Archive for 6月, 2011

「報道の公平性」から見るテレビ画面のこと
(1)司会者は、「ある会合の進行を司る」のは当当然のことですが、公平で適切な進め方というものは、意外と難しいものです。最悪の例は、国会の議事進行に見られます。各委員会の議長は多数党が占めるために、その司会ぶりは、決して公平とは言えません。質問者が、「総理、答えてください」と要求しても、官房長官や他の大臣の答弁を優先的に認めたりします。

(2)プロレスの中継が普通のテレビ番組から消えたのは、レフェリーのあまりにも不公平な審判があったからだと私は思っています。今でもプロレス愛好者は決して少なくないですが、多くの視聴者が離れたのは、不公平な審判に嫌気がさしたからだと思います。特に女子プロレスの凋落は惨めでした。プロ野球中継も、一時は「巨人偏重」で、その結果、今は中継時間が限定されていますし、野球よりもドラマを見たいという人が多くなりました。「奢る平家は久しからず」と始まる「平家物語」は軍記ものですが、「平家の衰亡を予言したもの」という説があります。そうだとしたら、現代でも意味を持つ予言です。

(3)アメリカでは、共和党と民主党の二大政党が長く続いていますから、どちらの支持派に属するかをはっきりさせる人が多いように思います。しかし、比較的にフォーマルで、初対面の人がいる集まりでは、宗教や政治の話は避けるのが常識です。日本文化では、自己主張をしないという風習が強いですから、よけいにこういう話題は避けられてきました。日本のマスコミは、「公平な報道」を“タテマエ”としていますが、例えば、「サンケイ」は右寄り、「朝日」は左寄りといった傾向があることは以前から言われてきました。それなら、いっそのこと“公平な報道”なんていうことは棄ててくれたほうがすっきりすると思います。

(4)増原良彦『タテマエとホンネ—日本的あいまいさを分析』(講談社現代新書、1984)という本があります。この本には、「男女が同じという馬鹿げた主張」という小見出しで、次のような個所があります。
「戦後日本の民主主義は、結局のところ『悪平等』の考え方を日本人のあいだに定着させてしまったのではないだろうか…。私はそう思えてならないのである。—中略— たとえば、学校給食がいい例である。太った子どももいれば、チビもいる。デブとチビでは、必要なカロリーがちがっている。にもかかわらず、画一的な同量を給食しているのが現行の学校給食である。」(p. 174)

(5)著者は、「不必要な差別」には反対すべきである、としながら、「悪平等」の弊害を説いています。30年以上前と現在では、社会情勢も大きく変わってはいますが、日本人はこうした問題提起にもっと真剣に取り組むべきであったと私は考えます。特に最近のテレビ画面を見ていると、視聴者に迎合していて、問題の掘り下げ方がとても浅いと感じるのです。

(6)こんなことでは、外交交渉などうまく出来ないのは当然でしょう。中国のように奸智にたけた国を相手にするには、日本は人が良すぎます。しかも政権与党がしっかりしていなのでは、国民を不幸にするだけだと憂慮に堪えません。(この回終り)

前回に述べたチャンクの話は、英語や日本語の特徴に関連づけることができます。作家・井上ひさしの『日本語教室』(新潮新書)によると、日本人がひと息で発音できる日本語の音節数は12から15までで、これは実験的に裏づけられているそうです。12音節というのは7プラス5ですから、やはり日本人は七五調のリズムがリ基本なのでしょう。俳句や短歌だけでなく、標語などもたいてい七五調です。日本語の詩の多くもそうなるようですね。先日の新聞で知ったのですが、90歳を過ぎて作詩を始め、昨年98歳で出版した詩集「くじけないで」がベストセラーになった、柴田トヨさんという方がおられます。この方が新聞に寄せた詩の最初の部分を紹介しましょう。詩の題名は「手紙—天国の両親に—」です。やはり七五調が基本になっていることがすぐ分かります。

 おとっさん おっかさん / トヨは百歳になりました / 二人が見守っていてくれた / おかげです // 連れあいも そちらに逝って十八年 / 一人暮らしは きついけれど / 多くの人に支えられて / とても幸せ //

 どの行も12音節以内にまとめられ、正確な七五調ではありませんが、5音節と7音節のチャンクが適当に配置されてリズムを作っています。これならば、数回読めば暗記できるでしょう。七五調はきっと日本人のDNAの中に組み込まれているリズムに違いありません。

 では英語はどうでしょうか。英語は七五調とは違い、音節の強弱や弱強のリズムで快いチャンクを作っています。次は筆者が中学生時代に英詩の面白さを知った、ワーズワース(William Wordsworth 1770-1850)の ‘Daffodils’ という有名な詩の第1節です。

 I wander’d lonely as a cloud / That floats on high o’er vales and hills, / When all at once I saw a crowd, / A host of golden daffodils, / Beside the lake, beneath the trees / Fluttering and dancing in the breeze. //

 この詩はほぼ正確に「弱強」のリズムで構成されています。これは英詩によく使われるリズムで、アイアンビック(iambic)と呼ばれています。次のように、強く発音する音節を太字にすると読みやすくなります。

 I wander’d lonely as a cloud / That floats on high o’er vales and hills, / When all at once I saw a crowd, / A host of golden daffodils, / beside the lake, beneath the trees / Fluttering and dancing in the breeze.

 最後の行だけがアイアンビックのリズムを破っているのは、単調さを避けるため、またその最後の行に読者の注目を引いて印象を強めるという、作者の意図があったと思われます。また、たぶん読者は気づかれたと思いますが、各行の末尾の語が押韻されています(cloudとcrowd, hillsとdaffodils, treesとbreeze)。そして各行が一つのチャンクを作っていて、それぞれが8音節で、最後の行だけが9音節となっています。これは「魔法の数7±2」の範囲内なので一口で言いやすく、英語の初心者にもすぐに覚えられます。以上のように、日本語の詩が七五調を基本にしているのに対して、英語の詩は「弱強」(または「強弱」)のリズムを基調にしていると言ってよいでしょう。アイアンビックというのはギリシャ文学の作詩法ですから、おそらく、ギリシャ文学の影響を受けたヨーロッパ圏の広い地域での、詩のリズムの基本になっていると思われます。

 英詩が中学・高校の教科書から消えてしまって久しくなります。まったく消えたわけではなく、ビートルズの歌詞などが載ってはいますが、教室でそれらを英詩として扱うことはなくなってしまいました。英語はコミュニケーションの手段であり、英詩などを扱う時間はないという理由からなのでしょう。しかし英語のリズムを身につけるには英詩が一番です。それらを音読して英語という言葉のリズムを身につけ、作曲の才能のある人は気に入った詩に曲をつけて歌うことができれば、英語は楽しく学ぶことができるでしょう。クワークらの文法書に載っている複雑なセンテンスも、次のように区切ってチャンクにすれば、簡単に理解でき、この文が覚える価値のあるものかどうかは別にして、簡単に覚えられます。

The pretty girl in the corner / who got angry / because you waved to her when you entered / is Mary Smith.

(To be continued.)

<私見 日本の生きる道 ③−5>

③−5 原発災害の責任

 日本の原子力発電は一貫して有力政治家と経済界の主導で進められてきた。廣島と長崎で核兵器の威力を世界に見せつけたアメリカは、戦後、核の独占を図って最初の軍縮提案であるバルーク案をソビエトに提示したが一蹴され、「大量報復戦略」によってソビエトを牽制しつつ、それ以外の国への核拡散を防ぐため、アイゼンハワー政権が、核兵器を持たない国には原子力発電の技術を供与する“Atoms for Peace” 政策を打ち出した。

 この政策に乗ったのが読売新聞社社主で、第1次岸内閣の科学技術庁長官だった正力松太郎である。正力は、初代原子力委員会の委員長に就任し、日本の「原子力の父」と呼ばれた。これに続いたのが、第2次岸内閣の科学技術庁長官だった中曽根康弘で、初の原子力発電関連予算を組んだ。こうして日本の原子力発電は1960年代に実用化へ向かったのだが、この小さな地震列島に、これほど多くの原発を立地させたのは田中角栄だった。自民党幹事長だった彼は原発立地三法をつくって、まず地元の新潟県柏崎市と刈羽村にカネをばら撒いた。その後、原発立地は、カネでほっぺたを叩く手法で進められた。科学が生んだ巨大技術とこれを管理する巨大組織そしてそれを食い物にする政治との鉄の三角形が出来上がっていった。政財官が癒着するこの三角形に、司法も、第4の権力と言われるマスメディアも協賛し、国民はただ黙ってそれについて行き、いわば、国ぐるみで原発を推進してきたのである。その結末である原発大災害に一体誰がどう責任を負うべきなのか。

 敗戦直後の内閣が打ち出した”一億総懺悔“という言葉がよみがえる。“一億総懺悔”は、軍部とそれに迎合した当時の支配層が、戦争と敗戦の責任の所在をあいまいにするために、一般国民を巻き込もうとしたものであった。戦前・戦中、一般国民は知る権利を完全に奪われ、判断の材料を持たなかったし、国策に反対するものは”非国民”、”国賊”として暴力で弾圧、排除されたから、”総懺悔”する責任は全くなかった。しかし、この総懺悔論は、国民が戦争責任を追及する出鼻をくじく役割を果たした。

 原発災害については、鉄の三角形の当事者は勿論、それに追随した司法やメディアの責任は重いが、今回もまた早々と、豊かな生活を享受するために電気を求めた一般国民も同罪だという説が流れた。さすがにそれは打ち消され、出鼻作戦は失敗したようだが、私は、今度は、敗戦時とは若干事情が異なると考える。現在の日本では、知る権利は一応保障されており、曲がりなりにも言論の自由がある。少数ながら”反原発”を唱える人達もいた。こうした状況の中で、原発安全神話を無批判に受け入れ、追認した国民にも責任があると思う。その反省なしに、日本が再生の道を踏み出すことは出来ないのではないか。 反省のよすがとして、私は、前回列挙した識者による75の病根を、それらが本当に病根であるのかどうかを含めて検討して見る必要があると考える。病根を除かずして健康体になることはありえないからだ。(M)

「学習心理から見たテレビ画面」
(1)学習心理といっても、難しい心理学の話ではありません。学校の授業では、「この時間はこれを教えよう」という目標があって、そのためには、何をどう生徒に示したらよいかを考えます。テレビ画面も、視聴者に「これこれの情報を伝えよう」という目標があって、画面の構成を考えるはずです。そういった共通点における長所、短所を考えてみようというわけです。

(2)平日のお昼に「ひるおび」という長い番組(11:00—13:53)が TBS にあります。司会はお笑いコンビ“ホンジャマカ”の恵俊彰で、コメンテーターは曜日によって変わります。彼はとても気を遣うタレントで、コメンテーターを大事にします。11時からは新聞記事を見せながら、男性アナウンサーによる解説が始まります。ピンクのテープを貼った問題点を、順次テープをはがしながらする解説は分かりやすいのですが、記事の他のところも見えているので、そちらに目が移ると聞く方がおろそかになって、テープで隠している意味がなくなるのです。

(3)教室でも板書の基本として、何を書いて、何を書かないかは大事な留意点です。4、50代の教員ならば、OHP が盛んに使われ出した頃にどういう画面構成をするかに悩んだ経験があるはずです。コピー機が進歩して、提示用教材(トランスペアレンシーと呼ばれるフイルムの一種)を簡単に作れるようになると、教員は次々とそれを提示するものですから、生徒はメモを取るのか、先生の話を聞くのか、画面を見ていればよいのか迷うばかりで、授業の内容がよく頭に入らないという事態が生じました。

(4)テレビ画面でも望ましくない現象がよくあります。特に動画を大きく出されると、どうしても視線が落ち着きません。それと、以前にも指摘しましたが、土曜、日曜の番組などは、再放送なのか予告なのか、それとも本番なのかよく分からないものが多くあります。しかも、ヒントになるような場面を小出しにしてちらつかせ、「詳しくは3日後の午後7時から」というのでは、がっかりしさせられます。教室でも、さんざんヒントを出して考えさせておいて、「正解は来週のこの時間に」などと言ったら、学習意欲を甚だしく減退させます。

(5)久米宏が「ニュースステーション」で、「ここでお知らせを90秒入れます」と予告したのは画期的でしたが、その後流行らないところを見ると、スポンサーとしては、その間にトイレへでも行かれたら困るという思惑があるからなのでしょう。いずれにしても、クイズの回答を示す直前のCMをよく見る視聴者は多いのでしょうか?もう少しテレビも視聴者の心理を考えてほしいと強く望みます。
訂正:前回、菅首相の「菅」が「管」になっていました。ここに訂正させて頂きます。(この回終り)

英語文法の学習(12)

Author: 土屋澄男

そこで文法の最後はチャンクの話になります。チャンク(chunk)は「意味のかたまり」というほどの意味で、決まった文法形式があるわけではありません。いろいろな形式があります。次のような言葉はよく耳にしますが、それらは短いけれども、ある特定の意味や感情を伝えていますから、チャンクと言えます。

 日本語:すごい! / きれいな花! / バスがきた。

 英 語:Wonderful! / Pretty flowers! / Here comes the bus.

実際に、とっさの時には、1語か2語の短い語句で気持ちを表すことが多いようです。テレビに出てくるタレントが、「すごい!」「きれい!」「おいしい!」を連発するのを聞くと、語彙の貧弱な人だなと思ったりすることがありますが、若い人はそれが普通なのでしょう。

 文(センテンス)は意味的にも文法的にも1つのかたまりを作っているので、それ自体をチャンクと呼ぶことができます。そして文の多くはいくつかの構成要素から成っており、それぞれが小さなチャンクを作っています。それらは単語であったり、名詞句であったり、動詞句であったり、また形容詞句や副詞句であったりします。それらも意味的なまとまりを持っているチャンクです。ですから、チャンクとは「意味的にまとまりをなす語句のかたまり」と言うこともできます。例を挙げてみましょう。次の文章をできるだけ小さなチャンクに分けてみます。(これは米国上院議員として長く活躍した日系アメリカ人Daniel Ken Inouyeの自伝の一部です。日本の高校用教科書から引用しましたので、リライトしてあります。なお、井上議員が少年時代に通ったハワイのマッキンリー高校の生徒は、大部分が日系2世のアメリカ人でした。)

  Mrs. King’s class / was the top tenth-grade class / at McKinley High. / I don’t know / how I got into it, / but from the first day / I wanted out. / In place of all my old friends, / I found myself among students / who kept trying to pretend / that their skin was white / and that their eyes were blue.

これ以上細かく区切ってしまうと意味のまとまりを失ってしまうので、これが限界だと思います。これは書かれた文章ですから、いくらか編集がしてあります。話し言葉ならば、このようにきちんとした形にはならないでしょう。特に最後の文は長く、途中で区切らなければ一気には読めません。これは話し言葉を写し取った文というよりも、もっと冗長な話し言葉を編集して1つの整った文にしたものと考えてよいでしょう。話し言葉では、たとえば、次のようなものになります。

  The students in the class / were those who kept trying to pretend / that they were white men. / They pretended that their skin was white; / they pretended that their eyes were blue. / When I entered the classroom, / I found / that in place of all my old friends, / I was among those damned students.

もっと正確には、時々 “well” や “er” などの「ためらいの間投詞」が入るでしょう。このように話し言葉は概して言葉が冗長で長くなりますが、文構造は比較的に単純です。一方、編集された書き言葉は冗長さをきらい、文は複雑になります。しかし、書き言葉もたいてい読者がそれを音声化しながら読むことを想定していますから、チャンクに本質的な違いはありません。上の例では、例外もありますが、1チャンクがたいてい5語から9語くらいになっています。この5から9という数は重要な意味を持っています。

 “The Magical Number Seven, Plus or Minus Two ” というのがあります。G. A. Millerという心理学者が1956年に発表した論文に書かれています。それは、短期記憶の記憶容量は “7±2 chunks” というのです。言いかえれば、短期記憶(最近は「ワーキング・メモリー」と呼ぶ)で処理できる情報量は5ないし9チャンクだということです。これは記憶の法則として認められているものの1つです。電話番号のようなランダムな数の羅列で実験するとすぐわかります。ただし「03」や「0120」などは有意味ですから1つのチャンクにまとめられます。すると、こういうことになります。意味づけをするなどして、1つのチャンクの大きさを拡張すれば、より大きな情報を処理することができるということです。たとえば、耳で聞いた音を音節単位で処理したら7±2音節しか処理できませんが、単語で処理すれば7±2語まで可能になります。フレーズを1つのチャンクにまとめることができれば、もっと大きな情報を短期記憶で処理することが可能になります。このことの私たちの英語学習に意味するところは大きいと思います。英語学習とは、まず聞いたり読んだりする時のチャンクの処理の仕方を学ぶこと、また話したり書いたりする時のチャンクの作り方・つなげ方を学習することになるからです。ここで文法の話はひとまず終え、次は音読によるチャンクの学習の話題に移ります。

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< 私見 日本の生きる道 ③−4 > 松山薫

③−4 病根を抉る

 前回述べた反安保闘争で岸内閣が倒れた後、「所得倍増計画」を掲げた池田内閣が発足して、日本はエコノミック・アニマルと呼ばれながら経済発展を至上命題として突き進み、50年が過ぎた。物質的には豊かになったが、この国はどこかおかしくなったと多くの人達が感じていたのではないか。文芸春秋誌はそれを読みとって「これが私たちの望んでいた日本なのか」という特集を組んだのだろう。その直後に起きた巨大地震、大津波、原発事故という未曾有の大災害を東京都知事の石原慎太郎は、「天罰だ」とコメントして非難を浴びたが、私は、このうち原発災害についてはこれを、日本人全体に対する「天啓」であると感じている。

 「天啓」とは、天が真理を人間に示すことである。(広辞苑) 私には、この原発災害の中に、日本が安保以後50年にわたる経済発展が日本人を徐々に冒してきた病根の多くが内包されているように思える。そこで、文春の特集「これが私たちの望んだ日本なのか」の中で、識者達が挙げたいわば日本の病根を、私なりに整理して列挙すると次のようになる。

① 国家観に関するもの
対米従属  外交能力の欠如 大局観の不足 国家ビジョンの欠如  国家戦略の欠如  発想力の貧困  理念の不在 国民的合意形成努力の欠如  国民的合意の欠如  自国の能力に対する過信、錯覚 危機意識の欠如  国民の自信と誇りの欠如  国民としての誇りの欠如 現状分析の不足 現状認識の甘さ

② 国内政治に関するもの
官僚支配体制  中央集権体制  地方分権、地方主権への理解不足 政治家の堕落  政治家の餓鬼化  国会議員の劣化  一党支配体制の残渣
野党の力不足  小選挙区制の弊害  首相公選制がないこと  政権の不安定 
ポピュリズムの横行  愚かな国民  国民の政治的無関心  

③ 経済に関するもの
財政破綻  地方の疲弊  少子高齢化  世代間の不公平  社会保障制度のひずみ 犯罪的経済人の跋扈  不公平・不公正税制   富の偏在  女性差別
若者の雇用不安

④ 社会に関するもの
自己犠牲の精神の欠如  利己主義  ハングリー精神の欠如  独立自尊の欠如 環境への無関心  個性の欠如  根性の不足  自国の文化の軽視 正義感の欠如  自由万能の考え方  公共心の欠如  直ぐに謝る文化 寛容の精神の欠如  足るを知ることの欠如   欲望の肥大化  責任感の欠如
先送り主義 (面倒なことはやらない)  チャレンジ精神の欠如  和の精神の欠如
助け合い精神の不足  他者への無関心  連帯感の欠如  モラルの低下
進取の気性のなさ  夢の欠如  目先の利益優先  他力本願  リーダー不足

⑤ 教育に関するもの
自分の頭で考えない 戦後教育の欠陥  偏差値万能主義  受験競争 躾の欠如  道徳教育不在  人材選別の権威主義  国際的に通用する人材不足

 日本人は戦後、敗戦という事実の検証と責任の所在の追及を自ら行なうことなく、占領軍という他者の判断と誘導によって立ち直り、他者を頼って生きてきた。今度こそは、自らの判断で生きる道を決めねばならない。上に挙げたもののうち、真の病根を抉り出し、それらはどうすれば克服できるのか。それを真剣に検討することが、大災害を克服し、次の50年へ向けて日本を再建するための基盤になりうると思う。

 昨年の夏、倉本聡の「帰国」というTVドラマが放映された。南溟の果てに眠る日本軍の一部隊が、ある夜、軍用列車に乗って東京駅に着く。兵士達はそれぞれゆかりの地を訪ねて、故国の復興振りを見て歩く。ビートたけし扮する上等兵は、経済発展の中で自分の妹である母親を見殺しにしながら事業に成功した甥を訪ねて詰問し、刺し殺して再び暗い海底へ帰っていく。大江健三郎が言う「あいまいな国」のあいまいな国民であった我々大多数の日本人は、今度こそ自らの判断と力で生きていく道を選ばなければ、何十万という震災の犠牲者や原発災害の被災者はもとより、3百万人を超える戦争の犠牲者も浮かばれないだろう。(M)

         

英語文法の学習(11)

Author: 土屋澄男

文法の知識と、それを技能に結びつけるノウハウの知識が別であるとすれば、英語学習の練習は次のようなものでなるでしょう。それは、学校の授業や学習参考書で学習する文法知識や、学習中に自分自身で気づく文法規則などを、実際に使うことのできるノウハウの知識に転換するための練習です。私たちの経験では、ある規則は比較的に容易に使えるようになります。たとえば「人を表す名詞の所有格をつくるには語尾に ’sを付ける」というのがあります。この規則の間違いをする日本人はめったにいません。中学生でもmy father’s birthdayと正しく言ったり書いたりできます。しかしそうでない規則もあります。同じ間違いを幾度も繰り返し、それもかなり長期にわたって続くことがあります。3単現の規則などがその1つです。動詞の時制などもなかなか難しい。過去のことを述べているときに、同じ文の中に複数の動詞が使われると(複文などの場合)、その中のどれかを過去形にすることを忘れてしまうという間違いをします。これらは文法知識としては持っているはずなのに間違える。つまり、ノウハウの知識になっていないということです。どういう場合にそういうことが起こるかを調べてみると面白いことが分かります。それはやはりそうなる理由があるのです。

 私たちは話をするとき、意識の大部分は伝達しようとする話の内容にあり、どのように表現したら相手に分かりやすくなるかに集中しています。語句や文の文法形式については、意識は非常に制限されています。ですから、言語形式は自働化されているものだけが正しく表出され、そうでない項目についてはそこに意識を分配する余裕がないので、誤りを避けるわけにはいかないのです。ですから、間違いをしないように内容だけでなく形式も同時に意識しようとすると、発話は流暢に進行しません。文字通りbroken Englishになります。かなりの習得段階に達していても、話の内容によってはブロークンになることがあります。その場合は、話の内容そのものに意識が行っている中で、語の選択や文の組立てにも意識の一部が割かれるからです。これは書くときにも同じなのですが、書くときは話すときよりも時間に余裕があり、文章の内容だけでなく形式にも時間がかけられるので、ブロークンの度合いはかなり緩和します。むかし東京高等師範の卒論を書いたときのことを思い出します。卒論のテーマはかなり高度な内容のもの(Matthew Arnold and his Criticism)だったので、自分の習得レベルを超えた英文に仕立てあげるのに苦労しました。半分くらいは原典の引用だったと思います。当時はネイティブ・チェックなどということは考えもしなかったので、出来上がった英文はひどいものだったに違いありません。それでも合格点がもらえたのは、たぶん担当の先生のお情けだったのでしょう。

 本題に戻って、習得途上にある学習者が限られた時間で英語を産出する場合には、言語形式の処理は大きな制約を受けます。やや専門的な表現になりますが、言語の産出に際してその処理を行なうワーキング・メモリー(短期記憶のこと)のスペースが非常に限られているので、言語形式(文法規則)の処理はほとんど自動化されているものだけに限られるのです。まだ自動化が完了していない項目は、回避されるか誤って使われます。これは最近の外国語学習の研究で発見された重要な法則です。ドイツにおけるトルコ人労働者のドイツ語習得を研究したピーネマン(Pienemann, 1998)によると、第2言語習得における言語処理の発達順序には次の5段階があり、第1段階から順次に自働化がなされていくというのです。ですから下位の段階をスキップして上位の段階には進めないのです。

  (1) 語彙へのアクセス、(2) 名詞・動詞など、語の文法的カテゴリーの処理、(3) 名詞句・動詞句など、句構造の文法処理、(4) 主語・述語など、文の文法処理、(5) 従属節(複文)の文法処理

ピーネマンのこの言語処理手続きの順序が、そのまま日本人の英語学習に当てはまるかどうかは議論のあるところですが、この理論(「言語処理可能性理論」と呼ばれる)は説得力があります。知識があるのに使えないという、私たち日本人の英語スキルの特徴をうまく説明してくれるからです。

 このことから次のことが言えます。英語学習には練習が不可欠ですが、やみくもに練習すればよいというものではないということです。物事にはすべて順序があるように、英語の習得にも順序があります。「まず語と語の並べ方から始めよ」というのが、筆者の英語学習法の第一の勧めです。意味のまとまりの最小単位をチャンクと呼びますが、まずは英語のチャンクをできるだけ多く身につけることこら始めたらよいと思います。(To be continued.)

「テレビ画面で考えるコミュニケーションの問題」
(1)この問題でまず気になるのは、管首相の発言です。「“一定のめど”がついたら」といった曖昧な言い方で、辞めるそぶりを見せて、不信任案が否決されたら、今度は、「圧倒的な差で否決されたのだから」と居座る意向を示しました。鳩山元首相まで、「管首相はペテン師だ」と批判しました。しかし、こういうのを「目くそ鼻くそを笑う」と言うのです。しかも彼は、後でこの発言を撤回しています。「議員も辞める」と言っていたはずの鳩山氏が、気が変わったのは、勤続25年で表彰される日(6月12日)が近かったからだと言われています。やはりわが身のことしか考えていなかったようです。

(2)鳩山氏のように態度を変えることを「豹変」と言いますが、今はこのように悪い意味で使うことが多いようです。「君子豹変す」という諺を思い出しますが、この諺の意味は何でしょうか。私の旧友の奥津文夫さんが最近出版した『英米のことわざに学ぶ人生の知恵とユーモア』(三修社、2011)という書物には、「臨機応変が大切——君子は豹変するもの」という見出しで、”A wise man changes his mind, a fool never.” を示して、「賢者は考えを変えるが、愚者は決して変えない(君子は豹変す)」という訳文が載っています。それに続いて、2ページほどの日本語による解説もなされています。同様に、この書物には 200 ほどの諺が扱われています。著者は「ことわざ学会」と「日英言語文化学会」の会長を兼任して、数多くの英語の諺に関する本を書いていますが、この本は最新でもあり、従来と違った特徴もありますから、一読を強くお薦めします。

(3)鳩山、管の両氏に話を戻しますが、君子は豹変してよいのです。しかし、それは、「臨機応変に事態に対応するため」であって、保身のためなどではないのです。管首相は、1年生議員10名ほとの小さな会合では、「私も辞めて清々したい」と言ったと報道されました。彼が本当に被災地の人々のことを考えていたならば、こんな言葉が口から出るはずがありません。被災者たちは、風呂にも自由に入れず、仮設住宅では、水道が使えないところさえあるのです。気温の上昇とともに、病気の流行が心配されています。

(4)そして、国会では、辞める時期については、「常識的な判断で」と答えています。香山ユカ『いまどきの「常識」』(岩波新書、2005)を読むと、「常識」なんていうものは、価値観の変遷に伴ってとても変化していることがわかります。そんな曖昧な用語を使うべき時ではありません。アメリカのCNN は、日本の政治状態を “political circus”(政治的サーカス) と報じました。「歴代首相の綱渡り状態」と言った方が日本人には分かりやすいかも知れません。一国の指導者は、夢のような大きいことを言ってよいのです、いや、夢や理想を語るべきです。ただし、その実現のためには、細心の注意を払って、堅実に行動すべきです。管首相には、そのいずれも欠けていると思わざるを得ません。(この回終り)

< 私見 日本の生きる道 ③−3 > 松山薫

3.安全保障と独立 
 
 1960年6月15日、戦後史の転換点といわれるこの日、私は国会周辺で安保改定反対デモの取材をしていた。東大生樺美智子の死で荒れるデモ隊にもまれながら、やっとたどり着いた国会の南通用門で記者章を示して構内に入り、衛視詰め所の電話でデモの様子をデスクに伝えていた。やがて国会構内に入ったデモ隊の投石で負傷し、衛視詰め所に引きずりこまれる警官の中には、顔面を割られ、流血で目が開けらない人もいた。その人は先刻「NHKさんどうぞ」と言って差し入れのパンを朝から何も食っていない私に分けてくれた人だった。日本人同士がどうしてこんなことになるのか。「討つ人も討たるる人も哀れなり、同じ御国の民と思えば」という戊辰戦争の時に板垣退助が詠んだ歌が頭をよぎった。それが、安全保障問題を記者としての原点にしようと決意した瞬間だった。この日、岸信介首相は、デモ隊鎮圧のため自衛隊に治安出動を命じたが、赤城宗徳防衛庁長官がこれをおしとどめたという。つまり、日本は内乱の寸前にあったのである。

 そのころは一般で軍事問題などを研究するのはほとんどタブーであったから、防衛庁防衛研修所(現在の防衛研究所)の小谷秀次郎所員の研究室で核戦略論を勉強させてもらった。当時、アメリカの核戦略は、マックスウェル・テイラーの「大量報復」(都市攻撃)からヘンリー・キッシンジャーの「対兵力(counter force)」へ変わり、かなり精緻になっていた。しかし、いかに精緻な理論を組み立ててみても、核兵器によって戦争を抑止するという論理は、根本的にまやかしだと私は思った。核抑止論は、核兵器を使わないことを前提にしているが、絶対に使わない兵器なら持つ意味がない。核兵器は既に水爆、それも汚い水爆(3F)になっていたから、もし使用したらその惨害は計り知れない。「核の冬」という人類滅亡のシナリオさえ暗示されていた。一部の国の一部の人間が人類の運命を握るような戦略が許されてよいはずはない。そう考え始めていた時、アメリカの核戦略の専門家で政府にも影響力があるというモートン・ハルペリン博士が来日するというので羽田へ取材に行った。話は聞けなかったが、私はその若さに仰天した。多分20代半ばだったろう。失礼ながらこんな世間知らずの若者が人類の運命を握っているのかと思ったら背筋が凍る思いがした。
 
 小谷研究室の卒業論文ともいうべき内閣調査室への提出論文で、日本の安全保障をアメリカの核抑止力に依存することを批判し、「自衛隊の国連軍化」を提案した。理論的根拠は国際政治学者坂本義和(元東大教授)の「中立日本の防衛構想」(岩波書店「核時代の国際政治」所載)である。この構想は、その後形を変えながらも、社会党委員長の石橋政嗣、日本新党の細川護煕、そして民主党の小沢一郎へ引き継がれている。文春4月号特集「警世の紙つぶて」の中で、作家の島田雅彦が、「自衛隊を国連にゆだねる」ことを提案し、こういう議論を悪い冗談だと思う人がまだ多数を占めているのは悲しいことだと嘆いているが、その直後の原発災害で安全保障についての日本人の考えもかなり変わったのではなかろうか。少なくとも、原発と同根である核爆弾で武装すれば、想定外の事態が生じた時、終末がどういうことになるのかについての想像力は刺激されたに違いない。核抑止というまやかしの論理に頼る安全保障が、この一穴から崩れることを私は期待している。
 
 アメリカの核の傘に入った今のままでは、日本の半独立状態はいつまでも続く。”日米軍事同盟の深化“や”TTPによる日米経済の一体化“で100年にわたって外国の軍隊が国土に駐留することになるかもしれない。そのような異常な事態を脱するには、辻井喬が言うように、国際協力の輪を広げていくことが大切であるが、そのためには、なによりも国際社会に信用される国にならなければならない。核の傘に入ったまま、核廃絶を唱えるという偽善的態度を続け、国連でも核廃絶決議に2枚舌を使っているようでは到底世界各国の信頼をかちえることは出来ず、国連の根幹である安保理常任理事国入りなどは夢だ。初めて国連軍を名乗ったのは朝鮮戦争におけるアメリカ軍であり、冷戦の最中とはいえ、国連の中立性にとって不幸な出発であった。その後も国連憲章47条による本格的国連軍が実現したことはまだないが、今年リビアのカダフィ政権に対して国連安全保障理事会が「人道的目的での武力介入」を明確にした決議を採択し、NATOを中心にした軍事介入が実施されたことは、ブートロス・ブートロス・ガリ事務総長(エジプト人)が提案した本格的国連軍創設への第一歩になりうる。日本としては、自衛隊を国連待機部隊と国際救援部隊に再編成し、平和の維持や災害に際して、国を挙げて支援する体制を整備してはどうか。 憲章47条による本格的国連軍は国連に指揮権があるので、日本国憲法に抵触しない。

 一方、外交政策では、国連中心の全方位外交に立ち返るべきである。その場合、日米安保条約の改定に先立ち、石橋湛山が提唱した日米中ソ同盟も検討する価値がある。石橋は更に、アジアの安定のためにインドを加えて5カ国で会談を開くことも提案している。こうした提案を岸、池田が拒否したことについて「彼らは、日本は自由陣営に属するから中立主義はありえず、アメリカと運命共同体を形成する以外に手はないから、軍縮の討議は大国に任せておくというのであろうが、そのような外交政策では実質的に日本はアメリカの一州のごとき役割を演ずることになり、そこには日本独自の立場も見識もない。」と批判している。日本は半世紀以上も湛山の指摘したとおりの道を歩いてきたことになる。あと50年も同じ道を歩くのか。

 更に今後重要性を増すのは民間外交である。前回、日本の生きる道のひとつとして観光を目玉に挙げたが、観光で日本を訪れた外国に人達が、日本の美しい国土と文化、そこで平和に暮らす日本人に接して感動を持って帰国すれば、その感情は日本の安全保障の基盤になるだろう。UNESCO憲章前文は、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中に平和のとりでを築かなければならない。相互の風習と生活を知らないことは、人類の歴史を通じて世界の諸人民の間に疑惑と不信を起こした共通の原因であり、この疑惑と不信の為に、諸人民の不一致があまりにもしばしば戦争となった。」と述べている。(M)

英語文法の学習(10)

Author: 土屋澄男

自分が学んで知った文法規則をどのように自動化して自在に使える技能として身につけることができるか、そしてそれは本当に可能なのか——これは英語学習者のぜひ知りたいところです。実のところ、この問題をめぐって、第2言語習得や外国語学習の研究者の間でこれまで多くの議論がなされてきました。しかしそのメカニズムについての説明は、すべての人を納得させるまでには至っていないようです。研究者にとっても、これは非常に難しい問題なのです。しかし大体の方向性は見えてきています。そのことは、学習者にとっても、知っていて有益かもしれません。

 まず「自動化」(automatization)がどういうプロセスなのかを見てみましょう。自動化はほとんどすべてのスキル(技能)の獲得に見られる現象です。スキルというのは単に知的な活動だけでなく、身体的または運動的活動でもあります。物づくりや楽器の演奏を思い浮かべてみるとよいかもしれません。言葉の使用もスキル獲得の一種です。それは高度に知的な活動であるとともに、言葉を音声として表現したり、文字列として表したりする身体的・運動的活動でもあります。そしてそれらのスキルはすべて「練習」(practice)によって進歩するという点で共通しています。練習とは同じ活動を繰り返すことです。最初はゆっくりと、注意深く、関連する知識や記憶を確認し、時おり誤りをおかしながら進んでいきます。少し慣れてくると、一つひとつの動作に注意をしなくても、いくつかの動作が連繋するようになり、スムーズに進行するようになります。やがて、自分でも進歩したことが自覚できるほどになります。しだいに動きの流暢さが増し、自然になり、意識的な努力なしにできるようになります。しかしある程度までいくと、進歩が感じられなくなります。完全とは言えないまでも、ある種の熟練に達したように思われます。しかし自分が達成した熟達度には満足せずに、そのスキルのさらなる練磨に生涯をかける人もいます。

 ‘Practice makes perfect’ ということわざがあります。英和辞書の多くは「習うより慣れよ」という日本のことわざを当てていますが、この日本語は少し意味が違います。 ‘perfect’ というのはことわざ特有の誇張であって、この英語のことわざは練習の大切さを強調したものです。それは「一にも二にも稽古」」と言う相撲の親方のことばに似ています。練習に関する心理学の実験もそのことを裏づけています。練習によって同じ仕事の所用時間が短縮され、誤りが減少します。その練習効果は初期の段階で最大となり、しだいに減少幅は小さくなります。これは「練習のパワー法則」として広く認められています。

 ところで、この練習の効果はなぜ起こるのでしょうか。練習するとなぜ時間が短縮され、誤りが減少するのでしょうか。いろいろな学説が登場しましたが、かなり説得力のあるものを一つ紹介しましょう。それはアンダーソン(J. R. Anderson, 1983)の提案した ‘ACT’ (Adaptive Control of Thought) と呼ばれる認知学習モデルです。名称はさておいて、このモデルによると、あるスキルが習得されるためには、まずそのスキルの遂行に必要な情報を集め、すでにある知識を記憶から取り出し、何を行なうかを理解します。これが第1段階で、ここでは関連するさまざまな知識(言語スキルでは語彙や文法の知識)が利用されます。第2段階はそのスキルを実行する段階ですが、ここでは実行のためのノウハウが必要になります。はじめは第1段階で使った知識を参照しながら試行錯誤的に進むので、時間がかかります。しかし何回か同じ手順を繰り返している間に、その手順が効率的に組織され、それが新しいノウハウの知識として蓄積されていきます。第3段階はそのスキルがより速く自動的に行なうことができる段階です。ここでは第1段階で利用した知識はもはや参照する必要がなくなり、ノウハウの知識のみによって手早く仕事を進めることができます。

 最近の脳科学は、言語の語彙・文法などの知識に関係している脳の部位と、言語スキルに用いられるノウハウの知識(「手続き的知識」と呼ばれている)に関係している脳の部位とが、それぞれ独立していることが明らかになったと報告しています。そうだとすれば、アンダーソンのACT理論は脳科学によって支持されたことになります。また、高度に自動化されたスキルは非常に特殊化されているので、スキル使用の条件が少しでも違うと練習の効果が失われることも分かっています。ということは、理解のスキルが産出に転用されるわけではなく、スピーキングのスキルがそのままライティングに利用できるわけでもないということです。これらの事実を踏まえて、次回に文法学習のまとめをしたいと考えています。(To be continued.)