Archive for 3月, 2017

文部科学省が推進している「コミュニケーション能力育成」一辺倒の英語教育は行き詰っています。たとい現在の計画で10%くらいの英語エリートを育成することに成功したとしても、他の多くの生徒を置いてきぼりにしますから、高校生の学力差は拡大するばかりです。中学卒業生の大部分が進学する高校教育の現状からして、この問題を放っておくことはできません。そしてその改革の目指す方向は高校英語教育の多様化です。前回は、「英語以外の外国語を生徒が選択できるようにすること」が、そのアプローチの一つであると述べました。

そして高校英語教育を多様化するもう一つのアプローチは、「生徒の英語学習に関する様々なニーズにこたえること」です。すでに述べたように、高校生には英語の学習意欲の観点から3種類のグループに分けられます。第1のグループに属するのはごく少数の「英語エリート」で、自分の英語習熟度を母語話者に匹敵する程度にまで引き上げることを目指す者たちです。第2のグループは評判の良い大学への進学を希望する者たちで、その当面の努力を大学入試に集中し、あわよくばそこで獲得した英語力を将来の必要につなげたいと願っている者たちです。そして第3のグループは英語学習に困難を感じていている者たちで、ここには中学校までの英語に躓いてすでに学習意欲を失っている者たちから、意欲はあっても高校の授業にはついていくことができない者たちまで、様々なレベルの者が含まれます。高校生の英語学習の現状を分析すると、そこには学習のニーズに関する多様性がすでに存在するのです。

文科省は第1グループの英語リートや、第2グループのうち見込みのありそうな者の教育には熱心ですが、高校の授業についていけない生徒たちに対しては比較的に冷淡です。中教審答申(2016年12月)には次のような記述があり、わが国の教育行政がエリートのための教育だけではなく、そうでない生徒たちへの教育にも配慮していることを示そうとしています。

「中学校で学んだことを実際のコミュニケーションにおいて運用する力を十分に身に付けていないといった課題のある生徒も含めた高校生の多様性を踏まえ、外国語で授業を行うことを基本とすることが可能な科目を見直す必要がある。」(p.199

しかしこれらの生徒の指導をどうするかということになると、「必履修科目(特に学習の初期段階)において、中学校の学び直しの要素を入れることとする」というだけで、実際にどのような指導を行うかなどについては何も書かれていません。したがって学力的に中位以下(前記第2グループの一部と第3グループ)の生徒を指導する教師たちは、担当する生徒の実態に応じて、それぞれに独自の指導目標や指導法を創出する必要があります。学習指導要領が幾度改訂されても高校の教師たちが文科省の意図するように動かないのは、このような事情によるのです。

では、文科省が作成する学習指導要領が自分の勤務する学校の教育実践にさほど役立たないと判断するとき、その教師はどうすべきでしょうか。学習指導要領は法令として定められるものですから、公立学校の教師はもちろん、私立学校教師もそれを完全に無視することはできせん。それは国の方針として尊重する義務があります。しかし学校の教師は警察官とは違います。学習指導要領のもろもろの規定は尊重しなければなりませんが、生徒を愛し育てるという教師としての職務がそれらに優先します。それゆえ各学校における実際的指導は、かなりの程度現場の裁量に委ねられます。学習指導要領もそこまで立ち入ることはできません。たとえば、「授業は英語で行うことを基本とする」と法令は定めています。しかしそれはたてまえであって、英語授業での日本語使用が全面的に禁止されていると考えるべきではありません。常識的に考えて、必要な場合には日本語の使用は認められます。また、第二言語や外国語の指導において、必要に応じて学習者の母語を使用するのが効果的だということは、これまでの学問的研究でも認められている公理でもあります。

では高校における英語授業を多様化するために教師ができることは何でしょうか。また何をなすべきでしょうか。そのことを考えるためには、まず学習指導要領の画一的な指導目標によってではなく、もっと柔軟に、英語を学ぶことの多様な目的や価値を認めるところから始めるのがよいでしょう(注)。そうすることによって、教師が英語を教えることを楽しみ、生徒がその授業を楽しむことが可能になります。教師が授業を楽しむことができなくては、生徒をその授業に惹き込むことはできません。そして教師が自分の担当する授業を楽しむためには、教師は自分の授業に自信を持っていなくてはなりません。外からの圧力によって、自分の考えている授業とは異なる授業をしなくてはならないとすれば、それは教師にとっても生徒にとっても不幸なことです。

このことに関して一例を挙げます。前記の2016年12月の中教審答申には、「統合的な言語活動」を一層重視した目標を設定することの必要性が強調されています(答申p.195)。来年3月に公示される予定の高等学校学習指導要領にも、きっとそのような文言が記されるでしょう。その理由は、実際のコミュニケーション場面では「聞く・話す・読む・書く」などの活動が種々に組み合わされて実行されることが多いからだといいます。しかしながら、統合的な活動ができるためには、それぞれの活動を支える基礎的な知識や技能の獲得がその前提となります。英語の文章を読んで理解するためには、そこに出現する語彙や文法の規則を知らなくてはなりません。また理解した文章を正しく音読するためには、英語の音韻と綴り字の規則を知り、書かれた文字系列を正しく音声化する技能を獲得しなければなりません。教科書本文の内容を要約したり、それについて議論したりするという活動は、さらに高度な知識と技能を組み合わせた活動になります。

しかし教師ですら、そういう高度な活動を豊富に経験している人は少ないのではないでしょうか。だからと言って無理は禁物です。自分の経験したこともない活動を自分の授業に性急に採り入れようとすると失敗します。それは往々にして形だけの模倣になって、「たましい」の抜けたものになります。そうなっては、その活動は死んだものとなってしまいます。教師にとって未経験な活動は、自分の得意とする活動の発展として、教師自身の判断で取り入れていくのがよいのです。そうすれば、教師も引き続き自分の授業を楽しむことができますし、自分にとって自信のある活動の中に新しい試みを取り込むことで、自らの冒険心を満たすというおまけもつきます。そうやっているうちに、やがて気がついてみると、自分の授業が大きく変革していることが分かります。これは筆者自身が教員をしていた時代に幾度も経験したことですので、確信を持って言うことができます。教師にとって何よりも大切なことは、教師が自分の授業を主体的・創造的に組み立てていくことです。

「冒険心を満たすこと」は、教師だけではなく、学習の過程にある生徒たちにもぜひ経験させたいものです。いつも同じパタンで授業が進んでは彼らも退屈します。ときに冒険をして、これまで経験をしたことのない活動を行うことによって、彼らも自分の持っている新しい力に気づくことがあります。そしてそれが自己変革のきっかけともなります。生徒たちにそういうフレッシュな経験をさせることができれば、たとえ見栄えのしない授業であっても、それは決して無駄にはなりません。授業は様々な個性を持った教師と生徒との心の交流の場です。それはつねに、一期一会の貴重な瞬間をそれぞれの生徒に提供する可能性を持っています。そしてそれこそが創造的授業の特徴なのです。

(注)英語を学ぶことの多様な目的や価値について、筆者は本ブログの以下の投稿で論述しました。関心のある方はご覧ください。「私の英語教育時評(18)英語を学ぶことの価値と楽しさ」(2016114日投稿)

Author: 松山 薫

< 社説よみくらべ > 5. 「オランダ下院選挙」

5.オランダ下院選挙の結果について

 今年西ヨーロッパの主要国で相次ぐ国政選挙のトップを切ってオランダの議会選挙が3月15日に行われた(下院定数150・比例代表制)。投票率は78%と過去30年間で最高を記録し、国民の関心の高さを示した。
注目された”ポピュリスト“ ヘルト・ウィルダ-ス氏の自由党は予想された下院での.議席倍増はならなかったが、5議席増の20議席を獲得した。一方与党の自由民主党は33議席で第一党の座は守ったものの8議席減らした。また連立与党の労働党は惨敗し、若い党首の率いる緑の党が4議席から14議席に躍進した。

この結果を受けて社説で取り上げたのは、朝日、毎日、産経の三紙のみであった。
各社社説の見出し

朝日新聞社説  「排外主義になお警戒を」
毎日新聞社説  「楽観できぬ極右の失速」
産経新聞主張  「排他主義への“待った”を」

つまり、三紙とも、自由党の失速に一応安堵しながらも、なお今後予想されるフランス大統領選挙やドイツ総選挙への影響を懸念している。

朝日新聞社説は、オランダ自由党の失速は、“オランダのトランプ”と呼ばれるウィルダ-ス党首の具体な政策を欠いた実像が選挙戦で次第に明らかになったこと、政権党の側が国民感情を考慮して反移民ともいえる宣伝をしたことによると分析している。だがそうまでしても、連立与党の中道右派、中道左派
はともに惨敗した。そして、選挙結果は国民の要望に応える処方箋を示してこなかった政権党の怠慢に国民が異議を突きつけたとみるべきであり、ポピュリズムの風が止んだわけではないと主要国の政治家達へ自戒をよびかけている。

毎日新聞社説は、今回の選挙結果でひとまづ大きな混乱は回避できた。フランス、ドイツ、イタリアなど他の欧州諸国首脳らも結果を歓迎している。選挙戦の終盤で自由党が失速したのは、ウィルダ-ス党首が身の安全を理由に公の場に出るのを控えたこと、トランプ政権後のアメリカの混乱がマイナス要因としてはたらいたことなどによる。だが、オランダ同様イスラム系移民の比率が高い隣国フランスでは、反移民の国民戦線ルペン党首の勢いは衰えていない。オランダの選挙結果が欧州全体の流れを変える契機になると楽観するのは早計だとしている。

* 産経新聞「主張」の閲覧は有料なので、ここではとり上げない。

さて、私の意見です。

イギリスの国民投票によるEU離脱とトランプ氏のアメリカ大統領当選で明白になったestablishment
(既得権層、既成勢力)への民衆の不満と憤りは、フィリピンのドゥテルテ大統領への圧倒的支持や数百万人規模のデモに端を発した韓国での朴大統領の罷免、日本では橋下前大阪府知事や小池東京都知事への熱裂な支持の拡大など、メディアの言う“ポピュリズム”の波は世界の主要先進国に広がっている。日本の大手メディアは相変わらずポピュリストを“大衆迎合主義”とか、場合によっては“極右”と銘打っているが、ポピュリズムについては、確たる定義は無く、いくつかの解釈が存在する。

〇 固定的な支持基盤を超え、幅広く国民一般に直接訴えかける政治スタイル 
〇 人民の立場から既成政治やエリートを批判する政治運動
〇 社会を、敵対し合う二つの集団へと分裂させるイデオロギー 
〇 人々の願望や不安、不満に働きかけて人気を集め、体制を変えようとする政治運動
〇 エリートに対する非エリート、一般大衆の妬みの感情をあおり、政治的に利用する手法
〇 エリートが大衆の無知を笑うための政治用語
〇 オランダ自由党のウィルダ-党首自身は「私はポピュリストと呼ばれています。ネガティブな含みのある言葉ですが、もしその言葉が、人々の抱える深刻な問題に耳を傾けていること指すなら、私はそれを侮辱だとは思いません」と述べている。 
( ポピュリズムとは何か 水口治郎 中公新書、日本型ポピュリズム 大嶽秀夫 中公新書  他)

 イギリスに端を発し、アメリカ、そしてヨーロッパやアジアへ広がった“ポピュリズム”の底流にあるのは民衆の怒りだ。民衆の怒りの原因はなんなのか。格差の拡大と富裕層の堕落、それに対して無力な既成政治への絶望感であると私は考えている。

格差の拡大の原因はグローバリズムであり、それは競争至上主義による制限なき自由貿易や“貪欲な”金融資本による市場支配がもたらしたものである。競争至上主義によるグローバルな経済活動の行き着く先は、論理的に一強多弱の世界となる。強者は一強を目指してしのぎを削り、弱者はそのために利用される。

日本の現実を見ても、枚挙にいとまない大企業の不祥事、大企業による中小下請け企業へのコスト削減要求、それによる中小企業の倒産、横行するブラック企業による労働者の使い捨て、なかんずく企業利潤を優先した長時間労働、過労死ラインすれすれの時間外労働月間100時間を政財官が主導して無力な労働組合に押し付ける、これらがすべてグローバリズムに端をはっしていることは、日常の<なぜ>を見逃さない人なら、誰でも気付くことだろう。

ドイツの社会学者ウォルフガング・シュトレークは「格差の広がりは、自由市場の拡大つまりグローバル化がもたらした当然の結果であり、国際競争で生き残るという旗印の下で、国家は市場に従属するようになり、政府は労働者や産業を守ることが難しくなった」と指摘している。
また、フランスの経済学者トマ・ピケティは「一刻も早くグローバリゼーションの方向性を変える必要がある。今そこにある最大の脅威は、格差の拡大と地球温暖化である。・・・関税やその他の貿易障壁を軽減すような国際合意はもうやめにしないか。法人減税などによる財政ダンピングや環境基準を甘くして生産コストを下げる環境ダンピングをやめるべきだ」と提唱し、アメリカ大統領予備選挙でバーニー・サンダースに投じられた票から教訓を引き出すべきだと述べている。

 アメリカ大統領選挙で旋風を巻き起こしたバーニー・サンダースの政策は前回紹介したが、サンダースは選挙の後、次のように述べている。「はっきりさせておこう。グローバル経済は、アメリカでも世界でも、大多数の人びとの役にたっていない。経済エリートが得をするようにと、彼らが生み出した経済モデルだ。私たちアメリカ人は、真の変革をおこさなければならない。そして今の「自由貿易」を否定し、公正な貿易へ移行すべきだ。一握りの億万長者だけでなく、全ての人々の役に立つ国家経済と世界経済を作り出さなければならない」「真の改革はトップからは実現できない。常に底辺から起きるものだ。政治改革は続けなければならない」。 高齢のサンダース氏に次の機会がないことが惜しまれるし、彼のような信念と実績、本質を見据えたスケールの大きな具体的政策を提示する政治家が日本に生まれないことを残念に思う。

現状を根本的に変えなければ庶民は救われないという思い < 現状を根本的に変えることへの不安
という不等式は、今回のオランダ選挙の結果に見るように、いつ逆転するかわからない時代が来ていると私は考えている。(M)

高校の英語教育を多様化するにはどうしたらよいか――これが今回のテーマです。多様化の方向性は前回示しました。それは「高校の英語を多様化し、英語以外の外国語を選択できるようにするとともに、生徒のさまざまな学習の要求(ニーズ)にこたえること」でした。ここに示した多様化には二つの面があります。一つは、外国語コースの多様化です。つまり、各学校が複数の外国語コースを用意し、生徒が英語以外の言語も選択できるようにするのです。もう一つは、生徒の英語学習に関する多様な目的や志望にこたえられるように、各学校が独自のカリキュラム編成を行うことができるようにすることです。

そこでまず今回は、第一の「外国語コースの多様化」の問題を取り上げ、その問題に集中します。第二の「生徒の英語学習に関する多様化」の問題は次回に述べます。

わが国の学習指導要領では「英語」は「外国語」の中の一つの言語です。文科省はこれまで一貫して(正確には、1951年版「学習指導要領試案」以来)このシステムを守ってきました。そのことに関しては文科省の努力に敬意を表し、これからもこれを守り通してほしいと筆者は願っています。しかし他方では、文科省は「英語」を優遇し、他の外国語については比較的に冷淡でした。その証拠に、これまでの学習指導要領はすべて「英語」についての記述に終始し、他の外国語については単に「英語に関する各教科の目標及び内容等に準じて行う」とだけ記しています。また、以前は生徒全員に英語以外の外国語を第一または第二外国語として履修させるのを特色としている学校が各地に存在したのに、現在ではそういう学校が少なくなっています。

文科省調査(2014年5月年現在)によると、英語以外の外国語の科目を開設している高校の総計は708校で、開設している言語と履修者数は次のようです。

*中国語517校(履修者19,106人) *韓国・朝鮮語333校(11,210人) *フランス語223校(9,214人) *ドイツ語107校(3,691人) *その他の言語(スペイン語、ポルトガル語など)180校(4,908人) *延べ1,360校(履修者合計 48,129人) [注] 複数の言語の科目を開設している学校があるため、学校の延べ数は実数を上回る。

上の表を見て、英語の履修者に比べてそれ以外の言語履修者があまりにも僅少なことに驚きを感じる人は少なくないのではないでしょうか。ちなみに、上記の調査年度における全日制高校在籍数は約322万人ですから、英語以外の外国語履修者48,129人は全高校生の1.5%にすぎません。この中には英語を第二外国語として学ぶ人も含まれますので、高校生の98.5%以上が英語を履修していることになります。タテマエでは「外国語」なのに、中身はほとんど「英語」なのです。

次に大学入試センター試験での「外国語」の受験者数を見てみましょう。ここでも英語がダントツです。当センター公表のデータによると、2015年度センター試験における外国語科目の言語別受験者数は次のようです。

*英語 526,394人 (99.83%) *ドイツ語 148 人(0.03%) *フランス語 134 人(0.04%) *中国語 449 人(0.09%) *韓国・朝鮮語161 人(0.03%)

驚くべきことなのか、当然のことと言ったらよいのか、外国語科目で「英語」を選択する受験者は全体の99.83%を占めています。これではまるで、日本が英語帝国主義によって完全に制圧されてしまったかのようです。そのうち、外国語の試験は英語だけでよいと言い出す人がいるかもしれません(注1)。たしかに、小学校や中学校では、実践上のもろもろの制約のために、複数の外国語を導入することは困難であるかもしれません。しかし高校はこれではいけません。何とかして現状を打破する努力が必要です。そうでなければ、日本はこれからのグローバル化に対処することがいっそう困難になります。すこし冷静になって世界を見渡せば分かるように、この地球は英語だけで回っているわけではないのです。世界には数千の言語が存在し、約4分の3の人々は自分たちの言語で生活しているのです。

さて、わが国で英語以外の外国語教育を盛んにするには、実践上の問題を解決しなければなりません。第一に指導教員を確保する問題があります。しかし、そういう資格を持つ教員を短期間に多数確保することは、短期間には達成が困難です。それは長期にわたる教員養成を必要とします。そこで筆者は、手始めとして、各地域の教育委員会を中心に「外国語教育センター」を設置することを提案します(注2)。そこで土曜日や夏休みを利用して、1講座年間105時間程度の外国語講習会を開催し、それを受講した高校生に単位(3単位)を与え、学校はそれを卒業単位として認めるのです。このようにすれば複数の外国語講座を開催することが可能になり、その講師を確保することも比較的に容易になります。おそらく、学校ごとに計画するよりはずっと実現可能性が高くなるでしょう。もちろんそのためには多大の予算を必要とします。しかし課題の多い入試センター試験に莫大な国家予算を注ぎ込むよりも、はるかに有益です。

また、高校の英語教師にもう一つの外国語を学んでもらって、その人たちに特定言語についての「特別免許状」を発行するという方法も考えられます。英語教師になる人は一般に外国語の適性が高いと思われますので、この案はそれほど奇抜なものではありません。大学で第二外国語として英語以外の言語を学んだ経験を持つ人もかなりの数に上るでしょう。ただし、近年は英語以外の外国語を選択する学生が減少してきて、そういう学生は大学でもマイノリティーになっているのが心配です。大学のこの現状を打破するという点からも、高校生のための外国語講座を拡大することは有意義です。そして英語教員は概して他の言語には冷淡なきらいがありますから、その意識を改善するためにも、彼ら自身も世界の様々な言語と文化についての関心を高めることが必要なのです。

第二に、生徒を英語以外の言語学習にどのように動機づけるかの問題を考える必要があります。これに関して筆者は次のように考えます。大学進学志望者が比較的に少ない高校では、前回にも述べたように、英語の授業に興味を失った生徒たちや、意欲はあっても授業についていけない生徒たちがあふれています。彼らが青春の只中にある高校3年間の英語の授業を無為に過ごすことは、彼らの人生とってのみならず、国家にとっても大きな損失です。この時間をもっと有効な時間に変えなくてはなりません。そういう生徒たちを英語以外の言語の学習に導くことができれば、それは教育改革への大きな展望を私たちに与えてくれます。世界で使用される言語は英語だけではない、他にも様々な面白い言語があることを知るならば、彼らの人生がそこで大きく変わる可能性もあるのではないでしょうか。

(注1現在、入試センター試験に関して憂慮すべきことが起こっています。その業務の効率化のため、当局は試験科目の削減を検討しているというのです。そしてその中に、英語以外の外国語試験を廃止するという案もあると聞きます。どうかそんなことが起きないでほしいと、筆者は切に願っています。たしかに、英語以外の外国語の受験者が現在のように少なければ、センター試験は英語だけでよいという意見が出るのは理解できます。しかし、それだから廃止してしまえというのは乱暴です。教育関係者は自分たちの利益よりも子どもたちの利益を第一に考えて、いま何をなすべきかを決めてほしいものです。

(注2)「外国語教育センター」という名の組織や機関は、現在すでにいくつかの大学に存在します。日本大学文理学部のそれは次のような活動を行っており、今後そのような組織や機関を作ろうとする人の参考になります。

*TOEIC・TOEFLなどの各種検定試験対策 *各種外国語の運用力向上のための課外講座 *外国語学習や海外留学に関する相談 *留学生のための日本語学習相談及び支援