Archive for 3月, 2011

英語語彙の学習(10)

Author: 土屋澄男

2つ以上の語が結合して文法的・意味的なまとまり(チャンク)を作ることで発話の単位が作られます。それがさらに組み合わされて、より大きな単位のセンテンスやディスコース(談話)へと発展していきます。幼い子どもも最初小さな単位の発話を聞いて言葉を学んでいきます。英語の学習者も、同じように、語の結合の仕方を学ばなければなりません。そして語の結合は、どの言語の場合もそうですが、文法的また意味的に規制されます。たとえば、いま話題の「原発」(原子力発電所)は英語ではa nuclear power plant (またはan atomic  power plant)ですが、これは文法的(統語的)には名詞句で「冠詞+形容詞+名詞+名詞」の組み合わせになっています。この語の組み合わせをちょっとでも変えると、おそらく通じる英語にはなりません。日本語の場合もそうです。また、a nuclear energy plantのように、一部の語を他の語に入れ替えると、意味は通じても、あまり聞き慣れない組み合わせなので、英語を普段使っている人には不自然に聞こえるかもしれません。a nuclear power plantのように頻繁に使われ、自然な語の組み合わせと感じられるものを、特に「コロケーション」(collocation)と呼びます。Collocateの原義は「一緒に並べる」です。日本語では「連語」と訳されていますが、英語のコロケーションと日本語の連語には文法的にも意味的にもずれがありますので、英語語彙の話に「連語」を用いるのはしっくりしません。

 コロケーションをきちんと定義することは難しいのですが、ここで読者と一応の共通理解を得ておかないと、この後の議論が(語彙だけでなく文法についても)混乱しそうなので、簡単にまとめてみます。まずOALDの定義を見てみましょう。

Collocation: a combination of words in a language, that happens very often and more frequently than would happen by chance.

これを筆者なりに訳すと、「ある言語において非常によく現れる語の組み合わせで、偶然に現れるよりも高い頻度で現れるもの」となります。かなり苦心して作られた定義のようですが、あまり明快とは言えません。もっと簡潔に、「発話や文章の中に繰り返し現れる、なかば固定した語の組み合わせ」と言ったらよいと思います。OALDには例としてa resounding success(大成功); a crying shame(大恥)が載っています。これらがそれほど高い頻度で現れるコロケーションかどうか筆者は知りませんが、形容詞と名詞の組み合わせが面白く感じられ、母語話者にはきっとなじみの言いまわしなのでしょう。この「なじみの言いまわし」というのがコロケーションの肝どころのように思われます。ただし ‘kick the bucket’ (くたばる、死ぬ)のように、それぞれの語の意味からかけ離れてしまった慣用句のようなものをコロケーションとは言わないようです。

 コロケーションがそういうものであるとすれば、人は自分の言語に関して膨大なコロケーションの知識を持っていると考えられます。外国語として英語を学ぶ私たちはインプット量が限られているので、それらに習熟するのは容易ではありません。事実、コロケーションの学習は、発音学習とともに、外国人にとって最大の難関の一つです。長年英語を学んで母語話者とほとんど変わらないと思われている人でも、微妙な発音の違いと、ちょっとしたコロケーションの破れから、外国人だと分かってしまうという話をよく聞きます。敵国に潜入したスパイがそのためにスパイと見破られてしまった、というのはスパイ小説の常套です。しかし、学習者の目的が英語の母語話者と同じになることでなければ(英語国に潜入してスパイになるなど、今の若い人は考えないでしょう)、母語話者なみのコロケーションの知識を持つことを目標にする必要はないと思われます。それよりも、自分のアイディアや意見を相手に理解してもらうために必要な最低限のコロケーションを身につけることに集中すべきです。コロケーションは、結局のところ、語を並べて文法的・意味的に理解可能なチャンクを作ることですから、英文構成の最も基本的な学習事項なのです。

 ここまで英語語彙について長々と述べてきましたが、コロケーションの話はすでに文法(あるいは統語法)の領域に入っています。「英文法」というと5文型から始めなければならないと思っておられる方があるかもしれませんが、筆者はもっと単純に、語の並べ方が文法だと考えています。語を並べることによって有意味なフレーズやクローズを作ることが重要なのです。それには簡単なコロケーションの学習からスタートするのがいちばんです。母語の習得に励む幼児もそうしています。次回には動詞句のコロケーションから話を進めます。(To be continued.)

< 危機対応の甘さ > 松山 薫

藤沢のプールでたまに出会うアメリカ人と帰りがけにロッカー室で隣り合わせになったので“Don’t you evacuate ? ”と聞いてみた。“Yes, I do.” “ When ?〝 That depends.”という短い会話のなかで、髭面だが柔和な彼の顔は明らかにいつもとは違っていた。その2日後、事実上の母港である横須賀でメインテナンス中のアメリカの原子力空母ジョージ・ワシントンが突然出航した。メインテナンス中の出航は異例のことだが、理由の説明はなかったという。私はふと、あのアメリカの青年は、この空母の乗組員ではなかったかと思った。この話を団地の知人にすると、アメリカの別の空母ロナルド・レーガンが被災地の沖に停泊して救援活動をしているのだから、それはかんぐりすぎだよと軽くいなされた。しかし、私はそれほど楽観的にはなれない。長く横須賀に停泊していたジョージ・ワシントンと違い、ロナルド・レーガンの乗組員は、放射線に対する十分な防護措置を講じているに違いないからだ。アメリカのルース駐日大使が在日アメリカ人に対して避難を呼びかけたビデオを見ても、
同じ様な危機感がにじみでていた。
 
 原発安全神話に馴らされた日本人以外は、福島第1原発の異様な姿を見て、原子炉のいくつかが爆発する悪夢を頭に描いているに違いない。プールで出会ったアメリカ人や、ルース大使の顔にそう書いてあった。つまり、彼等は今度の事故を、disasterではなく、catastropheと捉えているのだ。 たしかにチェルノブイリの事故と異なり、福島原発の原子炉では、核分裂反応は起きていないのだろう。したがって原子炉が爆発する可能性はないかもしれない。しかし、炉心溶融の結果、炉内の圧力が強まって原子炉や配管にひびが入り、放射性物質が大量に流れ出せば、結局は同じなのである。事実、390万ベクレルという異常に高濃度の放射性物質が水に溶けて流出していることがわかったという。

 日本政府も今度の事故を重大な危機と捉え、最初からそのように対応すべきではなかったのか。アメリカ政府が在日米人に80キロ以内からの避難を呼びかけたとき、日本政府や一部の専門家は過剰反応であると断じた。だが本当にそうか。初めに80キロ或いは50キロを危険区域と定め、そのなかで、グレイドを分けて、危険がないと判断すれば、距離を縮めていく方法をとっていれば、一時パニックが起きてもやがて静まっただろう。反対に、初めに2キロ、次ぎに3キロ、10キロ、20キロ、30キロと範囲を広げていくと国民の不安心理はそのたびに増幅する。挙句の果てに、200キロも離れた東京の水道水まで汚染する事態となった。国民は明らかに、政府のつぎはぎだらけの頼りない対応に不安を募らせている。
 
 原子炉の安全のチェック、規制を行政の一部門(原子力安全・保安院 経済産業省の機関)が担当していることにも問題がある。アメリカの原子力規制委員会は、大統領の指名により上院の承認を受けた委員長ら5人で構成されている。日本にも同じ様なステータスの原子力安全委員会があるが、規模が格段に小さい。今回の危機にあたっても影が薄いが、菅首相は、この委員会のアドバイスを受けて対策を決めているという。であれば、原子力安全・保安院の役人ではなく、この委員会が国民の矢面に立つべきだろう。私が記者会見に出たら、先ず、
この委員会が、避難範囲を最初2キロと決めた根拠を問いたい。

 危機を段階的にコントロールできるという危機管理の思想は、人知の及ばない自然災害には通用しないし、不遜でもある。この国が災害列島であることを思えば、スケールの大きな複合災害に対応し、持てる力を結集したスケールの大きな対応策が必要である。たとえば地震や津波による原発事故の場合、原発の開発に反対してきた人達や耐震性に疑問を持ってきた人達の意見も聞くべきだろう。その上で、大局的な立場から政治に判断してもらいたい。安全性を強調してきた原子力安全委員会には、事故をなるべく軽微にみたいという心理が働くことは当然だからだ。今からでもそのような対応策をとって欲しいと思う。(M)

  

 
 

英語語彙の学習(9)

Author: 土屋澄男

前回に述べたことから、語の使用には受容(receptive)と発表(productive)の両面があることが分かります。音を聞いて理解できる、または綴り字を見て理解できる語彙を受容語彙、話し言葉や書き言葉で自分が使うことのできる語彙を発表語彙といいます。当然のことですが、発表語彙よりも受容語彙のほうが大きいと思われます。ですから、たとえばある人が3000語の語彙があると言っても、それが受容語彙なのか発表語彙なのかによって、その人の語彙の大きさは全然違ったものになります。受容語彙が3000ならば、その人の発表語彙はそれよりもかなり小さい(おそらくその半分くらい)と推定されるからです。大学入試やTOEFLのテストは、以前はほとんど英語の受容能力をみる問題で占められていました。大学入試センター試験は今でもそうです。音声の受容能力をみる問題(聞き取り)でさえ最近始まったばかりです。しかしTOEFLが発表能力をみる問題を取り入れたのを始め、国立大学の2次試験も最近ライティングのテストをかなり取りこむようになりました。これはテスティングの観点からは進歩と言えるでしょう。しかし語彙に関して、その受容能力と発表能力を真に妥当で信頼できる方法で測定しようとするテスト問題は、入試に関する限りまだ開発されていません。その努力は語彙の専門家の間ではなされていますが、筆者の知る限り、入試問題にはまだ反映されていないように思われます。

 テストにおける受容語彙と発表語彙の配分の問題はさておき、英語学習者が語彙のことを語るとき、一般に受容語彙を念頭に置いていることが多いように思われます。それは入試や資格試験の問題が受容能力に偏っていることの影響があるでしょう。しかしコミュニケーションは相互のやりとりで成り立ちますから、語彙に関しても、受容力とともに発表力を高めることが必要なことは言うまでもありません。中学・高校で習得を目指す基礎的な語彙は、できるだけ発表語彙として使えるようになることが大切です。本当によく知っている語は、まれにしか使わなくても、必要があれば使えるはずです。たとえばcareful, carefullyはかなり頻度の高い語ですから、それらを発表語彙に入れるのは難しくはないでしょう。しかしcarelessはJACET8000で順位6691番の語で使用頻度はそれほど高くありません。一度くらいテキストで出合っても忘れてしまうでしょう。しかしa careless driverとかcareless mistakesなどとフレーズにして覚えておけば、使用する可能性はずっと増えます。そういうわけで、私たちが新しい単語に出合ったときに、ちょっと寄り道に感じることがあっても、その語を使う場面を想像して独りごとを言ってみるなどして、それを発表語彙に変換することができます。

 よく言われることですが、英単語を覚えるコツは、単語をバラバラに覚えるのではなく、他の語や視覚イメージや聴覚イメージと結びつけて覚えることが重要です。それはおそらく、語彙は私たちの脳の中でさまざまなネットワークを作って蓄えられているからでしょう。その証拠として、私たちは一つの語を刺激として与えられると、次々にいろいろな語を連想することができます。ここで古典的な連想テストの研究を紹介しましょう。これは1910年のThe American Journal of Insanity に載った論文で、語のリストを1000人の被験者に提示し、それぞれの語に対して思いつく1語を言ってもらうというものでした。その結果、たとえばchairに対して次のような反応を得ました(括弧内の数字は1000人中の反応数)。

  Table (191), seat (127), sit (108), furniture (83), sitting (56), wood (49), rest (45), stool (38), comfort (21), rocker (17), rocking (15), bench (13), cushion (12), legs (11), floor (10), 以下91語省略

 これらの反応語は実験者(Kent and Rosanoff)が予想していた以上に多様でした。しかし同時に、語の連想はいくつかの種類に分類できることが分かりました。最もよく知られるものは、①対照(contrast)②類似(similar)③下位(subordinate)④同位(coordinate)⑤上位(superordinate)の5つの分類です。上記のchairを刺激語とする反応語はこれらの分類にうまく収まるでしょうか。たとえばrockingはどれかにうまく収まるでしょうか。収まらなければ新しい分類項目を作る必要があります。こうして「語の連想」(word association)についての研究は、その後の心理言語学の主要な関心事の一つとなりました。現在それは、人間の脳における語彙ネットワークや心的辞書(mental lexicon)の研究へと発展しています。先ほどのrockingは、rocking chairからの連想だと思われますが、このような語の連なりが語彙についての次の研究課題として浮かび上がってきます。(To be continued.)

「震災報道」に関連して
(1)未曽有の大震災から1週間が経って、テレビにも普通の番組が戻ってきましたが、民間放送にはAC 公共放送が挿入されています。この AC は、確か “Advertising Council, Japan” という機構が運営しているはずですが、商品のコマーシャルよりも、内容はなるほどと思わせるものがあります。しかし、あまり頻繁に見せられると、有難味が減って、商品のコマーシャルが新鮮に見えたりします。テレビの視聴者とは勝手で我儘なものだと自省を含めて思います。

(2)3月18日(金)の読売新聞は、「編集手帳」でいいことを書いていました。すなわち、経済学者のシューマッハーは、指導者には2通りがあって、1つは、クリスマスツリーのてっぺんの星のようなタイプ、もう1つは、幾つもの宙に浮いた風船を手で握っているようなタイプで、大災害のような場合は、後者が適していると。ただし、複数の風船は、それぞれ有能な副官に任せていいが、全体は把握しているべきだというわけです。しかし、現実はこの逆で、そのことを松山薫さんがブログで「大局観の欠如」だと鋭く指摘しています。

(3)さらに「編集手帳」は続けて、管首相は官房長官を分身にして上意下達
型の星たらんとしたようだが、「原発対応に忙殺されて、綻(ほころび)はいかんともしがたい」と述べています。そして、首相も官房長官も疲労は極限に近づいていて、集中力はも落ちているだろうから、人材が不足しているならば、野党からも応援してもらったらどうか、と提案しています。この3日後に、首相は自民党総裁の谷垣氏に入閣を電話で依頼して断られました。その理由は、報道されていますように、「基本的な政策も話し合わないで、入閣はできない」というものです。

(4)私は、自民党のこの言い分は理解できます。時期は多少遅れるとしても、首都圏以西の大部分では統一地方選挙があるわけですから、その前に連立内閣など作れば、選挙民は当惑するばかりです。しかも、首相は、“陰の総理”とまで言われた仙谷官房副長官を復興計画の担当者に引っ張り出しているのですから、“震災を利用して政権の延命を図っている”と言われても仕方ないでしょう。
こういう人事を“行き当たりばったり”と言うのです。

(5)「“カンポの宿”などたくさん建てて、二束三文で売る羽目になったのだから、そのお金で各地に災害時の避難所などを作っておくべきだった」というコメントをあるタレントとが言っていました。その通りです。過去のことを言い出したらきりがありませんが、例えば、「プルサーマル(これは和製英語らしいです)計画」というものをテレビで宣伝していました。「発電で使用済みの材料はこのように地下深く埋めれば安全です」というわけですが、どこの地域が引き受けるのかも未定でした。だいたい原子力発電所を建てる場合も、多額の補償金などで反対住民を抑え込んできたのが自民党政治ですから、管政権は攻撃点を多数有しているのです。今さらあわてて連立を申し込むことなど私にはまったく理解できません。

(6)前回の私のブログでは、「携帯用ラジオを被災地へ」と書きましたが、お笑いの“ロンブーの淳(あつし)”たちが呼びかけて、電池やラジオがたくさん集まったようです。TBS は会社を挙げて、ラジオの集荷、配分に努力しています。政府の目の届かないところは、このように民間人が協力し合うという嬉しい一面です。政府はそれに甘んじることなく、AC の宣伝のように、“思う”だけでなく、“目に見える思いやり”を実行すべきだと思います。(この回終り)

<大局観の喪失(承前)> 松山薫

14日の新聞の広告に将棋の羽生善治名人の「大局観」という著書の広告が載っていた。本を読んだわけではないが、前回のブログで指摘した大災害への対応に絡んで、この書名にたいへん強い印象を受けた。将棋のことはよくわからないが、囲碁では、局地戦に集中して大局を忘れると、敵失(つまりまぐれ当たり)でもなければほとんど勝てない。私のようなザル碁打ちは、強敵とやると、たいていこういう結果になった。前回、地震の時にいた医院の待合室の様子を書いたが、ここでもそれが現れた。体験したことのない大きな揺れが襲ってきた時には、とにかく外へ逃げることが最優先で、靴などどうでもよいのに、ほとんどの人が、普段どおりに靴をはくことにこだわり混乱を引き起こした。つまり、大局を見失ったのである。待合室が潰れていたら、多くの人が犠牲になっていたろう。

大局観の欠如は、政府の対応にも現れた。被害者への対応と同時に、緊急に対応しなければならないのは原子力発電所の事故であることは前回指摘した。原子炉と原子爆弾は原理的には同じものであり、大事故が起これば影響は計り知れないからである。ところが、菅首相は、原子力の専門家であると称して現地視察に出かけてしまった。官邸に留まり、知識を活かして最悪の事態を想定し、政府の全知全能を傾けて一刻も早く具体的な対応策を策定するのが責務だろう。最高責任者が現地へ出かけて、事故が大変なことになっていたら、対応は手遅れになる。たいしたことがなければ完全な時間のロスだ。事実そうなった。

枝野官房長官の記者会見での対応も全体展望を欠いたものだった。非常事態で怖いのが、流言飛語つまりデマであることを、戦中、戦後を生きた我々は身に沁みて知っている。それを打ち消すものは、正確で具体的で迅速な情報の開示と、それを裏付ける行動である。たとえは、
放射線量について「ただちに人の健康に影響を与えるものではない」と発表すれば、聞いている国民は、「そのうち健康に害になるのだな」と考えるのは当然である。「だだちに」とは具体的にどういうことを意味するのかを丁寧に説明する必要がある。こういう不正確であいまいな情報を流した上、防衛庁のトップが突然「今日が限界だ。」などという無責任な発言をするのだから、国民が不安になるのもまた当然である。首都圏に隣接する福島県のいわき市で、食料も水も医薬品もないという信じられない事態が起きているという。放射線量に関する風評で、トラックの運転手達が、いわき市へ行くのを拒否しているというのだ。私の住む団地周辺のスーパーからは、コメ、電池、トイレットペーパーが姿を消した。停電で小田急が動かないので3キロほど離れた湘南台へ徒歩で行ってみた。大型スーパーの前には開店前から長蛇の列ができていた。あきらめて次に店へ行くと、入場制限で15分後にやっと入店できたが、上記3品目の棚は見事にからだった。戦争中何軒も農家を廻って何も買えず、とぼとぼと家路に着いたことを思い出し、うそら寒い思いがした。家に帰ると家内が「マルエツにおコメあったよ」とこともなげに言った。政府高官が「物資は十分あるから買いだめするな」と言っても民衆は信用しない。実際に物資を店にあふれさせる以外にデマを押さえることは出来ないのだ。せめて、現状を具体的に説明し、何時までにはどうなるという見通しを明らかにしないで、ある、ある
と言うことは逆効果だ、

「同情するならカネをくれ」というフレーズが流行ったことがある。「まず食糧をくれ。同情の言葉はそれからでいい」という被災者の投書があった。これが本音だろう。それに対してきちんと答えることが大局観に基づく責任ある行動である。久米宏が2億円を無言で震災対策に寄付したという。イチロー選手は1億円、ダルブッシュ投手は5千万円だ。無条件で偉いと思う。1回何十万円も取って講演してわっている諸君よ。先ず身を切られるような額のカネをだせ。そうでなければ、君達の言説は将来にわたって信用されないだろう。先ずカネだ。それが、国家予算に匹敵するような額になった時、世界は本当に、日本人を見直すだろう。(M)

英語語彙の学習(8)

Author: 土屋澄男

英語の単語を覚えようとするときに多くの人がすることは、語を1つずつバラバラにして、その語の綴り字と代表的な訳語を対にすることです。綴り字を見て発音してみる人もいますが、もっぱら綴り字と訳語を結びつけようとする人もいます。語の綴りをカードに書き、その裏に訳語を1個書き込むという人もいます。これを「単語カード」と呼んでいますが、それを自分で作る人と、出来合いのカードを使う人があります。もちろん、手間をかけて自分で作ったカードを使って覚えるほうが、ずっと効果があります。なぜなら、出来合いのカードでは覚えるべき語があらかじめ与えられているので、それぞれの語と対面して、それが自分とどんなかかわりがあるのかを理解することができないからです。「この語を覚えることが私にとってどんな意味があるのだろうか」などと考えていたら能率が上がりませんから、いちいちそんなことは考えません。そこにその語があるから覚えるというだけです。そうして覚えた語は、自分とは何のかかわりもないので使うこともなく、その後出合うことがなければやがて忘れてしまいます。中学生や高校生が教科書に出てくる新語を片っ端からカードにして覚えるのもそれに似ています。カードは自分で作っても、覚えるべき語は自分で選んだものではなく、いわば「教科書によって与えられた語」ですから、自分がその語を必要としている理由が曖昧です。ですから覚えても使うことはありません。これに対して、自分が主体的に選択にかかわった語は違います。教科書に出てきた語でも、「これは面白い単語だ」とか、「これは覚えておくといろいろな場面で使える」と感じた語をカードにする場合には、明らかに学習者の自己がかかわっています。そういう語をカードにし、時々取り出してながめ、その語をめぐっていろいろな言葉遊びをする、というようになれば、同じ語の記憶という一見機械的に見える行為にも、自己の主体性がかかわってきます。これが筆者のいう「自律的学習」につながります。

 英単語の記憶に自己を主体的にかかわらせること——これが語の記憶法の極意だと言ってよいでしょう。教科書に出ている語だから、学校の先生が覚えろという語だから、試験に出る語だから、買ってきた単語カードにある語だから、などの理由で覚えるというのは、覚えること自体が目的となり、普通は楽しくありません(そういう他律的行為が楽しいという変わった人もありますが)。あまり意識をすることはないでしょうが、そういう時には、多くの人は心の奥底で退屈するものです。いつもそうしていると、勉強とは退屈でつまらないものだという偏見を固定化してしまいます。長年いろいろな生徒を教えた経験から、そういう気の毒な生徒が何と多かったことか、そういう人たちに、今だったら気づかせてあげられたのになあ、と後悔することがあります。人の記憶は脳が活性化されている時にものすごい力を発揮すると言われます。ですから、中学・高校と6年間英語を学んで、一方ではヘッドワード方式で3000語(指導要領方式で約5000語)をこなし、他方では1000語もままならないという、天と地ほどの差が生じるのです。

 語彙は数が多いだけが問題ではありません。大切なのは、むしろ、語彙の質です。語彙の質と言うとき、それにはさまざまな意味合いがあります。最近の語彙研究者はそれを語彙知識の「深さ」(depth)と言うようです。例としてseparate という語について考えてみましょう。まず、この語は動詞として使われる場合と形容詞として使われる場合とがあります。しかも動詞と形容詞では発音が少し変わります。最後の音節が [-reit] となるか [-rit] となるかの違いですが、これを間違えると通じなくなる恐れがあるので区別しなければなりません。何回か声に出して言ってみることが重要です。次に、この語の意味を知る必要があります。動詞では「分ける、引き離す」と覚えるとします。形容詞は「分かれた」としましょう。そのように覚えておけば、文の読解には役立つかもしれません。また、辞書で調べると、この語には派生語としてseparable (adj.), separately (adv.), separation (n.) などがあることが分かります。これらの語についても発音や品詞に注意する必要があるでしょう。大切なことはまだあります。この語の使い方(用法)です。使い方が分からなくては、この語を含むセンテンスの解釈はできでも、自分でこの語を使えるようにはなりません。そこでこの語を含むセンテンス(またはチャンク)で覚えるといいでしょう。辞書を見るとよい例文や表現が見つかるかもしれません。できれば自分でも例文を作ってみます。カードを作るのならば、訳語だけでなく例文も書きとめておくとよいでしょう。たとえば (They) got separated in the crowd (雑踏ではぐれた)など。そして自分で例文を作ってみます。自分の作った例文ならば忘れる確率はずっと下がります。それは自己が主体的にその語にかかわったからです。(To be continued.)

「現場中継」という手法のこと
(1)「現場からの中継です」と、ニュース報道の途中で、画面が変わることがあります。この手法の意味を考えてみたいと思います。裁判の判決が出るような場合に、傍聴席にいた関係者が、いち早く外に出てきて、支援者に向かって、「勝訴!とか「不当判決!」と書いた大きな紙を示すことがあります。それを中継することは、テレビの速報性という点からも許されることですし、視聴者も歓迎する場合が多いでしょう。

(2)台風の接近の場合には、たいていの局で、レポーターが猛烈な風雨の中をマイク片手に状況描写をします。しかし、「大きな白波が堤防を越えて、打ち寄せています」とか、「私のビニール傘は骨だけになってしまいました」とか、「画面を見ればそんなことはわかるよ」と言いたくなるようなお粗末なレポートが多いのです。視聴者が知りたいのは、台風の強さや、方向、いつ頃どの方面に到達するのか、といったことで、そういうことは、スタジオから冷静に伝えてもらった方がはるかに有効です。

(3)かなり以前のブログで、CNN のレポーターのことを書いたことがあります。ハリケーンの被害を受けた地域からのものでしたが、記者は冷静に、しかも具体的に問題点を指摘していました。日本のキャスターやレポーターは、自分が番組を盛り上げるのだとばかり張り切ってしまうことが多いようですが、「伝える人」というのは当事者とは違う役目があるはずです。
(ここまで書いて、昼食をすませ、テレビを見ていたら、あの大地震が襲ってきました。幸い、私は身体にも、物品にも被害はありませんでしたが、テレビは、「現場中継」ばかりになりました。そのことをコメントしたいと思います。)

(4)テレビは、緊急事態になると欠点ばかりが目立つようです。誰でも大災害に遭遇すれば、平静でいるのは困難ですが、“報道者”としての役目は忘れてほしくないと思います。前にも指摘したことですが、まず「同じ画面を繰り返し過ぎる」ということがあります。「繰り返してはいけない」という意味ではなく、冷静な解説者の話を聞かせるならば、その人の顔を大きく見せるべきでしょう。全く逆に、被害の動画面を繰り返し大きく見せて、発言者の顔を小さくしか見せないのです。

(4)次に言いたいのは、「世界の情勢も報じてほしい」ということです。あれほど同じことを繰り返すならば、5分や10分くらい、普通のニュース放送があってもよいでしょう。被災地の人たちは、かろうじてラジオを聞けるだけという場合があるようですが、「さっぱり全体的な事情がわからない」という声が強いようです。食料、衣類などと同時に、携帯ラジオなどをヘリコプターで配って、必要な情報が届くようにすべきです。人命救助が第一ですが、現状の回復をじっと待っている被災者の声も大事にしてあげたいものです。

(5)政府を代表する官房長官の話は、どうも弁解がましく聞こえます。最初は、「法律の第何項、何条により」などと断っていましたが、視聴者には不要な情報です。もっとも国会が始まれば野党は、「それはどの法律に基づいてやったのか」などと責めるのですから無理もないのでしょう。外交関係のうまくいってなかったロシアや中国からも援助の申し出があって、米国はもとより、各国に大きな“借り“をつくる羽目になったのですから、今後は、超党派で借りを返す努力をしてもらいたいと思います。(この項終わり)

巨大地震への対応

Author: 松山 薫

< 巨大地震への対応 > 松山 薫

昨日(3月11日)午後2時46分、三陸沖を震源とするM8.8の国内の観測史上最大の巨大地震が発生した。発生2時間後に帰宅した私は、12日午前0時過ぎまで7時間あまりNHKTVをモニターしたが、想定を超える規模の大地震であったためか、いろいろなところで対応のまずさ、遅さが目につき、欲求不満がつのった。
 
菅首相がTVで、「政府は全力で対応するから、国民は冷静に行動して欲しい」と呼びかけたのは午後5時のことだった。彼は国会の審議に出席していたのだから、こんなありきたりなことを言うのに、2時間以上もかかるとは信じがたい。枝野官房長官が福島第1原発の核燃料
を入れた圧力容器内の水位が下がっていることを発表したのは地震発生後7時間もたってからで、しかも、それが何を意味するかには触れず、記者達もそれを質さなかった。500キロに及ぶという震源域に沿う地域には、大地震の際最も深刻な被害が予想される原子力発電関係の施設が、青森県六ヶ所村の核燃料再処理工場、宮城県の女川原発、福島第1、第2それに茨城県の東海原発など多数存在するにもかかわらず、それらには何も触れていない。国民の不安をやわらげるためには、地震直後に緊急に調査して発表すべきものである。福島第1原発では10キロ以内の住民の避難が指示されたが、避難先が確保されていないなど、原発地震対策の杜撰さがうかがわれ、電力会社の原発事故隠しの歴史とあいまって、不安がつのる。
また、帰宅難民対策についても、官房長官が都内の通勤通学者に対して、帰宅しないで職場などに泊るよう呼びかけた頃には、既に、多くの人達が徒歩で家路を急いでいた。具体的な宿泊場所が示されず、JRは早々と運転再開をあきらめ、私鉄や地下鉄の見通しもハッキリしないのでは、自分の判断と力に頼るのは当然だろう。茶番としか言えない官房長官の談話であった。最も重要な情報である救援体制については結局11日中には明らかにされず、12日午前0時15分に発表された。しかし、それは派遣隊員の人数と所属先だけで、派遣先などは決まっていなかったらしい。被災者にとっては、何時、誰が助けにくれるのかが命の綱なのに。

気象庁の対応もいらだたしかった。大津波、津波警報の発令地域を繰り返すほかは、津波は何回も襲ってくるから注意しろとか、余震に気をつけろとか、地震国の人間なら常識化している知識を繰り返すだけで、どのくらいの余震が何時ごろまで続くのかなど、国民が本当に知りたいことには何一つ答えられなかった。更に、同じ様なプレイトが重なり合っている太平洋沿岸で、この地震が、東海地震や列島内部の断層地震に連動することはないのかという点にも全く触れなかった。現にかなり離れた甲信越で震度6強の地震が起きており、東京湾直下型地震、東海地震、東南海地震、南海地震は連動して起きる可能性が指摘されているのである。宮城県沖では最近頻繁に地震が起きていた。つまり莫大な国民の税金がつぎ込まれている地震の予知は夢であることがハッキリした。このほか、津波の験潮装置のデータが入ってこないという醜態をさらしながら、今後の大津波に気をつけろといっても全く説得力がない。

 NHKは、多分これまでの防災放送マニュアルに沿って放送したのだろう。大災害の際は全貌はなかなかつかめないから、入ってくるニュース原稿と映像を小刻みにつなぎながら時間とともに全体像をあきらかにする手法だ。しかし、甚大な被害が予想される災害の際には、これでは視聴者の期待にこたえることにはならない。大災害が起きた場合、視聴者が知りたい情報は、今起きていることだけでなく、これからどうなるのかという不安に答える情報である。今回の場合でいえば、① 原発の安全対策 ② 救援体制  ③ 交通機関の開通の見通し④ ライフ・ラインの復旧見通しなどを、いちはやく、しかもまとめて情報提供することで、被災者のパニックを避け、遠方に住む被災者の家族や知人に安心感を与えることが出来る。
NHKは、今回、被災地での停電世帯が数百万世帯におよび1000万人を超える人達がTVから情報を得られず、暗闇のなかで不安な夜を過ごすことになったため、USTREAMやニコニコ動画で総合TVの番組を流したが、停電時に頼りになるのは携帯ラジオであるから、各放送局に備蓄し、避難所などに配布するような体制をつくるべきではないか。

 一方、国民の防災意識の希薄さも気になる。地震が起きた時、私は高血圧の定期診断のため藤澤の医院の待合室にいた。ほとんどが高齢者の20人ほどの人達は初めは笑ったりしていたが、揺れがひどくなるにつれて、顔が引きつっていった。私が最初に玄関から外へ飛び出すと、我先に後に続いたが、身体が揺れて自分の靴をうまくはけなっかた。私が靴は手に持って出ろと叫んだのでハッと我に返ったようだ。外では電柱が左右に1メートルくらい揺れ、電線は上下に大きく波打っていた。医院の前から自宅へ何回も携帯で電話をしたが「接続できません」という表示が出るだけだった。いつもはどうでもよい放送を流している市の防災無線はうんともすんとも言わなかった。医師が震源地が三陸沖であることを告げてくれて診療が続けられ、私は2時間後に団地に帰宅した。当地の震度は5弱であったが、築31年のこの団地は耐震基準が強化される前に建ったので、震度6には耐えられそうもない。しかし住民の防災意識は極めて低いのが現状である。つまり、官も民も防災防災と叫びながら、実際に役立つ準備は極めて貧弱なのではないかと思う。危機管理という言葉がそもそもおかしいのではないか。管理できれば危機ではない。今度の大地震を教訓として、早急に、具体的な危機対応策を策定することが、地震国に住む我々全てにとってのMUSTだろう。(M)

「日曜日の番組」のこと
(1)日曜日の番組については、以前にも対象にしたものがありますから、今回はそれ以外の番組を考えてみます。まず朝早くから始まるのは、フジテレビの「はやく起きた朝は…」です。出演者は、松居直美・森尾由美・磯野貴理の3名です。この番組は放送時間帯が変わることが多く、「おそく起きた朝は…」というタイトルの時もありました。それでも人気があるのは、3人が、かなり率直に本音を語るからでしょう。

(2)もっとも、磯野貴理は、作り話がうまく、別の番組で島田伸介には「貴理の話は“うそ”だ」とばらされたことがあります。タレントとしては、自己顕示欲が強く、実害のない“うそ”をついてでも、目立とうとするくらいでないと生き残れないのかも知れません。『佐賀のがばいばあちゃん』で2度目のブームを巻き起こした島田洋七などもその一人です。「面白おかしければいい」というテレビはそういうタレントに飛びつくわけです。

(3)しかし、映画にもなった「がばいばあちゃん」の話は、きらりと光る人生の教えがちりばめてあって、多くの人の共感を呼んでいます。家の都合で祖母に預けられた洋七が、貧乏生活の中で、年寄りの知恵に守られながら成長した経緯がわかります。「ばあちゃん、お腹すいたよー」と言う洋七に、「今食べてもお腹はまたすくよ」と言う祖母の言葉には、貧乏の苦労と愛情が感じられます。

(4)「はやくおきた朝は…」に戻りますが、森尾由美は夫が滞米中なので、カリフォルニアと日本を行き来していますから、アメリカの学校に通う子どもたちから教えられる日米の習慣の違いなどの話は新鮮味があります。松居直美は、離婚して以来育ててきた中学3年生になる男の子に苦労しているようですが、時にほのぼのとするような経験談も披露して、彼女が“歌まねの女王”であるばかりではなく、人生勉強もかなりしていることがわかります。苦境にあっても明るく生きられる力というものは、どこから生じるものなのでしょうか。自殺者が三万人を越えて、社会問題化している今、真剣に考えるべき問題だと思います。

(5)3月6日の夜は、NHKは「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」という番組の第4回目(最終回)を放送していました。そのタイトルは「開戦・リーダーたちの迷走」です。軍部のかなりの人たちは、米国と戦争することは無謀だと知っていたようですが、当時の近衛首相の優柔不断な態度が、指導者たちの混迷を招き、遂には開戦に突入してしまったわけです。今日の政局とよく似ている場面だと私は思いました。「犠牲者を出してしまうと後に引けなくなる」という指摘も大事です。開戦前は「ここで米国に譲歩して中国から撤退したら、命を捧げた兵士たちに申し訳ない」という軍部の気持ちが開戦に向かわせたというわけです。今のアメリカもそういう状況でしょう。

(6)前回のブログで、私は「倫理感」という表現をしましたので、これは、「倫理観」ではないかとのご指摘を受けました。その通りですが、私は、意図的に「感」を使いました。例えば、「道徳観」というのは、「道徳についての系統だった考え方」を表しますが、「道徳感」は「こうしてはいけないと感じる力」くらいの意味に使った“私的な造語”です。番組関係者には、その程度の認識はあるであろうという思いで使いましたが、あまりするべきことではありません。(この回終り)

英語語彙の学習(7)

Author: 土屋澄男

前回の最後の一文「学習者自身の語彙研究による到達目標の策定と、それへの達成意志が必要不可欠なのです」は、筆者の意図したものを伝えるには不十分で、読者には分かりにくい文であったかもしれません。そこで、今回はこの一文の中に筆者が込めた意図を述べ、学習者がどのように語彙習得の問題に取り組んだらよいかを考えてみたいと思います。

 まず学習者自身はどのようにして語彙研究を行なったらよいでしょうか。中学生や高校生にそんなことができるのでしょうか。彼らの多くはこう言うでしょう。学校の勉強についていくことにエネルギーの大部分を費やしていて、教科書に出てくる単語を覚えるだけでたいへんなのだから、自分で語彙の研究をする余裕などありはしない、と。その通りでしょう。しかし、これまで述べたように、本格的に英語に取り組むには相当の覚悟が必要です。ちゃんとした目的意識と、きちんとした到達目標を立てることは必須のことです。それなくして努力は永続しません。おそらく、学校を出て何年後かに何かの理由があって再び英語学習を開始しようと決めた人たちは、中学生や高校生とは違って、どこから始めて何を目標にして学習するかを最初に考えるでしょう。いろいろ資料を調べ、情報を集め、自分のもっとも適切と思う方法を選ぶはずです。人生経験の少ない中学生や高校生にそのような自律性を求めるのはたしかに酷です。しかし、これまでの第2言語習得や外国語学習の研究で一致して挙げている成功者の特質は「自律」(autonomy)ということでした。言語学習で言う「自律」とは、簡単に言うと、「自分自身の学習をコントロールする能力」です。この能力は脳の働きの一部で、誰もが生得的に与えられている能力の一つだと考えられます。子どもが母語の習得にほとんど例外なく成功するのは、その能力を自由に使うことができるからでしょう。ところが学校へ行くと、とたんにその能力は失われてしまいます。それは、学校がその能力をうまく利用するような教育をしない、それどころか、むしろその能力を抑圧してしまうからだと考えられます。20世紀の初頭、マリア・モンテッソーリをはじめ幾人かの幼児教育の専門家がそのことに気づき、教育の改革を提案しました。しかし20世紀を通じて、改革が実行されたのは一部の地域の一部の教育機関に限られました。21世紀に入って10年が経ちましたが、その状況は変わりません。

 さて具体的な問題の議論に入りましょう。中学生(今年からは小学生も含まれる)の語彙学習に関しては、一般に児童・生徒の自律を促すような望ましい学習環境にはありません。残念ながらそのことを認めないわけにはいきません。それに加えて、英語学習を始めたばかりの子どもたちは自分の語彙学習をコントロールできるだけの経験も知識も技術も持っていません。彼らにできることは、英語学習の経験を積みながら語彙に関心を持ち、英語という言語がどんな語彙構造をなしているかについての全体的な認識(メタ認知)を得ることです。つまり、語というのは単にバラバラに存在するのではなく、いろいろな語が意味の上で、また形式(音や綴り字)の点でつながりがあり、それぞれの語が他の語と連携してさまざまな意味を構成していくことに気づくわけです(語彙とは人の脳の中に蓄えられた語彙素のネットワークだと定義することもできます)。このことに気づくことが、次の段階での語彙学習の自律的な取り組みへと発展します。そういう意味で英語学習初期のこの段階は非常に重要です。

 学習者の英語語彙がもっとも進展するのは高校段階だと思われます。受験のときには誰でも真剣になります。一時はそれだけに集中します。3000語覚えなければ受からない(すでに述べたように語のカウント方法が問題ですが)となると必死で覚えます。ですから、一般に、高校の成績が良くて推薦で入ってきた学生よりも、苦労して受験で入ってきた学生のほうが英語の語彙力は上回っています。以前自分の勤めていた大学で調査をし、そういう結果を得たことがあります。入試はその点で侮りがたい動機づけとなります。しかしそれでは本当の意味の自律は育ちません。入試だけに動機づけられていた学生は、大学に入るとたちまち学習意欲を減退させます。そしてそれが大学における英語教育の大きな問題となっています。そういう点からも、高校段階における自律的学習の確立というのは大きな検討課題となるわけです。

 そこで、高校段階での語彙の学習はどのようにしたらよいでしょうか。どれだけの語をどのようなストラテジー(方略)を使って学んだらよいでしょうか。どのようにしたらより自律的な語彙の学習に向かうことができるでしょうか。次回はこれらの問題について考えます。(To be continued.)