Archive for 2月, 2017

高等学校の英語教育に多くの課題があるという認識は教員の誰もが持っています。文科省もそのように認識しているようです。そのために、英語の科目が学習指導要領の改訂ごとに大きく変わります。2018年3月に改訂が予定されている高等学校学習指導要領では、英語は「英語コミュニケーションⅠ、Ⅱ、Ⅲ」及び「論理・表現Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」の6科目になるということです。現行のカリキュラムから「コミュニケーション英語基礎」と「英語会話」の科目が消え、残りのものが6つの科目に改変されることになります。

なぜ高校の英語科目は学習指導要領の改訂ごとに変更されるのでしょうか。その大きな原因は、筆者の見るところ、文科省が教育課程審議会の審議を通して行う英語科目の設定において、「外国語」の存在意義について大局的見地から議論することなく、英語によるコミュニケーション教育をいかに効果的に行うかという、狭い範囲の技術論で問題を解決しようとするからです。それは、たとえて言えば、椎間板の異常から来る腰痛を安価な膏薬で治そうとするようなもので、その効果は極めて限定的です。文科省の有能な官僚たちは、仕事熱心のゆえに「英語コミュニケーション能力の育成」という目前の目標に捕われていて、学習者である生徒のニーズやその真の姿が見えていないのです。

現在の高校の英語指導の問題点については、文科省もそれなりに分析を行っています。昨年8月1日に行われた中教審教育課程企画特別部会の資料がネットに公開されています。それによると、高校における英語教育の課題として次の4項目が挙げられています(①~④の番号は筆者による)。

①生徒の英語力について「聞くこと」「読むこと」「話すこと」「書くこと」全般、特に「話すこと」と「書くこと」の能力。

②英語に対する生徒の学習意欲。

③言語活動全般、特に総合型の言語活動(例:聞いたり読んだりしたことに基づいて話したり書いたりする活動)。

④グローバル時代において英語学習に関する生徒の多様化への対応。

これらの課題のうち、文科省が取り上げたのは①と③でした。これらは技術論で対応できると考えたからです。そこで文科省は、まず「英語コミュニケーションⅠ、Ⅱ、Ⅲ」の科目を設定し、ここで「聞く・話す・読む・書く」を総合的に扱うことにしました。そして次に、現在の高校生が特に「話す」と「書く」の能力に劣るという実態から、「論理・表現Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」という名の科目を新設し、発信力の強化をはかることにしました。ここでスピーチ、ディベート、ディスカッション、エッセイ・ライティングなどの活動をふんだんに行わせようというわけです。しかしこれは多くの高校教師には手に余る教科になりそうです。なぜなら、教師自身がそういう活動の経験を持っていないからです。

一方、文科省はより本質的と思われる課題を見落として(あるいは意図的に避けて)います。それは②の「学習意欲」の問題と、④の「英語学習に関する生徒の多様化への対応」の問題です。

まず「学習意欲」から見てみましょう。ほとんどすべての教師や英語教育関係者が繰り返し指摘するように、学校英語の改革を阻む最大の問題は、生徒の学習意欲の欠如にあります。この問題を避けて高校における英語指導を語ることはできません。学習意欲という観点から、高校生は3つのグループに分けられます。第1は英語学習そのものに動機づけられている者たちです。彼らは将来英語を必要とすることを自覚しており、機会があれば外国の大学へ留学し、そこで単位を取得し、英語母語話者とやり合うだけの、習熟した英語使用者になりたいと考えています。こういう生徒はTOEICやTOEFLに関心を持っていて、中には実際に受検の経験を積んでいる者もいます。しかしそういう生徒は、通常の高校ではごく一部です。文科省の学習指導要領を理想的な形で実行しようとしているモデル・スクール(スーパー・グローバル・スクールなど)は、そういう生徒たちのためのものです。

第2のグループは大学受験のために必要な英語力をつけたいと考えている者たちです。彼らは第1のグループにくらべると真剣さに欠けますが、当面の目標である大学受験には英語が必須な科目であると考えており、将来的にはできるだけ高い英語力を身につけたいと希望しています。しかし、彼らは受験勉強の効率化のために、英語一科目だけに集中することができません。しかも近年の大学入試は学力試験だけではなく、人格的な要素を重視する選抜方式が広く行われるようになってきたため、英語学習に多くの時間を費やすことができなくなっています。したがって、大学進学を希望する高校生の大部分がこのグループに属すると考えられますが、英語の学力に関しては、文科省が期待するようなレベルに達する者は今後ますます減少するのではないかと考えられます。

第3は英語学習への意欲の乏しい高校生のグループです。彼らの多くは高校を出て就職することを当面の目標としていて、自分たちが何のために英語を学んでいるのかを理解していません。英語ができないとこれからの生活に困ることになると親や先生から聞いても、彼らにはピンと来ないのです。これまで生きてきた十数年間、学校外で英語を使う必要はなかったばかりか、親や周囲の人たちを見ても英語ができないのは当たりまえで、英語を使えたらよいと思うことはあっても、それは夢みたいなものです。しかも、そういう生徒たちの多くは中学校までの英語学習で落伍し、高校の通常の授業がほとんど理解できていません。自分の勤めている学校ではそういう生徒が大部分を占めるという話を、若い教師から聞くことがあります。学習指導要領はこういう生徒について何も触れていません。

しかしこれらの生徒への対策を講じなければ、高校の英語授業はこれからも異常な状態を続けることになります。2015年3月に実施された高校3年生対象の学力調査は、中学程度の英語力しかない高校3年生が約80%を占めることを明らかにしました。なんと高校生の8割が、高校の英語授業についていけないのです。文科省が作成する学習指導要領は、高校での学習に十分ついていくことのできる2割の生徒には役立つのでしょうが、残り8割の生徒たちを指導する高校教師にとっては、それはしょせん絵に描いた餅です。常識的に考えて、中学・高校の教師たちが頑張れば、この数字をいくらか下げることができるかもしれません。しかしそれでは根本的な解決にはなりません。もっと思い切った思考の転換が必要なのです。

ここで多くの英語教育専門家は頭を抱えてしまうようです。しかし筆者は諦めません。この難問を解くヒントは前記の文科省が④に挙げた課題の中にあると考えるからです。その詳細は次回に述べますが、結論だけを先に出しておきます。それは、「高校の英語を多様化し、英語以外の外国語を選択できるようにするとともに、生徒のさまざまな学習の要求にこたえること」です。

<社説よみくらべ 3> 

「日米首脳会談」と「北のミサイル発射」

2月10日から3日間にわたる日米首脳会談の初日にワシントンで発表された安倍首相とトランプ大統領の共同声明と、最終日の夕食会の席上にもたらされた北朝鮮のミサイル発射の知らせに対する共同会見についての各社の社説をよみくらべてみたい。

< 日米首脳会談共同声明についての社説 >

読売新聞社説  「経済で相互利益を追求したい」
朝日新聞社説  「“蜜月”演出が覆う危うさ」
毎日新聞社説  「厚遇の次に待つものは」
北海道新聞社説 「”親密外交”の代償が不安だ」
河北新報社説  「もの申す関係を構築せねば」
中日新聞社説  「蜜月の影響見定めねば」
京都新聞社説  「友好演出では物足りない」
中国新聞    「同盟の行方 防衛強化に傾かないか」
琉球新報    「″辺野古唯一“ 許されない」

読売新聞社説は、「初の首脳会談としては上々の滑り出し」であるとして会談の成功を讃え、特に安全保障面での「尖閣安保適用」を高く評価している。そして日本もアメリカに頼るだけでなく「積極的平和主義」の下で自衛隊の国際的な役割を拡大するよう求めている。一方経済問題、特に貿易面では日米が同床異夢の面もあるので今後のアメリカの出方を注視する必要がるとしている。
朝日新聞社説は、経済や安全保障問題で一定の合意が得られたことは日本にとって安心材料だと言えると一応は評価しつつ、国際的な関心事であったアメリカを多国間の枠組みに引き戻せるかどうかについては、安倍首相が全力を尽くした形跡はうかがえないと失望している。そして、対米一辺倒の外交は危ういとして、アメリカの要求に便乗した軍事費の拡大に懸念を表明し、中国、韓国、豪州、東南アジア諸国などとの多角的、多層的な関係を深めるよう求めている。
毎日新聞社説は、経済と安保が中心議題だったが、アメリカ新政権下の日米関係は順調に滑りだしたように見える。自動車や為替操作など懸念された経済問題についても特段に注文は無く共同声明は日本側にとっておおむね満足のいくものだったとしている。ただ、先に日本側の取りたいものをとらせ、今後アメリカ側の要求を拒めなくする戦術かもしれないと疑念を示している。
北海道新聞の社説は、トランプ大統領から懸念された強い対日批判や要求は出ず、安倍首相はひとまず胸をなで下ろしているに違いないと推測しながらも、今後アメリカが同盟強化の見返りに、貿易投資などで譲歩を迫ることは十分予想され、安全保障面でも新たな要求に警戒が必要で、会談結果を手放しで歓迎することはできないとしている。
河北新報社説は、第一歩は友好的にというのは当然と言えば当然か。だが大統領が持論を撤回したわけではあるまい。絆という「総論」を確認しつつ、摩擦を生みかねない「各論」へ深入りを避けた印象だ。
安倍首相は施政方針演説で「自由、民主主義、人権、法の支配」という価値観を共有する国と連携していくの述べたが、トランプ政権で大きく変質したアメリカに、自らの価値観に基づいて物申す関係を築くべきだと注文を付けている。
中日新聞社説も、道新の社説と同じく、安倍首相にとっては胸をなでおろす会談だったと言えるのではないかとした上で、安全保障に関連して、普天間の代替は辺野古が唯一の解決策と声明に書き込まれたことは残念であり、「国外・県外への移設の検討をもとめている。また尖閣諸島の安保条約5条の適用は当然のことで、政権が交代するたびに確認するのは、かえって条約の脆弱性を示すことにならないのかと疑問を呈している。
京都新聞の社説は、安保から経済まで両国の友好協力関係を推進する基本的な立場は確認できたとする一方、これは両国が友好関係を演出した結果で、防衛面での負担や為替政策など、具体的な問題での協議が始まれば、摩擦が生ずる懸念は消えないと述べている。
中国新聞社説は、首相はほっとしていようが、首相が目指す相互利益の関係を構築できるかどうかは見通せない。同盟強化が通商交渉の取引に使われる懸念も打ち消せないとしており、防衛費が聖域化するのではないかと案じている。
琉球新報社説は、日米首脳が沖縄の頭越しに、辺野古が唯一の代替案と規定するのは許されない、辺野古の海は日米への貢物ではないと怒りをあらわにしている。

このように社説の多くは、首脳会談が総論で意見の一致を見たことを一応評価しながらも、今後の各論で対立が生ずるのではないかと懸念している。また、これら社説の多くは、トランプ大統領の「7か国からの移民の一時入国差し止め」という大統領令を安倍首相が「内政問題だ」として言及しなかったことについて、日本の国際的なイメージを低下させるのではないかと指摘している。さらに、一部の社説は、会談の直前というタイミングをとらえて、トランプ大統領が中国の習金平主席と電話で会談し、「ひとつの中国」の原則を確認したこのに触れており、朝日新聞は「”日米蜜月”が中国を抑止し、日本を守るという発想だけでは、もはや通用しない」と指摘している。

ところで、安倍首相の3日間の訪米を締めくくる12日の夕食会の席上に、北朝鮮ミサイル発射の知らせがお祭りムードの会談に冷や水を浴びせた。両首脳は緊急記者会見に臨み。安倍首相が「断じて容認できず」という短い声明を読み上げた後、トランプ大統領がこれに和し、待ち受けた記者の質問には答えず、すぐに退場した。

< 北朝鮮のミサイル発射に対する共同会見についての社説 >

読売新聞社説   「日米同盟を試す不毛の挑発だ」  
朝日新聞社説   「北朝鮮の挑発 日米韓のゆるみを正せ」
毎日新聞社説   「冒険主義の挑発やめよ」
北海道新聞社説  「挑発止める連携を急げ」
中日新聞社説   「監視と包囲さらに強く」
中国新聞社説   「危険な挑発、許されない」
西日本新聞社説  「米新政権は指導力発揮を」
琉球新報社説   「北・米の「敵対関係」改善を」

読売新聞社説は、北朝鮮は米本土に達する核ミサイルを完成させ、核兵器保有国の立場でトランプ政権と対等の立場で交渉に臨むという目標に一歩近づいたことを誇示したいのだろう。日米は多層的なミサイル防衛網を構築することが急務だ。と述べている。
朝日新聞社説は、発射から間をおかず、日米の首脳が並んで記者会見し結束を国際社会に示した意味は大きいが、強いメッセージを両首脳がともに発すべきだった。米・韓の政治が不安定な今、日米韓のゆるみを正し、さらなる連携を促すのは日本の役割だとしている。
毎日新聞社説は、日米首脳が緊急の記者発表で一致したメッセージを発信したのは適切だった。重要なのはトランプ政権が北朝鮮の核・ミサイル開発を絶対に許さない断固たる意思を示すことだ。オバマ政権はその点で失敗した。日本は利害を共有する韓国と共にトランプ政権への働きかけを強めよと訴えて
いる。
北海道新聞社説は、国連安保理の制裁決議の順守を徹底することが重要だ。トランプ氏は選挙期間中に金正恩氏との対話に意欲的ともとれる発言をしたが、アメリカが北朝鮮に安易な宥和策をとり、北東アジアの平和と安定を脅かす核保有を認めることがあってはならないと述べている。
中日新聞社説は、トランプ政権が北朝鮮制裁をさらに強めるのか、それとも対話を模索するのか、具体的な政策が動き出すのは今年下半期になるのではないか。三月には定例の米韓合同軍事演習実施され、
北朝鮮がさらにミサイルを発射する恐れがある。米韓は軍事力の差を誇示して挑発を抑え込みながらも、偶発的衝突が起きないように慎重を期すべきだ。と
中国新聞社説は、トランプ氏は選挙戦で北朝鮮との対話や在韓米軍の撤収の可能性に言及していた。ミサイル発射は、オバマ世間から続く北朝鮮への「敵視政策」の転換の可能性を含め、新政権の北朝鮮への東アジア政策をみきわめようとしたのだろうか。トランプ大統領がどう向き合うのかは不透明だが、粘り強い対話を第一に対応を練り直したいと提案している。
西日本新聞社説は、ミサイル発射は日米首脳会談で「北朝鮮の核・ミサイルからの防衛は極めて優先度が高い」など日米が対北朝鮮で連携をアピールしたことへの反発なのだろう。同時にトランプ政権の本気度を「瀬踏み」する意図があることは間違いないと推測している。
琉球新報社説は、ミサイル発射は、最近の日米韓による軍事的包囲網強化への危機感を示したものだろう。断固たる措置は当然だが、ミサイル開発への軍事的対応の強化が新たな北朝鮮の挑発を招き軍事的緊張が高まる悪循環に陥ることが心配だ。根本の問題であるアメリカと北朝鮮の敵対関係を改善する道筋を模索すべきだ。と述べている。

大方の社説が北朝鮮の暴挙を激しく非難し、強い態度で臨むよう促している中で、中国新聞と琉球新報の社説が対話の必要性に触れているのが注目される。武力衝突が起きれば、在日米軍基地の74%が集中する沖縄が攻撃目標となることは必至だから、沖縄の懸念は当然だろう。

さて、私の感想と意見です。

 主役の皆さんには失礼な話ですが、今度の「会談」と「発射」についての報道を見たり読んだりしているうちに、私は少年の頃、親の目をかすめて通ったドサまわりの小屋掛けの芝居を思い出しました。

新しくのし上がった大親分と先々代からの古い子分の代貸しが“シマ割りやテラ銭の分け前”について話し合い、代貸しがみっともないほどにおもねった挙句、シャンシャンシャンと手打ちを終わり、大親分がやらせている旅館の豪華な座敷で女房や子分どもをはべらせて上機嫌で酒を酌み交わしているところへ、昔から手を焼いていた一匹狼の無法者のやくざが、代貸しの縄張り近くまで入り込んで、長どすを振り回して試し切りをしているという知らせが入った。二人ともすっかり酔いがさめて、顔をみあわせたが、突然のことでどうしたらよいかよい知恵が浮かばない。だが子分や虎視眈々と成り上がり者の大親分の隙を狙う親分衆の手前黙っているわけにもいかない。外へ出てみると噂を聞いた野次馬が集まっていた。代貸しが、親分に促されて「やくざ仲間の風上にも置けねえ奴だ。断じて許せねえ。皆で懲らしめてやる」と啖呵を切って見せると、大親分も「おめえと俺は杯を交わした一心同体の仲だ、目いっぱい力をかすぜ」と応じたが、さていったいどうなることやら。というのが感想です。

続いて起きた“金正男毒殺”事件は、「朝鮮王朝実録」にもとづく李王朝の韓国歴史ドラマの筋立てにそっくりです。これらのドラマでは、絶対的権力を持つ王が、謀反を恐れて犯人を仕立て上げては殺すのです。殺されるのはたいてい王の異母兄弟とそれに加担したとされる親族や側近で、追放された挙句、側近は八つ裂きなど残虐な刑に処され、異母兄弟は毒殺されることになります。 時には謀反騒ぎの裏に宗主国であった「清」の影がちらつきます。金正恩委員長の義理の叔父で”金王朝“のナンバー2だった張成沢行政部長は中国から帰国したあと、反逆罪に問われ機関銃で粉々に”爆殺“され、14歳年上の異母兄は常に命を狙われていたと言われます。

これらの悲劇は、専制的な権力を持ちながら、或いはそれ故に、孤独と猜疑心にさいなまれる独裁者
によって強行されました。独裁者はこうして国内では恐怖政治を敷き、外国に対しては強硬な政策をとります。そうしなければ政権を維持できないからです。朝鮮王朝の場合、外敵は女真と日本(倭寇)でした。

北朝鮮ではこうした政策の結果、ほとんどの国民が先軍思想に洗脳され、それを先導する「将軍様」に絶対服従を誓っているようです。先年北朝鮮が「光明星1号」ミサイルを打ち上げた際の映像で、見上げる若者の目に涙がうかんでいるのがわかりました。それは70年前、大東亜戦争はアジア解放の聖戦であると教え込まれ、白馬にまたがって皇軍をみそなわす大元帥陛下の御姿に深く感動していのちを捧げることを誓った私の姿に重なってみえました。将軍様とそれを取り巻く勲章だらけの軍人達の映像を見る度に、私は「陸には猛虎の山下将軍、海には鉄血大河内、見よたのもしの必殺陣、出てこいニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」と本気で歌った昔を思い出します・

このような心象風景をバックに各社の社説を読んでみました。 
     
おおかたがアメリカの核兵器を含む圧倒的な軍事力で北朝鮮の軍事挑発を抑えこむことを期待し、同盟国である韓国と日本が一体となって協力するよう求めています。
私も北朝鮮が極めて特異な国であり、その国が核ミサイルを持つことの危険性は十分に認識しているつもりです。(桐英会ブログ「北の核 1~7」)。今の北朝鮮がかつての軍国主義日本とあまりにもよく似ていることを思うと、外敵の圧迫を受ければ受けるほど国民は貧しさに耐えて一致団結するだろうし、指導者がそれをバックに無謀な行動に出ることは十分に考えらます。北朝鮮が核ミサイルを完成した場合、日本への攻撃を防ぐことは不可能でしょう。核抑止という実際には機能しない考え方に頼るのではなく、外交によって事態を解決する努力を優先すべきであると思うのです。

中国新聞と琉球日報の社説が外交による解決を主張しており、琉球日報は「北朝鮮を仮想敵国とする米韓軍事演習の中止」など米国が敵対政策を転換する中から、「休戦協定を平和協定に改定する対話路線を」という木村朗鹿児島大学教授の提案を紹介しています。

日本は小泉政権時代に、北朝鮮と平和条約交渉のための政府間協議を始めましたが、北朝鮮が拉致被害者の偽の遺骨を送ってきたとして中断しました。拉致被害者についての協議も中断し、老い行く家族達の悲痛な願いにも拘らずまったく進展の目途は全く立っていません。アメリカの歴代政権が北朝鮮との直接対話を避けてきたため、日本が単独で協議を再開することはむ塚しかったのでしょうが、トランプ政権が対話に前向きともとれる発言をしている今が対話再開のチャンスであると思います。(M)

『英語教育』3月号第1特集のテーマは「英語教師のためのPDCAサイクル―今年度目標の達成度を振り返る」となっていて、それに関して9点の記事が掲載されています。私はそれらを一読して違和感を持ちました。ほとんどの記事において、「PDCAサイクル」との関連が不明だったからです。一部の記事はPDCAに関係づけていましたが、特集のテーマに合わせて無理にそうしているように思われました。この特集の主要テーマは、むしろ、副題になっている「今年度目標の達成度を振り返る」にすべきでした。そうすれば、ほとんどの記事がすんなり収まりました。一年間の指導を振り返るのにPDCAを持ち出す必要はなかったのです。これは特集の企画段階で、雑誌編集部にPDCAサイクルが適切に機能しなかった結果です。

この特集を読んで気がついたことは、「PDCAサイクル」とは何かについての理解が執筆者によって違っていることでした。おそらく雑誌編集者の理解も違っているのでしょう。そもそも、この用語はどうやら文科省が最近好んで使っているもののようです。昨年12月に公表された中教審答申の中に次のような記述があります。「平成28年度より、都道府県ごとに『英語教育の改善プラン』の策定・公表を行い、生徒・教員の英語力等の目標を設定、管理の上、必要な研修等を実施し、PDCAサイクルの構築を推進している。」(答申p.202)というのです。つまり、文科省は学校の生徒や教員の英語力を高めるために必要な教員研修などを都道府県ごとに行うことを企画しており、そのプランを設定し管理するための事務的手続きを公式化しようとしているのです。その一連の手順を「PDCAサイクル」と呼んでいるわけです。

いったい「PDCAサイクル」とはどういう意味を表す用語なのでしょうか。ウィキペディア百科事典は、「事業活動における生産管理や品質管理などの管理事務を円滑に進める手法の一つ。Plan(計画)→Do(実行)→Check(評価)→Act(改善)の4段階を繰り返すことによって、業務を継続的に改善する。」と書いています。おそらく文科省は、都道府県における教員研修の計画・実施などの業務に関して、「それを計画し、実行し、評価し、改善して再実行する」という一連の定式化された手順を繰り返すことによって、客観的に目に見える形で彼らの業務を改善することができると考えたのでしょう。それがPDCAサイクルというわけです。じつに巧妙な戦略です。

しかしこれを教育活動に応用するときには、よくよく注意をしなければなりません。なぜなら、教師の仕事は文科省や教育委員会の管理事務のそれとは大きく違うからです。最も大きな違いは、生徒はモノではなく、教師によって完全に管理されるべきものではないのです。そのことは『英語教育』誌の記事にも書かれています。最初の執筆者・江原美明氏は「『振り返り』の仕方を振り返る―新たな出発に向けた5つの視点」の末尾を次のように締めくって注意を促しています。「本稿で紹介した5つの視点は、PDCAで言えば全てPの段階で行うべきことです。生身の人間である教師、生徒、同僚が授業という場を通して学び合い、さらに学校内外での研修を通して学びと出会いを経験する。そこには製品の品質管理にはない、人と人とのやりとりの結果生まれる学びのプロセスがあります。本稿が、生身の人間の学びのプロセスを振り返るための一助になれば幸いです。」(p.12)

また2番目の記事の執筆者・渡部良典氏は、「PDCAサイクルを取り入れた評価―CAN-DOリストを活用して」の中で次のように述べています。「PDCAサイクルは、基本的には仮説―検証―発見という科学的操作の基本を具体化したものである。Pの段階の立案が仮説であるとするならば、最初から完璧な目標設定を示した記述文の集合を作成する必要はない。徐々に習得することを促すようにすべきである。一夜にして飛躍的な伸びをみせることを過剰に期待してはいけない。機会を与え辛抱強く見守る必要がある。」(p.15) ちょっと分かりにくい文章ですが、つまり、学習目標を設定する場合に、教師が自分の設定した目標を性急に追求しようとすると生徒がついてこれなくなるので、生徒の自主性を尊重し、その目標に至るプロセスを大事にして辛抱強く指導する必要があるということのようです。教師が文科省にならって管理主義に陥ってはならないのです。

3番目以降の7つの記事は、それぞれの筆者が今年度の授業を振り返っての報告(及びそれを次年度の指導にどうつなげるかの見通し)が主体になっています。多くの筆者が自分の振り返りをPDCAサイクルにどう結び付けようかと苦労をしたようで、読んでいてしばしば気の毒に思いました。

(付記)「PDCAサイクル」という用語を文科省や教育委員会が管理事務の能率化のために使うのは彼らの自由でしょう。しかし学校における教育活動にこれを適用する場合には慎重であってほしいと思います。教員が自分の教育活動にこの用語を用いるのは望ましくありません。また、本文で示唆したように、その必要はないと思われます。

現在行われている中等教育の英語教育にはどのような問題があるでしょうか。これからの教育を考える場合には、現在の問題点を正確に把握しておく必要があります。昨年12月21日に出された中教審答申は、現行の学習指導要領の「外国語科」の課題について次のように述べています。

「中・高等学校においては、文法・語彙等の知識がどれだけ身に付いたかという点に重点が置かれた授業が行われ、外国語によるコミュニケーション能力の育成を意識した取組、特に「話すこと」及び「書くこと」などの言語活動が十分に行われていないことや、生徒の英語力では、習得した知識や経験を生かし、コミュニケーションを行う目的・場面・状況等に応じて適切に表現することなどに課題がある。」(答申p.193)

この文章は文科省でまとめたものでしょうから、これが現時点での文科省の現状認識であると言って間違いないでしょう。この文章は、私見ながら、大方の賛同を得る内容のものだと言えるでしょう。

次に、上の課題に対して文科省がどのような改善策を考えているかを見てみます。その結論部分には次のように書かれています。

「外国語の学習においては、語彙や文法の個別の知識がどれだけ身に付いたかに主眼が置かれるのではなく、児童生徒の学びの過程全体を通じて、知識・技能が、実際のコミュニケーションにおいて活用され、思考・判断・表現することを繰り返すことを通じて獲得され、学習内容が深まるなど、資質・能力が相互に関係し合いならが育成することが必要である。」(答申p.194 <下線は筆者>)

読者の皆さんはこの難解な文章(特に下線部分)を解読できますか。筆者は最初この部分だけを抜き出して読んでみて、よく理解できませんでした。この前後の文章を幾度も読んでみても、結局よくは分かりませんでした。要するに、「外国語の学習においては、単に語彙や文法の知識をばらばらに身に付けるのではなく、実際のコミュニケーション活動の経験を通じてそれらの知識・技能が活用できるようにすることが必要である」ということのようです。それにしても、なぜこのような分かりにくい文章になったのでしょうか。

その原因を掘り下げると、第1に、この文章を書いた文科省の担当官(たち)が、自分たちの経験に基づいていない未消化な知識を、確信のないまま文章にしたからだと推定されます。ここに出てくる「知識・技能」、「思考・判断・表現」、「資質・能力」などから、これは中教審答申の核心的な教育理念を表す言葉を書き連ねて、それらを英語の目標に強引に結びつけようとしたと判断できます。まるで学生が書いた一夜漬けのリポートのようです。思考、判断、表現などは学びのプロセスに関する問題であって、ここに列挙するようなものではないのです。だいたい、この答申が200頁を超える大部なものであることも気になります。中身が厳選されておらず、論理に飛躍が多く、内容が薄いのです。今年3月末に文部科学大臣の名で告示される予定の新学習指導要領には、忙しい一般の教師にも理解できるように、簡にして要を得る表現にしてもらいたいものです。

第2に、より根本的な問題として、英語教育改革に関する中教審・文科省の考えと教育現場の意識との間には、大きなギャップが存在します。そのことが現在の混乱を招く主要な原因となっているように思われます。そもそも前世紀後半までのわが国の英語教育は、中学・高校における英語は基礎教育であって、実践的なコミュニケーション能力の育成までは手が届かないという暗黙の了解がありました。少なくとも英語教育関係者の多くはそのように考えていました。これに対して経済界や政治家の間からは、早くから、もっと役に立つ英語を学校で教えるべしという声が出ていました。1990年代になって、それが学校英語教育への要求として声高に叫ばれ、世論もそれを支持しました。

そして文科省が学習指導要領に「実践的コミュニケーション能力(の基礎)を養う」(丸括弧内は中学校)と明記したのは1998年の改訂版でした。次いで2000年に開かれた「21世紀日本の構想懇談会」が、これからは英語とコンピュータが必須だと迫りました。文科省はそれを受け、「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」(2002年)を立案し、その実現に向けて素早く動き出したのでした。これ以後、文科省はこの転換を急激に促進し、次回の学習指導要領改訂(2008年度)では小学校高学年に「外国語活動」を新設し、英語基礎教育の最初からコミュニケーション能力の育成を図る方針を徹底しようとしました。明治以来の長い伝統的な英語教育の歴史に比べると、この20年間に起こった変化は非常に急激です。教育の現場はその変化について行けません。現場の意識はそれほど急速には変わらないのです。

文科省はそういう現場の意識を変えようとしています。しかしそれは容易なことではありません。文科省は政府や財界からの圧力のゆえに焦っています。その結果、英語の目標設定に関して述べている事柄が、現場の実態から遊離してしまったわけです。今回の目標設定にも、文科省はCEFR(ヨーロッパ共通参照枠)の基準を生徒の学習目標として取り入れ(注)、その基準への達成度の判定に英検などの外部テストを活用しようとしています。筆者の見るところ、CEFRというのはあくまでEUの統合を円滑に進めるために開発されたたもので、日本の学校における教育的伝統や教科課程とはまったく異なる条件下で作成されたものです。そういうわけで、日本の文科省が主導してCEFRを義務教育である小・中学校の英語教育にまで適用し、その考えに基づいて作成された英検テストなどで学力を判定することには疑問を持たざるを得ません。

もちろん、CEFRは多くの研究者たちの長年にわたる努力の末に作成されたものですから、私たちの英語教育にも参考となる事柄は多々あります。日本の大学でもいくつかの大学(上智大学など)がそれを利用して「CAN-DOリスト」を作成し、外国語の授業改善を図っていると聞きます。日本英語検定協会(英検)もそれを利用して「話す」「書く」を含めた4技能の学力測定を改善しようとしています。それはそれで結構な試みです。しかし、日本の英語教育はヨーロッパに住む人々のための英語教育とは条件が大きく違います。その違いを論じると長くなりますが、決定的な違いは、日本では日本語だけで生活することにほとんど不自由を感じないことです。CEFRが日本の大学レベルの学生には有効であっても、小・中・高生の英語力を適切に評価できるかどうかについては、まだ科学的な検証が十分になされていません。この点で、文科省はあまりにも性急だと批判されて然るべきです。

そして文科省が、児童生徒たちの英語力を英検に頼るような記述をすることも大きな問題です。英検はそれほど信頼性の高いテストとは考えられません。4技能の新しいテストもまだ始まったばかりで、その妥当性や信頼性の検証はこれからです。文科省が音頭を取って、中学生の50%を英検3級程度、高校生の50%を準2級~2級程度にまで引き上げることを国の目標にするなど、正気の沙汰とは思えません。

(注)中教審答申の「第2章各教科・科目等の内容の見直し12.外国語」(pp.193-205)には、国際的基準としてのCEFRについて次のように説明されています。その最初の部分は次のようです。

「CEFR(Common European Framework of Reference for Languages: Learning, teaching, assessment外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠)は、語学シラバスやカリキュラムの手引きの作成、学習指導教材の編集、外国語運用能力の評価のために、透明性が高く、包括的な基礎を提供するものとして、20年以上にわたる研究を経て、2001年に欧州評議会が発表した。CEFRは、学習者、教授する者、評価者が共有することによって、が帰国後の熟達度を同一の基準で判断しながら「学び、教え、評価できるよう」開発されたものである。国により、CEFRの「共通参照レベル」が、初等教育、中等教育を通じた目標として適用されたり、欧州域内の言語能力に関する調査を実施するに当たって用いられたりするなどしている。・・・」

なお蛇足ながら、中教審答申にこのような啓蒙的な説明文が長々と入っていることに奇異な感じがします。