Archive for 11月, 2012

前回は音読から朗読への道筋を述べました。次に朗読から発表活動(プレゼンテーション)への発展を考えてみましょう。朗読はそれ自体りっぱなパフォーマンスであり、発表活動の一つの形式と言えますが、その用途は限られています。それは書かれた文章を声高らかに読み上げることによって、その文章の伝えようとするメッセージを聞き手と共有しようとするものです。人間の音声は音色・音調・強弱やリズム・間の取り方などによって、微妙な意味の違いや感情の起伏を表現することが可能ですので、一般に書き言葉よりも強い説得力を持ちます。ですから、朗読によって音声言語の面白さを悟った英語学習者たちは、その後の発展的な発表活動においても、その興味を持続するはずです。そして彼らが次になすべきことは、必然的に、口頭によるプレゼンテーションへの挑戦です。

 それは通常テキストの暗誦から始まります。暗誦と言ってもいわゆる「丸暗記」ではありません。熟練した朗読者は、テキストを読み込むことによって、ほとんど暗誦できるくらいになります。彼らは朗読のときテキストを手にしますが、視線はテキストの文字を追ってはいません。テキストへの一瞥によって、次に読むべきセンテンスのすべてが瞬時にワーキング・メモリーの中に引き出されます。彼らの意識は、それを自分のイメージした通りの音声連鎖に仕上げることに集中します。ですから決して間違えることはありません。彼らはテキストを丸暗記しようとはしないでしょうが、幾度も繰り返しリハーサルするうちに、自然にそのテキストに含まれるさまざまな情報(内容に関する情報だけでなく、語彙・音韻・文法・言語表現に関するあらゆる情報)が細部まで脳にインプットされます。暗誦というのは、その結果よりも、むしろ暗誦に至るそういうプロセスが重要なのです。

 朗読から暗誦に至る練習方法としていろいろなテクニックが開発されています。よく知られているものを二三挙げますと、まずread and look-up というのがあります。これは音読しようとするテキストの一部(フレーズまたはセンテンス)を黙読し、次に顔を上げ、それを声に出して言う練習です。俳優が台詞を覚えるときのやり方に似ています。繰り返し実行すると黙読の時間はしだいに短縮され、瞬時に1行くらいが視野に入るようになります。そして一度に読み取って言うことのできる語数が増していきます。また、最近知られるようになったシャドーイング(shadowing)という技法があります。これは教師やCDによって提供される音声を聴きながら、テキストを見ずに、すぐあとについて言っていく練習です。モデルの音声に影のようについていくのでこのように呼ばれます。少し間をおいて反復する方法もあり、それをリピーティング(repeating)と呼びます。このようないくつかの方法を組み合わせることで、練習の単調さを排除することができます。単調さは精神を退屈させ、頭脳の働きを鈍くします。大切なことは、さまざまな工夫をしてこの音声活動をチャレンジングなタスクにしていくことです。

 ここまで行ったならば、テキストの内容に関する英語による問答(questions and answers)は容易になります。生徒はテキストの内容を充分に理解しており、そこに現れる語彙や文法や慣用表現はすべて脳にインプットされて、いつでも取り出せるようになっています。ですから教師から発せられる質問の意味はすぐに理解できますし、その答えも瞬時にワーキング・メモリーに用意されます。何よりの強みは、いつも声を出して練習しているので、ワーキング・メモリーの中に組み立てられた英語がすぐに音声に変換できることです。これは耳と目だけを使って学習している人には容易にできることではありません。

 昔から、良い文章をたくさん暗記することが外国語学習では大切だと言われてきました。しかし最近は丸暗記があまり奨励されなくなりました。その理由はいろいろと考えられますが、一つには、情報技術の進化により人間による暗記の必要度が低下したということがあります。そもそも人間はコンピュータと違って丸暗記を得意とはしていないので、学校教育で暗記を強調するのは得策ではないというのです。確かに、辞書を丸暗記するなどは労力のわりに効果は少ないでしょう。しかし、しっかりと音読できるようになったテキストを、そのままにして終わる手はありません。丸暗記は必要ありませんが、徹底した音読練習によって頭の中に入ったテキストの内容を、同時にインプットされた語彙や表現を使って語るという活動は、さまざまな形のプレゼンテーションに発展できるものです。そのような活動を視野に入れて、生徒をもう一段高いプレゼンテーション活動へと導きたいものです。(To be continued.)

「やっぱり」の多用について感じたこと
(1)今回の総選挙の立候補予定者や、コメンテーターの議論を聞いていて気になるのは、「やっぱり」の使用が多いことです。中には、「それは、やっぱり違うんではないですか、やっぱり」のように口ぐせになっている人もいます。「やはり」は「矢張り」とも書きますが、これは当て字のようです。口語的には、「やっぱし」とか「やっぱ」などとも言います。本来は、「予想通り」とか、「結局は」といった意味を持っているのですから、やたらと連発すべき表現ではありません。

(2)誰にでも“口ぐせ”はあるものですが、時には反省して、無意味な表現の繰り返しは避けるように努力すべきでしょう。他には、「以上私が話したことが、今の現状の実情ですよ」のように、同義語を繰り返す“口ぐせ”もあります。日本人は学校教育では、“話し方”の訓練を受けないのが普通なので、的確な話し方が出来ない人がほとんどです。大学の弁論部なども、大言壮語の演説の練習などをしていて、“中味のある議論”の練習になっていない場合が多いのではないでしょうか。

(3)政治家やコメンテーターの中には、発音などは日本語的な英語を使う人が結構多いのです。例えば、「コンプライアンス(compliance)をもっと徹底すべきだ」とか、「オプション(option)が多いことは良いことではないか」のように。話し言葉では、“法令順守”では堅くて分かりにくいですが、「法律で決められていることに反しないようにしたい」とか、「オプション」についても、「選べるものが多いことは良いことではないか」のように言い換えれば分かりやすくなるはずです。単なる見栄で英語を多用するのは止めてもらいたいですし、「カタカナ語」も限度をわきまえて使うべきだと思います。

原子力発電についての議論で思うこと
(1)原発については、「容認か否定か」といった議論をしていますが、作ってしまった原発は、存続させても中止にしても本当にやっかいな存在であることをもっと明確にしてもらいたいと思います。かなり前にチェルノブイリ原発事故(1986)の状況を報告するテレビ番組を見たことがありますが、実に悲惨なものだという印象が私には残っています。現在は観光客が訪れるほど復興しているようですが、広島、長崎で分かるように、復興したからといって単純には喜べない大きな悲劇がその陰にあったことに思いを到らすべきです。

(2)今日(2012/11/25)は、NHK が東日本大震災の原発事故で、全村立ち退きとなった福島県の飯館村(いいだてむら)の問題を特別番組(70分)で放映しました。NHKでは1990年に偶然この村を取材していて、農家の主婦たち十数人が、ドイツやスイスを初めて訪れて酪農などを学んだ様子を記録していたのです。この村は、そのビデオを見ながら、村民の現状と将来を考えるシンポジウムを行なったのでした。飯館村は、主婦たちの貴重な経験を生かして新しい農村へと変わるように頑張っていたまさにその時に、放射能の被災地になってしまったのです。

(3)政党が「原発反対」を旗印に選挙戦をするのは止むを得ないとしても、事故が無くても原発の後始末には、膨大な費用と時間がかかることを忘れないで欲しいと思います。つまり、「あの党は原発反対だから投票しよう」といった簡単な判断では後悔することになるのでしょう。易しいことではありませんが、本当に原発のことを綿密に考えているかどうかを見極めなければなりません。(この回終り)

テキスト理解のあとで行なう教室での音読は、時間の制約から、二三回で終わってしまうことが多いと思われます。教師がそのテキストを理解のための教材と考えている場合には、それで済ませてよいでしょう。教科書に出てくるすべてのテキストをアウトプットにまで発展させる必要はないからです。それは指導すべき教材の量と時間数からみて不可能であり、現実的ではありません。しかし、このテキストはぜひ暗唱させてアウトプットまで発展させたいと教師が判断した場合には、そこで終わるのではなく、その後の授業でさまざまな活動に発展させる必要があります。

 新学習指導要領の実施によって、来年度(2013年4月)から、高校英語の中心科目は「コミュニケーション英語Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ」となります。それらの科目で使用される教科書がどのようなものになるのかを筆者は承知していませんが、おそらく、それらの多くはただ読むためのテキストが羅列してあるのではなく、さまざまな言語活動ができるように工夫がなされているでしょう。だからといって、教科書の記述にしたがって表面的になぞっていく授業では、生き生きとした活動にはなりません。ただテキストの訳読をし、与えられたEXERCISESを機械的にこなしていく、というような怠惰なやり方では、生徒の精神は高揚しませんし、そこに現れるいかなる言語表現も自分のものにはなりません。生徒が常に精神を高揚させ、当面の課題にチャレンジしていく姿勢を保つようにするためには、授業を担当する教師がこの課は理解のための活動を中心とし、次の課はアウトプットにまで発展させるということを予め決めて、その指導を周到に準備しておくことが重要です。

 教科書のどの課をリーディング教材とし、どれをアウトプットにまで発展させるかを決めるのは、学年を一人の教師が担当する場合には比較的に容易ですが、複数の教師で担当する場合にはたいへん難しくなります。しかしこのことは指導の根幹にかかわることですから、担当教師の間で必ず話し合って決めておかなければなりません。これを怠ると、教師間に軋轢を生むだけではなく、生徒がたいへん迷惑します。自分のクラスと隣のクラスが同じ教科書で学んでいるのに、違う先生が教えると扱い方がまったく異なるというのは好ましいことではありません。定期考査のときにはそのことが不公平を生み出すことになりますし、生徒の長期的な学力養成にも問題が生じるでしょう。

 そこで、アウトプット用と見なされた教材について、音読を起点として生徒の表現力や発表能力をどのように発展させるかについて考えてみましょう。まず音読は、自分なりに何とか読めればよいというものではありません。それは他の人に聞いてもらって充分に伝わる読み方でなくてはなりません。後者の読み方は音読というよりも「朗読」です。それはただ声を出して読むだけではなく、他の人が聞いて理解できるように、「声高く読み上げること」(広辞苑)です。それを聞いている人が音をしっかりと聞き分けられ、テキストの内容がよく理解できるものでなくてはなりません。時にはそれは聞く人に感動を与えます。ですから、朗読はそれ自体がりっぱなパフォーマンスと言えます。授業中に、先生がそういう朗読のモデルを実際に示すことができれば最高です。それによって生徒が感動し、自分もあのように読めるようになりたいという気持ちにさせることができれば、それは優れた動機づけになるでしょう。このことは、筆者自身の中学時代の学習経験から、確信を持って言えることです。

 アウトプットできるまで発展させたいテキストについては、通常の音読練習だけで済ませるのではなく、ぜひ朗読にまでもっていきたいものです。たとえば、次の授業の初めに朗読の時間を設け、数人の生徒にクラスの前に出てパフォーマンスをしてもらってはどうでしょうか。高校はだいたい1クラス40人ですから、一時に5人を割り当てるとして、クラス全員に回るのに8回の授業が必要になりますが、こういう経験は生徒にとって非常に貴重なものです。そのような機会が年間に数回あるのとないのとでは、個々の生徒が英語を口にする量はまったく違ったものになるでしょう。

 なお音読や朗読の具体的な指導法については、ここでは省略させていただきます。それは詳述すると大部なものになりますし、幸いにそれについて書かれた専門書がいくつかあります。ちなみに筆者も一冊書いています。土屋澄男著『英語コミュニケーションの基礎を作る音読指導』(研究社2004)がそれです。また最近、鈴木寿一・門田修平編著『英語音読指導ハンドブック』(大修館書店2012)というのが出ました。(To be continued.)

(118)<総選挙の争点-1> 松山薫

 選挙戦が事実上始まり、乱立した政党から様々な政策が発表されており、公示になれば、候補者達が一斉に町に出て政策宣伝に乗り出す。 政党は政権を取れなければ政策は絵に書いた餅になり、候補者は落選すればただの人になるから、どうしても目の前の有権者の関心を買うことに集中して誇大宣伝をするし、対立候補の政策は根拠もなく全面否定する。
 しかし、今度の総選挙には、目の前の利害を超えて、この国の将来を左右するような重大な争点がいくつかあるように思う。メディアの世論調査が伝える、現在の経済不況、日々の生活をどうにかしてくれという有権者の思いは当然であるとしても、その先にどういう社会を創っていくのかという視点を失うと、いわゆる国家百年の大計をあやまる恐れがあるのではないか。そこで、私が国の将来を卜する重大な争点と考える問題について、私なりに賛否の意見を整理し、自分の判断を述べたい。

① 原発・エネルギー政策

 原発についての賛否は、経済性と危険性によって判断が分かれる。さらに、日本維新の会の石原代表のように、安全保障上の観点を加える人もいる(この点については後述)。
 経済性を重視する人は、エネルギー資源の少ない日本は、原発を利用しなければ経済発展を続けられないとする。当然、自然エネルギーなどの代替エネルギーのコストを含めた可能性には懐疑的であり、脱原発派に対し明確な代替エネルギーを示せと迫る。さらに日本が蓄積した原発の技術と原子炉の輸出によって発展途上国などの経済成長に資するとともに、それによる資本の還流を期待できるとする。日本人が現在の豊かな生活を維持しようとすれば、原発は不可欠であり、今の豊かな生活を捨てる覚悟がなければ、軽々に反原発、脱原発を主張すべきでないと言う。
 一方、反原発、脱原発(依存)派の人は、福島原発の深刻な被害の現実と、絶対安全な原子炉はあり得ないという原発派も認めざるをえない事実から、もう一度同じ様な事故が起きれば国
が滅びるかもしれないと危惧し、特に世界一の地震国である日本における原発の危険性を強調する。当然、原発に代わるエネルギーの可能性を信ずるとともに、エネルギーの大量消費に依存する”豊かな生活”そのものを見直すべきだと主張する人もいる。また、原発依存派の「温暖化ガスを出さない原発は地球環境破壊を防ぐクリーンなエネルギーだ」という主張には、トイレ無きマンションの如く放射能を垂れ流す原発こそ環境破壊の元凶であると考える。そして、それでも原発が必要だというなら、自分の地元に原発を作る覚悟が必要だと言う。

 原発問題については、嘗てこのブログで詳細に論じ(アーカイブ・2011年9~10月・原発論争に備えて①~⑦))、私自身の結論は「脱原発」であると述べた。その時述べた判断の根拠は次の通りで、今も変わりはない。
* どうしても原発が必要であると主張するには、次の要件が満たされる必要があるが、これらの要件を全て満たすことは不可能であると考える。
1. 電力は決定的に不足しているし、将来も不足する 2.これを解消するために原発に代わるエネルギー源はない 3.近い所来、絶対安全な原子炉を作ることが可能である 4.それまでの間、福島原発のような大事故は起きない 5.万々一想定外の事故が起きても、完全に制御できる 6.原発がミサイルやテロの標的になるとは考えられない。あっても100%防御可能である 7.核のゴミの処理は、安全且つ採算の取れる範囲内で行うことが出来る。
 さらに中・長期的観点から、21世紀を生きる日本人に、私が積極的に脱原発を推奨するのは、脱原発が産業社会からの脱却の契機になりうるからだ。私見では、日本が直面する少子高齢社会では右肩上がりのGDP大国の復活は不可能であること、世界の人口爆発による食糧危機が迫っていること、資源の乱開発による地球環境の決定的破壊をさけることが人類共通の課題になりつつあることから、原発事故を天啓として、今後50年をかけて、工業優先の国から、再生可能な一次産業の六次産業化や環境に負担の少ない観光業を重視する共生社会の構築へ向けて、今、ベクトルを変える必要があると考えるからである。

② TPP(環太平洋経済連携協定)への参加問題

 TPP問題は今のところ参加へ向けてのアメリカなど関係国との協議が民主党政権によって進められている段階であり、次の政権党を目指す自民党がTPPの「例外なき関税撤廃」に反対しており、自民党政権では与党になる公明党もTPP交渉参加に慎重である他、保守系野党を含めTPP反対の勢力も強いので、今後の紆余曲折が予想される。

 民主党がTPP参加を推進するのは、日本は自由貿易の推進なしには生きていけないという伝統的貿易立国の考えに基づくものであり、日本維新の会も同じ方向性である。TPPが出来上がってから入るより、交渉の過程で参加してルール作りに参画し、日本の考え方を反映させなければならないという。また、食糧輸入関税の撤廃、医療保険制度や政府・自治体の調達では、国益を守ると主張している。さらにより大きな視点では、アメリカと日本が主導するTPPによって、中国に対抗する狙いもあるとみられている。こうした民主党の政策の背後には、国際競争力の低下に悩む財界や民主党の集票マシンである輸出主導型産業の大企業労働組合がある。
 TPP反対派は、これは、事実上アジアへの進出を図るためのアメリカ支配の機構であり、事前交渉に参加しても、これまでの貿易交渉でことごとくアメリカに押し切られてきた日本の外交力では国益は守れず、結局アメリカ大資本の前に席巻されてしまう分野として、農業、医療、保険、紛争処理などを挙げている。特に簡保を含む生命保険や教育保険分野がアメリカの最大の狙いであという説もあり、AFLACやAIGグループが席巻する第3分野の保険をめぐる交渉での譲歩を例示する。反対派のバックには、農協や日本医師会、簡保・生命保険業界などがある。
また、アジアでも中国、インド、韓国、インドネシアなどの主要国がTPPに参加していないことから、これらの国やASEANとの、例外を認める2国間あるいは多国間協定のほうが国益にかなうという。戦略的視点としては、アメリカへの従属から脱却するには、東アジア共同体の構築が必要であり、TPP参加はその方向に逆行するという考えがあるようだ。

 私はTPP加盟には反対である。TPPについては、かつてこのブログで詳細に論じ(アーカイブ2012年1月~3月TPPを考える①~⑨)3回にわたって私見を述べた。私が最も危惧するのは食糧の自給率である。現在40%前後と先進国の中でも異常に低い水準にあるものが、TPPに参加すれば13%に下がるという試算もある。飢餓の時代を体験した私には信じがたい数字である。これを杞憂として、食糧が不足すれば輸入すればよいという意見があり、TPP交渉でも食糧輸出制限の禁止を主張するという。しかし、世界が食糧危機に陥った時、自国民の食い扶持を減らしてまで、食糧を輸出してくれる国があるとは思えない。自由貿易の中心機関であるWTOにおいても、食糧輸出の制限は認められている。現に、ヨーロッパの穀倉といわれるウクライナは小麦の不作のため、今年は輸出制限をしている。
 さらに長期的視点に立てば、すでに進んでいる農村の衰退による国土の荒廃は、最大の観光資源としての美しい国土を壊滅させる可能性が強いからである。先祖から受け継いだ美しい国土を後世に残すことは、現在に生きる国民の最大の責務ではないか。(M)         

高校の英語授業の多くは、テキストの内容が理解できたらそれで終わりとなるようです。指名された生徒が訳をし、先生がコメントして模範訳を示し、文構造や文法規則を説明します。数行のパラグラフの訳と解説に相当の時間がかかります。授業時間の大半がテキストの理解に費やしますので、他の活動をする時間はほとんどありません。音読を重視する先生は残りの時間で音読練習をしますが、たいてい二回か三回音読したところで終業チャイムが鳴ります。時間のないときには音読は家庭学習に回されます。復習として生徒のする仕事は、音読を二三回してそのテキストに出てきた単語といくつかの表現を記憶し、試験に備えることです。こういう学習を高校3年間やってどれだけ英語力がつくかは多くの人が経験ずみです。進学する生徒の多くは学校の勉強だけでは足りないと感じ、志望校突破のために予備校に通うことになります。

 テキストの理解は大切です。しかしそれだけで終わっては、言葉は使えるようにはなりません。テキストの理解は英語学習の第一段階に過ぎないのです。次には理解した言葉を実際に使えるように練習する必要があります。日常的に英語を使用する環境にない日本の高校生が、英語を生きた言葉として使うことができるようになるには、インプットと同時に大量のアウトプット(産出)の経験を必要とします。このことは以前から言われてきたことですが、高校の英語教育ではまだ徹底されていないようです。教師が模範訳をしてその訳をノートに書き取らせるというような授業が以前はよくありました。そのような指導をする教師が21世紀の今日まだ存在すると聞いて、筆者は驚いています。そして定期考査の和訳問題にそのセンテンスがそのまま出て、教師の模範訳の通りに書いたら満点をもらえるというのです。それって冗談でしょう?と思わずにはいられません。和訳をノートに書き写す時間があったら、その英文を口頭で言えるようにして、それをソラで正しく書けるようにするようにしてはどうでしょうか。生徒にはそのほうがずっと良いアウトプット練習になり、実際の言語使用経験に近づく活動になるはずです。

 教室での授業は実際のコミュニケーション場面にはなりにくく、いろいろと制限がありますが、それでも工夫をすればいろいろなアウトプット活動が可能です。以下に比較的に簡単にできるアウトプット活動をいくつか挙げてみます。これらは多くの英語クラスで行われているものですが、やり方が悪いと何の効果も得られませんので指導には注意が必要です。

 まず音読があります。音読はたいていのクラスで行われていると思いますが、往々にしてマンネリ化します。つまり授業の最後に行う儀式のようになってしまって、教師も生徒も何のためにやっているのかを忘れてしまうということです。まず教師が ‘Read after me.’ と言い、生徒が教師のあとについて口を動かします。テキストの意味はもう分かっている(と生徒は思っている)ので、頭の中はほとんど空っぽで、ただ音だけに集中します。これを二度、三度と繰り返すうちに頭の中はますます空になり、口先だけの機械的な作業になります。その証拠に、そのあとで幾人かの生徒を指名して読ませてみると、信じられないほど下手な読み方をする者がいて驚かされます。なぜそうなるのでしょうか。理由はいくつかありますが、いちばん大きな理由は、モデルのあとについて読むのとモデルなしで読むのとでは、大きな違いがあるからです。モデルについて読む場合には、教師の発したモデルの音声がそれぞれの生徒のワーキング・メモリー(短期記憶)の中に留まっているので、そのモデルに似た音を再生するのは容易です。これにつまずく生徒はほとんどいないと思われます。しかしモデルが与えられないと、テキストの文字だけを見てその音を自分で再生するのは非常に難しい作業になります。なぜなら、生徒は文字を音に変換するために、自分の記憶貯蔵庫を検索して正しい音を捜し出し、それをワーキング・メモリーの中に引き出してこなければならないからです。一度や二度モデルについて言ってみたくらいで出来るようになるものではないのです。

 そういうわけで音読という活動は、授業の最後に二回か三回モデルについて声を出せばすぐ身につく、というようなものではありません。高校の英語の先生方には、音読のこういう基本的な心理学的プロセスを理解していない方が多いように思います。音読は理解したテキストを音声言語に変換して、それを基にさまざまなアウトプット活動に発展させる可能性を持った非常に重要な活動です。すべての生徒に対してそれぞれ自分なりの音読ができるように励まし援助してあげること——これは英語教師の最も重要な任務の一つであることは間違いのないところです。 (To be continued.)

(117) 

< 総選挙を前に思う > 松山薫

 総選挙が間もなく実施されることになった。
83歳の私にとっては、これが人生最後の総選挙になるだろうから、悔いのないような投票をしたいと思う。選挙の時々に自分なりに考えて候補者を選んできたつもりだが、後になってみると、なんであのような人物を選択したのかと思うこともある。公約を弊履のごとく捨て去る政党や政治家が悪いのか、人を見る眼がなかった自分のせいなのか、或いは両方であったかもしれない。

 20歳で選挙権を得て以来、今まで一度も棄権したことはないし、私の判断基準は一貫して、第一が反戦平和、第二が、公正な社会を目指しているのかどうかであった。今回も当然この基準で選択するつもりである。

 政党政治である以上、まずは政党を選び、その政党の候補者に投票するのが筋であり、私はほぼ日本社会党、社民党を選択してきたが、前回は民主党候補に投票した。なんとしても政権交代が必要だと思ったからである。政権交代は実現したから、自分の投票行動は間違っていなかったと思っている。
 
 しかし、民主党は圧倒的多数を与えられながら、政権公約の多くを実現できなかった。その上、松下政経塾出身の野田、前原、玄葉らは、集団自衛権を認めて憲法を実質的に反故にしようとしているようだし、TPPに参加して、日米同盟の深化というお題目で対米従属を一層進めることになるだろうと思うから、今回は選択外だ。

 かといって、自民党へなどという選択はあり得ない。安倍は前に総理を勤めた際、教育基本法を改正し、今度は憲法改正をもくろんでいるからだ。それに、この党は、戦後50年にわたる一党支配の中で、国と国民をeconomic animalsと化した経済至上主義、その挙句国家財政を破綻の淵に追いかんだことへの反省が毛頭見当たらないのだから問題外である。

 そこで、かなりの有権者がいわゆる第三極に期待をかけているようだが、私には、これはかなり危険な道に見える。第三極の大連合を呼びかけている石原は核武装論者であり、尖閣、竹島での緊張関係を利して、排他的ナショナリズムを復活させる恐れが強い。こういう人物と手を組もうという橋下は、教育にもバウチャー制をという新自由主義的競争原理主義者である。
維新8策の中には、官僚制の打破、地方主権、首相公選制など、私の持論と一致するものもあるが、競争原理主義に基づく限り、行き着く先が、”We are the 99%.”の 超格差社会であることは、サッチャー、レーガン、小泉の前轍で明らかである。

 こう考えてくると、有象無象の政党は15もあるが、選ぶべきところがない。私としては、「平和憲法護持、脱原発、格差社会の解消」の三原則の下に、競争原理ではなく、創造原理によって持続可能な経済社会を目指す日本版”緑の人々“のような国民大連合が生まれることを期待しているのだが、私の目の黒いうちには実現しそうもない。せめて、そのための萌芽になるようなものが生まれることを願って比例区の投票をしたい。

 小選挙区制のもとで、選ぶべき政党がないとなると、候補者選びは極端に難しくなる。候補者の数が少ないので、自分の基準に沿う人物が直ぐには見当たらない上、昔のような立会演説会もないから、候補者の本音はなかなかうかがい知ることができない。結局、選挙公報と候補者の履歴、それにTV,RADIOの政見放送が頼りだ。

 その際私がまず排除するのが、世襲議員である。公正な社会を作るという第二の基準に真っ向から反するからだ。自民党は総裁初め党三役全員が親の跡目を継いだ世襲議員である。民主党は党三役には世襲議員はいないが、最高顧問なる老人の多くが世襲議員である。とにかく、一応自由選挙がおこなわれている国で、これほど世襲議員が跋扈している国を知らない。世間の風当たりの強さに、自民党も民主党も、世襲議員を制限する案を考えたようだが、いつの間にか立ち消えになった。これらの案にあったように、勿論政治家の親族にも政治家を目指す自由はある。いわゆる落下傘候補として見知らぬ土地で自ら地盤を築き上げて政治家になるのならだれも文句はないだろう。解散直後の議員総会での野田首相の「世襲政治家の跳梁跋扈を許してはならない」という絶叫だけには共鳴した。

 私は、NHKにいた頃かなりの数の政治家に合い、保守党の中にも立派な人物がいたことを知っている。また、NHK労組の役員として委員長だった上田哲の選挙専従をつとめ、多くの革新政党の政治家に会い、彼等の社会変革にかけた人生に感動したこともあった。だから、政党によって政治家が選べないとしたら、保革を問わず、本当に公正な社会を目指す信念を持った人物かどうかを出来るだけ見極めて、bestやbetterではなくても、worstにならないように、人生最後の総選挙の投票をしたいと考えている。(M)

「野田佳彦なる人物の総括」を考える
(1)11月14日の党首討論で、野田総理は、「自民党が約束を守るならば、16日にも解散してよい」と宣言しました。これでマスコミは大騒ぎです。「いや、騒いでいるのではなく、冷静に情勢を分析しているのだ」と新聞は反論するかも知れませんが、民放のテレビ番組などは、うんざりするほど同じような憶測の繰り返しでした。NHK が「ニュースの時間です」と言って、国会中継を止めてしまったのも内容の重大性から考えて、どうかと思いました。

(2)野田氏は、「自分がうそつきの首相だったと言われるのを最も嫌がっていた」という側近のコメントがありましたが、それは事実だろうと思います。党首討論の場でも、自分の小学生時代を振り返って、「通信簿の備考欄に、頭にバカがつくほど、正直な人間」と書かれたこと、そして「父親がそのことを何も言わなかった」ことなどを紹介していました。正直はともかく、「この人物はやはりバカなのだ」と私は思いたいです。

(3)以前のこのブログ(その27)で私は、「“八方美人”の野田首相は、最初のボタンを掛け違えて、自分も日本も“八方塞がり”にしてしまった」と書きましたが、今回の「16日解散」発言は、一見冷静な態度とは裏腹に、かなり感情的な要素が強いものと私は感じました。こういう人物は外国との交渉には向かないのです。しかも、足元から離反者が次々と出るようでは、統率力が無いことは見え見えです。

(4)党からの離反者については、「自分の当選しか考えない利己的な行動だ」との批判がありますが、これまでだって、選挙になれば自分の当選のことしか考えない議員がほとんどだったのではないでしょうか。板垣退助(1837-1919)のように、暴漢に刺されて、「吾死するとも自由は死せじ」(この文言は幾通りかあります)と信念を叫ぶような政治家はもう絶無なのでしょう。“説明責任”とか、“政治資金収支報告”のように用語ばかり新しくなっても、実践が伴わない例が多過ぎるのです。

(5)党首討論で、「16日解散」を引き出した自民党の安倍総裁は特に党内での評判を落としているとも言われています。「突っ込みが弱い」とか、「野田総理に逆襲された」とか批判されているのですが、どっちもどっちでしょう。今回の選挙で、野田氏と安倍氏のどちらも、首相になれる保証などどこにもないはずです。「党首討論」そのものが議論らしい議論になっていなかったのだと思います。

(6)選挙制度を変えるならば、定数の是正だけではなく、今後はインターネットの書き込みや、テレビ、ラジオによる宣伝の規制なども変更してはどうかと、私は考えます。ある弁護士の集団は、今回の解散を「憲法違反状態のままの解散」ということで訴訟を起こす準備をしています。場合によっては、選挙のやり直しということになって、大変な混乱状態になります。

(7)その前に、今回のような論点のはっきりしない解散、総選挙では、棄権する人が増えるのが心配です。消費税、原発、TPP など国民の生活に重大な影響がある問題を、「そんな細かいことは、選挙後に相談すればいい」などと言われたのでは、国民はたまりません。戦後間もなくの吉田茂首相の時代には、“バカヤロー解散”というのもありましたが、後世の人々が、今回の選挙を“やけっぱち解散”と呼ぶことを私は期待します。(この回終り)

「予習プリント」は教師にとっても生徒にとっても、教科書のテキストを深く理解するためにたいへん有効です。それだけではなく、授業でのテキスト理解の時間を短縮するのに大いに役に立ちます。一般に、最近の英語指導法は予習よりも復習を重視するようです。たしかに、英語の学習経験の乏しい中学生には、予習よりも復習のほうが大切でしょう。彼らはまだ英語がどんな言語かをよく知らないからです。しかし高校生には予習を奨励してよいのではないでしょうか。予習をするためには既習の知識を利用する必要がありますから、それは必然的に、生徒各自がすでに所有している英語の知識を動員します。また予習には辞書が必要になりますので、生徒は辞書を頻繁に引くことによってその使用に習熟します。日本人が自力で英語力を高めるためには、辞書の活用は必須のものです。そしてその技能は、高校生時代にこそ身につけるべきものです。辞書を引きながら未知の英語の文章に取り組むことは、高校生が英語学習で味わうことのできる特権的な楽しみの一つではないでしょうか。

 どのような予習プリントを作るかは教師しだいで、生徒の学力や人数、教材の種類や難易、学習の目的等によって違ってきます。おそらくその形式や内容は多種多様でしょう。そういうプリントを持ち寄って、互いに学び合う研究会も多数存在することでしょう。望ましいのは、各学校で同じ学年を分担している教師たちが、各自の作成しているプリントを持ち寄って気軽にコメントをし合うことです。もしそういう会合を持っていない学校があるとすれば、すぐにも始めてほしいものです。

 さて予習プリントを作成するにあたっては、作成者である教師が、生徒と一緒になって新しいテキストに取り組む姿勢を保つことが大切です。古いタイプの教師には、自分は生徒より知識と技能において格段に優れているのだから、一段高いところから教えてやるという考えの人が多かったと思います。しかし現在はそのような態度は通用しません。たしかに教師は生徒にとっては先生ですが、共に英語の学習者であることには変わりありません。先生は生徒よりちょっとだけ先を歩いているだけです。生徒と一緒になって未知のテキストに取り組む姿勢が生徒を刺激し、先生を目標にして自分も頑張るぞという気持ちにさせるのです。

 ここで筆者の手許にある新聞記事をテキストに見立て、簡単な予習プリントを作ってみます。このテキストは特に語彙の面で高校生にはちょっと難しいと思われますので、「時事英語」を学ぶ大学生か成人のクラスを対象としていると考えてください。それは先日のアメリカ大統領選挙でのオバマ再選を報じている新聞記事(The Japan Times, Nov. 8)の一部です。(スラッシュはパラグラフの切れ目を示します。)

The election sorted out winners and losers, but it left intact a polarized governing structure in Washington that has been unable to produce much more than gridlock over the past couple of years. / President Barack Obama appeared on track to become the first president in modern history to be re-elected with a smaller share of the vote than he got in his first bid. And while voters opted to keep Congress in the same hands as the past two years, congressional approval ratings are at near-record lows. / After an intensely negative campaign in which both parties defined themselves by who they were not and where they would not compromise, neither can claim that voters gave them a mandate to actually accomplish anything. / But as they return to Washington and a set of immediate challenges, starting with the yearend “fiscal cliff,” the election has given them a new understanding of what they are up against. (Source: The Washington Post)

 <予習プリント> 次の下線部に注意してそれぞれの語句全体(名詞句)の意味を考え、その具体的な事実(または内容)をしらべてみよう。

① a polarized governing structure in Washington that has been unable to produce much more than gridlock over the past couple of years

② the first president in modern history to be re-elected with a smaller share of the vote than he got in his first bid

③ an intensely negative campaign in which both parties defined themselves by who they were not and where they would not compromise

④ the yearend “fiscal cliff

⑤ a new understanding of what they are up against

 これはほんの一例ですが、このような予習プリントを配布して生徒に予習の習慣をつけさせるポイントを3つほど挙げておきます。第1に、プリントの作成があまり教師の負担にならないようにすることが大切です。負担がかかり過ぎると長続きしません。できるだけ簡単に作成できるものにします。この仕事は ‘sustainability’ (持続可能性)ということが非常に重要です。第2に、プリントの課題が生徒にとってなるべくチャレンジングなタスクになるようにします。与えられた選択肢の中から選ぶというような単純な作業よりも、辞書をしらべ、頭を使って考えさせるもののほうが優れています。こうして予習プリントで授業の準備をすることによって、生徒は今日の授業で学ぶことを予測することができます。第3に、予習をしてきた生徒が授業で達成感を味わうことができるようにしたいものです。意欲的な生徒にとっては、予習プリントのタスクがチャレンジングであればあるほど達成感が大きいかもしれません。しかし生徒の負担が大きすぎないよう、クラス全体への気配りも必要でしょう。(To be continued.)

(116)英語との付き合い-41

<英語を学ぶ日本人の考え>(3)

3.英語学習の心構え

● アンケート回答者の選択 <末尾の数字は後掲書の番号>

* 英語に上達するために必要なのは訓練である。したがって、「英会話学校が役に立つか否か」を判定するためには、「そこにネイティブ・スピーカーがいるかどうか」ではなく、「そこで適切な訓練が行われているかどうか」をみなければならない。(3)
* 英語の高度なコミュニケーション能力は、教室でほんの少し、外国人の指導の下に会話や討論のまねごとをしたくらいで、身につくものではありません。...だから、本気で心から英語力が身につくことを望むものは、学校外で可能な限り、自分の利用できる時間と手段を組み合わせて、努力しなければ駄目なのです。(8)
* 英語は母国語でない人々にとっては、英語で全てのことが出来なくても少しも困りません。私たちは自分の都合に合わせて、仕事、交際、教養、娯楽、研究、留学など(生活の)一部で英語ができればそれでよいわけです。...英語は、どんどん使わなければなりません。もっとできるようになってから使うなどと考えるのは本末転倒です。泳げるようになったら泳ぐなどという人はいないでしょう。完全主義は語学学習の大敵です。(5)
* 日本では勉強はとかく安易に走りがちです。写真やイラストを満載した学習雑誌をぱらぱらとめくっていれば、何とかできるようになるなどと考えるのは大間違いです。しっかりと勉強しなければ絶対にできるようにはなりません。同時に、地道に努力すれば、必ずできるようになるのです。(5)
* 年をとったせいで英語を習得する能力が消えることはない。たとえ成人した後であっても、 集中して英語を学習する時間を確保すること、失敗や間違いを恥ずかしがらないこと、そ
してひたすら英語を聞いて英語の音に慣れることさえできれば、高度の英語力をマスターすることは可能なのである。(7)
* 外国語の勉強は、何歳になっても出来る。「40才を過ぎたらムリだ」などと言ってはいけない。トルストイは老年になってイタリア語を習得した。シュリーマンは、64才になってからも新しい外国語に挑戦した。(3)
* 日常会話レベルを超えて英語を使いこなすようになるためには、ある時期に一定期間英語漬けになって、そうとうの訓練をしなければならない。(7)
* 母語と第二言語はその習得に決定的な差がある。我々は母語を手がかりとし、母語との細やかで、綿密な参照・対応関係を駆使しながら第二言語を理解せざるをえない。…本場の英語だからといってネイティヴにやみくもに習ったところで身につかない。(9)
* 言語に関する知識と言語を用いる技能とは同一ではない。・・・技能の獲得には、実際に使ってみて幾度も誤りを犯し、反省し、修正し、学習者自身が納得するシステムを仕上げていくプロセスが必要なのである。それは学習者に大変な時間と努力を要求する。(4)
* どの程度の期間勉強したらよいのだろうか。外国語を支障なく使えるようになるために必要な勉強時間は、4000時間程度といわれている。このうち一部は学校で勉強している。どのくらい勉強したかは人によって違うが、だいたい2000時間から3000時間だろう。そうすると、1000時間から2000時間勉強する必要がある

● 私の見解

 英語を、コミュニケーションの技術という面から考えると、他の価値ある技術と同様、その習得に一定期間の修練が必要なことは、自明の理です。外国人と対話のできる英語力を身につけるのに、特別な才能はいりませんし、年齢もあまり関係ないと思いますが、それぞれが必要とするレベルの対話の目標に向かって一定の期間、努力することが不可欠であり、それを自覚せずに学習を始めると多分挫折するでしょう。一定期間の、“一定は”、具体的な目標や最終目的によって異なり、既有の英語力や学習にかけられる時間によっても長短はあるでしょうが、どんな目的で学習するにせよ、目標にむかって一定の期間、きちんとした方法論に基づいて、修練することは絶対に不可欠です。ですから、私は学習会の初めに、それが出来そうもない人は、英語のみならず、外国語の学習はやらないほうがよいと告げることにしていました。
 昔から(今でも?)、例えば、演歌歌手とか、指物師、刀鍛冶などになりたくて、師匠に弟子入りすると、はじめは庭の掃除や雑巾がけばかりさせられたそうです。不合理に見えて、それは、その人が、技術を習得するための基盤になる単調な作業に、継続して取り組むことが出来るかどうかをチェックする期間として必要なのだろうと思います。

 一方で、指導する側としては、「一定の期間」について、なるべく具体的にメド付けをして学習者に示す責任があります。私たちの学習会では、英語を話す外国人と英語で一応の対話ができるまでの学習時間を、中学校卒業の英語力+1600時間と算定しました。いろいろ参考書も読みましたが、結局、私と同僚たちと体験に基づいて算定することになりました。算定の基礎としたのは、週6日間、毎日1時間の自己学習(予習・復習)と1時間半の学習会参加×年間40週=年間260時間×5年間=1300時間+対話練習300時間 で 合計 1,600時間 です。
 しかし、実際に始めてみると、英語を再学習したいと考えている日本人成人の多くの英語力は、外国語学習指導要領が定めている中学校3年程度には達しておらず、英語学習の基盤をつくるため、さらに1年間260時間が必要であると判断するに至りました。つまり、最初から始めて、全部の過程で一期間(半年)学習するとすると合計 1,860時間 ということになります。

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1.日本語力と英語力 斉藤孝・斉藤兆史 中公新書 2.英語は日本人教師 上西俊雄 洋泉社 3.超英語学習法 野口悠起雄 講談社  4.英語の音読指導 土屋澄男 研究社
5.世界の英語を歩く 本名信行 集英社新書  6.あえて英語公用語論 船橋洋一 7.英語を子供に教えるな 市川力 中公新書  8.日本人は何故英語が出来ないのか 鈴木孝行  岩波新書  9.誰がこの国の英語をダメにしたのか  澤井繁男  NHK出版10.英語屋さんの虎の巻 浦出善文 集英社新書 (M)

テキストの内容を手っ取り早く理解させるには全文訳をプリントして生徒に配布するのがいちばん簡便です。たいていの検定教科書には教師用の指導マニュアルが付いていて、そこに全文訳が載っています。筆者も以前、何種類もの高校用教科書の作成に関わりましたので、いくつかの夏休みを指導マニュアルの原稿を書くことに費やしました。それを書きながら考えたことがあります。このような全文訳は、おそらく指導する先生方は必要としないだろう、必要とするのは生徒ではなかろうか、と。いっそ教科書に全文訳を載せてはどうだろうか、そうすれば授業で訳す手間が省けて、その時間を他のもっとアクティブな言語活動に当てることができるのに、と考えたものです。

 実際に、検定教科書以外の学習書の多くは訳を載せています。検定教科書だけがどうして訳を載せないのでしょうか。その答えは簡単です。教科書作成に関わる出版編集部はそろって言います。「そういう教科書は売れない!」と。たしかに、教科書に全文訳を載せることには教師の側から常に強い反対意見が出るようです。高校の英語科では、受験指導のベテランと言われる主任級の教師たちが猛反対をします。英文と並べて訳を出すのはもちろん、それを巻末の付録として出すのも駄目だと言います。反対の主たる論点は、訳をすることが英語学習の主要目的の一つであるから、それを教科書に載せるのは間違っているというのです。その人たちの言い分では、英文の内容理解は和訳をしてはじめて可能になるのであり、大学入試問題の英文和訳の問題は言うに及ばず、その他の長文読解の設問についても、全文訳ができてはじめて解答が可能になるのだ、というわけです。

 このように言われると、若い教師は反論するだけの勇気も理論的根拠も欠いているので、黙るほかないでしょう。しかし、上の理屈は本当に根拠があるのでしょうか。以前に「英語学習と訳」の項目で述べましたが、たしかに和訳をして、英語と日本語を引き比べてじっくりと考えて、はじめて理解できるような英文があることは事実です。しかし熟考しないと分からない文章というのは、英語だけでなく日本語にもあります。そもそも文章を読んで理解するというのは、読者がその文章の作者と共通の理解に達することですから、作者の前提としている知識を読者が共有するまでは完全な理解に達することはないのです。しかし教科書に載っているテキストのすべてがそういう難解な文章であるわけではありません。高校生の経験に密着したトピックならば、理解の前提となる作者の知識を生徒たちもある程度共有しているはずです。そういう文章ならば、全部訳さなくても、大部分を英文のまま理解できるのではないでしょうか。理解しにくい箇所だけを日本語にしてみれば足りるはずです。高校の検定教科書をいくつか作成した筆者の経験から、高校の英語テキストにはそういうレッスンもかなりあると思います。

 そうだとすれば、教科書に載るすべてのテキストを訳す必要はないし、全文訳を生徒に配布する必要もないことになります。しかしそれはあくまで机の上の議論であって、実際には、教室にはいろいろな種類の生徒がいます。学力的にも差がありますし、所有している知識もいろいろです。学習法もそれぞれ異なりますし、そもそも学習の目的も違っています。そういういろいろな生徒が混在するクラス環境においては、このテキストに関して生徒は全文訳を必要とするだろうとか、あるいは必要としないだろうとかを、教師が一方的に決めることはできません。それぞれのテキストについて、訳を必要とする生徒と必要としない生徒が混在することを、教師は常に考慮しなくてはなりません。比較的に易しいテキストなので授業で訳をする必要はないが、訳がなくては読めないという生徒のために、全文訳を用意することも考慮することになります。

 しかしそのようなきめ細かな指導をするには、学年教科を一人の教師が担当する場合には可能でも、複数の教師で担当する場合には難しくなります。その場合には担当教師たちが話し合って、同一学年についてほぼ統一した指導システムを作成する努力が必要になります。聞くところによると、高校教師には個性的な人が多く、意見の統一が往々にして困難だといいます。そこでベテラン教師の一声で、「全文訳の配布はいかなる形においても不可」というのが訓令となって流布することになります。その訓令を打ち破る切り札は、「期末考査において、教科書のテキストを原文のまま和訳問題として使わないこと」という新たな訓令を発令してもらうことです。そしてそのことを生徒にも通達します。そうすれば、生徒がいわゆる「訳の奴隷」になることなく、訳をするのはテキストの内容理解のための一手段であって、訳された日本語に価値があるのではないことを彼らは認識するはずです。(To be continued.)