Archive for 1月, 2011

< 英語との付き合い ⑫ >  松山 薫

新米教師(2)フランクリン方式

栃尾の子供達で大学へ進学を希望する者の大部分は長岡の高校へ行く。学力不足を含め何らかの事情で地元の栃尾高校に入った進学希望者は、1学年20人くらいで、中には大変頭脳優秀な生徒もいた。しかし、英語の学力の方は全く積み重ねがないのである。そこで先ず、1年生の進学希望者に、どんな大学に入りたいのか聞いてみた。多くは地元の新潟大学であったが、中に津田塾大学の英文科に行きたいという女生徒と、東京教育大学の英文科に入って先生のような英語の教師になりたいという男生徒がいた。3年間で彼等の希望をかなえてやるにはどうすればよいのか。もちろん自分ひとりでできるわけはないが、先ずは英語でやってみて、効果があれば他の先生方も協力してくれるのではないかと考えて思いついたのがフランクリン方式だった。(See ⑨)

 生徒達にベンジャミン・フランクリンの話を聞かせ、3年間この方式でやり遂げれば希望校に進学できるはずだ。できなかった場合オレは坊主になると宣言した。ただし、こちらの要求するレベルに達しない者は、達するまで学期末の休みを返上すること。やる気がある者は明日新しいノートを一冊持って来いと言ったところ10人あまりがやって来た。1ページを1週間分とし、13徳目の部分には 1. 単語 2.発音 3.リーディング 4.英作文 5.文法などと書き込ませ、英語の授業のあった日の自己採点を○△×で記入した上、下の空欄には毎週必ず質問をひとつ記入して土曜日に提出せよと命じた。つい先ごろまでの自分の不勉強振りを棚に上げいい気なもんだとは思わなかったのだから教師というのはある意味で勝手なものだ。

 参加者は、2年目には数人、3年になると3人に減ってしまったが、若い先生たちの努力もあって、それなりの効果はあった。それまで進学者のいなかった津田塾大学の英文科、早稲田大学、東京外語大のイタリア語科、東京農工大学など東京の大学に合格し、新潟大学にも数人入った。清水トンネルでの予感は的中し、3年間一度も東京へ帰ることは出来なかったが、この学校としては空前のことだという町の人達の声を聞いて、仲間達と心ゆくまで祝杯を挙げることができた。ひとつの心残りは、東京教育大学英文科へ行って先生の後を継ぐといってくれた生徒が志を果たせなかったことだった。この生徒は2年生の夏頃から、津田塾志望の女生徒に恋をして勉強に手がつかなくなってしまった。「恋愛は自由だからやめろとは言わない。だが、今のままでは、志望校には入れないだろう。」と忠告したが、結果はそのとおりになった。しかし、約束は約束だから、栃尾を去る前日、町の床屋さんでつるつるの丸坊主にしてもらった。 外へ出ると、春未だ浅い雪国の夕暮れの冷気が頭に沁みた。髪の毛がもとにもどるのに8ヶ月かかったことを憶えている。(M)

そうすると、私たちがライティングのプロセスでしばしば用いる「カン」とは何かという疑問が起こります。それは「直感」(intuition)に置きかえてよい語のように思われますが、よく考えると、用いられる場面によって少しずつ違うようにも思えます。

 すでに述べたように、文法には明確な規則の集合として提示できるものと、あまりに複雑で簡単な規則では提示できない規則とがあります。前者は文法学者によって体系的に記述され、成文化された文法書で知ることができます。後者は成文化されるにはあまりにも複雑であったり、成文化すること自体が困難な規則であったり、母語話者は無意識的に使用しているのにそれを定式化することに誰も気づかない規則であったりします。そもそも文法書に書かれている規則というのは、母語話者の脳の中に蓄えられている文法全体のほんの一部に過ぎないのかもしれません。最近の言語学の領域の拡大はそれを示唆しています。ともかく、母語話者というのは、自分の言語についてとてつもない大きな先験的知識と経験的知識を所有していて、その大部分を無意識的に使用することができるようです。意識する部分はその一部に過ぎません。それゆえ、外国語学習者は母語話者の直感には決して及ばないと主張する人が多いようです。それも一理あるように思えますが、ほんとうにそうでしょうか。

 誤文訂正のような問題で用いるカンは、母語話者の直感と関係があるかもしれません。チョムスキーはかつて母語話者の示す「文法性判断」に関して、それが子どもの先験的知識を証拠づけるものだという主張をしました。その議論の詳細はさておき、私たちが母語の発話の文法性について不思議なカンを持っていることは事実です。しかし、いくつかの可能な表現の中から一つを選ぶとか、いくつかの文をつなげて一貫性を保つという場合に用いるカンについては、母語話者の「文法性判断」のカンだけでは説明できないように思います。

 もし外国語学習者がその言語の母語話者を完全なモデルとし、それに近づくことが学習者の目標であるならば、成人の外国語学習者が母語話者を超えることは難しいでしょう。しかし、それぞれの個別言語(世界には数千の言語が存在すると言われる)が個々の人間の所有する潜在的な認知能力(cognitive capacity)の一部しか使用していないとすれば、一つの言語しか知らない人よりも、二つ以上の言語を使用する人のほうが、自分に与えられている認知能力のより多くの部分を使用していると言うことができます。個別言語が人間の認知能力の一部しか使用していないことは、たとえばどの個別言語も、人間が識別可能な母音・子音の中のほんの一部しか使用していないことから容易に理解できます。人間の潜在的認知能力は膨大なものであり、実際に人々が自分の言語に活用する認知能力はほんの一部なのです。このことから、一つの言語だけしか知らない人よりも、複数の言語を知っている人のほうが、自分の潜在的認知能力のより大きな部分を活用していると言うことができます。

 そのように考えると、私たち日本人の英語ライティングの学習は、母語である日本語の使用にかかわる認知能力の一部だけではなく、潜在的な認知能力のより多くの部分を使用することになります。ですから経験を積めば、日本語であろうと英語であろうと、自分の書く文章についてより的確なカンをはたらかせることができるようになるはずです。母語話者の直感は尊重しなくてはなりませんが、母語話者とは違う自分自身の直感を行使し、自分の母語についての直感とは異なる言語一般についての新たな直感がもたらされ、新しい言語表現を生む可能性があるように思います。このことは明治の文豪たちのことを考えると理解できます。日本の近代文学は、文明開化によってもたらされた西欧の言語文化との衝突から、新しい発想法と表現法を生み出しました。たとえば森鴎外はドイツ語とドイツ文学の出会いから、夏目漱石は英語と英文学の研究によって、日本語による独自の文学的表現を生み出しました。また、世界に禅を広めた鈴木大拙は、彼にとって外国語である英語という言語を使って、禅の思想を平易に説くことに成功しました。これらの人々にそのようなことができたのは、新しい言語と文化の出会いが彼らの潜在的認知能力の開発につながった結果であると考えることができます。先日の新聞に、将棋の羽生善治名人らの棋士には、脳に特別な直感回路が出来上がっていることが分かったという記事がありました。それは長年の訓練でそうなったと考えられるということです。天才は最初から天才であるわけではないのです。そうであるとすれば、私たちの英語ライティングの活動も、自己表現の無限の可能性を包含する領域となります。(ライティングの項終わり)

「公共放送」を考える
(1)「公共放送」と言えば、NHK のことだと普通の日本人は考えるでしょう。しかし、NHK は無料ではなく、受信料を徴収しています。その予算・決算は、議会の承認を得ることになっていて、総額は、数千億円になりますから、ちょっとびっくりです。年度末や年度初めには審議の様子がNHK のラジオで深夜に放送されますが、国会の審議と同じで、議席の多い政党は十分な時間が与えられますから、だらだらとつまらない質問をしたり、嫌がらせみたいなことを言ったりして NHK をいじめています。

(2)以前にも言及しましたが、TBS 系の平日午後10 時からのラジオ番組に“Dig”というのがあります。タイトル通り、特定の話題を“掘り下げる”番組で、結構聞かせますが、この番組の目的を定義しているのは、なぜかネイティブ・スピーカーによる英語です。やはり、英語のほうが“かっこいい”という意識が制作者にあるのでしょう。それはともかく、昨年の暮れでしたか、「公共放送の在り方」をテーマにしていろいろな角度から、リスナーの質問や意見を加えて、“掘り下げて”いました。欧米の状況や、韓国、中国の実体なども紹介していて、とても勉強になりました。

(3)私は一定の条件の下で、公共放送というものはあるべきだと考えています。その理由は、スポンサーや視聴率ばかりを優先させる現在の民放の番組を考えてみたらすぐに分かると思います。この点は、NHK も例外ではない場合がありますが、北朝鮮や中国のように、国家権力が放送内容を左右できる“国有放送”では困ります。NHK がこんなに膨大な予算を持っているなら、民放はとても太刀打ちできません。しかも、NHK には視聴の困難な条件を改善するというような使命がありますから、部分的に税金も投入されているようです。ですから、私たちはその予算の使途にもっと関心を持つべきでしょう。

(4)最近はNHK の会長問題が話題になりましたが、その裏話などは週刊誌に任せたいと思います。私が気になるのは、会長決定の前から、「受信料を 10%下げる」という話があったことです。それが出来るなら有難いことですが、受信料は 100%徴収されているとは思えませんので、それを達成することが先だと私は考えます。それができないのなら、制度の抜本的な改革を考えるべきでしょう。罰則がないからといって、不払い者が得をするのは不公平です。

(5)私が考える“公共放送”は、「全額を税金で賄う方式」です。そうなると、政治権力の介入を招きやすいですから、監督機関は、時の政府と関係のないものにすべきです。ただし、そういう機関を作ることは容易ではないでしょう。今でも、政府や役所関係の委員会や審議会は、何らかのコネのあるメンバーが選ばれて、政府や役所の意向に沿うような結論を出すようになっていることが多いからです。前途多難です。しかし、報道の自由と中立性が守られないと国は滅びると言っても過言ではないと思います。(この回終り)

     

 

< 英語との付き合い ⑪ >            松山 薫

新米教師

教生を続けているうちに、授業料と給費の返還が免除になる年季奉公の6年間ぐらいなら教師になるのも悪くないなと思い始めていたが、学生運動と成績不良がたたってかなかなか就職先が決まらないまま、卒業が迫ってきた。体力には自信があったので、ニコヨン(日給240円の当時の日雇い労働者)でもやるかと覚悟していたところ、先に「柔道の想い出」で書いたようないきさつで新潟県の山奥の高校へ赴任することになった。上野から長岡まで、当時は5時間かかった。上越国境を貫く真っ暗な清水トンネルの中で、薄暗い列車が一瞬、上り勾配から下りに変わったのがわかり、東京とは当分お別れだなと思った。長岡から栃尾まで今は廃線となった単線でトロッコ並みの栃尾鉄道で約1時間、初めは田園地帯が続き、やがて長いトンネルを抜けると栃尾盆地である。県立栃尾高校は、上杉謙信が初陣を飾ったという刈谷田川に沿った年代ものの二階建て木造校舎に普通科、商業科、農業科、被服科合わせて1学年3学級の小さな高校だった。更に山奥に定時制の分校が4つあり、教職員は35人くらいいた。先ず驚いたのは、英語専任の教師が私1人しかいないということだった。つまり、いきなり英語科主任扱いである。商業と英語を教えている親父くらいの年齢の先生から、英語科のカリキュラムを作ってくださいといわれたが、出来るわけがない。で、「今までどおりやってください」ということにしたが、新学期が始まるまでの1週間くらいの間に自分の分だけは作らざるを得ない。確かに教職教養に教科課程という時間があって数時間は出席した覚えがあったが、バイトの疲れで居眠りをしていたせいか内容はほとんど記憶にない。そこで、長岡の書店へ行ってそれらしい内容の本を買ってきてでっち上げた。校長は私を柔道の教師として招いたと思っているらしく、畳を買っていなかった引け目もあってか、英語のカリキュラムは「まあ、頑張ってくれたまえ」ということでパスしたのだが、新学期が始まってまた驚いた。生徒の英語の学力レベルが急造カリキュラムで想定した範囲をはるか下のほうに超えていたのである。一体どうすりゃいいのよと、朝夕越後の名山と言われる守門岳の雪を被った山頂を眺めながら、迷いに迷っているうちにふとフランクリン方式を思い出したのである。(M)
   

< 声を失ったアナウンサー >         松山 薫

前回「初夢」で放送事故の話を書いたら早速元NHKプロデューサーお二人から「身につまされました」という感想が寄せられた。その中に、事故とは関係はないが、今は亡き菊谷アナウンサーの名前があったので、彼の想い出を書いておきたいと思った。
菊谷彰、旧姓武井彰君は、今、桐英会ブログを書いている4人の同期生であり、私にとってはNHKの同僚でもあった。彼は、卒業すると直ぐアナウンサーになった。学生の頃は容姿にすぐれ、演劇部員として女高師(御茶ノ水女子大)との合同公演で主役をつとめたり、脚本を書いたりしていた。けだし、アナウンサーは彼にとって天職であったろう。私は卒業後7年余り経って中途採用試験を受けてNHKに入った。局内に知る人とてなく、先ず、アナウンス室に菊谷君を訪ねた。彼は既に地方勤務を終え、一定の評価を受けて東京に戻っていたのである。しばらく話をしていると、彼は急に「変な言葉になったな」と言った。「え、何処が?」「曰く、言いがたし」と彼は話を打ち切った。放送会館(内幸町)の薄暗い廊下を歩きながら、思い当たることがあった。中越地方では、言葉のアクセントが前の方に来ることが多いのである。例えば、兎は、東京弁ではフラットに発音するが、私が最初に赴任した栃尾では、ウを強く言う。梟も同じである。従ってフクロウではなく、フクロとなるから、私は最初袋のことかなと思った。私には全く自覚症状はなかったが、6年間新潟に住んでいるうちに、影響を受けており、プロのアナウンサーである彼は直ぐに微妙な変化に気付いたのである。それから数年たってNHKが渋谷に移ってからのこと、喫茶室で二人で話をしていると,また突然「直ったな」と言った。東京弁と新潟弁のどちらがよいということではなく、どちらでもない「変な言葉」がずっと彼には耳障りであったのだろう。
同じ様なことが仕事の上でもあった。ある晩宿直勤務で夜の9時に出勤すると、菊谷君から電話が来た。「今日は泊まりだよな。中東向けの担当は誰だ」と聞くので、「俺だよ」と答えると「丁度よかった。悪いけど、30分くらい早めに編集してくれないか」ということだった。中東向けの日本語ニュースは、国内の動きがほぼ終る10時頃から編集して午前0時に録音し、その後何もなければ午前3時、現地の午後9時に再生放送する。11時頃菊谷君が新人の女性アナTさんを連れてやってきた。新人アナウンサーは入局後何ヶ月かの研修を受けるが、最終段階では中堅アナウンサーがman-to-manで面倒を見る。彼はTさんにニュースを読む練習をさせたかったのだ。Tさんは最初から躓いた。「このテープは、中東向け日本語ニュースの録音です。」というところで、フラットに読むべき中東の発音の強勢が前に来てしまうのである。何回やり直してもそうなってしまう。なんとか本文に入ると、かなりうまく読んでいったが、10分間ニュースの中間に挟んである「こちらはNHKの国際放送です。ただ今中東向けにニュースをお伝えしています。」というところの中東の発音でまたひっかかってしまった。ほとんど泣き出しそうになっているのを見て,さすがに気の毒になって「今日はもうこの辺でいいんじゃないか」と口を挟んだとたんに、菊谷アナウンサーが「部外者は黙っててくれ」と大声で叫んだ。普段は温厚な菊谷君からは想像出来ないすさまじい剣幕だったので、私もびっくりしたが、Tさんはもっと驚いたろう。何とか最後まで読んで二人は帰っていった。午前0時を廻ってソファで休んでいると菊谷君がやって来て、「さっきはすまなかった。ごめん」と謝った。「あそこまでやらんといかんのか」と言う私に彼は、「ちょっと厳しすぎたとは思うが、Tさんはアナウンサーとして素晴らしい素質をもっているから、今のうちにきちんとなおしておかないとならんのだよ」と言った。Tさんは研修を終えて大阪へ配属になった。それから数年たったある日、私は既に英語ニュースの担当に変わっていたが、東京へ帰ってきたTさんが日本語ニュースの下読みをしている姿を見かけた。副調室で編集者と彼女のアナウンスを聞いて、彼女が本当に素晴らしいアナウンサーになっていることがわかった。編集者も同意見だった。菊谷君の「カン」は、見事に適中したのである。
月に何回かはニュースや解説を読みにやってきていた菊谷君の姿が、しばらく見えないことに気付いたのは昭和56年のことだった。彼と同期のアナウンサーに聞いてみると、最初は口ごもっていたが、私と彼の関係は知っていたらしく、実は声が出なくなってしまい、回復の見込みがないので文研(放送文化研究所)へ転勤になったと教えてくれた。直ぐ、文研に電話をかけたが、受付の女性が、菊谷さんは電話には出られないという。事情を話し、こちらの用件を直接伝えたいというと、彼が出てきた。「明日行く」と伝えると。搾り出すような一寸もつれる低い声で「絶対来るな。来ても会わない」と言って電話を切った。彼の絶望の深さを感じて慰める言葉もなかった。
それからしばらくして朝日新聞に”声を失ったアナウンサー“というかなり大きなfeature記事が載った。菊谷君と親交があった記者が彼の文才を惜しんで書いたもので、「声を失っても、君にはペンがあるではないか」という思いをこめて万年筆を贈ったと結んであった。菊谷君がそのペンで書いた初めての本「日本語のすすめ」の序文の中で、同期のアナウンサー鈴木健二は次のように書いている。「穏やかで澄んだ美声、わかりやすい語り口、ユーモアを持ちながら、しかも謙虚な態度。アナウンサーになるための資質の全てを君は備えていました。それが私を圧倒しました。しかし、神は君にその言葉を失わせるという試練の道を歩ませました。だが君は死ぬほどの苦しみに耐えて、言葉への憧れに満ちた本をまとめました。」
菊谷君のように日本語を大事にし、職人的な正確さでそれを表現しようとしたアナウンサーはTV時代になってほとんどいなくなった。NHK,民放を問わず、昨今のアナウンサーの言葉には、素人の私でも首を傾げたくなることが多い。それが日本語の乱れにつながっているのでなければ幸いである。(M)
* 菊谷彰「日本語のすすめ」三修社刊 彼はこの本を若いお母さんに読んでもらいたいと願っていた。

これまで書かれた学習文法の多くは文構造の分析にはたいへん役立ちました。筆者も中学生時代に受験用の「英文解釈」や「英文法」の本を読んで、英文の構造が理解できるようになりました。「これでどんな英文でも解析できるぞ」と自信を持ったものです。そして英語とはなんと合理的に出来ている言語なのだろうと感心したものです。中学生にそのように思わせるほど、それらの学習書は上手に書かれていました。ところが英語で文章を書くとなると、そのような文法では間に合いません。たとえば五文型の知識は、全然役立たないわけではないでしょうが、文章を書くにはおおざっぱすぎます。五文型を意識しながら文章を書く人はまずいないでしょう。リーディングのための文法とライティングのための文法とは違うのです。その大きな理由は、リーディングでは正しく書かれた文の構造が分析できればよいのですが、ライティングでは自分の書いた誤りに気づいてそれを正しい形に修正することが求められるからです。

 正しく書かれた文を分析するのと、誤りを含む文を修正するのとでは、用いる文法知識は共通していても、その知識の用い方が違います。前者では知識が「言語形式→意味」の方向で用いられるのに対して、後者では「意味→言語形式」の方向で用いられます。つまり、リーディングではテキストの意味をつかむために言語形式に関する文法知識が利用されるのですが、ライティングでは最初に伝達したい意味があって、それを適切な言語形式に変換するために文法知識が用いられるわけです。リーディングのテキストはたいてい文法的にチェックされていますから、それに誤りのあることを想定して読む必要はありません。他方ライティングでは、自分の造り出した文が正しいかどうか、自分の考えていることを適切に表しているかどうかをチェックしながら進む必要があります。つまり、リーディングはテキストの形式的完全さを前提にしていますが、ライティングは常にテキストの不完全さを前提としています。そして誤りを見つけ出し、それを修正するわけです。ところがそれが非常に難しい。筆者の経験では、英語の試験問題でいちばん難しいのは「次の文中に誤りがあれば正しなさい」という問題です。この問題にはずいぶん悩まされました。今も苦手です。各文に誤りが1個ずつあると言われれば対処の仕方がありますが、誤りがあるかどうかが分からない場合には頭を抱えます。いろいろ考えて、けっきょく最後は「カン」にたよります。問題はそのカンがたよりになるかどうかです。

 さらに、ライティングは私たちを難しい選択を強います。多くの場合、自分の書こうとする文には複数の案が思い浮かびます。するとその中のどれを選ぶかを決めなくてはなりません。前回の英訳問題「自分の考えを英語で書くためには、まず基本的な語彙と文法の知識が必要です」という意味の文を造る場合にも、ある程度のライティングの力を持っている人ならば、3つか4つの文案がすぐに浮かび上がり、競合するはずです。それら幾通りかの文案がある場合に、そのいずれかを最良のものと判断するのはなかなか難しい問題です。判断の基準は文形式の「正確さ」と「適切さ」です。この判断能力は文章構成に不可欠なものですが、文形式の正確さについては文法知識が役立つとしても、文形式の適切さという概念はかなり曖昧で、判断が難しいところです。これも最終的にはカンにたよることになります。

 ライティングについて最後にもう一つ注目すべきことがあります。それは文と文を論理的に結びつける方法です。以前の文法(伝統文法)はもっぱら文を単位とする文法でしたが、今の文法は文を超えた単位(パラグラフなど)のディスコースをも扱います。それは日本語では「談話文法」または「談話分析」と呼びますが、そこで文と文を結合するさまざまな規則が発見されることになりました。この分野の研究でよく使われる用語は「結束性」(cohesion)と「一貫性」(coherence)です。これらの用語の説明は言語学辞典などに任せることにして、それらの規則は私たちが文章を書くときに誰もが無意識的に使っているものです。接続詞に「そして」と「しかし」だけしか使えない小学生は、作文にそれらを多用し、先生から注意されます。英語を母語とする子どもたちも、文頭にやたらに ‘And’ を使ってはいけないと先生に注意されるようです。母語を書くときにはほとんど無意識的に使っている文の自然な接続法を、私たちは外国語である英語を書くときに忘れてしまうことがあります。たぶん文レベルの文法に注意が行ってしまうからでしょう。文章を書くときには、そういう文を超えたレベルでの正確さや適切さにも配慮する必要があります。そしてここでも、カンが大切な役割を果たします。(To be continued.)

「テレビCM のこと」
(1)CM(この略語は英語では普通ではないと『ジーニアス英和』は注意しています) については、うっかり批判すると営業妨害になりますが、どうしても気になる言葉の問題を1つ指摘しおきたいと思います。ある車の宣伝で、俳優の遠藤憲一が出ているものがあります。彼が、「ティーエヌピー(TNP)」と言うので、周囲から「なんで低燃費のことをそう言うのか」と問われて、「かっこいいじゃないか」と答えるバージョンがあります。英語らしく言えば“かっこいい”という意識はかなりの日本人にあるのではないでしょうか。

(2)私はかねてから“英語学習環境の破壊”ということを指摘してきました。「英語の教え方が悪いから日本人は英語を話せないのだ」という批判に応えて、「正しく英語が学べる環境を破壊しておいて、学校教育のせいにするな」と主張しているわけです。「カタカナ語の氾濫」「英語話者を崇拝する」「無意味な英語の多い歌詞を歓迎する」など、その現象はきりがありません。芸人ではルー大柴などが典型でしょう。やたらと英語の単語を並べて、あげくの果ては、「さあ、みんなトゲザー(together) しようぜ!」などと言っています。テレビ関係者には明確な言語意識がないから、“面白ければいい”という番組ばかり放送します。

(3)「文化の変化のこと」
 文化も変化することは誰でも認めることでしょう。今日のように、グローバル化が進むとその変化は一層早くなるようです。フジテレビ系の朝の番組で、「ココシラ」(このひどい略称については前に批判しました)では、童謡の歌詞に「ネコは炬燵で丸くなる」とあるので、「本当に丸くなるかどうか“ココマデシラベマシタ”という実験報告がありました。その結果は、十分に温かくなったネコは、身体を伸ばして横たわったり、腹を上に向けて寝そべったりしていました。

(4)「だから歌詞は間違い」というのが結論ですが、私には異論があります。
寒冷地を除いて、普通の家庭では、炬燵は戦前から重宝された暖房器具でした。しかし、今日よく見られるような上に置いてテーブルになる板などはなくて、ネコは炬燵の上に乗ると室温は低いですから、身体を丸めて暖を取るのです。人間がミカンを食べたり、お茶を飲んだりする場合は、大き目のお盆を使っていました。この番組の制作者には、そうした時代的な変遷を知る者はいなかったのでしょう。ただし、こういう生活習慣は地域によって相違があるでしょうから、違う見解がありましたらお知らせください。

(5)「テレビ関係者の反省」のこと
1月7日の毎日新聞の「赤坂電視台」というコラムで、TBSのNEWS 23クロスのキャスター松原耕二氏は、次のように書いていました。
「今の時代の中で、テレビニュースの役割は何か。大人が見るに足る内容を、私たちは提供できているのか」と始めて、「最後は伝え手の人間力そのものが問われるのかもしれません」と結んでいました。当たり前のことと言えばそれまでですが、送り手も受け手も、テレビという機械に頼り過ぎて、生身の人間同士のコミュニケーションを忘れがちなことは反省すべきことだと思います。そして、テレビニュースは、無駄な繰り返しを避けて、もっと内容を深めるような“ゆとり”のある報道をしてもらいたいと私は思います。
(この回終り)

前回の英訳問題「自分の考えを英語で書くためには、まず基本的な語彙と文法の知識が必要です」はいかがでしたか。答えは回答者の数だけあるかもしれませんので、模範解答を示すことはできません。考えられる学生の回答の中から最良のものを4つほど挙げてみましょう。

① In order to write one’s ideas in English, the knowledge of fundamental vocabulary and grammar is necessary first of all.

② In order to write your ideas in English, the first thing you need is the fundamental knowledge of vocabulary and grammar.

③ When we write our ideas in English, we need, first of all, the fundamental knowledge of vocabulary and grammar.

④ What is needed for us to write our ideas in English is, in the first place, the fundamental knowledge of vocabulary and grammar.

上記の英文はどれも、口語英語としては、理解可能(intelligible)だろうと思います。しかしこのように並べてみると、それぞれ少しずつ違うので、その違いについて何か言いたくなります。以下に述べることは筆者のかなり個人趣味的(idiosyncratic)な考察ですので、それを承知のうえお読みください。

 ①は問題文の直訳調です。理解可能ではありますが、なにか英文としてしっくりしない感じがします。それはおそらく ‘to write’ という不定詞の主語がこの文の中に表わされていないことによります。 ‘one’s ideas’ という目的語から、 ‘to write’ の意味上の主語は ‘one’ (一般的な「人」)であろうと推定されますが、この文の中にそれがはっきりと表わされてはいません。この文の主語は形式的には ‘knowledge’ ですから、前半の不定詞句の意味上の主語と、後半の形式的な主語とが違っています。そのために、なんとなく落ち着かない感じになるわけです。②以下の3つの文はその点が解消されていますので、①よりもずっと落ち着きがよくなっています。②と③は表現の仕方は違いますが、それぞれ ‘you’ と‘we’ を使ってこの文の主体を表しています。④はやや硬い感じがするかもしれません。このような文の構造は、口語体よりも、フォーマルな文語体によく使われるからです。しかし問題文の日本語の意味は充分に伝えています。このような構文が英作文に使えるようになったらすばらしいと思います。

 他にも気づく違いがいくつかあります。たとえば、「基本的な語彙と文法の知識」という日本語で、「基本的な」は「語彙と文法」だけにかかるのか、それとも「語彙と文法の知識」全体にかかるという問題があります。①は「基本的な語彙と文法」と解釈して英訳しています。②以下は「基本的な」が「語彙と文法の知識」を修飾すると解釈しています。英語の ‘the fundamental knowledge of vocabulary and grammar’ というフレーズは、 ‘fundamental’ が ‘knowledge’ だけを修飾しているというよりも ‘knowledge of vocabulary and grammar’ 全体を修飾していると考えるのが普通です。①の訳が間違いとは断定できませんが、②以下の訳のほうが自然であるように感じます。「自然であるように感じる」というのは非常に主観的ですが、これはおそらく筆者の読書経験から得られたカンです。あるいは、筆者の頭の中に「語彙と文法に関する一定の基本的知識」というものがイメージされているためかもしれません。もう一つ、日本語の「まず」をどのように英語で表現するかはけっこう難しく、上の例でも3通りの表現法があり、同じフレーズを用いても(first of all)、文中の位置が違っていて、どうしてそうなるのかを説明するのは必ずしも容易ではありません。書き手のカンで決めているところがあります。

 というわけで、英訳問題が英語の文法知識だけではなく、日本語の文構造の知識をも考察の対象にせざるを得ないということが分かります。そしてそれらの知識は、リーディングの際に必要とするような構造分析のための文法とは違って、文章を造り出すことに役立つ文法でなければなりません。文法書に書かれているような明示的(explicit)な文法知識は、文構造の分析や理解には役立っても、文を造るというプロダクティブな活動に役立つとはかぎりません。ライティングでは、しばしば、明示的な知識よりも書き手の主観的なカンにたよる暗示的(implicit)な知識が役立ちます。この最後の点は非常に重要です。母語話者はそういう知識を無意識的に使っていますが、英語を外国語として学ぶ学習者も、ライティングではそういう非明示的で暗示的な知識を使用する必要があるからです。ライティングの本当の難しさはそこにあるように思われます。(To be continued.)

初夢                  

      初夢                     松山 薫

いで入るや 波間の月をみいでらの かねのひびきに 明くるみずうみ

精神科医で作家のなだいなだによると、老人は悪夢しか見ないという。長い人生、失敗の体験の方が成功より多く、深く心に刻まれているし、寝つきが悪く眠りも浅くなるから、それらが重なって輾転反側ということになるらしい。確かに私の場合も、見る夢はほとんど悪夢である。初夢くらいはよい夢を見たいと思って、元日の夜は、初詣に行った藤澤の時宗総本山遊行寺で引いた「小吉」の御仏籤を枕の下に敷いて寝た。しかし見たのはやっぱり悪夢であった。寝る前から予感がしたのだ。予感の源は元旦の新聞記事だった。元旦の新聞というのはいわゆる暇ネタばかりで、ろくな記事はないのだが、ひとつだけアッと驚く見出しが目に入った。“ NHKラジオ7分間途切れる。アナウンサーらがスタジオ勘違い”とあった。その上、放送内容は「英語ニュース」だというのだから、30年前の失敗が衝撃的に蘇った。国際放送の場合は、電波が止まったり、正常に放送が流れないとクーデターの発生、反乱軍の放送局占拠が疑われるので、スタジオへの入室遅れの事故の防止には組織としても、個人としても最大限の注意をしている。しかし、人間のやることだから、failsafeというわけにはいかないのである。NHKにつとめた26年余りの間にニュースの編集は何千回もやったが、退職直前まで、入室遅れの事故は一度もなかった。それが、退職する1週間前にやってしまったのである。後で考えると事故はいくつもの悪条件が重なって起きた。それは最後の宿直勤務の深夜のこと、これが最後だと思うとなんとなく感傷的な気分になっていた。つまりは油断だ。徹夜勤務で最もつらいのは午前3時頃で、頭が痛くなるような猛烈な睡魔が襲って来る。しかも、3人の宿直記者のうち、2人は仮眠室で寝ている。3時の全世界向けニュースは宿直者の1人が既に編集して日本人の英語アナウンサーに渡してあった。3時10分前,モスクワ支局から“日ソ漁業交渉妥結”のニュースが入った。何とか3時のニュースに突っ込もうと思って、英文ニュースを書き終わると3時1分前だった。廊下をひとつ隔てたニューススタジオへ飛び込むと、アナ・ブースの扉は開けっ放しで中にいるはずのアナウンサーの姿がない。放送開始1分前からの予告音楽が既に始まっていた。1階上のアナウンサーの居室に駆け上がると、アメリカ人のアナウンサーがのんびりTVを見ていた。“〇〇はどうした!”と叫ぶと”今出て行った”という。〇〇アナは、下読みの時間がありすぎたので、アメリカ人と雑談をしていたらしい。時間に気付いてあわてて飛び出したが、相手が同じ日本人アナだったら、どちらかがもっと早く気付いていたはずだ。私と〇〇アナは別の階段を使ったので行き違いになったのである。結局放送に20秒間の穴をあけてしまった。この事故のことは退職してから何回か夢に見た。元同僚の話では、たいていの人が、同じような悪夢を見たという。スタジオへの廊下に竹やぶがあって、行けども行けどもたどり着かず、そのうち開始音楽が聞こえてきてへたりこんだとか、スタジオのドアに”変更“の張り紙がしてあり、指定された場所がとんでもなく遠いところだったので絶望したとか、今回の事故のように、別のスタジオで悠々と放送していたなど、元放送屋の深層心理に潜む入室遅れ事故への恐れが、奇想天外な事態を含めていろいろなパターンの事故の悪夢となってよみがえるのだろう。
ところで冒頭に掲げた和歌は、遊行寺御仏籤の「小吉」についていたもので、説明文は字が細かくてその場では読めなかった。悪夢の翌朝、ぜんぜん効かないじゃないの、と思って天眼鏡で読んでみた。「月の光、鐘の響きに運勢は朝明けに彩られようとしています。しかし苦しさはなおしばらく続きます。今こそ苦しさに耐えましょう」 <願い事かなわず、辛抱のしどころ>とあった。喝! (M)

「大晦日・元日の放送番組」のこと
(1)大晦日は、どこの家庭もテレビなどあまり見ないだろうという思惑があるのか、民放のテレビ番組はどれも粗製濫造のような気がしました。普段でもそうですが、再放送なのか、予告なのか、本番なのかよくわからないような構成が多く、デジタル編集の悪い点ばかりが目立つのです。料理で言えば、メインディッシュは匂いだけ、付け合わせの野菜は一口ずつ、デザートは3時間後に、といった調子です。

(2)大晦日に私は、「そうだったのか池上彰の学べるニュース」(テレビ朝日系)を一番長く見ました。視聴者からの疑問をタレントが読み上げたり、タレント自身が質問したりすることに、池上氏が幾つ答えられるか、ということで興味を引こうとしていました。そんなことより内容についての考察のほうが大事でしょう。政治、経済、教育、環境など多岐にわたるのですから、即答できるのは大した能力です。池上氏の言葉遣いで、気になったのは、“ざっくり言って”をよく使うことです。“おおざっぱに言って”ということらしいですが、国語辞典ではまだ認めていない表現だと思います。

(3)正月になって、池上彰氏は、すべての番組から降板するとテレビで報道されました。あまり有名になり過ぎて、落ち着いて街中も歩けない、著作に専念したいとのこと。日本では、寄って、たかって有名人をダメにしてしまう悪いくせがあります。でもこの傾向の普及には、テレビにも責任があると思います。

(4)大晦日の番組では、日本テレビ系は、“エロ・グロ・ナンセンス”のものが多く、見る気がしませんでした。K-1 の実況中継(TBS 系)は時々見ました。K-1(K は、格闘技のK)は、プロレスよりもルールが厳格で、レフェリーも公平のようです。ただし、ボクシングやK-1 は、開始1分以内で勝負がついてしまうことがありますから、番組がすぐに終わらないように、前置きが長く、過去の試合を見せたりして、ぜんぶ見るのは退屈します。選手の入場シーンをぎょうぎょうしいアナウンスで盛り上げようとしますが、放送権を得た局だけが騒いでいる感じです。民放にありがちな“感動の押しつけ”です。

(5)NHK の「紅白」は、ときどき見ましたが、その中では、“SMAP” が一番良いと思いましたが、やはり視聴率も高かったようですし、人気のグループ“嵐”もいる白組が優勝しました。それにしても、赤組(女性)と白組(男性)とに分かれて競う必要があるのでしょうか。私は演歌が好きですが、あのような雰囲気ではじっくり聞けません。男女混合にして、前半は懐かしのメロディー、後半は現代ポップスのように分けた方がよいと思います。視聴者を参加させたいならば、良いと思った歌とか歌手を投票させればよいでしょう。

(6)元日の番組はほとんどが暮れに録画したものです。それなら、「12月××日録画」と明示すべきです。そうでないと、テレビ局は、視聴者をだます詐欺集団になります。もっとも、TBS 系のラジオでは、「この放送は年が明けてからですが、今日は12月29 日です」と出演者が正直に語るものがありました(TBS ラジオ Dig)。ちなみに、この番組は、「これからラジオはどうなるか」をテーマにしたこともあって、スポンサーの激減している放送界の深刻な問題がよくわかりました。そして、政府や役所の対応の遅さに腹が経ちました。アメリカのローカル放送など、日本の十倍の予算で運営しているようです。制度が違いますから、すぐに真似はできませんが、知恵を出して、何とかすべきでしょう。(この回終り)