Archive for 12月, 2016

「ポリティカル・コレクトネス」(PC)に関する問題は、前回ふれたように、今年のアメリカ大統領選挙でのトランプの女性および白人以外のマイノリティーに対する差別的な発言によってにわかに表面化しました。なぜなら、トランプはその暴力的とも言える発言によって、これまでの政治家が守ってきた(または守ろうとしてきた)PCのルールを意図的に無視したからです。そうすることによって、彼はPCに対して反感を抱いている人たちの支持を獲得できると計算したのです。大統領選挙の結果は、彼の予測が見事に当たったことを示しています。つまりトランプは、PCに反する無謀とも思われる発言を繰り返すことによって一般大衆の感情に訴え、その人々の心をつかむことに成功したのです。

しかしアメリカにおけるPCの問題がどういうものかを承知していないと、上記の事情はよく理解できないかもしれません。日本ではPCという言葉を耳にすることは多くありませんし、聞いたことがあっても完全に理解している人は少ないのではないでしょうか。その原因は、日本はアメリカやヨーロッパに比べてマイノリティー人口の割合が小さく、この問題がアメリカやヨーロッパ諸国ほどには深刻になっていなかったからです。しかし近年、在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチに見られるように、この問題が社会的に認知されるようになりました。PC問題は日本でもこれから大きな問題に発展する可能性が高いのです。そこでまずPCとはどういうことであり、それがいかに深刻な問題を含んでいるかを、順を追って述べることにします。

まず、トランプが大統領選挙に参入した頃からの発言で、PCに反すると思われるものを3つほど例として取り出してみます。これらは日本の新聞にも取り上げられたもので、明らかに個人やマイノリティーを侮辱するものです。

l  “If Hilary Clinton can’t satisfy her husband, what makes her think she can satisfy America?” <via Twitter, April 2015>(ヒラリー・クリントンが夫を満足させられないなら、アメリカを満足されられると思っているのはどういうわけか?)

l  “I will build a great, great wall on our southern border, and I will have Mexico pay for that wall.” <June 2015>(南側の国境にでっかい万里の長城を築いて、その費用をメキシコに払わせてやる。)

l  “Donald J. Trump is calling for a total and complete shutdown of Muslims entering the United States until our country’s representatives can figure out what is going on. <on his own website, December 2015>(ドナルド・トランプは当局が事態を把握するまで、イスラム教徒の合衆国への入国を全面的に禁止するよう要求している。)

このような発言について言えることの一つは、トランプがこれまでのどの政治家とも違って、私的な会話では口にすることがあっても、公けの場では慎むような言葉を敢えて発するという大胆な戦術を用いたことです。つまり、彼は当面の選挙に勝利するためには、他の候補者が禁じ手としている手段を躊躇せずに用いる人間だということです。おそらく彼はこれまでそのような戦術を用いて、自分のビジネスを拡大することに成功したのでしょう。しかしビジネスではそれが通用したとしても、これからのアメリカ大統領という、世界の大国をまとめ上げる立場にある政治家として成功するかどうかは大いに疑問です。彼のこれらの発言によって傷ついた人々が多数存在するからです。トランプがこれからの困難な職務を全うすることができるかどうかは、彼が大統領になって自分のしたい放題のことをするのではなく、すべきではないことを断固としてしない、言わないという良識を持つことができるかどうかです。

PCというと、私たち日本の英語教育関係者の間では、性別・人種・障害などに関する差別語を、非差別的表現に言い換える運動と理解していました。それは1980年代後半からだったと思います。たとえば性別(gender)を表す語では、 policemanをpolice officer, chairmanをchairperson, stewardessをflight attendant(またはcabin crew)など、男性または女性を表す語を両性に使えるように、中立的な表現に言い換えることでした。また、女性の未婚と既婚の区別を表すMissやMrs.を廃止し、どちらにも使えるMs.を使うべきだとしました。人種に関係する語に関しては、アメリカのような白人優位の多民族国家には黒人や有色人種への差別的表現がたくさんあって、多くの人々に日常的に使われていました。そういう語もより中立的な語や表現に換えられました。障害者に対する差別語についても同様です。日本語でも「めくら」や「かたわ」などの差別語が注意深く避けられるようになったのもその頃からでした。

しかしアメリカにおけるPCの問題はこれに留まるものではありません。それはもっと根の深いもので、その影響も広範囲に及んでいます。このあたりの事情を詳しく知るために文献を調べたところ、「ポリティカル・コレクトネス論争に関する研究ノート」(1994年)という論文に行き当たりました(注)。以下に、この論文に挙げられているPCをめぐる諸問題の中で最も重要と思われるものを3点にまとめておきます。これらは、日本でもこれから起こるであろうPC問題をめぐる議論を理解するのに、大いに役立つはずです。

(1)PC運動は、性別・人種・障害などに関する差別語を、誰からも非難されないような表現に変えることから始まったのですが、その運動が激化するにつれて「言葉狩り」の様相を呈してきました。そしてそれは単なる差別表現改革運動の枠を超え、過激な「言語浄化」(language cleansing)の政治運動にまで発展し、言論の自由を脅かす危険が生じるまでになりました。

(2)PCは建前上「多文化主義」(muticulturalism)を標榜するものですが、現実には非白人・女性・被抑圧階級・同性愛者以外の人間を許容しない政治的な「単一文化主義」(monoculturalism)に陥ってしまいました。

(3)PC運動が盛んになるにつれ、大学における大量のマイノリティーの進出と学問の多様化が進んできました。すると必然的に保守的な人々や伝統主義者たちから、それに対する強い批判があがりました。いわゆるPCの「揺り戻し」です。共和党のブッシュ大統領(George H. W. Bush)がミシガン大学での講演で「PCは検閲やいじめ」であると決めつけたのは1993年でしたが、それは逆に民主党のPC派を結束させることになりました。こうしてアメリカは、PCをめくって保守と革新の分裂が始まったのでした。

以上の経過から、PCは今や政治論争の中心に位置する深刻な問題になっているのです。そして次期大統領トランプは、PCに批判的な保守的勢力に訴えることによって選挙を勝ち抜いたのです。その戦略はまんまと成功しました。しかしそこで起こったアメリカ国内の分裂はますます深刻になりました。これによって生じたアメリカ国民の分裂をどのように修復するか、これが今やトランプの最大の課題となっているわけです。

(注)「ポリティカル・コレクトネス論争に関する研究ノート」の出典:文教大学人間科学部発行『人間科学研究』第16号pp.88-97(1994)三本松政之・関井友子。この論文は次のサイトから検索可能です。

http://sucra.saitama-u.ac.jp/modules/xoonips/detail.php?id=BKK0000938

2016年も残るところわずかになりましたが、今年のトップニュースはなんと言ってもトランプ当選に終わったアメリカ大統領選挙でしょう。6月に実施されたイギリスのEU脱退(BREXIT)を決めた国民投票の結果も大きなニュースでしたが、その影響力からいって、アメリカ大統領選挙の方がショックの度合いはずっと大きかったと思います。世界中がパニックに陥ったのではないかと思われるほどでした。例によって、そんなことはとっくに予想していたことだとしたり顔に言う人もいますが、しかしそれは終わったことだから言えることで、ではこれから先はどうなるかと問われて、自信を持って回答できる人などいないはずです。それが起こることは可能性として十分に認識していたとしても、予測の難しい自然現象と同じく、実際に起こるまでは疑心暗鬼なのが神ならぬ我々人間の常なのです。

意外な結果に終わったアメリカ大統領選挙によって、私たちが気づいたことがいくつかあります。大きな問題を二つだけ挙げます。その一つは、近年のグローバリズムへの急激な経済変化によって、一部のエリート層と大多数を占める一般大衆との貧富の差が拡大し、それを不平等と感じる人々の不満が我慢の限界を超える程度にまで進んでいたということです。民主党のサンダーズ候補の善戦もそれを物語っています。筆者は政治学者でも社会学者でもないので、そのようなグローバリズムによる人々の分断化の歴史的経過や現状を客観的に分析する能力を有しませんが、世界の政治がトランプ現象に刺激されて、「自国第一」のナショナリズムの方向に進んでいくのではないかと危惧しています。最近のヨーロッパ各国における極右政党の台頭はそのようなナショナリズムの傾向を顕著に物語っています。このまま進むならば、やがてかつての忌むべき戦争への道へと進むことは避けられないように思われます。

もう一つ私の気づいたことは、トランプの暴力的とも言える数々の発言によって、これまで多くの人々が慎重に避けてきたレイシズム(racism)やセクシズム(sexism)などに関する差別的な表現が、今度の選挙では大量に使用されたことです。それは「ポリティカル・コレクトネス」( political correctness)と呼ばれている問題と関係します(注)。政治家や知識人は、近年、人種差別や性差別やマイノリティー蔑視につながる言葉を避けるように必死に努力してきました。ちょっとでもそれに抵触するような発言をするとメディアが大きく取り上げて非難しました。ところがトランプはそういう発言を好んで(おそらく意図的に)使いました。もちろんメディアはそれを叩きましたが、トランプは決して止めようとしませんでした。それにもかかわらず、「トランプは正直でいい」という声がずいぶんありました。つまり、多くの普通のアメリカ人にとって、 “political correctness”というのはあくまでも建前であって、人前ではそういう用語や表現を使うように気をつけているけれども、本音(つまり、心の奥底)ではいつも反発を感じているということなのです。

こんなことを考えているときに、たまたま『「グローバル人材育成」の英語教育を問う」(ひつじ書房2016)という本(注2)が目に留まりました。それは、グローバル化によってもたらされた社会格差というような大きな歪みが顕在化している今日、わが国の教育行政が全力を上げて取り組んでいる「グローバル化に対応した英語教育」が、果たして正しい政策と言えるのかどうかを批判的に論じています。以下にこの本の内容を紹介し、現在進行中の文科省主導の英語教育政策がいかに大きな問題を含んでいるかを考察します。(第二の「ポリティカル・コレクトネス」に関連する諸問題については、次回に稿を改めて述べるつもりです。)

この本は、まず「グローバル化」とはどういうことかを定義することから始めています。野村昌司氏は最初の基調提案で、「グローバル化時代においては、各国のルール、つまり国境をなくしてしまい世界共通のルールのもと、同じ価値感を共有しています」(下線と太字は原文による)と述べています。そしてここで言う「世界共通のルール」には「世界共通の言語」が必要になり、それは当然「英語」ということになります。英語はもともと英語圏文化の言語ですから、日本におけるグローバル化というのは、英語圏文化の価値感を共有するということです。これを突き詰めていくと、その行き着くところは日本のアメリカ化ということになります。そこで日本の政府と文科省は、日本人も英語母語話者のように英語を自由に使えるようになる必要があり、そのためには小学校から英語を学ばせる必要があるという結論に達し、2020年度改訂の学習指導要領によってそういう教育を実行しようとしているわけです。

しかしこれは根本的に間違った考え方であり、日本を危険な方向に導く教育方針であることを、この本に登場する論者はさまざまな角度から論じています。たとえば二番目の論者である江利川春雄氏は、そもそも学校教育における外国語教育の目的は「クローバル人材の育成」ではないと述べ、文科省が現在行っている英語教育政策は上位1割ほどのエリート教育に特化していると断じます。残り9割の人たちの学びのためには、英語一辺倒ではなく、「世界の現状と展望を考えさせる教材」を開発して、複言語・複文化主義に基づく、国境を越えた「民主的市民」の育成を目指すべきだと主張しています。次の鳥飼玖美子氏は、江利川氏の提案を引き継ぎ、日本の外国語教育は「グローバル人材」ではなく「グローバル市民」の育成であると論じ、「グローバル人材は、日本企業のために世界で闘う人材というイメージが濃厚ですが、グローバル市民は、闘うのではなく、地球社会に貢献するのです」と述べています。

残る二人の論者についてはここでは割愛しますが、いずれも英語教育に直接かかわる専門家の立場から、現在行われているわが国の「グローバル人材育成」の英語教育が、いかに間違った、危険な方向に向かっているかを明らかにしています。

なぜ文科省はこういう英語教育の専門家たちの意見を取り入れようとしないのでしょうか。筆者の見るところ、それは文科省が現政府の考え方に追従して、経済成長優先の国家政策のもと、一部の声の大きな企業家の意見を英語教育に取り入れようとしているからです。しかし教育を実践する教師たちは、無自覚的に時の政府の方針に従ってはなりません。そうでないと、自らの気づかぬうちに、これからの世界に羽ばたく子どもたちや若者たちを誤った方向へ――つまり、取り返しのつかない孤立主義や戦争といった人類滅亡の方向へ――と導いてしまう危険があります。先の大戦が終わって日本が焦土と化したとき、多くの教師が自らの教え子たちを戦場に送り出してしまったことを悔いました。私たちはそういうことが再び起こることを絶対に許してはなりません。そのような事態を回避するためには、それぞれの教師が、自分のいま扱っている教育の内容と方向が真に子どもたちの将来に役立つものなのかどうかを、常に吟味しながら授業を進めることが重要なのではないでしょうか。

(注1) “political correctness”(略してPC)とは「人種や性別などの違いによる偏見・差別を含まない反差別的・中立的な用語や表現を用いること」を意味します。日本語にはこれに相当する用語がないので、「ポリティカル・コレクトネス」と片仮名英語で表すことが多いようです。そもそもは「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的観点から公正で適切な用語を使う」という意味で、1980年代にアメリカで始まった運動です。なお上の定義に挙げた人種・性別のほかにも、民族・文化・宗教・職業・出自・身体的障害・精神的障害・年齢・婚姻状況など、多岐にわたります。日本語の「障害」や「障害者」という語も「害」という否定的意味を持つ漢字を含むので、差別語だと考える人もいます。

(注2)この本は、2015年6月13日に中京大学で行われた「グローバル化に対応した英語教育とは?」と題する公開講座を基に編集されたものです。講師は野村昌司(基調提案 中京大学)、江利川春雄(和歌山大学)、鳥飼玖美子(立教大学)、斉藤兆史(東京大学)、大津由紀雄(明海大学)の5名で、それぞれの演題は次の通り。野村:グローバル化に対応した英語教育とは?;江利川:外国語教育は「グローバル人材育成」のためか?;鳥飼:グローバル人材からグローバル市民へ;斉藤:「グローバル時代」の大学英語教育;大津:本道に戻ってグローバル化に対処する。