識を活用する術を身につける必要があるのです。すべて新しいことを試みるには勇気が必要です。まず授業の一部にグループ学習を取り入れてみて、そこでどんなタスクをすると効果的かをご自身で研究してみてください。

(注)佐藤 学『専門家として教師を育てる』岩波書店2015.