Archive for 11月, 2010

「報道番組」のこと
(1)日本のテレビでは、ニュースとしての報道の他に、バラエティ形式(variety show/ vaudeville)での報道も多くなっています。マスコミは公平な報道をすると思っている人もいないわけはありませんが、新聞などは、会社や編集者の意向によって、その主張に偏りがあることは、多くの人が認めるところでしょう。かなり以前から、朝日新聞は左翼的、サンケイは右翼的とみなされています。しかし、「左翼」「右翼」という分類は明確なもので、どちらかが悪いのでしょうか。そんな単純な考え方でよいとは思えません。さらに、マスコミの報道には時に誤報や“でっち上げ報道”がありますから、視聴者はいつも批判的な姿勢でいることが大切です。

(2)政治報道の番組は、日曜日に集中する傾向がありますが、東京地区で視聴できるものを例に考えてみます。NHK は「日曜討論」で、政局を扱う場合は党首や幹事長などを集めて討論させています。少し前までは、とても堅苦しい感じがしましたが、政局がゆれているせいもあって、最近のものは結構聞かせます。政党を代表する人物の発言ですから、内容にも重みがあります(インターネットのある種の書き込みのような極端な見方はここでは触れないことにします)。

(3)日曜日の朝早くは TBS の「時事放談」がありますが、これは録画放送ですから、政局の変化にすぐには対応できない欠点があります。司会の御厨貴氏も平凡な話の運びで特徴がありません。2名のゲストの見解を伺うだけの番組になっていて、最初に「ドラマチック・トークの始まりです」と景気づけても実感を伴いません。

(4)午前8時からは、関口宏の「サンデーモーニング」(TBS系)が始まります。関口氏はそつがない司会者ですが、それだけに迫力がないと言われます。コメンテーターに変化があるので救われている感じです。スポーツに関しては、元野球選手の大沢氏と張本氏が個性あるコメントをして、この二人が「喝!」または「あっぱれ!」と言って下す判定は人気がありました。張本氏は健在ですが、大沢親分は過日急逝してしまいました。その代理者は交替で顔を出しますが、レギュラーになるほどの特徴のある人物の出現はまだのようです。

(5)そもそもアナウンサーとか司会者は、公正であるべきだと常識的には思われていますが、その常識を早くから破ったのは、日本テレビの徳光和夫アナ(現在フリー)でしょう。この人の“ジャイアンツびいき”は有名で、長嶋茂雄氏への傾倒ぶりは人並みではありません。以前は、ジャイアンツ・ファンは多かったのですが、現在では、野球中継よりもドラマを見たい視聴者が多いようですから、徳光アナのような存在には、違和感を持つのではないでしょうか。あるいは、無視されているのかも知れません。テレビ関係者は真剣にテレビの存続方法を探究すべきです。

(6)「ビートたけしのTV タックル」(テレビ朝日系)や爆笑問題の太田が首相になる「太田光が総理になったら」(日本テレビ系)(8月で終了)などは、“面白くする”というバラエティの要素が強くて、政治問題の突っ込みが今一つです。ハマコーこと浜田幸一などを出演させた責任は誰が負うべきなのでしょうか。それにしても、日本の子どもたちは、いつどこで誰から雑多な情報に主体性のある判断を下すことを教わるのでしょうか。とても気になることです。(この回終り)

高等師範学校 (1)

旧制高等学校、高等専門学校の入試は、その年から始まった進学適性検査と、学力試験の結果で合否が判定された。英語以外の科目は、真面目に勉強していなかったから、学力試験だけだったら多分合格は難しかったろうと思う。英語の試験はさほど難問ではなかったが、その中に、自分の運命を決するような問題があったのだ。時制の一致に関する問題だったが、それを見て驚いた。スクール英和の付録に出ていた用例と、一部の単語以外はほとんど同じだったのである。ところが、ここでしまったと思った。付録の用例は、主節の動詞が過去形なのに、従属節の動詞が現在形になっており、おかしいなと思いながらも確認していなかったのだ。そこで迷ったのだが、やはり、従属節の動詞は、過去形に直した。それでも心配だったので、欄外に、スクール英和付属の文法説明の○○ページの下から○○行のところに、ほとんど同じ用例があるが、そこでは現在形になっているので、大変迷ったと書いておいたのだ。ところで、その頃東京高師英語科には,青木常雄先生という名物教授がおられた。青木先生は講道館で名を馳せた跳腰の名手で、直情径行、私も教室でsentenceとparagraphを間違えて、殴られそうになったことがある。英語科の教室と柔道場が隣り合わせであったこともあり、たまに稽古をみに来てくれ、「もっと練習しなきゃな」などと説教をもらっていたのだが、あるとき突然、「解答用紙にコメントをつけたのは,開校以来お前が初めてだろうな」と笑いかけ「研究社には伝えておいたよ」と言われた。4年生になって新宿高校で教生をしていたときの事だから、先生にはかなり強烈な印象を与えたのだろう。もしかしたらこれが合格の決め手だったかもしれないなと思った。新宿の書店でスクール英和を見たら、たしかに直っていた。合格はしたものの、私はどうしても英語の講義に馴染めなかった。英米の古典的作家の作品を読むのだが、戦後の荒廃した世の中や飢餓すれすれの生活実感とあまりにもかけ離れていて、どうにも興味が持てなかったのである。アルバイトに忙しかったこともあって、だんだん教室から脚が遠のいていった。学校へ行っても居場所は道場か学生自治会だった。当時、大学には、イールズ旋風が吹き荒れていた。アメリカ占領軍による学園の赤狩りである。全学連はストライキを構え、我が自治会は、これに便乗して、学校当局にカリキュラムの改変を求めた。私も常々、この学校の履修科目が専門科目に偏りすぎ一般教養科目が少ないことに不満を持っていたので、この運動にのめりこんだ。その結果、一般教養科目が何単位か増やされたが、その中に、家永三郎教授の日本史があった。家永教授は後に教科書検定裁判で知られるようになったが、当時は少壮の歴史学者であった。家永先生との出会いは私の人生に大きなインパクトを与えることになった。初めての講義の日、私は一番前列の真ん中に座った。先生は極めて物静かな方で、この日も、静かに「君たちは何のために歴史を学ぼうとしているのですか」と問われた。指名された私は何も答えることが出来なかった。誰も答えられないでいると先生は「君たちは教師になるのですね。教師という仕事は生徒の将来をあずかることになるのですよ。過去を学ばなければ、現在は理解できません。現在を理解できなければ、将来を考えることはできません。だから先ず歴史を学んでください」と言われた。長い教科書裁判の間、先生はこの考えを貫かれたのだと私は思っている。(M)

現代日本人の若い世代の多くは、中学・高校で6年間英語を学び、さらにそのうちの約半数は大学でも学んでいるはずです。辞書を引けばなんとか英語が読めるという人はけっこう多いと思われます。日本に住んでいれば日常的に英語を用いる機会が少ないからといって、せっかく学んだ英語を忘れてしまうのは、貴重な資源を利用しないまま劣化させてしまうのと同じように、もったいないことです。外国に行かなくても、日本にいて多くの情報が世界中から入ってきます。それらの情報がすべて英語というわけではありませんが、やはり英語が圧倒的に多いことはさまざまな調査でも明らかになっています。たとえばインターネット人口は(Internet World Stats 2009による)英語が4億3千万余でいちばん多く、世界全体の約30%を占めています。また世界のウェッブコンテンツの約56%は英語で記されており、英語出版物の割合も28%でいちばん多い。また自然科学の学術論文はほとんど英語です。日本の大学生の多くは英語技能の中でリーディングがいちばん得意だと感じているのですから、大学でその技能に磨きをかけ、さらに社会人になってからも、自律的な学習によってリーディング力を高めるようにしてはいかがでしょうか。

 それでは日本で普通に行なわれている英語リーディングの学習法を点検してみましょう。皆さんはこんな学習をしたことはありませんか。まず1つ1つの語や句を日本語に置きかえます。しばしば辞書を引き、適当と思われる訳語を選びます。そしてそれらの訳語を自分の持っている文構造の知識を使って並びかえ、日本語訳を作ります。それをもって文の意味だとします。変な日本語になると、外国語だから仕方がないと考え、外国人はこんな考え方をするのかな、などと不思議に思います。中学校くらいまではそれでもなんとかなるかもしれませんが、高校生になるとそうはいきません。それでもそのような英語学習法を固持する生徒たちがいるのは、それで学校の授業は間に合うからです。先生がたの中にも、そのような学習法を奨励する人がいます。そういう先生は言います。すべての未知語を辞書でしらべ、和訳をしなさい、と。まじめな生徒はそのようにし、授業で指名されると、自分の和訳を披露します。すると先生は、「ではこの文はいったい何を言わんとしているのだろうか」などと問うわけです。生徒は答えられません。自分の訳した文を見ても、その文の本当の意味は分からないのです。生徒の頭にはその文の理解に必要なスキーマ(関連知識)が欠けているからです。すると先生はここぞとばかりにその文の理解に必要な言語的また背景的知識を語り、最後にその文の模範的訳を示します。生徒はそれを自分のノートや教科書の空白に書き取ります。時おり「先生、もういちど訳を言ってください」などという声がかかります。定期試験のときに先生の言ったとおりに書かないと減点されるからです。皆さんもどこかでそういう授業を受けた経験があると思います。筆者の知るところ、中学や大学ではそういう授業は少なくなったようですが、高校では今も健在のようです。ある教科書会社の調査によれば、80%の高校教師がそうだといいます。

 これではいつまでたっても本当のリーディングができるようにはなりません。英文和訳がまったく不要だというわけではありませんが、このような暗号解読方式に似た「ボトムアップ処理」によるテキストの読み方は、どうみても、正常なリーディング活動とは言えません。先に述べたように、本当のリーディングに必要な技能を獲得するにはテキストの「トップダウン処理」ができるようにならなければなりません。母語のリーディングにおいては、私たちはトップダウン処理をベースにしながら、詳細を確かめるために時おりボトムアップ処理を用いるのでした。英語のリーディングにおいても、そういう読みができるようになることが、学習者の当面の目標になるはずです。

 では、トップダウンの読み方ができるようになるためにはどうしたらよいでしょうか。そのためには、学習用の英語テキストは少なくとも次の3つの条件を備えていなければなりません。第1に、そのテキストのトピックは学習者の興味や関心に合致したものであり、読み手がすでに持っている知識を利用できるものであること。第2に、学習者はそのテキストの主要なキーワードのおよその意味をあらかじめ知っているか、文脈の中で類推できるものであること。第3に、テキストの語彙と文法構造が学習者の解析範囲にあること。すると、これまで高校で使われてきた伝統的な高校用テキスト(多くの新出事項を含む文章が各課の先頭に載せられているもの)の多くは、以上の条件に適合しないことが分かります。このリーディング教材の問題はさらに考察を必要とします。(To be continued.)

読むという行為は、文字の記号列を解読して、その背後に隠されている意味を抽出して理解するという活動ですが、私たちはそれが自分の脳の中でどのようになされているかを普段は意識しません。文字列を見てそこから意味を知ることを当然のこととしています。しかしそれは、心理学的には、非常に複雑なプロセスであることが分かっています。成人の言語学習者はまずそのことを知る必要があります。書かれた文字列を眼にすれば、自動的にその意味が浮かび上がってくるわけではないのです。そのことは、自分の日本語の書きことばをどのようにして学んだかを思い起こすと理解できるかもしれません。私たちは小学生のころ、ひらがな、カタカナ、漢字を一つずつ覚え、それらをつなぎ合わせた語句や文を読んで書くというような学習を、ほとんど毎日、飽きるほどやらされたことを思い出します。小学校6年間に何をしたかと訊かれたら、私は最初にそのことを挙げます。話しことばは幼いころにいつの間にか覚えました。しかし書きことばは、話しことばのように環境の中で自然に獲得されるものではありません。このことは次の事実からも証明されます。まず世界の数千以上とも言われる言語の中で、文字を持っている言語は比較的に少数です。また文字を持っている言語の使用者の中にも、自分の言語を読めない人たちが多数存在します。ユネスコは今も世界の識字率を上げるために仕事をしています。人間は音声言語を獲得する生得的な仕組みは与えられているけれども、文字言語は自然に獲得することはできません。それは社会における識字教育と個人の学習努力に頼っています。これが音声言語と文字言語の大きな違いです。その違いは、音声言語が地球上における人類出現以来の長い進化の歴史を持っているのに対して、文字言語はたかだか数千年の短い歴史しか持たないことから来ていると思われます。後者は、おそらく、人間のメタ認知化された自意識の発達の末に創出されたものです。そのために、一般に、書きことばは話しことばよりも洗練されています。

 さて、私たちは文章を読むときどのようにして意味を理解しているでしょうか。リーディングの認知心理学的プロセスに関する研究が一致して挙げているのは、それが決して受動的なプロセスではなくて、きわめて能動的なプロセスだということです。つまり、眼に入ってくる文字記号を脳に送ってやれば、その記号が脳の中で自動的に意味に変換されるわけではなく、その認知された記号をもとにして、読み手がすでに持っている関連情報をよび出し、それと照合しながら主体的に意味を組み立てていくプロセスだということです。リーディングを受動的な活動とみるか能動的な活動とみるかでリーディングの学習方法が違ってくるので、このことは非常に重要です。

 まず私たちの母語である日本語の文章を読むときの解読過程を見てみましょう。人は何かの文章を読むとき、それが何についての文章かを知って読むことが多いのではないでしょうか。すると読み手は自分の頭の中にすでに持っている関連知識(スキーマ)をよび出し、それを利用します。そして文章の中のキーワードと思われるものを手がかりにその内容を推測しながら読み進みます。そして文から文へと眼を移しながら自分の推測が正しいかどうかを確かめ、正しいと思えば先へ進み、疑問に思うときにはもう一度最初に戻って推測し直したり、一時保留にしたまま先に進んだりします。このような読み方を「トップダウン処理」(top-down processes)といいます。トップダウン処理を用いた典型的な読み方が速読です。

 これと反対なのが「ボトムアップ処理」(bottom-up processes)です。自分にとってあまりなじみのないトピックに関する文章を読むときには、関連するスキーマをよび出すことができないので、トップダウンの処理法では読み進むことができません。そのような場合には、ちょっと立ち止まって、1つ1つの語句をじっくり見て、それぞれの意味を前後の関係から推理したり、時に辞書を引いて確かめたり、文の構造を分析したり、何を意図した文かを前後の文の関係から考えたり、というようなことをします。これがボトムアップ処理で、精読のときに起こるプロセスです。また、学習途上の外国語を読むときにはもっぱらこの処理法が使われます。しかし母語の文章を読むときには、多くの場合、トップダウンとボトムアップの両方の処理が併用されます。もう少し正確に言うと、私たちはトップダウン処理をベースにしながら、詳細を確かめるために時おりボトムアップ処理を用いることになります。次回はこのことを念頭に、私たちにとって外国語である英語のリーディング活動を考えます。(To be continued.)

     
疎開と受験

敗戦の年の秋、教師達に絶望した私は中学をやめるのもやむをえないという思いで、家族の疎開している秋田の角館へ向かった。中学をやめてどうするかは自分でも見当がつかなかったが、豹変した教師達を見ていると自分まで惨めになってくるのでしかたがなかった。その時、自宅の焼け跡から掘り出した「小野圭の英文解釈」など数冊の参考書を持っていった。当時は上野から秋田の大曲まで18時間かかり、途中の郡山で乗り換えなければならなかった。郡山駅のプラットホームで寝ているうちに列車が来たらしいので、起き上がってみると、枕にしていた参考書の包みは消えていた。再び絶望的な気持ちになって、角館では桧内川の支流で毎日山女や岩魚を追って暮らした。ある日、角館中学へ通っていた弟の本棚にあった研究社の「スクール英和辞典」をぱらぱらめくっていると、巻末に2~30ページほどの文法の説明書がついているのに気付いた。そうだこれで勉強してみようと思い立って、読んでみると結構面白い。そういえば私達は英文法を体系的に学んだことはなかったのである。夜はこの文法解説とスクール英和の単語を憶えることが日課になった。文法解説の方は多分50回くらい読んで、ほとんど憶えてしまった。何かに熱中すると、とことん打ち込んでしまう自分の(よい面と悪い面のある)性格に自ら気付いたのもこの頃のことであった。なんとなく自信がついてくるともう一度勉強したくなった。当時は食糧難で何ヶ月も休学することは珍しくなかったらしく、なんとか学校に戻ることができた。私が英語の勉強をしているのを知ると、海軍兵学校から復員した友人が、兵学校で使っていたという英文法の教科書を譲ってくれた。白い表紙に「英文法」とだけ印刷された厚さ1センチほどの本で、見開きに井上成美校長の序文が載っていたように思う。英文法に興味を持ち始めていた私にとって、これはまさしく宝の本だった。英文法の要諦が簡潔に、一貫性を持って展開されていた。スクール英和の付録で学んだ知識を、これによって敷衍し、整理することが出来たのである。この2冊が私を英語への開眼へ導いてくれたのだから、運命とはつくづく、不思議なものだと思う。英語排斥の嵐の中で英文法書を編纂させた井上成美校長は、最後の海軍大将で、戦後は一切の公職に就かず、横須賀近郊で子供達に英語を教えて暮らした。茅ヶ崎からはすぐ近くなので、一度お目にかかって、話を伺えればと記者根性を思い出したが、先年亡くなり、果たせなかった。
受験期が迫り、何とか上級学校へ行きたいと思ったが、8人兄弟の長男である私には、高等師範学校以外に選択の余地はなかった。当時、日本育英会はなかったし、授業料がタダで、給費までくれるところは,ここ以外には存在しなかったからである。受験生の多くがそういう思いであったらしく、競争率は大変高かった。俄か勉強の自分が合格する見込みはほとんどないように思われたが、ここでまた、不思議な運命が待っていた。(M)

「スポーツ番組」(3回目)
「スポーツ放送と用語」
(1)最近は料理とか服装に関する用語は非常に多くて、流行も速く、どういう意味なのかを知るだけでも大変です。中高の家庭科の先生たちは、どういう指導をされているのでしょうか。人ごとながら心配になります。そこへいくと、スポーツの用語はまだましですが、簡単ではありません。英語、米語、和製英語、英語以外の外来語、略語など様々です。“アメフト”は “American football” のことだと知っている人は多いでしょうが、普通のアメリカ人は ”football” としか言いません。日本人が「相撲」のことを話すのに、いちいち“日本式相撲”と言わないのと同じです。

(2)TBS 系のラジオでは、野球中継を試合終了まで放送してくれるのは、野球ファンには有難いですが、その番組を「エクサイト・ベースボール」と呼んでいます。これでは高校生や大学生は “excited” も “exciting” も区別がつかなくなります。もっとも、学校では、”Baseball is interesting.” も “I’m interested in baseball.” も「野球は面白い」と訳したままでいる英語教員がいますから、放送局ばかりを責めるわけにはいきません。

(3)「英語教育」2006 年7 月号(大修館書店)は、「スポーツと英語」を特集していて、バスケットボール、野球、テニス、ボクシング、プロレス、イギリス独特の学生スポーツなどの記事が掲載されています。その他、「シャーロックホームズとスポーツ」「語源から見るスポーツ——イギリス発祥の競技を中心に」とか「カーリングは英語もユニーク」といった興味ある記事もあり、最後にはクイズまでついた多彩な特集です。

(4)(その10)で、英語の “to play cricket” が「公明正大である」を意味すると述べましたが、この特集では、佐藤尚孝「メジャーリーグを英語からのぞく」という記事に、「米国の国技(national pastime)であるベースボールに関する不正(行為)には驚かされます」とあって、野球界の過去のスキャンダルを紹介しています。米国は自由競争の国です。ですから、競争に勝つためには、あらゆる手段を考え、実行するのでしょう。そして、行き過ぎを反省する自浄作用を持ちながら、社会が育ってきたわけです。(浅野補注:『ジーニアス英和』には、Singing karaoke has become a national pastime in Japan.(カラオケで歌うことは日本における国民的娯楽となっている)という例文があります。)

(5)そこへいくと、日本人はお互いに「お人好し」を前提に過してきましたから、国際的な競争や交渉が下手なのだと思います。ワールドカップの開催国を決める協会の役員たちが賄賂を要求したというニュースでも、上の記事を読んでいればそう驚かなくてもすみます。また、投手の牽制球に刺された走者には、”Counting your money?”(金勘定でもしていたのか)と野次を飛ばす話が紹介されています。 自浄作用の上に、ユーモアを潤滑油として社会が動いている感じです。日本の民主主義はまだまだ未熟と思わざるを得ません。(この回終り)

日本人の英語学習者には、スピーキングはだめだがリーディングならばなんとかなると考えている人が多いようです。そのことは大学英語教育学会が大学・短大の学生約1万人を対象に行なった調査(1985)でも示されました。なんと67.7%の学生が、自分の英語力の中でリーディングが一番すぐれていると答えたのです。と言っても、英語リーディングに本当に自信がある人は少ないのかもしれません。リスニングやスピーキングやライティングに比べれば、リーディングは高校時代に少しはやったし、受験勉強のために英文読解法(実際には「正解選択肢発見法」のようなもの)の特別講座を受講したし、普通の英文なら辞書を引けばなんとか意味は取れる、ということではないかと推測します。そして大学で彼らの英語力が伸びるかというと、きちんとしたデータがないので断言はできませんが、英文科などの英語を専門とする学生を除いては、どうもそうではないようです。もちろん、大いに伸びる人も一部にはいるでしょうが、たいていは大学入学時の英語力を維持するのが精いっぱいで、なかには学力を低下させて卒業していく者もいると言われます。そういうわけで、大学生全員に英語を必修にするのは無駄だから選択にしたらどうかというカリキュラム改訂案が、あちこちの大学教授会の議題に上るというしだいです。他方では、英語はとっくに世界のリンガ・フランカになっているという時代に、これは一体何事かと経済界から声が上がり、皆さんご存じのように、文科省もその声に押されて小学校5・6年生に週1時間だけ英語を教えるという奇妙な妥協案を考え出し、はなはだ説得力を欠いた学習指導要領を作成するに至ったという次第です。

 そこで筆者は、今回から数回にわたって、日本人学習者が英語リーディングの本当の力をつけるにはどうしたらよいかを、学習者の立場に立って考えてみようと思います。日本では、大学受験のための英文解釈法などの学習書や、英語リーディング指導に関する研究論文や教師のための指導書、ハンドブック等は多数出ていますが、学習者のために書かれたリーディング学習法のようなものは比較的に少ないようです。まず始めに、リーディングの学習目標について考えてみましょう。つまり、どの程度の習熟度に達したら英文が読めると胸を張って言えるのか、ということです。辞書を引きながら、それも各行に未知語が出てくるような難しい英文を、まるで暗号を解読するかのようなやり方で読み進むというのは、非常に特殊な形態のリーディングです。それは学習の途上には必要なプロセスかもしれませんが、通常のリーディングとは言えません。私たちがここで言う「リーディング」というのは、知的ではあるけれども、もっと日常的な活動です。

 さて日本では、古くから、読みに3種類の読み方—精読、速読、味読—があると言われています。文章を読む目的は時と場合によってさまざまですが、私たちが母語である日本語の文章を読むときには、目的に応じてこれら3種類の読み方を使い分けています。文章の内容を精確にしかも深く理解したいときは「精読」(「熟読」ともいう)になります。また、時間が限られていて文章の大意だけをつかみたいとき、あるいは求めている情報を見つけ出したいときなどには「速読」になります。英語の ‘skimming’ と ‘scanning’ がこれに当たるでしょう。3番目の「味読」は、文章の内容やその表現の仕方を楽しくじっくりと味わう読み方です。英語は私たちにとって外国語ですが、英文を読むときにも、日本語を読むときのこれら3種類の読み方を使い分けられるようになることが必要です。そしてこれを、私は英語リーディングの一般目標としたいのです。もちろん、英語は私たちの生活語ではないので、日本語と同じように読めるようにするのは難しいでしょう。辞書を引くことから解放されることはないかもしれません。しかし今日のグローバルな世界に生きる私たちは、少なくとも自分の個人的または職業上関心のある領域では、現代英語で書かれた文章の、目的に応じた読み方ができるようにしたいものです。そしてその目標は、高校までに学習したものを基礎とし、その後の適切な自己トレイニングによって到達可能であると私は考えています。

 なお、最後の「味読」というのは英文を楽しく味わいながら読むことですから、かなり高度なレベルのリーディングになります。それを日本人の外国語学習の一般目標に含めるのは難しいと言われるかもしれません。しかしその困難さをもたらす主な原因は語彙にありますので、2000語とか3000語の制限語彙でリライトされた物語や小説などによって、英文の味読を体験することは可能です。(To be continued.)

スピーキング技能の上達には話し相手や聴衆が欠かせません。スピーキングの多くは対話(ダイアローグ)で成り立っています。またスピーチをするには聴衆が必要です。前回述べたように、スピーキングの基礎トレイニングは一人でもある程度可能ですが、それには限界があります。それだけでスピーキングができるようになるわけではありません。中学・高校から大学までの公的な学校英語教育は、一部にすぐれた実践をしている教師や教師集団がありますが、全面的に信頼できる状態にはありません。それが今日の英語学習者の「英語が話せるようになりたい」という願望を阻止している大きな原因となっています。では、個々の学習者はどうしたらよいでしょうか。今回はそのことを考えてみましょう。

 そこで考えられるのは、自分で話し相手を見つけることです。じっと待っていてもそのチャンスは訪れません。スピーチならばスピーチ・コンテストに応募してそこで話す機会をつかむことです。日本に住んでいて英語の話し相手を見つけることは、今日ではさほど難しくはないでしょう。筆者が学生であった戦後には、街を歩いているGI(米軍兵士)に話しかけて相手になってもらったものでした。筆者のある友人は、米国からやってきたキリスト教宣教師に英語を習いに行っていました。宣教師たちは布教の手段として英語を教えていたのです。今日では日本の多くの学校に外国人講師がいますし、たいていの市や町に英語を話す外国人が住んでいます。外国人は英語のネイティブ・スピーカーでなければならないと考える必要はありません。英語は今や世界の多くの人々のリンガ・フランカ(lingua franca)となっていますから、アジアをはじめいろいろな地域からやって来た、英語を第2言語として使用する人々と話すとよいでしょう。要はそのようなチャンスをつかむのに必要な少しばかりの勇気と、自己トレイニングで得た自信と、何としても英語スピーキングの技能を獲得したいという意欲と情熱です。

 これまでの「成功した言語学習者」(successful language learners)の研究を見ると、スピーキング技能にすぐれている人たちの特徴として以下の3つが挙げられます。第1は英語スピーキング活動への積極的参加です。彼らはいつも英語を聴いたり話したりする活動に自分自身をさらします。ですから、暇さえあれば英語のソングやテレビや映画に身をひたし、英語を話す外国人と交流し、その幾人かを友人にします。スピーチ・コンテストがあると聞けば進んで応募します。筆者の東京高等師範学校の級友たちを顧みても、スピーキングの上手な人はそういう人たちでした。テレビもテープレコーダも無い時代でしたから、もっぱらハリウッドの映画とFEN (Far East Network) のラジオ放送を活用しました。同じ1本の映画を朝から晩まで数回観るという経験を、たぶん級友たちの多くが共有していたのではないかと思います。わたしたちの中に抜群にスピーキングの上手な人がいました。その人の名はこのブログの投稿者の一人である田崎清忠氏で、今も高円宮杯英語弁論大会の審査にかかわり、講評を担当されています。田崎氏は、若い頃からここに挙げる良いスピーキング学習者の特質の多くを体現していたと思います。(田崎氏についてもっと知りたい方は、この桐英会ブログから彼のブログにリンクしてご覧ください)。

 良い学習者の特質として第2に挙げられるのは、英語スピーキングへの自己動機づけと自信獲得のストラテジーです。自分は引っ込み思案だからとあきらめたらそこでおしまいです。最初から上手な人はいないのですから、まず思い切ってチャンスをつかみ、外国人とコミュニケーションできたという経験と自信を積み重ねることが大切です。そしてその経験を振り返り、自己評価し、次はこうしてみようと考えます。すると少しずつ進歩が実感できます。これが自己動機づけになるわけです。そしてもう一つの良い学習者の特質は、話題の豊富さです。外国人との対話は挨拶だけでは長続きしません。共通の話題が必要です。また、いつも同じ話題を取り上げるわけにはいきません。話し上手な人とは話題の豊富な人です。外国語で話すときには、どうしても母語の場合よりも話題が限定されるのはやむをえません。まず初級の段階では自分自身と自分の身の回りのことについて、高校生・大学生になったら身近な問題から自分の関心のある周辺的な問題へと、しだいに話題を広げるようにしたいものです。母語の場合と同様に、英語のスピーキングの場合にもこの努力は生涯欠かせません。(スピーキングの延長上にdiscussion や debate がありますが、これらについては別の機会に取り上げることにして、「スピーキング学習」の項目はひとまずここで終わります。)

11月初旬に、橋田壽賀子が「戦争と平和」を描く最後のTVドラマという触れ込みで、日本人のアメリカ移民を題材とした「99年の愛」という作品が放映された。以前に同じ橋田作品でブラジル移民を扱ったTVドラマ「届かなかった手紙」を見たことがあるので、今回も連続5夜視聴した。普段は時代劇以外あまりTVドラマを見ることはないのだが、NHKにいた頃、何回か海外移住者の取材をしたことがあったので、興味を覚えたのである。「99年の愛」は、島根県からアメリカのシアトルへ移住した日本人農民一世の苦闘を、現在は農場を経営している2世、3世の回顧を通して描く物語で、「届かなかった手紙」と同じsituation設定である。10時間にわたる物語のテーマは、戦争は人間を鬼にする人類最大の不幸であるというメッセージであると感じた。戦争という殺し合いの中で、悪魔になる人間も、平和という環境の中では友人になりうる。人間の本性は、悪でもなく、善でもなく、まさに環境が人間を変えるのだと思う。敗戦直後、東京調布飛行場跡に出来た占領軍の水耕農場で働いて、すさまじい人種差別を体験し、やがて職場で多くのアメリカ人と友人になった私にとって、「差別のあるところに平和はない」というネルソン・マンデラの言葉が、実感として理解できるし、同年代の橋田さんの思いも共感できるものだった。
移住問題を取材していて私が最もショックを受けたのは、1962年に京都の東本願寺で親鸞聖人700年の大遠忌がおこなわれた際の取材で廣島などに里帰りをかねて帰国したブラジル移民一世の人達に会った時だった。皺の多い顔というのは時々見かけるが、一世の老人達の顔は、皺の中に顔があるとしか形容できないものであった。皺の中に光る目をみて、私は胸が詰まって、まともに話を聞くことが出来なかった。小泉純一郎元首相が在任中ブラジルを訪問した際、予定になかった日系人の農場を視察し、開拓の苦闘の歴史を聞いて号泣した。私が京都で会った人達と同じ顔を見て、思わずカメラの前であることも忘れて、感情が爆発したのだろうと私は思う。日本政府の移住政策は最初から棄民の色合いが濃いものであった。明治以来の富国強兵政策で、農村は下級兵士の供給源として機能する一方、地租によって収奪され、疲弊していった。二・二六事件を扱った立野信之著「反乱」の中で、妹の身売りを知って内務班のベットですすり泣く部下の姿に、直属上官の将校が決起を決意するくだりは、深く心に突き刺さる。太平洋戦争中の満蒙開拓義勇軍や戦後のドミニカ移民にもみられるように、ろくに現地を調査することもなく、国民を海外に送り出し、後は自己責任でとういう、まごうかたなき棄民政策もあった。横浜の大桟橋で、移住船の出港を取材したことがある。ドラが鳴り、「蛍の光」に送られて遠ざかっていく船にハンカチを振って嗚咽する親類縁者の姿は、時代を超えて胸にしみた。日本人の海外移住は1885年(明治18年)のハワイ移民が最初であるが、ハワイの丘にある一世達の墓は、太平洋を眼下に、はるか日本を望んで建っているという。(M)

「スポーツ番組」(2回目)
「スポーツ放送と音」
(1)前回(その11)で、スポーツ番組のことを書きましたら、個人的にコメントや要望を頂きました。そこで、(2回目)を書くことにしました。スポーツ放送と「音」というと、まず応援の仕方が問題になります。とにかく日本人の応援は「うるさい」の一言です。メジャー・リーグの応援では拍手がとても多い感じがします。日頃の不満やストレスをスポーツ観戦で発散できるなら、むしろ望ましいことではないか、という見解も分からないではありません。しかし、もっと静かに観戦したいという観客やテレビの視聴者もいることでしょう。

(2)「解説者の話がうるさい」という声もあります。今年の野球の日本シリーズなどでは、3人も4人もゲストがいて、まるでトーク番組のようになっていました。ここでも、「面白くなければテレビでない」という安易な方針が入り込んでいるようです。スポーツの“面白さ”は、高度な技術で真剣に勝負を争うところにあるわけで、ただガヤガヤ騒げばよいというものではないでしょう。テレビのプロデューサーにはもっと考えてもらいたいと思います。

(3)応援に様々な楽器を使うのも分からないではありません。昨年の南アフリカのサッカー・ワールドカップでは、とてもうるさい“ブブゼラ”という民族楽器での応援が話題になりましたが、ある国や地域の伝統的な応援方法というのは一概に反対できません。しかし、日本のプロ野球の応援は伝統的な、文化的な意味などほとんどないでしょう。東京ドームでは、午後10時を過ぎると、楽器での応援は自粛するようですが、騒音が問題ならば、もっと早く止めるべきです。千葉ロッテの応援は、観客が一斉に飛び上がって足踏みをしてすごい音を立てます。どこかの国のサッカー応援では観客席が崩れて大惨事になりましたが、日本の球場は大丈夫なのでしょうか。

(4)デジタル放送になったのならば、応援、解説、実況放送などの音を選択でき、音量も自由に制御できるようにしてもらいたいものです。スポーツファンというものは、自分のひいきするチームや選手が勝つと、何度でもその場面を見たいし、翌朝にはスポーツ新聞で確かめ、週刊誌でも読みたいと思う気持ちはわかります。でも、それはあくまでも個人の問題ですから、他のファンには選択の余地を残すような放送をしてもらいたいと思います。

(5)電気的な装置の“スピーカー”は、“拡声器”と言われるように、音を拡大して伝える装置です。例えば、一家の中で父親が猛烈な野球ファンで、大きな音でテレビを視聴していると、ずいぶん迷惑をする家族もいるのではないでしょうか。舅と嫁のような関係ですと、嫁は泣き寝入りせざるを得ないかも知れません。人間は我慢できない騒音のために体調を崩すことがあります。一家の安泰のためにも、テレビの音量には十分注意したいものです。(この回終り)