Archive for 9月, 2017

今号の第1特集は「英語嫌いを作らないために知っておきたいこと」、第2特集が「再考:教養英語」という編集になっています。今回は第2特集の「教養英語」に焦点をあてることにします。その理由は、第一特集の「英語嫌い」の問題はこれまでも再々取り上げられてきたテーマであり、今回特に目新しい論考も見当たらなかったのに対して、第2特集の「再考:教養英語」というテーマに評者が興味を抱いたからです。興味を抱いた理由は、これが評者のようなold-timerにとって単に懐かしいというだけではなく、そこに言語学習の不変の価値が存在すると思うからです。

第2特集は4つの記事から成っています。これらはいずれも故・渡部昇一氏の薫陶を受けた人たちの文章です。渡部氏はいわゆる「平泉・渡部論争」として1970年代にその名を馳せた人であり、当時英語教育に関係していた人々にとっては今も多くの人々に記憶されている一方の当事者です。とは言っても、あれから40年以上も経った現在では、その論争についての知識をほとんど持たない若い人たちも多くなっているようです。しかし「実用英語か教養英語か」の議論は今もなお潜在的に存在しています。評者自身も、近年の実用英語一点張りの教育を苦々しく思っている一人なので、「教養英語」というと、ひとこと発言をしたくなる人間の一人です。というわけで、この「再考:教養英語」のテーマに興味を抱く英語人はけっこう多いのではないかと考えます。

以下にそれらの記事の概要を紹介しますが、その前にこの雑誌編集部に一つ要望します。それは、毎号のように評者が感じていることですが、第1特集にくらべて第2特集の扱いが粗末に扱われているように思えることです。まず第1特集のあとにいきなり第2特集の記事が続いていて、読者はいつも戸惑うのです。「あれ、これは何じゃ?」と思うのです。第1特集には中扉のページがあって、そこに編集意図が掲載されているのに、なぜ第2特集は「おまけ」のように第1特集の後ろにくっ付いているのでしょうか。確かに編集部の意図は目次に小さく出てはいますが、これは小さくて目に留まりません。そして第2特集の記事も、第1特集ほどではなくても、もう少しスペースを割いてほしいものです。これではほんとに付け足しになってしまいます。

最初は江藤裕之氏(東北大学)の「グローバル化時代の日本の英語教育―平泉・渡部「英語教育大論争」を振り返りつつ」という文章です。江藤氏は「言語は道具に過ぎない」という考え方は言語の本質に対する哲学的洞察に欠けており、そういう考えで学校を知的な場とすることはできないと言い、最近の英語教育が主として経済的・政治的な視点から行われていることを嘆いています。氏は「教養人」を「自らの知見と信念と価値に基づいて判断し行動する人」と定義し、学校はそのための学びの材料を提供するする場であると述べています。そういう意味で、「英語を学ぶことで日本語を意識し、英語により開かれた世界から日本を考えるといった視点から英語教育を再考してみる」ことを提案しています。評者はこの考えを支持し、この言葉を別な表現で、「英語の学びのプロセスを通して、日本語とは異なる世界を、英語による思考法や表現法によって経験する」と常々言うことにしています。

次の織田哲司氏(明治大学)の「ポスト・モダンの英語教育」というタイトルの文章は、「生半可に英語を話せる人材を育成することは、結局のところ英米資本の労働力として使われることを目的としているのではないか」と訝り、ポスト・モダンの時代には、量的なものではなく質的に重要な何かを教える必要があると強調しています。その「質的な何か」とは、AI (Artificial Intelligence) では決して達成できない、人間特有の「知的な精神」だと主張します。それが渡部昇一氏の述べた教養教育だというのです。

次は長瀬浩平氏(桐朋大学・桐朋女子高校)の「暗記のススメ」です。長瀬氏は英文学科の大学1年生のとき渡部昇一氏の授業に出て、先生の言われた学習法を忠実に実行したそうです。そのおかげで英文を書く力と同時に、教養を養うこともできたと感謝しています。渡部氏が強調された学び方は、内容の豊かなテキストを読んで、その原文を暗記し、あとで和訳を見ながら復元するというものです。学生はまず授業で読む部分を和訳してきちんとノートに書いて授業に臨み、授業中にその訳をもっと良いものに改善し、その和訳を見て原文に復元するというやり方です。渡部氏の授業では隔週ぐらいに原文復元の小試験が行われたので、学生たちは終わった範囲のテキスト原文を常に頭に叩き込んでおかなければならなかったそうです。こういうやり方がどこででも通用するわけではないでしょうが、長瀬氏の教える大学や高校のレベルの学校ではうまく行くのかもしれません。

最後は古田直肇氏(東洋大学)による「コミュニカティブを装った文法訳読の勧め――原文復元法の可能性について」です。これは先の「原文復元法」を授業の中心に据えた指導をどこででも通用するように具体化したメッソドの提唱です。まず生徒の予習用としてテキストの中で注目させたい箇所の和訳を与え、その部分を本文から抜き出してノートに書き写させておきます。本文から抜書きさせるだけなので答え合わせは簡単です。そうして浮いた時間を原文復元に当てるわけです。具体的には、「教師がチャンクごとの和訳を言って、生徒に英文を音読させる。ペアにしてチャンクごとの日英変換をさせる。ペアワークの後、教師の言う日本語をパッと英語に復元できるか、指名して確かめる。最後に、そうして自分の血肉として英語表現を使えば答えられる質問を英語でして、生徒に英語で答えさせる」という手順になります。

このように訳読法の発想を転換して、和訳を予め与えて生徒に授業の準備をさせておきます。授業では和訳の日本語を英語に変換して徹底的に読ませ、言わせるようにすれば、生徒の英語発言量は飛躍的に拡大します。何度も読んだり言ったり書いたりするうちに、その大部分は自然に身につくわけです。古田氏は謙遜して「コミュニカティブを装った文法訳読の勧め」としていますが、これを「コミュニカティブな活動を目指す原文復元法」とでも名づければ、そんなに卑下することはないのではないでしょうか。これはこれでコミュニケーション活動に通ずる有効な教授法であると言ってよいように思われます。高校や大学の授業だけでなく、中学校でも、各単元のキーセンテンスの和訳を与えて、それを手がかりに英文の暗誦や応用練習にこの「原文復元法」を取り入れている授業は多いと思われます。(おわり)

今回は、新しい学習指導要領の指導理念として掲げられている「思考力・判断力・表現力の育成」に関連して、英語を中心にそれらの能力がテストや入試においてどの程度測ることができるのかという問題を検討し、現在文科省が中心になって進めている教育改革の方向が適切かどうかを考えます。議論を分かりやすくするために6項目に分けて論述します。

(1)思考力・判断力・表現力をテストで測ることは可能か

文科省は、2010(平成22)年度全国学力・学習状況調査の結果を分析して次のように述べています。

「例えば、資料や情報に基づいて自分の考えや感想を明確に記述すること、日常的事象について、筋道を立てて考え、数学的に表現することなど、思考力・判断力・表現力等といった「活用」に関する記述式問題を中心に課題が見られた。さらに、知識に関する問題においても引き続き課題が見られるなど、知識を活用する力を育成することと合わせ、基礎的・基本的な知識・技能も定着させることが重要となっている。」(文科省初等中等教育局教育課程課登録文書<2011年1月>)

以上のような分析を受けて、今回の学習指導要領が作成されているわけですが、これからの教育が知識・技能の定着と共に、知識を活用する力を活用する力を育成することが課題となる点については、教育の専門家だけでなく、一般の人々にも異論は少ないであろうと思われます。私たちは何事を決めるにしても、これらの力を必要とすることは日常的に実感しているからです。したがってそういう指導は必要であり、その指導の効果を知るための評価活動も適切になされる必要があります。

(2)これまでの思考力・判断力のテストはどのようなものであったか

小・中学生を対象としたPISA調査は、読解力・数学的リテラシー・科学的リテラシーの3分野において、思考力や判断力を含む能力を評価しようとしています。また同じPISAの「問題解決能力調査」では、問題状況を観察し、必要な情報を探し出し、そこから改善すべき課題を見つけてそれを図表や言語や記号などで表現する能力を調べようとしています。わが国の文科省も、「全国学力・学習状況調査」を実施して、知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力や、課題解決のための構想を立て、それを実践し評価する力を見ようとしています(注)。しかしその調査もこれまでは国語と数学に限られていて、外国語はそれに含まれていません。近く同様の調査を英語においても実施すると文科省は言っていますが、果たしてどのようなテストになるのか、どんな問題が作成されるのか、期待と共に不安を感じます。わが国においては思考力や判断力の評価に関する研究はまだ十分に進んでいないからです。おそらくPISA調査などを参考にすることになるのでしょう。重要なことは、これらの調査が思考力や判断力そのものを点数化することではなく、与えられた問題の解決にそれらの力がどれだけ求められるかということです。

(3)英語の入試で思考力や判断力をテストすることは可能か

では思考力・判断力・表現力の育成がこれからの主要な教育目標であるとして、それらの力を入試で測ることができるのか、という問題を考えます。入試は一般に、受験生の答案を点数化したりランクづけしたりすることによって優劣を判定します。記述式テストにすれば、それらの力の一部を測ることはできるでしょう。実際、表現力に関しては、記述式でランクづけをすることが行われています。しかし思考力や判断力はどうでしょうか。国語や数学の分野ではそのような研究がある程度進んでいるようで、大学入試センターが2020年度からの大学入学共通試験で国語と数学に記述式を導入することを決めました。しかし英語に関しては、思考・判断などの力をみることはペーパーテストでは難しいというので、大学入試センターは英語そのものを共通試験から除外することに決めました。ただし、受験者を一定数に限定できる大学の二次試験などではかなりの程度自由な問題作成が可能なので、そういう力をみようとする英語テストはこれまでにもかなり実施されています。しかしそういう入試問題の作成技術はまだ未開発で、本格的な研究はこれからです。

(4)英語による思考力・判断力の評価はなぜ難しいか

ここで言語の使用力に関する根本的な問題に触れる必要があります。その問題とは、日本人が英語で思考し、物事を判断することができるようになるのは、一般に考えられているほど簡単ではないということです。私たちは生まれてからずっと母語である国語によって思考し判断してきました。小学生になって英語を学校で教えられるようになっても、その時間数は非常に限られており、日本語で考えることを英語でどう表現するかに学習の焦点が置かれます。英語を使って思考する域に達するには長期にわたる修練が必要なのです。新しい小・中学校の学習指導要領はそこまで目標とするかのように書いていますが、実際には、それができるのは特別な環境と経験に恵まれたほんの一部の例外的な生徒だけです。大多数の生徒にとって、英語はまだ基礎的知識と技能の習得段階にあり、英語を使って思考することができるまでにはまだ修練が不足しています。高校修了までに英語の基礎を固めることができればよしとする従来の考え方は、今後も大きく変わることはないと思われます。

(5)結論:実践研究を積み重ねることが必要

これからの時代を生きる子どもたちにとって思考力・判断力・表現力が重要であるという教育理念は、多くの人々が肯定的に受け止めているようです。これまでのように学校で知識や技能を蓄えても、それを活用する力を身につけなくては、これからの急速に複雑化する世界では生きていけないだろうという不安があるからです。学校においても、できれば小学校の段階から、思考力・判断力・表現力を育成すような教育を目指すのは時代の要請だと考えられています。しかし、そのような力をどのようにして養成するかはこれからの研究課題です。特に英語においては、このようにすれば必ず成功するというような処方箋が出来上がっているわけではありません。まして様々な制約のある入試において、それらの力を一律の基準で評価しようとするのは適切とは思えません。これからの現場における実践研究が必要です。そういう教育の成果は、新しい教育理念に対する教師たちの理解と熱意にかかっています。今回改訂された小・中学校の学習指導要領はあまりにも詳細な指示が多く、これでは教師たちの創意・工夫の意欲を削ぐことになるのではないかと危惧を感じます。

(注)文科省がホームページに掲載している資料(2015年10月22日の教育課程部会における「言語能力の向上に関する特別チーム」参考資料)によると、「思考力・判断力・表現力についての整理のイメージ」として、全国学力・学習状況調査(国語と数学)の基本理念を次のようにまとめています。

・知識・技能等を実生活の様々な場面に活用する力

・様々な課題解決のための構想を立て実践し評価・改善する力など