Archive for 12月, 2015

Author: 松山 薫

統計数字の裏に見えるもの  ② 休暇

 調査とか統計の数字は、前提条件に問題があることも多いからそのまま信ずるわけにはいかないが、 社会の動きを知る上で、欠かせないもののひとつではある。今回は、日本人の休暇をとり上げたい。

1.有給休暇の取得率(2014) 47.6%
2.祝日法による休日 15日 (来年から16日)
3.労働時間 年間 1746時間  一日平均 9.1時間  
4.労働組合の組織率 17.4%  労働協約のカバー率 16%

 年次有給休暇は、労働基準法によって定められた労働者の権利で、半年以上継続して働き、定められた労働日の80%以上出勤すれば、勤続年数に応じて10日から20日、自分の希望する日に休むことができる(但し事業所の都合で休む日を変えられる)。厚労省もいろいろ工夫して取得率を上げようとしているようだが、実績は15年連続50%以下なのである。よほどの変人でもない限り、休暇を取りたくないという人はいないだろうし、出来れば自分や家族の都合のよい時にゆっくり休みたいと考えているであろうから、現実は企業の都合が優先している結果だということになる。

 実は私も26年あまりつとめたNHKで、労組の役員でありながら、ほとんど休暇を取らず、退職の時に買い上げてもらった。3交代制の職場である上、泊まり勤務の人員が切り詰められているので、なかなか休めなかった。休めば同僚の休日出勤や時間外労働、管理職であるデスクのサービス労働が増えるのである。中小零細企業などでは、上からの有形、無形の圧力や同僚への気兼ねという自己規制から、有給休暇は病気の時でもなければ取れないという声も聞く。休日出勤や時間外労働による割増賃金が生活費の一部になっている中小企業の労働者が多いことも休暇取得率が低迷している原因だろう。

 こうした現状から、日本の有給休暇取得率は。100%近い国もあるヨーロッパ諸国や70%台のアメリカにくらべると著しく低く、先進34か国が加盟するOECD諸国では、韓国と共に常に最下位を
さまよっている。

 労働組合の非力も労働者が満足に休暇をとれない原因の一つだ。非力の最大の原因は日本の労組が企業内労組であることから、労働協約は企業内の正規労働者しかカバーしないことである。これに対して、欧米型の産業別労組の労働協約は、同一産業の全労働者に適用される。これによって、同一労働・同一賃金の原則が守られ、転職の自由も生まれ、企業や同僚に過度の気兼ねをすることなく休暇をとれる環境が整う。

 一方、祝日の日数では日本は世界的にみても多い方だ。或るコンサルティング会社の調査では、世界一祝日が多いのはコロンビアで18日、一番少ないのはメキシコで7日、西欧諸国も全般に10日以下で、日本の15日は多い方の3番目(16日になると2番目)となっている。
* 日本では祝日法によって国民の祝日は休日になっているが、他の諸国が祝日=休日なのかどうかはわからない。

 この祝日の多さが有給休暇の代替になっている。ゴールデンウィークとかシルバーウィーク、年末年始休暇で日本中が一斉に休んでくれれば企業にとっては年間スケジュールが立てやすいし、生産ラインの保守にも都合がよいだろう。政治もこれを利用してきた。昔、牛若丸と自称する政治家は、労働相として休日と休日の間のweek dayを休日にすることに成功し、国民が喜ぶと有頂天だった。為政者は国民に祝日を与えることが国民の一体感を醸成する有力な手段になりうると上から目線で考えているのではないか。祝日法を読むと私にはそういう匂いがする。

 明治から戦中にかけて2月11日は紀元節という建国神話に基づく祭日だった。その日には学校の式典で「雲に聳ゆる高千穂の 高根下しに草も木も なびきふしけん大御代を 仰ぐ今日こそ楽しけれ」と歌わされ、神武天皇というのはあたかも実在の人物であるかのように信じ込まされた。戦後この日を建国記念日にするかどうかで論争が起き、「建国の日」と「の」の字を挿入することで落着したことを憶えている人はもはや少ないのではないか。みどりの日を昭和の日に変え、文化の日を明治の日に変えようとするなども戦後レジームからの脱却を目指す動きの一環といえるだろう。

  ところで、間もなく、年末年始の〝民族大移動”が始まる。JTBの推計によると、今年も年末・年始には3000万人超の人達が大移動に加わるという。また、初詣に出かける人は明治神宮、川崎大師、成田山新勝寺だけで1000万近くになるから大晦日から正月3日日にかけて全国では一体どれくらいの人が出歩くことになるのか。これは多くの外国人にとって、奇観としか言いようのない行動のようである。

 NHKの国際放送で英語ニュースを担当していた頃の大晦日、私は泊り番で、午後10時から始まるニュースを編集し、アメリカ人のアナウンサーが下読みに来るのを待っていた。ところが10分前になっても来ない。仕方ない自分で読むかと覚悟していたところへ息せき切って飛び込んできて、なんとか無事送出できた。30分前には出局しろと厳しく申し渡したところ、彼曰く。「いつもそうしているし、今日も同じ時間に家を出たが、ダメだった。必死になっても原宿の駅からここまで30分もかかってしまった。いったいあの群衆はなんなんだよ。」 来日して間もない彼は、初詣のことを知らなかったのだ。明治神宮には毎年大晦日から三日日で300万人が訪れるという。大柄なアメリカ人だから、なんとか30分でたどり着けたのだろう。彼は「日本人はimpious(信仰心がない)と聞いたが、嘘だな。」と呟いた。私には「そのうちわかるかもしれないよ」としか答えようがなかった。perception gap というか、信仰の問題ではなく〝群れることで安心を得る”という多くの日本人の共通性に根ざす問題であるように思えたからだ

 国連の労働問題専門機関ILO(国際労働機関)は、有給休暇は連続してとることを原則としている。フランスやドイツの“バカンス”は数週間の連続有給休暇である。これだけ休めれば、働くことの意味や生活のあり方、ひいては人生についてもゆっくり考えられるだろう。私がNHKにいた頃、10年勤続すると退職するまでに10日間の有給休暇と10万円の功労金をもらえる制度があった。私は40歳になった時にそれを利用して独り伊豆の伊東温泉にこもり、これまでの人生とこれからの人生を考えた。その時考えたことがその後の人生を決めたと思う。

 ILOは21世紀の労働の目標として「decent work」 の実現を目指している。decentとは、「まともな」というほどの意味であり、ILOのいうdecent workは、「人間らしい生活を継続的に営める公正な労働条件」を指す。具体的には、1.一日当たり、一週間当たり、ひと月あたりの労働時間 2.賃金 3.休日の日数 4.労働の内容 であり、それらを実現するための条件としての 1.結社の自由・スト権・団体交渉権 2.雇用差別の禁止 3.人間としての尊厳を保てる最低賃金 4.十分な雇用機会と失業保険 などを整備することである。

 残念なことに、日本政府は「decent work 」に関する国際条約の多くを批准していない。そういう中で叫ばれる“一億総活躍社会”の行くつく先がどんなものになるのかは、長く労働運動にたずさわって
その非力に泣いた私には想像がつく。(M)

* 本年はご愛読ありがとうございました。次回の「統計数字の裏に見えるもの ③ 自給率」は1月30日(土)に投稿する予定です。

「コミュニケーション能力を総合的に育成する」と言うときには、その意味するものは二通り考えられます。第一は、四技能を調和的に育成するというものです。その考えでは、それぞれの技能をできる限り伸ばすように指導しながらも、常時、四技能のバランスが大きく崩れないように注意するというものです。これは特に中学から高校1年くらいまでの学習の基本段階では大切なことです。第二は、四技能は言語使用の実際場面でいろいろに組み合わされて使用されるものであり(「聴いて話す」、「聴いて書く」、「読んで話す」、「読んで書く」など)、四技能をばらばらに指導するよりも、それらを適宜に組み合わせて実際のコミュニケーション場面に近い状況の中で学ばせるのがよいという考え方です。

従来の英語指導は、どちらかというと、第一の考えに基づいて行われていました。すなわち、「聞く・話す・読む・書く」の四技能のそれぞれを学習段階に応じて効果的に指導するとともに、それらを調和的に発達させるように配慮することが大切だという考えでした。しかし最近のコミュニケーションを重視する指導研究は、四技能をバラバラに訓練するよりも、言語の実際の使用場面において、いくつかの技能を組み合わせて使用させる経験を積ませることが必要だと考えるようになりました。

たとえば大学の授業を考えてみましょう。日本の大学ではまだいい加減な授業がかなりあるようですが、アメリカの大学では、ほとんどの授業がきちんとしたルールに則っているようです。受講生はまず予習をすることが義務づけられます。そうしないと授業についていけません。したがって単位が取れません。多くの場合、学生は授業前に指定された資料(一冊の本全部またはその一部)を読んでくることが前提となっています。授業では先生の講義を聴き、質問し、議論し、自分の理解したことをノートします。授業後には再び資料を読み、レポートにまとめます。そしてそれらはしばしば提出を求められます。このような授業では、学生が使用する言語技能は、「読む→聴く→話す→聴く→書く→読む→書く」のように複雑に組み合わされたものになります。これは一例ですが、四技能はこのように有機的に組み合わされて、一連の活動が構成されるのが普通です。

以上の事実を踏まえて、現行の学習指導要領を見てみましょう。まず中学校学習指導要領は、「教材は、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力を総合的に育成するため、実際の言語の使用場面や言語の働きに配慮したものを取り上げるものとする」と書かれていて、必ずしも複数の技能を統合した指導をせよという記述ではありません。つまり、中学校では四技能のいずれかに偏ることなく全体として調和の取れたものにせよ、ということのようです。これに対して高校の学習指導要領は、「聞いたことや読んだことを踏まえた上で話したり書いたりする言語活動を適切に取り入れながら、四つの領域の言語活動を有機的に関連付けつつ総合的に指導するものとする」となっていて、複数の技能を統合して実際に近い言語使用の能力を養うことを目指すという方向が示されています。先の例で見たように、大学の授業はすべてとは言いませんが、ほとんどが言語の四技能がいろいろに組み合わされ、有機的に関連付けられて展開します。高校の学習指導要領は、このような活動を行うことを「総合的」という言葉で表わしていると解釈されます。

しかし先に述べたように、現在の多くの高校生の英語力は期待されているレベルには遠く及びません。高校3年生のおよそ80%が中学以下の学力しか持っていないという実態があります。そうだとすると、全体的学力が平均的な高校に入学してくる生徒では、その80%は中学での英語の基礎が十分にできていないと推定されます。発表能力(話す・書く)に関しては、その割合はもっと高いかもしれません。すると高校の学習指導要領に述べられている事柄は、中学までの基礎学習を修了している20%足らずの生徒の指導には有効であっても、そうでない80%くらいの生徒にとって、はたして有効な指導となり得るのかという疑問が生じます。高校1年生で「コミュニケーションⅠ」を担当する教師は、まずクラスの生徒たちの四技能の実態を正しく把握することから始めることが絶対に必要です。

実態調査の結果は、ひょっとすると、教師にとって信じられないほど惨憺たるものであるかもしれません。しかし、たとえどんな結果であっても、現場はそれを現実として直視し、受け入れるほかありません。高校の指導方針は、それぞれの高校の特色と生徒の実態を踏まえ、教科を担当する教員たちが話し合って決めるものです。実際のところ、高校卒業生の約半数は大学には進学しませんし、進学志望者の少なくとも半分は中学校で期待される学力を身につけていません。そういう生徒たちのために、学習指導要領は「コミュニケーション英語基礎」という科目を設けていますが、これを選択する学校は非常に少ないと聞いています。これは理解に苦しむところです。現場はもっとこの科目の利用を考えてよいのではないでしょうか。そして文科省は、教育行政の立場から、この科目が選ばれないない理由を調査し、次の改訂でこれをもっと選びやすい科目にする方策を講ずべきです。

高校現場において議論をする場合に注意すべきことがあります。それは、生徒が中学修了のレベルに達していないからといって、扱う教材や内容の質を必要以上に落とさないようにすることです。それをすると、生徒の学習意欲はたちまち減退します。高校に入って中学校でやったことをそのまま繰り返すのでは、生徒はやる気を失います。「コミュニケーション英語基礎」が選ばれない理由の一つはそこにあるかもしれません。高校では、内容は中学校でやったことであっても、それに新しい光を当てて新鮮なものにすることが重要です。生徒の今の学力に似合った内容にレベルを落とすのではなく、いくらかでも背伸びをさせるのがよいのです。その理由は、①目標を高く掲げることによって生徒の学習意欲を高めるため、②相対的に学力の高い生徒が足を引っ張られて頭を押さえられることのないようにするためです。むしろ、意欲のある生徒に引っ張られて、そうでない生徒が奮発するような指導を、教師は心掛けるべきでしょう。

最後に結論を手短に述べます。「四つの領域の言語活動を有機的に関連付けつつ総合的に指導するものとする」という学習指導要領の指示は、英語教育全般の進むべき方向を示してはいますが、現在の高校生の学力の実態から見て、このままでは現場の教育実態を無視した机上のプランに終わるように思われます。おそらく、特別に選抜された生徒を対象とする高校を除いて、大部分の高校現場では機能しないでしょう。各学校は、入学してくる生徒の実態を正しく把握し、彼らにとって将来必要となるであろう英語技能がどのようなものであるかを見極め、限られた時間の中で、どこに的を絞って指導するかをしっかり議論するところから始めるべきです。

最近の英語教育についての議論でしばしば登場する言葉に「コミュニケーション能力を総合的に育成する」というのがあります。これは最近改訂された学習指導要領で述べられている文言なのですが(注1)、これはよく考えるとなかなか難しい問題を含んでいるように思われます。「総合的」とはどういうことか、それは従来から言われてきた「四技能の調和的発達」とどう違うのか、中学や高校の基礎的学習段階で四技能を総合的に指導することがどこまで可能なのか、など。今回は言語技能の中核をなす四技能の発達について、次回はそれらの技能の統合について考えてみます。

まず私たちが「英語を学ぶ」というときには、通常は「聞く・話す・読む・書く」の四つの技能を身につけることを言います。ですから「あの人は英語ができる」というとき、多くの人が思い浮かべるのは、その人が英語を聴いて理解することができるだけでなく、それを話したり読んだり、そしてたぶん、書いたりできる人だと理解します。しかしこれら四技能に習熟するには相当の時間を要しますから、英語を学ぶ過程では、それらの技能の達成度にさまざまな凸凹が生じます。最初からこれら四技能を平等に発達させるというのは現実的ではありませんし、実際には不可能です。

まず子どもの母語習得を見でみましょう。子どもの言語発達の自然な順序は、まず聴くことに集中し(子どもが言葉らしいものを発するまでに誕生後半年から1年を要します)、次に聴いて話すことに集中します。しかし読み書きは自然には覚えられません。文字の多くは抽象的な記号なので、音と文字を結びつけることが難しいのです。日本でも明治期に国民教育制度が確立するまでは、「文盲」(illiterate)と呼ばれた人がかなりいました。書き言葉の文化が発達した今日ではそういう国民はほぼ皆無となりましたが、多くの場合、読み書きは学校教育の役目です。一般に、子どもたちは幼稚園や小学校に入って読み書きを教わります。そして第2言語や外国語におていても、多くの専門家はこの「聴く→話す→読む→書く」の習得順序が最も自然であると考えています。わが国では2011年度から小学校の教育課程に「外国語活動」の授業が設けられ、英語が教えられるようになりましたが、そこでも「聞くこと・話すこと」の活動を重視し、文字を扱うことは最小限に抑えられています。

では中学・高校では四技能はどのように発達するでしょうか。中学校に入学すると、多くの場合、生徒は小学校で軽く触れた英語のアルファベットの文字を改めて学び直し、少しずつ語句や文章を読めるようにし、1学期の終わりにはなんとか書き写すことができるところまで行きます。そこでたいてい夏休みになりますので、休み中にアルファベットが完全に書けるように宿題が出され、2学期からは教科書に載っている文章を読んだり書いたりすることができるようになります。その読み書きの基本は中学1年生の修了時までに終えることが望ましいのですが、適切な指導がなされないと、何パーセントかの生徒が落ちこぼれます。ここで落ちこぼれると2年次以降の授業についていけなくなり、深刻な事態が生じます。そこで、いかに落ちこぼれをゼロにするかの研究が古くからなされており、ここでの落ちこぼれをいかに防ぐかは、今や中学校第1学年担当教師の責任とみなされています。少しきつい言い方かもしれませんが、ここで落ちこぼれを見逃すような教師は、英語指導者としての資格を問われることを覚悟すべきです。

中学1年生の英語を無事に乗り切り、英語の読み書きに慣れることのできた生徒は、理論上は2年次以降の授業についていけないということはほとんどなくなるはずです。しかし学びが進むとテキストの分量が増し、新しい語彙が増え、文章の形態や内容が高度になりますので、生徒は油断するとたちまち落ちこぼれます。指導する教師はそのことに気を配り、常に生徒をよく見て、彼らの意欲をかき立てるような授業を心掛けなければなりません。その場合に注意することの一つに、四技能の配分ということがあります。高校入試などの筆記試験では「読むこと」に比重がかかので、その対策のために読解に力がはいり、生徒が英語を話したり書いたりする機会が少なくなりがちです。特に受験期が近づく頃には、生徒が授業で声を出すことが少なくなります。そうなるともう英語の授業とは言えません。英語の四技能の基本は、教師による適切な指導と生徒の真摯な学びがあれば、中学校修了時までにほぼ固まるはずで、あとは言語使用の拡張と習熟が必要なだけです。

しかし実態は必ずしもそうではありません。生徒の多くが高校入学直後に躓くのです。その原因の一つは中学での英語の学びが不充分で、四技能の基礎ができていないことにあります。これらの生徒は、高校入学後に中学英語の再学習が必要です。もう一つの原因は高校の英語カリキュラムの複雑さにあります。以前は高校の英語科目が「英語Ⅰ、Ⅱ」、「オーラル・コミュニケーションⅠ、Ⅱ」、「リーディング」、「ライティング」の6科目にも分かれており、教科書も教える教師も違っていて、英語技能が「聴く・話す」、「読む」、「書く」などに分割して指導されるようになっていました。これは高校に入学した生徒にとって大変な負担でした。事実ここで多くの生徒が落ちこぼれることは、最近の実態調査が示しています(注2)。2009年3月の高校学習指導の改訂によって、これらの科目が整理され、「コミュニケーション英語Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」および「英語表現Ⅰ、Ⅱ」と単純化されました。この改訂によって、英語の四技能を統合的に指導することが可能になりました。これは今後の高校英語教育の改善につながると期待されます。

こうして高校での学びを終えた人たちの約半数は大学に進学し、その後も英語の学びを続けるわけですが、これまでの大学卒業者の四技能の習熟度はさまざまで、一般に期待されている達成度に達する者は極めて稀です。かなりよく努力した人でも、多くが「読むこと」についてはいくらか自信があるけれども「聴く・話す」は全く駄目だと言います。それはひとえに学校教育の責任だと言う人が多いようですが、必ずしもそうとは言えないと筆者は考えています。なぜなら、日本で生活している限り、英語を実際にコミュニケーションの手段として使用する経験を積むことが難しいからです。言語使用の経験不足なのです。その困難を克服する確実な方法は、英語母語話者と生活を共にすることです。それには英語を常時使って生活する国に留学をするか、日本にやって来る留学生などの英語話者と生活を共にするか、どちらかです。しかし国がすべての日本人にそれらの方策を奨めるわけにはいきません。いずれも万人のできることではないからです。そこでどうするか。学習指導要領の言う「コミュニケーション能力を総合的に育成する」などの授業改善の奨めは、そのような背景から生れてきたものです。はたしてそれはうまく機能するでしょうか。(次回に続く)

(注1)前回改訂された中学校および高等学校の学習指導要領(中学2008年3月改訂;高校2009年3月改訂)の中に、次のように「総合的」という文言がいくつか使用されています(下線は筆者)。

中学校:「教材は、聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力を総合的に育成するため、実際の言語の使用場面や言語の働きに充分配慮したものを取り上げるものとする。以下略」(3.指導計画の作成と内容の取扱い)

高等学校:「中学校におけるコミュニケーション能力の基礎を養うための総合的な指導を踏まえ、聞いたことや読んだことを踏まえた上で話したり書いたりする言語活動を適切に取り入れながら、四つの領域の言語活動を有機的に関連付けつつ総合的に指導するものとする。」(「コミュニケーション英語Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」3.内容の取扱い)

(注2先般(本年3月)公表された高校3年生の英語学力調査の結果がこのことを示しています。文科省は昨年、高校3年生約7万人を対象として、その英語力を四技能別に測定する抽出調査を実施ました。その結果は、高校3年生で中学生またはそれ以下の英語力しかない生徒が約80%に及びました。技能別では「読む」72.7%、「聞く」75.9%、「書く」86.5%、「話す」87.2%でした。つまり、高校1年生までに落ちこぼれる者が約80%いることが明らかになったのです。(詳しくは、桐英会ブログ2015年6月19日掲載の筆者の投稿『<番外>文科省の「英語力向上プラン」:危険な机上のプラン』をご覧ください。)

これまで3回にわたって「協働」というテーマで議論を展開してきました。読者からいただいたコメントの中に、かつて筆者が大学にいたときの教え子で、高校で現在このテーマに関する実践研究を行っているA君からのメールがありました。彼は自分自身や仲間の指導経験から、ペアやグループ活動が成功する条件として次の3点を挙げています。1)日ごろの授業と指導の在り方、2)教師と生徒の信頼感、3)クラスの生徒同士の人間関係。筆者はなるほどと思いました。これらは経験者が誰しも感じるであろうと思われる大事なポイントを捉えていると思いました。以下にこれら3点を踏まえて考察を進めます。

まず「日ごろの授業と指導の在り方」について。今まで伝統的な一斉授業で教えられてきた授業が、ある日突然グループ活動に切り替わるようなことは普通にはないでしょう。しかしあり得ないことではありません。筆者はかつて(1970年代)そういう授業を突然試みたことがあります。風邪のため声が出せなかったのです。それは大学の英文科の講読の授業で、ひたすらテキスト(小説)を読むという授業でした。その進め方は全文を日本語に訳すというのではなく、あらかじめ準備しておくように伝えておいた学生に一区切り朗読してもらい、その個所の文章の意味や語句の使い方についていくつかの問いを発して学生たちと問答し、ストーリーの流れの中で重要と思われる個所を取り上げて翻訳するというものでした。50人くらいのクラスだったので12組ほどのグループがその場で作られました。その記録は残っていませんが、大部分のグループは熱心に学びを進めていたと思います。多くのグループが採用した活動の進め方は、筆者の観察した限りでは、ふだんの授業の進め方にほぼ従っていました。

それは英文科の大学生の「講読」というかなり特殊な授業でしたので何とかなったのかもしれません。「テキスト(小説やエッセイなど)を読んでその内容を理解する」というごく限られた目的の授業と、「話すこと・書くこと」を含めた四技能の基礎を作るという目的の中学・高校の授業とでは大きく異なります。現在の英語の授業は、ただテキストが読めればよいというのではなく、理解した言語材料を利用して自分の考えを英語で表現し、他の人たちと英語で話し合うところまで発展するように求められています。どのようにしたらそのような授業ができるのか――それが従前の一斉授業では対処できない、新しい教育の課題となっているわけです(注)

最初に考えられることは、教師による一斉授業を理解中心の活動と位置づけ、そのあとのグループ学習で運用演習に集中させるという授業計画です。筆者は正確な資料を持っていませんが、これが最近各地で行われている協働(協同、協調など)の名で行われる授業の基本になっているようです。しかしその場合でも、一斉授業ではほとんど日本語を用い、その後のグループ学習で英語の使用に切り替えるというのではうまくいかないでしょう。生徒が英語を使って協働的な学びを進めるためには、理解を中心に展開する一斉授業においても、教師と生徒が気楽に英語を使うことのできる環境を整えることが重要です。少なくとも、教師はそこで運用のモデルをいくつか与え、教師と生徒の間で英語のやり取りを頻繁に行うことが必須です。こうした準備があってはじめて、生徒同士の学びの形態へとスムーズに移行させることができるのです。

次に「教師と生徒の信頼感」について。グループ学習が成功するためには、まず教師が生徒を学びの主体として尊重し、信頼することが重要です。クラスの生徒はみな学びたいのです。勉強が嫌いだと言う生徒はたくさんいますが、多くの場合それは口先だけであって、本心は学びたいのです。少しでも分かるようになりたいのです。教師が「この連中は勉強嫌いのバカ者だ」と心の中で軽蔑していては、生徒が教師を信用するはずがありません。相互に相手を尊重し合うという人間としての信頼関係が成立していなければ、この形態の授業は決して成功しないでしょう。

しかし、そういう信頼関係に問題はないと考えていても、これまでもっぱら一斉授業で行ってきた先生方の多くは、グループによる学習形態を授業に採用することに不安を感じるのではないかと思います。第1に、いったん生徒に任せたら、そこで行われる活動は教師のコントロールがきかなくなるという不安です。失敗したらそれにどう対処してよいか分からないという不安もあるでしょう。第2に、そもそも生徒が互いに学び合うということ自体が難しいのではないかという不安です。それは、生徒というのは互いにライバルであり、決して協力し合う関係にはないという認識から来ています。しかしその認識は根本的に間違っています。グループ学習を実行に移すためには、生徒はすべて心の深いところで痛切な学びの欲求を持っており、クラスの生徒は互いに学び合うもの、切磋琢磨するものだという確固たる信念が教師の側にあり、常々そのようなことを念頭に置いて指導することが重要なのです。

ここで一つつけ加えますが、授業中に英語を学ぶのは、教師ではなく生徒です。教師も学ぶ必要はありますが、その学びは生徒のそれとは異なります。生徒は教科内容の学びに集中し、教師は生徒が何をしているのかを注意深く見守るのです。よく見て、どのような指導を行うべきかを考えるのです。そういうわけで、生徒の学びを第一に考えるならば、教師中心のプレゼンテーションはあくまでも生徒の学びの準備に過ぎません。以前、筆者はいろいろな機会に英語の授業を見ました。しかし多くの授業において、必死になって学んでいるのは教師であって生徒ではないのです。教師は生徒を見ずに自分の英語に集中し、生徒は先生の奮闘ぶりを外野席から眺めているという感じです。これではいけません。もう一度言いますが、授業で英語を学ぶのは生徒であって教師ではないのです。教師の学びは生徒の見えないところでするものです。

最後に「生徒同士の人間関係」が残っています。しかしこれはグループ活動をスムーズに進めるために重要な問題ではありますが、英語科一人の教師の努力ではどうにもなりません。生徒たちが互いに切磋琢磨して学び合う同士であることを徹底して指導することは、英語科だけでなく、全教科で取り組むべき共通の課題だからです。この点についてはいずれ稿を改めて論じるつもりです。

(注)中学・高校における英語授業のすべてが四技能の総合的学習である必要はなく、時には「テキストの理解」を中心とした授業も行われるはずであり、それを目的としたグループ活動もあってよいはずです。そこでは、それぞれのグループのメンバーがが互いに協力しながらテキストを読み進めることになります。そのようなグループ活動の進め方についての研究も、現場において今後さかんになされることを期待します。しかし前回(2009年3月)の学習指導要領改訂で、高校の外国語科目から「リーディング」が削除されました。この改訂によって、現場における「リーディング」に関する指導研究が低調になるのではないかと心配です。