Archive for 6月, 2012

「政局かみしばい」
(1)さーて、“政局かみしばい”の始まりだよ。年ごろの“野田よしひこ”君が、自民家の“たに子”という女性を好きになってしまいました。そこで、結婚を申し込んだのです。たに子さんもまんざらでもなく、親戚の公明家の人たちも賛成でした。

(2)ところが肝心なよしひこ君のお父さん(野田一郎)が、「そんな結婚は絶対許さん!」と言い出したのです。頑固おやじで、一度言い出したら絶対に後に引きません。それを知った自民家の人たちも、公明家の人たちも、「親を説得出来ないようなら、この話は無かったことにしたい」と言い出しました。

(3)よしひこ君は困ってしまい、これまでも頼りにしていた親戚の置石家の“あずま叔父さん”に父親を説得してくれるようにと頼みました。「よっしゃ!」と引き受けてはくれたのですが、話し合いはうまく行きません。3回会ってもダメです。そして、来週また会うことにしたと言うのです。

(4)それでもよしひこ君は少しもあわてません。「お任せしますよ」と言って平気でいます。そして、「お小遣いを上げてくれ」などと言い出す始末です。「家族会議で決めたのだから」と父親に言っても、「そんな家訓は我が家にはない!」と怒鳴られてしまうのでした。

(5)そのうちに近所の人たちや、遠縁の人たちが野田家はお金持ちなのだから、「新幹線を通してくれ」とか、「停電しないように原発を動かしてくれ」といった陳情を始めました。よしひこ君は、「ああ、いいよ」とすべて認めてしまいましたとさ。

(6)よしひこ君の父親は、「そんな家訓に無いことをするな」と言いましたが、よしひこ君は、「家訓は私が作るのだ」と言い出して周囲の言うことを聞きません。さーて、よしひこ君の運命や如何に?

銀幕のスターたちのこと
(1) 昔は映画のスクリーンに映る俳優のことを“銀幕のスター”と呼んだものです。観客はそういうスターたちの私生活はほとんど知ることは出来ませんでした。それだけにスターへの憧れは強いものがあったのです。長谷川一夫(1908−1984)のように、映画会社の移籍問題で、ライバル会社の雇った暴力団員に顔面を切られた事件になれば大騒ぎになりましたが、テレビの無い時代では、それもかなり限定されたものでした。

(2)「そういう時代へ戻れ」とは私は言いませんが、現在のように、テレビがスターやタレントのゴシップに日夜うつつを抜かす傾向は如何なものでしょうか。民放やNHK のトーク番組では、まだ撮影の終わっていないテレビドラマや映画の俳優たちが出演して、出演中の苦労話などを語っています。しかも、ドラマや映画の筋をばらすような話まですることがあるものですから、私はとてもそんなドラマや映画を見る気はしません。

(3)“何でもあり”のテレビと、それを歓迎する大衆がいる社会は、健全な発達はしないであろうと心配になります。世界的な不況と生活環境の悪化の中で、日本人はどう生き残れるかを真剣に考えるべきだと思います。(この回終り)

NHK-11 公共放送と政治

 世界の放送局には、政府(政権と行政機関)が税金で運営する国営放送、企業の広告が収入源の商業放送、受信料などで成り立つ公共放送などがあるが、公共放送の中には、広告をとっているところや、政府の交付金を受けているところもあり、受信料が収入のほとんどを占めるという点ではBBCとNHKが際立っている。

 NHKはいろいろな面でBBCを範としてきた。NHK幹部の中には”もはやBBCに学ぶところはない”と豪語する者もいたが、技術的にはともかく、公共放送としてのあり方という基本的な点においては大きな差があることを、私は感ぜざるをえなかった。フォークランド島をめぐるアルゼンチンとの武力衝突の際、BBCは自国の軍隊を「our forces わが軍」ではなく「British Forces イギリス軍」と呼んで、鉄の女サッチャー首相を激怒させたが、ひるまなかった。一方、NHKは、田中角栄を逮捕後呼び捨てにして自民党から抗議を受け、逮捕後は呼び捨てという長年の呼称を直ちに田中容疑者、田中元総理と改めた。私は部会で説明を求めたが報道部長は下を向いて答えなかった。

 NHKと政治との関係を象徴する人物が、いずれも政治部記者から会長になった島桂次と海老沢勝二だったことは暗示的だ。

 島は、ひよわな感じの小柄な人物で、いつもゴム草履を履いてぺたぺたと局内を歩いていた。 島とは話をしたことはないが、午前と午後の2回開かれるその日のニュースの打ち合わせ会で、いつも顔を合せていたので。廊下で行きかえば声を掛け合う程度の面識はあった。当時政経部デスクたった島がこんな発言をしたことを憶えている。

 政府主催の戦没者慰霊式典が初めて日本武道館で行われた時のことだったと思うが、歯に衣を着せぬ名物アナとして知られたSアナウンサーが、参列した遺族に「あなたの息子(御主人)は、犬死だったと思ったことはありませんか」という趣旨の質問をしたらしい。翌日のニュース打ち合わせ会で島は「あんなことをされたんでは、自民党の取材がやりにくくなって仕方ない。来年は代えてくれ」と強い口調で迫った。アナウンス室の担当者は何も答えなかったが、翌年中継アナは、無難なKアナウンサーに代わっていた。

 島は自民党派閥の宏池会(大平派)に食い込み、政治記者というよりはいわゆる”業者“として人脈を広げ、その力を背景にNHKの人事権と編集権を盾に、上田”退治“と日放労つぶしに辣腕を振るった。私がNHKを退職する直前ことだが、ロッキード事件の5周年にあたって、報道局各部が当時のNC9という夜のニュースの中で放映を計画した特別番組から、政治部が担当した三木元首相のインタビュー部分が、島報道局長の業務命令で削られるという事件がおきた。これに最も強く反対したのが社会部長初め社会部の記者達だった。

 この事件の後の人事異動で、多くの社会部や政治部の記者が”飛ばされた“。私が放送系列の執行部で2年間一緒に頑張った社会部の記者も北海道へ”飛ばされ “、その後も地方局をたらいまわしされて、結局NHKを去った。彼の年賀状には無念の思いがにじみ出ていた。

 しかし、島もまた権力に溺れ、NHKの将来ビジョンについて大風呂敷を広げた挙句、その一環である放送衛星の打ち上げをめぐる国会での虚偽の発言と、スキャンダルで辞任に追い込まれた。

 海老沢勝二は、NHK会長をめぐる島との権力闘争に敗れ、一旦は外郭団体へ追いやられたが、島の失脚にともない次の次の会長になった。海老沢とは、入局3年目の記者研修が一緒だった。当時、大分放送局の記者だった彼が研修に持参した原稿は、新産業都市に選ばれた大分の現状報告だったが、講師の報道局次長から、「いいこと尽くめなのか」と突っ込まれていた。3人一組のカメラ取材の研修でも一緒になったが、私と共同通信から来た記者が若干年上だったこともあって、大柄な彼は、かなり重たいベルハウエルの16ミリカメラを一日中1人で持ってくれた。研修では、なにかひとつ視聴者にアピールする絵を撮って来いという課題をもらい、私は修理中の後楽園球場のスタンドを撮ったが、彼は、隣の後楽園遊園地のジェット・コースターに乗って動く絵を撮りたいという。二人で危ないからやめろと止めたが聞かなかった。一本気で、向こう見ずなところのある男だなという印象が残った。

 海老沢は、茨城県の出身で、田中角栄の懐刀であった県選出の代議士橋本登美三郎(自民党幹事長・官房長官)がNHK内に作った「青雲西湖会」のメンバーだった。東京に上がってからは政治部記者として、経世会(竹下派)を中心に政界に食い込み、これを背景にNHKの人事権を握って独裁体制を敷いたといわれる。私はすでにNHKを辞めていたから、当時の局内の様子は直接的には知らないが、次回に取りあげる慰安婦番組の改変は海老沢が会長の時に起きた。

 マスメディアが圧力に負けて、権力への監視を怠ればどういうことが起きるか。軍部におもねり日本を敗戦に導く手助けをした戦前・戦中の新聞やラジオ、第二の敗戦といわれる原発事故を招いた原子力ムラへの監視を怠たり、原発反対の少数意見をネグって、原子力の持つ危険性を十分に国民に伝えなかった新聞やTV、特に国民的基盤に立たなければならない公共放送NHKの責任は重い。(M)
 

英語学習と「訳」(5)

Author: 土屋澄男

前回に述べた「等位型バイリンガリズム」と「複合型バイリンガリズム」の区別は、現在のところまだ仮説の段階にあります。理論上はそのように区別できるはずだということです。しかし実際にはその二つを判然と区別することは難しい。その理由は、一つには個人の言語習得環境がさまざまで、特定の個人がどちらの型に属するかを判定することが難しいということがあります。家庭の中で2つ以上の言語が使われる場合、家庭の中と外で異なる言語が使われる場合、何歳のときにL2の習得を始めたかなど、さまざまなケースが想定されます。

 また「バイリンガル」(二言語併用者)の定義も曖昧です。それはもともと「二つの言語を母語話者と同程度に使用できる人」を含意していますが、実際にはそういう人は非常にまれで、「二つめの言語は初歩程度でも使えればよい」とする研究者もあります。ここではひとまず中間をとって、「コミュニケ—ションの手段として、母語のほかに不自由なく使用できるもう一つの言語を習得している人」ということにします。「不自由なく使用できる」というのは曖昧ですが、「バイリンガル」という用語には言語に関する個人の能力が関係しており、能力をどう定義するかも問題になるので、曖昧さを完全に排除することは不可能です。それがバイリンガリズム研究の面白さであり、また難しさでもあります。

 他方では、この仮説を脳科学の観点から実験的に証明しようとする努力もなされています。このことに関連して興味ある実験があります。その一部はガイ・クックの本にもふれていますが、言語処理に関してバイリンガルとモノリンガルとの間で脳の働きにどのような違いがあるかを調査したものです(Bialystok et al. 2009)。その研究によれば、バイリンガルとモノリンガルの二つの集団の間には、言語処理を行う際に活性化される脳の部位(特に前頭葉)に大きな違いがあり、バイリンガルがL2を話すときには、脳の活動中にモノリンガルには見られない血流と酸素量の増加が見られるといいます。さらに興味あることに、バイリンガルの言語処理においてはあらゆる場合に(一つの言語しか用いていないような場合にも)二つの言語システムを処理しているのと同じ処理機能が働いているというのです。そして処理が複雑になるぶん、処理内容によっては時間がかかることもあるといいます。ビアリストックはこれらの実験から、バイリンガルは二つの言語システムを同時的に処理していくのに必要なさまざまな認知制御を発達させていると結論づけています。ここから私たちは、バイリンガルは二つの言語システムを同時に活性化し、どんな場合にも複合的ないし統合的に言語処理を行っていると解釈することができます。脳における言語の処理は、私たちが普通に想像する以上に複雑なようです。

 話が少し専門的で難しくなってきましたので、ここで西山千(2007年没)という著名な同時通訳者に登場してもらいましょう。彼はアポロ月面着陸の宇宙中継同時通訳者として有名になりましたが、それ以前には駐日大使ライシャワーさん(Edwin Reischauer; 在任1961-66)の通訳をしていました。この人の同時通訳は見事で、ライシャワーさんも西山さん以外の通訳は信用しないと言っていました。その西山さんの話を一度聞いたことがあります。彼は生まれてから米国に住む両親と暮らしていて、日本語を母語として習得しました。しかし学校ではもっぱら英語を使い、大学では電気工学を専攻しました。それで日本に来たときは英語のほうが得意だったそうです。後にライシャワーさんの通訳をするようになって、日本語を英語のレベルに引き上げるように努力したといいます。また同時通訳には特殊な知識と技術が要求されるので、その勉強も必要でした。ところが面白いことに、しばらく日本に住む間に、こんどは日本語のほうが英語より上達した感じになったといいます。これらはいずれもバイリンガリズム研究の見地から興味ある話でした。

 西山千さんは英語と日本語の言語システムをほぼ同程度に、しかも相当に高いレベルまで習得に成功した人です。日本人としては稀なケースですが、だから例外とは言えないでしょう。彼の話はバイリンガルにおけるL1とL2との関係について、いくつかの重要な事柄を示唆しているように思われます。第1にバイリンガルの言語能力は固定的ではなく、その置かれる環境によって変化すること。第2に「等位型」と「複合型」に関して、比較的に単純な「等位型」は習得の過程ではあり得るのかもしれないが、習熟した段階では二つの言語は複雑に絡み合っているらしいこと。第3に熟練した「通訳」または「翻訳」という仕事は、学習の手段としての「訳」とは違って、かなり意識的に努力して学ばなければならない専門技能であること、つまり無意識的に自然に獲得できる技能ではないということです。(To be continued.)

< NHK-10 組合活動

Author: 松山 薫

< NHK−10 組合活動 >

 NHKの労働組合(日本放送労働組合=日放労)は1950年のレッドバージの後に結成されたいわゆる第2組合で、私がNHKに入った当時は、御用組合に近く、政経部の分会などは公然とスト破りの動きを見せていた。これを一変させたのが社会部記者から日放労委員長になった上田哲だった。憲法護持とNHKの政治的中立を旗印に、経済闘争では、巧みな弁舌で民放各社と格段の差がある“薄給協会”の組合員のみならず下級管理職にも支持を拡げ、数年で組合の体質を変えて、日放労はNHKの経営にも大きな影響を与える存在になっていった。

 彼がまだ組織部長・副委員長の頃、私は日放労本部で何回か意見を交わし、彼の熱意に共鳴してともに組合を変えていくことを誓った。彼が私と同年代でNHKに入る前に高校の英語教師をしていたことにも親しみを覚えた。
 
 やがて私は放送系列の執行委員になった。放送系列というのは、東京在勤の記者、プロデューサー、ディレクター、アナウンサー、カメラマンおよそ千人を束ねる日放労の支部で、各部局の代表である10人ほどが執行部を構成していた。交渉の相手はNHKの中核である放送総局であり、団体交渉では、公共放送のあり方をめぐって激しく、時には夜を徹して渡り合った。その中で私の”暗い予感“が杞憂でないことを数々の事例から確信するに至った。                  
 
 その象徴的な出来事が、田中角栄の腹心である小野吉郎郵政事務次官がNHKに天下った事例である。その時日放労は、これを阻止することが出来ず、1976年(昭和51年)の夏、ロッキード事件で有罪判決を受け保釈中の田中角栄を、会長になっていた小野が見舞うという公共放送としてはあってはならない事件が起きた。日放労は直ちに小野会長の辞任を求める全国100万人署名運動を展開し、ついに、この郵政官僚を辞任に追い込んだ。そのあたりが日放労の最盛期であったろう。上田委員長が現職のまま社会党の国会議員になったあたりから、おかしくなっていったと思う。NHKへの言論介入を強める自民党の長年の一党支配体制に対抗するためには、野党第一党の社会党を強化するしか方法がないという論理は分かるにしても、それが現職委員長のまま議員になる理由にはならないし、ましてその政治的影響力をNHKの経営に介入するために使ったのでは、自家撞着になる。
 
 数年の後、私は日放労全国大会で、上田委員長と、労働組合のあり方をめぐって正面衝突した。上田親衛隊はもとりより、共産党系の代議員からも罵声が飛び、わずかに傍聴席の同志達が私の主張を支持したが、怒号の中でかき消された。こうして、私は日放労の中でも孤立することになっていった。

 私の組合活動を最後まで支えてくれたのは、アジア部の若いディレクター達だった。彼らは入局して数年経つと、インドネシア、ビルマ、ベトナムなど、それぞれの専攻語学を母国語とする国へ研修に派遣され、かつて列強の植民地であり、その後日本の占領下にあったそれらの国の人達と接して、生き方の根源に触れる体験をしたのだろう。自分の力不足から、彼等の真摯な要求に真正面から応えることの出来なかったことが心残りだった。
一方で、上田哲も、やがて、権力に溺れ、スキャンダルにまみれて影響力を失っていった。

 職制側からは早く管理職になれという攻勢が激しくなった。だが、ロッキード事件での協会側の情けない対応を見るにつけ、末端管理職になってこの組織に埋没する気はとうになくなっていた。二度とない人生、一度は自分の意志で仕事をしたいというずっと胸の底にあった埋み火が次第に燃え上がり、NHKを辞めて、もう一度やり直すことに腹を決めた。(M)

「テレビドラマを切る」
(1)「NHK 朝のテレビ小説」は半年ごとに変わり、その都度視聴率も違うようですが、現在の「梅ちゃん先生」は感心出来ない作品です。直情径行なヒロインが巻き起こすコメディーです。私が言いたいのは、コメディーが朝にふさわしくないという意味ではなく、舞台が病院だという点が理解出来ないのです。現実問題として、医師の数が不足していたり、偏ったりしていて、特に東日本大災害の被災地では病院と医師は深刻な問題です。そんな時に病院を舞台にした“どたばた喜劇”を放送するなんて、NHK もどうかしています。

(2)TBS でも「37歳で医者になった僕」という病院を舞台にしたドラマを放映していましたが(先週が最終回)、これは制作意図が分かりやすいものでした。SMAPの草薙剛が主演で、副題に「研修医純情物語」とありますが、社会的な問題意識も感じられるものです。ネットの書き込みも好評なものが多いようです。テレビドラマは、どれも“どたばた騒ぎ”が付きものですが、全体として制作意図が明確で、社会的意識があれば許せると思います。

(3)ところで、私が「直情径行」という言葉を知ったのは、小学校6年生の時でした。当時小さな「冗談話集」といった本が家にあって読んだことがあるのです。その話の1つに、ある男性が、「あいつに『お前は直情径行な男だ』と言われたから、何のことか分からなかったが、一発ぶん殴ってやった」というのがあったのです。他には、「親から小遣いをもらって、旅に出た男が途中でお金が足りなくなったので、『ツマデキタカネオクレ』という電報を出したら、親がびっくり仰天したという話も聞きました。親は、「妻できた、金送れ」と読んだのでした。本当は、三重県の津まで来てお金が足りなくなったのでした。日本人も結構ジョークが好きなはずですが、今は何となくぎすぎすしています。

「教育改革を阻むもの」
(1)冗談話は止めて、今度は真面目な話です。読売新聞(2012年6月12日朝刊)の投書欄に、山梨県甲府市の女子中学生の投書が載っていました。その趣旨は、中学生になって小学生の時には知らなかった校則というものに出合って、服装や髪形まで細かくきめられていて驚いたが、それも勉強だと先生に言われて従ってきたというものです。そして、1つ変えて欲しいと願うものは「カーディガン禁止」という校則だとのこと。

(2)その理由としては、今のように寒暖の差が大きい天候では、朝と下校時では温度が変わるので、カーディガンなどで調整したいというのです。政府関係者は“クールビズ”などといって、「自分たちが涼しい服装をすれば、勤め人も真似するではないか」と満足しているようです。文科省は教育改革には、「校則」というつまらない障害があることを察知すべきです。以前にも私は、ある地方では、「校内では標準語を使うこと」という校則があることを指摘したことがあります。このような校則を決める学校の教師や教育委員会は、方言の文化的な意味を知らないのでしょう。いや、「標準語」の意味さえ知らないと思わざるを得ません。

(3)文科大臣は原発問題のことまで国会で答弁しなければならないですから、校則のことまで頭が廻らないのでしょう。自公政権の時代にただ大臣の頭数だけ減らしてしまったので、どこの省庁の大臣もやるべきことだけ増えてしまいました。今の厚生労働大臣などは子育てから雇用問題まで答弁しています。各大臣には副大臣がついているはずですから、なぜ業務を分担しないのかと、私は不思議に思いますが、民主党自体が破局に向かっているようですから、改革などとても期待できないでしょう。恐ろしいことです。(この回終り)

英語学習と「訳」(4)

Author: 土屋澄男

「訳」をする習慣をつけてしまうと、英語の理解や産出にいつも日本語を介在させるので、英語を英語のまま理解することができなくなる、あるいは英語を理解するのに余分な時間がかかるというのですが、これは事実でしょうか。それとも単なる意見または信念なのでしょうか。私たちの住む地球が宇宙の中心にあって太陽や他の天体が地球の周りをまわっているというのは、人々の偏った見方または信念にすぎないものでした。やがてそれは事実ではないことが科学的に証明されました。私たちの英語学習にもそれに類することはいろいろとあるのかもしません。そして「訳は英語の理解や産出を妨害する」というのも、根拠のない意見や信念の一つかもしれないのです。筆者がむかし教育実習をした頃にはそのように教えられ、「本当にそうなのかな?」という疑いもなくはなかったのですが、1970年頃から盛んになった第2言語習得研究においても、これを真っ向から否定する研究者はいなかったので、筆者もそれを事実だと思い込んでいました。

 しかし奇妙なことに、多くの研究者は第2言語の習得に「訳」が干渉または妨害する可能性があることについてはふれていますが、その実証的研究はほとんどなされませんでした。それはたぶん、実証するまでもない自明のことと考えられていたのでしょう。最近それについて真っ向から疑問をぶつける研究者が現れました。ガイ・クック(Guy Cook)というイギリスの放送大学教授で、イギリス応用言語学会の会長をしている人です。その人の書いたTranslation in Language Teaching: An Argument for Reassessment(斎藤兆史・北和丈訳『英語教育と「訳」の効用』研究社 2012)という本は、この問題をかなり詳細に論じています。その主な論点は次のようです。

 主として意味を中心に据えた活動を行っているときに、たまたま(偶発的に)言語形式に関する問題が生じたような場合に、教師が明示的な解説を加えることが必要になります。ガイ・クックによると、「訳」はそのような場合に不可避的に起こる行為だと言います。先に挙げた例(The Queen…handled the transition with the unblinking ease of someone schooled by childhood experience to appreciate the impermanence of even the most solid-looking edifices. の下線部)がそのような場合にあたるでしょう。そのような事態がしばしば生じることは、たしかに、すべての外国語教師の経験するところです。それにもかかわらず、訳の練習が第2言語習得に効果があるかどうかを実験によって検証しようとした研究はほとんどありません。ガイ・クックは第2言語習得における「訳」の問題についての最近の文献をしらべ、学習の手段としての訳に関する研究はほぼ皆無であったと言います。

 筆者がしらべたところでは、最近の「心的辞書」(mental lexicon)の研究で第1言語(L1)と第2言語(L2)の翻訳の問題が取り上げられています。「心的辞書」とは、人が頭の中に持っている言語に関する音韻、意味、統語などの知識の集合のことです。それは通常の辞書のようにアルファベット順になっているわけではありません。そこでは音や綴り字や意味の類似している語が、互いに密接に関連していることが分かっています。「訳」の問題を考えるときには、L1とL2の語彙がどのように結びついて記憶されているかは興味ある研究課題です。まだ多くのことが明らかになっているわけではなりませんが、たとえばL1とL2で翻訳語が1対1で対応しているものよりも、1つの語に対して多くの翻訳語があるような多義語の場合には、その語の再認や産出に時間がかかるという実験データがあります。そしてL1とL2の意味的対応が複雑で曖昧なものほど反応時間が遅れるというのです。それは私たちの経験からも納得できるところです。しかしこのような実験から見えてくるものは心的辞書の特質の一部であって、L2学習における訳の効用そのものではなさそうです。

 いずれにせよL2学習における「訳」の問題は、バイリンガリズム(二言語併用)の研究に期待するところ大です。バイリンガリズムには2つの種類があると言われます。一方は「等位型バイリンガリズム」(co-ordinate bilingualism) と呼ばれ、他方は「複合型バイリンガリズム」(compound bilingualism) と呼ばれます。前者は2つの言語が子供時代にほぼ同時に習得されたもので、それらの言語のシステムが互いにある程度独立して機能していると見なされるものです。後者はL2習得がL1習得よりも遅れて開始され、L1とは異なる状況で習得されたもので、2つの言語システムが複雑に融合して一体化していると見なされるものです。これらの概念を使って、訳がL2の学習にどのように役立つ可能性があるかを考えてみましょう。(To be continued.)

< NHK-9 労働組合 >

Author: 松山 薫

NHK-9 労働組合の役割

 NHK在職25年あまりのおよそ半分の期間、私は組合活動に力を注いだ。
前に勤めていた小さな企業で「労働組合を持たない労働者は、本質的に奴隷と異ならない」ことを現実に味わったことが、直接のきっかけではあったが、もうひとつ遠因があった。それは人生の原点ともいうべき敗戦の体験である。命を的に国に尽しても、国が間違っていれば、人類社会に対する犯罪になるという事実を突きつけられたのだから、軍国少年であった私は、軍国主義から民主主義への180度の価値観の転換に自分なりの結論をださない限り、前へ進めなかった。教師の豹変で大人への不信に陥った私にとっては、自分の頭で考える他に道がなく、秋田の山奥で1年間暮らしてたどり着いたのは、「目の前のことだけでなく、大局を見る目を養わなくてはならない」という今から思えは当たり前の結論だったが、戦争中、徹底的に上意下達にならされた精神構造の転換は容易ではなかったのである。しかし、時間をかけて自分で出した結論は、その後の人生を決定づけることになった。

 NHKに入って数年、家庭を持ち、仕事にも慣れてそれなりに安穏な生活を送れるようになったが、同時に、入局第一日に感じた“暗い予感”がNHKと政治権力との距離にかかわるものであることもはっきりわかってきて、このまま現状を認めて安逸をむさぼっていてよいのかという思いが強くなって行った。不公正な入局者は、ずっと続いていたのである。しかし、個人で立ち向かえば、教師を辞めた時と同じ状況になる。私は労働組合に期待をかけた。 
 
 話は変るが、90年代の終わりに、バブル後の損失隠しがバレて山一證券が破綻した時、社長が記者会見で大泣きしたことがある。彼は泣きながら「社員は悪くない。悪いのは私です。」と叫んだ。しかし本当にそうだろうか。社員達も、4大証券の一角としての会社にぶら下がり、物質的に豊かな生活を送るために、無関心、無批判を通じて反社会的な経営のあり方に手をかしていたのではないか。労働組合には労働協約による経営協議という場で経営の実態を質し、反社会的な行為を阻む権利と責任がある。それをやらないのでは組合も経営と同罪だ。オリンパスの巨額損失隠しや東電の原発事故に際してとった労働組合の態度も同断であり、自分さえよければよいという日本の大企業労組に共通の傾向だといえる。
 
 ひるがえって、NHK労組の責任を考えると、NHKがジャーナリズムの一環であるならば、権力の監視、真実の報道はNHKの責務であり、NHK労組にとっても、それは、労働条件の改善と並んで最も重要な役割であると私は考えたのである。(M)

英語学習と「訳」(3)

Author: 土屋澄男

近年の英語授業では「訳」はあまり奨励されなくなりました。英語の授業はできるだけ英語を使って進めること、日本語の使用はテキストの理解や文法説明のために必要最小限にとどめること、というのが指導原則になっています。その最大の理由は、日本人の英語学習の目的が以前とは違ってきたからです。英文を読んでその意味を正確に理解するというのが目標であれば、訳はそれなりに有用でした。第2次世界大戦の頃までは、外交官になるような人は例外として、英語を聴いたり話したりすることを必要とする人はごく限られていました。一般庶民は英語を学ぶことすら必要としませんでしたし、中等学校以上の教育を受ける人々(一部のエリートたち)が必要とする英語力は、英語が正確に読めることだと考えられていました。日本が国策としていたのは、欧米先進諸国の進んだ学問と科学技術を吸収し、一日もはやくそれに追いつくことだったからです。

 ところが終戦後、事態は一変しました。日本は連合軍(その主体は米軍)の占領下にはいって英語が巷にあふれ出しました。ラジオのスイッチを入れるとFEN (Far East Network 米軍極東放送) がいつでも耳に入りましたし、東京の街に出ると、GI(米兵)が日本人女性と腕を組んで歩いていて、あちこちの焼けただれた映画館ではハリウッドの映画が上映されていました。まだ中学生だった筆者はしばしば、休講で穴が開いた時間に学校を抜け出して電車に飛び乗り、新宿の映画館に駆け込んだものです。そして学校で覚えた英語の知識では、映画の台詞がほとんど聴き取れないことを発見して驚いたのでした。戦争に負けて、英語は日本人にとって身近なものになったのです。

 筆者は東京高等師範学校4年生のとき(1951年)、附属の中学・高校で教育実習をしましたが、英語は英語で教えるという指導法を厳しく叩き込まれました。その数年前(1947年)にいわゆる「新制中学」がスタートし、戦後の「6・3・3・4」の新しい学制への変革が進行中でした。義務教育となった新制中学校では、以前は中学校への進学者だけが学んでいた英語を、すべての生徒が学ぶことになりました。それに伴う混乱は想像に余りあります。東京高師師範の附属中学校では以前から、英語入門期には口頭練習を中心とする「オーラル・メソッド」という指導法を採用していましたので、英語の授業は英語で行うという原則をかなり厳しく守っていました。それが戦争に入る前の新しい指導法であり、戦後もそのラインで新しい学習指導要領が作成されました。附属に配属された私たち教育実習生は、授業の最後に行う「まとめ」の段階でのみ日本語の使用が許されました。高校ではテキストが難しくなるので、英語だけで授業をすることが難しくなりますが、それでもできるだけ易しい英語に言い換える(パラフレーズする)などして、「訳」はできるだけ避けるようにと言われ、私たちはそれに従いました。

 しかし、「訳」は本当に避けるべきなのでしょうか。確かに、授業中に訳を行うことについては重大な欠点がいくつか挙げられます。第1に、訳を中心とする授業は概して非能率的です。特に大きなクラスではそうなりがちです。たまたまよくできる人が指名された場合はまだしも、あまり英語の得意でない不勉強な人が指名された場合には目も当てられません。筆者の中学生時代に、指名された生徒が何かを言うまで忍耐強く待つ先生がいましたが、その間他の生徒たちは死ぬほど退屈しました。こういう授業をする先生はもういないと信じたいところですが、噂ではそれに近い授業はまだ行われているようです。だからと言って、生徒に訳をさせる指導がまったく無効だとは断定できません。教師と生徒の1対1の個人教授の場合や、クラス全体が特定大学の受験を目指すというような単一の意志と目標で統一されている場合には、それは有効かもしれないのです。そしてそのことは、科学的に実証されてはいませんが、家庭教師をしている教師たちや、有名予備校で教えている人たちから、かなり信頼できる証言を得ています。

 次に授業で訳をすることの欠点として挙げられるのは、いつも英文を訳しているとそれが癖になってしまう、あるいは訳をしないと分かった気がしないという習慣が身についてしまうというのです。そうすると、英語の理解にいつも日本語を介在させるので、英語を英語のまま理解することができなくなる、あるいは英語を理解するのに余分な時間がかかるというのです。そうだとすれば困ったことです。そしてそのような考え方は、多くの第二言語習得研究者からも支持されているように思われます。しかし、本当にそうなのでしょうか。それについての実証的な研究はあるのでしょうか。(To be continued.)

“景気”とは何か?という問題
(1)野党は「景気の悪い時に増税すべきではない」と主張しています。この意見は与党内にもあります。自民党は、「マニュフェストに明記しておけばよい」との意見のようです。本音は“解散総選挙”にあるのですから、「民主党の前回の選挙はマニュフェスト違反だ」と訴えたいのでしょうが、どうも議員たちの言い分は支離滅裂で、あまり信用出来ない気がします。“信用”と言えば、野田首相はどうして簡単に電力会社の言うことを信用してしまうのでしょうか。

(2)確かに予期しない大規模停電が起きれば、命を落とす人も出る可能性があります。しかし、野田首相の原発再稼働の根拠は関西電力の言分を鵜呑みにしたものです。実際は再稼働しなくてもまだ電力には余裕があるはずという報道もあります。そういう報道の根拠などもよく調べて国民に説明をすべきです。調べると言っても、3.11の菅元首相のように、自分でやる必要はありません。信頼出来る部下にやらせればよいことです。指導者は“人の使い方”もよく知っているべきです。

(3)“景気”の問題に戻ることにします。日本の政治家は気軽に、「景気さえ良くなれば」と言いますが、現在のようなグローバル化した経済状況の中で、しかも日本のように物を作る資源も輸入に頼る国が、「物を作り、それを売って儲ける」ことなど簡単に回復出来るとは思えません。“世界大恐慌”というのは、資本主義の持病のようなもので、生産力が上がれば物が余って売れなくなり、労働者は失業するという悪循環を繰り返してきたわけです。1930年頃の大恐慌は、やがて日本の軍国主義を生むことになりました。不景気は、景気の回復をすればよいといった単純な現象ではないのです。

(4)それにしても、日本のテレビは呑気ですね。タレントばかり数十人を集めて、“クイズ”や“食べ競べ”などをやっています。大勢いても、ほとんどが他の番組でも見かける顔馴染みです。つまり、彼らだけが相当の額の出演料をもらっていて、月給数千円しか貰えないタレントが他に沢山いるのです。NHK は民放よりはましで、特別報道番組で、「不景気の中でどう生き抜くか」という問題を各界の代表や一般市民を集めて、討論していました。財力が無くても知恵と工夫でなんとか生き抜こうとする人たちの声を聞くことが出来ました。

(5)読売新聞(2012年6月10日)は、第1面の「地球を読む」というコラムで、米外交問題評議会会長のリチャード・ハース氏の記事を載せています。「政治課題も国境なき時代」と題して、「自分で全てを決められる国は1つもない」とし、「どの国も完全な自立や独立を享受することはできない」と説いています。さらに新聞の第2面に続けて、景気が鈍化しているばかりでなく、国民の意識が拡散して、指導者たちが国民の意思がどこにあるかが分かりにくくなっていることを指摘しています。しかも、世界人口の3分の1以上を占める中国とインドにも景気の陰りが見え始めたとも述べています。

(6)それほど悲観的ではないとする見解もあるかも知れませんが、日本も昔の夢を追うのではなく、新しい分野、例えば、医学、薬品、細胞研究などの業績をもっと伸ばすべきでしょう。日本人の”器用さ”はまだまだ捨てたものではないと思います。こういうことを取り上げる民放の番組もないわけではありませんが、他の話題と違って滅多に繰り返しませんから、人目に触れる機会も少ないのです。テレビ関係者は猛省してもらいたいものです。大震災に加えて、大不況と正に“国難”の時代なのですから。(この回終り)

< 英語との付き合い ○25 >

NHK-8  取材余話

 「日本人にとって英語とは何か」という命題は、学生の頃からいつも頭のどこかにひっかかっていたが、生活の糧を得る手段として英語のお世話になっているうちについ忘れがちになることもあった。一旦は捨てた英語のおかげで生きているという忸怩たる思いを忘れたい気持ちもどこかにあったろう。そういう思いをほぼ払拭してくれたのが東京オリンピックの取材だった。
選手村はNHKのすぐ隣にあったし、水泳会場は目の前であったから、取材にはまことに都合がよく、毎日のように英米人以外の外国人にも接する機会があり、その取材はほぼ全て英語で事足りた。

 あるDeep Africaの選手に会った時のことだ。私はこれほど漆黒の肌色の人間を見たことがなかった。彼が差し出した手の掌が薄い桃色をしているのを見て私は一瞬たじろいだ。握手をしながら、自らを恥じて彼の目を見ることが出来なかった。しかし、彼は何事も無かったように東京を目指して頑張った日々のことを話してくれ、「オリンピックは”We are all humans. “ だということを世界中の人々が実感できる素晴らしいイベントだ。」と言ってポンと私の肩をたたいた。各国の選手や役員と話しながら、私は英語を学んでよかったと心から思った。英語が、敗戦の中で誓った反戦平和の志を具現化するための必須の道具であることを実感できたのである。
 
 東京オリンピックの取材では、生涯一度の忘れることのできない体験をした。開会式の最終リハーサルを新装成った神宮外苑国立競技場の記者席で見ていた時のことである。この日はあいにくの曇り空で、リハーサルが始まる少し前から雨が降ってきた。ファンファーレが鳴り響き、「鼓笛隊の入場です。」というアナウンスがあって、隊列を組んだ小学生の見事な行進が始まった。鼓笛隊が目の前にさしかかった時、私は突然、溢れ出る涙を抑えることが出来なくなった。一緒に行った若い同僚が驚いて「どうしたのですか」とたずねても、ただ黙って涙を流し続けた。小学生達の華やかな行進が、ふりしきる雨の中を小銃を肩に分列行進する出陣学徒の姿と重なった。その中には、学徒動員で同じ工場で兄貴分として一緒に働き、特攻隊員として散った早稲田大学の学生達もいたはずだ。21年前の同じ10月、まさにこの場所、このトラックであの悲劇的な雨中の分列行進は行われたのである。

 人前で涙を見せてはならないという古い掟をかたくなに守ってきた私にとって、生涯ただ一度の人前での涙は、何も知らずに歓呼の声で送り出したことへの悔恨と、二度とない人生を自分の意思によって生きることのかなわなったわずかに年上の若者達への鎮魂の涙だったと思っている。(M)