Archive for 10月, 2013

Q:(小学生をもつ親より)先日の新聞報道によると、文部科学省は英語の授業を小学校3年から始めると決めたそうです。東京オリンピックが開催される2020年からの実施を目指しているとのこと。私の子どもは現在3年生なので直接関係はありませんが、誰が英語を教えるのでしょうか。まさか担任の先生ではないでしょうね。小学校の先生方は英語をいくらか知ってはいるでしょうが、英語をきちんと使える方はあまりいないと思います・・・。

A:そうです、このニュースには筆者も驚きました。新聞報道によると、小学校英語の開始時期を現行の5年生から3年生に早め、現在5年生・6年生で「外国語活動」(週1コマ)となっているものを正式教科とし、授業時数も週3コマに増やすというのです。これは言うまでもなく、小学校教育の根幹を揺るがすカリキュラム(教育課程)の大改革です。

まずこのニュースを知って、なぜこの時期なのかを筆者は疑問に思いました。文科省は小学校の英語教育をこれ以上推進することには消極的だと聞いていました。しかし小学校の英語教育を促進しようとする圧力団体は多数存在します。いちばん大きな圧力となったのは、政府の教育再生会議であったことは間違いありません。それが今年の5月に、小学校での英語教育を充実させるように提言したことです。今回の決定は、おそらく、2020年の東京オリンピック開催を利用するという政治的判断もあったと思われます。オリンピックを日本で開催することになって、いろいろな外国語を使える人を多数養成する必要が生じること(日本では外国語と言えば「英語」だけしか念頭にないのは困ったことです!)が予想されます。その予想されるブームを利用して、文科省もアベノミクス経済を後押ししようという魂胆なのでしょう。国民教育の根幹をなす小学校の教育課程が、このような政治的圧力によって簡単に決められてしまってよいものでしょうか。

ところで、2年前(2011年度)に始まった小学5年生・6年生の「外国語活動」はほんとうに効果が上がっているのでしょうか。これまでの「外国語活動」の評価は適切になされているのでしょうか。もちろん文科省はちゃんと調査はしていると言うでしょう。あちこちの教育研究会で小学校の「外国語活動」の実践報告がなされていることは筆者も知っています。しかし教育の効果というのは、実施して直ちに現れてくるというものではありません。少なくとも数年の実践を必要とします。1年や2年で信頼できる評価がなされることは考えられません。教師や生徒にアンケートをとって、「外国語活動」についての感想を尋ねることは容易です。答える方は1年か2年の実施ではよくは分かりませんから、「まあまあうまくやっている」という回答が半分くらいには達するでしょう。

冗談ではありません。たしかに中には「うまくやっている」学校もあるでしょう。そういうところでは、小学校英語教育についての知識と経験を備えた教員が配置されており、学校全体が英語教育に協力的であり、必要に応じてALTや英語母語話者の参加が可能であるという教育環境がそろっている学校です。そういう学校が全国でどのくらいあるのでしょうか。文科省のホームページを見てもそこまでは判明しません。筆者の知るところでは、問題を抱えている学校が多数存在しています。実際に、小学校のクラス担任が英語を担当する場合には、専門家からすると無茶苦茶としか考えられないような指導がなされているという報告がなされています(注)。先生の発音がまったくでたらめだったり、話す英語が間違いだらけだったり、一度聞かせた英語を生徒にすぐにリピートさせて覚えさせようとしたり、想像しただけでゾッとします。

2011年度に小学5年生から「外国語活動」が実施されたときに最も大きな問題とされたのが、資格のある教員の不足でした。小学生に英語を教えるというのは、一般の人が考えるほど容易なことではありません。英語に堪能で、英語の教え方をよく知っている人でなければなりません。昔は、初めて英語を学ぶ中学1年生には英語のベテラン教師を当てたものでした。現在でも可能な学校ではそうしていると思います。まして小学生は中学生よりも脳が柔軟ですから、間違った英語を教えることは厳禁です。生徒をよく知っている小学校教員が教えればうまくいくものではありません。筆者は、現在多くの小学校で間違った英語が教えられていると想像するだけで背筋が寒くなります。文科省は何を措いても、小学校の英語教育の専門家を大量に養成する責任があります。適切な教員養成がなされるまでは、決して英語を必修科目にすべきではありません。

(注)たとえば次のような報告が、小学校の授業を参観した英語教育の専門家からなされています。「担任の先生が一人で指導にあたっている授業を参観させていただいた。先生は、一言も日本語を使わない。ではこれが「オールイングリッシュ」の授業かというとそうではなくて、残念ながら「オール間違えちゃってるイングリッシュ」に近い授業になってしまっていた。「コミュニケーション能力の素地」という美しいことばは寛大で、通じさせたいという意欲さえあれば、または運よく意思疎通が成功したら、それはもう “Good!” なのである。しかし、冷静になって考えてみてほしい。ほかの教科や領域で、中学校で「×」になるものを教師が聞かせ続けることがあるだろうか。」(東京学芸大学教授・粕谷恭子「子どもが歩く英語の道をなだらかに」開隆堂出版発行『英語教育Vol. 65-4』2013)

(167)これからどうする‐マクロの展望

<経済大国から人権大国へ>

② 日本人の人権意識 
 
  憲法97条を最初に読んだ時に、私がよく理解できなかったのは、自由と人権の関係だった。自由のないところに人権は成立しないという意味だろうという程度の抽象的な理解だったと思う。何しろ戦時中は”自由”などと主張しようものなら非国民とみなされ、吉田茂のような保守的自由主義者さえ憲兵隊に拘束された時代であり、しかも、ほとんどの国民がそれを当然と受け止めている社会であったから、戦争が終わって急に自由と言われてもなかなか具体像がつかめず、まして人権という聞いたこともない言葉の実体は浮かんでこなかった。

それがルーズベルトの「4つの自由:言論の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由」を読んで、かなり具体的にイメージできるようになった。そうなると、アメリカ独立戦争でパトリック・ヘンリーが「われに自由を与えよ、しからずんば死を」と叫んだ意味がよくわかった。つまり、これらの自由がなければ1人の独立した人間として生きているとは言えないという価値観が、アメリカの歴史を学ぶことを通じて具体的に理解できるようになったのだと思う。

自由を抑圧された戦時中の社会で、何の疑問も抱かずに、人権の根本である自他の生命の尊重さえ否定して生きてきた自分が客観的に見れば愚かすぎたと思わざるをえなかった。同時に、日本人の自由は、自らが戦争の原因と責任その基盤となった社会体制を追及する中から克ち得たものではなく、占領軍によって与えられたものであることが悔やまれた。自分で克ちとったものでなければ、それを奪おうとするものに本気で立ち向かうことは出来ないのではないか。いやそれ以上に、自由を侵されれば人権も奪われるということに、私を含めて大多数の日本人があまりにも鈍感すぎるのではないか。アメリカの全世界的盗聴、日本の特定秘密保護法案が、自らの人権にどうかかわってくるのか、真剣に考えなければならないと思う。( 次回に触れる予定 )

 映画評論家の佐藤忠男は、私より1歳年下の1930年生まれで、敗戦時は海軍の少年飛行兵であった。彼は日本人の思考回路の中にある”諦観“について、それは容易に権力への追随に変わることを指摘するとともに、次のように警告している。「戦争中捕虜となった日本人は自ら死を選んだ。(筆者注:人権の根本である生きる権利を自ら捨てた、或いは捨てざるを得なかった)それは軍の情け無用の態度もさることながら、民衆の軽薄な気分が、捕虜は自殺しろという圧力となって軍人に押し付けられた面も小さくない。・・・そこをいい加減にして反省を怠ると、また何が起きるかわからない。だから繰り返しもっと考えていかねばと痛切に思う」(草の根軍国主義 平凡社)

 私は、今、”また何かがおきかけている”と感じている。同時に、日本人が本当に自由と人権の意識を血肉にするのは、これからだとも思う。

 自民党が党の憲法草案から、第97条をすっぽり削除したことはこの党の人権意識の欠如を物語っている。自民党では、削除の理由を、第3章と重複しているからとしているが、本音ではないだろう。日本国憲法の事実上の最終章である第97条は、明白に憲法前文と対応してサンドイッチ的にこの憲法の骨格を定めているのである。私は将来、憲法を教える時には、まず97条を採り上げて、人間社会が自由と人権をかち取る為に払った努力、それを阻もうとする反対勢力との戦での犠牲を具体的に学び、それから導き出された人類の普遍的原理である前文を学習すると理解しやすいと思う。そのためには、中等教育で日本及び世界の近・現代史をきちんと教えなければならない。特に教師には「人権を担う勇気」が求められる。

 ところで、”人権を担う勇気を”と言われても、一体何をすればよいのかと思う人も多いだろう。私はまず不完全ではあるが代議制民主主義を活用すべきだと思う。選挙に当たって、日々の生活に直結する経済政策を重視するのは当然だとしても、もう少し複眼的、大局的な視点から「日本を人権大国にする」という覚悟を持って政策を吟味することが重要だと思うのである。幸い我々は、選挙の一票を行使することによって政権を代え、国を変えることが出来るという貴重な体験をした。人権をもっとも尊重する、つまり4つの自由を守るという政党に一票を入れることによって、人権を守るために声を挙げる人達の層が厚くなり、やがて「人権大国」への大波を起こすことは必ずできると私は考える。(M)

Q 1: (高校1年生) 英語にはin factやby all meansのように前置詞で始まる熟語がたくさんあります。このような熟語を集めた辞書はありますか。

Q 2 : (大学受験生) テストの穴埋め問題に前置詞を入れるのがあります。僕はこれが苦手です。 “Many people die (   ) cancer these days.” という問題で僕はfromを入れてバツにされました。fromは本当に間違いなのですか。

A : 中学校のすべての教科書に出てくる基本的な前置詞は次の23個です。これらは1989年3月改訂の『中学校学習指導要領 外国語(英語)別表2』の中に入っていて、中学校3年間に指導すべき必修語として指定されていたものです(ただし現在の学習指導要領では必修語の指定は廃止されています)。

about, across, after, at, before, between, by, during, for, from, in, into, of, off, on, over, through, till (until), to, under, with, without.

これらの中でもat, by, for, from, in, of, on, to, withの9個は非常に頻度が高く、『JACET 8000英単語』のリストでも、すべて34位以内に入っています。実際に、これらを使わずに英文を作ることは難しいでしょう。

まずQ 1の質問を取り上げます。この質問者の指摘するように、「前置詞+名詞」の形をした熟語はたくさんあり、それらの多くは副詞句(文の中で副詞の働きをするフレーズ)です。それらを集めた辞書もいくつかあります(注)。日本で出版された辞書としては、前回に紹介した『英語動詞句活用辞典』と同じ著者・多田孝蔵氏による『英語副詞句活用辞典』(大修館書店 1977)がよく知られています。この辞典は現代英語の理解と応用に必要な副詞句を収集し、主として20世紀の作家・作品からとった用例を示しています。Part Iは「前置詞+名詞」の形をした副詞句、Part IIは前置詞のない形の副詞句を収録しています。これは中級以上の日本人学習者にはたいへん役に立つ辞典です。

(注)英米で出版された辞書の中でよく知られているのは次のものです。この辞書はその副題からも分かるように、副詞句だけではなく、慣用的なフレーズ・クローズ・センテンスを収集して解説したものです。A P Cowie, R Mackin & I R McCaig, Oxford Dictionary of Current Idiomatic English, Volume 2 : Phrase, Clause & Sentence Idioms. Oxford University Press 1983.

次に第2の質問にいきます。英文を読んでいるときには意味がとれればよいわけですから、前置詞の用法を意識することはあまりありません。しかし英文を書いたり話したりするときには前置詞というのは非常に気になるものです。質問者の挙げた例では、 ‘Many people die of cancer these days.’ を理解するのはさほど難しくはありませんが、そういう文を自分で作るとなると前置詞が気になります。この質問者は前置詞ofの代わりにfromを使いました。それは間違いなのでしょうか。

英語学習辞典の多くはdie ofとdie fromの区別を書いています。たとえば「病気・飢餓・老齢にはof、けがなどにはfromを用いる」のようです。しかし英々辞書のOALD(6版)には  ‘to die of / from cancer’ のように書かれていて、「癌で死ぬ」場合には両方の言い方が可能であるとしています。他のいろいろな辞書や文法書を参照して筆者が調べたところでも、「病気・飢餓・老齢」が原因で死ぬ場合にはof が、「けがなど」が原因(または遠因)になって死ぬ場合にはfrom が使われることが多いのは確かです。ですから、He died (   ) swallowing a fishbone(彼は魚の骨を飲み込んで死んだ)という場合にはfromが好まれるようです。しかしこの区別は現代英語では非常に曖昧になっており、決して厳密なものではありません。結局、「(現代英語では)このような区別は無視されて、die of がdie fromの意味で用いられる傾向がある」(小西友一 後術書)という結論に達します。

以上に述べたように、Q 2の質問者がdieの後に fromを入れたのは誤りではなく、正解の一つとして認められるべきです。この問題の出題者はおそらくそういう知識に欠けていたものと思われます。大学入試ではこのような微妙な前置詞の穴埋め問題は避けられるようになっていますが、学校での定期試験などにはそういう問題がいぜんとして多用され、中には教科書通りの回答だけを正解とする不見識なものも散見されます。このような問題で生徒を悩ませることは許されないことです。学校の先生方にはもっと注意していただきたいものです。ついでながら日本には、英語の名詞、動詞、形容詞、副詞などがどんな前置詞と結合するかを徹底的に調査し記述した辞書があります。小西友一著『英語前置詞活用辞典』(大修館書店1974)がそれです。英語の先生方と前置詞に興味のある学習者にお薦めします。(To be continued.)

「東京オリンピックを迎えるもの」
(1)引き受けたからには、私も競技の成功を祈り、関係者を“おもてなし”すべきだと考える日本人の一人です。しかし、楽観的な気分にはとてもなれません。7月の東京といえば、恐らく猛烈な暑さに見舞われるでしょう。そして、ゲリラ豪雨や台風の襲来も予想しなければなりません。心配すべきことは他にも沢山あります。

(2)猪瀬東京都知事は、「予算は十分にある」と豪語していましたが、それは都民の税金なのですから、慎重に使い道を考えてもらいたいものです。選手の宿舎は、後で分譲や賃貸の出来る建物にするとのことですが、その前に、現在増えつつある“空き家”をなんとかすべきです。老齢化した持ち主が放置している空き家が増えて、犯罪者の巣になる例があるのです。それなのに、安倍政権は、「規制を緩和して、都内にもっと高層建築を建てやすくする」とも言っています。現在以上の東京一極化でよいのでしょうか。

(3)更に重要な問題は、施設の工事による環境の破壊です。東京では少子化で小学校が廃校になると、その建物や跡地の利用をめぐって都と区、さらに付近住民たちの意向が食い違って、様々な問題が生じています。決着がつく場合でも住民の意向に反する例が多いようです。特にオリンピック開催は待ったなしですから、関連工事には住民の意向無視の場合が続出するのではないかと私は心配します。

(4)早くから問題になったのは、東京都江東区の「葛西臨海公園」です。この公園は、付近住民の憩いの場であるばかりでなく、珍しい昆虫や鳥がいるということで、わざわざ訪ねてくる人たちも多いそうです。ところがこの公園が、オリンピックでは、カヌーの競技場(急流などを作る大工事が必要)になる予定なのです。早くから環境破壊ということで反対を表明したのは、“野鳥の会”でした。

(5)昆虫や野鳥が多いということは、昔ながらの自然が保たれているということですから、そういう公園を破壊してしまったら、復元するには何十年とかかるでしょう。オリンピックが無事に開催できたとしても、都民としては大事なものを失うことになるわけです。また、主要競技場になる国立競技場は8万人を収容できる大スタジアムになる予定です。周囲の環境も大きく変化するとのことで、万一、競技中に災害が生じたら逃げ場がないと心配されています。

(6)日本は台風が襲ってきたら、進路によっては沖縄から北海道まで甚大な被害となります。こういう異常気象をもたらしたのは、結局は二酸化炭素の放出を放置してきた人間による“人災”だというコメントを聞きましたが、全く同感です。安倍内閣も景気ばかり優先させずに、“地球を救う方針”を少しでも示してもらいたいものです。

(7)安倍首相は、「台風26号で甚大な被害を受けた大島に行きたい」と語ったとも報道されました(その後また大雨が降るということで中止したようですが)。どうしてこの人は“パフォーマンス”が好きなのでしょうか。福島の原発も訪れましたが、総理大臣が行けば警備を始め受け入れ側には大変な負担がかかるのです。しかも安倍首相は、その後も東京電力には騙され続けています。(この回終り)

前回の訂正:(その45「予備校講師」の中で、「川勝知事が成績が低かった県内86校の校長名を公表した」と書きましたが、「成績が高かった県内86校」の間違いでした。ご指摘くださった方に感謝し、読者にお詫びして訂正させて頂きます。 以上

(166)これからどうする‐マクロの展望

< 経済大国から人権大国へ >

① 人権を担う勇気

 私達の世代は、多感な若い時代を戦争、敗戦、飢餓という命が危険にさらされる極限状態の中で過ごし、人間のよい面も醜い面もつぶさに見て大人になった。これまで何回も触れたが、私は、戦争協力の先頭に立っていた旧制中学の教師達が敗戦後一夜にして平和主義者、民主主義者に豹変したのを目の当たりにして教育不信・人間不信に陥り、学校を離れて一年間、家族の疎開先だった秋田の山奥の村で過ごした。昼は渓流の魚釣り、夜はどぶろくを飲んで寝るような生活を送っているうちに、ようやく、このままでは何も解決しないことに気づいた。どうしてこういうことになったのか、人間不信の原因を突き止めなければ、これからまともに生きていけないと思ったのである。その頃ようやく、戦争中の精神主義の呪縛から脱して、少しは論理的に物事を考えられるようになっていたのだと思う。だから当然第一歩は、何故このような愚かな戦争をやったのか、何故回避できなかったのかを考えることだったが、なかなか心に落ちる答えは見つからなかった。その頃、日本国憲法が発布された。

この条文の中で、私が最も心を惹かれたのは、実質的な最終章である第97条であった。

日本国憲法第10章最高法規 第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に耐え、現在及び将来の国民に対し、侵すことの出来ない永久の権利として信託されるものである。

 高等師範学校の英語科に入ってから、憲法の原文である英文を読みたいと思った。上記日本文の意味はなんとなく理解できたのだが、「これらの権利は、過去幾多の試練に耐え」の部分が、どこにかかるのかがよくわからなかったのと、「基本的人権」と「自由獲得の努力の成果」が文の構造上及び意味の上でどう結びつくのかを、英文を見て確かめたいと思ったのである。CIE図書館(アメリカ文化センター)を訪ねてみたが原文は見つからなかった。しかし、ここで、国連憲章や世界人権宣言、国連創設に当たったダンバートンオークス会議の
記録、それにアメリカの独立宣言やアメリカ建国の父達の物語などを読んで、館員のアメリカ人と片言の英語で話しあっているうちに、おぼろげながら分かってきたことがあった。天皇のために、身を鴻毛の軽きに比して、進んで命を捧げることが最高の美徳とされた戦争中の日本の社会体制が、人類社会の普遍的原理とは相容れないものであったと納得できたのである。

 軍事教練の座学の時間に、” スリーエス=スクリーン、スポーツ、セックス“ に侵され穢れたアメリカ社会に、一天万乗の君を中心に団結する気高く清い神州が負けるはずはないと教えられ、何の疑いもなくそれを信じて、この美しい国を守るために進んで命を捧げる覚悟を固める中で迎えた敗戦の日、宮城前広場で腹を切っている人達がいるというラジヲのニュースを聞いて、自分も行くべきかどうか悩んだことが、ウソのように思えた。戦争で日本が連合国に負けたのは、物量の差による物理的敗北にとどまらず、人類社会の普遍的原理である基本的人権をないがしろにした社会体制の敗北でもあったと思うようになった。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、日米開戦の年の一般教書の中で、fascismと戦うのは、人類共通の4つの自由を守るためだと宣言していた。4つの自由とは、言論の自由、信教の自由、欠乏からの自由、恐怖からの自由である。戦争中の日本の社会では、全てが否定されていたことが改めて甦った。そうした中で、数年前のことが遠い昔のことのように思え、次第に、アメリカの理想主義に惹かれるようになり、“鬼畜米英”に対する復讐心も薄れていった。

  基本的人権については、「世界人権宣言」や日本国憲法に細かく規定されている。だが私は、人権とはつきつめれば、自由に生きる権利であり、これが保障されない社会は人間の社会とは言えず、したがって、人間同士の殺し合いである戦争は、最大の人権侵害であり、戦争にはいかなる正統性もないという結論に達した。以来六十余年、この考えを基盤に生きてきた。

 この項を書くに先立ち、ひとりよがりにならぬよう、「これからどうする‐未来の作り方」(岩波書店編)と「社会を変えるには」(小熊英二著 講談社)を読んだ。いずれも、500ページを超える大冊で、視力の衰えた私には苦行であったが、視力を削ってあまりある示唆をうることが出来た。前者に寄稿した政治学者の宮田光雄東北大学名誉学教授は、自民党憲法草案から、最も重要な上記の第97条がバッサリ削除されているのに衝撃を受けるとともに、「人権を担う勇気が問われている」として次のように述べている。「基本的人権は、国家に対して要求する市民としての権利なのであり、国家から与えられる対価としての義務と連動するものではない。(中略)。人権というと我々は憲法条項に記載されている形式的な文言をのみ思い浮かべるのではなかろうか。しかし、問われているのは、これらの自由な権利を自分自身の事柄として生きようとしているか否かである。すなはち、基本的人権を担う市民として生きることである。」宮田名誉教授は、1928年の生まれで、私と全く同じ戦中・戦後を体験する中で、当時の日本人が人権を担う勇気を持てなかったことが、戦争を許す最大の誘因になったことを、自らへの戒めとしてこの稿を寄せたのだろう。

 戦後70年にして再び人権の危機を迎えようとしている現在、日本人が「人権を担う勇気」を持てるかどうかが、この国の未来を決めるのだと私は思う。(M)

Q:(高校2年生)英語では動詞の後にinやoutやupなどの副詞(?)が付いてややこしくなります。このあいだ教科書にturn outというのが出てきたので辞書を見たら、いろんな意味が書いてあるので驚きました。こういう語句はどのように覚えたらよいのでしょうか。

A: 英語の多くの動詞は、いろいろな副詞や前置詞と一緒に使われ、いろいろな意味を表わします。たとえばturnという動詞は、辞書を見ると、次のようにいろいろな副詞や前置詞と一緒に使われて動詞句を作ることが分かります。

turn about / turn against / turn around / turn aside / turn away / turn back / turn down / turn in / turn into / turn off / turn on (upon) / turn out / turn over / turn to / turn up / etc.

この場合に、動詞の後に付くものが副詞か前置詞かは、コンテクストがなくては判別できません。次の (a) は「動詞+副詞」、 (b) は「動詞+前置詞」です。

(a) Let’s turn off and find a quieter road.(ここからそれて、もっと車の少ない通りを見つけよう。)(b) Let’s turn off this busy road and find a quieter way.(この混んでいる通りをそれて、もっと車の少ない道を見つけよう。)実際には副詞か前置詞かの判断が難しいこともありますが、その区別はさしあたり重要ではありません。

次に今回の質問者が取り上げてくださったturn outがどんな意味に使われるのかを見てみましょう。辞書によっては10種類くらいに細分しているものもありますが、比較的に頻度の高い用例を5つだけ挙げておきます

turn out (1) : Will you turn out all the lights when you leave the room?(明りを消す)turn out (2) : Turn out all your pockets; I know you have stolen candies.(ひっくり返して中身を出す) turn out (3) : A large crowd turned out to watch the procession.(出てくる;繰り出す) turn out (4) : This factory turns out 2,000 electric automobiles a month.(作り出す;生産する) turn out (5) : The job turned out to be harder than we thought. / It turned out that the job was harder than we thought.(結局~だと分かる)

以上のturn outの例から分かるように、「動詞+副詞(または前置詞)」にはそのまま意味が理解できるものと、そうでないものとがあります。たとえばturn out (1) は、「(スイッチをひねって)明りを消す」の意味であることは、字句からも推測することができます。他方turn out (5) のように、その意味を推測することがほとんどできない場合もあります。turn out (2), (3), (4) はどうでしょうか。コンテクストから推測できるかもしれませんが、字句通りとはいきません。このように字句通りの意味と違っているものを特に「句動詞」(phrasal verb)と呼び、そのようなタイトルを掲げた辞書もあります(Rosemary Courtney, Longman Dictionary of Phrasal Verbs. Longman Group Limited, 1983)。

このような「動詞句」(あるいは「句動詞」)はどのようにして記憶したらよいでしょうか。記憶すると言っても、それらの意味を理解するのと、それらを自分で使って表現するのとでは、学習の仕方が違います。その2つを区別する必要があります。実を言うと、このようなフレーズは書き言葉よりも話し言葉に多く用いられます。口語表現の多い小説や演劇・映画の台本などを読むと、そのことがよく分かります。日常生活ではそれらに慣れていないと会話が成立しないかもしれません。まず、動詞句の意味を理解したい人は、それらのさまざまな用法を研究する必要があります。その目標を達成するのはさほど難しくはありません。しかし理解ができても、それらをネイティブ・スピーカーと同じように使えるようになることまでは期待できません。そのためには、彼らと同じような言語環境の中で学習経験を積む必要があります。

このような動詞句(主として「動詞+副詞」)を収集し、それらを副詞のアルファベット順に分類した辞書を書いた人がいます。それは多田孝蔵著『英語動詞句活用辞典』(大修館書店 1982)です。この辞書には約3,000の動詞句が文例と共に収録され、解説されています。動詞の後に付く主な副詞は次のようです。

about / along / around (round) / away / back / by / back / down / in / off / on / out / over / through / to / together / up.

これらのうち、とびぬけて多くの動詞句(句動詞)をつくる副詞はout とupです。中級段階の日本人学習者がこの辞書を愛用するならば、動詞句がどういう性質のものであり、どのような場合に使われるものかがよく理解できるようになると思います。

<誤記の訂正> 前回の最後のほうに挙げた例文に誤記がありました。次のように訂正いたします。(誤記)I asked her to marry her, but I was turned down. →(訂正)I asked her to marry me, but I was turned down.

④−9 教育はどうなる

 「これからどうなる」の終章は、教育である。安倍首相は、“強い日本を取り戻す”ために、憲法改正を目指して、いろいろな手段を駆使しようと考えているようだが、その一環としてもっとも重要視しているのが教育改革だろう。社会を変えるものは、短期的には政治、長期的には教育であるからだ。そのため第1次安倍内閣の時にまず「教育基本法」を変えた。ここで大網をかけておいて、法律を権力の都合のよいように解釈し、それに基づいて具体的な条例などを制定して取り締まるという旧来政治の常套手段である。

  今回のブログを書くに先立って、最近出版された「英語教育、迫り来る破綻」(大津由紀雄、江利川春雄、斎藤兆史、鳥飼玖美子著 ひつじ書房)というかなり刺激的なタイトルの本を読んでみた。私は、日本の教育全体がすでに破綻していると考えているので、何か通底するものがあるかもしれないと思ったのである。著者はいずれも大學で英語教育や言語教育に携わっている人達で、江利川氏以外の3人についてはすでに別の著作(*)を読んで所説は理解しているつもりなので、巻頭の江利川論文と巻末の4人の座談会を読ませてもらった。4人が槍玉に挙げているのは、政府の教育再生実行会議が自民党の教育再生実行本部の提言を受けてまとめた「大学の入試改革」の杜撰な内容、とりわけ、大学入試や高校の履修評価に「TOEFL」を使うという提案である。著者達は、この提案が「正確な事実認識を伴っていない。歴史から学んでいない。学問的根拠がない。一言で言うと思い込みや願望で作った政策」に基づくものだと断じている。

 そして、「英語教育、迫り来る破綻」は“あとがき”に中で「昨年の暮れに第2次安倍内閣が誕生した時、わたしたちにはある嫌な予感がありました。かつて第1次安倍内閣は、一年にも満たない超短期内閣でありましたが、教育基本法の改変を行い、教育再生会議を立ち上げ、教育3法案を成立させた“実績”をもっているからです。わたしたちの不安は的中し、自民党の教育再生実行本部、政府の教育再生実行会議などが、矢継ぎ早に様々な提言を行いはじめました。(中略)わたしたちが、このブックレットを通して訴えたかったこととして、① 提言の背景にはグローバル企業や財界の意向があり、教育をその視点から一方的に制約しようという狙いがあること ② 小学校英語の教科化、中学・高校出の英語の授業は英語で行うという方針、大学入試や大學卒業要件としてTOEFLなどの外部検定試験を採用することなどは、言語、英語、英語教育について専門的知識や経験を持たないいわば素人集団による短絡的な思いつきであることを知ってもらいたいからです。」と訴えている。

 私自身は言語学や英語教育の専門家ではないが、英語の学習書などを書き、全国的な英語の学習グループを組織したこともあるので、全くの門外漢ではない。そういう立場からこの本を読んでみて、大筋において同感できたし、この国の教育全体について通底するところも多いと思った。

 特に、指摘されている教育における安易な数値化の弊害については、私もこの半世紀日本の教育を蝕んできた諸悪の根源ではないかと考えている。私が若い頃教師を辞めるきっかけとなったのは教員の勤務評定制度の導入であった。教師の仕事を5段階で評価することは不可能であり、これを強行すれば教育全体に大きな弊害を及ぼすだろうと直感的に思った。半世紀後の今日も、その時の直感は、杞憂ではなかったと考えている。同志社英学校の校長だった新島襄は、最初の卒業生を送るにあたり、「私が皆さんにとってよい教師であったかどうかはわかりません。10年後、20年後の皆さんが決めてくれるでしょう」と述べたという。教師の評価とはそういうものではないか。それに反して、性急に”見える成果“を挙げようとすると、数値化は都合がよい。しかしそれによって本質的に大切なものが捨象されてしまうのである。
 
 全国学力調査の小学6年国語Aで最下位だった静岡県の川勝知事は、下位100校の校長名を公表すると公言して文部科学大臣にたしなめられ、一転して全国平均を上回った86校の校長名を発表した。学校にはそれぞれ事情があることを無視して、テストの点数だけで学校や校長を評価するという短絡的な思考は、政治家失格であり、こういう首長が、教育委員会の改組によって、直接教育に介入することになれば、教育委員会はこれまで以上に上意下達の道具と化し、政治権力が教育を思うがままに支配することになる。国民は首長に選挙でそこまでの裁量権を与えているわけではないだろう。
  
 それでなくても、勤務評定の点取り競争の結果、もはや県教委に物申せるような校長はいなくなったのではないか。職員会議での挙手・採決禁止という都教委の決定に対して「公開討論」を要求した三鷹高校長のような例は例外中の例外だったのだろう。最近、東京杉並区の中学で、「はだしのゲン」の英訳に協力したアメリカ人が、一旦講演を依頼されながら直前になって断られるということがあった。断った理由についてこの校長は「社会の流れ、近頃の事情」だと説明したとこのアメリカ人は語っている。また、毎日新聞の取材に対しこの校長は「『はだしのゲン』は読んだことがない。生徒も勉強していないので興味が持てないと考えた。『はだしのゲン』に特化しないで欲しいと伝えたら断られた。都や区の教委に相談したことはない」と述べたと伝えている。もしこのとおりだとしたら、こういう人物が校長になるようでは、日本の教育はすでに破綻しているといわれても仕方ないだろう。私は三人の生徒の退学処分をめぐって夜を徹して話し合った新潟南高校時代の職員会議を懐かしく思い出す。(

 大阪では政治権力による教委支配によって、教頭や校長が、君が代を歌う教師の口元を監視するというおよそ自由主義国では考えられないおぞましい光景を生んだ。もはや、日本の教育は崩壊したといわざるをえない。つい最近、NHKEVで放送された「香港の愛国教育」という番組を見ていたら、中国政府に任命された香港の行政長官は、愛国教育を進めようとしているものの、学校では国旗の掲揚や国家の斉唱は義務付けられていないという。また、愛国心教育についても、校長を交えた職員の会議で熱心に討議され、校長は「押し付けはダメだよ」と堂々と述べていた。
参院選の結果、“これからどうなる”はこれで終わり、次回は、私見を交えて”これからどうする”−マクロの視点を書いてみたい。(M)

* 英語学習7つの誤解 ( 大津由紀雄    NHK生活人新書 )
* 日本人と英語    ( 斎藤兆史       研究社 )
*  危うし!小学校英語 ( 鳥飼玖美子    文春新書 )

Q 1:(中学3年生)英語には熟語というのがたくさん出てきます。辞書を引いても見つからないことがあります。辞書で見つけるにはどうしたらよいですか。

Q 2:(高校2年生)英語にはいろいろな熟語が出てきますが、なかなか覚えられません。よい覚え方があったら教えてください。

まず「熟語」とは何でしょうか。一般に「熟語」と呼ばれているものにはいろいろなものが含まれます。これに類する用語として「イディオム」(idiom)、「慣用句」(idiomatic phrase)、成句(set phrase)、決まり文句・定型表現(fixed form, set expression)などがあり、いずれもよく使われます。しかしこれらを厳密に区別することは難しいようです。そこで、私たちはそれらすべてを含めて「熟語」と呼んでいるわけで、普段はそれで差し支えありません。ただし、日本語に関して使う「熟語」と、英語の学習のときに使う「熟語」とは、その内容が違っていますので注意が必要です。

日本語に関して「熟語」と言うときは、一般には「二つ以上の単語が結合して或る意義をあらわす語。『山桜』『買物』の類。合成語。複合語。」(広辞苑の熟語①)を意味します。日本語にはこのような漢字の熟語が無数と言ってよいほどあります。日本語を学ぶ外国人はさぞ熟語の学習に苦労することでしょう。四字熟語などは日本人にも難しいものが多く、入学試験や入社試験にそれらの知識をためす問題がよく出題されて話題を呼びます。筆者もかつて、「喧々囂々」は正しいが「喧々諤々」は間違いだと言われて、友人とカンカンガクガク議論したことがありました。

一方、英語のidiomは上記の「熟語」とは少し違います。英語のidiomを英語辞典でしらべてみましょう。OALD(6版)の第一義は ‘a group of words whose meaning is different from the meanings of the individual words’(その意味が個々の語の意味とは異なる語群)となっています。例として挙げられているのは ‘let the cat out of the bag’ で、文字通りには「猫を袋から出してやる」ということですが、多くの場合、それは「(うっかり)秘密をもらす」という意味に使います。日本語にもこういう慣用表現はたくさんあります。たとえば「油を売る」というのがありますが、これも文字通りの意味よりも、「(くだらない話をして)仕事をさぼる」の意味に使います。

そういうわけで、私たちが英語の学習で使う「熟語」というのは、英語のネイティブ・スピーカーがidiomと言うときに意味するものとは少し違っています。私たちはそれを「2つ以上の語が結合して習慣的に使われ、一定の意味をあらわす語群」と定義します。するとそこには、名詞句もあれば、動詞句、形容詞句、副詞句など、いろいろな語群が含まれることになります。そういう語群はその数を特定することができないほど多く存在します。

そこで最初の中学生の質問に行きましょう。読んでいるテキストに未知の熟語に遭遇したときに、それを調べる方法は英和辞書を見ることです。辞書で見つけるコツは、その熟語の中でいちばん中心をなすと思われる語(名詞、動詞、形容詞など)を見出し語で引き、その語の項目を頭からざっと目を通します。学習辞書では熟語はたいていゴシック体(太字)になっているので、すぐ見つかるはずです。たとえばof courseを見つけたいときはcourseで引きます。またas a matter of courseのように、中心をなす語がmatterかcourseのどちらか分からないときには、労をいとわずに順番に引いてみてください。同じ熟語でも辞書によって掲載されている場所が違っていることがあります。そうやって辞書を引いているうちに、辞書で熟語を見つける技術はだんだんと身につきます。肝心なことは無精をしないことです。

次に、熟語を覚えるにはどうしたらよいかという質問にお答えします。結論を先に述べるならば、その熟語が使われているコンテクストによってその意味を理解し、それが使われている適切なフレーズやセンテンスを教科書や辞書の例文から記録し、それを記憶することをお薦めします。たとえば次のようです。

・in order to do ~ : I arrived early in order to get a good seat.

・take part in ~ : How many countries will take part in the next Olympics?

・turn down ~ (turn ~ down) : He asked her to marry him, but she turned him down. / I asked her to marry her, but I was turned down.

これらの例文は、実際に役に立ちそうな内容のもの(将来自分自身が使いそうなもの)がよいことは言うまでもありません。(To be continued.)

(164)参院選管見 これからどうなる

④−8 安全保障−武力の保持・示威・行使

 安全保障の要諦は、脅威の除去にある。アメリカが保有する数千発の核ミサイルに日本の政府や国民はほとんど脅威を感じていないだろう。一方、保有しているのかどうかも定かでない北朝鮮の核弾頭付ノドンやテポドンには、大きな脅威を感じている。つまり、脅威とは、相手国の軍備の質・量とは比例せず、攻撃する意図の推測によって変る。だから、安全保障には、相互の信頼醸成が何よりも重要になる。信頼は、外交を中心に、相手国との交流によって深まる。逆に外交的に対立し、交流が途絶えると戦争の危機が深まる。仮に、尖閣諸島や竹島をめぐって、日中、日韓が戦火を交えれば、三国は、今後100年にわたって、互いに最も近く、最も重要な隣国の強い敵意と、それを感じることによって生ずる脅威にさらされながら生きていかねばならなくなる。

 安全保障についての古典といわれるクラウゼビッツの「戦争論」は 「戦争は他を以ってする政策の継続」であるとのべている。政治目標を達成するために他国と外交交渉を行い、達成できない時に軍事力を使うことになるということだろう。その通りのことをやって悲惨な結末を招いた日本は、戦後別の道を選択したのである。日本国憲法は、武力による威嚇と行使は行なわないこと、交戦権を持たないことを世界に宣言して他国の脅威とならないことを約束し、政治的目的を達成するための戦争を放棄した。前回触れた安倍首相による「積極的平和外交」が、自衛隊の“活用”を伴うものであれば、明らかに憲法に違反し、この国の生き方を戦前に逆戻りさせることになる。

 安倍政権が発足して1年足らずのうちに、国民の運命を決めるような重大な動きが、国会での審議や開かれた議論もなく進行し、首相の私的諮問機関である有識者グループなど一部の人達の間で具体的な決定が、次々に行なわれようとしている。これから行なわれる国会審議はもはや”通過儀礼”に過ぎない。安倍政権が代議制民主主義の欠陥によって、有権者のわずか4分の1の信託で生まれたこと、さらに、選挙自体が、裁判所が、違憲或は違憲状態と判断した状況の中で実施されたことを考えれば、これは日本の民主主義にとって、由々しき事態だと言わねばならない。今から85年前の昭和3年(1928)、つまり私が生まれた前の年は、第1回普通選挙が実施され(国税3円以上納付の男子のみで有権者は成人男子の4分の1)、形ばかりの民主主義国家の体裁を整えた上で、日本が総力を挙げた戦争とそれを支えたfascism へ向う序曲となった年だった。この年、国民の権利を徹底的に抑圧し、軍部独裁への道を開く治安維持法が国会の審議を経ずに拡大され、7万人以上が検挙されて小林多喜二ら多数が拷問によって死亡した。85年後の今日、安倍政権は、再び国家の権限を強化し、国民の自由や権利を制限する方向へ急速に進んでいると私は感ずる。アメリカからさえ日本の右傾化が指摘される昨今の情勢に対し、日本人はあまりにのん気過ぎるのではないかと昔を知る私は思う。気がついた時にはtoo lateなのだということを忘れないで欲しい。
 
安全保障問題に絞ってみても、次のような危惧すべき一連の動きがある。

○ 日本版国家安全保障会議「NSC」の創設
○ NSCの秘密保護のための特定秘密保護法の制定
○ NSCと同格の内閣情報局の新設
○ 集団自衛権の憲法解釈変更
○ 武器輸出3原則の見直し
○ 新防衛大綱の策定とガイドラインの見直し
○ 防衛費の増額

これらの動きが具体化した時の致命的な弊害を、戦前、戦中、占領期の体験に照らして予測してみる。

● アメリカの国家安全保障会議の分室ということか。アメリカとの情報の共有というが、intelligenceに関する彼我の実力を考えれば、アメリカから情報をもらうだけだろう。情報をもらった以上、それに縛られる。結局これまで以上にアメリマの言いなりになる。
● 軍事国家は秘密主義を必要とするから、民主主義の基盤である”知る権利“ それに基づく”言論の自由”は、事実上権力の自由裁量によって制限される。懲役10年くらえば、人生はもはややり直しがきかない。ちなみに3年以上の刑には執行猶予はないから、実刑である。サラリーマン記者はビビる。触らぬ神にたたりなしとなる。  
● 戦時中の内閣情報局は1940年末、太平洋戦争の直前、戦争へ向けた世論の形成のため、言論・出版の思想統制や国民の監視強化を目的に、内閣直属の組織として発足し、戦後も存続を図ったが、1946年に解体された。同じ名称を使う無神経或は傲慢。
● 憲法の中核を、内閣の一部局である法制局の解釈で変えるなどとはもともと本末転倒。ワイマール憲法の中核である人権条項を骨抜きにしてfascismに走ったナチスとそっくりだ。
● 第2次世界大戦のアメリカの英雄であったアイゼンハワー大統領でさえ制御できなかった産軍複合体。元通産官僚の古賀茂明は、「最近の安倍政権の安保政策を見ていると産軍複合体という怪物が、日本を破滅に追い込んでいくのではないかという恐れすら感ずる」と述べている。
● 海兵隊まがいの部隊を創設する。旧軍には、海軍陸戦隊という組織があった。海兵隊や陸戦隊は先制攻撃部隊で、日中戦争の口火となった上海事変で派遣された。
● 相手よりよい武器を持たなければ勝てないという論理で軍事費は無制限に膨張するという特質を持つ。湾岸戦争からイラク戦争、アフガン作戦と戦争を続け、軍事費の膨張に苦しむアメリカは、常に日本に肩代わりを要求してきた。

 安倍首相は近著「新しい国へ。強い日本を取り戻すために」の最後に結論として次のように述べている。「集団自衛権の行使とは、米国に従属することでなく、対等となることです。それにより、日米同盟をより強固なものにし、結果として抑止力が強化され、自衛隊も米軍も一発の弾も撃つ必要はなくなる。これが安全保障の根幹を為すことは言うまでもありません。」
つまり、日本とアメリカが対等ではないことを問わず語りに認めている。その上で、共同作戦に参加することによって対等になろうと主張しているのである。アメリカと日本の軍備の量と質を考えれば、そんなことは不可能である。それでは不足分は何を以って補うのか。私は、「新しい国へ」の結語の文章を読んで、第2次世界大戦中、勇猛を讃ええられるとともに、多数の死傷者を出した日系アメリカ人部隊を思い出さずにはいられなかった。私はこれを美談ではなく悲劇であると考えている。指導者の誤った判断で、日本の若者たちが、アメリカ軍の尖兵になって血を流す悲劇を私は絶対に見たくない。(M)

前回まで3回にわたって「英語の単語を覚えるにはどうしたらよいか」について述べてきました。その要点は、単語を覚えるには忘却をできるだけ防ぐ必要があり、そのためには覚えようとする単語を有意味化することが重要だということでした。有意味化するとは、自分がすでに所有している構造化された言語知識の中に新しい語を統合する(取り込んで再構成する)ことだと言ってよいでしょう。前回には、たとえばhot-coldのように分極化される概念を表わす語は互いに連想反応を起こすことが多いので、ペアにして覚えるとよいと言いました。「対比」(contrast)というのは人間の普遍的な認知作用の一つですから、どの言語にもそのような対比を表わす語群が多数存在するわけです。今回はもう一つの人間の認知作用である「グループ分け」(Grouping)を見てみましょう。

図書館が一定の分類法によって図書を貯蔵しているように、私たちの脳も一定の方式によって語彙を蓄えていると考えられます。研究者はそれを「心的辞書」(mental lexicon)と呼んでいます。要するに脳に蓄えられている辞書ということです。しかし英語の単語は英語の辞書のようにアルファベット順に並んでいるわけではありません。ですから英語の辞書を最初のページから順番に覚えていくというようなやり方では効果は少ないでしょう。そのやり方では、いくら強い意志で覚えようとしても忘却の法則を免れません。単語帳も同じです。それは単語をバラバラにして覚えることですから、無意味綴りを覚えるのに似て、努力して覚えてもその多くはたちまち忘れ去られます。語は私たちの既存の知識に関係づけてこそ記憶に残る可能性が高くなります。

「心的辞書」が正確にどのようなものであるか、そしてそれはどのようにして習得されるのかは今のところよく分かっていません。しかし連想などの心理学的実験から、そこでは類似した要素を持つさまざまな語が互いに密接に結びついていることが分かっています。「グループ分け」とはそういうことです。その場合、音や綴り字が似ている語もつながりがあると思われますが、いちばん強く結びついているのは「意味」(meaning)の点で類似している語です。たとえばviolinという刺激語に対してどんな語が連想されるでしょうか。音や綴りの点からvioletが反応語として出てくることがあるかもしれませんが、音が似ていてもviolentやviolenceが出てくることはないでしょう。それよりも意味的に類似した語が連想されるはずです。予想されるのはviolaやcelloのような同じ範疇に属する楽器、bowやstringのような弦楽器に関連した語、あるいはviolinistのような派生語です。

あるロシアの研究者(Luria and Vinogradova 1959)による古典的実験を紹介しましょう。その実験では、被験者に特定の刺激語に対して電気ショックを与え(このような恐ろしい実験は現在では行われていません)、それに対する防御反応を条件づけ、どんな語が類似の防御反応を引き起こすかをしらべました。刺激語の中にviolinというのがあります。その語を提示すると同時に電気ショックを与えて防御反応を条件づけます。すると、それに関連する語を提示して似たような反応を引き出すことが分かりました。この実験でviolinに対する防御反応に似た反応を引き出したのは、violinist, bow, string, mandolinなどでした。またaccordion, drumなどの弦のない楽器や、sonata, concertなどの音楽に関連した他の語にも志向反応(防御反応に似た微弱な反応)が見られたのでした。語は私たちの脳の中で意味的にまとめられ、組織化されているのです。

以上の考察から、英語の単語を覚えるときには、一つずつ独立した語として覚えるよりも、意味的に類似する語を一緒にして頭の中でイメージしながら覚えるようにするのがよいと言えます。そうすると、理論的には、脳の中の心的辞書を組織化するのに役立つはずです。単語帳や単語カードを作成するときには、それぞれに関連する語をできるだけ書き込むようにするとよいでしょう。次に高校段階の例を3つばかり挙げておきます。

・physician:(n)内科医.surgeon外科医.

・comprehend:(v)理解する=understand.(n)comprehension.

・critical:(a)批評の、批判的、重大な.critic批評家.

しかし誰もが感じるでしょうが、単語の学習はこれで充分とは言えません。さらに進んで、それぞれの語の使い方にまで発展する必要があります。なぜなら、それぞれの語は他の語と結びついて有意味なフレーズ、クローズ、センテンスを作るからです。そのような結びつきを「統語」(syntax)と言いますが、統語法を学ぶことによって、単語ははじめてコンテクストの中で適切に使用することができます。次回にはそのような話に発展します。(To be continued.)