Archive for 6月, 2013

⑪ 補遺 教師像あれこれ

(150)教育問題私見        

補遺 教師像あれこれ 

 よく、教師の質が落ちたとか、教師の質を向上させねばと言われるが、私は、この言葉に大変違和感を感ずる。教師を何かモノ扱いしているように響くし、外から刺激を与えれば質がかわると思っているような感じがするからである。何故違和感をもつのか、いろいろ自問自答して来て、50代の半ば頃、必要に迫られて、自分なりの結論に達した。

 NHKに勤めていた頃は勿論私を先生などと呼ぶ人は誰もいなかったのだが、茅ヶ崎方式英語会を始めた途端に、皆が「先生」と呼ぶようになった。私は昔、自ら教師を脱落した人間であるから、これには猛烈な抵抗感を覚え、スタッフの人達には「先生」と呼ぶのをやめてもらった。そのため、説明が必要になって、「先生」という敬称は、人間そのものを扱う、学校の教師と医者に限るという結論を披露した。つまり、特に人間の人格形成にかかわる初等・中等教育の教師と、人間の生命を預かる医師は、他の職業とは異なるというのが私の結論であり、今私がやっている仕事は、教師ではないと言いたかったのである。

 「先生と呼ばれると、自分には教師として欠けるところがあると悟って辞めた時の心の葛藤が甦って困るので、やめてくれ。それに、成人の学校である我々の会には、私より20歳も年長の人や、はるかに立派な経歴の人が大勢いるし、その多くが戦争を体験してそれぞれの人生観を確立しているわけだから、私が、人間の生き方にかかわるwhat to を講義するなどとはおこがましい限りであり、私は英語の使い方 how to を伝授する instructor に徹する」と宣言した。

 前回、中央教育審議会の答申では「優れた教師」の第一の条件は、教職に対する強い情熱であるとしていることを紹介したが、以下は全文である。

① 教職に対する強い情熱 :  教師の仕事に対する使命感や誇り、子どもに対する愛情や責任感などである。 また、教師は、変化の著しい社会や学校、子どもたちに適切に対応するため、常に学び続ける向上心を持つことも大切である。
② 教育の専門家としての確かな力量 : 「教師は授業で勝負する」と言われるように、この力量が「教育のプロ」のプロたる所以である。この力量は、具体的には、子ども理解力、児童・生徒指導力、集団指導の力、学級作りの力、学習指導・授業作りの力、教材解釈の力などからなるものと言える。
③ 総合的な人間力 : 教師には、子どもたちの人格形成に関わる者として、豊かな人間性や社会性、常識と教養、礼儀作法をはじめ対人関係能力、コミュニケーション能力などの人 格的資質を備えていることが求められる。また、教師は、他の教師や事務職員、栄養職員など、教職員全体と同僚として協力していくことが大切である。 そして、これらの目標を実践していく能力が必要だとしている。

 教師脱落の私が言うのもなんだが、こんな金甌無欠の条件を満たす教師が存在するとは思われない。中教審の委員諸氏は、自分がこのような教師になりうる自信があってこのような提言をしているのだろうか。また、教育委員会は、中教審の提言に従って、教員の採用試験では、将来このような教師になりうる人材を選ぶ責任があるわけだが、TVの画面で、不祥事について謝罪会見をする教育長や校長らを見ていると、中教審の三条件を体現する優れた教師などというのは、完全なpie in the skyであると判断できる。

 小沢一郎は、自民党の幹事長だった頃の政策集「日本改造計画」に、「主体性を持たせる教育」という一項を設けて教育改造計画を提案し、その中で新・教師聖職論と題して、「教師は親に継いで子供の成長に重大な影響を与える存在である。・・・教育は事務を執ったり、製品を開発するのとは全く性格が全く異なる。・・・教師が、真に教育者として子供の教育に当たるには、労働者意識を払拭する意味でも、労働3権は与えないようにしたい。その代わり、特別職の国家公務員として、身分保障を十分にすべきだ」と述べている。つまり、裁判官などと同じ身分保障をするというわけだ。労働の価値を見下してるような文言には、保守政治家の本音が表れているが、身分保障については検討に値するのではないか。教師の身分保障と公選制の教育委員会を組み合わせれば、良い制度が出来るのではないかと私は夢みる。

 私自身は、教師としての適性は、「誠実さ」があるかどうかだと考えている。同時に、それがなければ、外からどんな刺激を与えようと、一人前の教師になる事は出来ないだろうと思っている。わずか6年余りの教師生活の中でも、誠実な教師には数多く出会った。自らの仕事に誠実な教師は、当然自らの学力の向上に努めるだろうし、生徒達に誠実ならば、全力で子供達に向き合うだろう。また、上からの指示や命令が、子供達や、子供達と教師を中核とする教育を阻害すると自ら判断すれば、徹底的に反対するだろうし、そのために、組合をつくって団結することも当然だと私は考える。

 教師を扱ったNHKの朝ドラ「おひさま」や現在放映中の土曜ドラマ「島の先生」の主人公は、中教審型優等生とは違って、いろいろ欠点を持ちながらも、誠実な教師であり、映画の「24の瞳」や「北のカナリアたち」のヒロインもそういう教師達であった。金八先生のような例もあるが、私の感じでは誠実な教師像は女性のほうが優勢のようだ。このシリーズの冒頭に書いたように我が家では、夫婦とも大昔の教師であるが、今なお、年賀状をくれる60年前の生徒の数を見ると、女性優位は歴然としている。

 最後に、民間人校長制度について触れたい。私はこのような社会的に不公正な制度は直ちに廃止すべきだと思う。まず、この制度は教育という仕事と現場の教師の地道な努力を軽視している。教育界が閉鎖的であることは、教育委員会のところで述べたように事実だと思うから、民間の優れた人材を入れことに異議はない。しかし、教育に関心のある民間人は、一定の条件を満たした上、キチンと教師としての基礎教育を受け上で、一般の教師として採用するべきだろう。その人材が校長にふさわしいかどうかは、その後の仕事次第だ。また、大阪の事例などを見ると、首長が自分の意に沿う人物を校長に選び、教育を政治がコントロールしようという意図が明白であり、こんな近視眼的なことをしていると千載に悔いを残すことになりかねない。(M)

英単語の綴りを覚えるときには強勢(強く発音する音節)にも注意しておく必要があります。綴りを覚えても強勢を間違えては、その語を話し言葉として使うことはできません。語の強勢は2音節以上から成る語では常に問題になります。英語という言語は、複数音節から成る発話では、どれかの音節に必ず強勢が置かれる言語だからです(1音節の語の強勢についてはいずれ取り上げます)。

たとえば「忠告」や「助言」を意味するadviceという語では、2番目の音節(-vice)に強勢があります。ついでながら、この語は最近しばしば日本語の中でも使われるようになっていますが、その場合には「ドバイス」のように「」のところに強勢を置かれ、5つの音節として発音されます。しかしこれはもはや英語ではなく、完全に日本語化してしまっています。英語の中に「ドバイス」という日本語化した語を使っても通じるとは思えません。

2音節語で品詞によって強勢の位置が変わるものがあります。筆者が中学生のときによく注意された語の一つが insult でした。この語は名詞として使われるときは第1音節に強勢が置かれますが、動詞のときには第2音節に強勢が移ります。たとえば、次の (1) の insult は名詞ですが、 (2) は動詞です。

(1) I can’t tolerate such an insult to me.  (2) He insults me by calling me a fool.

このような名詞と動詞で強勢の位置が変わる例は他にもいくつかあります。たとえばaddress*, concert, conduct, present, protest, suspectなど。これらは名詞のときは第1音節に強勢があり、動詞のときには強勢が第2音節に移動します。これらの語群ではそれがルールなのです(*ただしaddressは、イギリス発音では名詞のときも第2音節に強勢が置かれる)。筆者がそういうルールの存在に気づいたのはずっと後で、高等師範の学生のときでした。それらの語を脳の長期記憶スペースに送り込むには、上記のinsultにならって用例を辞書で見つけ(または自分で作り)、その用例が使われる場面を想像しながら声を出して言ってみるのがいちばんです。

なお、先ほど挙げたadviceですが、この語は名詞のときも動詞のときも第2音節に強勢が置かれます。ただし、動詞として使われる場合にはadviseと語形が変化します。こういう例外的なややこしい語は注意深く記憶する必要があります。意地の悪い試験問題作成者は好んでこのような語を取り上げます。そういう意地悪な問題に引っかからないように、次の例を注意深く覚えてください。

(1) I asked Mary for her advice.  (2) She advised me to go to the doctor’s.

では3音節以上の語についてはどうでしょうか。中学校の教科書に必ず出てくる語で3音節以上のものを(注)、強勢の位置によって分類してみます。それぞれの語の強勢に注意して発音してみてください。

・第1音節に強勢のあるもの:animal, anyone, anything, beautiful, dictionary, different, everyone, everything, family, February, holiday, interesting, January, library, popular, Saturday, usually, wonderful, yesterday.

・第2音節に強勢のあるもの:already, another, December, eleven, eleventh, important, Japan, November, October, remember, September, together, tomorrow, vacation.

・第3音節に強勢のあるもの:introduce, Japanese, seventeen, understand.

この小さな語彙リストからは、語強勢について規則が導き出せそうなものはあまり多くは見当たりませんが、いくつか気づくことがあります。まず月名のSeptember, October, November, Decemberの強勢の位置に規則性が認められます。それらは語の末尾から2番目の音節に強勢が置かれます。Rememberも語末が同じですから同種の語と考えられます。また、seventeenという語を知っている学習者は、thirteen, fourteen, fifteenなどの語も知っているでしょう。すると-teenで終わる語はすべて語末に強勢があるという規則に気づくはずです。まだ他にもあるかもしれません。

しかし語強勢についてさらに多くの規則を見つけ出すためには、もっと大きな語のリストが必要です。語強勢に関する規則は、初級レベルの学習段階よりも、中級または上級になって、多音節の語に頻繁に接して始めて気づくものが多いからです。それらは学習者個人の気づきに委ねられていて、学校の授業では取り上げられる機会が少ないかもしれませんので、次回にいくつか代表的な規則を取り上げます。(To be continued.)

(脚注)平成元年文部省告示により改訂された中学校学習指導要領では、中学校3年間に指導すべき語を1000語程度までとし、そのうち507語を必修語として別表に挙げていました。ここに挙げた語はそのリストの中にあるものです。現行の学習指導要領では、中学校で指導すべき語数は1200語程度となり、必修語の指定は削除されています。

「いじめ防止対策推進法」の成立で考えたこと
(1)“いじめ防止対策推進法”という法律が、2013年6月21日に成立して、施行されるのは今年の秋からです。国会での審議では、反対はごく少数だったようですが、この法律の効果については、賛否両論があるようです。私もこういう法律が出来れば、“いじめ”が無くなるとは思いません。今まで学校長や教育委員会の人たちが頭を下げて謝る光景を何度も見せられました。あの“隠ぺい体質”は、報告を義務付けたくらいですぐに改善されるとは思えないのです。

(2)話は変わりますが、“男女雇用機会均等法”が出来たのは、1972(昭和47年)のことです。しかし、どこの職場でもこの法律が守られているとはとても思えません。最近アメリカの大リーグでは、野球選手(当然男子のみ)に赤ん坊が生まれた場合に、その選手は3日間だけ育児休暇が取れることになったと報道されました。この権利の取得には、40年間の闘争の歴史があったそうですから、アメリカでも楽に得られた権利ではないようです。

(3)日本のテレビの世界では、“カメラマン”という呼び名は市民権を得ていますが、“カメラウーマン”という用語は聞かれないように、日本社会は依然として男性優勢社会です。例えば、天気予報を“カワイ子ちゃん”に言わせる放送局がありますし、甲子園の高校野球の中継でも、“カメラマン”が応援団の“カワイ子ちゃん”をアップで見せる場面がよくあります。

(4)テレビでは女性アナウンサーは40歳を過ぎるとラジオに回されるという噂があります。そのラジオにしても、女性は30代くらいの人が多いようです。夕方のニュース番組(フジテレビ)の安藤優子キャスターのように、不倫騒動で騒がれようと断固として地位を守る人は稀だと思います。しかし、彼女にしても、NHK 出身の木村太郎キャスターがそばにいて助言をしています。

(5)このような社会では“いじめ”の根絶は無理でしょう。では、イギリスやアメリカでは、“いじめ”は無いのかと思うとそうではありません。私はその実例として、学校関係者には、まずサマセット・モームの『人間の絆』を読むことを薦めたいと思います。これまでに何度か訳されたこの長編小説も、行方昭夫訳『人間の絆』(岩波文庫、2001)が出版されてとても読みやすくなりました。文庫本3冊になっているのも有難いことです。

(6)この小説の主人公フィリップ少年は、幼い時に母が亡くなるという不幸に見舞われますが、その上、生まれながらにえび足という不具者だったのです。そういう劣等感に加えて、学校に行けば級友たちにいじめられ、二十歳頃になれば、好きだと思う女性ともうまくいかなくて悩むのですが、このあたりは、“いじめられっ子”の心境を知るのにとても参考になるはずです。

(7)学校関係者は、法律の文章を読むことも必要ですが、いじめられる生徒の心境を知ることをまず心がけるべきでしょう。法律は義務を強調しますが、“いじめ”の解決のためには、“無償の愛”が最も必要だということを『人間の絆』を読んで知ってもらいたいと私は念願します。(この回終り)

(148)教育問題私見

⑩ 終章 教育は何のために

 教育、特に初等・中等教育は何のためにあるのかについて私見を述べるまでに、9回のブログ投稿を要してしまった。それは、現在の教育が、私があるべきものと考えている姿とは大きく異なっているからである。半世紀前、勤務評定に反対して教師を辞めた時に感じた暗い予感が現実の姿になっているからだと言ってもよい。

 日本に教育委員会制度が出来たのは、1948年(昭和23年)、私が東京高等師範学校に入学した年だった。これは、アメリカ教育使節団の勧告で、layman controlの考え方に基づいて設立され公選制の行政委員会で、政治と教育が一体となってファシズム化を推し進めた戦前・戦中への根源的な反省に立って、教育の地方分権、民主化、中立性、安定性を図ることを目的とするものであった。それからわずか8年足らずの1956年には公選制が廃止されlayman controlの教育委員会は事実上消滅した。私が教師になって4年目のことだった。新潟市に転勤してほんのわずかの期間だったが、県教委の委員長の御宅にお邪魔して、新米教師の悩みを聞いてもらった上、「若いうちはそれでいいんだよ」という励ましの言葉さえいただいたことを懐かしく思い出す。

 短命に終った背景には、朝鮮戦争の勃発に象徴される東西対立の激化によるアメリカ占領軍内部の対立とニューディール派の後退があった(2011−7−2 病根①国家観)。アメリカ本国での“マッカーシー旋風”に歩調をあわせるように日本ではイールズ旋風が吹き荒れ、大學から小学校にいたる多数の教員が“アカ”のレッテルを貼られて追放され、代わって追放されていた戦前のリーダー達が復権した。イールズ旋風の始まりが、1949年の夏、新制新潟大學の開学式典でのGHQ民間情報教育局ウォルター・イールズ顧問の声明であった事は、それからしばらくして新潟大學のすぐ近くに下宿した私にとって感慨深い。

 アメリカ占領軍の方向転換に追随して、日本政府と与党は、いわゆる”逆コース”を歩み始める。教育委員会公選制の廃止もその一環だった。こうして、折角芽生えかけた”市民の、市民による、市民のための教育“の芽が摘み取られてしまったことを、今さらながら大変残念に思う。同時に、いつの日にか、この国の民主主義の成熟によって、公選制の教育委員会が復活することを切に願っている。

 このような私の立場からすると、教育再生実行会議の提言は全く容認できないが、教育委員会の現状からして改革が必要であることは十分理解できる。1980年代の初めに東京の中野区で実施された“準公選制”のような教育委員会が望ましいが、自民党、文部省の圧力と住民の教育委員会への無関心で4年間でつぶされてしまったことを考えると、現在の政治・社会情勢の下では無理だろう。今の私には、教育委員会の制度設計をするだけの知識はないので、教育専門家らによる2つの提案を紹介したい。

 大津市のいじめ・自殺事件の第三者調査委員会の委員として報告書をとりまとめた教育評論家の尾木直樹は、教育委員会の改革について次のような提言をしている。

1. もっと現場の声を聞け  ○ 書類を半減せよ ○ 研修制度を見直せ
2.教育にもっと金を出せ  ○ 教育予算を増やせ ○ 現場の創意工夫を認めろ
3.教育委員会は全力で教師をサポートせよ ○ 教職を魅力ある仕事にせよ
4.風通しのよい委員会にせよ ○ 情報公開をもっと積極的に ○ 教育委員にもっと普通の市民を ○ 教育委員会に対する評価制度を確立せよ
5. 議会からはきっぱり分立せよ ○ 政治との一体化を避け圧力に屈するな

 また、滋賀大学の佐和隆光学長、慶應義塾大學の片山善博教授(前鳥取県知事)らで作る「日本の教育を考える10人委員会」の提言は次のようなものである。

1.教育委員会は(1)指揮監督(2)オンブズマン的役割(3)教育方針・施策の検討、決定の3つの役割を遂行すること
2.首長及び地方議会は、教育委員の選任について説明責任を果たすこと
3.教育委員会の開催・活動の頻度を高め、それに見合う処遇をすること
4.教育委員会が学校現場を知る機会や教職員、地域住民と対話する場を拡充すること
5.教育委員会の活動内容について積極的に情報発信すること
6.教育委員会事務局の専門性を高めること
7.教育委員会事務局の学校支援機能を高めること
8.首長及び地方議会は教育委員会の意見を尊重して予算を編成すること

 これら2つの提案は、いずれも教育委員会の基本的な役割に、学校への支援、そのための教育現場や地域住民との対話を含めており、その点が、学校の管理監督に偏重した現在の教育委員会や、それをさらに推し進めようとする教育再生実行会議の提案とは方向性が異なる。

 私自身は勿論上記2提案のどちらにも満足しているわけではない。なぜならば、私は、教育の中核は、子供達と子供達に日々接する教師でなければならないという意見であり、教育委員会はもとより、文科省も地域住民も、この中核をサポートする役割を果たすものでなければならないと考えているからである。学習院大学の佐藤学教授によると「教師が教科書を選べない国、学校で予算が自主的に決められない国、学校でカリキュラムが自主的に決定できない国、学校で人事が決定できない国」は、先進国の中では日本だけだという。文科省中央教育審議会の答申は、“優れた教師の条件”の第一として「教職に対する強い情熱」を挙げているが、自ら何も決められないような閉塞状態をつくっておいて、自分の仕事に強い情熱を持てと言っても、それは木によって魚を求める類の自己矛盾ではないのか。

 最近の「週刊朝日」(2013−6−28号)によると不況時には安定志向で増えるといわれていた教員養成系大學や教育学部の志願者がここ3年大幅に減少している。原因はいろいろあるようだが、要するに教師は若者にとって魅力ある仕事ではなくなったということらしい。また、前述の尾木直樹も、5年前の著書「教育破綻が日本を滅ぼす」(ベスト新書)の冒頭で、”教員免許10年更新制“の導入などで今後教師を辞めていく人が加速度的に増える上、教師という職業の入り口にさえ来ない若者も増える事態が予測されると述べている。政治権力は、”角を矯めて牛を殺す愚”をおかしているとしか思えない。

 こういう中で、自主性のある教師が育つことはありえないし、自主性を欠く教師が、「石切山の人びと」のような真っ当に生きる人間を生み出せるはずもない。現在の子供達がこの国を支えるようになるこれからの半世紀、日本は人口の急激かつ大幅な減少という、かつて経験したことのない社会的大変動に対処しなければならない。日本をとりまく情勢も米欧中心だった20世紀とは大きく変わっていくだろう。自ら考え、自らの信念にしたがって行動する人間を育てなければ、「日本は米中の谷間に咲くひよわな花になるだろう」というブレジンスキーの予言が現実のものになるのではないかという不幸な予感が頭をよぎる。もっと悪いことに、そうならないために、再び経済大国、軍事強国の夢を追って独裁的指導者を求める風潮が生まれるのではないか、いやすでに生まれつつあるのではないかという不安を拭い去ることが出来ない。(M)

 

 
 

<訂正> 前回の「音と綴りのずれ」の中に挙げた英単語の一つに綴りの誤りがありましたので、お詫びして訂正します。“magaphilanthropist” は “megaphilanthropist”の誤りでした。Bill Gates のような大富豪で、アフリカのエイズ患者のような、困難な状況に陥っている人々に対して援助の手を差し伸べる人のことです。

さて本題に戻って、綴りの規則から外れている単語は個別に記憶するほかありません。しかしその数は規則的なものほど多くはないので、ふだんから注意して記憶のリストの中に加えるようにします。特に、先に挙げたような綴りの変則な基礎語(beautiful, friend, people など)は非常に頻度の高いものですから、一つずつしっかりと記憶する必要があります。これに対して使用頻度の比較的に低い特殊な語(Euroskepticism, megaphilanthropist など)については、いちいち頑張って記憶する必要はないでしょう。しかし奇妙なことに、こういう語がいつまでも記憶に残ることがあります。

そこで単語の発音と綴りについての学習の中心は、音と綴りの規則を理解することにあります。しかしこれは一般に考えられているほど簡単なことではありません。英語母語話者の言語習得においては、そのような規則は多くの言語経験によって自然に気づかれ、身につくと考えられがちですが、実際はそうではありません。母語の基本的な音韻規則や文法規則に関しては、子どもは特別な教育を受けなくても、自然な言語習得環境が与えられれば自然に獲得できることが分かっています。ですから子どもは3年ほどで自分の言いたいことが言えるようになるのです。しかし、書き言葉はそうではありません。その証拠に、世界には文字を持っていない言語が多数あり、文字があっても教育を受けられないために、読んだり書いたりすることのできない人々が多数います。このことから、言語の書記システムを獲得するには、そのための特別な教育環境を必要としていることが分かります。

以前から、米国の多くの小学校ではフォニックス(phonics)を意図的に導入する方法が取られています。それは、英語を母語とする子どもたちも、文字や綴りの学習は自然に学ぶことが難しいからです。私たち日本人も、アルファベットの文字は覚えることはできても、英単語の綴りを自然に覚えることはできません。それには学校の授業で適切な指導がなされる必要があります。しかしそれは、指導の仕方によって易しくもなり、難しくもなります。英語の綴りの多くは一定の規則に基づいているので、学習者がその規則を学ぶことができればずっと易しくなります。英語の綴りには不規則なものが多いという理由で、一つひとつ別個に記憶するしかないと指導されると難しくなります。

そういうわけで、英語の綴り字に関する学習指導の要諦は、学習者がいかにしてその規則に気づき、それを有意味な綴り字学習に結びつけることができるかにあります。そのためにはどうしたらよいでしょうか。まず考えられるのは、教師が音と綴りに関する規則(フォニックスの規則)を学習者に気づかせるという方法です。これを実践している指導者は最近しだいに増えています。たとえば、既習の語彙から音と綴りが共通している次のような例を挙げ、綴りの規則を理解させるやり方です。

(1) /ai/ drive, fine, like, mile, nine, pile, ride, slice, wife, etc. (cf. give, live)

(2) /ei/ gain, mail, nail, pain, rain, sail, tail, wait, etc. (cf. again, said)

このような資料によって、生徒たちは提示された語の綴りと発音に共通性のあることに気づき、未知語に出合ったときにそれをどう発音するか、あるいは、発音された語を聴いてそれをどう綴るかの予測が可能になります。同時に、その規則がすべてのケースに当てはまらないことにも気づくでしょう。上記の(1)では、giveやliveがその規則に合わないこと、(2)ではagainとsaidが規則から外れていることを知ります。

しかし教師がすべての資料を提供するやり方は、時間の節約にはなりますが深い理解には達しません。それよりも、教師は一つか二つの規則的な例を挙げ、あとは生徒たちに既習語彙のリストの中から引き出させるほうがよいでしょう。50年以上も前のことになりますが、筆者が中学校教師をしていたある学期の終わりの授業で、既習の語彙リストを資料として用い、語の綴りと音の繋がりをまとめる作業をしたことがあります。あの時の生徒たちの生き生きとした表情を今も忘れることができません。このような活動は一人でやるよりも、クラスやグループでわいわい言いながらやると楽しい活動になります。(To be continued.)

「“コミッショナー”とは何か?」を考えて…」
(1)「日本プロ野球機構が、プロ野球で使うボールをもっと飛ぶボールに変更していたことを選手には知らせていなかった」という問題が、社会問題化して大騒ぎになりました。野球に関心の無い人たちは、「たかがボールのことで、何を騒いでいるのか」と疑問に思うでしょうが、私はまず用語の問題から考えてみることにします。

(2)“コミッショナー”というカタカナ英語を使うのは止むを得ないとしても、ほとんどの英和辞典が、「commissioner:(プロ野球などの)コミッショナー」としているのは、反省すべきだと思います。これでは、用語の定義ではなくて、カタカナ英語に置き換えたに過ぎないからです。したがって、野球ファンでも、“コミッショナー”とは何をする人物なのか知らない人が多いのではないかと思います。これは英語教育の責任だと言えるでしょう。

(3)もう1つには、国語教育の責任も大きいと思います。例えば、“委員会”という用語を広辞苑で引いてみますと、まず「委員で構成される合議制の機関。またその会議。」とありますが、これでは大学生でも何のことかよく分からないでしょう。漢和辞典などを調べてやっと、“委員”の“委”という文字は、“ある仕事をする権利を任せる/ ゆだねる”という意味があることが分かります。何かをする権利を持てば、そこには責任も伴うことも知っておく必要があります。

(4)それでは、“コミッショナー”のほうはどうでしょうか。この語の意味を知るためには、”commit” という単語を知らなければなりません。学習用の英々辞典では、“何かの仕事を引き受けて、それを忠実に果たすこと”という趣旨の定義をしています。“コミッショナー”は“人”ですから、“ある仕事を引き受けて、それを忠実に果たす人物のこと”と考えられます。それでは、“プロ野球のコミッショナー”はどういう仕事をする人のことでしょうか。

(5)日本のプロ野球は、“セントラル・リーグ”と“パシフィック・リーグ”に分かれていますから、両リーグの間で何か意見の相違が生じた場合は、プロ野球の最高責任者として仲裁の役目をするのがコミッショナーであることになります。今回の問題で、加藤コミッショナーは、「私は何も知らなかった」と最初に言いましたが、問題が大きくなっても、「私は不祥事とは考えていない」などと発言しました。駐米日本大使として長年勤めた人らしいですが、野球のことばかりでなく、社会的な問題にもうとい人物だと私は思わざるを得ません。最終的には謝罪しましたが、自分が“裸の王様”であることを自覚しないで過して来た人なのでしょう。

(6)日本のマスコミ界には、この問題を深く追求しようとする空気があまり感じられません。陰に大物の読売新聞の親分がいるからだと噂されています。日本のマスコミはどこかの独裁国の新聞のようになっているのではないかと心配です。そう言えば、この親分は、読売巨人軍のことばかりでなく、政財界にも口を出す人物です。

(7)一方では、日本の首相は相変わらず“景気浮揚”のことばかり熱心で、原発の売り込みに夢中になっています。福島原発事故の教訓などどこ吹く風です。天災ではなくても、原発事故は人間のちょっとした不注意で起こりますし、原発を廃炉にするのも大変ですから、“人類を破滅に導いた指導者”として悪名を残すことになると思います。もっとも、人類が破滅すれば歴史も何も残らないわけですから、そんな心配は無用だと言うべきでしょうか。恐ろしい世の中です。(この回終り)

(147) 教育問題私見

Author: 松山 薫

(147)教育問題私見

⑨ 不幸な予感

 大津市の中学生いじめ・自殺事件と第三者調査委員会設置、大阪市立桜宮高校バスケット部コーチによる部員への暴行・自殺事件それに橋下大阪市長の「くそ教育委員会」発言などで、教育委員会の“事なかれ主義、無責任体制、隠蔽体質”などへの批判が高まった中で、安倍内閣の教育再生実行会議が「改革提言」をおこなった。

 この提言の肝は、教育行政の責任者を今の合議制教育委員会から首長が任命する教育長に移して判断のスピードアップを図り、責任の所在を明確にすることだ。今後、中央教育審議会の審議にかけられ、政府は来年の通常国会で法律改正をする方針である。

 問題は、今まで以上に政治権力の介入が容易になり、教育の中立性が犯される危険があることだ。橋下大阪市長の言動や大阪府教育基本条例、府立学校条例の内容、最近行なわれた自民党教科書検定見直し部会の教科書出版会社への聴き取り調査などを見ると、これは杞憂ではない。日本出版労働組合連合会は、この聴取を「出版社への圧力である」とし「言論、表現、出版等の自由を蹂躙するものだ」と抗議している。政治権力が教育を支配し、一体となってファシズムを形成していった歴史を繰り返してはならない。

 私が新潟市の高校に勤めていた頃のことだ。ある晩宿直当番のため用務員室に顔を出すと、流しのところに立派な皿が積み上げられていた。数えてみると30枚あった。「宴会でもあったんですか」と訊ねると、「県の教育委員会の方が二人みえて、校長先生と話をしておられた」という。これはもはや接待を超えて供応であると私は思った。次の職員会議で「こういうカネは一体どこから出るのか」と訊くと「PTA会費」だという。「PTA関係で何か問題があったんですか」という質問には、「県教委との定期的な話し合いだから特に問題があったわけではない」という答えだ。「それにしても、3人で30枚の皿は多すぎるなあ」と慨嘆してみせると、皆がどっと笑い、校長も苦笑いしていた。

 教育委員会の形骸化や腐敗、堕落は、私もこのブログで何回か指摘した。私が新潟から静岡に転勤した際には、茗渓会(東京高師)と尚志会(廣島高師) の勢力争いが絡んでいたことも書いた。2011-4-16 学閥) 勤務評定制度の導入でこのような傾向は一層強まるのではないかという予感を持って教師を辞めたが、私の予感は当たったようだ。

 5年前に明かるみにでた大分県教委の教員採用や指導主事、校長、教頭昇進にからむ汚職事件は、まさにその象徴だが、教育評論家の尾木直樹の調査によると、このような悪弊は全国に蔓延しているという。民間人校長のはしりとして東京の杉並区立中学校長を勤めた藤原和博は、最近の週刊誌で「教員の間には出身大学や加入組合ごとの大きな派閥があり、序列が厳しく決められている。上からの覚えをめでたくするために、お中元やお歳暮を贈ることや、飲み会でのお酌も見慣れた風景です。忘れられないのは、校長と教育長が集まった宴席で人事権を持った教育行政トップの教育長の席にビール瓶を持った校長がずらりと列を成していた光景だ」と述べている。だから民間人校長を増やせというこの人物の主張には賛成できないが、発言の内容は、私が50数年前に新潟で見た風景と全く同じ、いやそれ以上ではないか。

  現在の各県市町村教委の教育長の性向についての兵庫教育大学の教育長アンケートの結果が先日の朝日新聞に掲載されていた。それによると、前例踏襲型の教育長が45%と最も多い。こういう教育長が首長の任命で教育行政の最高責任者という権力を持てはどういうことになるのか。

 教育委員会の改革が必要であることは、なにびとも認めざるをえないだろう。だが、安倍政権の教育再生実行会議が提言しているように、教育長を首長の任命制にすれば、むしろこの半世紀の間に骨がらみになった教育界の上意下達の体質と事なかれ主義を決定的にすることになるだろう。またまた、私は不幸な予感に襲われずにはいられない。(M)

英語の話し言葉の表記にローマン・アルファベットを当てる工夫は、7世紀の初めにローマからアイルランドを経てブリテン島にやってきたキリスト教伝道者が始めたことですが、それが英語の書記法として定着してしまったことが問題の始まりでした。ローマン・アルファベットは英語の音素を表わすのに、あまりふさわしいものではなかったからです。しかもその後の歴史の中で、英語の発音システム(とくに母音システム)に、「大母音推移」(Great Vowel Shift)と呼ばれる大きな変化が起こりました。それにもかかわらず綴りはほとんど変化しなかったので、英語の発音と綴りのずれはますます大きくなりました。今日の英語の学習者の悩みの底には、そのような歴史的な背景があるわけです。

 そこで前回の最後に記した疑問について考えてみましょう。「英語の文字や綴りは、一部の人たちが言うように、表音文字とは言えないほどでたらめなものなのか、それとも、複雑ではあるけれども、それなりに合理的な記述が可能なシステムであると言えるのか」という疑問です。まず、英語の綴りが実際の発音からずれているからと言って、まったく「でたらめな」(at random)わけではありません。もしそうであるなら、そのようにして書かれたものは、誰も読めるようにはならないでしょう。たとえば、英語を知っている人がテキストのあるページに10個の未知語に出合ったとしても、それらをどう発音するか見当もつかないということがあるでしょうか。たぶんそんなことはないはずです。いま筆者の手許にある雑誌の中から比較的に長い綴りの単語を3個選んでみます。

・Euroskepticism, magaphilanthropist, Steinacopia Inc.

いかがですか。筆者のワードソフトではこれらすべてに赤線が引かれます。つまり私のパソコンはこれらの語を知らないと言います。しかし英語を学んだことのある皆さんは、たとえこれらが未知語であっても、英語らしく発音できるのではないでしょうか。ついでに強勢の位置もきっと見当がつくことでしょう。

 このように、英語の綴りは「でたらめ」と言うのは誇張した表現であり、英語の綴りはそれなりのシステムを持っていると言えます。つまり英語の綴りは、発音記号のように音と文字が1対1に対応はしていないけれども、大部分の綴りは音と相関していると言ってよいでしょう。英語の単語の綴りのうち規則的なものは90% か、あるいはそれ以上あると聞いたことがあります。どこまで根拠のある数字かは分かりませんが、たぶんそんなところだと思います。とにかく英語の綴りの10% 近くが不規則または例外であるとすれば、音から綴り、または綴りから音への完全な予測はできません。しかし書き言葉のシステムとしては、他の言語に比べてさほど不規則なものではないと言ってよいでしょう。日本語の書き言葉と比べてみてください。どちらが複雑でしょうか。

 音と綴りが不規則なものの例は、学習初期の段階に現れる基礎語の中にも多数見られます。たとえば中学校で必ず習う次の語などは、綴りと音が規則から外れているので、発音を間違えやすく、綴りも覚えにくいものです。

・音と綴りが規則から外れている単語:beautiful, build, busy, buy, does, eye friend, give, goal, have, many, one, people, through, woman (women), etc.

 ここでサイレント・ウェイの Fidel と呼ばれるチャートを紹介しましょう。この指導法では、さまざまな言語について、発音と綴りの関係を示す語の一覧表を作成し、それを ‘Fidel’ と呼んで教材の一部にしています(注1)。英語のFidelは予想されるようにかなり複雑なものになりますので、教材としてどのように用いるかは難しいところですが、教師にとっても生徒にとっても、興味のあるものではないかと思います。たとえば /u/ の音を表わす綴り字は4種類あり、Fidel を見ると、それらは look, would, put, woman の4種類であることが一目で分かるというわけです。サイレント・ウェイは英語だけでなく、他の言語(フランス語、スペイン語、イタリア語、中国語、日本語など)についても同様の教材を開発しています。このような教材を考えついたのは、サイレント・ウェイの創始者であるカレブ・ガテーニョが最初であったと思われます。

 近年になって英語の音と綴り字の関係についての、より網羅的な研究がなされ、1990年以降にいくつかの研究書が出版されています。日本では成田圭市氏(新潟大学教授)が現代英語の綴りと発音の関係を分析し、それぞれの綴り字がどんな音を表すか、また母音・子音のそれぞれがどんな綴り字で表わされるかについて、その由来を含めて詳細な説明をしています(注2)。その巻末に掲げられた「綴りと発音の対応一覧」は、どこまでを規則的なものとし、どこから変則的または例外的なものとするかを判断するための資料を提供してくれます。(To be continued.)

(注1)Caleb Gattegno, The Common Sense of Teaching Reading and Writing (NY : Educational Solutions, 1985) の中に英語の Fidel が載っています。

(注2)成田圭市『英語の綴りと発音—「混沌」へのアプローチ』(三恵社、2009)

(146)教育問題私見

⑧ 子供の学びの力−2

 子供達に読ませる本を選ぶ時に、私として是非加えてもらいたいと思う一冊がある。児童文学の名作と言われ、日本児童文学者協会賞、サンケイ児童出版文化賞、小学館児童文学賞を受けた竹崎有斐(1923~1993)の「石切り山の人びと」である。

 小学校高学年・中学生向けのこの長編小説は、日中戦争から太平洋戦争の末期を時代背景に、一人の多感な少年が、戦争が庶民の暮らしに及ぼす悲劇を体験し、戦争という異常な事態の中でも自分を見失うことなく生きようとする人達に接しながら、家族の絆や友情、地域の人達の助けで、何時の世にも変えてはならない人間としての真っ当な生き方を学び取っていく物語である。

 主人公の小学校5年生・阿能権六は、熊本の石組み技術集団、穴太(あのう)衆の末裔の家に生まれ、勉強が嫌いで授業中は居眠りばかりしているので本名をもじって「あほ六」と呼ばれる30人ほどの近所の子供達のガキ大将である。その子供達が遊び場にしている森に囲まれた丘の上の空き家に、ある日突然何十年ぶりかで持ち主の一家が戻って来た。一家の主は、陸軍参謀本部に勤めていた退役大佐で、30代半ばのその息子と、権六と同じ5年生の美しい一人娘が一緒だった。あほ六とその仲間は、自分達の遊び場を死守するため、ありったけのチエを絞って元参謀大佐の“じいさん”に敢然と戦いを挑む。

 この一家は「非国民」として近隣から村八分にされていた。息子が思想犯として四六時中、特高警察の監視を受けていたからだ。エリート軍人だったじいさんが退役して帰郷したのもそのためで、息子は特高の過酷な取調べで病気になり、娘の母親とは離婚していた。この一家との”戦い”の中で、権六とその腹心の二人の悪ガキは、真っ直ぐな3人の人柄と毅然とした生き方に惹かれていく。じいさんは、いつの間にか自家薬籠中のものとなった3人の少年に丘の中腹で山羊を飼うことを教え、町の雑貨屋の幼馴染を通じて山羊乳を食料不足や母乳不足で苦しむ町の人達に安く分配して、その売り上げを少年達の将来のために貯金してやった。特に権六少年にすぐれた学問の才能を見出し、勉学の方法を叩き込んで、“あほ六”は6年生では自分でも驚く優等生になっていく。

 その頃、権六の敬愛する石工の親方である父親と、先祖伝来の仕事場である「石切り山」には危機が迫っていた。土地の地主と土木会社が軍部と結託して、この山を丸ごと接収し、軍用飛行場の滑走路の敷石を機械で大量に掘りだすことを通告してきたのである。 権六の父親ら、「石切り山」で仕事をしている石工の親方衆は、組合を作って対抗しようとしたが、“聖戦完遂のためという錦の御旗”で次々と切り崩され、一人取り残された権六の父親は、悲憤のうちに、ハッパをかけ損ない、落石に頭を砕かれて死んだ。軍部という虎の威を借る狐たちに復讐しようとする権六を母は黙って抱きしめ、行商をしながら権六と弟を必死で養う。権六は、じいさんが山羊乳の売り上げを貯金してくれたカネで上級学校へ進むことになり、九州でも有数の旧制中学校に合格した。戦争が終わり、やがて土木技師となった権六が、父や仲間の石工達が石を打ち込んで作った川の護岸を一旦破壊して川幅を拡げる工事に参加し、万感の思いをこめてハッパのスイッチを押すところで物語りは終っている。

 この長編小説の後書きの中で、児童文学者の大石真(チョコレート戦争の著者1925~1990)は、「この作品の最大の魅力は、阿能権六やその仲間達、野生の自然児ともいえる子供達です。最近の児童文学は、都会中心になるにしたがって、こうした野放図な、活気溢れる子供を失ってしまいました。この作品を読むと、こうした子供たちを失ってしまった現代の不幸を考えずにはいられません。」と述べている。二人の児童文学者が世を去って20余年、日本の子供たちを取り巻く環境がますます悪くなっていることは明らかである。
  
 世界的には金融資本主義の行き詰まりと多くの国家の財政破綻、それによってもたらされた様々な格差と社会不安、これに対抗しようとする平準化の動き、さらには新興国の人口爆発による食糧、エネルギー危機と激化する争奪戦、一方国内では生産人口の急激な減少による先の見ええない経済と財政破綻による社会保障制度の崩壊、必ず来る大地震と原発災害など、内外の厳しい状況の中で、国際的には、超大国米中の谷間で咲くひよわな花(ブレジンスキー)になりかねない日本にとって、この国が近い将来立ち向かわなければならない諸問題を考えると、子供達の前途はきわめて厳しい。NHKが紹介した最近の調査によると、中学・高校生の70%が将来の社会に不安を持っているという。それは、今の子供達が、これまでの経験では対処不可能な難問題に立ち向かわねばならない予感があるからなのだろう。

 このような状況の下で、教科書で徳目を上から目線で子供達に教え込んでも何の意味もないことは、徳目主義教育の申し子であった私たち戦中派が、敗戦という未曾有の価値観の転換と混乱の中で身を以って知り、新しい価値観を求めてさ迷った悲劇的な歴史を思い起こせばはっきり分かるはずだ。今必要なことは、自分の頭で考え、自分の信条に基づいて行動する人間を育てる教育であり、教育の成果があらわれるには長い時間を要することを考えれば、早くベクトルを変えなければならないと私は痛切に思う。(M)

学習者が音節と音素(母音と子音)の存在に気づき、英語の発音に関する自己評価基準を自分の内に創り上げることに成功したならば、その経験をアルファベットの文字学習につなげることは比較的に容易になります。しかし語を成り立たせている音素という概念が確立していないと、それを文字に表わすことに困難を感じることになります。そのことは、文字が考案されるようになった長い歴史を知ると合点がいきます。

 文字は人類の歴史の中で、意外に新しい時代に創られたものであることを知ります。人間の発話行為はホモ・サピエンスという種が成立した頃(10万年前~5万年前?)には何らかの形で存在していたと考えられますが、文字の誕生はそれよりずっと遅れて、今から5000年前くらいにようやく創り出されたもののようです。その頃になって、人間は自分の発話を何らかの方法で表わすことができることに気づいたわけです。

 言語の歴史研究では、文字が考え出された地域として中国、エジプト、メソポタミアのシュメールなどが挙げられていますが、それらの中で今日の西欧諸国の多くで用いられているアルファベットの起源と考えられているのは、紀元前3000年頃にシュメール人によって作られた楔形(くさびがた)文字です。それが後に音素を単位とする表音文字のアルファベットに発展していくわけですが、ュメール人は実際の発音と視覚的記号を対応させ、それをシステム化するという独自の方法を創り出した最初の人たちでした。しかしこれは大変な仕事でしたので、研究者たちによると、シュメール人が自分たちの文字を完成させるのには少なくとも数百年の歳月を要したといいます。しかし何よりもユニークであったのは、人の発する音声を楔形の文字記号で表わそうとした発想そのものでした。

 世界で使用されている文字は、大きく表意文字と表音文字に分けることができます。日本語は表意文字の漢字と表音文字の「ひらがな」および「カタカナ」を混ぜて使いますから、欧米で広く使われている表音文字であるアルファベットとの間には大きな違いがあります。英語を学ぶ日本人中学生の中に、初期の学習でアルファベット文字を学ぶことに抵抗を感じる生徒がいるとしても不思議ではありません。書き言葉の点からは、日本人には中国語のほうがずっと学びやすいでしょう。なぜなら、日本語で使う漢字はもともと中国から借りてきたものだからです。これに対して英語や他のヨーロッパ諸国の言語で使われるアルファベットは、音素を表記する記号です。しかもそれは、とくに英語の場合には、1つの音に対して1つのアルファペット文字を当てるという形の完全な表音文字にはなっていません。その原因は、英語の表記がラテン文字(ローマン・アルファベット)を借用したことにあります。そしてそのことが、英語のアルファベットを学ぶ学習者を悩ませる原因ともなっているわけです。

 問題は実際の音とそれを表わす文字の数です。英語の音素の数はすでに述べたように、少なくとも母音が20、子音が24、合計44です。一方、英語で用いるアルファベットの数は26です。音素の数よりもアルファベットの数の方が少ないので、音素とアルファベットを1対1に対応させることはできません。子音は対応しているものが比較的に多いのですが、問題は母音です。母音を表わすアルファベット文字が5つ(a, e, i, o, u)しかないのに、それらで対応すべき母音が20もあります。これでは当然、複雑にならざるを得ません。これまでの教育では、英語の文字システムについての系統的な指導はほとんどなされていません。なかには、「英語の綴り字はでたらめだと思いなさい」と言って学習者を惑わす指導者もいるくらいです。しかし、それが学習者に過大な負担を強いる結果となっていたことは明らかです。筆者の経験では、中学校の英語授業から落伍する生徒の多くは、その負担に耐えられない生徒たちだったと思います。

 例を挙げてみましょう。母音を表わすaの文字がどれだけの異なる英語音を表わすかをしらべてみます。次のように少なくとも8通りあります。

aの文字の表わす音:about, all, cat, cake, father, many, swallow, village.

では /ei/ という母音を表わす文字または綴り字はいく通りあるでしょうか。これも少なくとも8通りあります。

/ei/ の音を表わす文字:ate, day, eight, great, mail, straight, they, vein.

以上のように複雑です。では英語の文字や綴り字は、一部の人たちが言うように、表音文字とは言えないほどでたらめなものなのでしょうか。それとも、複雑ではあるけれども、それなりに合理的な記述が可能なシステムであると言えるのでしょうか。(To be continued.)