Archive for 8月, 2015

21世紀に入って、私たちを取り巻く環境は劇的に変化しました。2001年9月11日のアルカイダによる米国への同時多発テロは、その幕開けを象徴するような出来事でした。米国は直ちに見えない敵への反撃を開始しました。この出来事によって、ベルリンの壁が崩れた1989年以降の20世紀末の世界平和への期待が一挙に後退しました。そして前世紀に予感はされていたものの、それほど切実なものとは感じられていなかった大きな問題が次々に現れてきました。たとえば政治・経済・文化などあらゆる面でのグローバル化の進展、核兵器廃絶への果てしない闘争、地球環境をめぐる諸問題、少子化・高齢化社会への対応、雇用環境の変容と経済格差の再生産と固定化、コミュニケーション手段の目覚ましい発展による過剰な情報社会への対応、そして現在国会で議論され、世論を分裂させている安全保障に関する諸法案など。

私たちの関心事である英語の学びと教育も、そのような変化から無縁ではありません。無縁どころか、それら多くの問題と直接または間接に関連しています。たとえば、グローバル化に関連して、わが国の国際的な存在感が低下しているという指摘があり、その改善のためには国民の外国語(特に英語)の能力を高めることが緊急の課題の一つに挙げられるようになりました。そこで文科省は急遽「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」なるものを発表し、2020年の東京オリンピック開催の時期に合わせて小学校3年生から英語を導入し、5年生からはそれを「教科」とすることを宣言しました。前回にも触れましたが、これは近年における小学校教育課程の大変革であるにもかかわらず、驚くべきことに、文科省は中央教育審議会(中教審)の審議も経ずに実施に移そうとしています。

周知のように、わが国の教育の振興に関する基本的な総合計画は、文科省に設置されている中教審の答申を経て策定されています。現在は教育の振興に関する総合計画の第2期(2013~17年度)に当たりますが、その答申は「第2期教育振興基本計画」として2013年4月25日に提出(同年6月14日閣議決定)されました。この答申に書かれている教育の基本的方向性は、日本の英語教育政策の方向を定めるために重要な意味を持つものなので、学校教育関係者だけではなく、学校教育に関心のある人々(たとえば子どのも親や塾の教師たち)もその概要を承知しておく必要があります。それは、これからの21世紀を生き抜くために、国はどんな人間を育成しようとしているかを述べているからです。この中教審答申を手がかりにして、これからの英語の学びと教育の在り方を以下に考えてみましょう。

最初に、この答申は教育行政の4つの基本的方向性を設定しています。答申の概要を見ながら、それらを筆者なりにまとめると以下のようです。

(1)社会を生き抜く力の養成:21世紀の世界は多様であり、人々は変化の激しい社会に生きている。この中で各人が自立した個人として生きていくのは容易ではない。そういう状況の中で、生涯にわたる学習の基礎となる「自ら学び、考え、行動する力」を確実に育てることが重要である。(2)未来への飛躍を実現する人材の養成:変化の激しい社会を生き抜くためには、ただ伝統を重んじるだけではなく、変化に対応する新たな価値を生み出す創造性が求められる。そのためには社会の各分野を牽引していくチャレンジ精神旺盛なリーダーを養成する必要がある。同時にリーダーだけではなく、新しい事態に対応できる多数の人材を育てることが重要である。(3)学びのセーフティネットの構築:変化の激しい社会を生き抜くための教育は、誰もがアクセスできる多様な学びの機会が用意されなければならない。そのためには、教育費を大幅に軽減し、貧富の差による不平等が生じないようにする必要がある。この目的を達成するには国の教育予算を拡大することが必須である。(4)絆づくりと活力あるコミュニティーの形成:学びは個人だけで行うものではない。学びを通じて多様な人々が集まり、協働するための体制が作られる必要がある。そうすることによって、社会が人を育み、人が社会をつくるという好ましい循環が作られるのである。

これに続く文科省の説明は、以上の4つの基本的方向性の中から、とくに自立・創造・協働という3つのキーワードを抜き出し、それらを生涯学習モデルの中心に置いて、在るべき姿の教育を実現していくと述べています(注)。ただしこれは、中教審において議論された事柄を文科省の担当官がまとめたものですから、具体性に欠けています。しかし常識的にみて、自立・創造・協働というキャッチフレーズに特に異議をとなえる人は少ないでしょう。大切なことは、学習者である子どもたち、その親たち、および教育現場で子どもたちとじかに接触している学校や塾の教師たちが、これら3つのキーワードを、どのように捉えていくかということです。

そのことを以下に取り上げて議論したいと考えていますが、まずこれら3つのキーワードの意味するところを、中教審答申の概要を参照しながら、簡潔にまとめておきます。次回からは、それぞれの項目について、もっと具体的に考察を進めたいと考えています。

「自立」について:一人一人が自己実現に向かって、その持っている多様な個性や能力を伸ばし、充実した人生を主体的に切り開いていくことのできるような生涯学習社会の実現を目指す。

「創造」について:自立と協働を通じて、新たな価値を創造していくことのできる生涯学習社会の実現を目指す。

「協働」について:個人や社会の多様性を尊重し、それぞれが持っている個性を生かして、ともに支え合い、高め合い、社会の活動に積極的に参加し貢献することのできる生涯学習社会の実現を目指す。

(注)ここに述べる「教育行政の4つの基本的方向性」のうち、(1)と(2)および(4)の内容については、それぞれ「自立」、「創造」、「協働」の3つのキーワードによって代表されていると考えられます。しかし(3)の「学びのセーフティネットの構築」で述べている財政問題については、キーワードから除外されています。言うまでもなく財政は教育行政の中心的課題であり、これがなくては諸計画を推進することができません。しかし中教審の審議の中で教育財政の問題が深く議論された形跡はなく、それは時の政府の政治判断に委ねられているようです。なぜ中教審と文科省はこの問題を正面から取り上げ、広く国民に訴える努力をしないのか。この点で筆者はこの答申に大きな不満を感じます。

英語でも他の外国語でも、自分の母語以外の言語に習熟するためには、長期にわたって動機を維持して学びを継続し、習熟の段階では、ある期間他の学びを犠牲にしても集中的に全エネルギーをそれに注ぎ込むことが必須です。そして学びの動機を支えるのに重要なのが必要度であると言われています。必要度とは、自分にとってその言語を学ぶことがどれだけ必要かということです。必要度が高いときは学びに成功する確率が高いのに対して、必要度が低いときには学びへの集中力を欠き、結局は失敗に終わることが多いということです。このことは私たちの多くが経験するところです。

そこでまず、日本人の英語の必要度はどの程度のものかを見てみましょう。世間の風評では、英語は非常に必要度が高いと考えられています。英語を使えないと、これからの世の中ではいろいろと不利になるというのです。しかし本当にそうなのでしょうか。今年出版された寺沢拓敬『「日本人と英語」の社会学』(研究社2015)によると、複数の社会調査の結果を統計的に処理して分析したところ、ある調査では「英語をほとんど使う機会はない」と答えた人が85.9%であり、別の調査では「過去1年間に英語をまったく使ったことがない」と答えた人が58.4%であったということです(注)。これらの数値をそのまま鵜呑みにすることはできませんが、日本人にとっての英語の必要度は、世の中の一般の人々が考えているほどには高くないと言えます。半数以上の日本人は、実際には、英語を使用する機会も必要もないのです。

風評に踊らされているのは世間だけではありません。わが国の文科省が完全に風評に踊らされているように思われます。2020年の東京オリンピック開催が決まるや否や、文科省は待っていましたとばかりに「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」なるものを発表し、2014年の有識者会議でその推進を決めました。その実施計画は、東京オリンピックの年に小学校3年生から英語を導入し、5年生からはそれを「教科」とすると宣言しています。そして高校卒業段階では、英検2級~準1級程度以上の英語力を目指すというのです。これは明らかに、2020年の東京オリンピック開催の機運を利用して、安倍首相の諮問機関である教育再生実行会議の提言を一気に実現させようという、きわめて政治的な意図をもった実施計画です。それがいかに展望に欠けた即席の計画であるかは、それが2013年4月に中教審から答申のあった「第2期教育振興基本計画」の中にはまったく触れられていないことでも明らかです。

そのような視点に立つと、文科省の作成したこの「英語教育改革実施計画」なるものは、根本的に間違っている疑いがあります。それは第一に、学習者の必要度の実態を無視していること、第二に、一部の英語能力の高い者たちだけを利する計画なので、他の大多数の一般学習者を排除する結果を生むことになるからです。それをそのまま実行に移すならば大きな失敗に至る可能性があります。最悪の場合には、近い将来において、日本の英語教育が再び立ち直ることができないほどの壊滅的状況に陥ることも考えられます。そういう事態を防ぐためには、全国各地のそれぞれの地方教育委員会・学校・教師が、文科省の教育政策を批判的に捉え、長期的視点に立って、学習の当事者である児童や生徒の個性を尊重し、彼らの自律的な学びの態度を養うような指導を着実に実施することが求められます。

ここで個々の生徒の学習に視点を移しましょう。まず中高生の学びを見てみます。多くの中学生が感じている英語の必要性は、現実には、高校受験です。そこではほとんど常に英語が入試の主要科目と考えられていて、英語がある一定のレベルに達しないと学力の高い高校には入れません。そして次の高校段階においては、学びの動機は大学受験になります。自分の希望する大学に入るためには、多くの場合一定の英語の学力が必要だからです。大学生になると、こんどは彼らの動機は就職に左右されます。つまり、英語を必要とする職業に就きたい者は英語の必要度を強く感じ、英語の学びに大いに動機づけられます。他方、そういう必要性を感じない職業を選ぶ者は、英語の学びの必要度をほとんど感じなくなるわけです。こうして大学生の英語の学びは、就職活動という観点からほぼ二分化されているようです。このようにして、日本の中学生、高校生、大学生の多くは、受験という外部から与えられる必要性に追いかけられながら英語を学んでいるというのが実態のようです。

受験の必要性が英語の学びを支えていることには、動機づけの観点からはプラスの面もあります。その必要から動機づけられる者が多いと考えられるからです。しかしこの動機づけには問題があります。問題は、彼らの動機が内的なものではなく、外からの刺激によって左右される外的なものだということです。日本人全体の英語使用の必要度がそれほど高くない(半分以下)という現実からすると、学校における英語教育を実用的なコミュニケーション能力だけに限定するのは正しいことではありません。これまでの英語教育で重視してきた人間教育としての教養的な面も含めて、そこに潜在する多様な価値を尊重することが重要です。英語が実際に使う機会がなくても、英語を学ぶことによって得る有益な経験や知識はいろいろとあるからです。個々の生徒にとって重要なことは、英語を学ぶことが楽しいことであり、そのために使う時間が自分の人生にとって有益だと知ることです。ですから学びの価値と必要性は多様です。また多様であるべきです。それは結局のところ、学習者自身が日常の学びの中から見つけ出すものなのです。

たとえば本を読むことが好きな生徒がいるとします。その生徒は、英語の学びにおいても、いろいろな読み物を読むことに楽しみを見出します。しかし受験を意識するようになると、いかにしてテストで高得点を取るかが最大の関心事になりますから、自分が今一番したいこと(英語の本を読むこと)を犠牲にしなくてはなりません。受験のための学びは、一般に、短いセンテンスや文章の構造を解析し、それぞれの表現がどのような意味で、どのような場面で使われるのかを研究するという形になりがちです。時間をかけて長い英文を読んで、その内容を楽しむという形の学びは敬遠されます。したがって、そういうことに関心を持っている生徒にとっては、次々に到来する受験勉強は大きな負担になります。これは望ましいことではありません。

学校の先生方は、文科省の鳴り物入りのこの即席の「実施計画」からは距離を置き、毎日の英語の授業において、個々の生徒が学びの楽しさと必要性に気づくような指導に専念するのが賢明です。

(注)ここで沢拓敬氏の使った基礎資料は大阪商業大学JGSS研究センターによる「日本版総合的社会調査」のデータで、引用した2つの数値はそこに含まれる該当項目について必要な統計処理をして算出されたものです。

蟷螂の斧 ⑫ 終章  < この国の未来  私の視点 > 

12. この国の未来 私の視点        

 参議院での「安全保障関連法案」の審議が始まった。政府・与党は、衆議院での100時間を超える審議で国民の理解は、十分ではないにしてもかなり深まったとして、参議院の審議で一層の理解を得て法案を成立させたいとしている。しかし、私は、国民の理解を得ることは出来ないと思う。

 衆議院での議論を聞いていて感じたことは、11本もの法案を束ねた「安保法制」は極めて複雑な構成と関連をもっており、かつて安全保障問題をかなり勉強したつもりの私にもよく理解できない点が多々あるばかりか、防衛大卒の現職の防衛相さえ、答弁に詰まったり、答弁できないような代物だからである。これを一般の国民に理解せよというのは“木に縁って魚を求める”たぐいの話であり、安全保障問題が国民の命に直結するだけに、理解できなければ当然不安がつきまとう。

 「安保法制」がこのように複雑・難解になったのは、戦後自民党が初めはアメリカの要求にこたえ
るために、やがては 国軍創設の悲願を達成するために、憲法の抜け道を探しながら既成事実を積み上げてきた結果が、いまや現行憲法とは根本的に相容れない段階に達したにもかかわらず、それを屁理屈によって覆い隠そうとしているからである。

 このことは自民党自身が一番よく知っている筈だ。それにも拘わらずこのような「安保法制」を強引に押し通そうとしているのは、この法案の審議を通じて、国民に「国際情勢の急激な変化(中国の強大化)」を印象づけ、その中で「国を守る」には「日米の一体化」以外には方法が無いと思わせたいからだろう。その意味で、「集団的自衛権」の行使とTPP(環太平洋経済連携協定)は表裏一体のものだ
と思う。

 これら二つが成立すれば、自民党の次の目標が憲法改正であることは明らかだ。だから、「安保法制違憲論」は或る意味で、自民党・安倍政権の追い風になる。

 確かに、「安保法制」は穴だらけで、根本的に現行憲法と相いれないから、違憲論は国民多数の支持を受けやすい。しかし、だったら“ 憲法を改正しましょうよ”ということになった時、「安保法制」で
の現在の国会審議が生きてくる。「憲法護って国滅ぶ」「国防戸締り論」など、自民党が戦後一貫し
て唱えてきたスローガンに内容が備わるのだ。

 これによって、違憲派は、護憲論と改正論に分裂する。各種の世論調査を見ると、今のところ両勢力は互角のように見えるが、護憲派が「国を守るとは何か」まで踏み込んで「国を守る」理論と具体策を提示できなければ、やがて劣勢に陥るだろう。”護憲、護憲”と叫んでいるだけでは、旧社会党→現社会民主党の二の舞になってしまうだろう。自民党を中心とする勢力は、それを見越して、戦略的にことを進めているのだ。

そこで私は、新聞各社が、それぞれの総力を挙げて、それぞれの憲法草案を発表して欲しいと思う。
それができる力量は大手新聞社にしかないと思うし、そうする使命もあると考える。読売新聞と産経新聞は既に、それぞれの憲法改正案を発表しているので、それとは対極にあるという朝日、毎日、東京の各社なども手遅れにならないうちに、覚悟を決めてそれぞれの憲法草案を発表してもらいたいと思う。その際、特に安全保障については、アメリカとの関係にも踏み込んだ明快で曖昧さを残さぬ具体的な提案を望みたい。

  それらの憲法草案について私が判断する基準は「人権」がどのように保障されているかである。つまり、「人権大国への道」という第三の道を目指す決意があるかどうかだ。この点についてあいまいな表現は許されない。たとえば、自民党の憲法草案では、安全保障ついては明確に「国軍」の創設を謳っている一方で、民主主義の基盤である言論の自由など基本的人権については曖昧な表現に終始している。

 明治の欽定憲法にも言論の自由など人権を保障する条項はあった。しかし、”法律の許す範囲内で“という条件付きであったため、新聞紙法、出版法、国家総動員法などで検閲が強化され、”国家の安寧・秩序”優先という網がかぶされて、言論の自由は息の根を止められた。自由民主党の憲法草案にはいたるところに同じ発想が見られる。
 
  自民党の自主憲法草案には第21条で思想、表現、言論の自由を認めながら、現行憲法にはない次のような第2項を新設している。「前項の規定にかかわらず、公益および公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは認められない」やがて、第2項に基づく法律を作られてしまえば、明治憲法となんら変わることはない。公益とは何かを誰が、どう判断するのか。 浜矩子同志社大学教授は、イギリスの作家ジョージ・オーウェルの「動物農場」を引いて次のように警告している。「人間の農場主を滅ぼして動物主権を打ち立てた動物農場には7カ条の”憲法があり、”いかなる動物も他の動物を殺してはならない”と書かれていた。ところが目立ちたがり屋で誇大妄想的なナポレオン豚が天下を取ると、”いかなる動物も、理由なく、他の動物を殺してはならない”と書き換えられてしまった。」 前回のブログで指摘したように、言論の自由と軍事優先は二律背反の関係にあることを忘れてはならないだろう。

 私は、首相公選論者なので、もともと改憲派である。安倍政権の暴走を見て、多くの国民が、自分たちの手の届かないところで決まるこの国の指導者が、自分たちの「いのち」を含めた運命を独善的にきめてしまう現在の統治機構の重大な欠陥に気付いたのではないか。このほかにも、現在の憲法には変えなければならない基本的な問題があると考えている。そういう意味で、これから何年かが、この国の未来を決める大事な年月になるだろうと思う。その際、戦争と敗戦の惨禍から私が学びとった視点が少しでも反映されるならば望外の幸せである。(M)

< おことわり > 

 視力が著しく落ち、資料を読み切ることが出来なくなりましたので、私の桐英会ブログへの投稿は、
 本稿をもって終わりとさせていただきます。長年のご愛読ありがとうございました。

        2015-8-1    松山 薫