Archive for 9月, 2015

前回の「自立」(independence)に続いて今回は「創造(性)」(creativity)に関する問題を取り上げます。近年はあらゆる学びにおいて創造ということが話題になっています。母語や外国語の学びにおいても創造がしばしば話題になります。以前は芸術家が創造を語るのは当然のことと考えられていましたが、外国語の教師が創造を語ることはなかったように思います。なざなら、言語は社会的な制度であり、特定の言語を習得することは自分の住む土地の言語使用のしきたりを習得することであり、言語記号そのものが社会に承認された暗黙の記号体系だと考えられていたからです。これは20世紀初頭に現れたスイスの言語学者ソシュール(Ferdinand de Saussure1857-1913)の考え方が大きく影響しています。

また、ソシュールに次いで20世紀前半を主導していた「行動主義心理学」の言語観も大きく作用していました。そこでは、言語使用は一連の刺激・反応のパタンの習得として捉えられていたのでした。 “Thank you.” と言われれば即座に “You’re welcome.” と反応します。複雑に見える言語も、その要素に分解すれば、すべてこのような刺激と反応の体系に還元できると考えたのです。したがって、そこでの言語の学びは、模倣と反復による一定の言語パタンの習熟と考えられていたのでした。筆者が大学で学習心理学を専攻していた時代(1950年代前半)がそうでした。そこでの学習に関する心理学実験はほとんどネズミやネコを用いて、彼らがどのように新しい刺激・反応の結びつきを学習していくのかを観察することでした。言語使用のような複雑な人間の行動もモデルの模倣・反復の強化によって獲得される、とまじめに考えられていたのです。

しかし模倣と反復による言語の学びには限界があります。言語のパタンを分類し、その一つひとつのパタンを模倣と反復によって完全に記憶して言えるまで練習しても(その練習法を「パタン・プラクティス」と呼ぶ)、自分の言いたいことが言えるようにはならないことがはっきりしたからです。確かに、教室で特定のパタンをドリル(徹底練習)することによって、その表現をネイティブ・スピーカーなみに流暢に言えるようになります。たとえば “Hi, what are you doing there?” —“I’m watching those birds up there.” という表現を教室で記憶し、それを反復練習によってほとんど完璧に言えるようにし、文の中の要素(単語や語句)をいくつか入れ替えて応用ができるようになったとします。ここまではしっかり「ドリル」をすれば、教室ではたいていの生徒はついてきます。

ところが、教室から一歩外に出て実際に英語を使用する場面になると、うまく出てこないことが多いのです。 “Thank you.” —“You’re welcome.” のような定型表現ではうまくいくでしょう。しかし実際に使われる言語は非常に複雑で、教室で行うパタン・プラクティスのようには行きません。たとえ教室で練習した通りであっても、それが自分の知っているどのパタンであるかを認知するのに手間がかかります。会話を行っているときには、そんなことを考えている余裕がありません。しかも言語のパタンというのは、細かく分類をしていくと、その数はどんどん増えていって、収集がつかなくなるほどの数になります。そういうわけで、日本でも一時(1950年代後半から1970年代にかけて)隆盛をきわめたパタン・プラクティスの有効性が、しだいに疑問視されるようになりました。今日では、それは定型表現の練習やスピーキングの流暢さのドリルとして、授業の一部に取り入れられる程度になっています。

このような行動主義的言語観を批判し、それに真っ向から挑戦して新しい言語研究の道を切り拓いたのが、1950年代に彗星のごとく現れた米国の言語学者ノーム・チョムスキー(Noam Chomsky 1928- )でした(注)。彼の新しい言語理論は、行動主義とは違って、言語使用の創造的な面を扱おうとしました。ここで「言語使用の創造的な面」とは、言語は無限に多くの思想を表現することのできる仕組みであり、次々に現れる新しい場面において、それぞれにふさわしい表現の仕方を創り出していくことのできる言語使用者の能力です。ですから言語の文法は、そのような能力の説明に役立つ手段を提供するものでなければなりません。したがって、それは第一に、文を解釈したり、産出したりする場合の規則的操作を正確に記述するものでなくてはならないのです。

そのようにしてチョムスキーの文法は1950年代の終り頃から20世紀末に至るまで、世界の言語学会をリードすることになりました。現在のチョムスキー文法(生成文法と呼ばれる)はあまりにも専門化したために、文法の素人には分かりにくいものになりましたが、細かい点はともかく、人間の言語使用が創造的な面を持っていることは現在では当然のことと考えられています。

しかしここで、言語使用における「創造」という言い方に違和感を持つ方もおられるかもしれません。芸術家が何かを創作する活動と、私たちが言語を使用するときの活動は違うのではないか?というようなことです。しかし「創造」ということを、「無から有を生じさせる」というような狭い定義にこだわる必要はないでしょう。旧約聖書『創世記』の冒頭の一句、「初めに神は天と地とを創造された」も、神が無から有形の天地を創られたのだと考える必要がないのと同様です。人間には無を有に変える力はありませんし、神がそういう力を持っているかどうかは私たちには分かりません。それは神学的問題ではあっても、現実を生きる私たちにはあまり関係がありません。私たち人間は、自分の利用できるものを利用することによってのみ、新しいものを産み出すことができます。言語の場合には、自分たちにすでに与えられている言語に関する有限の音韻や語彙を素材にして、自分自身の考えや思いを表わすための新しい表現を産み出すことが、すなわち私たちの創造的活動なのです。それは時に既に存在するものとあまり変わらないこともありますが、そのような活動から新しいものが無限に産み出される可能性があります。

(注)ノーム・チョムスキーは、米国マサチューセッツ州にあるMIT (the Massachusetts Institute of Technology) の言語学および言語哲学の研究所教授兼名誉教授。彼が行動主義理論を批判し、新しい言語理論を提示して世に知られるようになったのは、  ‘Review of Skinner’ (1957) というLanguage に掲載された行動主義言語学に対する批評論文と、同年に出版されたSyntactic Structures (1957) という著書によってです。彼の開発した文法理論は「生成文法」(Generative Grammar)と呼ばれ、人間の持っている言語能力(自分の言語で無限に新しい文を作ることができ、その言語で許されない文を聞くと即座におかしいと感じる能力など)はどのようなものであるかを明らかにしようとする。彼の業績は言語学だけではなく、数学・心理学・コンピュータサイエンスなどにも及ぶ。また、ベトナム戦争の痛烈な批判でも知られ、戦争・政治・マスメディアなどに関する100冊以上の著書を著している。一般のアメリカ人には、言語学者としてよりも反戦論者として知られている。

今回は中教審答申の3つのキーワードの一つ、学びにおける「自立」について考えてみます。あらゆる種類の学びにおいて、「自立」は最も重要な課題の一つです。外国語の学びも例外ではありません。その主な理由は次の二つです。第一に、私たちは何事かを学ぶとき、いろいろな人の助けを必要とします。しかし結局のところ、頼ることができるのは自分自身です。学ぶ主体は常に自分自身であり、自分の中に必要な知識や技能を創り上げていくしかないのです。第二に、私たちの学びの多くは学校だけで終わるのではなく、卒業したあとも生涯続くことです。これは当たり前のことですが、大人になってもそれに気づかない人が多いようです。いくら英語を学んでも出来るようにならないとか、さっぱり身につかないと嘆く人がいますが、そういう人の多くは、この「自立」ということに気づかないのでしょう。

たとえば、話すことを学ぶためには、私たちは自分の意志によって始動する発声器官を用いなくてはなりません。自分の話したいことを他の人の発声器官に代行してもらうことはできません。赤ちゃんですらそのことを知っています。ですから彼らは、必ず母語の習得に成功します。ところが外国語を学ぶときには、自分の発音の悪さを他人のせいにする人が何と多いことでしょうか。「私は何年も英語を学んだけれど発音には自信がない」と言う人がいます。日本の大学生の多くがそう言います。その主な原因は、筆者の見るところ、英語の発音の上達は先生や母語話者の発音を真似ることだと信じて疑わないからです。赤ちゃんはそうは思っていません。言葉は自分で創り上げるものと決めているのです。ところが大人になると、赤ちゃんのときに持っていた自立的な学びの態度を忘れて、ただひたすら先生や他のモデルを真似ることに専念し、自分自身の意志を働かせて英語の音を創り上げていくという努力をしないのです。

これには教える側にも責任があるかもしれません。初歩の段階で、先生方は「私が発音する通りに言ってみなさい」と指導するからです。たしかに、最初は真似することから始まります。しかし模倣だけで複雑な英語の音声システムを自分のものにすることはできません。英語の音声構造というのは、以前のこのブログで述べたように、一つひとつの音を無心に模倣することで習得できるほど単純なシステムではないのです。赤ちゃんが自分の母語の学びにおいて、どのようにしてそのような複雑な音声システムを把握し、自分のものとしていくのかについて、最近の言語発達研究はかなり明らかにしています。ところが大人になると、人は英語学習にそのような努力を惜しむようになります。つまり、自分が幼い頃にした母語習得の経験を覚えていないので、「発音の学習など簡単なことだ、他人の真似をしていれば自然にできるようになるさ」と高をくくります。実は、それが最大の躓きの原因なのです。

単語についても同じようなことが言えます。英語の単語を覚えることは、それに近い意味を表わす日本語を記憶することだと考えている人が多いようです。たとえば ‘book’ は「本」、 ‘run’ は「走る」という具合。そこで、それを一つずつノートやカードに書いて、それに対応する日本語を書き、それを時々ながめて機械的に記憶するという方法が産み出されます。そういう単語の覚え方はある種の単語テスト(「次の単語の意味を日本語で書きなさい」という種類のテスト)の準備としては役に立つかもしれません。しかしすべての単語をそのようにして覚えようとするのは賢いことではありません。なぜなら、そうして覚える単語の知識は実際には使い物にならないからです。単語の意味は文脈や場面に依存しており、それが使われる場面によってその意味が大きく変化するからです。

次の引用は、今井むつみ・針生悦子著『言葉をおぼえるしくみ 母語から外国語まで』(注)の中の一文です。

「外国語の語彙学習が難しい理由は、単語それぞれがどのような文脈でどのように使われるのかという経験を経ずにことばで与えられた定義から単語の意味の範囲を決めようとし、その時に、母語で対応する単語の範囲を無意識に外国語の単語に当てはめてしまうことにある。」(同書343頁)

たとえば ‘book’ を「本」とおぼえても、 ‘I’d like to book a table for two for 7 o’clock tonight.’ 「今晩7時に2人用のテーブルを予約したいのですが。」という英語は理解できません。また、英語には「走る」に相当する語が ‘run’ 以外に少なくとも2つあり、走り方によって区別します。下の例を見てください。

* I ran all the way to school this morning.(今朝は学校までずっと走ったよ。)

* She jogs for an hour every morning.(彼女は毎日1時間ジョッギングする。)

* He sprinted the last 10 meters.(彼は最後の10メートルを全力疾走した。)

以上に見たように、単語は文脈から切り離して覚えても、無駄とは言えませんが、それだけでは使えるようにはなりません。やはりその語が使われるいろいろな場面を経験しながら、その意味範囲と使用範囲を理解していくことが必要なのです。子どもの母語習得もそのようにして、経験を通して少しずつ語の意味範囲を特定していくわけです。ですから、語彙の獲得には膨大な時間がかかることを覚悟しなければなりません。ただし急いで付け加えますが、単語帳や単語カードによる単語学習法がすべて無駄だと言うのではありません。語彙を増やすために学習者自身がそうすることが必要だと考え、その記憶法の限界を承知し、自分自身の独自のノートやカードを工夫することが大切です。学ぶ主体は常に自分自身なのですから、学び方も自分で工夫するのが最善なのです。

最後に、「自立」(independence)は「自律」(autonomy)に発展します。「自立」は単に他の人の指示・支配から脱していることを言いますが、「自律」はもう一歩進んで、他の人の指示・支配を受けずに、独自に行動し意志決定できること(the ability to act and make decisions without being controlled by anyone else <OALD>)を言います。たいていの大人は、自分の母語に関しては自律的能力を発達させています。「ありがとう」と言われれば、間髪を入れずに「どういたしまして」と応じることができます。英語では ‘Thank you.’ —‘You’re welcome.’ です。もちろん、日本語と英語の対応の仕方が異なる場合はいくらでもあります。英語の学びはそういう経験をたくさん積むことによって、それぞれの表現を自分のことばとして自律的に使用することができ、自分の発することばに責任を持つことができるようになるのです。

(注)『言葉をおぼえるしくみ 母語から外国語まで』(ちくま学芸文庫2014)は、この本の著者たち(今井むつみ・針生悦子)が行った、子どもの母語習得に関する多くの実験に基づいて、語彙がどのようにして学ばれるのか、そして外国語の語彙の習得が母語の場合とどう違うのか、についていくつかの有益な考察を行っています。