Archive for 12月, 2010

民謡 生保内(おぼない)節             松山 薫

民謡は心のふる里という。最近それを実感する機会があった。このブログの自己紹介にもあるように、私はこの30年来住んでいる団地の高齢化対策アドバイザーをしている。この団地でも、御多聞にもれず限界団地化が進んでおり、600人ほどの居住者の平均年齢はとうに60歳を超え、10歳以下の子供は10人しかいない。このような団地の特徴のひとつは、住民が孤立化して家に閉じこもリ、地域の活力がなくなることである。従って、高齢化アドバイザーとしては、なるべく多くの人達が外へ出るようなイベントを企画しなければならない。先日は同じアドバイザーで民生委員をしている方のお世話で「津軽三味線を聴く会」を開いた。近所に住む師範と奥さん、高校生の孫娘、それに3人のお弟子さんのコラボレーションは誠に見事で、特に、精一杯に民謡を歌い上げる17歳の娘さんの姿には、ひとつのことに打ち込む若者のひたむきさを感じた。
民謡が人の心を結ぶ絆になることを、私は若い頃に勤めていた新潟で知った。佐渡おけさや相川音頭、新津松坂などを歌えなければ酒席に加えてもらえないから、“ありゃありゃありゃさ”という合いの手の入れ方から教わった。新潟海岸での盆踊り大会で、日本海をバックに哀調を帯びたおけさの調べにのって、編笠姿で踊る名手達の姿に民謡の真髄をみるおもいがした。
生保内節は秋田の民謡である。生保内というのは田沢湖近くの地名で、この辺りから流れ出る清流、檜木内川は“みちのくの小京都”と呼ばれる角館を経て雄物川に合流するが、この一帯を生保内地方という。17歳の頃、敗戦のショックと突然民主主義者に豹変した教師達への絶望感から、学校を辞める決意をして、家族が疎開していた角館郊外の山村へ行き、1年間暮らした。村は角館から田沢湖方面へ3里半入いったところの農村で桧木内川の両岸に部落が点在していた。桧木内川は10メートルの橋の上から遡上する鮎の大群が見えるほどの清流だが、大雨が降ると濁流が渦巻き両岸の部落を結ぶ橋が流されてしまう。村人は総出で山から木を伐り出し、橋を補修する。私も手伝った。終ると、どぶろくの宴会である。17歳で酒を飲むのは許されないのだろうが、当時は冬には子供でもどぶろくを飲んで体を温めた。小学生の弟2人が裏の炭焼き小屋へ遊びに行ってなかなか帰って来ないので迎えに行ったら、どぶろくで酔っ払って寝ていたことがあった。2メートルもの雪が村を覆うと何もすることができなくなる。村人は時々寺の本堂に集まってどぶろくを酌み交わしながら民謡をうたった。なかでも生保内節の独特のふし回しが耳に残った。合いの手に入ったボンボンという音は太鼓ではなく木魚であったのかもしれない。「津軽三味線を聴く会」でその生保内節を64年ぶりに聞いたのである。司会者に促されて当時の思い出を話しながら、ふと、17歳の少女は、64年後にどんな世の中で暮らしているのだろうかと思った。(M)

立案または構想(planning)の段階では、母語で書く場合も外国語で書く場合も、内容をできるだけ明確にイメージすることが大切です。そのイメージが明確なほど次の文章構成の段階にスムーズに入ることができます。ライティングにも目的や種類がいろいろあって一概には言えませんが、構想を練る段階を説明するのに比較的に容易な例として、あるテーマについて自分の考えを展開するエッセイ・ライティングの場合を取り上げてみます。具体的にそのプロセスを述べたいので、僭越ですが、この「英語ライティングの学習」というテーマの原稿作成を例に取ります。筆者が熟達したライターというわけではありませんが、もう40年も何かを書いているので少しは参考にはなるかもしれません。最初の構想の段階で、私はこのテーマで思いつくだけの事柄をメモしました。その最初のメモは乱雑ですので、少し整理してお示しします。

 ①ライティングは言語技能の中でいちばん難しい技能(つまり熟練を要する技能)だと言われるが、その理由は何か。②熟達したライターはどんなふうに書き進めるか、熟練すると速く正確に書けるようになるか。③書く前にどんなふうにして構想を練るか、どこまで詳細な設計図を描くか、それにどれだけの時間をかけるか。④書こうとすることを文章にする場合に、語彙と文構造のどちらを先に決めるか(ただしライター自身はそれを意識していないかもしれない)。⑤語彙の選択は母語でも時に難しい作業だが、外国語で書くときはさらに難しい。どのようにして適切な語彙や表現を捜すか。⑤文構造はどのようにして決めるか。センテンスを書く前に決めるのか、書きながら決めるのか。⑥書き進めるうちに最初の構想が変わることがあるが、ライターはその変化にどのように対処するか、最初から書き直すか、部分修正ですますか。⑦構想したものを書く場合に、パラグラフはどんな役割をしているか。パラグラフ単位に思考を集中するのか、もっと大きな単位で考えるのか。⑧ライターは書くときに文章全体の一貫性や統一性(coherence)をどこまで意識しているか、書きながら常に意識しているのか。⑨書いたものを修正(改訂)する場合に、手書きの原稿では修正の跡が残るが、パソコンでは残らない。このことはライターの心理にどんな影響を与えるか、また作品自体の出来栄えにどんな影響を与えるか。⑩ライターによって修正の仕方やその頻度に違いがあるが、それはライターの性格の違いか、あるいは構想の精密さの違いか、書いている内容の性質(適切な表現が見つからないなど)か。⑪未熟な書き手は熟練した人とどう違うか。⑫そもそもライティングの技能は教えることができるか。できるとすればそれはどんな事柄か。⑬日本人が英語で書く場合に日本語はどんな役割をはたすか。最初から英語で構想することは可能か。文章を構成する場合に英語と日本語をどのように使い分けるか。⑭ライティングに熟達するには経験が必要だが、なぜ経験が有効なのか、経験することによって学ぶものは何か。

 ずいぶんいろいろなことを考えたものです。それらのあるものはすでに研究されて答えが出ていますが、まだ充分に研究が行き届いていないものもあります。博士論文のテーマになりそうなものもあります。それはともかく、ライティングの学習についてここで私が伝えたいことは、構想の段階で、これから書こうとする内容についてさまざまな観点から検討をしてみることが大切だということです。まず自分の頭を使って考えることが必要でしょう。次にそのテーマについて書かれたものを読んで、他の人たちがその問題についてどう考えたかを知ることも必要になるでしょう。また内容によっては事実を確かめる資料に当たることも必要になるはずです。私はこの原稿を書くために、成功した学習者の用いるストラテジーに関する2点の研究論文を読みました。そして、良いライターは良いリーダーだということを知りました。

 何かテーマを決めて書くときには、まずそのテーマに関係した著作を読むことから始めるのがよいようです。リーディングにはいろいろな目的がありますが、ライティングのためのリーディングというのも目的の一つとなり得ます。何か問題意識を持って読むと、どんなものからも考えるヒントが与えられます。そうして考えながら読むと、ふだんよりもいっそう深く読むことができます。それだけではありません。リーディングはまた、自分のアイディアを表すのに必要な語彙や表現法を知るのに役立ちます。特にふだん使用していない英語でものを書くときには、英語で書かれたものを読むことは必須です。よほどそのテーマに精通していないかぎり、本を読まずに書くことは難しいでしょう。私はこの原稿をタイプしながら、構想の段階で読んだライティング・ストラテジーの英語論文に時おり目を落としています。(To be continued.)

文章を書くことは多くの人にとって難しい活動です。母語では不自由なく聴いたり話したり読んだりできる人でも、書くことになると尻込みする人が多いようです。母語でさえそうですから、外国語で書くことはさらに難しいと感じるのは当然です。しかし以前にくらべると、ワープロやパソコンが使えるようになって、書くことがずいぶん楽になりました。筆者がワープロを使い出したのは1980年代の終わりころでしたが、最初のうちは下書きを従来どおり原稿用紙に書いて、清書のときだけワープロを使いました。やがてパソコンの時代になって、原稿は最初からパソコンのワードで書くようになりました。そして新しい発見をしました。パソコンを使って書くと、編集が自在になりますから、まず思いつくままに書いていって、書きながら編集をすることができます。自由に付け足すことができ、自由に消すことができ、語順や文順を入れ替え、ときにはパラグラフを入れ替えることもできます。つまり、自分の頭の中に思い浮かぶままに、文章を手直しできるというわけです。これは自分の文章を作るときに脳の中で起こっているプロセスをそのまま反映しているわけで、それまでの手書きの原稿の作り方では味わうことのできないスリリングな体験でした。それから20年経った現在ではすっかり慣れてしまって、かつてのスリリングな感覚を味わうことができませんが、ライティングの学習について考えるうちに、かつてのそういう感覚を思い出しました。

 ライティングのプロセスは、大きく分けて、立案・文章構成・改訂(planning/composing/revising)の3つの認知段階からなります。熟練した書き手は、意識的または無意識的に、それら3つの段階を繰り返して最終稿に至ります。つまり、書き手は文章を作るときに、立案と構成と改訂を繰り返しながら先に進んでいくというわけです。このプロセスは、おそらく、音楽家の作曲のプロセスと共通しています。曲想が浮かび、それを作曲法に則して譜面に書き、書いたものを改訂します。そしてその作業を自分の中にある曲想に合致するまで繰り返します。ですから作曲家たちの書いた楽譜には多くの改訂の跡がしるされています。たぶん、出来上がった楽譜が汚れているほど作曲家の苦心が大きかったことを示しています。ブラームスなどは、第1交響曲を構想してから、その完成に20年を要したと言われています。ところがモーツァルトの楽譜だけはほとんど書き直しがない、あっても少ししかないというのですから驚きです。モーツァルトの場合には、おそらく、最初の曲想を得る段階で曲のほとんどが完全な姿でイメージされており、構成の段階でも次々に曲想が展開されて淀みなくペンが滑っていったのでしょう。しかしそのような作曲家は例外です。

 ライティングの場合にも、モーツァルトのような作家や文筆家は少ないと思われます。たいていの作家は、1字1字、1行1行、熟考しながら文章を創り出し、それを改訂しながら書き進みます。その苦心の跡は作家たちの残した手書き原稿にはっきりと現れています。たぶん、破いて棄てられた原稿もたくさんあったでしょう。その点で、パソコンで作る原稿は違っています。出来上がった原稿にはまったく苦心の跡が残されていません。しかしライティングを学ぼうとする人は、最初にこのことを知る必要があります。文章というのは、熟達した書き手でも、自動的にすらすらと書けるものではないということです。まず構想を立て、それを文章に構成し、改訂するという難しい作業を忍耐づよく遂行するのです。以前大学で英作文の授業を担当したことがありました。そこで感じたことの第1は、学生たちがいかにも安易に英文を書いてくることでした。着想にはおもしろいものがありました。しかし多くの作文に、読者からみて言い足りないと思う箇所、何を言わんとしているのか分からないセンテンス、基本的な文法の間違いなどがたくさん含まれていました。また、そういう作文を教師が多大な時間を消費して添削してあげても、期待するほど効果のないことも分かりました。要するに、学習者自身が自分の作文の欠陥に気づき、自分の手で改訂しなければ効果はないのです。そこで筆者が教師として気づいたことは、いかにしてそれぞれの学生に、自分の弱点に気づかせるかということでした。そして何よりも大切なのは、自分がこれでよしと納得するまで、自分の構想したものが適切に表現されるように意志と意欲を保ち続けることです。これを怠ってはライティングの進歩は望めません。

 この稿は英語学習者を対象としていますので、ライティングの習熟を目指すときに学習者自身が心がけるべきことをいくつか、以下に述べてみたいと思います。(To be continued.)

「コメンテーター」をコメントする
(1)北野 誠・・・このタレントは失言する癖があって、かつて歌手の山本リンダを侮辱したとかで平身低頭して謝っている場面が放映されたことがあります。その後も放送できない用語を使ったとかでしばらく謹慎していましたが、最近は復活しています。過失のあったタレントが復活できるのは所属事務所の力が強いことにもよるでしょうが、視聴率も大きくものを言います。結局は視聴者が選んでいることになるわけです。

(2)尾木直樹・・・歯切れのよい解説で好評を得ている教育評論家で、教育問題の番組では引っ張りだこです。ただし、ある番組で、「お子さんたちの教科書を読んでおきましょう」と呼びかけていましたが、英語の教科書については、「英語は今でもリーダーと作文・文法に分かれているのでしょうか?」と言ったので、私はがっかりしました。英語に弱い評論家は多いですが、話題にしている教科書にも目を通していないのは、致命傷的な過失でした。

(3)室井裕月・・・1970年生まれの“シングル・マザー”で、「衣着せぬ発言をする」と評判の作家です。その直感的な反応は聞くべきものがありますが、「自己中心的な思い付き」と紙一重で、はらはらさせることもあります。若い頃は、ホステス、モデル、店員など様々な仕事を経験しているので、その経験を生かしたコメントを続けてくれるものと期待できます。

(4)ビートたけし・・・数多くの番組で司会をし、俳優、監督もこなすご存知、有名タレントです。その言うことは鋭いですが、漫才時代から早口で、バイクの事故で顔面を負傷してからは、滑舌が悪く、聞き取りにくい発言が少なくありません。身体障害による欠陥は止むを得ない点がありますから、なるべく多く文字化して画面に出すような演出が望まれます。

(5)綾瀬はるか・・・この人は女優であって、コメンテーターではありませんが、ルポルタージュ番組にはよく出演しています。しかし、彼女のことは昨年のある週刊誌のグラビアで知りましたが、他の美人女優と違った不思議な魅力があると思いました。女優主演賞なども得ていますから、演技力もあるのでしょう。ただし、有名になれば、ネット上では中傷する記事も多く見られます。私が彼女の技を買ったのは次のような場面(12月5日 News 23 X)があったからです。

(6)日米開戦は日本軍の真珠湾への奇襲攻撃で始まりましたが、当時日本の軍部は「日本軍の戦死者は9名」と発表していました。「何人かは捕虜になった」とい噂は私も聞いたことがあります。実際は、何十名も死んでいたのです。そのうちのある軍人は、当時16歳の娘に惚れて、その思いを十分に告げぬままハワイ上空で消息を絶ちます。その娘は後に自分を愛してくれた人がハワイで死んだと知り、85歳になって、綾瀬はるかに付き添われてハワイを訪れます。

(7)最初は、その婦人はアメリカ人を見ると、「お前があの人を殺した犯人か?」といった反応を示していましたが、やっと山奥の墜落現場とされる場所に案内されて、花束と祈りを捧げた後は、「悪いのはアメリカ人でも日本人でもない、戦争だ。戦争は二度としてはならない」とつぶやきます。綾瀬はるかは、大きな目に涙を浮かべますが、号泣することもなく、静かに婦人の車椅子を支えていました。こういう場面は、テレビにありがちな「感動の押しつけ」ではないので、私も素直に感動出来ました。視聴者は、「面白いだけがテレビではない」ということをもっと強く意識して番組を視聴すべきだと思いました。(この回終り)

< 英語との付き合い ⑩ >                松山 薫

高等師範学校(3)卒業

米軍水耕農場をクビになってしばらくした頃、キャンプでアルバイトをしていた級友が、
「payのよいバイトがあるよ」と教えてくれた。「オレは通訳はできないよ」と断ると「英語は一言もしゃべらなくてよい」というので乗り気になった。そのバイトというのは、朝鮮戦争で戦死したアメリカ兵の遺体を処理して納棺する仕事だったので断った。前々回触れた松本清張の「黒い絵」は、まさに、朝鮮戦争における米軍内の黒人差別と、黒人兵の脱走、日本女性に対する暴行、その女性の夫の黒人兵への遺体処理場での復讐の物語である。戦後の日本の復興の足がかりになった朝鮮戦争(死者350万人)は、日本人が真剣に学び将来への教訓を引き出さなければならない悲劇だったと思う。朝鮮戦争が終わり、米軍の日本占領も終わりに近づいていた頃、4年生になった。それまで3年間何とかやってきたが、最後の難関は教生(教育実習)と卒業論文だった。半年間(だったと思う)の実習の前半は付属中学、後半は都立新宿高校で教生をした。付属の生徒は教生慣れしていて、教師をからかうということで、ある教生が” Did you went to … ? “と言ったというのでその教生が現れると一斉に ” Did you went “と囃したて立ち往生させたという話が伝わっていた。それで最初の日に緊張して教室に入ると「先生英語教えるの?」「体育の先生じゃなかったの?」「大丈夫?」と言う声が飛んできた。学校の帰りに柔道場を覘いていた生徒達がいたのだ。「先生何段?」というから咄嗟に「三段だ」とかませた。それですっかり落ち着いて、後は何とかうまく行き、なにはともあれ、生徒を自分のペースに巻き込むことが大事だと悟った。新宿高校では、英語科主任の福井保先生に、懇切丁寧な指導を受けた。先生は決して若造の欠点を指摘せず「ここがよかったが、こうすればもっとよくなるんではないか」とユーモアを交えて教えてくれた。それが、その後6年半の教師生活だけでなく、英語の学校をつくり、学習法を開発する中でも基本的な考え方になっている。一方、卒業論文は、”Goodbye Mr. Chips”, ”Knight without Armour”, ”Lost Horizon “などで知られる通俗作家のJames Hiltonの作品群、特に”Random Harvest” (心の旅路)に焦点を当てて書いた。ヨーロッパ戦線で負傷し記憶を失った貴族のイギリス人将校が、嘗ての恋人である踊り子を求めてさまよい、ついに再会するメロドラマ調の作品である。どだい卒論のテーマとしてはふさわしくない。そこで、この作品にも現れるイギリス貴族の ”noblesse oblige “ に疑問を呈することに力点を置いた。しかし、我ながら、高尚なテーマと拙劣な英文の落差にあきれていた。校庭で担当の藤井一五郎教授に出会ったら、手招きをするので「ありゃ、書き直しかいな」と思っが「面白かったよ」と言われてホッとした。藤井先生のお宅は丁度柔道場の裏手にあり、時々お邪魔してウスキーなどを御馳走になっていた。先生は後に、文学部長として教育大学の筑波移転反対の先頭に立った方だったので、反骨精神に免じてのお情けの及第ではなかったかと思っている。(M)

< 英語との付き合い > ⑨            松山 薫

高等師範学校 (2)

前回、英米の古典的作家の作品の講読に馴染めなかったと書いたが、いくつか心に残っているものはある。そのひとつは、Alfred Tennyson のイノック・アーデンである。人間の運命の不思議を感じさせる内容を流麗な文章で描いた作品だ。Thomas de Quinceyの「ある阿片吸引者の告白」の冒頭の部分「どんないやなことでも、これが最後だと思うと懐かしい感じになる」という言葉や自らのaddictとしての生活を描いた内容に感銘を受けた。これらは、いずれも、人間の運命や生き方に関する内容で、敗戦の精神的ショックからなんとか立ち直りつつあったその頃の自分の関心が、そういうところに向っていたゆえに心を惹かれたのだろう。しかし、生涯にわったって影響を受けたのは、これら正統派文学ではなく、アメリカン・プラグマティズムの先駆者とも言えるBenjamin Franklin のautobiographyであった。アメリカのfounding fathersの1人であるBen Franklinは、毀誉褒貶のある人物で、自叙伝にも事実かどうかわからないところもあるということだが、私が最も強く惹きつけられたのはThirteen Virtues の部分である。1. temperance 2. silence 3. order 4. resolution 5, frugality 6. industry 7. sincerity 8. justice 9. moderation 10. cleanliness 11. tranquility, 12. chastity 13. humility 以上 13の徳目を手帳に書きつけ、毎日過ちを犯したかどうかを黒点をつけて記していくのである。その手帳の1ページ分が英語のtextに載っていた。フランクリンが目指したようなことは、私自身にはとても出来そうもないことはわかっていたが、かりにも教師になるからには努力はすべきであると考えたし、何よりも学ばねばならないのは、その強烈な意志と計画性であると思った。実は神ならぬ身のフランクリンも、この計画は実行できず、投げ出したのであるが、私は最初から完全に実行できるとは思っていなかったので、機会があれば、その一部でも実行してみたいと思っていた。その後何回か、フランクリンの方法論に助けられることになる。そのことは後述するが、とにかくフランクリンの志を忘れないように、長く自室の隅にベンジャミンの鉢植えを置いておいた。ベンジャミンはゴムの木の一種なので、葉から細い樹脂が床に垂れ落ちるから家人には嫌がられたが、私は飽かずにそれを眺め続けた。ところで、英語の勉強はぜんぜんしなかったのかといえば、学校以外のところで、アルバイトの合間に読んでいたものがある。ある時、アメリカ軍のキャンプでアルバイトをしていた友人から”the Stars and Stripes “をもらい、読むともなく読んでいるうちに、国際連合の記事に出あった。特に国際連合の創設を目指したダンバートン・オークス会議でのアメリカ代表の理想主義的な演説にはすっかり感動し、更に、第1次世界大戦後における国際連盟の設立に果たしたアメリカ大統領ウッドロー・ウィルソンのひたむきな努力には心が震える思いを味わった。本を買うカネはないので、ACC(アメリカ文化センター)で借りたが、そこの女性司書が、ハリウッド女優並みの美貌の持ち主で、弊衣破帽に朴歯の下駄という姿の薄汚い貧乏学生を差別せず、しつこい質問にも丁寧に答えてくれたので、アメリカの古きよき時代の理想主義的な傾向を知ったこととあいまって、鬼畜米英というイメージはだんだん薄れていった。(M)

高校での英語リーディングの授業が、前回述べたような、訳読と文法を中心とする非効率的なものであるとしたら、本当の英語リーディング力を身につけたいと考えている学習者はどうしたらよいでしょうか。筆者は以前このシリーズ(第9回)で自律的な言語学習者について述べたことがありました。「自律的学習者」とは、自分自身の学習のプロセス(学習の設計、ストラテジーの選択、モニター、評価、自己動機づけ)を自分の責任で遂行できる人であり、それによって他者への依存度を下げ、学習環境に左右されることなく自分の学習を進めていくことのできる人のことでした。現実の学校の教育環境はさまざまです。同じ学校でも教科によって学習の性質も形態も異なります。英語の授業に限っても、先生の指導の仕方によって、またクラスの雰囲気やクラスメートとの人間関係によって、さまざまな形態が存在します。自分にとって居心地のよい、学びやすい環境であれば問題ありませんが、そうでないときには自分の意志で自律性を保つようにすることが特に重要になります。しかし独りでそれを実行するのは容易ではありません。なるべく信頼できる友人や指導者(親や先生)と相談しながら進めることが必要でしょう。以下に英語リーディングの学習を自主的・自律的に行なう場合の留意点を二三述べてみたいと思います。

 まず訳読についてですが、学習者が英文の意味を理解するための一つの手段としてそれを用いることは悪いことではありません。問題は訳に頼ってしまうことです。つまり、英文をいちいち日本語に訳さないと意味が取れなくなることが問題なのです。それを避けるためには、訳はチャンク(意味のまとまり)の単位にとどめ、チャンクの順序を入れ替えて全文訳をしないことです。頭から、チャンクごとに意味を取っていくのです。例を挙げましょう。次は世界的に有名な作家ラッシュディー(Salman Rushdie)の新作Luka and the Fire of Lifeの冒頭のセンテンスです。(チャンクの切れ目をスラッシュで表します。)

   There was once, / in the city of Kahani in the land of Alifbay, / a boy named Luka / who had two pets, / a bear named Dog / and a dog named  Bear.

 上の文の意味を取るのにチャンクの順序を変えて日本語にする必要はないでしょう。チャンクごとの意味が取れれば全体の意味はおのずと明らかです。しかし表面的な意味がわかっても、作者の意図はこの文からはまだ不明です。読者はこれから先に次々に現れてくるはずの情報に期待を寄せます。たとえば、Kahani やAlifbayがどこの地名なのか、Lukaという少年の名に何か特別な意味があるのか、なぜクマの名がDogで、イヌの名がBearなのか、など。作者はまだ自分の意図したことを何も述べてはいないのですから、このような文をきちんとした日本語に訳すことは、翻訳家でないかぎり必要のないことです。時々チャンクごとに日本語で意味をチェックするのはかまいませんが、チャンクごとに英語の順序のまま理解しようとすることが大切です。授業で先生の言う全文訳をノートに書く必要はまったくありません。むしろ先生の日本語を聞きながら、ノートにはその英文を書くとよいでしょう。そのほうがずっとよい学習になります。

 次に、リーディングに上達するには豊富な経験が必要です。それは学校で使う薄い教科書だけでは不充分です。私たちは日本語の文章を自由に読めるようになるために、どれだけ多くのものを読んだことでしょうか。学校の国語の教科書だけではないはずです。他の教科の教科書も英語以外は日本語でした。それらに加えて楽しい物語や小説もたくさん読みました。ですから、日本語の読書経験の少ない人は英語のリーディングも苦手だと思われます。事実そういう調査をした研究者がいて、そのことが裏付けられています。教科書以外の英語の本を読む場合に注意すべきことは語彙のことです。小説を読むならば原文で読みたいと思うのは自然ですが、一般に作家の語彙は通常の人より多く、3000語程度の語彙ではとうてい読めません。そこでお薦めなのが1000語、2000語、3000語などの語彙範囲にリトールドされた読み物です。本屋(AMAZONなど)のgraded readersで検索するといろいろなものがあることが分かります。辞書をあまり引かずに読むためには未知語が2%以内のものがよいとされています。多読によって語彙を増やすことはあまりできませんが、重要な語に何回もふれることによって、語彙の知識が深まり、また読みの流暢さが増すことが知られています。リーディング力をつけるために、自分に興味のある話題の本を見つけてできるだけ多く読んでください。英語で速読や味読ができるようになったら、あなたにとってすばらしい世界が拓けます。(この項終わり)

「テレビ番組」から学ぶこと
(1)ここで、「学ぶ」というのは、受験生が受験講座を視聴したり、外国語を学びたい人たちが、語学番組を視聴したりする場合ではなく、日常の番組から何をいかに学ぶべきかを考えてみようというものです。したがって、いつものように、東京地区で視聴できる番組を例にしますが、「テレビ番組」の利用方法を考えて頂ければ幸いです。

(2)若い人たちが「地理」を知らないことがよく話題になります。昔の学校では「地理・歴史」などは「暗記科目」とされて、とにかく「覚えること」を強制されました。その時は辛くても、後で結構役に立つ知識だと思うことがありました。日本では、20年ほど前に、「暗記はもう古い指導法だ」といった妙な風潮があって、生徒は一層知識不足になりました。そこで、まずどの放送局でもある「天気予報」で、地理を学ぶことを始めたらどうでしょうか。もちろん、天候を知る目的で天気予報は見るでしょうが、地理を学ぶにも役立つ番組です。

(3)いつかある局の調査で、日本の白地図を示して、「新潟県はどこでしょう?」と高校生に質問していました。誤答の多くは鳥取や島根あたりでした。中には、福島や千葉のあたりを指す人もいました。それより以前、新潟県は地震の災害もあって、ニュースでも度々話題になったのに、この程度の認知度です。知らない地名を耳や目にしたら、地図を開いて調べるように指導したいものです。

(4)流行語などはむしろ若い人ほどよく知っているでしょうが、電子辞書を持つ人が多いようですから、知らない用語に出会ったら、調べてみる癖を付けさせたいと思います。一時、政治家がよく口にした「コンプライアンス」などは、大学生でもスペリングを知っている人はまれでしょう。”comply” (規則に従う)という動詞を思い付けば大したものです。最近の電子辞書の中には、『カタカナで引くスペリング辞典』などを搭載しているものがありますから、これを利用するとスペリングがわり、英和辞典で意味を調べることが出来ます。

(5)NHK の「国会中継」は最も見てはいけない番組だと思います。議長の制止を無視して大声で野次る、居眠りをする、用意した原稿をひたすら読む、質問にまともに答えない、といった手本にならない悪例がほとんどです。一方、NHK の教育テレビは、高校生向きの科目の講座が多いですが、それ以外にも優れた番組があります。11月21日には、東大で収録した「ハーバード白熱教室」を放送しました。アメリカの教授が司会、進行をして時局問題を参加者に考えさせるのですが、全く逆の発想を促したり、ある意見に反論を示したりしながら、視野の広い問題の捉え方を教える見事な技を見せていました。

(6)少し古くはなりましたが、毎日新聞校閲部編『新聞に見る日本語の大疑問』(東京書籍、1999)は、丸谷才一氏推薦の面白い本です。マスコミがうっかり使う日本語の誤用例をエッセー風に論じています。例えば、「ヴ」という表記は、福澤諭吉の思い付きだが、” l ” と “ r ” の区別をやって欲しかった、といった見解が述べられています。テレビ番組の日本語にも誤用が多いので、こういう書物で勉強しておきたいものです。(この回終り)

訳読が現代の学校ではもはや機能しなくなっている第1の理由は、それが結局のところエリート教育にならざるを得ないことです。文法訳読式教授法の起源をたどると、中世の終わりから近代初期にかけてのルネッサンス期のヨーロッパにたどり着きます。その時代の教育は貴族や金持ちなど一部の支配階級のものでした。彼らは家庭教師を雇って子弟を教育させましたが、それは基本的に先生と生徒が一対一で対面する教育でした。英国でも16世紀初頭から17世紀初頭にかけて多量のギリシャ語とラテン語が英語の中に入ってきて、それらの言語を教えるためのグラマースクールが各地に作られました。それらはその名の通り、主としてラテン文法を教えるためのエリート学校でした。一方、日本の江戸時代の寺子屋はもっと開かれた庶民のための教育機関でした。そこには町の学問好きの子ども(というより、学問好きの親を持つ子ども)がやってきました。時に大勢の生徒が集まったこともあったでしょうが、基本的には先生と生徒が一対一で向き合って四書五経などの漢文を読むというものでした。そこで用いられた読み方は主として素読でした。これは意味のわからないものをひたすら音読するというものでしたから、訳読よりももっと乱暴な教え方でした。これに耐えることのできた生徒は、知的能力と忍耐力の面で人並みはずれた子どもたちだったと思われます。

 これに対して現代の公立学校は、すべての子どもが就学を義務づけられている民主的な教育機関です。高校は制度としては義務教育ではありませんが、20世紀の終わりには実質的に義務教育化しています。したがって在籍する生徒はいろいろです。しかし、そこではすべての生徒が原則として平等に扱われます。金持ちの子どももそうでない子どもも、能力のある子もそうでない子も平等です。そういう多様な子どもたちが学年ごとにクラスを作っています。そしてその大きさは、日本じゅうのほとんどの高校で40人の定員いっぱいです。そういうわけで、一部のエリート養成をめざす私立学校を除くと、昔の英国のグラマースクールや日本の寺子屋で機能していた訳読や素読は、もはや現代の学校では通用しなくなっているのです。

 第2に、多様な生徒からなる大クラスにおいては、訳読はあまりにも非効率的な教授法です。それがいかに効率の悪いものかは、たぶん皆さんも英語の授業で経験したことがあると思います。先生が誰かを指名します。指名された生徒は立ちあがってリーダーを読み始めます。なんてヘタクソ!とあきれるような発音の人がいます。先生が ‘That’ll do’ (そこまで)と言うとそこで止め、読んだところを訳し始めます。ところが、予習をしてきた生徒の場合はまだしも、そうでない生徒のときは惨憺たるものです。先生がちょっとヒントを与えるくらいではどうにもなりません。先生は慣れていますから忍耐強い。筆者は中学生のころ英語の先生の忍耐強さにはいつも感心したものです。意地悪な先生もいて、わざと怠ける生徒を指名してチクリチクリ皮肉を言っていじめる人もいました(今はそんな先生はいないでしょうね?)。まじめに勉強する生徒にこんな授業は耐えられません。たいてい内職をするか、他のことを考えています。そして最後に先生が模範訳を示します。それをノートに書き写す生徒もいます。試験の時にその通り書かないと減点されるからです。こうして1時間に1ページがやっと終わるというわけです。客観的に見て、このような授業はおおむね時間の浪費であり、リストラされてしかるべきものです。おまけに英文法の授業があります。そういう名の科目はとっくに学習指導要領からリストラされたはずですが、いまだに多くの高校で生き残っています。この授業も似たようなもので、例文を読んで訳して、先生が説明して、練習問題の答え合わせをするだけの、退屈きわまりない授業です。こういう極端な文法訳読方式は現在では少なくなったかもしれませんが、筆者の耳に届く多くの証言から、基本的にその方式に則った授業がまだ根強く残っているようです。

 訳読式の授業のもう一つの問題点は、これまで多くの人が指摘しているように、それが音声を無視した授業になりがちなことです。この種の授業では先生と生徒が英語を口にするのはテキストを音読する時くらいなので、聴いたり話したりする能力はほとんど育ちません。その音読もおざなりなもので、英語らしい発音は身につきません。そういうわけで、たとい読解力は多少ついたとしても、学校を出てから自力でスピーキングを学ぶ素地もできていません。これが今日の多くの日本人が学校での英語学習で経験したことではないでしょうか。そして6年も10年も英語をやったのに何もしゃべれない!と嘆きます。その原因のすべてを訳読に帰すことは難しいかもしれませんが、それが一大原因であることは間違いのないところです。(To be continued.)

これまでしばしば述べてきたように、学校におけるリーディングの最大の困難点は語彙と文法にあります。それゆえ、通常のリーディングができるようになるためには、その基本となる語彙と文法の学習がまず必要であり、語彙と文法を身につけるためには、辞書をまめに引いて難しい英文テキストを和訳するという従来のやり方が最善なのだ、と考える先生方が(特に高校において)多いわけです。この考えが100%間違いだとは言えません。少なくとも前半の「その基本となる語彙と文法の学習がまず必要である」という部分については、異議をとなえる人はほとんどないと思われます。知らない単語がいくつも出てくる文章を理解することが難しいのは、万人の経験するところだからです。また、文章の中でそれぞれの語が他の語とどのような繋がりをもっているか、そして文章全体がどういう構造をしているかを知る文法知識がなければ、その文章の意味を正しく解釈することはできません。これも万人の経験するところです。こうして語彙や文法に関する問題が英語学習の重要な課題となりますので、どのような語彙をどうのようにして習得したらよいのか、またどのような文法をどのように学んだらよいのかについては、いずれ章を改めて考察するつもりでいます。

 ここで問題として取り上げたいのは、先の陳述の後半「語彙と文法を身につけるためには、辞書をまめに引いて難しい英文テキストを和訳するという従来のやり方が最善である」という部分です。本当にそうなのでしょうか。「訳読」と呼ばれるこの教授法・学習法は、明治以来の学校教育の中で培われてきたものであり、その有効性が証明されていると主張する人は数多くいます。しかし他方では、日本の英語教育がいつまでたってもコミュニケーションの役に立たないのは訳読のせいだ、「訳読」は「訳毒」だと反論する人もいます。どちらが本当でしょうか。

 訳読を擁護する人々の代表として、ここで斎藤兆史(よしふみ)氏(『英語達人列伝』、『日本人と英語』の著者)に登場していただきます。昨年、彼は新聞のインタービュー記事に登場し(朝日新聞「オピニオン欄」2009年8月1日)、記者の「中学・高校でどういう英語を教えるべきだと考えていますか」という質問に答えています。彼は言います。「基本です。生徒たちが将来、自分の目的や動機に応じて学習を積み上げていくための、土台を作ることに徹底すべきです」と。この点は私たちの考え方と完全に一致していますから、斎藤氏は私たちとそんなに遠くないところに立っていることが分かります。しかし問題としたいのは次の発言です。「具体的には?」の記者の問いに対して、斎藤氏は「文法をきちんと教え、英文を正確に読めるようにする。話せることを急いで求めてはいけません。文法と訳読の基本を身につけておけば、会話力も高度な運用力も、自分で伸ばしていくことができます」と答えています。この文法訳読方式の弁護が斎藤氏の口のすべりでないことは、彼がそのすぐ後で「日本人が明治から現在まで、話したり聞いたりするのは下手なのに、なぜ文学作品や自然科学の論文など知的に高度な英語を読めると思いますか。これは訳読という優れたシステムのおかげです」と述べていることから明らかです。このコラムはきっと文法訳読方式を信奉する多くの高校の先生方を喜ばせたことでしょう。

 斎藤氏が訳読を支持する理由が私たちに分からないわけではありません。私たちは日本語を母語とする日本人ですから、英語の学習から日本語を完全に排除することはできません。英語を習っていきなり英語でものを考えるようにはなれませんから、英文の理解に日本語の助けはある程度仕方のないことです。カントやヘーゲルの哲学書は日本語訳でも速読はできないでしょう。精読して、日本語でじっくり考えながら読むことになるでしょう。それをドイツ語や英語で読んで精読するときにはどうでしょうか。訳すか訳さないかはドイツ語や英語にどれだけ習熟しているかによりますが、書かれたものについて考えるときにはたぶん日本語を使うでしょう。母語というのは思考と深く結びついているものです。斎藤氏の考えは、英語を訳読しながら日本語で深く思考することが明治以来の日本人の教養に寄与したということです。そういう読み方(訳読)が今もあってよいと言うのならば、それはその通りだと思います。しかし、それは思想家や哲学者や翻訳家を志す人には必要なことであっても、英語を道具として使おうとする現代の一般日本人にあてはまるのでしょうか。私たちは、文法訳読方式は以下に述べるいくつかの理由から、現代の学校ではもはや機能しなくなっていると考えます。(To be continued.)