Archive for 3月, 2015

蟷螂の斧 ③ <“兵隊さんの歌”が聞こえる >          
 肩を並べて兄さんと  今日も学校へいけるのは  兵隊さんのおかげです  
お国のために     お国のために戦った       兵隊さんのおかげです

 これは、戦争中に育ったものなら誰一人知らぬものはない“国民歌謡”の一番の歌詞である。二番は、お国のために“傷ついた” 三番は、お国のために“戦死した” とエスカレートする。

 太平洋戦争が始まる前の年のことだったと思う。まだ東京に空襲がなかった頃、私が戦争の悲劇を最も身近に感じたのは、近所に初めて戦死者が出た時のことだった。お国のために戦死した“護国の英霊”をお迎えするため、駅から「英霊の家」までの道路には真っ白いエプロンに襷をかけた愛国婦人会(近所のおばさん達)と制帽をかぶった奥沢小学校の教師、全生徒が整列し、”最敬礼”の号令で体を九〇度近く曲げて頭を下げる前を、軍楽隊の葬送曲が流れ、在郷軍人に先導された白木の箱が粛々と進み、家族や親せきの者たちが後に従った。そう言えば、この人が日の丸を襷掛けにし、歓呼の声に送られて出征して行ったのはいつの日のことだったか、と私は頭を垂れながら、それほど遠くないその日の光景を思い出していた。

 戦死したのは近所に住んでいた建具屋の職人さんで、顔は知っていたが、話をしたことはなかった。中国戦線で壮烈な戦死をとげたと聞かされたが、ちょっとのんびりした顔の職人さんとは、結び付かなかった。しかし、それから何か月かたって、奥さんとまだ小学校前の子供が、郷里に帰ったと聞いた時、はじめて、“もしかしてうちの家族も”という不安がよぎり、”よし、国を護り、家族を守るために自分も兵隊になって、チャンコロを殺す“という異常な愛国心が、中学生になり、軍事教練を受け始めた私の心に勃然として湧き上がってきたのである。しかし、戦争が激化し、敗色濃厚になって戦死者が次々に出るようになると、いつの間にか、このような丁重な儀式は立ち消えになり、戦死は日常茶飯事となっていった。新藤兼人監督の映画「一枚のハガキ」はその間の移り変わりを見事に描き出している。要するに荘重な儀式は、戦意高揚の仕掛けだったのである。

 戦後70年、日本からひとりの戦死者も出さないという平和な時代が続いたが、どうやら雲行きが怪しくなってきた。自民党と公明党が国民をそっちのけで談合している“安全保障法制”が実施されれば、遠くない将来自衛隊から戦死者が出る可能性が高まるとみられている。

 ”安全保障法制“の肝である米軍等の戦闘への自衛隊の後方支援の強化では ① 現に戦闘が行われていなければ、戦闘が行われる恐れがあっても後方支援地域とする ② 後方支援には弾丸の補給も含まれる ③ 在留邦人や地元民の駆けつけ警護などでは武器を使用できる、などなど自衛隊の武器使用の機会が格段に増える。もともと、戦争というのは”殺らなければ、殺られる“の「何でもあり」の殺し合いであり、戦闘地域と後方支援地域を分けるというのは、戦争常識から言ってナンセンスなのだが、自衛隊員が米軍と同じ迷彩服を着て任務についていれば、相手にとって自衛隊は敵軍と一体、敵軍そのものになるから、やがて戦死者が出るだろう。

 戦死者が出るようになれば、国民は政府や自衛隊を批判する口を封じられ、“お国のために戦った自衛隊よ有難う”という国民感情が勃然と醸成され、戦後70年とは異なった雰囲気がこの国を覆うだろう。そう思うと、私の耳には“兵隊さんの歌”が遠くから聞こえてくるような気がするのである。

 戦前の日本の支配階級は、「教育勅語」をベースにした学校教育と、やがてそれに追随したマスメディアによって世論を誘導し、半世紀をかけて天皇制中心の軍事独裁国家をつくりあげた。戦争が長びき、戦死者が多くなっても、権力によって巧みに目隠しされた国民は厭戦気分どころか、すすんで”兵隊さんよ有難う“を歌うようになり、軍事最優先の”一億一心“は敗戦まで続いた。今から思うと愚かだが、その渦中にいる時には何の疑問も持つことはなかったのである。

 現在の既得権層の頂点にある自民党は、憲法改正、国軍の創設が結党以来の大目標であり、70年にわたる膨大な蓄積の上に、今、その野望をとげようとしている。残念ながらそれに対抗すべき勢力としての野党や労働組合は存在しないし、マスメディアは全体として、もはや権力のチェック機能を失いつつあるから、あとは、国民の意識が、場合によっては戦争もやむを得ないという方向へ変わるのを待つだけになっているように思われる。今のところ、朝日新聞の最近の調査では、自衛隊の海外活動拡大には52%が反対し、賛成は33%だし、内閣府調査では、自衛隊の国際平和活動について「現状の取り組みを維持すべき」賀65%、「これまで以上に積極的に」の26%を大きく上まわっている。しかし、海外派遣によって一旦戦死者が出れば、国民感情は勃然と変わるのではないか。

 このような雰囲気の中で、安倍政権は、国際紛争の解決に武力を使うことを禁じた憲法の定めなどはどこ吹く風、国会で安倍首相が海外派遣に関連して自衛隊を「わが軍」つまり日本軍と呼び、官房長官がそれを「何ら問題ないと」と擁護し、防衛相が「文官統制と文民統制は違う」と詭弁を弄する。憲法上持てないとされていた事実上の航空母艦が就役し、「積極的平和主義」という美名のもとに、今や専守防衛の国是は空文と化した。そして自民党は2年後には憲法9条を改定したいと公言するまでになった。  その地ならしに、複雑な安保法制の論議を大々的に展開して、安保法制そのものの是非、ひいては安保法制、その前段の集団的自衛権行使容認の発端となった一内閣による憲法解釈の変更の可否についての論議から目をくらまそうとしている。

 アメリカとの日程合わせを最優先に、国家の根幹にかかわる重大問題を国民をまるで蚊帳の外に置くような状態のなかで、事実上与党の談合だけで決めてしまうようなことが許されるはずはない。この暴走のツケはどうしても払わさなければならないと私は考える。自民党の国政選挙の基盤となる地方組織を“草の根の軍国主義”の牙城にしないためにも、来月の地方選挙の結果に注目したい。(M)

< 参考資料 >
* 草の根の軍国主義: 佐藤忠男  平凡社
* 軍艦旗はためく丘に: 城山三郎  角川文庫

* 前回のブログ投稿<原発事故4周年に思う>の訂正 : 絵ネルギ— → エネルギー  
農水省 → 農水相

(1)ある処に、AとBという若者がいました。二人は二十歳台で、血気盛んなせいか、会うと殴り合いの喧嘩を始めるのでした。しかし、もうそろそろ30歳になるという頃、「お互いにに喧嘩は止めようではないか」ということになりました。ところが、Aが、「しかし、3日前にお前に殴られた額の傷はまだ痛いぞ」と言うと、Bは、「そんなことを言うなら、お前に最後に殴られた頭のこぶはまだ残っているぞ」と言い出して、前と同じような大喧嘩になってしまいました。

(2)今年の初めに安倍首相は、「日本人ジャーナリストの命が危ない」という情報を聞くとすぐに、「テロには絶対屈しない」と発言しました。これは、「お前たちはテロリストだから、交渉はしない」と宣言したようなものです。つまり、上記のA、とBの場合と同じで、交渉しようという意図があるのだったら、言うべきでないことをまず言ってしまったことになります。

(3)数は少ないですが、欧米では“人質を取り戻した実例”があったようです(帰国できても様々な難問が待っていて安心は出来ません)。もっとも、“イスラム国”を名乗る過激派のようなグループには、どんな説得も効き目はないでしょうが、「今後は、日本人一人一人を標的にする」とまで言わせてしまったのはまずいと私は思います。いずれは分かることなのですから、安倍首相は交渉をする気があったのであれば、日本国民には「今は何も言えない」という態度を通すべきだったのです。

(4)安倍首相の言動には、「自分の手柄にしたい」といった意図が読めるので、とても危険です。北朝鮮が拉致した日本人のことを調べるのに、“特別委員会を設置した”というだけで、規制を一部緩和したりしました。独裁国家ですから、拉致した日本人のことなどよく分かっているはずです。“安倍首相は交渉の下手な人物”だと思われているでしょう。

(5)消費税については、暮れの選挙で大勝したことに自信を得て、「1年半後には景気の条件を考慮せずに10%に上げる」と語りました。これでは、国民はますます将来が心配になって、お金を使わなくなるでしょう。北欧諸国の人たちが、20%にもなる消費税を気にせず買物をするのは、老後の生活が保障されているからだと言われています。

(6)国会の議事進行方法は何年経っても改善されません。狭い委員会室に大勢の議員や参考人を詰め込んで、回答する場合はまるで満員電車で出口を目指すように、時間をかけて回答者席にたどり着きます。しかも、あらかじめ提出されている質問以外は受け付けない原則になっています。わざと質問を繰り返して時間稼ぎをする発言者も少なくありません。その悪例は、黒田日銀総裁とNHK の籾井会長です。いずれも安倍首相の人選でその職に就いた人たちです。安倍首相の任命責任は重いと思います。(この回終り)

文科省は3月17日、高校3年生を対象とした英語力調査の結果を公表しました。調査は国公立高校の約1割に当たる480校で実施され、3年生約7万人を対象とし、「読む、聞く、書く、話す」の4技能それぞれについて、CEFR(国際標準規格)の基準で、学力中学レベル(A1:英検3~5級程度)から海外大学留学に必要なレベル(B2:英検準1級程度)のどの段階に相当するかを調べました。その結果の概要は次のようです。

「読む」の結果:平均点は129.4点(満点320点)で、中学校レベルのA1(英検3~5級程度)が72.7%、国際指標で日常の範囲で単純な情報交換ができるとされるA2(英検準2級程度)に達した者は25.1%、英語圏で暮らせるとされるB1(英検2級程度)およびB2(英検準1級程度)に達した者はそれぞれ2.0%、0.2%であった。

「聞く」の結果:平均点は120.3点(満点320点)で、A1レベルが75.9%、A2レベルが21.8%、B1およびB2に達した者はそれぞれ2.0%、0.3%であった。

「書く」の結果:満点は140点で、15点以下が55%にのぼり、0点の者が約30%いた。A1レベルが86.5%、A2レベルが12.8%、B1は0.7%、B2は0.0%(5人)であった。

「話す」の結果:調査校ごとにそれぞれ1クラスの抽出実施で、A1レベルが87.2%を占め、A2は11.1%、B1は1.7%であった。

高校3年生を対象としたこのような調査は初めてのことで、その結果は英語教育関係者の関心の高いものと思われます。ただしこの調査は、その対象が国公立の高校に限られているので、完全なものとは言えません。しかし4技能のそれぞれについて分析が可能なように設計されていることから、現時点で実施しうる最善の調査だと言えます。

さて上記の調査結果ですが、予想した以上にわるい結果だと思う人が多いかもしれません。筆者はほぼ予想した通りだと思っています。高校の授業になんとかついていける生徒は、いろいろな状況を勘案すると、たぶん10%~20% の間と推定していたからです。調査を実施した文科省の方々はこの結果に驚いたのではないかと思います。高校3年生で中学程度の英語力しか持たない生徒が「読む」で72.7%、「聞く」75.9%、「書く」86.5%、「話す」では87.2%にも達しているからです。つまり、この調査の結果が信頼できるものとすれば、高校3年生の72.7%~87.2%(4技能を平均すると約80%)の生徒が中学レベルの英語力しか持たないということです。他に信用できるデータが存在しないかぎり、この実態が現実であると考えるしかないでしょう。

もっと心配なことがあります。中学校レベルと言っても、今回の調査ではA1レベル(英検3~5級程度)が一つの枠に入れられているので、その中身が分かりません。英検3級と5級では大きく違うので、中学卒業どころか、それにも達せずに高校を卒業する生徒が相当いるものと推測されるのです。文科省もただ驚いているのではなく、さらに進んで、中学レベルの英語力しか持たない高校生の実態をも明らかにし、その対策を探ってほしいものです。

以上の高校3年生の英語力の実態を踏まえて、文科省はどのように対策を立てるべきでしょうか。第1に必要なことは、近年の英語教育の目標として謳われている「英語によるコミュニケーション能力の育成」を見直すことです。この目標が学習指導要領に掲げられたのは、平成元年(1989)の改訂版でした。そこで初めて、「外国語で積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度を育てる」という文言が目標の中に組み込まれました。それ以後の改訂において、この目標は英語科の中心的位置を占めるようになって現在に至っています。しかしこの目標が掲げられてから25年を経過した現在、文科省も英語教育関係者も、この目標が絵に描いた餅になっている現状をしっかりと認識する必要があります。

なぜそうなったのか?—その原因究明は容易ではないでしょう。しかし文科省は真剣にその原因を究明すべきです。こうなったのには理由があるはずです。筆者の考えでは、現代における英語学習の目的が多様になっていることが最大の原因であるように思われます。学ぶ生徒も多様であり、教える教師も多様であり、英語を学ぶ(教える)目的や方法も多様です。「コミュニケーション能力の育成」という単一の目標によって、日本中のすべての英語の授業を統一するなどという考えは、現状から遊離した、奇妙なものとしか思えません。

もう一つ検討すべき重要な事柄があります。それは大学入試に民間の英語試験を導入するという文科省の方針です。入試を変えれば高校の英語教育が変わると本気で文科省は考えているのでしょうか。3月17日に調査結果が発表のあった翌18日の朝日新聞の報道によれば、高校生の英語力アップのため、民間の英語試験を大学入試に導入するという文科省方針を後押しする指針がまとまったということです。指針をまとめたのは、試験団体や高校および大学の関係者らでつくる文科省の協議会です。その指針によれば、4技能を測ることのできる民間試験を大学入試に導入することによって、高校生が英語を勉強する動機づけになるというのです。そして高校生が受験しやすいように、各試験団体が受験料減免を検討することや、高校・大学が受験会場として施設を提供することなどを求めたそうです。まるで高校・大学の英語教育が民間の受験産業にまるごと呑み込まれてしまう感じです。

文科省はそのような民間企業の画策から学校を守るべきです。入学試験は、本来、各大学が自主的に入学基準を作成して実施すべきものです。高校生や大学生が英検やTOEFLなどの試験を受けやすくすることが、日本人の英語力アップに貢献すると文科省は本気で考えているのでしょうか。先の高校3年生対象の調査の一部で行ったアンケートで、英語の学習が好きかと尋ねたところ、「そう思わない」と答えた生徒が、「どちらかと言えば」を含めて、58.4%を占めたといいます。A1レベルでは約70% がそのような生徒でした。英語の嫌いな生徒をテストまたテストで攻め立てても、ますます嫌いになるというのが自然な成り行きではないでしょうか。かくて文科省をはじめ、英語教育関係者が寄ってたかって、英語嫌いの子どもたちの増産にひたすら邁進しているというのが、現在の日本における英語教育の実態のように思われます。(終り)

蟷螂の斧 ② < 原発事故4周年に思う >
                  松山 薫

 福島第一原子力発電所の炉心溶融事故が、東日本大震災の一部であることは間違いないが、原発事故はこれまでの地震・津波災害とは異質なものであり、二つの災害をひとくくりにして論ずる ことには、私は違和感をもつ。大地震や津波による災害が天災であるのに対して、原子力災害は人災であるからだ。それを同日に論ずることによって、原子力災害の持つ本質的な問題や責任がぼやかされてしまうのではないかと私は危惧している。

 福一事故は、チェルノブイリ事故と同じく、人類史上に記録さるべき大人災であるが、人災は天災と違って、人間の知恵や努力によって防ぐことができる。原子力発電所の事故について言えば、原子炉の耐震性や外部からの衝撃に対する耐性を完璧なものにし、操作についてはfail-safeにすればよいわけだが、それは不可能だとすべての専門家が言うのだから、この人災を避けるためには原子力発電をやめる以外に道はない。

 それにも拘らず、安倍政権の下で、原発が次々に再稼働されようとしている。安倍政権は、「原子力規制委員会によって安全が確認された原発は再稼働させる。 発電量の原発比率は可能なかぎり減らす。」としているが、規制委員会は原発再稼働にお墨付きを与える機関になっているし、”可能なかぎり“と言うのは、可能でなければ減らさないということだから何の歯止めにもならず、このままでは、日本は再び原発大国への道を歩むことになりかねない。

 どうしてこういうことになるのか。言うまでもなく、経済成長至上主義のためだ。折角莫大な投資をして作った原発だ。多少のリスクには目をつぶって再稼働すれば、電力会社は1日1基につき1億円の儲けが出るし、電力会社がもうかれば地元も潤う。原油や天然ガスを大量に輸入しなくて済むから電気料金の値上げも避けられ家庭も企業も助かる。その上安定供給が可能で環境にも優しい。資源小国のこの国が、経済成長を続け、豊かな生活を享受するには原発が必要だ。というのが安倍政権や、それに同調する人達の言い分だ。

 ではなぜ、日本に次いで世界第4位の経済大国であるドイツは、福一事故の直後に2022年までに「脱原発」することを決めたのか。「ドイツ・安全なエネルギー供給に関する倫理委員会」は次のようにのべている。

1. 原子力発電所の安全性は高くても、事故の可能性はゼロではない。
2 原子力の事故が起きた場合は、他のどんなエネルギー事故よりも危険である。
3. 次の世代に廃棄物処理などを残すのは倫理的な問題がある。
4. 原子力よりも安全なエネルギー源がある。
5. 地球温暖化問題もあるので、化石燃料を使うことは問題解決策ではない。
6. 再生可能絵ネルギ—の普及とエネルギー効率性の政策で原子力を段階的にゼロにしていくことは、将来の経済のために大きなチャンスになる。

 この委員会を設置し、報告書に従って原発全廃を決めたメルケル首相は、かつては原発推進派であった。福一事故4周年の直前にG7首脳会議についての協議のため日本を訪れることになったメルケル首相は、訪日を前に発表した声明の中で「日本もともにこの道を進むべきだと信じている」と呼びかけている。メルケル首相の脱原発への転換は、「なによりも大事なのは人間のいのちだ」という倫理委員会報告の倫理性に基づいている。

 評論家の小熊英二は、「原発事故は日本の社会の病巣をあぶりだした」と言う。(「社会を変えるには」講談社) その病巣とは、広く、深い倫理性の欠如だと私は思う。最近、この国では異常な事件が頻発している。

○ 群馬大学医学部付属病院の犯罪的手術ミスと独善的無責任体制
○ スタップ細胞事件と理科学研究所の無責任体制、学術論文の不正の蔓延
○ 補助金企業の献金による政界汚染、政策調査費の私的乱用の広がり 
○ 東電、汚染水外洋への垂れ流しを長期間隠蔽(多分事故直後から)
○ 農水省辞任当夜の中川農水政務官の路上キス事件と偽装入院
○ 若者による中学生なぶり殺し
○ 淡路島の隣人5人刺殺事件
○ オレオレ詐欺のとめどない横行

 これらの異常な事件に通底するのは、倫理性の欠如ではないか。だから、教育に「道徳」を導入すると言うのか?「汚染水はunder controlだ。」と大嘘をついて世界をだました人物が首相、塾に献金を押しつける文教政策の責任者、「核のゴミと原発再稼働は関係ない」と言う原子力担当相、こんな政権にそんなことを言う資格があるのか。これこそまさに、倫理観の欠如、つまり日本の病巣を象徴するものではないか。(M)

英語を学ぶと日本語との違いに驚くことがあります。と言うよりも、初めから驚くことばかりかもしれません。もし言葉に対する柔軟な感受性を保っていたら、英語を学び続ける間じゅう、驚き続けることになるでしょう。筆者がむかし中学校に入ったときに教えてくださった先生(黒田先生という名前だったと思います)は、「英語では自分のことを “I” と言う。誰もが自分のことを “I” と言う。天皇陛下も “I” である」とおっしゃったのでした。私は当時、天皇をご自分のことを「朕」と言うのだと思っていましたので驚きました。教育勅語が「朕惟フニ…」で始まっていたからです。その後いろいろな英語に触れましたが、確かに英語の一人称単数は “I” だけです。イギリスの王様も女王様も、アメリカの大統領も、そして金持ちも貧乏人も、等しく “I” なのです。

次いで相手は “you” で、それがどんな相手でも “you” だと知ったときも、驚きを禁じ得ませんでした。中学校1年生の早い時期に、 “Where are you going, Mother?” という文が出てきて、田中という生徒がそれを「お母さん、あなたはどこへ行くのですか?」と訳したら、先生が「田中は家でそういう日本語を話すのか?」と言われて(真面目な調子で言われたか、皮肉をこめて言われたかは思い出せません)クラス中で大笑いになり、その生徒は大いにまごついたのでした。筆者が指名されていたら、きっと同じことが起こったでしょう。訳をすることは、一言一句を日本語に移すことだと信じていたからです。

話は変わりますが、先日親しくしている大学の後輩から、息子が国立大学に合格したのだが、大学でどんな勉強をすべきかを教えてやってほしいと頼まれました。二三日後に息子さんが拙宅にやってきて、大学に入ったら哲学をやるつもりだと、いろいろ抱負を語りました。なかなか野心家のようでした。そして大学でどんな英語をやるべきかの話になりました。彼は「英会話をやろうと思う」と言い、私に対して、「あなたはどう思いますか?」と言ったのです。それを聞いて私は一瞬たじろぎました。60歳以上も年輩の人に対して言う「あなた」という言葉に、一瞬ですが違和感をもったからです。会話はそのまま続きましたが、彼が帰ったあと、「日本語ではこういう場面で使う二人称の代名詞を欠いているのだから、これでよいのだろう。今の若い人はこういう言い方をするようになったのか!」と、独り感慨にふけったのでした。

英語を学ぶときには、好むと好まざるにかかわらず、ほとんど常に言語の相対性(relativity)に気づかされます。相対性とは、簡単に言うと、言語が違えば発想法や思考法も違うということです(注)。英語を学び始めると、言葉による表現の仕方はもちろん、発想の仕方まで違うという感じがします。誰でも自分の母語の表現法や発想法がもっとも自然だと感じるので、他の言語の使い手は、自分たちとは違っていて不自然だと感じます。先ほど挙げた例のように、英語ではあらゆる場面で、すべての人が自分のことを “I” と言い、相手を “you” と呼ぶと聞いて驚くと同時に、それと日本語の一人称、二人称で使われる多彩な単語を比べてみて、今さらながら日本語の複雑さにあきれると同時に、すべての相手に「あなた」を用いることに大きな違和感をもちながら、もしそれが許されるならば、日本語はもっと民主的な言語になるのではないかと考えたりもします。

古くから、「外国語を学んだことのない者は自国語も知らないのだ」と言われています。文豪ゲーテもこれと同じことを言ったと何かに書いてありました。もし日本語しか知らずに一生を過ごしても、日本で普通に生きて行くことはできるでしょう。昔はむしろそれが普通でした。しかし英語を少しでも学んだ人は、たとえその学びが不完全なものに終わったとしても、日本語とは全く異なる語彙と構造をもつ言語の学びを通して、同じ物事を表現するのにもいかに異なる見方や考え方が存在するかに気づかざるを得ません。そのことは日本語の独善主義から私たちを開放します。つまり、日本語しか知らない人は、知らず知らずのうちに、自分の使っている日本語だけが正しく自然だと思うようになり、他の言語を不自然で変な言葉だと思いこむようになるのです。これは独善的な思想に導く危険があります。

英語の学習はそのような母語独善主義から私たちを開放します。英語は日本語から言語的に最も遠い言語の一つです。言語の相対性を実感するためには、英語のような言語的な距離の遠い言語を学ぶことは非常に価値のあることです。現代に生きる人々は、他の国々に住む人々との交流を余儀なくされており、可能ならば地球上のすべての人々と仲良く暮らしたいと思うようになっています。たとい英語の学びが中途半端で終わって完全に使いこなすところまで行かなくても、その学びの途上で気づいた言語相対性の感覚は貴重です。そしてその気づきから、私たちは日本語をよりグローバルに通用する言語として改善していく可能性が生じます。日本における中学・高校の英語教育の目的は、「実践的コミュニケーション能力を育成する」とするよりも、「言語相対性についての気づきを与える」とするのがよいのではないでしょうか。

(注)「言語の相対性」と聞くと、サピア/ウォーフの「言語相対性仮説」(the linguistic relativity hypothesis)を連想する方もおられるかもしれません。この仮説は、「人間の思考は言語によって行われることから、話す言語が異なれば思考方法も異なり、世界観も異なるとする考え方」(英語教育用語辞典)と定義されています。しかしこの仮説は、ウォーフが言っているような、「言語が人々の思考や行動を支配している」という強い仮説としては、学問的にはほとんど支持されていません。しかし人間の思考が言語によって影響を受けることはしばしば見られるところから、弱い仮説としては多くの人々に受け入れられていると思います。ここで述べている「言語の相対性」というのも、そのような考え方に立っています。

英語を学び始めて最初に意識するのは、たぶん、聞こえてくる音です。古文書を学ぶときには文字から入りますが、現代語である英語を学ぶときには、通常は音声から入ります。現在は小学校から英語を教えることになっていますので、そこで初めて英語を学ぶ人が多いでしょう。小学校の英語の授業でも、原則として音声から入ることになっています。このブログでも以前に述べたように、学習者は英語の音声特徴について多くの事柄(母音、子音、音の連なり、強勢、抑揚など)に気づく必要があります。ここでは、学習者がそれらの英語の音声特徴をどのように学んでいくのか、そしてそこにどのような喜びや価値を見出していくのかを見てみましょう。

最初に赤ちゃんの母語習得に見られる普遍的な一つの現象に注目します。赤ちゃんは自分で言葉を発する前に、しばらくのあいだ黙って聞くことに専念します。その期間は赤ちゃんによって違いますが、これを「沈黙期」(silent period)と呼んでいます。赤ちゃんはそのあいだ何をしているのでしょうか。当然のことですが、周りの人々の話す言葉(特に自分に向けて話しかける言葉)に注意を集中します。ただ「聞く」(hear)というよりも耳を傾けて注意深く聞く、すなわち「聴く」(listen)という積極的な活動(学びの主体である自己のエネルギーを耳に集中する活動)をします。そのとき赤ちゃんは、「気づき」(awareness)という生来の力を利用して、聞こえてくる言語の音声特徴を分析し、記憶し、それを自分の出すことのできる音と比較研究します。そしてどの赤ちゃんも、いったん言葉をしゃべり出すと、周りの誰もが驚くほど急速な進歩を遂げます。

赤ちゃんの母語習得における沈黙期は、第2言語習得環境に入れられた子どもたちにも現れることが分かっています。しかしすでに自分の母語を習得している子どもの場合には、赤ちゃんとは違います。まず母語の習得の程度によって沈黙の期間は異なります。一般に、母語の習得度の高い年長の子どもほど沈黙期は長くなるようです。また、子どもの置かれている社会的環境や子どもの心理的条件によっても沈黙の期間は違います。一般に数週間から半年くらいの沈黙期が観察されるようですが、子どもによっては半年以上も続く場合があるそうです。そして子どもの内部で起こる学びのプロセスは、学問的にはまだ充分に解明されてはいませんが、赤ちゃんの場合とは違って、それはずっと複雑なものになるはずです。

一方、教室で外国語として英語を学ぶ生徒たちは、赤ちゃんや第2言語習得環境に入れられた子どもたちとは違って、この沈黙期が実質的に存在しません。そこでは最初の授業から、何かの形で発話を生徒に強制するのが普通です。教師によっては、いきなり “Listen and repeat.” と言って、生徒に発話を強要する人もあります。これに対して、子どもの言語習得における沈黙期の存在を考慮し、発話を強要しないようにする指導法も開発されています(注1)。しかしそのような特別な教授法を採用しなくても、近年の英語入門期の指導法の多くは、生徒に音声をよく観察させることが重要だと考えています。このとき教師に求められるのは、生徒に反復を強要するのではなく、英語音声の特徴に気づかせ、生徒自身が自主的に反芻するように仕向けることです。

聞き慣れない言語の音声を模倣するという活動は、幼い子どもには容易なように見えますが、年長の子どもや大人には簡単なことではありません。模倣を得意とする人がいることは確かですが、多くの人は、未知の言語音を聞いてすぐにはまねられません。英語には日本語と似ている音がいくつかありますが、似ているように思えても、そのほとんどが日本語とは微妙に違っています(注2)。また、日本語では経験したことのない音や音の連なりがたくさんあります(注3)。さらに音の強弱や抑揚にも意識を向けなければなりません。それらを正しく発することができるには、未知の英語の音や音の連なりを分析し、それらがどのような調音法によって産み出されるのかを考え、実際に声を出して試み、試行錯誤しながら、聞こえてくる音に最も近いと思われるものを確定する、という複雑なプロセスをたどります。

このような英語音声の習得プロセスの大部分は、個々の学習者の内部で行われるものです。ですから自分でやらなければなりません。他の人に代わってもらうことはできません。そしてそれは非常な集中を必要とします。そのあいだ、学習者は自分の仕事に集中するために、外部からの刺激を拒否します。そんなときに教師に “Listen and repeat.” と言われたら、学習者は混乱します。教師はここで、生徒が心の中で行っている学びのプロセスを妨害してはなりません。むしろ、生徒が自分の意識の世界で自由に遊ぶことができるようにすべきです。

英語の音に慣れてきて、自然に模倣ができるようになってから発話させるようにすると、生徒は自分の発する音に自信を持つことができ、よい結果が得られます。自分の発音に自信をもつことによって、より良い発音へと動機づけられるからです。自分の出す音に自信がもてなくては、英語を話すことが嫌いになるのは自然なことです。発音の熟練には膨大な時間が必要ですが、その収穫は大きいのです。自分が意図した通りの音で発話することは、英語の学びの中でも最高に快い経験であり、学ぶ楽しさを全身で感じることができるからです。

そして生徒は、言語の音声についての、さらに大きな気づきへと導かれます。すなわち、英語という異言語を学ぶことによって、自分が作り出すことのできる言語音声の幅を大きく広げることができるのです。英語の歌を歌うことができるようになると、そのことが実感できます。自分が今まで発音できなかった音が出せるようになった!—これはすばらしい体験です。そして後年、他の外国語(特にヨーロッパの言語)を学ぶときに、英語の発音で経験した苦労と楽しさが大いに役立ちます。ドイツ語もスペイン語も、フランス語でさえ、発音の学びに躓くことはありません。発音は英語の学びの中の一部にすぎませんが、言葉の学び全体から見たその価値は、はかり知れません。

(注1)よく知られているのは「全身反応法」(Total Physical Response: TPR)と呼ばれる外国語指導法です。生徒は先生の話す英語(動作の指示)を聞き、口頭で応答するのではなく、理解したことを身体で反応します。たとえば 、“Stand up.” と先生が言うと、生徒は「立ち上る」という行動で反応します。先生が “Sit down.” と言うと、生徒は「座る」という行為で反応します。こうして英語を聞くことを中心とする授業を進めていくと、ある時点で、生徒は自発的に先生の発話を真似て言えるようになります。TPRは言語習得の自然の理にかなった指導法として、特に英語の初期指導において広く採用されています。

(注2)たとえば英語の /hi/ の音は日本語の「ヒ」とは違います。 “He’s here.” を「ヒズヒア」のように発音しても英語らしく聞こえません。

(注3)英語では、たとえば /str/ のように、子音が連続することが珍しくありません(strange, street, stringなど)。このような子音連続は日本語には起こらないので、日本人学習者にはまねることが難しい音です。