Archive for 10月, 2014

伝統的な教育は厳しさを売り物にしていました。「教育は厳しいものでなければならない」というのです。生徒を甘やかしてはろくなことにならない、自由放任は生徒を甘やかすので、規律がおろそかになると考えられていました。筆者が学校を出て最初に勤務した東京都心の中学校の校長は温厚な人で、若い教師たちにとっては慈父のような校長でした。学校も創立して間もない頃で、教師も生徒も活力に満ちていました。今から考えるとずいぶん無茶な計画も多々実行に移されました。しかしやがてその校長が定年となり、新しい校長が他区からやってきました。その校長はやたらに規則にやかましく、学校の中がきちんとしていないと気が済まないという性格の人でした。朝の遅刻が厳しく取り締まられ、教室の秩序と整頓が厳しくチェックされました。とたんに学校の雰囲気が変わり、自由で大胆な計画が影をひそめました。現在でもそういう考え方をする校長や教師は少なくないのではないでしょうか。

「教育は厳しいものだ」ということには筆者も異論がありません。ただし、それは外面的に厳しい規律を課すということとは違うように思います。そもそも学びとは厳しいものです。何か新しい知識や技能を自分のものとするためには、厳しい自己規制と自己管理が必要です。英語の学びも例外ではありません。それは長期にわたる忍耐と努力を必要とします。英語をただ聞いているだけで英語ができるようになるという、魔法のような学習教材が売りだされていますが、それで成功するとは思えません。日本人の多くが高等学校までに6年以上もの英語学習を経験していながら、ほとんど使い物にならないことには理由があります。厳しい学びを継続する覚悟が乏しいからです。誰にとっても英語を思い通りに使えるようにするのは並大抵のことではないのです。教育は学習者の厳しい学びを背後から支えるものでなければなりません。

そして英語を学ぼうとする人が深く心に留めておくべきことは、学校で教えられることだけに頼ってはならないことです。学校で教えられるのは、英語のごく基礎的な部分だけであることを承知していなくてはなりません。学校の授業に何とかくっ付いていくだけの勉強では、いつまでたっても英語は使い物にはなりません。6年やっても10年やっても、たいして上達はしません。それは怠け者の大工が自分のなすべき仕事を放棄して、土台のあたりで建て上がるはずの建物をいたずらに空想しているようなものです。本当に英語が使えるようになりたいと思ったら、学校で習うものを基礎にして、その上に自分の構想する建物を建て上げる覚悟が必要なのです。

私たちの周りを見回すと、日本人でも英語の堪能な人がけっこういます。その人たちには大きく分けて2つのタイプがあるように思われます。第1のタイプは、アメリカやイギリスなど、英語が日常的に使われている土地で長期間暮らしたことのある人たちです。特に話すことに関しては、このタイプの人が多いようです。第2のタイプは日本に生まれ、日本で暮らし、日本で教育を受けた人たちです。特に読み書きに関しては、少数ですが、英語の達人と言ってよい方が筆者の周りにもいます。たぶんそういう方々は、早くから英語の学習に特別な関心があり、必死の努力をし、それを可能にする才能と学習環境に恵まれていたのだろうと思います。そういう人たちの数を増やすことはもちろん望ましいことです。しかしこのような高いレベルの英語力をすべての人に期待するのは非現実的です。なぜなら、私たちは日本で生活しているかぎり、英語だけやっているわけにはいかないからです。誰もができることは、各自が求める目標に向かって、自分の必要とする英語力を身につけることです。

ところが日本の教育は、個人がそれぞれに目標を決めて自分の学習を主導していくようなシステムにはなっていません。教育行政の中心である文部科学省は、英語教育のカリキュラムを決定するにあたって、日本に生まれ、日本語で生活している普通の生徒のことをあまり念頭に置いていません。学習指導要領を読むと、教育行政の最大の関心事は、大多数の生徒を犠牲にしても、少数のエリートを育成することにあるように思えます。まるでオリンピックの勝者を育成するみたいな英語教育です。たしかに英語でディスカッションをしたりディベートをしたりするのは格好のよいことです。生徒も憧れます。しかし日本で英語を学んでいるすべての生徒たちに、そのようなハイレベルの能力を期待するのは的外れです。そのような教育は落伍者を増し加え、やがて破綻します。教育の現場はそのような国の施策に惑わされてはなりません。何よりも学びは生徒のものです。そしてそれは厳しい鍛練を必要とします。先生方には、それぞれの生徒の学びをしっかり支えるような指導を心がけていただきたいものです。

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4.人権大国への基盤を創る 

③ ブラウン経済からグリーン経済へ

 「札束で人間は生きていけない」という野坂昭如の言葉は単なる戯言ではない。日本の農民が、敗戦前後の飢餓時代に、コメや野菜をカネでは売ってくれなかったことを我々世代の人間は痛切に思い出す。国と国との間でも同じことが起こりうると経済学者の金子勝慶応大学教授は警告している。だから、食糧安全保障の根幹は、自国の食糧は自国でまかなうことにある。

 日本の今年のコメの収穫量は、平年作で790万トンが見込まれている。これは減反政策や耕作放棄地の増大などで、コメの生産が抑えられているからで、日本には年間1000万トンのコメを生産できる耕作可能地(arable land)があり、ゆうに1億人以上を養うことができる。遠くない将来、深刻な食糧危機が予見されているのだから、この潜在能力を温存し、いざとなれば生かせるような方策を今から考えておる必要がある。

 2018年を目途とする減反政策廃止後の方針として、政府は、耕地面積を1単位あたり20~30ヘクタールに拡大し、企業の参入を促すとしているが、それでも、耕地面積はアメリカやオーストラリアに比べると文字どおり桁違いに狭小で輸入農産物には価格面で太刀打ち出来ないから利潤をあげられないし、中山間地には農地の大規模化が不可能なところも多い。国土の70%が中山間地というこの国の条件を考えれば、結局日本のコメつくり農業は家族経営によってしか維持出来ないことになるだろう。

 そして、家族農業こそが日本の食糧安全保障と国土の保全につながると私は考える。その際参考になるのが、前回挙げた、国連国際家族農業年の次のような4つの目標である。

1. 家族農業の持続的発展を可能にする政府の環境整備の促進
2. 知識、交流、人々の認識の向上、拡大
3. 家族農業のニーズ、可能性、および制約についての理解と技術的支援の確保
4. 持続可能性のための協働を創出

 これらの目標へ向かって政策的努力を傾注することは、同時に国連環境計画(the United Nations Environment Programme =UNEP)が提唱する持続可能な経済、いわゆるグリーン経済へ踏み出すことを意味する。UNEPは、遠からず訪れる地球資源の枯渇を前に、20世紀の資源濫費型のいわゆるブラウン経済から、21世紀のグリーン経済へ転換する際に投資すべき対象として、次のような分野を挙げている。

1. 小規模農家の育成
2. 再生可能エネルギーの開発
3. 海洋資源管理の強化
4. 森林保護
5. 廃棄物利用技術の開発
6. 水資源の確保
7. エコツーリズムの振興

 日本における家族経営農業の発展は、上記項目すべての推進に役立つものと私は考えている。
例えば、中山間地の渓流や農業用水を小規模水力発電に活用する。間伐材を木質チップとして発電や燃料に活用すれば、間伐による森林の保護にもつながる。マグロやクジラなど海洋資源の保護のための管理強化は、日本をターゲットに今や世界の趨勢になっているが、これによって減少する水産資源を補完するためには、近年著しい発展を遂げている養殖漁業を農地で実現することも可能だろう。それによって生ずる魚のフンは、堆肥として廃物利用できる。酪農による動物のフンとあわせて、有機農業を進める上で助けとなり、農薬による水資源の汚染を減らすことに役立つ。さまざまな創造的工夫が必要だから、競争原理から創造原理への転換のきっかけになる。また、これらを総合的に実現するための協働が、やがて地域コミュニティーの基盤となり、農業の6次産業化を成功させることにつながるだろう。

 金子教授らは、このような活動が成功した例として、北海道十勝平野の士幌農協や山間地の大分県大山町の例を挙げており、特に再生エネルギーと農業のコラボレーションによる経営を推奨し、これを市民出資によるファンドで支えることを提唱している。
* 6次産業化:農業、林業、水産業などの1次産業が、加工(2次産業)や流通(3次産業)にも業務を展開する総合的な経営を行うこと。1次+2次+3次=6次 

 グリーン経済への転換に当たって、私が最も期待しているのは 7.エコツーリズムの振興である。2008年に施行された「エコツーリズム推進法」によると、エコツーリズム( ecotourism ← ecology+tourism )とは、「地域ぐるみで自然環境や歴史・文化など地域固有の魅力を伝えことにより、それらの価値を理解してもらい、保全につなげること」をめざしている。

 前回、前々回のブログで強調した、家族経営農家の居住環境の抜本的改善は、そのための布石である。家族3世代のために、8~10部屋の住居をつくる。そのうちの一室あるいは離れ等を内外観光客の宿泊用として活用する。3世代のための100年住宅を建てるには、30年はかかるだろう。まずは、最初の世代のための家をつくり、次の世代で完成させる。最初の家をつくるには、今問題になっている空家の建材や内装を活用する。私は中学2年生の時に、都内の疎開工事に動員されたことがあるが、木造住宅の解体には専門家はいらないし、丁寧に解体すれば屋根瓦や建材、内装は十分に再利用できる。また、住宅建設には、白川郷の大屋根の葺き替えなどで長年おこなわれている地域の協力体制が必要だ。このような地域協力がやがて、そして協働、さらに6次産業化の土台になるだろう。

 農業の6次産業化と、観光による現金収入が、家族農業を支え、地域コミュニティーの発展さらには食糧安全保障と国土の保全を可能にする道であると私は思う。

< 参考書籍等 >

* 国連環境計画 : 環境省 HP
* エコツーリズム推進法 観光庁 HP
* グリーン経済最前線 : 末吉竹二郎他   岩波新書
* 食料問題の基本 : 及川忠   秀和システム
* 希望の日本農業 : 大泉一貫  NHKブックス
* 儲かる農業論 : 金子勝 他  集英社新書
* 水が世界を支配する : スティーブン・ソロモン  集英社
* 森林の国富論 :  雁金敏彦  諷詠社
 
次回の投稿は11月8日(土)に「貿易立国から観光立国へ」を予定しています。(M)

 

先日韓国・仁川で開催されたアジア大会のレポート(10月5日付朝日新聞)の中に、次のようなエピソードが書かれていました。海外の記者が日本の男子サッカー選手に英語で問いかけても、ほとんどが素通りしてしまう。「なぜ日本の選手は話さないのか」と、複数の記者からあきれられた、というのです。これはサッカー選手だけでなく、日本人スポーツ選手にはありそうなことです。英語で話しかけられて、すぐに対応できる日本人選手がいなかったのだと思います。うまく対応できそうもないからインタビューを避けたのでしょう。しかし逃げるという態度は、外国人記者からすると異様に見えたのも当然です。これは日本のこれまでの英語学習者の欠陥(同時に英語教育の欠陥)を象徴的に表わしている出来事だと言ってよいでしょう。使われた言語が聞いたこともない言語であるならばともかく、誰でも多少は知っているはずの英語で話しかけられて逃げてしまう。これは非常に残念な態度です。

英語でどんな話題にも対応できるようにすることは、普通の日本人には望むべくもありません。日本語であっても、それはたいへんなことです。しかし自分が現在深く関心のある事柄については、何か意見を持っているはずであり、何か言えるはずです。それを英語で語るにはもちろん心掛けと事前の練習が必要です。しかし国際試合に出かけて行ってそういう心構えのまったくない人は、選手として致命的な欠陥があると言ってよいのではないでしょうか。アジア大会のような国際的な競技大会では、当然のことながらアジア各地から来た多くの選手と接します。それらの選手たちと直接交流する機会はなくても、競技を通して学ぶことはたくさんあるはずです。経験から学ばずに成長はあり得ません。勝ったとか負けたというだけではなく、一つ試合をしたならば、相手から何を学んだかをきちんと整理し、それを他の人にも伝えることが大切ではないでしょうか。

上のエピソードと関連して、今年6月から7月にかけてブラジルで開催されたW杯サッカーでも似たような光景が見られました。日本チームは一次リーグで敗退し、最終トーナメントには進出できませんでした。勝負は実力と時の運が必要ですから、敗退は仕方のないことです。しかしその後で気になることがありました。彼らが日本に帰国したとき、空港に出迎えに来ていた大勢の人々が「お疲れさま」と盛大な拍手をしていたのに、選手たちは全員下を向いて逃げるようにゲートを出て行く姿がテレビに映っていました。それを見て、この選手たちは出迎えの人々に顔を向けられないほどに負けたことを恥じているのだろうが、それなりに懸命に戦ったのだから、顔を上げてもっと堂々と帰ってくればよいのにと思ったのは私だけだったでしょうか。

筆者はサッカーをしたことがありませんので技術的なことは分かりませんが、何事も学ぶことによって知識を増やし、実践と経験を積むことによって技を磨くことにおいては共通していると思います。学ぶためにはできるだけ他の多くの人々から学ぶことが重要であり、それを自分なりに消化して自分のものとして体現するのが理想です。その点で英語とサッカーの学びは同じではないかと思います。英語の学習を入学試験や資格試験に合格することだけを目的にしてはならないのと同じく、サッカーの場合も大会で勝つことだけを目標にしてはなりません。試験を受けるかぎり合格を目指すことは当然であり、試合をするかぎり勝つことを目指すのは当たり前のことです。しかしそれだけを目標にして成長することはできません。なぜなら、英語の学びはそれが終点ではなく、むしろ新しい学びの入口だからです。サッカーも同様だと思います。そして試合には負けることがあり、負けることによって学ぶこともたくさんあることを知るべきです。

最近、日本の国技と言われた相撲でモンゴルやヨーロッパなどから来た力士が大活躍しています。彼らは日本に来て相撲を覚えるだけではなく、非常に短期間のうちに日本語を使えるようになります。幕内の外国人力士で日本語が使えない人はいないようです。白鳳の日本語などはもう日本人と変わりません。私たちはそれを当然のことと思っているかもしれませんが、よく考えると、それはそんなに簡単なことではありません。彼らは相撲の技術を習得しながら、同時に日本語という怪物に取り組み、それを組み伏せるのです。2020年の東京リンビックが話題に上り始めましたが、そこで日本選手が成長できるかどうかは、世界の他の国々からやって来る選手たちとの交流の中から、何を学ぶことができるかにかかっています。勝敗は実力と時の運です。勝つことだけにこだわっていては、もっと大切なものを失います。

(0)初めに:前回の私のブログでは、松島みどり(自民党議員)と書くべきところを、高市早苗(同)議員のお名前を書いてしまいました。ここに両氏にお詫びをし、訂正させて頂きます。失礼いたしました。正しくは、高市早苗氏→松島みどり氏です。

(1)ここからは、私のブログです。戦争(第2次世界大戦)を知らない世代の日本人が増えています。時の経過と共にやむを得ないことですが、「イスラムの世界へ行って、反政府軍に参加したい」と言い出すとなると、日本だけの問題ではなくなります。こんな問題にはどう対処すべきなのでしょうか?不法な海外渡航希望者として逮捕すれば済む問題でしょうか?

(2)人間、誰でも生きて行く途中では、絶望感に襲われることがあります。それでも、多くの人たちは、その苦しみを乗り越えて生きて行きます。東北地方の津波被災地で、ボランティアとして活動する人も少なくありません。淡路・神戸の大震災の被災者が、あの時の恩返しにと、東北の人々を助けている話もよく耳にしました。

(3)英語の “volunteer” という単語には、“義勇兵”の意味もありますが、だからと言って、誰のために、なぜ戦うのかも考えずに応募してよいとはならないでしょう。しかし、現に参加して闘いたいと言い出す若者がいるのは、日本の教育が画一的で、自立した思考力を鍛えないからだと私は思わざるを得ません。

(4)政府が今さら“地方再生”などと言い出しても、それぞれの地元で、そういう意識がうまく働かなければ意味がありません。どうして、日本では、“自治意識”が十分に育たなかったのでしょうか?私は地元の役人たちにも責任があると考えています。彼等は、先輩に教わった通りにやっていれば、余計な仕事を抱え込むこともなく、平穏に過ごせるのです。

(5)今から10年ほど前に私が住んでいた千葉県松戸市では、“すぐやる課”というのが出来て、「舗装道路が破損している」とか、「道端の側溝が落ち葉でつまっている」といった情報が市民から寄せられると、すぐに市役所の係員がやって来て、処置をするのでした。この課は、今でも松戸市のホームページに記載されていて、連絡先も書いてあります。

(6)私が現在疑問に感じていることの1つは、今度のオリンピック(2020)の責任者のことです。オリンピックとパラリンピックは、都市が開催するものです。ロンドンでも、バルセロナでもそうでした。ですから、今度のオリンピックは、東京都が主催するものです。しかし、何故か準備委員長(名称はいろいろあるようです)には森元総理がなっています。

(7)この人の評判の悪さは私のブログにも書きましたが、総理としても同様でした。どうして、舛添東京都知事に任せないのでしょうか?国際オリンピック委員会では、国民全体のどのくらいが五輪開催に賛成しているかも開催都市決定の条件にしていますが、責任者に“偉い人物”を当てろ、とは誰も言っていないはずです。何事にも肩書を重んじる日本人の悪習でしょう。こういう悪習は早く一掃すべきだと思います。

(8)東京五輪の具体的に準備が進み出しましたので、問題点を指摘してみました。開催する以上は、私も成功して欲しいと思っています。それだけに、雑音がよけいに気になるのです。(この回終り)

(1)安倍内閣が9月に内閣改造をしました。前例では人事の交代をすると支持率が上がるそうですが、今回も例外ではなかったようです。しかし、朝日、東京のような権力批判の強い新聞社の調査と、産経、読売のような現政権容認の新聞社の世論調査では、明らかに差があるのは、気になる点です。つまり世論調査の結果を操作している感じがするからです。

(2)それはともかく、今回の改造人事後初の国会が始まって、野党(主に民主党)の質問が始まると、女性の役職者たちは経験不足を露呈してしまいました。そこで民主党は、ここぞとばかり野次を飛ばして、議長が何回も注意するほどでした。

(3)どうして日本の政治家はこうもあさはかなのでしょうか。民主党議員は、何故自分たちの政権が長続きしなかったかを真剣に反省していたら、野次など飛ばせなかったと思います。日本人は何か失敗をすると謝罪をして終りにしてしまう傾向があります。国語辞典では、“謝罪”は、「罪を認めて謝ること」といった定義をしていますが、私はこの定義には満足出来ません。「過ちを反省して、2度と繰り返さない決心をする」とでも付け加えたいと思っています。

(4)警察権力を手中に握っている国家公安委員長である山谷えり子議員は、“ヘイトスピーチ”をする関連団体のことを尋ねられても、まともに答えられませんでした。また、総務大臣である高市早苗議員は、公職選挙法のことがよくわからず、違反と思われる“うちわ”を配布したことを認めました。後に、質問した蓮舫議員も同じようなことをしていたということで、これは泥仕合になってしまいました。

(5)昭和初期の世界大恐慌の再来か、と心配されるEUの不景気がささやかれているのに、日本の国会はなんとものんびりした与野党の論戦です。厚顔無恥の安倍首相も、女性閣僚の答弁の頼りなさには当惑していたようです。答弁するにも、「えー、あのー」といった無意味音(実は意味があるのです)が多く、「とまあ、このように考えている次第でして・・・」のように冗長な答弁が多かったように思います。腹の中では、「反対する者のいない“閣議決定”がいいと考えていたと推測出来ました。

(6)先週には産経新聞の記者が、韓国大統領の名誉を棄損したということで、韓国の検察に起訴されて、拘束されてしまいました。日本ではいろいろな視点から議論がなされています。「という噂がある」と書いただけで、身柄を拘束するのは確かに行き過ぎで、韓国政府は、これまでは、日本で類似な事件があったとすると、「韓国内のことで、内政干渉になるようなことは言ってもらいたくない」という態度を取ってきたはずです。それが、厄介な外交問題になってしまうのは、その責任の一端は、安倍首相にあると私は思います。もっと早く韓国首脳との正式な会談を始めていたならば避けられであろう問題だと思うからです。

(7)安倍首相は日頃、「私は話し合いの扉はいつでも開けてある」と言ってはいますが、「なぜ相手が応じて来ないのかを考えたことはあるのでしょうか? 最も親しいはずのアメリカから、「日本の政治の右傾化を懸念する」と言われても知らん顔ですし、韓国が最も嫌う“靖国神社参拝”も平気でやりました。もちろん「日本がすべて譲るべき」ということではなく、相手との駆け引きをする前には、「同じテーブルに着く」ことが前提となるべきだと思うのです。

(8)“イスラム国”と日本の若者のような問題も生じています。“国内問題はすべて世界に通じている”と言っても過言ではありません。日本人は視野を広くして、なるべく客観的に考える習慣を身に付けなければならない、と思います。(この回終り)

4. 人権大国の基盤を創る              
②  食糧安全保障のための農村の再構築

 戦後の飢餓時代に幼い妹を亡くした作家の野坂昭如は、「終末の思想」の中で、「何よりも大事が景気とはおかしい。札束で人間は生きていけない。かりにくいものが途絶えれば、たちまち死ぬのだ。どんな国でも、自国を棚に上げて、他国を助けるなどあり得ない。」と述べている。同じ飢餓の時代を体験した私もまったく同感である。闇商人から仕入れたアルバイト用のピーナッツを空腹のあまり、貪り食ってしまった自分の情けない姿は、70年近く経った今も消し去ることができないが、それはまた、人間の原点が動物であることを思い知った体験でもあった。       。

 食糧はいわゆる戦略物資である。敗戦後のアメリカによる食糧援助や学校給食への脱脂粉乳の導入が、アメリカの余剰小麦や飼料用トウモロコシの輸出のための長期戦略の一環であったのかどうかはさておき、現実はそのように推移しており、いまや日本人の朝食の70%はパンだという。TPPで重要農産物5品目の輸入関税が崩れれば、もはや、日本は軍事面だけでなく、食糧安全保障の面でも、アメリカの言いなりにならざるを得ないだろう。池田・ロバートソン会談による1954年の日米MSA協定で、保安隊から自衛隊への改編・増強と日本への余剰農産物の輸出がセットで決まったことは象徴的である。アジア太平洋重視というアメリカの世界戦略の中で行われる極東アメリカ軍の再編と日本の集団自衛権の発動、TPPもまたセットであり、銀座の寿司屋でのオバマ・安倍会談は、「尖閣問題」と「TPP」が密接不可分に絡んでいることを示した。  

 <所与の条件>で詳述したように、世界の人口爆発や自然環境の変化で食糧危機が現実になる蓋然性は極めてたかい。国連の推計では現在72億の世界人口は、2050年には100億を超えるとされるが、最近のアメリカ・ワシントン大学などの研究ではさらに急激に増え、123億に達し、社会不安をよびおこすおそれがあるという。また、気候変動に関する国連の今年の報告書は、温暖化による異常気象で世界的な食糧不足が起きることを示唆している。 今も、8億人が飢えに苦しみ、毎年3600万人が飢餓が原因で死んでいる。

 日本でも1993年には天候不順でコメが凶作になり、アメリカ、タイ、中国から240万トンものコメを輸入した事実を忘れてはならないだろう。現在も日本は年間トウモロコシ1600万トン、小麦と大豆それぞれ600万トンを海外に依存する世界最大の農産物輸入国で、輸入先が特定の国に偏っているのも問題である。世界の食糧事情がひっ迫すれば、1.4ヶ月分の備蓄食料などは、あってなきようなものだろう。アメリカのニクソン大統領が「他国の食卓よりも自国の食卓」として大豆とトウモロコシの輸出制限をしたら、日本の豆腐は3倍に値上がりし、畜産農家が次々に倒産したことを私は忘れていない。

 輸入食料にはもう一つ、消費者には実態がわからない遺伝子組み換え、農薬やホルモン剤、抗生物質などの添加物の問題がある。遺伝子組み換え作物は世界22か国で栽培されており、アメリカ産の大豆は90%、トウモロコシは60%が既に遺伝子組み換え作物である。農薬については、穀物や果実の保管や輸送中に使うポスト・ハーベスト農薬の残留が問題視されているほか、たとえば、イチゴやメロンの消費増を受けて、化学企業はネオニコチノイド系農薬の使用基準緩和を農水省に要求しているが、消費者団体や環境保護団体は、この農薬は、果実の受粉に欠かせないミツバチの世界的な大量死を招いたとして反対している。

  こういう状況の下で、日本の食糧自給率は40%以下、先進工業国中最低水準で、農水省は何とか50%に引き上げたいとしているが、全く見通しは立っていない。自給率をもう少し詳しく見ると、小麦18%、大豆7%、油脂類13%、肉類と魚介類は55%、野菜は80%、コメは96%である。TPPで農水産物の関税がゼロになると、日本の食糧自給率は13%になると農水省は試算している。

 国民の生命を守るのが国家の第一の責務なら、どんな状況になっても、国民のために安全な食料を確保し、国民を飢えささない政策をとることが政府の最大の務めだろう。しかし、日本人の食生活を変えてしまったのには、社会のあり方が深く関わっているから、本気で食糧安全保障を考えるには、社会のあり方を変えなければならない。だが、もはや手遅れだから、日本は滅びるしかないと野坂昭如は嘆いている。

 これは、「憂国の士」でもあるこの作家特有の表現であろうが、私自身も、民主党政権以来のアメリカとのTPP交渉や、安倍政権の地方創生計画などを見ている限り、日本の独立性が益々損なわれていくという意味で、”滅びる“という感覚は理解できる。TPPについて、「世界を不幸にしたグローバリズム(Globalization and its Discontents)」の著者でコロンビア大学のジョセフ・スティグリッツ教授(2001年ノーベル経済学賞受賞)は、「USTR(アメリカ通商代表部)は、日本人の利益のことは全く念頭にない。日本にとって重要なのは、反自由貿易的だとか反米的だとか批判されても、屈しないことである。日本が危機的な状況に陥りたくないなら、ほんとうに必死になって交渉する必要がある」と警告している。

 食糧、特に、主食であるコメの自給体制を維持するためには、司馬遼太郎が言うように、なによりも、農地を金もうけの手段とすることをやめ、農地は農業を営むためのものであることを、国民のコンセンサスとすることが必要である。元NHKプロデューサ—で農政ジャーナリストの中村靖彦は、農地公有化の試論として、利用権方式を提案しているが、それも一つの方法だろう。私自身は利用権は利潤一辺倒の営利企業に売ってはならないなど一定の条件をつけるべきだと考える。

 先日亡くなった経済学者の宇沢弘文東大名誉教授は、社会的共通資本の第一に自然環境として山、森林、川、湖沼、湿地帯、海洋、水、土壌、大気 を挙げ、これらを利潤追求の対象にしてはならないと主張した。また、長期的な立場から日本の人口の一定割り合いは、農村に定住して農業を中心にした職業に就くことが大切だと述べるともに、農政官僚のキャリア達が、こうした長期的視野を持たず、自分たちに天下り組織を作ることにばかり力を注いでいると厳しく批判していた。

 先年亡くなって飯沼二郎京大名誉教授は、日本の農業は、昔ながらの家族単位でやる農業形式を精密にやれば、輸入農産物に対抗できると述べている。アメリカやドイツのような工業先進国でも、農業は家族単位で経営されているところが多い。農業は天候に左右されることが多く、きめ細かい対応が必要なため、効率や利潤優先の企業経営にはなじまないからだ。

 ところで、皆さんは、今年が国連の「国際家族農業年( the International Year of Family Farming=
I YFF )」であることをご存じであろうか。IYFFは2011年の国連総会で「世界の飢餓撲滅と天然資
源(土壌)の保全のため、家族農業が持続可能な食糧生産の基盤として大きな可能性を有していること」をPRするために設定された。しかし日本の農林水産省はほとんどPRを行わず、今年の4月になってほんの1ページ余りの告知をHPに載せたのみだった。それは成長戦略の下で、農政の方向が、農地の大規模化、企業化、企業の参入という効率一辺倒に傾いているからにほかならない。国連重視などがお題目に過ぎないことを示す一例である。間もなく終わるIYFFの理念がやがて花開く日のために、IYFFの4目標を掲げておきたい。

①  家族農業の持続的発展を可能にする政府     の環境整備の促進
②  知識、交流、人々の認識の向上・拡大
③  家族農業のニーズ、可能性、および制約に     ついての理解と技術的支援の確保
④  持続可能性のための協働を創出
    *協働 とは、複数の主体が、同じ目的の      ために、対等の立場で、 協力して働くこと
.(M)

参考書籍他

* 始まっている未来: 宇沢弘文 内橋克人  岩波書店
* 終末の思想: 野坂昭如   NHK出版
* 日本の食糧が危ない: 中村靖彦   岩波新   書
* 食の終焉: ポール:ロバーツ 神保哲生 訳    ダイアモンド社
* 食糧問題の基本とからくり: 鈴木宣弘 及川   忠  秀和システム
* グリーン経済最前線: 末吉竹次郎他  岩波   新書
* じつは怖い外食: 南清貴  ワニブックス新書
* TPPは国を滅ぼす: 小倉正行   宝島社新   書
* TPP亡国論: 中野剛志  集英社新書

次の投稿は10月25日(土)に < 人権大国の基盤を創る ③ IIYYの4目標に沿って日本の農村を再構築するための方策 >を予定しています。

今回から「英語の学びと教育」というテーマで、エッセイ風の文章を何回か書いてみたいと考えています。このテーマを設定した理由は、学習者による「英語の学び」と学校・教師による「英語の教育」とは本来一体となって進むべきものなのに、日本においては必ずしも両者がしっくり咬み合っていない、時には「学び」と「教育」が離反する方向をむいていることさえあるように思えるからです。まずどんなところにそのような齟齬が見られるか、なぜそのようなことが起こるのか、それを本来の「学びと教育」の姿に戻していくにはどうしたらよいか、などについて考えてみるのは大切なことだと思うのです。

まず「学び」と「教育」がしっくりいかない原因の一つは、明らかに学習者の多様性ということにあります。そして教育する側に、そのことについての理解が乏しいのではないでしょうか。たとえばクラスに40人の生徒がいれば、40通りの異なる目的・資質・興味・能力・学び方を持った生徒がいるということです。ところが40人のクラスを教える教師は通常一人です。一人の教師が教えることのできる状況というのは、40人の生徒が少なくとも同じ目的を持って学ぶ場合です。そこにもさまざまな資質や興味や能力を持った生徒がいるでしょうが、全員が共通の目標を持っていれば、一人の教師でも教育の効果を挙げることはある程度できます。たとえば生徒全員が同じレベルの入学試験を目指している場合や、TOEICやTOEFLなどの英語能力検定試験を共通目標としている場合です。そういうわけで、中学校では高校受験を、高校では大学受験を当面の目標とする受験指導が最も効果的であると考えられています。

しかしそのような受験を目的とした授業には限界があります。予備校のクラスのように、受験だけを目的とする場合にはそれでよいかもしれません。生徒たちが入りたいと思う学校に入ることができれば、生徒も教師もそれで一応の目的は達成できたと考えることができるからです。しかし個々の学習者の英語の学びはそこで終わるわけではありません。多くの場合、それは生涯にわたって続くものです。英語の本格的な学びは、むしろ、それが新しいスタート地点なのです。

そこで、生徒の個性がいかに多様であるかを見るために、通常の学校におけるあるクラスの生徒たちの持っている個人的な特徴にはどんなものがあるかを考えてみましょう。ただし生徒の年齢と学習段階はほぼ同一とします。筆者自身の研究ノートを見ながら、思いつくままに挙げてみましょう。

*まず顔や姿の身体的特徴が全員違います。時に一卵性双生児がいて区別がしにくいことがありますが、彼らもよく見ると違っています。それと同時に、性格や精神的特徴も全員違っています。それらは一見しては分かりませんが、時間をかけて注意深く観察すると、しだいに違いが分かってきます。

*精神的特徴のうち、性格と外国語学習との関係については、これまでの第二習得研究でかなり理解が進んでいます。しかし特定の個人について、その性格的特徴から外国語習得の進行過程を予測することまではできていません。おおざっぱに分類された性格と、それぞれのタイプの外国語習得傾向が一部明らかになっているだけです。

*次に知能と言語適性についての研究もかなり行われてきました。しかしそれらの要因を分析すれば、特定の個人の外国語の発達を予見できるわけではありません。これまでの研究でまだ取り上げられていない心理的・精神的ファクターが数多く残されていると思われます。

*英語は日本人にとって日常言語ではないので、以前にも指摘したように、学校での学習経験を学習者自身の生活と結びつけることがたいへん難しい。その難しさの程度は、個々の学習者の生活環境によって異なります。

*日本人学習者は英語を生活言語としてではなく、学校の教科として学びます。小学校の英語もやがて必修教科とする方向で検討されています。そうすることで、小学校の英語も生活言語からますます遠ざかることでしょう。日本では、学校で学ぶ英語の多くはアカデミックな目的に使う非生活言語なのです。したがってそれは、個々の学習者の学習目的や学習習慣と密接に関係しています。

*英語学習の各段階において、習得すべき4技能に常に同等のエネルギーを配分することは実際的ではありません。ある時は「聴くこと・話すこと」に、またある時は「読むこと」または「書くこと」にエネルギーを集中するのが自然です。そのエネルギー配分は、教える側の論理でなく、本来は個々の学習者が決めるべき問題です。

*言語学習に必須な単語や語句や文の暗記を得意とする学習者と、何かこれまでの研究で知られていない理由で、暗記を不得意とする学習者が存在します。すべての学習者に同じ学習方法を強制することは、それに合わない学習者を次々に振い落す可能性があります。

*同じ年齢の同じ学習段階のクラスであっても、それぞれの生徒の学習目的は同一ではありません。英語のマンガを読みたいというのも、その学習者の生き方にかかわることであれば、立派な学習目的と言えます。学習者のそれぞれが個人的・個性的な学習目的を持っているのです。

*学習者は自分自身がどんな学習者であるかについて独自の見解(時には偏見)を持っています。自分は記憶力が他の人より優れている・劣っている、ネイティブ・スピーカーに親しみを感じている・むしろ恐れている、など。これらの自己認識の様式は学習の成否に大きく作用します。

*自分の所属するクラスの雰囲気や他の生徒たちについて、それぞれの学習者はさまざまな感じ方や意見・偏見を持っています。そしてそれらの感情の組み合わせは千差万別であり、それが個々の学習者の学習過程に大きな影響を与えます。いじめに遭っている生徒が学習に集中できるはずがありません。

以上で10項目になりましたが、リストの列挙はこれくらいにして、これらの個性が画一的・強圧的な教育環境の中でどのように変化し減退していくかを、私たちは注意深く観察する必要があります。(To be continued.)