Archive for 1月, 2014

「英語の賢い学び方」のシリーズの最初に聖書のことば(エペソ5:15-16)を引き、その中の「今は悪い時代なのだから」という一句に読者の注意をうながしました。実際に、私たちの英語学習にもこのことばがそのまま通用します。英語を学ぶ者にとって、今はまことに悪い時代です。ここでは今がどのように悪い時代なのかを認識し、それにどう対処して賢い学びを続けることができるかを考えます。

これまで幾度も繰り返したように、学校の授業に真面目に出席し、先生の指示に従って教科書を学んだだけでは英語を自由に使えるようにはなりません。せいぜい英語という言語の構造がどのようになっているのかを知り、2,000か3,000の単語を覚えるところまでです。実用的な価値としては、英字新聞の見出しや、外国製品に書いてあるレシピや注意書きを、辞書を引いてかろうじて意味が取れるくらいのところでしょう。ネイティブ・スピーカーの言語使用能力など、及びもつきません。この現実を筆者は全面的に肯定するわけではありませんし、改善の余地は多く残されています。しかし基本的にはそういうことなのです。

まず、英語は日本人にとって外国語なのですから、この現実は当然のこととして受け入れるべきです。そこから始めなければ改善は望めません。私たちは日本に住んでいる限り、日本語だけでほとんど何も不自由しません。大学の講義も、特別な科目を除いてほとんどの科目が日本語でなされ、多くの学科は卒業までそれですませることができます。最先端の科学でさえもほぼ日本語で学ぶことができます。自分たちの母語でこのようなことができる国は世界には多くはないのですから、これは誇ってよいことなのです。

しかし世の中の多くの人々はそのようには考えません。英語を何年も学んだのに全然使い物にならないのは、学校教育のせいだと考えるのです。特に、外国との交渉を常に必要とする経済界の人たちの声が大きいようです。日本の英語教育をなんとかしなければ国は潰れてしまう、と政府に圧力をかけます。それが学習指導要領の「コミュニケーション」のための英語教育や、小学校への英語教育の導入となって現れているわけです。国民の大部分を占める普通の日本人にとっては、これは迷惑千万な事態です。

たしかに、日本はこれまでよりも多くの英語の使い手を必要としています。しかしそれは、外国語としての英語教育では対応しきれないものです。そういう英語の使い手を国内の学校教育で育成するのは困難なのです。そのような人はどこかの段階で留学して、第2言語としての英語を身につける必要があります。近年、そのような目的で高校や大学レベルで英語に堪能な国際人を育てる教育機関が日本でも設立しつつあります。それはそれで結構なことです。ただし、そういう人は国民の一部、おそらく全人口の数パーセントでしょう。

このような事態で文科省がなすべきことは、見込みのある留学希望者に経済的補助をして、彼らがお金の心配をしないで学べる環境を整えることです。かつて英語教育に論争をもたたした「平泉試案」には、英語のネイティブ・スピーカーと対等に議論ができるだけの英語力を身につけた日本人は、国民の5%でよいと書いてありました。当時はそのくらいでよかったのかもしれませんが、あれから40年後の今日ではその数はずっと増えているでしょう。いずれにしろ、その数は国民の一部です。その人たちを特にエリートと呼ぶ必要はありません。彼らは英語が得意で、将来それを使ってキャリアを積み上げたいと考えている人たちなのです。

ではその人たちを除いた90%くらいの一般学習者はどうしたらよいでしょうか。教育行政はそういう学習者のことを第一に考えるべきなのに、それは財界や文科省の視野には入っていないようです。最近の学習指導要領がそのことを端的に表わしています。その考え方は、大部分の生徒を犠牲にしても、数パーセントのエリートを選別しようとする教育です。文科省は公式にはそれを否定するでしょうが、学習指導要領をじっくり読むと、その意図が透けて見えます。この事態が現在の英語教育に混乱をもたらしているのです。

こういう混乱した学習環境の中で英語を学ぶ一般の生徒たちは警戒しなくてはなりません。「今は悪い時代」なのですから。そういう悪い時代に生きるものとして各自が考え、自分に与えられた時間を賢く利用することが必要なのです。

現代の外国語教育は、世界的に、「コミュニケーションのため」という目標が強調されています。わが国の学習指導要領「外国語(英語)」の目標には、「コミュニケーション」というカタカナ語が2度も出ています。すなわち、「外国語を通じて、言語や文化に対する理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う。」(中学校)というものです。高校の学習指導要領では前半は同じで、最後の個所が「情報や考えなどを的確に理解したり適切に伝えたりするコミュニケーション能力を養う。」となっています。

これは学習者にとって幸せなことでしょうか。むしろ不幸な事態ではないでしょうか。なぜなら、外国語を学ぶ目的はいろいろあってよいはずなのに、コミュニケーション能力だけが突出して強調されているからです。そして学習者の評価は、もっぱら「コミュニケーション能力」の習熟程度を測定するテストによってなされます。そこでは聞くこと・話すこと・読むこと・書くことの能力をどこまで身につけているかが問題とされます。いわゆる「能力主義」です。まるで英語を実際に使うこと以外に学ぶ目的は考えられないかのようです。

学習指導要領は「言語や文化に対する理解」や、「コミュニケーションを図ろうとする態度」も挙げています。しかしそのような理解力や態度は評価方法が難しいという理由で、教育現場ではほとんど取り上げられません。現実には、それらはコミュニケーション能力を高めることを強調するための修飾的な「まくら言葉」になっています。言語技能の習熟を重視する能力主義は必然的に、教える側の設定コースから外れてしまう生徒たちを、学年が進むにつれて増やし続けます。学校は彼らを「落ちこぼれ」(failures)として扱い、ほとんど面倒を見ません。時には邪魔者扱いさえします。最近は小学校から英語指導が始まったために、中学校に入学した時点ですでに英語嫌いになっている生徒がかなりいると言われています。

英語を学び始めた生徒たちは、物珍しさも手伝って、最初は学校の設定するコースから外れないように、ひたすら先生の言う通りに学ぼうとする従順な生徒たちです。彼らの多くは頑張ろうとします。しかしそれでも落ちこぼれを防ぐことはできません。なぜなら、能力主義は必然的に落ちこぼれを作り出すシステムだからです。その証拠に、中学卒業時には多数の(通常半数くらいの)生徒が所定のコースから落ちこぼれてしまうと言われています。しかし彼らの中にも、「私は外国の○○の文化に興味がある」とか、「僕はいろいろな国の人とメール友だちになりたい」というような生徒がいるはずです。そういう生徒の指導に熱心な先生もないわけではありませんが、それを期待できない生徒たちは途方にくれてしまいます。以下はその人たちへのアドバイスです。

(1)学校では「コミュニケーション」ということが強調されますが、英語学習の目的はそれだけではないと気づくことが重要です。テストではほとんど常に英語のリスニングやリーディングの達成度や習熟度が問題にされます。しかしそれらの技能テストは、あなたが現在持っている英語力のほんの一部に関係するだけです。学校のテストだけでなく、外部のテストや入試テストもすべてそうです。実は、あなたの本当の英語力はそのようなテストでは測れるものではないのです。テストの結果は無視できないでしょうが、失敗したからと言って失望しないでください。真面目に努力すれば、あなたの中には以下に述べるような潜在的な英語力が着々と蓄積されているのですから。

(2)英語を学ぶことによって、日本語と英語のいろいろな違いに気づきます。たとえば、英語を始めてすぐに、日本語では自分のことを「わたし」、「わたくし」、「ぼく」、「おれ」、「わし」など、いろいろな言い方があるのに対して、英語の1人称は常に、男も女も、子どもも若者も老人も、すべてIの1語だけだということに気づいて驚くはずです。もしあなたが柔軟な心で英語の授業にのぞむならば、それは驚異的な「気づき」の連続なのです。そういう感動があなたの心を動かし、それがあなたの脳の中に知識として蓄積されていきます。しかしそういう大切な言語知識は、テストで試されることはほとんどありません。

(3)あなたは現在、英語を学ぶ目的をはっきりと意識していないかもしれません。中学生や高校生ではそれはむしろ普通のことです。多くの生徒にとって「英語はいつか必要になるかもしれないが、どのような必要が生じるのかはまだわからない」というのが本当のところでしょう。しかし目的がはっきりしなければ、学習の真剣さは失われます。そこで最初に英語学習の目的を捜しましょう。たとえば、学校で紹介されたアメリカの姉妹校の生徒とメールを始めようと決心します。そうしたら毎週英語でメールをしてみます。最初は2,3行でも、だんだんと長く書けるようになります。メールばかりしていて学校の勉強がおろそかになるかもしれません。でもそれはたぶん一時的なものですから心配は無用です。英語で文章を書くことの楽しみをものにできたら、学校のテストで良い点をもらうよりもずっと価値のあることです。

(4)目的が見つからなくてもあせらないでください。いつか必ず見つかります。ただいつも捜し求めてください。自分のキャリア(career生涯の仕事)にかかわるような大きな目的でなくてもよろしい。昨年使った教科書を毎日1課ずつ数回音読するとか、その教科書の単語をできるだけ沢山覚えるとか、当面の目的(または目標)でけっこうです。日本人の多くが学校で習った英語はつまらなかったと言いますが、たいていの場合、それは学生時代に学習の目的を捜すことなく漫然と授業を受けていたことが原因です。そして大学を卒業する頃になって、英語をもっとやっておけばよかったと後悔するのです。

(5)しかし学生時代を漫然と過ごした人でも、学習目的を見つけ出した人はそこから再スタートすることができます。たとえ学生時代に落ちこぼれた人であっても、再学習は可能です。なぜなら、学習の痕跡は必ず残っているからです。たとい英語技能のテストの点数は低くても、一時的にも英語学習に取り組んだ経験は、かならず再学習に活かすことができるからです。6年以上も英語を学んで何も覚えていないということは考えられません。

(6)大学に入学してきてbe動詞の使い方を知らない学生がいると嘆いている先生がいました。きっとその学生はそれまで英語の学習に真剣に取り組んだことが一度もなかったのでしょう。そういう学生でも、もし自分の学習目的を捜しあてることができれば、再学習は可能だと思います。その大学の先生に筆者が申し上げたのは、その学生に再学習の意志があれば個人教授を受けるよう勧めること、または英語以外の学びやすい外国語(たとえば韓国語)を学ばせることでした。英語だけが外国語ではありません。英語に落ちこぼれても他の言語の習得に成功した例は、筆者の知る限りでも枚挙にいとまがありません。

(182) 人権大国への道

Author: 松山 薫

< 人権大国への道 >

 所与の条件 

① 激減する日本の人口と世界の人口爆発

 日本は1968年、つまり、今からほぼ半世紀前、当時の西ドイツを抜いて、アメリカに次ぐGNP世界第二の経済大国になった。この年、年率10%を超える高度経済成長のシンボルとして、日本最初の超高層建築「霞ヶ関ビル」が完成した。新橋駅から内幸町のNHKへ通っていた私も、日々このビルを仰ぎながら、戦後の焼け野原を知る者として、よくぞここまで来たものだと率直に嬉しかった。

 50年後の今日もなお、大国であり続けたいという願いが、自民、維新のような復古調の政党のみでなく、国民の間にもあることは否定できない。しかし、大国の定義が従来のように、巨大な人口や広大な領土、膨大な資源や工業力、それに軍事力の、ひとつ或いはいくつかを持つ国という意味であれば、日本が大国であり続けることは事実上不可能である。イギリスのエコノミスト誌による「2050年の世界の予測」によると、世界のGDPに占める日本の割合は現在の6%弱から2%弱になる。エコノミストは、その時のGDP大国は中国が1位でアメリカが2位と予測している。中国のGDPは2010年に日本を抜き、その後僅3年で日本の倍に達した。2013年には、年間貿易額でアメリカを追い抜いた。

 日本が経済大国から滑り落ちる最大の理由は人口の激減である。厚生労働省の調査によると日本の人口は2013年3月末、1億2千8百37万人で前年比 27万人減 内 死亡から出産を引いた自然減は24万4千人で過去最多。死亡数は高齢化で1万9千人増えて127万5千人、出生数は子供を産む年齢の女性が減っているため6千人減の103万1000人となっている。人口減少は2007年から7年連続で、ペースは年々加速している。

 日本の総人口の将来予測(中位推計)によると、2020年には2010年より400万人減の1億2千400万人、30年には700万人減の1億1千7百万人、40年には1千万人へって1億700万人になり、その後は10年ごとに1千万人ずつ減っていく。2100年
つまり、今年生まれた子供達が後期高齢者になる頃の推計人口は3700万人で、現在の3分の1に満たず、明治初期の頃の日本、現在のポーランドより少なく、人口順位では現在の10位から36位になる。GDPは全国民が年間に生み出す財貨の総量であるから、GDP大国よもう一度というのは見果てぬ夢となる。

 さらに問題なのは人口の高齢化である。現在の平均寿命は男79歳、女86歳で、90歳以上は100万人を超え、人生90年時代が近づきつつあり、日本は今後数十年で世界に類を見ない超高齢社会になる。人口減の中の超高齢化は、生産人口の割合の激減を意味する。現在の年金制度をはじめ医療、介護、育児などの社会保障制度は早晩破綻するだろう。
 また、人口の都市集中も重大問題だ。人口の50.8%が3大都市圏に集中している。「地域別将来人口推計」(国立社会保障・人口問題研究所)によると、2040年の人口はすべての都道府県で2010年を下回り、20%以上減少が約70%、65歳以上の人口は半数を占める自治体が40%を占める。一方0歳から14歳の人口が一割に満たない自治体が60%に達するとしている。現在のような経済成長優先を続けて行く限り、都市への人口集中はやまない。地方では食えない若者が東京や3大都市圏に吸い寄せられるが、結婚も出来ない低賃金で働かされる結果、出生率はさらに低下する。2013年の総理府統計局の資料によると、東京の出生率は1.06で全国平均(1.35)よりはるかに低く、全都道府県中最低になっている。

 日本の出生率が急激に減少した原因の
第1は出産適齢期の女性の急激な減少(中央公論2013−12月号 壊死する地方都市)   
第2は若者の都市集中と低賃金(同上)
第3は子供を養育する為の費用の増大(人口減少社会の設計 中公新書)
で、出生率は一旦減りだすと元へ戻すには数十年かかるという。

 一方、国連の推計によると、世界の人口は現在71億人程度となっているが、50年後には100億人を超える。増加の大部分はアフリカで、2100年に人口が2億人以上の11カ国の内6カ国がアフリカの国である。このことが、世界の食糧危機を生む要因になる。アジアでは逆に1人っ子政策の中国をはじめ、韓国、シンガポール、ベトナム、タイなどで出生率が急激に下がっており、人口が減少し、高齢化が急速に進む国が多い。安倍政権や経済界などがもくろむ「アジアの成長を取り込んで日本が成長する」というわけにはいかないだろう。

 そこで考えられているのが外国人単純労働者の導入計画であり、中には、1200万人必要だとする試算もある。しかし、外国人労働者を大量に雇用した結果起きる国内摩擦は、フランスやスペイン、最近ではサウジアラビアでは大規模な暴動にまで発展した。前々から移民を受け入れている国でさえそうである。国際難民さえ、ごく少数しか受け入れたことがなく、中国の若者を研修生の名目で酷使したり、韓国人に対するヘイトスピーチが全国に蔓延するようなこの国の現状を考えると、1200万人の外国人労働者を受け入れてうまくやっていけるなどとは到底考えられない。1990年に入国管理法を改正して日系ブラジル人らの入国・滞在の緩和を図った結果、30万人が来日した。それから4半世紀、群馬県大泉町では、現在日系人が町の人口(6万)の6分の1近くを占め、自動車メーカーの下請け工場などで臨時工として働いているが、町長は今なお問題が山積していると語っている。人口が8千万になったとき、1200万人の外国人労働者を受け入れれば、ちょうど今の大泉町と同じ人口比になる。

 私は、20カ国100人以上の外国人スタッフがいるNHK国際局で働き、仕事上で多くの外国人と接しながら、友人として付き合えた外国人は二人しかいなかった。同僚の大半は、外国人スタッフと仕事以外で交流したことがなかったのではないかと思う。英語で意思疎通が出来る日本人でさえそうである。外国人と深く付き合うには、それなりの覚悟と準備が必要であり、それを怠れば、重大な摩擦を生んでしまうことになりかねない。特に言葉の問題は、大泉町でも最大の障害となっている。外国人に低賃金の単純労働を不安定な労働条件で押し付けるという発想では、やがて不満が爆発するのは自然の成り行きだろう。

 田中角栄が首相であった頃よく「この狭くて資源もない日本列島で1億人が食っていくというのはたいへんなことなんだよ」と言っていたが、彼は、だからみんな一生懸命働けと言いたかったのだろう。だが、待てよ、何故この狭く資源もない国に1億人もの人口が必要なのかと考える人もいるだろう。

 日本プロパー(除く植民地、委任統治領)の人口は、江戸時代の中期に農耕技術の進歩や開墾によって3千万人を超え、明治維新の頃は3千3百万人程度だった。それが、明治から昭和にかけての富国強兵政策に伴って80年足らずのうちに2倍半にも増え、太平洋戦争時には8千4百万人に達した。戦争遂行のための“産めよ、増やせよ”政策の“成果”であった。私の母親は8人の子供を産んだ。6人が男子だったので”軍国の母”ともてはやされたが、出産の負担で心臓が肥大し、それが肝臓を圧迫して肝臓ガンを患い若くして死んだ。軍国主義の犠牲者は、靖国神社に祀られている人達だけではない。

 ところで、日本軍の総兵力は敗戦の年の1945年5月には、いわゆる”根こそぎ動員”によって19歳から44歳までの男子が召集され740万に膨れ上がっていた。敗戦によってこれらの青・壮年男子が次々に復員して第1次ベビーブームが起きた。これらの人達とベビーブーマー、さらにその子供の第2次ベビーブーマー達が、いわゆる奇跡の復興と経済成長を質・量ともに支えたのである。しかし、奇跡は二度は起こらない。

 人口減少を度外視した「成長戦略」は、短期的にはともかく、中・長期的には成り立たないばかりでなく、短期的な利益の追求に走ることによって、国の債務が1000兆円を超えるなど、中・長期的な社会の持続可能性が損なわれるとにもなりかねないのであって、この国の将来のかたちを考えるに当たっては、深刻化する人口問題を不可欠の前提としなければならないと私は考えている。(M)

では英語以外に、世界の数千の言語の中からどの外国語を選んだらよいでしょうか。やはり世界で広く通用する言語がよいでしょうか。母語と英語は自分の意志では選べませんが、次の言語は自分で選べるようにしたいものです。先週末(1月18日、19日)に行われた大学入試センター試験の問題を見ていて、英語第2問のCに目がとまりました。その問題文は、アメリカのある高校での、外国語教育についての教師たちの議論でした。その高校では現在フランス語とスペイン語が教えられていますが、今後もそれでよいのかどうかという議論です。そこには次の4種類の意見が出されています。

(1)英語はもはや世界語(global language)になっているのだから、英語母語話者が外国語を学ぶ必要はなくなっている。

(2)外国語学習によって他の地域の人々の習慣や価値観を知ることができ、その知識はビジネスに役立つ。現在は中国経済の成長が著しく、中国語の母語話者は他のどの言語よりも多いので、中国語を外国語科目に加えるべきだ。

(3)これまで通りフランス語とスペイン語がよい。これらは英語と同じ語系の言語なので、学ぶのが比較的に容易だ。中国語は漢字の学習が難しく、その学習に何年もかかる。

(4)外国語を学ぶことによって自分の母語やその文化を意識するようになる。そうでないと私たちは言葉の使用を深く考えることがない。外国語を学ぶことを通して、多面的に物事を見ることができるようになる。

読者の皆さんはどの意見に賛成なさいますか。(1)の意見はおそらく多くの英語母語話者が持っているもので、私たち非英語母語話者からすると尊大な考え方です。英語だけが言語ではない!と直ちに反撃したくなります。これはいわゆる「英語帝国主義」(English imperialism)に通じる考え方です。これに対して(2)は、ビジネスなど現代社会のさまざまな仕事を有利に遂行するために外国語の知識が不可欠だという実用主義の考えです。そしてこれが現代の多くの人々の英語学習の目的になっています。実用を優先して考えることになりますから、アメリカ人にとっては中国語がいちばん有用だということになります。日本人にとっても英語の次は中国語ということになるでしょう。

これに対して実用だけで外国語科目を選択することの危険性が(3)で指摘されます。いわゆる「言語距離」(language distance)の問題です。英語、フランス語、スペイン語などは同じ「印欧語族」(Indo-European family)に属する言語なのでアメリカ人には学びやすい、しかし中国語は違う、というわけです。特に文字の学習が難しい。中国語を読めるようになるためには漢字を覚える必要があるからです。少なくとも3,000から4,000の漢字を覚えなくてはならない。これは非漢字圏の学習者にとっては非常に難しいことです。日本語は中国語とは違う系統の言語ですが、同じ漢字圏に属しているので、中国語の漢字学習は比較的に容易です。ですから日本人にとっては、英語よりも中国語のほうがずっと学びやすいと言われています。このようにアメリカ人にとって中国語や日本語が学びにくい言語であるように、私たち日本人にとっては英語が最高に難しい言語の一つであることは間違いありません。

では学習の難しい言語は避けるべきでしょうか。そんなことはありません。ただ難しい言語(言語距離が大きい言語)に挑戦するときには、それ相当の情熱と根気が必要であることを覚悟しなければなりません。これまで多くの日本人が何年も英語を教えられたにもかかわらず修得に至らなかったことは、それに必要なだけの情熱と根気に欠けていたことを裏づけています。では中途半端な言語学習はまったく意味がないのでしょうか。言語がコミュニケーションの道具に過ぎないと考えている人たちにとっては、それは無意味な学習だと言うでしょう。しかしほんとうに無意味でしょうか。次の意見がその回答を示唆しています(このセンター試験問題の議論はなかなか良くできています)。

(4)の意見は外国語学習の目的として非常に説得力のある意見です。それはこの議論に加わっていた教師たち全員の賛同を得ているように思われます。つまり、外国語を学ぶことによって、物事を違った面からいろいろと考えることができるようになるというのです。筆者もこの考え方に賛同します。他の言語を学ぶことは、すなわち物事の新しい見方を学ぶことなのです。見方を変えれば、物事の違った側面が見えてくるのです。自分の母語とは異なる言語に取り組むことによって、自分が無自覚的に使っている自国の言語や文化の異なる面に気づき、よりよい言語の使用が可能になります。「他の言語を知らない人は自分の言語を知らない」というのはこのことです。(To be continued.)

私たち日本人はなぜ英語を学ぶのでしょうか。学校の必修科目だからでしょうか。それとも私たちはみな英語を必要としているからでしょうか。必要だとすればどんな必要があるのでしょうか。まず、最初の必修科目ということについて考えてみます。

日本の中学校では英語が必修科目になっています。高校は制度としては選択科目ですが、実質的には必修です。高校に入って英語は学びたくないと言い張っても、ふつうは許されません。加えて、最近の文科省の発表によれば、小学校5・6年生で現在行われている「外国語活動」が数年後には必修教科になるそうです。「外国語」は実質的に「英語」になるでしょう。そこでは学ぶ子どもたちに選択の余地はありません。好むと好まざるとにかかわらず、英語は小学校から必修科目となります。もっとも、小学生や中学生に英語を学ぶかどうかを選択させるのは無理かもしれません。必修でよいという考え方もあります。しかしなぜ英語なのでしょうか。他の外国語ではいけないのでしょうか。

これを正当化する議論は、英語は今や国際語であり、ますますグローバル化しつつある世界においていわばリンガフランカ(共通語)の役目を果たしているというのです。これからの日本人は、少なくとも英語は使えるようになることが必須だという考えです。たしかに英語をまったく知らないと不便なことがあるでしょう。しかし一方では、前回にも述べたように、世界のすべての人々が英語を使えるわけではないのだから、英語以外の言語を学ぶ人がもっとあってよい、否、あるべきだという考えもあります。筆者も後者に与します。英語だけが外国語ではないのです。

ここで世界の大言語と言われるものをしらべてみましょう。「大言語」とは母語話者人口が大きい言語のことで、必ずしも重要度が高いということではありません。人口の大きい順に10までの言語を挙げると次のようです(人口はウィキペディアによる推計値)。

①中国語:13億7000万、②英語:5億3000万、③ヒンディー語:4億9000万、④スペイン語:4億2000万、⑤アラビア語:2億3000万、⑥ベンガル語:2億2000万、⑦ポルトガル語:2億1500万、⑧ロシア語:1億6000万、⑨日本語:1億2500万、⑩ドイツ語:1億0500万。

いかがでしょうか。このようなリストを初めて見た方は、ヒンディー語やベンガル語などあまり耳にしたことのない言語名に驚かれるかもしれません。また、「おやフランス語がない」と不思議に思われる方もいらっしゃるかもしれませんね。大学でフランス語を第2外国語として学んだ方も少なくないでしょうから。残念ながらフランス語の母語人口は約7000万で、10番までには入らないのです。ドイツ語がかろうじて10番に入ったのは幸運でした。

さてこのように、英語以外にも大きな母語人口を抱えている言語が多数あるにもかかわらず、日本の外国語教育はいつまでも英語一辺倒です。本当にそれでよいのでしょうか。文科省は英語以外の外国語を完全に無視しているわけではないようです。高等学校学習指導要領の総則には、必要に応じて「学校設定科目」を設けることができることになっていて、実際に中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語などの外国語科目を設定している高校もあります。しかしその数はきわめて少なく、文科省が英語以外の外国語教育を積極的に進めているとはとても思えません。

わが国の小学校・中学校・高校における外国語教育が英語だけに偏り、他の外国語がほとんど無視されている状況は、学習者にとってまことに不幸な状況と言わざるを得ません。これからの世界を生きる子どもたちには、英語以外の外国語を学ぶ権利があります。目を広く世界に向ければ、私たちはそこに多くの言語が存在し、それぞれの言語を使って生活を営んでいる人々がいることを知ることができます。小学校・中学校での教育では、全科目の指導を通じて、そういう事実に目を開かせるべきです。そして、少なくともアジアの近隣諸国の言語のいくつか(中国語、韓国・朝鮮語など)は、第1外国語または第2外国語として、遅くとも高校からは学べるようにしたいものです。大学からは、現在もさまざまな言語を学ぶことができますが、その量と質は必ずしも十分ではありません。国公立の外国語大学が東京外国語大学と神戸市外国語大学の2つだけというのはお粗末ではないでしょうか。他に外国語学部を置いている大学もありますが、国公立の大学では数校に留まっています。これは学生の需要が少ないということが原因となっているのでしょう。しかしその原因を作っているのは、高校での英語一辺倒にあると考えられます。

まだ検討すべき問題はありますが、ここで一応の結論を述べます。小学校・中学校がさまざまな事情から外国語として英語だけを取り上げることについては、現状では致し方のないこととして容認することにします。しかし高校においても外国語科目が英語一辺倒というのは、学習者にとって非常に不幸なことです。これから世界で活躍する若者たちの可能性を減じるからです。これは国家のためにもなりません。そういうわけで、中学生・高校生・大学生の若い方々に特にお願いします。現在の学校における外国語教育が必ずしも万全ではないこと、英語以外にも学ぶべき言語がたくさんあることを知ってください。そして英語以外にもう一つ別の外国語を学ぶとすれば何を選ぶかを考えてみてください。広く世界を知るために、ときどき世界地図を拡げてながめてみるとよいでしょう。すると見たことも聞いたこともない土地や国の名前がたくさんあることを発見するはずです。そしてそれぞれの土地や国で、どんな人々がどんな言語を使って、どんな生活をしているのかを想像してみてください。想像するための資料をインターネットや図書館でしらべてみるとよいでしょう。なかなか見つからないかもしれません。しかしその探索は、きっとわくわくするような知的な冒険となるでしょう。(To be continued.)

(番外) < 日韓・日中関係の古代史 >      
 土屋澄男さんが今週のブログで外国語学習の面から日韓・日中関係について触れていたので、私も一言書きたくなった。私は古代史のファン(実はセミ・プロと自認)なので、その面から両国との関係について感想を述べたい。

 私が戦後間もなく古代史に関心を持つようになったきっかけは、津田左右吉博士が、それまで秘密のベールに包まれていた「壬申の乱」について書いた文章を読んだことだった。「壬申の乱」は「乙巳の変」と「大化の改新」で知られる天智天皇の嫡子大友の皇子と、天皇の弟とされる後の天武天皇、大海人の皇子による天智の後継争いで、日本の古代史上最大の内乱であったが、天皇家の骨肉の争いであったため、戦前・戦中は、伏せられていたのである。

 日本の古代史が史実と結びつくようになるのは、一説では第26代の継体天皇の頃からとされるが、この天皇は北のほうから来たというだけで、出自は明らかでない。継体天皇の即位や後継者をめぐって豪族間の争いが激しくなり、渡来人(主として朝鮮民族)説のある蘇我氏と祭祀・軍事部族である大友・物部氏の勢力が台頭したが、やがて蘇我氏が稲目、馬子の時代に天皇家の外戚になって勢力を伸ばした。「乙巳の変」で蘇我の蝦夷が成敗された後も、傍系の蘇我の石川麻呂が娘を天智天皇の妃に入れ、生まれた娘を大海人の皇子に嫁がせている。後の天武天皇と持統天皇である。天武天皇は実質的に天皇制を確立した人物だが、記紀には青年時代になって突然現れるので、出自がハッキリしないという説もある、また、持統天皇から10代後の桓武天皇について平成13年のサッカーW杯日韓共同主催の際、天皇が記者会見で「桓武天皇の生母が(百済の)武寧王の子孫であると『続日本紀』に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と述べたことがあり、そういうところに「日鮮(日韓)同祖論」や「騎馬民族征服王朝説」が生まれる素地があるのではないかと思う。

 さらに、考古学の分野でも最近日本と朝鮮半島の結びつきが改めて注目されている。日本独特のものといわれてきた前方後円墳が韓国で発見されたからだ。一方出雲を中心に山陰から北陸にかけては300基近い“四隅突出型古墳”が存在しているが、北朝鮮の鴨緑江付近に同形の墳丘墓があることが知られている。

 ところで、昨年は、伊勢神宮と出雲大社の遷宮が同じ年に重なって話題を呼んだ。古事記や日本書紀には、出雲大社の祭神大国主系の豪族が、伊勢神宮の祭神天照系の豪族に国を譲ったという話がある。この話には色々な学説(というより憶測)があるが、私の憶測では、出雲に土着していた縄文系の豪族が、高天原から降りてきた、つまり海を渡って日本に稲作をもたらした弥生系の豪族に、それぞれの代表選手の力比べ、つまり武力抗争で破れて、出雲大社の建立を条件に、体よく土地を奪われたのではないかと考えている。最近の研究では、記紀で神話とされる物語が、実は古代の事実と結びついていることが多いというが、日本最初の青史である日本書紀の編纂そのものにも渡来人が深くかかわっていたと考えられている。

 一方、古代史における中国と日本の関係については、いわゆる「魏志倭人伝」の稀覯性が特筆される。「魏書」の「東夷伝倭人条」は、全文で2千字足らず、史料としての価値に疑問を呈する人もいるし、訳文や訳語にも色々あって議論は百花争鳴だが、なにしろ古墳時代以前の日本の様子をかいま見ることの出来る唯一のまとまった文献資料なのだから、私も訳文をなめるように読んだ。当時の日本の状況を簡潔に描いて極めて興味深い。中でも女王卑弥呼が治めた邪馬台国の比定は、古代史最大のロマンであり、候補地は何十ヶ所もあるが、九州説と畿内説が有力である。私は、朝鮮半島との関係から九州説に傾いている。

 もう一つ中国との関係では、秦の始皇帝が“不老不死の妙薬”を求めて東方へ派遣したという徐福の伝説が興味深い。これは、縄文時代の終わり頃の話だから「倭人伝」よりさらに古い。徐福は3千人の若者らとともに、多分、”妙薬”探しではなく、新しい国づくりを目指して船出し、ついに中国へ帰ることはなかった。徐福は中国でも長く伝説の人であったが1982年に、江蘇省徐福村に生まれた実在の人物であることが分かり、東方へ出帆した遼東半島でもその時代の造船所の跡が発見された。徐福がどこへ着いたのかは定かではないが、徐福を祭る神社は日本全国に散在しており、日本にコメ作りを伝えたのは徐福ではないかという説もあるし、徐福神武天皇説というのもある。

 私は、古代史を通じて、朝鮮や中国に親近感を抱いているためか、韓国や中国の歴史ドラマのファンでもあり、「イ・サン」をはじめ「トンイ」や「馬医」それに「宮廷の諍い女(め)」などを視力減退を心配しながらも延々と見ている。史実とは異なるであろうが、底の浅い日本のTVドラマよりはるかに面白く、仏教や儒教に支えられた人間群像の織り成す波乱万丈の物語に感動を与えられる。日曜大工でもある私は特に韓国ドラの宮廷に現れる調度品に目を奪われる。中国のそれのように華美ではなく、日本のもののように簡素でもなく、そのちょうど中間的な美しさがある。やはりそれには、地理的、歴史的な3国のかかわりがあるように思われ、中・韓・日3国の長く、深い結びつきを感ずるのである。

なお、現在の日中・日韓関係についての私見は、「人権大国への道」の中で述べたいと考えている。(M)

 

 

 

英語を学んで筆者がいちばん良かったと思うことは、英語を通して心の世界を広げることができたことです。英語を使って直接コミュニケーションできる範囲は限られています。しかし新しい言語を知ることによって、私の心は無限のかなたに広がります。もし英語を知らなかったとしても、私は私なりに、小さな世界を生きることはできたでしょう。しかし私の心は日本の中の芥子粒ほどの小さな世界に閉じ込められて、そこから決して外にはみ出さないように用心しながら、注意深く生きなければならなかったでしょう。それはそれで価値ある人生ではあったかもしれません。しかしより大きな世界の存在に気づいた今は、そのような人生を過ごしたいとは思いません。ましてこれからの世界を生きる人々は、そういう小さな人生を自らの意志で選択する自由を持ってはいても、実際にそうする人は少ないのではないでしょうか。

今や私たちは世界中から情報を瞬時に得ることのできる時代になりました。インたタ—ネットを使えば、世界中から様々な情報が直ちに入ってきます。それらの情報の多くは誰かが日本語に翻訳してくれるので、日本語でもおよそのことは知ることができます。しかしそれらはあくまで翻訳による二次的な資料ですから、真偽のほどは確かではありません。翻訳には必ず翻訳する人の解釈が反映されるからです。

翻訳が二次資料にすぎない例を挙げます。安部首相が昨年末に靖国神社を参拝して中国や韓国を怒らせました。安部さんはそのことを承知の上で実行したのでしょう。しかし彼の行動は同盟国と考えている国をも怒らせました。米国は “disappointed” という語で安部さんの取った行動を公式に批判したのです。安部さんはそのことまでは想定していなかったのでしょう。この英語は日本語では「失望した」と訳されますが、それは「期待していたことが裏切られた」という気持ちを含意する強い非難を表わす言葉なのです。筆者はこの語を聞いてすぐに辞書にあった次の例文を思い浮かべました。

I’m disappointed in you – I really thought I could trust you.(Oxford Advanced Learner’s Dictionary

安部さんは米国のこのコメントを重大なこととは考えていないのかもしれません。しかし米国政府に与えたこの失望感と不信感は、おそらく当分の間(たぶん安部政権が続く間)消えはしないでしょう。英語の “disappointed” は日本語の「失望した」や「がっかりした」という一時的な感情よりも、ずっと深刻な感情を表わす語なのです。

心の世界を広げるためには、自分の心を広く世界に開放しなくてはなりません。最も警戒すべきなのは偏見(偏った信念)です。特に自分だけが正しく、自分以外の者は間違っているという信念は最も危険です。それがあると人間の心は自由を失い、物事をありのままに見ることができなくなります。最近の日本は隣国である中国や韓国と政治的に緊張関係にあります。これは悲しいことです。隣人とうまくやっていけない人が平穏な生活を保障されないように、隣国とうまくやっていけない国が健全であるとは思えません。安部政権はその点で危険な政権と言わざるを得ません。私たち一般の日本人は、安部さんの政治信念に左右されることなく、隣国とは偏見のない付き合いを続けたいものです。中国や韓国との長い付き合いの歴史を顧みれば、彼らが隣人としていかに尊敬に値する人々であるかを容易に知ることができます。私たちの心の世界を広げるには、まず自分だけが正しいとする間違った信念をただす必要があります。

私たちは今英語の学習に焦点を当てていますが、心の世界をもっと広げるためには、英語だけにこだわっていてはいけません。なぜなら世界には数千の言語が存在し、英語はその中の一つにすぎないからです。日本では外国語というと英語だけしか念頭になく、英語を知っていれば世界のどこでも困らないかのように考えている人がいるようです。しかしそれは偏見に基づく幻想です。英語は世界で最も広い地域で通用する言語ではありますが、それだけで世界の果てまで知ることができるわけではありません。英語は世界の言語への入口にすぎません。筆者は最近、黒田龍之介著『世界の言語入門』(講談社現代新書)という小さな本を持ち歩いて、散歩の途中やバスを待っているときに拾い読みをしています。これは世界の90の言語について、それぞれ2頁で紹介しています。その多くは名を聞いたこともない言語ですが、それらが世界のどの地域で使われるどんな言語かを簡単に紹介しています。それらを読んで、筆者は地球の片隅で使われている小さな言語に思いを馳せ、そこに住んでいる人たちの生活を想像します。それは私を未知の世界に誘い、私の心の世界を広げてくれます。(To be continued.)

(180) 21世紀への遺言状

私説 − 人権大国への道

< 総論 >

 昨年、この国の人権状況について、4つの自由と関連させて私見を述べ、安倍政権の下で、”戦後レジームからの脱却“つまり戦前回帰の動きが強まり、自由・人権がますます圧迫されていく可能性が強いことを論じた。今年は、集団自衛権の容認による実質的な憲法9条の骨抜き、さらには国民投票法の改正によるいわゆる自主憲法制定への動き、また、これらの政策と表裏一体の愛国心を刷りこむ教育政策の強行が予測される。一方で、戦前の治安維持法を思わせる特定秘密保護法の強行採決や年末の安倍首相の靖国神社参拝に見られる安倍政権の独善的強権体質に対する国民の反撥も強まってきた。日本は今「国のあり方」をめぐって戦後最も重大な岐路に差しかかっており、多くの国民が否応なく自らの望む国について考えざるをえない機会が増えてくるものと思われる。そこで、私も、残り少なくなった戦争体験者の一人として、私が望む21世紀の日本の姿について私見を述べてみたい。私の望む国は、安倍自民党や橋本維新の会などが目指す「経済・軍事大国」ではなく「人権大国」であり、そこでは「自由」と「公正」が社会を支配する原則となる。また、そこに至る道標は、「競争原理」ではなく「創造原理」であると私は考えている。

  現在の日本の社会を覆う悲劇的な様相は(それは、globalizationという化け物によって、程度の差こそあれ多くの国に共通のものになっているが)新自由主義的競争至上主義によって生ずる異常な格差、競争至上主義に伴う自己責任の強調による所得再配分機能の衰退の結果である異常な格差の固定化から生じている。このままだと、現在の働き盛りの人達が、後期高齢者になる30年後から50年後には、悲劇は破滅的なものになりかねない予感がする。そういう予感は私だけではないだろう。各種の世論調査によると、60%から70%の日本人が将来に漠然たる不安を抱いている。中高年は勿論、若者でさえ半数が未来に不安を感じている。

 「経済が上向けば万事好調を装う日本社会。しかし、その先には幾重もの闇が広がっている。食と農を疎かにし、ものを崇め、原子力エネルギーに突っ走り・・・負の部分を見ずにすべて先送りしてきた。その当然の報いが待ち受けている」 これは野坂昭如の近著「終末の思想」(2013:NHK出版)のカバーに印刷されている文章で、彼自身はこの本の最後に、「その都度決着をつけてこなかったこの国は、結局何が豊かなのか判らぬまま、滅びようとしている」と述べている。また、野坂と同年の作家澤地久枝は「日本はこれまで大国的悪を捨てきれず、もう一度あの”繁栄“をと願い国家財政の赤字もなんのその、教育をかえ、内容のない大国を目指してきた。それを否認するところからはじめたい。・・・劣悪な資本主義を捨てる。人権を第一義におく政治を目指す。それが世直しの基本になる」と述べている。( これからどうする‐未来のつくり方 岩波書店)

私もそうだが、戦前、戦中、戦後を生きてきた人達の多くが共感を覚えるのではないか。

 戦後生まれの先頭世代と自称する評論家で日本総合研究所理事長の寺島実郎は、佐高信との対談集「この国はどこで間違えたのか」の中で「戦後民主主義教育を受け、経済の右肩上がりの時代に学生生活を送り、社会人としての前半を『戦後の復興から成長へ』というプロセスの中で生きてきた人間が、戦後と言う時代を背負って次にどういう時代を作っていかなければならないのか、ものすごく重い責任と使命を持つべきだったのに、まったく世代的役割り意識を見失ってしまった」と自省している。今、老境に達しつつある団塊の世代に、自ら生きた戦後日本の来し方を振り返ってこういう苦い思いを噛みしめている人達は少なくないだろう。

 一方、若い人達はどう考えているのか。元旦の深夜にNHKEVで「新世代徹底討論‐この国のかたち」という特別番組が放送された。「永続敗戦論」の白井聡ら、30代の学者や社会活動家、企業家、ジャーナリストらが参加して、彼らが望む国の姿について意見を述べ合ったのだが、説得力のある意見はほとんど聞かれず、最後まで意見は拡散を続けた。それだけこの国の混迷は深いのだろう。

 亡くなるまで10年にわたって文芸春秋誌に随筆「この国のかたち」の連載を続けた”国民的作家“司馬遼太郎は、日本及び日本人について次のように結論づけている。「日本には農村的現実主義というものがあるだろうと思います。これが今まで日本を保たしてきたものだと思うんですけど、つまり農村で庄屋さんが言うことだからしょうがないとか、最善の考え方ではないけど、実際問題として周囲がそうなっているんだからまあいいだろう、という現実主義です。これはやはり、稲作農耕を基盤にしている国の政治意識だと思います。また来年になったら稲が生えてくるんじゃないか、という気楽さにも通じます。」( 対談集 歴史を考える‐文春文庫 )

 たしかに日本人はこれまで、そのようにして生きてきたし、今もそうである。しかしもはや、それではすまないところに来ていると私は思う。野坂の言うように、すべてを先送りしてきた“つけ”を払わなければならない時が近づいている、引き返すにはあまりにも遠くへきてしまってから、気付いても手遅れだ。考えるなら「今でしょ!」と言いたい。

 21世紀に生きる日本人への遺言状として、こういう国としての生き方もあるのではないかという私なりの道筋を書き残して、皆さんが自らの「望ましい国」を考える際の参考に供したい。

( 所与の条件 )

 日本で日本人が生存する上で、少なくとも数十年は変わりえない条件がある。つまり、この国は、そういう条件の下で生きていかねばならいのである。私の考えでは所与の条件は、下記の3条件である。

1. 人口問題  2.資源問題  3.国土と隣国

これらの3条件について資料をもとに私見を述べた後、私の望む「人権大国」が満たすべき条件とそれに至る道筋につて各論を述べていきたい。

( 各論 )

1. 自由と公正の尊重 日本株式会社からの脱却

2. 競争原理から創造原理へ 新自由主義からの脱却

3. 個別・集団自衛権からの脱却 国連中心への回帰

4. 新たなるパラダイム 共生社会の創造

5. 50年後の「人権大国」日本を思う 

(M)

明けましておめでとうございます。本年も「英語の学び方」の連載を続けますのでよろしくお願いいたします。熱心に読んでくださる方々もしだいに増えているようで、投稿者としてたいへん心強く思っております。

さて新年最初のテーマを「英語の賢い学び方」としました。英語を何年も学んできて、自分の目標とする英語力にまだまだ達していないことを自覚し、「なんとかしなければ」という気持ちで新年を迎えられた方が大勢いらっしゃると思います。学校で落ちこぼれた生徒、あるいは落ちこぼれそうになっている生徒、また社会に出て英語を必要としているにもかかわらず、その必要を満たすだけの英語力を欠いていると感じている人、そういう人々の願いは切実でしょう。そういう人たちに何か良いアドバイスはできないだろうか、という気持ちで年頭に与えられたのがこのテーマです。

正月に聖書を開いていて次の一句が目に入りました。

Look carefully then how you walk, not as unwise men but as wise, making the most of the time, because the days are evil. [Ephesians 5:15-16, Revised Standard Version](参考訳:そこで、あなたがたの歩き方によく注意し、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのだから。)

これはキリスト教会が各地に作られ始めた頃にエペソ(エフェソ)の信者たちに宛てられた手紙(注)の一部ですが、筆者はこれを見て、「あなたがたの歩き方」を「あなたがたの学び方」と読みかえれば、その忠告は現代日本の英語学習者にも当てはまると思いました。「今は悪い時代」というのも現代的ですね。

まずこの手紙は「あなた方の歩き方」によく注意するようにと忠告しています。私たち英語の学習者も自分の歩き方に注意しなければなりません。私はこれまでどんな学び方をしてきただろうか、そして今どんな歩き方をしているだろうか、愚かな人たちのようではなく、賢い人たちのように歩いているだろうかと、各自点検する必要があります。この聖書個所の「愚かな人」とは、「不品行な人、汚れたことをする人、貪欲な人、すなわち偶像を礼拝する人たち」(エペソ5:5)のことだと書かれていますが、私たちの英語学習では、「愚かな人」とは本来の英語学習の目的から外れた道を歩いている人と考えてよいでしょう。考えられる「愚かな人」には次のような人たちがいます。(1)学ぶ目標が不明確で自分が今何をすべきかが分からない人、(2)学び始めたものの途中で躓いて途方に暮れている人、または落胆して立ちあがれない人、(3)自分を他人と比較することで劣等感を持ってしまい、そのために学ぶことを諦めてしまう人、(4)孤独におちいり、自分のまわりに相談する人を見出せない人、などです。

他方、「賢い人」とは次のような人たちです。(1)自分の学びの目的をはっきりと自覚しており、自分の学び方を注意深く見詰め、今何をなすべきかを知っていてそれをきちんと実行する人、(2)学びの途上で壁に突き当たっても、そこで落胆せずに態勢を立て直し、新たな目標に向かって学びを再開することのできる人、(3)自分をやたらに他の人たちと比較せずに、無用な劣等感を抱くことなく、自分の設定した道をコツコツ歩くことのできる人、(4)ほんとうに困ったときに相談できる人が複数いて、その人たちのアドバイスを受け入れるだけの心の柔軟性を持っている人、など。

英語を学び始めたばかりの小学生や中学生の多くは、英語という言語を学ぶことによって自分の心の世界が大きく広がっていくことに喜びを感じます。英語は自分たちが日常的に使う言葉ではありませんが、日本人以外の多くの人々に使われている言語ですから、自分たちは英語を知ることによって、世界のより多くの人とつながりを持つことができるという感覚に興奮を覚えます。 “Do you like soccer?” “Yes, I do. I want to be a soccer player.” と問答できるようになるだけで、新しい言語によるコミュニケーションの手段をなかば獲得したかのようなわくわくした気持ちになるでしょう。問題はその気持ちをいつまで続けることができるかです。それには、自分の本当にしたいことは何なのかを自分自身に問いかけて、心の奥底を点検することが必要なのです。(To be continued.)

(脚注)新約聖書の「エペソ人への手紙」は使徒パウロからエペソの聖徒たちに宛てられています。しかしその内容から、それは「エペソ」という特定の教会に向けられたものではなく、もっと広くエペソを中心とした小アジアの諸教会に向けて書かれたもののようです。

(179) 2014年の初夢

Author: 松山 薫

(179) 初夢

 今年も例年通り2日に藤沢の時宗総本山「遊行寺」へ初詣に行った。昨年の御仏籤は“小吉”だったが、散々な年だったので、今年はお賽銭を倍にして籤を引いたところ“大吉”と出た。

 2日の夜は、この御仏籤を枕の下に敷いて寝る。最近の悪夢には幽霊が出ることが多いので、初夢もそんなところだろうと覚悟していたが、出てきたのはなんとなんと昨年のNHK朝ドラ“あまちゃん”のサザエ漁解禁のシーンだった。海女さんたちに交じって私も赤褌をまいて潜った、泳いだ、サザエやアワビが面白いように採れた。

 そういえば10年ほど前、真鶴半島でウニを探しながら泳いで以来、絶えて久しく海で泳いでいないので、いつもの狭いプールではなくて、太陽の下、広々とした海でもう一度思い切り泳ぎたいという潜在意識が顔を出したのかもしれない。港へ帰ると海上自衛隊の音楽隊が”軍艦マーチ”で出迎えてくれた、ところで目が覚めた。どうも布団の中で泳いだらしく、半分畳の上にはみ出し体が冷えて目が覚めたらしい。

 私はマーチが好きで、時々”世界のマーチ大全集”というCDを1時間くらい聴く。”双頭
の鷲の下に“、”星条旗よ永遠なれ“、”スーザのマーチ”など30曲あまりの名曲が入っているが、何といっても名曲中の名曲は”軍艦マーチ”だと思う。腕を組んで聞いていると自然に上体がリズムに合わせて揺れてくる。海上自衛隊では相当前から歓送迎などで軍艦マーチを演奏しているが、さすがに、あの歌詞は歌っていないようだ。

 軍艦マーチが出てきたのも、若い頃「帝国海軍」に憧れた潜在意識に関係があるのかもしれない。年末に、”遺影”にする写真を探していたら、海軍兵学校受験の為に撮ったパンツ一丁の写真が出てきて、”鬼畜米英”に噛み付きそうな顔で写っていた。

 私は海上自衛隊の若者達に、世界の前で堂々と”軍艦マーチ”を演奏させてやりたいものだと思っている。“じぇじぇじぇ!あんた、反戦平和主義者じゃなかったの!?”と友人、知人たちはぶったまげるかもしれないね。ごもっとも。しかし、これは私の本音だ。 ”Why?“ or “ What for ?”私の考えは、今年「21世紀への遺言状」としてこのブログに投稿を予定している「人権大国への道」シリーズの中の、「私の安全保障論」で詳しく明らかにしたい。 

 これまで180回近くの投稿は、80年余りの間に見聞きした、いわば過去と現在についての私見であるが、これからの一年間はこれを土台として、私が望む21世紀の日本の姿つまり未来を語りたいと思う。安倍晋三著「新しい国へ」(文春新書)へのアンチ・テーゼとしての私の「新しい国づくり論」ということになる。(M)