Archive for 3月, 2016

「授業力」というのは一般に使われる言葉ではありませんが、教師間ではよく耳にします。何と言っても、学校の教師は授業が勝負だからです。もちろん、授業をするだけが教師の仕事ではありません。未成年の生徒を指導するとなると、授業以外にも人格的な教育に時間とエネルギーを配分する必要があります。また部活動の面倒もみなければなりません。それに加えて、雑用を含めさまざまな仕事が常時舞い込んできます。父母の相談にも耳を傾けなければなりません。最近は理不尽な要求を突き付けてくる父母の対応に苦慮する教師が多いと聞いています。そういうことが重なって、日本の教師は世界で最も勤務時間が長く、肉体的にも精神的にも疲労が激しいと言われています。そういうことは国際社会では決して自慢になりません。むしろ恥ずべきことです。国の教育行政を司る文科省は、教員免許の更新制などの制度強化で縛るのではなく、学校教師が自分の担当する授業に安心して専念できる環境を整えてもらいたいものです(注1)

現代日本の教師の多くは、困難な状況の中にあっても、授業だけはきちんとやりたいという強い意志を強く持っていると筆者は確信しています。なぜなら、教師がしなければならないさまざまな仕事の中で、授業だけは全面的に自己の責任に委ねられているからです。筆者は長年教師をしましたが、自分の授業にだけは常に全力を投入しようと努めました。しかし人間は弱いものです。自分自身が体調を崩したり、病気の家族を看護したりするために、100パーセント完全に任務を遂行することは困難でした。それは残念なことですが、そんなときでも、授業に全力をあげる心構えだけは失うことはなかったと思います。それは教師として当然のことですが、その当然のことを遂行できたということが、今振り返って、筆者の教員人生におけるほとんど唯一の宝となっています。

さて授業力を高めるためには、教師は何をしたらよいでしょうか。前々回には「教師は授業をどう組み立てるか」について考え、それと関連して前回は「教師に求められる英語力」について述べ、教師にとって重要な英語力は英検やTOEICで合格点を取ることではなく、授業で生徒とのインタラクションやディスカッションを遂行できる英語力を身につけることだと述べました。この2回の論考で「教師の授業力」についての基本的な問題はほとんど取り上げましたので、今回はその補足として、現場の教師が日常的に行う自己研修についてまとめておきます。日本における英語教育改善の道は、自己研修によって一人ひとりの教師に「授業力」を高めてもらうこと以外には、展望が拓けてこないのです。

教師の自己研修と言えば、前回に述べたように、まず自分の授業を客観的に分析することから始めるのが常道でしょう。教師は誰でも、授業中は自己を授業活動に投入しますから、自己を意識することはほとんどありません。それでも、一つの活動(たとえば教師によるオーラル・イントロダクションや、それに関する生徒とのインタラクションなど)をしている最中やその終了時に、「今の活動はうまくいった」とか「これはうまくいっていない」とか「これは失敗だ」などの感想が心に浮かぶことがあります。しかし授業中にそれをいちいち記録に留める余裕はありませんから、授業後にそれらのコメントをまとめて記録することになります。授業をビデオ撮りする技術が発達する以前は、熱心な教師たちはそうして自分の授業を記録し、分析したものです。

一時間の授業を、音声も含めてそのまま録画することができる技術を獲得してから、私たちの授業分析は格段に進歩しました。この有用な技術を利用しない手はありません。まだ経験していない方はぜひ試してみてください(注2)。そうすれば、自分の授業のどこが長所で、どこに欠陥があるかが分かってきます。しかし自分一人で見るだけでは、真に客観的な分析ができるとは限りません。そこで他の人に見てもらってコメントをしてもらうことが必要になります。身近に授業研究会があれば、そのメンバーに見ていただくのがよいでしょう。あるいは、同じ学校の同僚に見てもらうのでもよいかもしれません。同僚や仲間とのそのような研修機会は、教師にとって非常に貴重なものです。そういう機会の全くない人は、現代では時代遅れの教師になりかねません。

また授業分析を正しく行うには、いろいろな形態の授業を参観し、可能ならばそれらの授業分析に参加し、授業というものの本質をよく見極めることが必須です。それには地域の研究会や各種の授業研究団体などに積極的に参加し、さまざまな授業を見て経験を積むことが大切です(注3)。そうすることによって、それまで自分では気づかなかった授業のさまざまな面に気づくようになります。これは非常に大切なことです。さらに自分自身の授業を公開し、多くの教師たちに見てもらい、忌憚のないコメントを頂戴することになれば、あなたの「授業力」はさらに鍛えられることになるでしょう。

(注1)筆者の手許に、「教員の質向上 現場踏まえて」と題する、10年前の新聞投書欄の切り抜きがあります。筆者はそのときこれを読んで、心から賛同したことを思い出します。少々スペースを取りますが全文を再録します(文中の / は段落の区切りを示す)。

「中央教育審議会が打ち出した教員免許の更新制に、小学校長を経験した私としては疑問を感じざるをえない。/ まず、10年ごとに30時間以上の講習を義務づけるとのことだが、教員を一堂に集めて講義をするような講習で、どれほどの実効があがるか。学校現場は学習時間と人手の不足に悩み続けている。講習の間、子どもに自習を強いる事態も私は危惧する。/ 適格性や専門性を、誰が、どんな場面で、何を基準に評価するのか。的確に評価できる自信のある者がどれほどいるか。評価者によって判断にひずみがあってはなるまい。/ 資質向上のためにいくつかの提案をしたい。第一に、教員養成大学の履修内容を抜本的に改善し、例えば書写書道などの基礎技術や学習指導の実力を十分身につけさせること。第二に、採用初期に1年間程度のインターン制度を導入してはどうか。第三は学校で生の授業を公開し、生きた研修を充実させることだ。/ 更新制度の安易な導入に走るのではなく、資質向上のために有効な手立てを、長期的な視点に立ち、現場の実情を踏まえて、検討、充実させることが必要ではないか。」(2006年6月7日朝日新聞投書欄:投稿者は岡山市に住む71歳の元小学校長)

(注2)授業分析について具体的に解説してある参考書として、高梨庸雄編著『英語の「授業力」を高めるために 授業分析からの提言』(三省堂 2005年)があります。ただ本書を読み進むには、かなりの授業経験を持っている人でないと、ついていけないかもしれません。しかし本気で自分の授業を改善したいと考えている教師には、大いに参考になるはずです。

(注3)筆者が関係している一般財団法人語学教育研究所(語研)で毎月発行している『語研便り』(2016年3月号)が先ほど配信されてきました。そこに中高一貫校に勤務している教歴5年の研究員の文章が掲載されていて、現場教師の体験を生なましく伝えています。その一部を紹介します。

「教育現場で働き、英語教育についていろいろな意見を聞くようになりました。同僚、保護者、生徒、家族、そして海外の教員… 。人により話しの切り口が異なるので学ぶことは多いです。ですが、いろいろな意見を総合すると行き着くのは、「知的好奇心がくすぐられる」授業がベストであるということです。そのために Lesson ごとに何を目的にしようか、どういうオーラル・イントロダクションの組み立てにしようか、本文のどこを Reading Questions にしようか、Explanations ではどこまで説明しようか、どこで辞書を引いてもらおうか、どのように音読練習をしようか…。考えることは多く、日々の業務をこなしながら行なうことは容易ではありません。しかし、生徒が目を輝かせて真剣に授業に取り組む姿を想像しながら授業を考える時間ほど、教員にとって、幸せな時間はないのではと感じる今日この頃です。」(当研究所研究員:杉内光成)

’< 統計数字の裏に見えるもの ⑤ 子供の貧困率 >

 調査とか統計の数字は、前提条件に問題があるものも多いから、そのまま信じるわけにはいかないが、社会の動きを知る上で欠かせないものの一つではある。今回は「子供の貧困率」をとり上げる。

⑤ 子供の貧困率

1.日本の子供の相対的貧困率 : 16.3%  1人親世帯の子供の貧困率 54.6% 
                 (2012年厚生労働省国民生活基礎調査)
2.子供の相対的貧困率の国際比較 : OECD35か国の中で9番目に高い。一人あたりのGDP
                   が多い先進20か国の中ではアメリカ、スペイン、イタリア
                   に次いで4番目に高い。1人親世帯の子供の貧困率はOEC
                   D加盟国中最も高い。(2012年 UNICEF調査)

* 子供の相対的貧困率とは、平均所得の半分に満たない世帯で暮らす18歳未満の子供の割合。
  OECD35か国には貧困の子供が3400万人いるが、そのうち305万人が日本の子供であり、
  先進国の貧困の子供の11人に1人は日本の子供。

 私達のまわりにいる子供達の6人に1人が貧困にあえいでいる。私にはなかなか実感がわかない。団地のプレイロットや買い物の途中で見かける子供達は、皆それぞれに私達が子供の頃とは比べ物にならないほど、カラフルで体に合った衣服を身につけ、昔は高根の花だった子供用の自転車などを乗り回して友達と元気に遊んでいたり、親と連れ立って嬉しそうに歩いているからだ。時々TVに映し出されるUNICEFの募金広告の中のアフリカの飢えた子供達の姿とはまるで違う。

 私がそのように感じるのは、ひとつには、相対的貧困率と絶対的貧困率*という尺度の違いによるものだろう。もうひとつは、家庭の貧困は外からは見えにくいからだと思われる。* 前回ブログ参照

 街で見かける子供達の様子から、孫のいない私は、子供達が総じて経済的にはめぐまれていると感じていたのだが、それは錯覚だった。内閣府の調査によると、経済的理由で就学困難と認められ、就学援助を受けている小・中学生は155万人もおり、しかも就学援助率は毎年上昇して2012年には15.64%、つまり6人に1人と過去最高を記録しているのである。

 私が迂闊だったと気付かされたのは、3年ほど前にNHKの「チャイルド・プア-急増―苦しむ子供たち」という番組を見た時のことだった。”給食が一日の中で唯一のきちんとした食事“であるという報道にショックを受けた。給食のない夏休みや冬休み中はどうしているのだろうか。だが、迂闊にも子供達の悲惨な現実を見逃しているのは私だけではないようだ。この番組を制作したディレクターは「子供の貧困は、見ようとしないと見えない」「子どもの人権や個人情報の保護を理由に、大人たちが実態を隠している」と次のように語っている。「うちの地区には子供の貧困なんてありません」と言う民生委員や「うちの学校には貧困で困る家庭はありません」と言い切る校長もいた。
* 民生委員は児童福祉法による児童委員を兼ねており、守秘義務を負う。

 確かに、個人情報の守秘義務や、貧困家庭の子供達へのいじめの可能性を考えると、直接貧困の子供達や彼らの家庭に接している人達のご苦労は理解できる。しかし、現実が社会に伝わらなければ、改善の道は開けない。報道されないことは存在しないことになってしまう恐れさえある。その責任は、報道しない側だけでなく、事実を隠そうとする側にもある。2013年に成立した「子供の貧困対策法」によって設立された「子供の未来基金」への寄付金はさっぱり集まらないらしい。

 子供の貧困率は、子供の年齢よりも、父親の年齢に関係が深いという。子供の貧困率を父親の年齢別にみると、20歳代が最も多く、50歳代後半にかけて減少していき、50歳代の後半に再び上昇する。これは、労働市場における男性の状況を反映しているのである。非正規雇用者を父親に持つ子供の貧困率は30%を超えている。したがって、非正規雇用者が家計を支えている母子家庭では状況はさらに深刻になる。(阿部彩:貧困統計HP)母子家庭124万世帯の平均年収は181万円だから、安いものでも2万5千円はするランドセルを買うのは困難だろう。政府か自治体が、低所得の家庭の一年生にランドセルを贈るくらいのことができないのだろうか。
 
 このような現実を生む最大の原因は、前回述べた著しい経済格差と「保育園落ちた日本死ね!!!!」というツイッターが政権を直撃した事例にみられるように、子育てや教育についての政策の貧困である。日本の子供の貧困率は、経済格差が小さく、子育て支援策が整のっているデンマークの4倍、ノルウェーの3倍にも達しているのである。経済規模の違いだけでは説明がつかない。

 子供の貧困は現在の社会的不公正の象徴であるばかりでなく、将来世代への貧困の連鎖を生む。貧困の連鎖を断ち切るには、なによりも貧困による教育格差を解消しなければならない。生涯所得と受けた教育のレベルはほぼ比例するからである。それは社会の仕組みから生ずるものであって、自己責任論や親の責任論、根性論などで解消されるような問題ではない。参加を望む全員に機会が与えられ、選抜には差別を持ち込まないという民主主義社会における機会均等の原則に著しく反している。
  
高等師範学校の学生だった頃、文部省の地下のゴミ捨て場で、再生紙にする紙類の仕分けをするアルバイトをしていた。真っ暗な地下室で懐中電灯を頼りにゴミの仕分け作業をするので、汚れるから上半身はランニングシャツか裸である。ある日、作業を終わって水道で体を拭いていると、一緒に働いていた国語科の同期生がやってきて、埃だらけの顔で突然「なあ、こんなことまでして、何で学校にしがみついていなければならないのか」と問いかけてきた。それは私の頭にもずっとはりついてきた疑問だった。私はとっさに「俺は、次の世代がこんなことをしなくて済むような社会をつくるための人間を育てようと思って教師になる」と答えたが、返事はなかった。彼は次から来なくなった。空々しく偉そうなことを言った私は6年余りで教師をやめた。それから50年余り経って「卒業50周年全科合同同期会」が開かれた際、私は彼の姿を探したが見当たらず、国語科の連中に訊ねてみたが消息を知る者はいなかった。50年経っても多くの若者が学費の負担に苦しみ、ブラックバイトをしなければならない現実、経済的困難の故に十分な教育を受けられない子供達が大勢いることを彼はどう考えているのか聞きたかった。

 “すべて国民は、能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する”という憲法の規定が空しくひびき、「一億総活躍社会じゃねーのかよ?カネ無いから大学行けねーじゃないか!」という底辺の子供達のこころの叫び声が、65年前に同じ苦しみを味わった私には、聞こえてくるような気がするのである。(M)

* 次回の<統計数字の裏に見えるもの ⑥ 進学率>は4月30日(土) に投稿する予定です。

教師が授業で英語を使って生徒とインタラクション(interaction やりとり)を行うためには、訓練された特別な英語運用力が必要です。それは英語の母語話者と普通に対話や会話をする能力・技能とは異なります。分かりやすい英語を使って、話すことに慣れていない生徒を対話に導き、同時に、正しい言語形式にも気づかせるという、真に教育的な目的を持った対話技能です。教師がこれを身につけるためには、基本的なスピーキング能力に加えて、生徒との対話をどのように進めるかについての基本的な知識と実践経験が必要です。したがって、英語教師に求められる英語力は、英検あるいはTOEFL、TOEICの点数で測れるものではありません。

もちろん、すべての英語教師はある程度の英語力を必要とします。英語がまったく使えない人が、学校で英語を教えることは考えられません(注1)。しかし先に述べたように、教師の英語力と言っても、それは普通の人の言う英語力とは違うものです。もし普通に言われる英語力が教師の英語力と同じものならば、英語力を持っている人は誰でも英語の教師になれるはずです。極端に言えば、最良の英語教師は英語のネイティブ・スピーカーだということになります。しかし普通のネイティブ・スピーカーが日本人に英語を教えてもうまくいきません。たとい英語を教えることに興味のあるネイティブ・スピーカーであっても、日本人に教えるための特別な学びと実地訓練を経験しなければ、独りでは教えられないのです。

文科省は本年2月27日、大学の教職課程で身につけるべき能力や、そのための授業内容などの指針となるコアカリキュラム案を公表しました(注2)。それによると、特に中学校と高校の教員には、英検準1級程度の英語力を持たせることをめざすと言います。筆者はそれを知って、教師に求められる英語力がそんなものでよいのかどうか、大いに疑問を感じました。英検準1級(またはTOEFL 550、TOEIC 730)が英語教員の英語力に直接関連があるとは思えないからです。教師はそういうテストを目標にするよりも、英語を使って生徒と活発なインタラクションやディスカッションをする授業経験のほうがはるかに重要です。

では、授業で生徒と活発なインタラクションを行うためには、教師は何をしたらよいでしょうか。それにはまず、自分自身の授業を客観的に眺めてみることが必要です。自分の授業をビデオに撮って分析するのです。そうすれば、自分が生徒と行ったインタラクションを客観的に観察し、評価することが可能になります(注3)。ただし授業中の教師と生徒の行動を評価するためには、いくつかの評価観点を設定する必要があります。特に大切なことを以下にまとめます。

第一に、授業における教師と生徒のインタラクションは、学校の教室という人工的な状況で行われる対話であることを認識することが重要です。それは日常会話がなされる状況とは違います。教師が指導し生徒がそれに応じるという特殊なシチュエーションです。実際には、教師が質問し生徒が教師に応答する、あるいは、生徒が質問し教師がそれに応答するという形のやりとりが主な活動になります。そういう状況の中で、教師は常に生徒の発言を励ますように気を配らなくてはなりません。生徒がうまく反応できないときには即座に助け船を出し、うまくできたときには短い言葉( “Good!” など)、またはちょっとした表情や仕草で、そのことを当該生徒に伝えることが必要です。

第二に、教室での授業という状況から、教師がそこで用いる言語はややフォーマルなものにならざるを得ません。もしネイティブ・スピーカーがそこにいて聞いていたら、教師の英語には不自然なものがあると指摘するかもしれません。しかしそのようなことは気にしてはなりません。クラスは英語を外国語として学ぶ日本人のものですから、ネイティブ・スピーカーの英語を目標にする必要はないのです。多少不自然な英語であっても、それが世界で広く通用する英語であればよいと考えるべきです。

もう一つ大事なのは、インタラクションを行っているときには、生徒の誤りをやたらに訂正しないことです。指導している教師は日本人ですから、教師自身もしばしば誤りをおかします。もし生徒が語彙や文法の誤りのために意味不明な発言をしたときには、教師はその意味を確認し、それを正しい形に言い直してあげるとよいでしょう。そうすれば生徒は傷つかず、自分の誤りに気づくチャンスが与えられます。とにかくインタラクションをスムーズに進行させるためには、少々の言語的な誤りには目をつむり、内容を伝えることに意識を集中できるようにすることが大切です。英語教師はこのような難しい仕事に従事しているのですから、英検やTOEFLなどのテストを気にするよりも、授業において英語を思うように使うことのできる英語力を磨くことに専念すべきなのです。

(注1)残念ながら(と言うよりも恐ろしいことに)、現在の小学校では、英語をほとんど使えない、また使った経験のない教師も、「外国語活動」の授業で英語を教えることがきるのです! 前回(2008年3月)文部科学大臣の名で告示された『小学校学習指導要領』の「外国語活動」には、授業の担当に関して次のような記述があります。

「指導計画の作成や授業の実施については、学級担任の教師又は外国語活動を担当する教師が行うこととし、授業の実施に当たっては、ネイティブ・スピーカーの活用に努めるとともに、地域の実態に応じて、外国語に堪能な人々の協力を得るなど、指導体制を充実すること。」

上の規定により、適当な英語指導の専門家を得られない多くの小学校は、やむを得ず学級担任に「外国語活動」を担当させています。適切な教員養成を怠って小学校での英語教育を無理やり推進しようとする文科省のやり方には、開いた口が塞がりません。

(注2)2014年度の文科省調査によると、英検準1級程度以上の現職教員は公立中学校で28.8%、公立高校で55.4%でした。これは2017年度に中学校で50%、高校で75%にするという国の目標を大きく下回っていたとのこと。そこで文科省は、これまで手を付けていなかった大学教職課程の改善に乗り出し、2018年度にも大学教職課程全体を見直したい考えで、再認定の際には、大学が文科省作成の「コアカリキュラム」に沿った教育課程編成をしているかどうかを審査することになります。なお今回公表されたコアカリキュラム案には、「英語を使った討論や論述のほか、英語で生徒とやりとりする模擬授業などを経験させること」も想定されているようです。(朝日新聞記事「英語教員に英語力を」による)

(注3)授業中の教師と生徒のやり取りを記録し分析することを “interaction analysis” または「授業分析」と呼び、1970年頃から盛んに行われるようになりました。筆者もかつてそのような研究を本にまとめたことがあり、その方法論は現在も通用すると考えています(土屋澄男著『英語教育ノウハウ講座2 教え方の評価』開隆堂1983)。なお授業分析は担当者一人で行うよりも、学校の同僚や研究会のメンバーなどと議論しながら行うと、客観性がいっそう高まります。

1単位時間(通常45~50分)の英語の授業プロセスを分析すると、大きく3つの活動に分けられます。①教師による説明・発問・指示など、②教師と生徒のインタラクション(interaction)、③生徒による個人作業またはグループ活動、の3つです。つまり、英語の授業はこれら3種類の活動の組み合わせで構成されるということです。中学・高校の授業でも、時には大学の講義のように、①の教師による説明が中心の授業もあります。昔の英語の授業ではこれが普通でした。しかし現在では違っています。英語の授業は基本的に演習(practice)が中心ですから、教師の説明や指示のほかに、教師と生徒との問答や、生徒どうしの活動が取り入れられるのが普通です。研究授業などで行われる最近の授業を見ると、その多くは授業時間の半分以上を生徒の活動に当てています。普段の授業においても、授業をどのようにバランスよく組み立てるかは、教師に取って常に検討を要する重要な課題です。

一般に、教師は説明をすることを好みます。熱心な教師ほどそうです。そもそも人は自分だけが知っていること、あるいは調べて知ったことを他の人に話すことを好みます。それは授業をする教師にとっても大きな喜びです。教師が知識の源泉であった時代には、生徒は知識を求めて集まって来る人たちでした。今日でも教師になる人は、かつてのそういう状況に憧れて志願する人が多いのではないでしょうか。しかし教師が話したいことを話し出したらきりがありません。英語の授業ですから聞かせる目的で英語を話すことは必要ですが、それ以外はなるべく少しの説明と指示だけに留めるべきです。教師がしゃべり過ぎると生徒たちの活動の時間が無くなりますし、そもそも教師の話す事柄が、生徒に取って必要な情報であるとは限らないからです。

よくあることですが、クラスの一部の生徒は、教師が話す前にその知識をすでにどこからか得てしまっています。そういう生徒は聞いてうなずいてくれるでしょうが、新しい知識を得たわけではありません。逆に教師の説明を受け入れる準備が全くできていない生徒もいます。彼らは聞いても分からないのですから、せっかくの教師の懇切な説明も時間の無駄になってしまいます。この種の生徒は、教師が推測するよりも、実際にはずっと多いのではないでしょうか。自分の説明がどれだけの生徒に役立っているか、教師は時々チェックしてみるべきです。説明が役に立ったという生徒は案外に少ないのではないでしょうか。

もし自分の説明が生徒にあまり役立っていないと分かったら、それに多くの時間を費やすのは賢明ではありません。筆者の経験では、説明は大部分の生徒がだいたい理解していると思われる事柄について、一言念押しをするという感じがよいと思います。教師が説明したいと思う言語事実や言語規則に関するさまざまな知識は、生徒にとっては、教師の説明を聞いて理解するよりも、自分自身が学びの中で(殊に言語使用経験の中で)気づくことが重要なのです。人が獲得する知識はすべて、意識的・無意識的な気づきから始まるものであり、気づきなしには知識に発展することはないのです。教師のすべきことは、生徒が必要な知識に気づくようにするにはどうしたらよいかを考えることです。たとえば、英語の3単現の規則はどのようにして気づかせたらよいでしょうか。どうして生徒はいつまでもこの規則に習熟しないのでしょうか。これはすべての英語教師が真剣に取り組むべき課題です。

前回の高校学習指導要領の改訂で、「英語の授業は英語で行うことを基本とする」と書かれたことから、英語を話すことの得意な先生は、授業でなるべく多くの英語を聴かせたらよいでしょう。教師がテキストの内容を易しい英語で説明するオーラル・イントロダクションは、かつてパーマー(H. E. Palmer)が推奨したものです。それが生徒のモデルになるような良質の英語ならば、そして生徒が聞いてよく理解できる英語であれば、生徒は良質のインプットをふんだんに浴びせられるという、願ってもない恩恵に浴する可能性があります。英語の先生がネイティブスピーカーであれば、そういう授業をしてもらうのが生徒にとっていちばん幸せでしょう。

しかし英語は、授業の中で教師の話を一方的に聞いているだけでは使えるようにはなりません。クラッシェン(Stephen D. Krashen)は「人間は理解可能なインプットを受け取ることによってのみ言語を獲得する」と言いましたが、日本の学校のように週に3時間か4時間の授業ではそれは無理です。数年するとなんとか読めるようになる人はいますが、話したり書いたりできるようになる人は少ないのです。英語を日常的に使用する環境にない日本では、英語を実際に使用する機会が乏しいからです。そこで学校の授業では、生徒が英語を使って活動する機会をできるだけ拡大することが必要になります。そういうわけで、特に年間計画を作成する際には、インプットとアウトプットのバランスに注意することが大切になります。

バランスと言っても、それを一般的に記述することは困難です。すべての授業がインプットとアウトプットが半々になるようにするのが好ましいと言う人もいますが、それを実行するのは困難です。公開授業のように、見学者に好ましい授業のモデルを提示するのが目的であるような場合には、一時間の授業の中での活動のバランスを考える必要があるでしょう。しかし普段の授業に関しては、学期または学年の計画の中でそのバランスが考慮されていればよいのではないでしょうか。扱う教材によって、この単元はインプットを中心にした授業とし、次の単現でアウトプット中心の授業を組み立てるというようなことが可能だからです。そうして各学期と学年の終りに、インプットとアウトプットの配分が適切になされたかどかを評価するわけです。この評価は次の学期や学年の計画を立てる際に重要な資料となります。優れた教師とは、そのような自己評価を含む実践を行って、絶えず自分の授業を改善していく人のことです。

最後に、授業の構成に関して特に注目したい活動があります。それは先に述べた3つの授業活動の中の②(生徒と教師のインタラクション)です。この活動はインプットとアウトプットという2分法では見落とされがちですが、非常に重要です。よく見る授業風景に、教師が説明してすぐに生徒どうしの活動に入るというのがありますが、これは感心しません。なぜなら、往々にして教師の説明・指示と生徒の理解の間にギャップが存在し、生徒は何をしたらよいのか分からなくて活動がうまく始動しないのです。こうしたギャップは、教師の説明の後に「教師と生徒のインタラクション」を英語で行うことによって解決できます。授業中に教師と個々の生徒との間でなされるインタラクションは、当該生徒にとって言語使用の願ってもない良いチャンスとなります。それだけではなく、うまくいくと、それが他の生徒たちに強烈なインパクトを与えることがあります。さらに、もしその対話がクラスの全生徒を巻き込むような緊張したインタラクションに発展するならば、それ自体がインプットとアウトプットの両面を含むアクティブなコミュニケーション活動となる可能性があります。