Archive for 9月, 2010

外国語学習に成功するためには、私たちは自分の持っているすべての認知力を動員する必要があると、前回の「メタ認知について」の冒頭で書きました。それは「言うに易く行なうは難し」だと思われた方も多いでしょう。その通りです。たといメタ認知的能力や技能の重要性が理解できたとしても、実際の学習場面で使えなければ何にもなりません。そこで、認知力をフルに利用するためにはもう一つ重要なものがあります。それは学習者の内側からほとばしり出る「情熱」(パッション)です。従来これは「動機づけ」という言葉を使って議論されてきました。そこでは「統合的動機づけvs. 道具的動機づけ」や「内発的動機づけvs. 外発的動機づけ」などの用語が飛び交いました。もちろん、そういう議論から動機づけのさまざまな面が明らかになりました。しかし私は、そこには何か本質的な議論が抜け落ちているように感じていました。つまり、動機づけを認知力とは別の領域の情緒や情意の問題にしてしまう違和感です。ですから、動機づけは常に認知の脇役の地位しか与えられていないのでした。しかし最近になって、動機づけの中心は認知を支える根源的エネルギーの問題であることに私は気づきました。それは人の認知活動の底にうごめく情熱であって、それがマグマのように脳の奥底から表面に吹き出して認知を動かすものであることが分かったのです。それが爆発するとき、人は行動を起こすのであり、それによって自分の持っている知的な、また意志的な力を発揮できるのです。画家の岡本太郎は生前「芸術は爆発だ!」と叫んでいましたが、言語習得も爆発だと私は思います。子どもの言語習得を見るといつもそう思います。私たちの心の奥底には、芸術的爆発の基盤となるマグマがあるように、言語的爆発の基盤となるマグマも存在するのです。それはおそらく、人類の祖先たちの何十万年・何百万年にわたる言語創出の努力にエネルギーを供給し続けてきたものなのでしょう。

 ところで「情熱」は英語では ‘passion’ ですが、これはおもしろい語です。ヨーロッパ中世にラテン語からフランス語を経て英語に入ってきた語のようですが、そもそもは「(十字架上の)キリストの受難」を意味しました。今でもキリスト教では ‘the Passion’ と書いてそのことを表します。そう言えば2年くらい前に、キリストの受難をリアルに描いた「パッション」という映画がありましたね。この語が中世において、「苦難」「苦しみ」の意味を経て「感情」「熱情」「恋情」「激情」などとしだいに語義を広めていったのです。中世のキリスト教ヨーロッパにあっては、この世に生きていくことは反自然的な苦しみに満ちた営みであったに違いありません。ですから、燃えたぎる ‘passion’ という語の奥深くには、現在でも「キリストの受難」の苦しみが鳴り響いていると考えてよいでしょう。

 さて、これまで外国語の達人と言われる日本人の伝記を読むと、その人たちは外国語学習への特別な情熱と才能を持っていたように思われます。いま私の手許に『英語達人列伝』(斎藤兆史著、中公新書)という本がありますが、これには新渡戸稲造、岡倉天心、斎藤秀三郎など10人の伝説的人物の英語修行が取り上げられていて、読み物としておもしろいものになっています。一読して感じることは、この人たちの英語学習への並々ならぬ情熱と、すぐれた語学の才能です。後者はさておいて、どうして彼らはそのような爆発的な情熱を持ち続けることができたのでしょうか。第1に時代の要請ということがあったでしょう。これらの人々は明治維新から第2次世界大戦までの激動の時代に生きた人々でした。(急いで付け足しますが、21世紀初頭の今も激動の時代です!)第2に、これがより重要なことですが、これらの人々は自分のなすべきことを知っており、はっきりとした理想的な自己像を心に描いていたと思われることです。たとえば新渡戸稲造は、19歳で札幌農学校を卒業しいったん開拓使御用掛の職に就いたのでしたが、英文学を修めるために東京大学文学部への進学を決意します。その面接試験で、試験官から英文学を学ぶ理由を尋ねられたとき、彼はかの有名な「太平洋のかけ橋になりたい」という言葉を吐いたといいます。そして新渡戸は、そのことに自分の全生涯をかけることになったのです。成功するためには、もちろん努力だけではなく才能も必要でしょう。だれもが新渡戸稲造のようになれるわけではありません。しかし、欧米人にとって習得が難しいと言われる日本語を母語として獲得した私たちが、もう一つの言語を自分の必要とする程度に使えるようになることは、特別な才能のない人にも充分に可能なのではないでしょうか。そのためにまず必要なことは、自分の心の奥底にねむる情熱の火に油を注ぐことです。

「メタ認知」について

Author: 土屋澄男

私たちが外国語である英語を学ぶときには、自分の中に持っている認知力(知的能力)を総動員して取り組む必要があります。英語に限らず世界の自然言語はどれも構造が複雑で、それが表す意味の世界は広大です。しかもそれは異文化の世界です。片手間にやってモノにできるような簡単なものではありません。週に3時間か4時間、学校の授業に出ていれば身につくようなものでもありません。それでも、日本人で英語や他の外国語の習得に成功した人はそれほど珍しくはありません。また少数ですが、複数の言語の習得に成功した人もいます。ではそれらの成功者に共通して見られる特徴は何でしょうか。私のこれまでの研究で得た結論では、そういう人は第1に自分の持っている認知力を最大限に活用することのできた人、第2に自己動機づけを巧みに操作することのできた人です。ほかにもありますが、外国語学習の成功の秘訣はこの2点にしぼられると私は考えています。今回は第1の問題、次回に第2の問題を取り上げます。

 第1の問題はメタ認知の問題です。メタ認知とは、自分の学習のあらゆる面でなされている認知的プロセスを内省し、意識化し、学習の改善をはかることです。もう少し具体的に述べないと分かりにくいかもしれません。「レコーディング・ダイエット」というのをご存じでしょうか。筆者自身はダイエットの必要を感じたことがないので実行したことがないのですが、テレビの健康番組でそういうダイエット法があることを知りました。それによると、毎日の食事で食べたものを記録するのです。その記録の仕方にはいろいろあるようですが、要するに食べたものを記録し、次にどのくらい食べるかを考えることで無理なく減量していくというのです。この減量法が実際にどれくらい有効かについて筆者は正確に評価することはできませんが、おそらく相当な効果があると思われます。なぜなら、メタ認知の理論から充分に説明がつくからです。つまり、自分の食べたものを記録することで、自然に自分の食事について内省的に考えることになります。自分の体重を気にしている人は、「今日の焼き肉はおいしかったけれど、ちょっと食べすぎたかな」と反省するでしょう。そして「今度はもっと量を減らさないといけない」などと考えるでしょう。毎日きちんと記録するという根性を持っているほどの人ならば、成功する確率は高いと思われます。NHKの「ためしてがってん」では「測るだけダイエット」というのをやっていました。こちらは毎日朝夕2回体重を測るだけで減量できるというのでした。これもメタ認知的内省をすることのできる人には効果があると思われますが、レコーディング・ダイエットほどの効果は期待できないのではないかと思います。

 これでかなりお分かりいただけたかと思いますが、メタ認知とは、要するに、自分のしていることを意識に上らせて内省し、自分の目標にてらしてそれを評価し、どのようにしたらその目標に近づけるかを考えることなのです。外国語の学習を上手に進めている人はそういうことをちゃんとやっている人です。そしてこのような能力は誰もが潜在的に持っていると考えられています。第2言語や外国語の学習に成功する人の特質として、多くの研究者は一致して次の4つのメタ認知の能力と技能を挙げています。

1)自らの明確な学習目標を持ち、その目標を達成するために必要かつ有効なステップを組み立てることができる。

2)それぞれの学習場面で適切な学習方略(ストラテジー)を選択し、それらを有機的に組み合わせて用いることができる。

3)学習の過程で、自分が何を理解し何を理解していないか、また何ができて何ができないかを正しくモニターし、学習を調整することができる。

4)自分自身の学習結果を正しく評価し、それをフィードバックして次の学習に活かすことができる。

これらはどれも「学び方」の解説書の1章を占める重要なトピックですが、それはまたの機会にして、次回は「動機づけ」の話を取り上げます。(土屋澄男)

< 犬の話 >                松山 薫

私が高等師範学校を卒業して初めて赴任した新潟県の栃尾(当時は町、その後市になり、今は長岡市に合併)は、雪深い盆地である。大雪の年には、道路は屋根から下ろした雪が3メートルも積みあがり、2階の窓まで達する。人は軒先から1間ほど張り出した雁木の下を通行するが、時々上のほうから橇を引く馬の鈴の音が聞こえたりする。なれない者にとっては雪道を歩くのは難行苦行である。とくに吹きさらしの橋の上などは雪が土地の言葉で“ぎょろんぎょろん”に凍りつき、滑ったら川へまっさかさまということになるから、橋の上を歩く時は欄干につかまりながら、横歩きというみっともない姿を朝夕登・下校の生徒達にさらすことになる。私は学校から2キロほど離れた家の2階を借りて下宿していたが、夏場は20分ほどで学校に着くのに雪が降ると30分以上かかる。それで、得意の日曜大工の腕を生かして自分で馬橇を作ろうと思い立ち、農業科の先生に相談してみると「君の月給では飼葉代も出ないよ」と言われてあきらめた。で、次に犬橇を考えた。犬なら寮の生徒の残飯で飼えるだろうと寮母さんにお願いしてみると、「いいよ」ということだったので、近所の材木屋さんで木材を運搬している大きな犬のこどもを菓子折りひとつで貰い受けた。下宿の庭に犬小屋を作り、Echo (山彦,つまり呼べば答える)と名づけて飼っているうちに、だんだんなついて可愛くなってきた。夏を越すとかなり大きくなり、これなら大丈夫だろうと一人乗りの橇を作って、雪の降るのを待った。雪が30センチほど積もったので訓練を始めようと、Echoに橇をつけたが、ぜんぜん真っ直ぐ走らない。あらぬ方向へ走ったり、ぐるぐる廻るかと思うと突然止まるので、その度に、私は橇から放り出される始末となった。その時ふといつか見た漫画を思い出し、次の日は肉を買ってきて,竹竿の先につるし、「前進!」と叫んで犬の尻をひっぱたいたが、今度は肉をめがけて猛烈な勢いで飛び上がるだけで、私は後ろにたたきつけられた。それでまた、農業科の先生に聞くと「橇を曳かせるには厳しい訓練が必要で、君の月給では破産するよ」と忠告された。それで仕方なく犬小屋につないでおいたところ、近所の人に、鳴いて暴れて困ると苦情を言われ、昼間は学校へ連れて行って馬小屋につないでおいた。だんだん大きくなってきて顔つきも獰猛になり、放課後に放すと生徒を追い掛け回し、とうとう女生徒のスカートをかみちぎり、謝りにいった。一旦放したら、呼べど応えず、振り向きもせず、どこかへ行ってしまい、下宿へ帰ると犬小屋で寝ていた。農業科の先生に相談すると、「繋ぎ放しでは犬もいらいらして可哀想だから、時々散歩に連れて行きなさい」と言われたが、時間がないまま、(そのくせ夜は酒ばかり飲んでいた)放っておいたところ、ついに近所の子供の尻に噛みついてしまった。ジステンバーや狂犬病の予防注射をしていなかったので、ちょっとした騒ぎになり、校長にどやされて、Echoは役場に引き取られることになってしまった。いわゆる”殺処分”である。下宿に引き取りに来た係員達に犬小屋から引きずり出され、リヤカーに縛り付けられて、いつも通う川沿いの道を学校の方へ牽かれていった。遠ざかっていく姿と長く尾を引く鳴き声は、目と耳にこびりつき、60年近く経った今も消えることはない。
 昨年の春、私の住む団地の管理組合の理事会が、長年の懸案であるペット飼育について、「一年以内に飼い主に処分してもらう」という決定をして、総会でも激論の末承認された。多くに住民が、これで来年からこの団地には犬がいなくなると喜ぶ一方、飼い主たちは猛反撥して、団地内に不穏な空気が流れた。輪番で次の理事に選ばれた私は、直ちに、自ら、ペット問題を担当することを申し出た。他の理事さん達はホッとすると同時に、なんて奇特な人だろうと思ったという。“犬奉行”と呼ばれながら、あの手この手で一年間両派の人達を説得し、最後に全組合員に向けて長文の報告書を書いた。「Echoよ。お前の仲間は絶対に殺させないぞ」という思いが伝わったのだろうか、5月の総会では、全会一致で、前年度理事会の決定を撤回してもらうことが出来た。(M)

タレント司会者(続き)
(1)(その3)の続きで、「タレント司会者」のことを書きます。「タレント司会者を挙げるなら、みの・もんたは、抜かせないでしょう」とある人から言われましたが、私が好きな司会者ではありませんから取り上げませんでした。彼は2年前まで、20年間の長寿番組だった「思いッきりテレビ!」(日本テレビ系)の司会者として、食品などの選び方から、摂取する方法や時間などを事細かに宣伝していました。

(2)スタジオにいるご婦人方を「お嬢さん」と呼んでくすぐり、評判を上げ、この番組で取り上げられた一部の食品は、その日の夕方には売り切れになるほどでした。しかし、批判もありました。栄養価や食べる時間などは科学的な根拠がない、というわけです。インターネットには金銭にまつわる悪口も書かれています。とにかく、あく(悪?)の強い司会で、なんでも自分の手柄のように自慢するので、私は好きになれません。

(3)長寿番組の司会者では、黒柳徹子を挙げたいと思います。「徹子の部屋」(テレビ朝日系、1976~)はまだ続いていますが、彼女は気を遣う人で、若手の芸人でもバカにしたりせずに、よくその言い分を聞いているように思います。ただし、「笑っていいとも」に出演した時は、番組終了時間までしゃべり続けたという武勇伝があります。9月22日は、ゲストが江守徹でしたが、馴れ馴れしい口のきき方でした。それもそのはず、江守徹とは同年輩で、文学座の研修生として同期だったとのことです。

(4)黒柳徹子といえば、わが田崎清忠さんが、テレビ英会話の講師として共演されたことがあり、確かニューヨーク案内の場面でした。日本のスタジオで撮影したものと、実際のニューヨークのフィルムをうまく合成していたと思います。「黒柳さんは画面に映らないところで、しきりに周囲に手で合図を送っていた」と後で田崎さんから聞いたことがあります。

(5)「めざましテレビ」(フジテレビ系)も17年目を迎える朝の長寿番組で、NHK から来た大塚範一アナウンサーが中心になって進行しています。大塚アナウンサーも画面から受ける印象ではとても優しい感じで、気を遣っているように見えます。しかし、某週刊誌によると、実際は若いアシスタントやタレントなどを怒鳴りつけることがあるようで、「人は見かけによらない」が当てはまるようです。私たちは、周囲の友人や知人のすべてを知ることは不可能で、ましてやテレビ画面で見る人物の実態を知ることはとても困難です。視聴者は、そういう限られた情報にしか接していないということを自覚しておく必要があるでしょう。

(6)現在は不景気だと言われながら、海外の俳優や歌手が来日すると、成田空港には何千人ものファンが詰めかけて、その状況をテレビが繰り返し放映するなどとても尋常とは思えません。他の人たちがするようにしたい、という日本人の付和雷同性は偏った世論を形成してしまうでしょう。注意したいものです。(この回終り)

< 英語との付き合い >             松山 薫

② 小学校時代 (2)
小学校は、同盟国ドイツのヒトラーのまねをして、国民学校と改称され、子供達は、ヒトラーユーゲントにならって「小国民」と呼ばれました。小国民は、清く、正しく、美しく生きねばならないということから、国民学校で一番重要な科目は、「修身」でした。5,6年生になると「修身」は校長自ら教えるところが多かったようです。修身の教科書には美談が並べられ、最後のところに徳目が書かれています。例えば「孝は親を安んずるより大いなるはなし」とか「虎穴に入らずんば虎子をえず」とかいったものです。これを「孝は親を安んずるより大なる話」「とらあなにはいらずんばとらこをえず」と読んで、先生にひっぱたかれた子もいます。話のほうは忘れても、調子のよい徳目のほうは今でもよく憶えています。それが、軍国主義教育の洗脳に役立ったのは間違いなく、言葉の魔力を感じます。とにかく、言葉を覚えるには調子が大事なのではないかと思います。Silent Wayという外国語学習法を開発したアメリカの言語学者、カレブ・ガティーニョ博士は、英語の例文は、5,7,9といった奇数語の方が偶数語よりも覚えやすいことを実験によって確かめたそうですが、やはり、rhythmに関係があるものと思われます。そこで、20年ほど前、茅ヶ崎方式の最初の教本を書いた時、用例をそのようにしようとがんばりましたが、時間がかかって編集者に止められ、あきらめました。今度機会があったらもう一度トライしてみようと思っています。
 徳目の言葉も難しかったが、もっと難解なのが「教育勅語」で、ほとんど全文ちんぷんかんぷんでした。「朕惟ふに」という出だしのところだけはわかるので、なんで天皇が犬なんだなど思いながら、頭を垂れて校長の荘重にして単調な言葉が頭の上を通り過ぎていくのを辛抱強く待ち、終わると全員が一斉に洟をすすり上げる音が校庭に響きました。当時の小国民はビタミン不足で、青洟を垂れていたのです。中学に入るとこれを全文暗記しなければならないのですが、小学校で散々(たぶん百回以上)聞かされてきたので、案外楽に憶えられました。もしかしたら、これが、私の日本文の基盤になっているのかもしれません。その頃は、歌のほうも小学生には難解なものが多く、わけもわからぬまま、元気に声を張り上げていました。一番よく歌った「愛国行進曲」の一番の最後のところに「キンノウムケツユルギナキ、ワガニッポンノホコリナレ」とうい歌詞があるのですが、皆さん漢字になおせますか。私は中学に入るまで「勤王の志士にはケツがないのか」と思っていました。しかし、こうした難しい歌詞も、中学で3年間工場に動員されて漢字を学ぶ機会のなかった私達にとっては、日本語を理解する助けになっていたのではないかと思います。この歌は第二国歌扱いで、日本軍が占領した南方の島々では今でも憶えている人がいます。10年くらい前のこと、日本の委任統治領であったマーシャル諸島の年老いた女性が日本語でこの歌を歌っているのをTVでみたことがあります。たぶん意味はわからずに丸暗記して歌っているのだと思います。メロディの力なのでしょうか。
それと、言葉に関して忘れられないのは、5年生の修身の教科書に出ていた20代の頃の勝海舟(麟太郎)の話です。本屋で見たオランダの兵書を読みたくて、50両の大金を工面したが、本は既に売れていた。そこで、麟太郎は買った人を訪れ、夜間に本を写し取ることを許してもらい、持ち主が感心して本をタダで譲ってくれたという話や、60両もする日蘭辞書58巻を1年がかりで2部づつ写して1部を売って生活費にあてたという話などに感動しました。勝海舟の話は、後に中学の教科書で学んだ杉田玄白の「蘭学事始」と並んで、私にとっては、生涯を通じて忘れることの出来ない教訓になっています。徳目主義の道徳教育には賛成できませんが、今とは比較にならない劣悪な環境の中で、明確な目的(海舟は兵学、玄白らは医学)をもって、外国語に挑んだ先達の努力は、後にNHKで英語ニュースを書くようになって、英語が聴き取れなくて悩んだ際に、大きな心の支えとなりました。(M)

今回の話題は外国語学習をめぐる心理学と言語学の基本的な考え方にふれますので、ちょっと難しいと感じる方もあるかも知れません。しかし心理学や言語学の専門知識がない方にもご理解いただけるように努めます。

 私たち日本人は、英語を学ぶとき、自分の中にあるどんな力(または潜在的能力)を利用しているでしょうか。人は生まれながらにさまざまな力を与えられており、それらが成長と共に、各人に与えられた環境と相互作用しながらダイナミックに発達していくことを心理学は教えています。そして現代心理学は、言語の習得を推進するのに最も重要なものは個人の認知力であると言います。認知力というのは、要するに、人の所有する知的能力です。そこには、言語音や文字を認知したり、音の連鎖や文字列から一定のパタンを見出して規則化したり、語彙の形式と意味を関連づけて概念化し、それらを記憶し、またそれらの要素を結びつけてさまざまなネットワークを作り出したり、それらを既知の文法知識と結びつけて有意味なセンテンスを構成したりする活動が含まれます。それらの活動のほとんどは脳の中で行なわれるので外からは見えませんが、外に現れる行動から脳の中で行なわれている活動を類推することはある程度できます。また最近の脳科学は、脳中でなされている活動をさまざまな方法で観察する技術を開発しています。

 しかし認知力だけで言語習得のすべてを説明することはできません。たとえば子どもの母語の習得は認知力だけで説明は難しいと考えられています。生まれたばかりの赤ちゃんは認知力も未発達で、そんな赤ちゃんが複雑な構造を持つ言語をどうやって習得するかは、21世紀の現在も依然として謎です。心理学者の中には認知力だけで説明できると主張する人もいますが、それは少数派のようです。現代言語学は、認知力とは別に、子どもが生まれながらに言語そのものの知識を与えられていると仮定しています。それによれば、子どもは生得的に「普遍文法」(すべての人間言語に共通する構造的特性:Universal Grammar)を知っていると言います。それゆえに、子どもは地球上のどんな土地に生まれても、驚くべき速さと一様性をもって、その土地の言語を数年のうちに獲得することができるというのです。この仮説は完全に証明されているわけではありませんが、子どもの言語習得の不思議を考えるとき、普遍文法の理論は説得力があります。もちろん、子どもはそれと同時に、鋭い音感や、徐々に発達してくるパタン認識や記憶などの認知力をも利用することは申すまでもありません。また子どもの文字の学習(つまり読み書きの学習)は、音声言語の基礎を習得した後に、必要な認知力の発達を待って行なわれます。

 母語の習得をほぼ完了した段階(10歳以降の子どもや成人)ではどうでしょうか。はっきりしたことは言えませんが、子どもの持つ普遍文法の知識はあまり利用できなくなってしまうようです。まったく利用できないわけではないと主張する研究者もいますが、幼い子どものようには利用できなくなっていることは確かです。ですから、成人の第2言語習得や外国語学習に利用できる力は、ほとんど認知的能力に頼ることになります。その認知の発達は、発達心理学者ピアジェ(Jean Piaget 1896-1980)によると、7~8歳頃に直感的思考から具体的操作の段階へと移行し、11~12歳頃に具体的操作から形式的操作の段階に変化します(これらの変化は、文化によってはもう少し早い年齢で起こると考えられています)。ピアジェは直感的思考段階での子どもの言語習得については深く研究していませんが、次の具体的操作段階では、具体的に自分の感覚や運動で確かめられる事柄についてはほぼ言語化できるが、具体を離れて抽象的に記号上で思考操作することはできないと言います。それができるのは形式的思考操作の段階に入ってからです。この段階の子どもは、時空間を超えた、実際の事物の操作の範囲外にある事柄を予想し、それを言語で表現できるようになります。つまり記号操作が可能になるわけです。これは大きな認知モードの変化であり、成人の認知的言語操作の典型的なパタンです。このように、子どもの母語習得と成人の第2言語習得・外国語学習の違いは、生得的な普遍文法をどこまで利用できるか、認知的能力がどのようにかかわっているか、という二つの観点から説明されるわけです。(土屋澄男)

「セサミ・ストリート」の復活
(1)いささか旧聞に属しますが、去る9月1日の The Daily Yomiuri に、’Sesame Street’ gets Nigerian makeover という見出しがありました。「“せサミ・ストリート”ナイジェリア版で復活」といったところでしょうか。ナイジェリアはアフリカ北西部の大きな国で(面積は日本のほぼ倍)ですが、平均寿命は50歳を少し超える程度で、乳幼児の死亡率が高いのです。宗教はイスラム教が50%で、キリスト教が34%ですが、民族数も多く、複雑な状況のようです。識字率も64%と低いので、“セサミ・ストリート”を活用しようということらしいです。

(2)“セサミ・ストリート”は、日本でも NHK やテレビ東京などが、長い間放送していましたので、ご覧になった方も多いと思いますが、1970年頃、私は高校生の教え子から次のような質問をされたことがあります。「登場人物やキャラクターの話す英語はすごくスピードが速いのに、終りのほうでは、アルファベットの文字や数字の読み方や書き方みたいなことをやっているのは何故ですか」。これは、このプログラムの本質的な意図に関係することで、「日常会話は困らないけれども、文字とか数字のような記号の読み、書きができないという子供を対象に作られたプログラムなのです。

(3)したがって、日本人が外国語としての英語を学ぶような場合の教材ではないのです。日本の放送局がどういう意図で放送していたのかは、私は知りませんが、大人も子どもも惹きつける魅力のある画面構成であったことは確かです。その作成は、心理学者や教育学者などの専門家からなるプロジェクトを組んでの大事業だったのです。ナイジェリアは、19世紀にはイギリスの植民地でしたから、現在でも英語は公用語の1つですが、識字率が低いので、前述のように、この番組を利用しようというわけでしょう。版権を無視した中国の偽キャラクターと違って、ナイジェリア版は正式な許可を受けているようですが、新聞の写真に出ているキャラクターは、原作のものとはかなり異なっています。それはそれで、当然なことでしょう。

(4)一言で、「英語を学ぶ」といっても、その目的や方法はいろいろ違いますから、他の国でうまくいっている方法が、自分の場合に成功するとは限りません。文科省は、「コミュニケーション能力を養成する」ことを目的としていますが、「コミュニケーションとは何か」とか、「母語の場合と外国語の場合では何がどう違うか」といった肝心な問題の解答を示していませんから、教育現場は混乱するばかりです。英語の教員は、国語の教員などと連携して、池上彰『伝える力』(PHP ビジネス新書、2007)などを生徒に読ませるようにしてはどうでしょうか。著者は、1994 年から NHK の「子どもニュース」の解説者として知られ、最近は、民放の番組でも、分かりやすいニュース解説者として評判ですから、中学生でもかなり理解できる本のはずです。(この回終り)

 いくつか教えていただきたいことがあります。

1.アメンボウーー日帰り温泉の露天風呂に入っていたら、アメンボウが一匹、嬉しそうな表情でお湯の表面をスイスイ泳いでいました。あれって、足が熱くないんでしょうか。アメンボウに詳しい方、教えてください。

2.Glazed carrotーー西洋料理のお皿によく乗っている柔らかくてちょっと甘い人参、あれ英語ではglazed carrotって言うんです。あれを作ろうと思ってフライパンで焼いたんですが、ちっとも柔らかくなりません。日本酒をかけてみてもダメ。最後にお砂糖をかけたら、真っ黒に焼け焦げちゃいました。犬に食べさせようとしたら、不愉快そうに顔を背けました。あれ、どうやって作るんですか。教えてください。

3.DVDーーレンタルビデオ屋さんで借りてきたDVDが、時々途中で止まります。「よっしゃ、いよいよいいところにきたぞッ」という時に止まります。どうしたら止まらなくなりますか。教えてください。

4.猫退治ーー駐車場の車に猫が上ります。ひどいときには、ボンネットにうんちしたりゲロ嘔いたりします。見つけ次第エアガンで狙い撃ちするんですが、いつも見張っているわけにはいきません。どうしたらいいか、教えてください。

5.鶏料理ーーお食事の招待を受けました。案内されたレストランは鶏料理の名店。でも、私は鶏が嫌いなんです。あの顔つきが気に入らない。せっかくのご招待なのに・・・と大いに困りました。こんなときには、どうしたらよいのか教えてください。

6.同窓会ーー教え子の同窓会に招かれることがあります。「センセイ、ぼくのこと覚えてますか」と顔を覗き込まれると、困惑の極に達します。覚えてる筈なんてネエよ、って返事は相手を傷つけます。何と言ったらいいか、教えてください。

7.時刻マニアーー東京駅の新幹線ホーム。席に座ってホームにある時計をじっと見ます。秒針が10時を差した瞬間、音もなく列車が動きだします。この神経質さって、すこし異常じゃないですか。こっちの列車の方が10分早く目的地に着く・・・なんて、そもそも浮かした10分で何をしようっていうんでしょう。教えてください。

8.大臣の車ーーテレビを見ていると、大臣ってすごい黒塗りの大型車に運転手つきで乗ってますよね。あれも税金です。「ハイブリッド」とか「電気自動車」とか「エコカー」の割引という餌を国民の前につるしているのに、自分たちはエコカーに乗らないんですか。これっておかしいと思いませんか。教えてください。

9.決まり文句ーーレストランや食事処の紹介番組が大流行(「おおはやり」と読んでください)です。体ばかりが発達して、おつむの方は空洞が目立つ女の子がレポーター。「パクッ」と食べたときの第一声は決まって「オイシーーーイッ!」。おいしいに決まってるよ。おいしいから連れてったんだから。ちょっと、ほかに言うことないの?こんなレポーター、どうしたらいいか教えてください。

10.たらい回しーー年をとってくれば、当然体のあちこちが故障します。このごろは痴呆症も大問題になっています。体が動かなくなって入院しても、あっという間に転院を迫られます。苦労する家族が増えています。一方医学が進歩して、めざましい長寿社会になっています。生かしておくけど、面倒はみない・・・こんなことを放置する政治に「みんなが元気になる日本を作る」なんて語る資格はありませんゼ。政治をどう変えたらいいのか、教えてください。

「デジタル編集」の是非
(1)デジタル編集のことは私には説明できませんが、対極には「アナログ編集」というものがあって、それなら多少説明できます。例えば音声テープの編集をする場合は、手作業でテープを切ったり、繋いだりしていました。録音スタジオには、その道のベテランがいて、オープン・リールの録音機(これも分からない人たちが増えていますが)で、手でテープを動かすと、キュッという音がして、その箇所を目で見ながら、ハサミで切ってしまうのです。前の箇所と繋げてから再生すると、うまく音が繋がっているのです。

(2)私は45年ほど前に、NHK ラジオの学校放送番組で、中学2年生の英語を担当したことがあります。ある時、「ベートーベンは多くのシンフォニーを作曲した」という英文があって、「日本語ではシンフォニーは交響楽と言い替えた方がよい」というディレクターの指示で、私は「こうきょうがく」と言おうとして、うまく言えませんでした。「先生、繰り返して言ってみて下さい」との指示で、何回か言ってみました。「はい、結構です」と言うので、それから本番かと思ったら、「うまく言えているものを繋げますから」とのことでした。そんな名人芸が実在していたのです。

(3)10年ほど前に、最後に勤めた大学では、「デジタル編集機」というものを買ってもらえましたが、私にはとても扱えませんでした。操作方法を知っている人に言わせると、「アナログ編集よりはるかに楽だ」とのことでした。そこで本題に戻りますが、この頃のテレビ画面はやたらとデジタル編集をしていると感じませんか。クイズ番組など、肝心なところでコマーシャルを挟むものですから、正解を知りたい場合は、いらいらします。しかも CM が終わると、少し前の部分から繰り返しますから、「そこはもう見たよ」と言いたくなります。

(4)番組によっては、再放送なのか、本放送なのかちょっと見ただけでは分からないものが多くあります。肝心なところに来ると、「詳しくは日曜日の午後10時から」ということで、「何だ、予告か」とがっかりさせられます。とにかくテレビ画面は何か映っていないと始まらないのです。しかも、ニュース番組でも、同じような動画像を繰り返すものですから、聴くための集中力が阻害されます。もっと視聴者の立場を考えた画面構成をしてもらいたい、と思うのは私だけでしょうか。(この回終り)

 玄関で靴を履こうとしています。ちょっとストップ。あなたはどちらの足から先に靴に入れようとしていますか。思い出してください。昨日靴を履くときも、おなじ足から靴に入れていませんでしたか。今度は家から駅まで歩くとします。いつも同じルートを通っていませんか。これを「独りでに決まった習慣」、つまり「マンネリ」と呼びます。アメリカの辞典にはこう書いてあります。”a habitual or characteristic manner, mode, or way of doing something;  distinctive quality or style, as in behavior or speech” 訳? いいえ、英語を見るといつも日本語に置き換えて理解しようとする態度・・・これもマンネリのひとつです。ついでに、日本語の参考書で「マンネリ」を調べてみましょうか。「マンネリズムは、文学、芸術、演技などの表現が型にはまっていること。癖、礼儀作法、行儀と同じ語源。現在では否定的意味合いにとられ『飽きてきた』『新鮮みに欠ける』『単調でつまらない』などを示すことが多い」。ジェイムズ・ヒルトン(James Hilton)の小説「チップス先生、さようなら」(Goodbye, Mr. Chips)でも、教師が毎回同じことを同じように教えるーー特に年をとったベテラン教師にこれが多いーーのを”a dreadful pitfall of mannerism”(マンネリという恐ろしい陥穽)と書いています。人間は、本人が気がつかないうちに、同じ条件や環境下では「同じように考え、同じように行動する」ものです。

 写真をご覧ください。ホットケーキを焼いています。ホットケーキは大きなスプーンで鉄板に落とされ、当然円形となります。ホットケーキは丸い形をしているものであり、何の不思議もありません。このホットケーキを焼いている人物は、この写真が撮影されたあと、丸いホットケーキを何とかして四角にしようと試みました。あまりうまくいきませんでしたが、何とか「四角っぽい」ホットケーキが焼き上がり、周囲の人たちがあきれる中で、本人は満足そうに食べました。決まっていることを決まったように行うとき、人間は頭を使いません。靴を履くのも駅まで歩くのも、日常的な行動ですからほとんど無意識で行います。ルーテイーン(routine)として決まっていることに、ちょっとだけ変化をつけるとき、人間の脳に弱い電流が流れます。つまりマンネリを破ることは、脳の活性化につながるのです。もちろん老化防止にも役立つ筈です。たとえば、私は味噌汁を作るのが得意だと自分で信じていますが、毎回味噌汁を作るたびに「変化」を工夫します。味噌汁には味噌を入れますが、それに醤油を加えてみたり、砂糖、蜂蜜、日本酒、ワインと、工夫そのものを楽しみます。ときにはひどい味になりますが、もともと自分の作品です。まずくても、ちょっとだけ満足感があります。私の工夫の実験台になりたい方の申し出は24時間受け付けています。あなたもぜひどうぞ。それと・・・それとマンネリを時々ストップさせてみることをお忘れなく。